臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

一首を切り裂く(004:まさか・其のⅠ・決定版)

2011年03月31日 | 題詠blog短歌
 面白い作品を面白く読み、面白く解釈しましょう。
 その「面白さ」が私にとっての「面白さ」であるのみならず、作者にとっての「面白さ」であり、読者諸氏にとっての「面白さ」であることを信じて。
 壺を外した解釈になることを恐れるな。
 壺に嵌まっただけの解釈をすることは他人に任せましょう。
 壺に嵌まった解釈をすることは何方にだって出来ることだからである。
 壺に嵌まった解釈だけを並べ立てることは、作者に対する侮辱であり、作品に対して失礼であるからだ。
 失礼な解釈をすることを恐れるな。
 読まないことが何よりの失礼であり、読んでも熟読玩味しないことが次の失礼であり、熟読玩味してもその結果を鑑賞文として記さないのが、次の次なる失礼だからである。
 「一首を切り裂く」に採り上げられたことが、作者諸氏の何かの足しになっていることを疑わないで、失礼をも省みず、遠慮会釈無く、どんどん書いて行きましょう。
 それにしても、駄作ばかりのお題「004:まさか」でありました。
 でも、本稿はその中から見どころの在る作品ばかりを精選させていただきました。
 〔返〕  まさかとは思ひし程の駄作なる越えても越えても瓦礫の山か


(鮎美)
○  たまさかに巡りあひしを一生涯のよろこびとして君と別れむ

 意味も無く殊更に字余りにする必要はありません。
 「生涯」とは一回だけしか在りませんから、「一生涯」と言っても「生涯」と言っても同じことです。
 したがって、三句目の「一生涯の」は「生涯の」と改めるべきでありましょう。
 「たまさかに巡りあひし」とありますが、“巡り逢う”とは、文字通りいろいろと巡った結果としてたまたま逢うことでありますから、厳密な意味で言うと、“計画的逢合”を意味する言葉では無く、“偶発的逢合”即ち“邂逅”を意味する言葉なのである。
 本作の作者・鮎美さんの意図としては、原作のままで宜しいのでありましょうか?
 それは、問うまでも無く、必ずや宜しくありません。
 何故ならば、原作をそのまま意訳すると、「私は貴方と、ごくたまさかに思いがけない場面で巡り会うことがあり、それが一回ならず、数回重なったのであるが、私はそれを一生涯の喜びとして貴方と別れよう」といったことになるのであり、恐らくは、作者の意図した内容とは大きく異なることになるからである。
 作者・鮎美さんは、お題「まさか」を一語の副詞として用いずに、それを一部分とした副詞「たまさかに」を思い付いたのでありましょうが、その意も碌々解さずに、してやったりとばかりに、それを含んだ本作を極めて安易にご着想なさったのである。
 “天網恢恢素にして漏らさず”、“策士策に嵌まる”とは、かかる事象を指して謂うのでありましょうか?
 〔返〕  たまさかに抱き合ひしを境涯の喜びとして君と別れき     鳥羽省三
      まさかとは思ひもせぬに君と逢ふ武者振り付きて口付けをしつ   々

 
(西中眞二郎)
○  そのときはまさかと思いていしことがいつしか動かぬ前提となる

 卑近な一例を上げて説明すれば、「そのときはまさかと思いていしこと」とは、「休日を跨いでの短期海外出張の折の日曜日に、ドバイの競馬場で大穴を的中させ、邦貨換算・五千万円余りの現金を得た。このお金は友人にも家族にも内緒にしていて、“いざ鎌倉”という場面で使うことにしよう。でも、その“いざ鎌倉”は『まさか』来るはずはないだろうと思っていた」といったことでありましょう。
 しかし乍ら、人間誰しも似たようなものである。
 無礼極まりない鳥羽省三のみならず、紳士中の紳士たる西中眞二郎氏に於かれましても、その来るはずの無い“いざ鎌倉”の場面で使うはずで、当てにしていなかったはずの隠し財産を持っていることが、「いつしか」生活や行動全般の「前提」となってしまったのでありましょう。
 その挙句、英国屋のスーツを五着買うやら、ホテル・オークラに三連泊を決め込むやら、神楽坂に居続けするやら、の大騒ぎとなってしまったのでありましょうか?
 大変失礼致しましたが、お題「まさか」を十分に生かし切った佳作と思われます。

 〔返〕  今も尚まさかまさかと思ってるそのまさかなる福島原発   鳥羽省三
 通産官僚OBとしての、西中眞二郎さんのご心痛はいかばかりかと拝察申し上げます。


(はこべ)
○  友曰く「まさかの坂は危ない坂」つまずいてみて知るものらしき 

 本作の作者・はこべさんは、なかなか学の有るお「友」だちをお持ちですね。
 でも、その“学の有るお「友」だち”は、きっと自己破産でもなさって居られるのでありましょうか?

 〔返〕  山王の暗闇坂の突き当たり有象無象のご邸宅のみ   鳥羽省三


(アンタレス)
○  小泉さん言いし事有り人生はまさかのあるとわれ臥す人に

 本作の作者・アンタレスさんは、大の「小泉さん」贔屓でありましょうか?
 だとしても、この場面では、「小泉さん言いし事有り」と仰らずにお詠みになられる方が得策かと思われます。
 要は、ご贔屓の「小泉さん」を出すことが大事か、ご自身の身の上に起こった「まさか」のこと及び、そのことについてのご自身のお気持ちを、読者に正しく伝えることが大事か、ということになりましょう。
 答は自ずから明らかでありましょう。
 余計なことを言うのは止めましょう。

 〔返〕  人の世はまさかまさかのことばかり臥す身になるとは思いもせぬに   鳥羽省三
 初句を「人生は」とする手もありましょうが、「人の世は」とすることに拠って、「まさかまさかのことばかり」とは言え、それは他人事であり、自分の身の上に「まさかまさかのこと」が起こるとは思ってもみなかった、といった感じになるのである。
 「人の世」という言葉は、「自分とは関わりの無い他人の世の中」という意味で、あの紫式部が『源氏物語』で使っております。


(みずき)
○  敗戦をまさかと思ひし遠き日と同じ空なる八月の青

 なかなかの傑作と思われます。
 欲を言えば、「同じ空なる八月の青」という叙述は、あまりにもすらすらと行き過ぎたような感じ、常套句を並べ立てて、取り敢えずお詠みになられたような感じであることも否めない、とも申せましょうか?
 「同じ空なる八月の青」という“七七句”は、語順を換えて言えば「同じ青なる八月の空」とも言えるのですが、後者をお選びにならずに前者をお選びになった作者・みずきさんのお気持ちは、評者にもよく解ります。
 〔返〕  敗戦をまさかと思って仰ぎ見たあの八月と同じ青空   鳥羽省三



(髭彦)
○  八百長の動かぬ証拠出でにけり土俵揺るがすまさかまさかの

 地震・津波・原発騒ぎで、あの大相撲の八百長騒ぎが何処かへ飛んで行ってしまったような感じがします。
 それとは別に、評者は、大相撲に八百長が在ることは当然のことと思っておりましたから、むしろ、それが発覚するや否や、ご存じの通りの大騒ぎとなってしまったことが「まさかまさか」のことと思いました。
 でも、今になってみると、そんなことはどうでもいいことみたいな感じです。
 〔返〕  八百長を直接裁く手は無くて業務妨害とは狡い手だ   鳥羽省三


(富田林薫)
○  よく冷えたアクエリアスの気泡からまさかのような夏がはじまる

 「まさかのような夏がはじまる」という叙述が頗る宜しい。
 「『まさかのような』何か」というものは確かに在るもので、この度は、「まさかのような」地震に始まり、「まさかのような」津波が押し寄せ、「まさかのような」原発事故が起こり、「まさかのような」東電社長の逐電に至ったのである。
 〔返〕  福島の第一原発原子炉はまさかまさかの放射能吐く   鳥羽省三
      逐電か計画的な停電か東京電力社長は消えた        々
      

(星川郁乃)
○  妄想のパラレルターン決めながらまさかの坂をあなたは滑る

 「妄想のパラレルターン決めながらまさかの坂」を「滑る」のは、恥ずかしいとも思わずに前言を翻した石原慎太郎都知事でありましょうか?
 それとも、民主党都連が応援するワタミの前社長でありましょうか?
 〔返〕  妄想の直滑降も宜しいが本業ワタミは危なくないか?   鳥羽省三
      妄想のオリンピックは捨てたのか元太陽族喜寿も過ぎたり   々


(天国ななお)
○  いざというまさかのときに脱げるようダイエットして六年が経つ

 もしかしたら、本作の作者・天国ななおさんのご本名は“天国七生”さんであり、ご本業はお寺の住職でありましょうか? 
 だとしたら、大袈裟とはこの事を指して言うのでありましょう。
 「いざというまさかのとき」とは、ご亭主を亡くした美人の寡婦のお宅の法要にお出ましになられ、“法要”ならぬ“抱擁”を迫られたような場面を指して言うのでありましょう。
 だが、いくら天国ななおさんほどの肥大漢でも、洋服とは異なって僧侶のお召しになる“袈裟”は、「いざというまさかのとき」にも、すらりと「脱げるよう」に仕立てられているからご心配はなさらないで下さい。
 つまるところ「いざというまさかのときに脱げるようダイエット」する必要は、いささかもございません。
 それなのに、「ダイエットして六年が経つ」などと仰って居られますのは惚けとしか申せません。
 天国ななおさんには、「いざというまさかのとき」は未来永劫、絶対に訪れないものと判断されるので早々に諦めましょう。
 〔返〕  諦念は僧侶の覚悟の一つなるまさかの時は無いものと知れ   鳥羽省三
 

(akari)
○  平凡は主からの恵み巷にはまさかまさかのニュースあふれる

 巷間にあれだけの「まさかまさかのニュース」が「あふれる」今日に於いては、「平凡」な暮らしは、まさしく「主からの恵み」なのである。
 したがって、そうした暮らしを大切に大切に受け止めなければなりません。
 〔返〕  震災は何かの報い天罰が当たったと言いまた翻す   鳥羽省三
      『平凡』の付録の歌本集めてた御三家に次ぐ新御三家   々


(五十嵐きよみ)
○  ポケットの右には「まさか」左には「やはり」が同じ重さでひそむ

 近々来襲することが予測されている“東海大地震”などに対しても、私たち首都圏住民は、「『まさか』と『やはり』」のバランスを適当に取りながら、備えて居なければならないのでありましょう。
 五十嵐きよみさんのこの一首は、駄作だけが並み居るお題柄、比較の問題として、泥中に咲く蓮の花のような作品として鑑賞させていただきました。
 〔返〕  ポケットの右には水を左には保険証入れ被災地を行く   鳥羽省三
      ポケットの右と左に二キロずつ鉛を入れて毎朝散歩      々  


(きたぱらあさみ)
○  ささくれはむいてもむいてもささくれてまさか「さびしい」なんて言えない

 「ささくれはむいてもむいてもささくれ」るので、独り傷付き悩んでいるのである。 だが、彼は東電の社長とは違って責任意識を未だにしっかり保っているから「まさか『さびしい』なんて言えない」のでありましょう。
 〔返〕  時折りは逐電したいとも思う剥けど剥けどもささくれが立つ    鳥羽省三
      いっそのことみんな剥きたくなるけれど小指のささくれ我慢してます  々  


(眞露)
○  たまさかに同じブルゾンすれ違い 横目をかわすきみもユニクロ

 「ユニクロ」の倍々ゲームにもそろそろ陰りが見えて来ましたから、「同じブレゾン」同士が、お互いに「横目」で見つめ合い、さり気なく顔を背け合う場面に出会うのも、そのうちにごく「たまさか」のこととなりましょうか?
 〔返〕  たそがれて新百合行けばどの方も同じブレゾンあれもユニクロ   鳥羽省三
      たまさかに衣装ケースを開いたらこれもユニクロそれもユニクロ    々


(コバライチ*キコ)
○  跳び箱の十二段越えできるとはまさか思わず九歳の夏

 「若干『九歳』にして『跳び箱の十二段越えできるとは』驚いた。君はまさしく天才に違いない」と思ったのですが、本作を熟読玩味したところ、四句目の「まさか思わず」が気になりました。
 考えようによっては、「九歳の夏」に「跳び箱の十二段越えできるとはまさか思わず」というだけの事かも知れませんね?
 〔返〕  嘘だろう 君が跳び箱十二段越え出来たとは誰も思わぬ   鳥羽省三
      跳べるだろう 君も跳び箱十二段体操クラブに入っていたら   々

『NHK短歌』観賞(米川千嘉子選・3月27日分・其のⅡ)

2011年03月30日 | 今週のNHK短歌から
[入選]


○  乳母車に病む母乗せて老い父と桜見し日ぞ恋しかりける  (今治市) 野間昭子

 本作の作者・野間昭子さんは、御父母お二人のご介護をなさって居られたのでありましょうか?
 「乳母車に病む母乗せて」とあるのは、いささか誇張的な表現とも思われますが、老境に達すると、人間の身体はかなり縮まるものであるから、本作の表現を、敢えて誇張した表現とする必要はありません。
 それともう一つ。
 本作の作者の野間昭子さんは、恐らくは評者と同世代、或いは同世代以上かとも思われますが、そうしたご年輩の方々の母親世代の方々のお身体は、今の女性たちと比較すると、その半分にも満たないような小さなお身体でありました。
 昔の女性は、今となっては想像も出来ないほど小さくて、それでも沢山の子を産み、ちょこまかと身体を休める暇も無く働いていたものでした。
 嫁いで子を産み、働いて働いて、働いた挙句に亡くなったのが、昔の女性でした。
 〔返〕  箱橇に載せられ嫁に来しと言ふ母の世代よ小さき女よ   鳥羽省三


○  手を出せばささえてくれる家具がみな足も弱りてよろめく我を  (泉南市) 並松和子

 「手を出せば」其処にテーブルが在り、椅子が在り、箪笥が在る。
 高齢者世帯の人々は「みな」、「足」が弱って「よろめく」のを、それらの「家具」に「ささえて」貰いながら身体を運んで暮らしを立てていらっしゃるのである。
 でも、それらの「家具」たちが、いつも高齢者たちの味方だとは限りません。
 地震などの、何かの事が起これば、昨日までは味方であった「家具」たちに潰されたり、行く手を塞がれたりして、命を失うことだってありましょう。
 「昨日の敵は今日の友、逆もまた真なり」、ゆめゆめ油断すること莫れ。
 〔返〕  家具どもに行く手塞がれ失へる命ありとふ油断禁物   鳥羽省三


○  樹木医に手当を受けて桜咲く田舎でひとり母九十三  (高槻市) 楠本三男

 「樹木医に手当を受けて」咲いた「桜」と、「田舎」にて「九十三」歳で「ひとり」暮らしをなさっている「母」との組み合わせは、ややご都合主義みたいで付き過ぎとも思われますが?

 〔返〕  陋屋を見下ろし桜咲きにけり一人暮らしの姉は傘寿か   鳥羽省三
 昨・3月29日の昼頃、連れ合いの翔子が、ふと「今日は3月29日だね。川口の姉さんの誕生日に違いない」と言い出したのである。
 そこで私は、川口の家に電話を掛け、一人暮らしの姉が電話に出るや否や「パピー・バースディー、トゥ、ユー。パピー・バースディー、トゥ、ユー。」と、調子外れの歌のご披露に及んだのである。
 今日も朝から晴天。
 我が家を見下ろす高台の小公園の桜もちらほら花を開いている様子である。


○  桜にも運命はありあんぱんのへそにすわってしっとりと咲く  (江戸川区) 鈴木美紀子

 「桜」にも人間にも、確かに“運・不運”というものがありましょう。
 でも、銀座の木村屋の「あんぱんのへそ」に納まって「しっとりと咲く」「桜」が、必ずしも「運」がいい「桜」とは限りませんよ。
 テレビは今朝も、「死ぬも地獄、生きるも地獄」の福島第一原発の様子を伝えているのである。
 〔返〕  はなびらも食べてしまったあんぱんの銀座木村屋今日も繁盛   鳥羽省三


○  コックスの掛け声響く早朝の水面に割れる桜の並木  (葛飾区) 津布久郁夫

 隅田川でしょうか?
 江戸川でしょうか?
 それとも荒川でしょうか?
 それはともかくとして、作中の「早朝の水面に割れる桜の並木」は、今回の地震に因って「桜の並木」の地面が地割れしている様子を描写しているのではなく、「水面」に映った「桜の並木」の一本一本が、「コックスの掛け声」に合わせてボートを漕ぐオールに因って割れたような感じに見えることを、水辺に立った作者が描写しているのでありましょう。
 〔返〕  桜みな水面に揺れて美しきコックスの声響く大川   鳥羽省三


○  あかるくてすこしさびしい桜時なきはらからはそらにただよう  (香取市) 戸部 修

 「桜」の咲く時分を「あかるくてすこしさびしい桜時」としたのは、人間として、日本人として、極めて自然な感覚であると言えましょう。
 また、その「桜時」に、今は「なきはらから」たちが「そらにただよう」という感覚も亦、それほど特異な感覚とは言えないと思われる。
 つまるところ、本作は、人間として、日本人として、極めて自然的かつ平凡なる感覚及び発想に基づいてお詠みになられた作品と思われ、それ故に、類想歌を指摘することも可能なのである。
 〔返〕  明るくて少し淋しい昼餉どき亡きはらからは稲荷寿司食ふ   鳥羽省三


○  散るさくらあの子だれの子追うさくらしずこころなきママの集いて  (船橋市) 鈴木久吉

 お花見頃の団地の小公園風景でありましょうか?
 舞い散る「さくら」の花びらを追って遊び戯れる元気な子供たち。
 それを「あの子だれの子」などと言いながら眺めている若い母親たち。
 其処から少し離れて、本作の作者・鈴木久吉さんが、「遊び戯れている子供たちも元気で可愛いが、それを見つめている若いママたちも賑やかで可愛いことよ。この一時がいつまでも続いて欲しい」という温かく優しい視線を向けているのである。
 「しずこころなきママの集いて」という言い方は、賑やかで姦しい母親たちに対して、批判的な目を向けてのことではありません。
 作者・鈴木久吉さんは、恐らくは、私と同年輩の高齢者でありましょう。
 彼と同年輩の私は、鈴木久吉さんの視線から「若いってことは素晴らしいことでもあるが、危なっかしいことでもある。それにしても、私がもう二十歳も若ければ」といった思いを読み取っているである。
 〔返〕  ひさかたの光のどけき花見どきしずこころなくママを見つめる


○  ギザギザのお前が好きと告げられて相合傘に降る桜ばな  (つがる市) 松木乃り

 そう言えば、あの「桜」の花びらは、そのイメージに似つかわしく無く、何故か「ギザギザ」の形をしていますね。
 それはそれとして、本作の作者・松木乃りさんは、ご自身を「ギザギザ」の形をした「桜ばな」に擬せられ、「『ギザギザ』の性格をしているが、私は『お前が好き』だ」などと、さる中年バツイチ男性から告白され、彼の差し出す「相合傘」の中にうかうかとお入りになってしまわれたのでありましょうか?
 女性を篭絡する時には、その女性の人格を損なわない程度の些細な欠点を指摘した上で「でも、私はそんなお前が好きだ」などとやらかすもんですよ。
 危うし、危うし。
 〔返〕  夜目遠目誰も知らない傘の内お次は何が飛び出すのやら   鳥羽省三


○  カウラなる捕虜収容所跡神無月脱走兵の桜咲きたり  (オーストラリアニューサウスウェールズ州) 樋口 強

 オーストラリアだからこその「神無月」の「桜咲きたり」なのでありましょう。
 オーストラリアの“カウワ捕虜収容所”からの日本人捕虜の集団脱走という、哀しい史実に取材しての作品である。
 日本人捕虜たちが集団脱走に失敗して殺戮された後、同地には、日本の国花「桜」が植樹されたのでありましょう。
 〔返〕  咲く前に散るを急いだ捕虜たちの命短く桜咲きたり   鳥羽省三

『NHK短歌』観賞(米川千嘉子選・3月27日分・其のⅠ・決定版)

2011年03月30日 | 今週のNHK短歌から
 東北関東大震災の影響で二週連続で放送されず終いの“NHK短歌”であったが、現選者たちの担当の最終週にあたった今週は放送された。
 選者は、今回の選者たちの中の華とも申すべき米川千嘉子氏、そしてゲストは関川夏央氏。
 選者佳し、ゲスト良しの千秋楽であったが、入選作も亦、傑作揃いであった。


[特選一席]

○  わたくしのからだのどこかのくらがりにさくらまいこむ暗きは悪か  (横浜市) 里中和子

 先ず、「わたくしのからだ」の中に「くらがり」が在る、というご認識。
 そして、その「くらがり」は「わたくしのからだのどこか」に確かに在るのだが、その在り処は定かでない、というご認識。
 これら二つのご認識が真に宜しい。
 感心しているばかりでは芸がないから話を進めます。
 季節柄「さくら」が咲いている。
 その「さくら」を見た作者は、その「さくら」の花は、いや、ついうっかり「『桜』の花が」と言ってしまいましたが其の言い方は間違いで、幹や枝や花まで含めた「さくら」そのものが「わたくしのからだ」の何処かに確かに在るに違いない「くらがり」に、必ずや「まいこむ」に違いないとまで、本作の作者・里中和子さんはご認識なさるのであるが、こうしたご認識は、美人特有のおごり昂ったご認識であると同時に、油断をしていると誰かから付け込まれるかも知れない、という、被害妄想的であるが故に極めて普遍的なご認識でもありましょう。
 「さくら」ともあろうものが、花の中の花たる「さくら」が、事もあろうに何故、「わたくしのからだのどこ」に在るかも判らない「くらがり」なんかを選んで「まいこむ」のであろうか?
 何の魂胆があって、そんなことをするんだろうか?
 と、里中和子さんはいささか困惑・懊悩の体であり、終いには「暗きは悪か」とまで、開き直りをして見せていらっしゃるのである。
 「選ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」と、フランス象徴派の詩人・ヴェルレーヌはのたまい、その言葉をそのまま自作『葉』に引用して、我が国無頼派の作家・太宰治は得意がっていた。
 もう一度記してみよう。
  わたくしのからだのどこかのくらがりにさくらまいこむ暗きは悪か   里中和子
 この歌こそは、まさしく「選ばれてあることの恍惚と不安」との「二つ」を“五七五七七”に託した作品である。
 評者も亦、再度叫び、再度問う。
 「選ばれてあることの恍惚と不安と二つ我らにあり!」と。
 「暗きは真実に悪なのか?」と。
 年甲斐も無く、いささかヒステリックになってしまいまして、すいません。
 ここで話は急に変わりますが、この四月、私たちの長男の二番目娘、つまりは私たちの二人目の孫娘の芽衣が小学校に入学します。
 そこで、先日、彼女・芽衣を含めた長男一家が我が家を訪れたのである。
 その際、私は彼女に入学祝いとして、「一つ金、七万円也」の机を贈ったのであるが、事の序でにと、彼女を掴まえて「芽衣ちゃん。あんたはやけに明るい子だね。まさか無理して明るく振舞っているのではないだろうが、人間はいつもそんなに明るく振舞う必要はさらさらに無いんだよ。明るく振舞って疲れたら、少し休みなさい。暗い部屋にたった一人だけで居ることもなかなかいいんだよ。『一年生になったら、友だち百人できるかな』なんていう、くだらない歌があるが、友だちが百人もできたら、お誕生会に行くのだって大変だし、年賀状を書くのだって大変だ。友だちを多く作ろうとして、あれこれと策略を巡らすのは人間として最低の行為であるから、自然に振舞って仲良くなったら、その人を友だちとして仲良く付き合いなさい。無理することは無いんだよ」とアドバイスをして上げたのであるが、いくらな何でもこれから小学校に入ろうとしている少女に言うべき言葉では無い、と思ったのでありましょうか、それを聴いていた芽衣の母親は怒るやら、父親は私を小突くやらで、大変な事になってしまったのである。
 長男一家が帰ってからも大変でした。
 なにしろ、現在のところ私の唯一の友だちとも言うべき妻の翔子が、それから三日間も碌々口を利いてくれない始末となってしまったのですから。
 〔返〕  更に問ふ「暗きは悪か?友だちを百人作る必要あるか?」と   鳥羽省三 
 
 
[同二席]

○  湖岸の桜老いたりこぶ瘤は七つボタンの歌の凝りや  (土浦市) 興津甲種

 「七つボタンの歌」とは、例の「♪若い血潮の予科練の、七つボタンは桜に錨」という歌、即ち『若鷲の歌』である。
 本作の作者の御氏名は“興津甲種”さんであるが、お名前の“甲種”は陸海軍への甲種合格を祈願しての、軍国主義的な発想に基づいてのご命名なのかも知れません。
 お名前にそうした由来を持つ“興津甲種”さんは、「あの『七つボタンの歌』は、年老いて太い幹のあちらこちらに『こぶ瘤』の出来た『湖岸の桜』のその『こぶ瘤』みたいな、私の心の中の『凝り』なのかも知れない」と思っていらっしゃるのでありましょう。
 心の中の「凝り」とは“拘り”であり、“障害物”とも申せましょう。
 この場合、興津甲種さんのお住いが土浦市であることも決して見逃してはなりません。
 戦前戦後の土浦で青春時代をお過ごしになられた興津甲種さんは、あの「七つボタン」の制服の“予科練”及び『若鷲の歌』の世界を、ある時は憧憬し、ある時は憎悪したことでありましょう。
 そうした彼の「七つボタンの歌」に対する憧れや憎しみ、即ち“複雑な拘り”が「歌の凝りや」の「凝り」なのである。
 本作の詠い出し「湖岸の桜老いたり」という叙述は、極めて穏やかであり、極めて平和でもある。
 しかし乍ら、事態は其処から急展開を遂げる。
 即ち、本作の作者・興津甲種さんは、「湖岸」の「桜」の老木が「こぶ瘤」だらけになっていることに気付き、「桜」と言えばあの「七つボタンは桜に錨」の「歌」の“予科練”と気付いたのである。
 あの「七つボタンの歌」の“予科練”に、興津甲種さんは、ある時はこよなく憧れたし、それ故に、ある時は激しく憎悪したのである。
 ということは、本作の作者・興津甲種さんにとっての「七つボタンの歌」は、眼前の「桜」の老木の「こぶ瘤」の如きものである。
 眼前の「桜」の老木の「こぶ瘤」は、眼前の「桜」の老木の「凝り」でもある。
 眼前の「桜」の老木の「こぶ瘤」にも似た「七つボタンの歌」は、私の心の中の「凝り」でもある、と興津甲種さんは思うに至ったのでありましょう。
 目前にした風景から甦る、作者ご自身の青春時代。
 作者ご自身のその青春時代は、ある時は、あの「七つボタンの歌」にこよなく憧れ、またある時は、その「七つボタンの歌」を激しく憎悪し、「七つボタンの歌」は、作者ご自身の心中の「凝り」のようなものになっていた事に気付いたのである。

 〔返〕  湖に憧るるごと散る桜その桜にも似た我が青春よ   鳥羽省三
      湖に惹かるる如く散る桜その桜見る我が老残よ      々
 この稿を草した後、私は妻と連れ立ち、我が家の前の数十段の石段を上った高台の小公園に出掛けてみた。
 その小公園には桜の老木が五十本ほど在るのだが、今日、3月29日の午前10時30分現在、桜の開花にはもう一日か二日の時間を要するかと思われた。
 〔返〕  陋屋を見下ろして佇つさくら明日も晴れたらちらほら咲くか   鳥羽省三   


[同三席]

○  人間の声を桜に与えたら「ああ。」と漏らして君へ散る朝  (神戸市) 飯田和馬

 飯田和馬さんの歌は、軽めに見せ掛けているが、いつも重い。
 易々と詠んでいるように思われるが、その中身には意外に濃いものがある。
 淡白そうであるが、隠微なものが認められることもある。
 「人間の声を桜に与えたら」などという、幼稚そのもののように歌い出される本作ではあるが、「人間の声」を「与え」られ、「朝」から「『ああ。』と漏らして君へ散る」者は「桜」のみならず、作者ご自身でもありましょうか?

 〔返〕  快感をまだ覚えぬに我が陰に「ああ。」と漏らしつ つれなし君は   鳥羽省三
      オーガズム未だ尽きぬに我が腹に「嗚呼。」と果てぬる つれなし君は   々
     「まだ、まだ」と喘げる君の腹上に「嗚呼。」と果てたり 儚し我は     々
 かくして、本作の話者は、時に「つれなき君」と呼ばれ、時に「儚き我」であることをご自覚なさるのである。

一首を切り裂く(003:細・其のⅢ)

2011年03月28日 | 題詠blog短歌
(木下侑介)
○  細田君が悲しい顔をしてたから君のパンティで涙を拭いた

 姓は木下、名は藤吉郎ならぬ侑介さん。
 お名前は昨年までの「一」とは異なってはおりますが、あの木下さんであることは間違いないことでありましょう。
 昨年開催の「題詠2010」に、彼・木下一さんは「公園の遊具を二人じめした後に だいたひかるを愛しています」(003:公園)という作品をご投稿なさって居られる。
 「短歌の基本は定型と韻律と格調である」という迷信から未だに脱却出来ないでいる評者にとっては、木下一さんのこの作品に対しては、幾分かの不満を感じたことは事実でありますが、百首全体を「だいたひかるを愛しています」で通されようとなさる、そのご遠大かつご崇高なるご計画に対しては少なからぬ興味を覚えも居りましたし、期待感を抱いて居たことも事実でありました。
 謹厳実直タイプが多い短歌作者としては、大いなる悪戯心と不真面目さを感じさせる木下一改め木下侑介さんではありますが、悪戯心という点では私も彼と同様なので、昨年の私は、彼・木下さんの御作を読ませていただくことを楽しみの一つとしていたのでありました。
 昨年の「だいたひかるを愛しています」シリーズは、何しろ題材となったタレント「だいたひかる」がなかなか宜しい。
 程々なる不潔感の中に程々なる母性とエロティシズムを感じさせ、程々に美人で、程々に頭が良さそうで悪そうで、その胎内と心中に、意地悪そうな側面と優しそうな側面とを備えていそうな感じの、彼女・だいたひかるは、確かに程々に抱き心地が良さそうで、「公園の遊具を二人じめ」して思いっきり遊んだ後で、回転ベッドの上で思いっきり愛し合いたくなるような感じの女性なのである。
 フェミニスト・鳥羽省三にとっての“だいたひかる”は、言わば、かなり不美人の藤原紀香なのであり、かなり背の低い藤原紀香なのであり、かなり売れない藤原紀香なのである。
 不潔感とエロティシズムとが相半ばしているという点に於いては、この二人の女性は甲乙付け難い。
 「公園の遊具を二人じめ」して思いっきり遊んだ後で、回転ベッドの上で思いっきり愛し合いたくなるような感じ、という点に於いては、藤原紀香よりもだいたひかるの方がかなり勝っていると思われる。
 彼・昨年の木下一さんが「だいたひかるを愛しています」シリーズをご企画なさったのも、彼女・だいたひかるのそうした側面にご着目なさったからでありましょう。
 然るに、彼・木下一さんは、その好企画の完遂を途中で断念なされ、「題詠2010」の投稿欄には、彼のお名前も御作も見られなくなってしまったのである。
 そのことは、彼の存在に興味を感じ、期待もしていた評者にとっては、頗る残念なことでありました。
 古希過ぎた評者は、一種の“目立ちがり家”で“照れ家”で“見栄張り”でもある。
 “目立ちがり家”で“照れ家”で“見栄張り”でもある評者にとっては、本作の作者・木下侑介さん及び彼の作品は“要注意”なのである。
 “目立ちがり家”で“照れ家”で“見栄張り”でもある評者にとっては、「君のパンティ」も「黄身の剥き卵」も「君の御稜威」も、短歌の題材としては何ら変わりがありませんから、評者はいつか機会がありましたら、昨年までは木下一さん、今年からは木下侑介さんになった方の作品を採り上げたかったのである。
 さて、肝心要の上掲の作品でありますが、せっかくの「君のパンティ」シリーズ中の一作にしては、意外にも意外感が少なくて、驚きの度合いも表現の崩れも少ないかと思われます。
 木下侑介さんともあろうお方が、まさか「細田君が悲しい顔をしてたから君の手作りチョコ食べさせました」とは、お詠みになられないだろうと思われます。
 でも、これとあれとは、結局同じなのである。
 作中の一連文節に凭れ掛かっている度合いが非常に高くて、自己満足していて、自己完結していて、余り面白くありません。
 そういう点では、前者と後者とは“瓜二つ”なのです。
 百首全体に一続きの同じ連文節を用いて詠むことはなかなか容易なことではありません。
 作者ご自身がかなり頑張り、かなり肩肘張っている割りには、読者から注目されたり、激励されたりすることが少なくて、むしろ顰蹙を買い、蔑視されているかも知れません。
 でも、でも、頑張って下さい、木下侑介さん。
 もっともっと、読者たちに意外感を与え、彼らや彼女らから顰蹙を買うような作品を詠んで下さい。
 完璧なるブラックユーモアと、完璧なるエロティシズムと、完璧なる肩透かしとの実現を目指して、もっともっとふざけ、もっともっと悪戯心をご発揮下さい。
 〔返〕  木の下で君のパンティ毟り取り愛し合ひたき花見時かも   鳥羽省三 
 

(遠野アリス)
○  細心の注意を払って鍵をしめた もう二度と来ない部屋の鍵を

 また逢う日まで 逢える時まで
 別れのそのわけは 話したくない
 なぜかさみしいだけ
 なぜかむなしいだけ
 たがいに傷つき すべてをなくすから
 ふたりでドアをしめて
 ふたりで名前消して
 その時心は何かを 話すだろうか
        (阿久悠・作詞/筒美京平・作曲『また逢う日まで』より)


(砺波湊)
○  できるだけ細切れにした藁半紙そのほつれまでクリーム色で

 客観的に見ると、「藁半紙」ならば「クリーム色」と言うよりも“薄茶色”と言うべきなのでしょう。
 でも、元・カノの第二の門出を祝して、マンションの窓から紙吹雪を浴びせようとしていた時でしたから、「できるだけ細切れにした藁半紙」は「そのほつれまでクリーム色」に見えたんでしょう。
 それなりに心が昂揚してたんでしょうね?
 〔返〕  注射針が百本余りも落ちていた紙吹雪舞ひし教会前に   鳥羽省三


(千葉けい)
○  遠くいる君への手紙に添える名の細さにのせて切なさ送る

 お気持ちはよく解ります。
 「遠くいる君へ」と仰り、「君への手紙」と仰り、「手紙に添える名の細さにのせて」と仰り、「細さにのせて切なさ送る」とまで仰りたいお気持ちは。
 好みの問題でもありましょうが、ここまで設えられた道具立てに感動なさる方は意外に少ないと思いますよ。
 作者・千葉けいさんの切ないお気持ちは、こんなにまでしなければ言い表せないのでしょうか?
 そもそも、「千葉けい」さんというお名前は、「遠くいる君」に対して、そんなに「細さ」を感じさせるお名前でありましょうか?
 〔返〕  遠く住む君からのメールその末尾「千葉けい」といふ太字の名見ゆ   鳥羽省三
 

(皐月)
○  細胞の一つ一つに燃える火を束ねて星を渡る矢となる

 情熱滾るが如き恋の歌である。
 でも、「星を渡る」はいけません。
 「燃える火を束ねて」作ったのが「矢」でありますから、「星を射る」とするべきでありましょう。
 〔返〕  細胞の一人一人に指令出し藩閥政府の転覆図る   鳥羽省三


(うたのはこ)
○  その端にどうぞあなたがいますように小指に絡まる細い赤糸

 清らかな乙女の切ない恋情を詠んだ歌である。 
 でも、本作の作者“うたのはこ”さんは、作中の「あなた」をどうして「小指に絡まる細い赤糸」の「端」に置かなければならないのでしょうか?
 どうせなら、「小指に絡まる細い赤糸」の全てを繰り出して、首を締めて絡め捕ったらいかがですか?
 〔返〕  その真中どうぞあなたが居ますよう十年のちの家族の写真   鳥羽省三


(犬飼信吾)
○  ウエストが細くなるって買わされたウラル山脈のごときピロシキ

 「ウラル山脈のごときピロシキ」とは、「ピロシキ」のあの白さを言ったのでしょうか?
 それとも、あの独特の形を言ったのでしょうか?
 また、ロシアの食べ物である「ピロシキ」は、栄養価が低いから「ウエストが細くなる」のでしょうか?
 更に言えば、本作の作者・犬飼信吾さんは、『南総里見八犬伝』の登場人物のように“太っ腹”なのでありましょうか?
 謎が謎を呼ぶミステリーのような一首である。
 その昔、評者は新宿駅前の“二幸”の一階食品売り場で、白系ロシア人の超肥満体の中年女性が「ピロシキ」の実演販売する様を、唾を飲みながら30分以上も立ったまま見つめていたことがある。
 昭和30年代の半ば。
 東京オリンピックの直前。
 あの頃の私は、東京の盛り場を一日中、お腹を空かした狼のようにして歩き回っていたのだ。
 〔返〕  ウエストを気にもしないで食べていた一袋五円の食パンの耳   鳥羽省三


(梳田碧)
○  リヤカーの轍の底で細々とみみずが生計をたてている

 「リヤカー」を題材にした短歌作品はとても珍しい。
 でも、昨今の大型団地などでは、廃品回収や自治会主催の歩道や公園の清掃などの際に、農家の納屋から借り受けてきたような「リヤカー」が、大車輪的な活躍をしていると聴いて居ります。
 そんな「リヤカー」の作った「轍の底」でも「細々とみみずが生計をたてている」のでありましょうか?
 〔返〕  細々と我等も生計立てて居る諸物価高騰年金目減り   鳥羽省三


(壬生キヨム)
○  泣いた時きちんと涙が出るように女の体に細工している

 どなたがですか?
 神様がですか?
 ジゴロの壬生キヨムさんがですか?
 〔返〕  寝る前にトイレに寄ってもオシッコがなかなか出ない前立腺肥大   鳥羽省三
 

(尾崎弘子)
○  剪定に切りそびれたるバラの木の細き枝には細き棘あり

 「細き枝には細き棘あり」などと言われると、何か格言めいて居て、神様が形作ったこの世の秩序みたいな感じがしますね。
 でも、観察眼の行き届いた優れた写生歌として誉めるべきでありましょうか?
 ところで、素人の「剪定」は、「この枝は残しておこう。あの枝も残しておこう」などと思うばかりで、作業がなかなか進まないばかりで無く、「咲かせるべき枝に咲かせるべき花を咲かせることが出来なくなる」のだそうですね。
 で、この点も亦、何かの諭しみたいですね。
 程々の年で人間が死ぬのも、自然の摂理なのである。
 〔返〕  神様の定めた摂理に逆らって私は今でも死なないで居る   鳥羽省三


(葵の助)
○  繊細と言えば聞こえは良いけれどいちいち凹んで生き苦しいよ

 「いちいち凹んで」ばかり居て、「生き苦しい」人生を生きている人が居る。
 その一例が、私の連れ合い。
 この頃の彼女は、一日中、原発事故と地震のニュースに怯え、お菓子を食べても、お刺身を食べても、「被災地の人たちに悪いことをしているみたいだから」と「凹んで」ばかり居るのである。
 その“息苦しく”かつ「生き苦しい」ことは、ものの比ではありません。
 〔返〕  先妻と言えば聞こえは宜しいが入籍せぬまま成田で別れ   鳥羽省三
 他の方のことですよ。


(逢)
○  細くてもただまっすぐな芯があるえんぴつのような強さがほしい

 「三菱ユニ」が出てから折れなくなりましたが、評者が子供の頃の「えんぴつ」は、よく折れましたよ。
 だから、「細くてもただまっすぐな芯がある」とは言えますが、「えんぴつのような強さがほしい」とは、評者には言えません。
 本作の作者が言う「えんぴつのような強さ」とは、“いつも直向に弱音を吐かずに進む”ような「強さ」ということでありましょうか?
 〔返〕  書けば減る鉛筆のような私かもそれでも書こう減るを恐れず   鳥羽省三


(佐田やよい)
○  細く陽の光はさして図書室の古き書物に挟みこまれる

 高校の放課後の「図書室」風景かと思われる。
 冬の陽は長く「細く」「図書室内」に「さして」、まるで栞のように、生徒の誰一人として読まない「古き書物に挟みこまれる」のである。
 「細く」の位置がやや苦しいかな?
 〔返〕  夏の陽は遍く射して原子炉は今しも悲鳴上げそうになる   鳥羽省三
 これからの事が心配されます。
 特に夏になってからのことが心配されます。
 福島原発の原子炉は放射能を撒き散らすまま、私たちの夜は真っ暗闇のままで、この夏を迎えなければならないのでしょうか?


(笹木真優子)
○  細切れのうたたねみたいにうっとりと 短い夢をたくさんみせて

 「細切れ」と言えば、私が直ぐに連想するのは、“豚肉のこま切れ”なのである。
 ところで、「細切れのうたたね」で「うっとりと」することが出来るのでしょうか?
 私の感覚では、「うっとりと」と言うよりも「うとうとと」といった感じなのです。
 一首の意は、「“いつでも”で無くてもいいから、たまには私を『うっとりと』させるような幸せを下さいね。長編小説のような壮大な幸せで無くていいから、短編小説のようなささやかな幸せ、『短い夢をたくさんみせて』ね。あなたお願い」と、頼り甲斐の無い夫に、ささやかな要望をしている」といった感じなのでありましょうか?
 だとすれば、なかなか切ない心境を詠んでいらっしゃるのである。
 〔返〕  豚コマは儚きことを夢みてる「私もいつか豚カツ揚げたい」   鳥羽省三
 どうですか?
 傑作でしょう!
 豚コマが「豚カツを揚げたい」と言ってるんですよ!


(揚巻)
○  交われば肺魚のふたりつぎの世も細い神話のつづきを語る

 たまに逢い、身体を重ねる度ごとに、まるで「肺魚」のようにハーハー言っているのである。
 それでもなお且つ、「来世でも一緒になって、こうして身体を重ねようね」などと、恰も「細い神話のつづき」を見ているような儚いことを「ふたり」で「語る」のである。
 〔返〕  交接は蛤の蓋咬み合って重なり合ってぴたり吸い付く   鳥羽省三


(理阿弥)
○  延べられし汝が手底の細波に顔うづめれば田芹の香り  *手底=たなそこ

 本作の作者・理阿弥さんは、素朴で儚くて香り高い恋の歌を詠っているのである。
 「延べられし汝が手底」を「細波」とした比喩が宜しい。
 「汝が手底の細波に顔うづめれば」「田芹の香り」とした写実も宜しい。
 〔返〕  延べられし稲庭饂飩の白さほど白々しい嘘よくも吐いたね   鳥羽省三


(新野みどり)
○  フルートの細い音色でひそやかに君への想いを夜に奏でる

 「君への想い」の伝達方法も色々様々である。
 私の長男の同級生の一人はと言えば、街の人みんなが寝静まった頃に、彼女の家の彼女の部屋の下にバイクを停めて連続的に爆音を上げる、といった極めて暴力的な方法であったそうだが、彼女の両親たちが、「あいつが毎晩家の前で爆音を上げるから、私たちは煩くて眠られないし、近所迷惑で恥ずかしくもあるから、いっそのこと、娘をあいつに嫁がせてしまおう」ということで、首尾よく結婚まで漕ぎ着けたのだそうだ。
 こうした暴力的な方法は、極めて例外的であるとしても、日夜ひっきり無しに部活の先輩の彼女にメールを発信する者。
 一週間に一回ずつ、長い長い手紙を去年の秋に未亡人になったばかりの元の同級生宛てに書く者。
 彼の一家全員が大好きなチーズケーキを沢山買って、毎月一回、下北沢の彼の自宅を訪れる者。
 首を長くして待っていると知りながら、故意にメールも電話もしないし、手紙も書かない者。
 その他、まだまだありましょうか?
 ところで、本作の作者・新野みどり(いかにも、ブログネームらしいお名前ですね)さんがご採用なさった方法はと言えば、「フルートの細い音色でひそやかに君への想いを夜に奏でる」という、極めて優雅かつ乙女チックな方法である。
 曲目は、ドップラーでありましょうか?
 モーツァルトでありましょうか?


  『ふるさとの』  三木露風 作詞   斎藤佳三 作曲
 
 ふるさとの
  小野の木立に 
 笛の音の
  うるむ月夜や

 少女子は
  あつき心に 
 そをば聞き
  涙ながしき

 十年経ぬ
  同じ心に
 君泣くや
  母となりても

 ところで、私は昨日の午後、本日執筆予定の記事の下準備として、新野みどりさんの作品を含んだ、鑑賞対象とさせていただいた全ての作品を「題詠blog2011」から、そのまま、転載させていただきました。
 それらの作品についての鑑賞文や返歌を書く仕事は、あくまでも本日の作業と思って居りましたので、私はただ単に、作品と作者名とを記しておいただけのことでありました。
 然るに、この世の中には、心優しい女性がいらっしゃるものと思われ、それに対して新野みどりさんから、昨日の夕方、次のようなコメントを頂戴致しました。 
 つきましては、それをそのまま本欄に転載させていただきます。

 「こんにちは (新野みどり)/2011-03-27 17:41:29/私の拙歌を取り上げて下さり、ありがとうございます。/鳥羽さんの題詠の作品を、少し読ませていただきました。時にユーモアを交え、人生の悲しみや家族と共にある喜びが深く表現されていて、感動しました。/また遊びに来ます。」

 連日、二千回以上のアクセスが在り、五百名前後の方々からお読みいただいている拙ブログ「臆病なビーズ刺繍」でありますが、ここ一ヶ月余り、私は皆様方がお寄せになるコメントを許可制にさせていただいて居ります。
 明らかにブログ潰しと思われる悪口雑言だけを並べ立てただけのコメントを一日に五十通以上も目にすることは、精神衛生上極めて有害であり、紙媒体での作品が様々な事情で行き詰った今日の状態の打開策の一方策として、インターネットでの短歌発表や短歌評論の確立を図ろうとしている私にとっては、そうした迷惑コメントの存在は文字通りの迷惑コメント以外の何者でもありません。そこで私は、大勢の善意ある読者の方々のご不便をも顧みず、已む無く、そうした非常措置を採らせていただいている次第であります。
 お蔭さまで、ここ数日はめっきり少なくなりましたが、昨日の午後にもそうした明らかに迷惑コメントと思われる内容のものが、当ブログのコメント一覧表の中に五通ほど、保留状態になって並んで居りました。
 そうした中に、新野みどりさん名からのコメントを発見した当初、私はこのコメントも匿名の迷惑コメントに違いないと思い、まるで時限爆弾にでも触るようにして、恐る恐る開いてみたのでしたが、案に相違して、善意の方からの上掲のような大変有り難いコメントでありました。
 新野みどりさん、この度は大変有り難うございます。
 拙作についても、過分なお褒めのお言葉を頂戴致しました。
 私は、連日、暇を惜しむようにして、皆様方の御作を拝見させていただき、それについての感想や返歌などを記載させていただいて居りますが、私の拙い文章や短歌を、何処の何方がお読みになっていらっしゃるのか、皆目見当が付かない状態であります。
 そうした折に、初めて鑑賞させていただく方から、上記のようなコメントを頂戴したことは、大変な励みにもなり、当世風な言い方をさせていただきますと、“元気を貰った”ような気持ちにもなりました。
 これをご縁に、貴女様の御作については、これからも出来るだけ採り上げさせていただきます。
 何卒、ご一読賜り、お暇がございましたら、コメントなどもお寄せ下さい。
 宜しくお願い申し上げます。


(兎六)
○  職歴に糸と見紛うばかりなる細き柱を一本立てる

 「職歴に」お立てになった「糸と見紛うばかりなる細き柱」とは、どんな「柱」でありましょうか?
 「一本」の「柱」と言えば、今秋完成予定の東京スカイツリーも、東京タワーも、エッフェル塔も、通天閣も、マリンタワーも、細いか太いかは別として、「一本」の「柱」であるに違いありません。
 本作の作者・兎六さんご本人は、「糸と見紛うばかりなる細き柱」などとご謙遜なさって居られますが、客観的には、それは東京スカイツリーのような、太くて立派な「柱」であろうと、拝察させていただきました。
 お題「細」を極めて有効に活用した傑作である。
 〔返〕  職歴は「教員一途」と記すのみ細き命を今に保てる   鳥羽省三


(鳥羽省三)
○  細腰の乙女娶りしはずなるに今は体重六十五キロ

 本作に関しては、「話者≠作者」である。
 本作が「題詠blog2011」に投稿されたことを、逸早くキャッチした妻の妹が、妻宛ての電話で「あなたの体重が六十五キロだって、本当かしら?」などとご注進に及んだものですから、妻はすっかりご立腹の面体で、私の面前で体重計に乗りました。
 体重計の針は五十キロ前後の箇所をふらふらと揺れておりましたが、「分かりましたか。でも、五十キロでは短歌になりませんからね」と、奇妙な妥協点を私に提示しました。
 「細腰の乙女娶りし」は、真実です。
 結婚当時の妻は、身長が166cm、体重が50㎏弱で、腰が細く、脚が長く、お尻と胸が大きく、正真正銘の「乙女」でございました。
 私は、いただくものは確かにいただきました。
 〔返〕  細腰の乙女なりしも二児を産み顔にはかなり皺が見えます   鳥羽省三

一首を切り裂く(003:細・其のⅡ)

2011年03月27日 | 題詠blog短歌
(伊倉ほたる)
○  細すぎる絹さやのすじ切れかかりためされている指の先まで

 本稿を草するに当たり、本作の作者並びに当ブログの読者の皆様に一言申し上げます。
 短歌(和歌)は、万葉以来、動作主体として作中に登場すると否とに関わらず、第一人称たる「私」即ち「作者」に拠って物語られることをその特質として来たのであり、いわゆる「私文学=第一人称詩」である。
 然るに、近代の中期以降、歌壇の一部にそうした伝統を覆そうとする動きが見られるようになり、動作主または話者を作者としない形の作品が登場するに至り、今日では、必ずしも「作者=作品の話者(或いは動作主)」としない作品が詠まれかつ発表されているのである。
 しかし乍ら、アララギ以来の「作者=作品の話者=動作主」とする伝統は根強く、その点が曖昧になったままで、昨今の歌壇及び短歌史は展開されている。
 「題詠blog2011」にご投稿なされた作品に於いても、その例外ではありません。
 評者・鳥羽省三は、そうした曖昧さから短歌作品を解放しようとして、一時期、作中主体を「動作主」乃至は「話者」と呼び、作者とは異なることを明確に示していたのであるが、「題詠blog2011」にご投稿なされる方々や「朝日歌壇」の入選者の方々の中には、伝統的な考え方(アララギ的な考え方)をなされる方が多くいらっしゃり、評者のそうした措置に対して、厳重かつ断固たる抗議を賜ったことも度々でありました。
 そこで、最近の私は節を屈し、作者と動作主や話者との一致、不一致に拘泥しないことで、事態を静観していた次第である。
 例によって前置きが頗る長くなりましたが、本作の鑑賞に当たり、私は例外的に、作者と動作主との一致・不一致に拘泥させていただきます。
 即ち、本作の「話者=私」は本作の作者・伊倉ほたるさんとは異なる架空の人物なのである。
 さて、そろそろ鑑賞に入りましょう。
 本作は、一見すると、「話者」たる「私」が自宅のキッチンで「絹さや」入りの茶碗蒸しを作る為の下拵えをしている際に、「指の先」が上手く働かなかった為に、「細すぎる絹さやのすじを」断ち切ってしまいそうになってしまったので、「私は神様から、料理の腕前を、いや単に腕前だけでは無く、『指の先』の器用さまでも『ためされている』のかも知れない」と考え込んで居る様子と心理を映し出したような感じの一首かと思われる。
 だが、其処はなかなかのテクニシャンの作者・伊倉ほたるさんである。
 何と驚いたことに、「細すぎる絹さや」とは、近頃はとんと途絶えがちな「私」のご亭主殿のご性欲(乃至はご逸物)の比喩なのである。
 そこで、“ご亭主思い”かつ“人一倍の女性自身”である「私」は、その苦境からの脱却を計ろうとして、真心を傾けて一所懸命に「細すぎる絹さやのすじ」にも似た、ご亭主のご逸物をご愛撫かつご刺激なさったのでありましょう。
 だが、在ろうことか、その「細すぎる絹さやのすじ」にも似たご逸物が、「私」の「指の先」の不器用さが原因で断ち「切れ」そうになったのである。
 そこで「私」は、「私は亭主からも神様からも『指の先まで』『ためされている』のかも知れない」とのご認識に辿り着いたのでありましょう。
 かかる解釈は、本作の作者・伊倉ほたるさんとしては、到底受け入れ難い「誤解」乃至は「曲解」でありましょう。
 しかし乍ら、極めて平凡な一読者たる評者を、かかる「誤解」乃至は「曲解」に誘導する要素を含んでいる点が、本作の他の作品とは異なる魅力であり、本作の作者・伊倉ほたるさんの作品の特質なのである。
 凡百な作者の手になる凡百の作品は、こうした隠微かつ上品な解釈の存在を許しません。
 かかるロマンティックな解釈を導き出すことを、本作の作者・伊倉ほたるさんは、自己の作品の美質とお思いになられ、満天下に誇示するべきでありましょう。
 エロスの神業にも似た私の曲解について、作者ご自身はいかがお思いになられるのでありましょうか?
 重ねて申し上げますが、本作は「作者≠話者」である。
 〔返〕  細過ぎる絹莢の筋にも似たる縁を断ち切りコメントはせず   鳥羽省三


(浅江もも)
○  許せないわけじゃないって唾呑めば全ては些細なことだと決まる

 「許せないわけじゃないって」と思うに至るまでは、それ相当の覚悟と時間を要したのである。
 したがって、東京スカイツリーの展望台から飛び降りるような覚悟の下に、「許せないわけじゃないって」と思うに至った時、本作の作者・浅江ももさんは、ぐっぐっと「唾」を「呑み」込んだのである。
 だが、ぐっぐっと「唾」を「呑み」込んで決意した一刹那、それまでは天下の一大事とばかり思ってきた、浮気などのご主人の裏切り行為の「全て」は「些細なことだ」と思うに至ったのである。
 本作を熟読玩味した結果から申し上げますと、「唾」というやつは「呑み」込んでみるものである。
 東京スカイツリーの展望台から105円のビニール傘を開いて飛び込むようなつもりで、覚悟を決めて「唾」を「呑み」込んだ一刹那、浅江ももさんの前には、それまでとはまるで異なった新しい視野が開けたのである。
 〔返〕  「今度だけ浮気許せ」と言う夫に唇付けされて唾を飲み込む   鳥羽省三
 蛇足ながら申し上げますと、話者が「飲み込む」のは話者自身の「唾」ではありませんよ。   


(じゃみぃ)
○  心なく細かいことを口にするそんな自分が嫌いになって

 「心なく」とは、「その気も無しに」という意味の語では無く、「不注意に・はした無くも・不心得にも」といったような意味の語である。
 したがって、本作の作者“じゃみぃさん”が、「細かいことを口にする」のは、その気を十分に有してのことであり、度々のことなのである。
 「そんな自分が嫌いになって」とありますが、本作の作者“じゃみぃさん”は「そんな自分が嫌いになって」、周囲の人々に、なかんずくご家族の方々に、どんな言葉でお詫びをなさったのでありましょうか?
 〔返〕  お詫びとて縷々説明をする“じゃみぃ”そんな自分も嫌いになれよ   鳥羽省三


(水絵)
○  細くとも柳に雪折れ無き如く 古希過ぎたるもしたたかに生き

 何方のことを仰って居るのでありましょうか?
 甚だ勝手乍ら我輩のことかと思いました。
 〔返〕  川端の柳に風折れ無きがごと古希を過ぎてもしなやかに生き   鳥羽省三
 「したたか」と「しなやか」の差にご着目下さい。


(さかいたつろう)
○  髪の毛が一番細くてやわらかいあの子と同じ病名が良い

 “さかいたちろうさん”は「あの子」の「髪の毛」に触ってみたことがあるのでしょうか?
 「あの子と同じ病名が良い」などと仰いますが、彼女の病名は「子宮内膜症」と聞いて居りますから、それはご無理なご願望かと思われますよ。
 〔返〕  二番では駄目なのでしょうか?(髪の毛が二番目細い盲腸の人)   鳥羽省三


(不動哲平)
○  わが空を桃色に染め細胞のひとつひとつを殺してゆくよ

 本作の作者・不動哲平さんは、ご自身の体内に大空を抱えていらっしゃるのである。
 その彼の大「空を桃色に染め」て「細胞の一つ一つを殺してゆくよ」とありますが、テレビ画像などで見る、癌細胞をコバルト照射で以って「殺してゆく」医学療法を思わせるような作品である。
 〔返〕  三陸の家屋の全てを薙ぎ倒し津波は更に広がって行く   鳥羽省三


(晴流奏)
○  電灯の色に染まりつ音もなく春は近しと降る細雪

 “二句切れ”であることにご注意なさって下さい。
 「音もなく」「降る細雪」は、夕方になるにつれて「電灯の色」に染まった。
 「電灯の色」に染まった「細雪」の温かそうなイメージから、本作の作者・晴流奏さんは、春が近いことをご感得なさり、「あの『細雪』は『春は近し』と思いながら降っているのである。その証しとして、あの『細雪』は『電灯の色』に染まった」とお感じになられたのでありましょうか?
 〔返〕  春浅く風まだ寒し福島の第一原発未だ危険だ   鳥羽省三


(香村かな)
○  細すぎる君の髪からふうわりと舞う哀しみかなにかの匂い

 「細すぎる」のは「君の髪」のみならず、身体であり、心であり、命なのである。
 そうしたいろいろな意味で「細すぎる君」の「髪からふうわりと」「なにかの匂い」が漂って来るのであるが、本作の作者・香村かなさんは、その「ふうわりと」漂って来る「匂い」を「細すぎる君」が「ふうわりと舞う哀しみ」故の「匂い」として受け止めているのである。
 本作の作者・香村かなさんは、お名前からして、恐らくは女性でありましょう。
 その女性たる香村かなさんが、作中で「君」と呼んで居られる「細すぎる」人物は、恐らくは男性かと思われる。
 お身体が太くみ心も太くお命も太い女性・香村かなさん(大変失礼)の前に立ち、あらゆる意味で「細すぎる」男性が「ふうわりと舞う」時、その「髪から」「なにかの匂い」が「ふうわりと」漂って来るのである。
 その漂って来る原因を、あらゆる意味で太い女性の香村かなさんは、「細すぎる君」が「ふうわりと舞うかなしみ」に求めたのである。
 人間同士はお互いに自分に欠落しているものを相手に求めるものである。
 あらゆる意味で「細すぎる君」と、あらゆる意味で“太過ぎる”香村かなさんとは、恐らくはご夫婦でありましょう。
 であるならば、お互いにカバーし合って、末永く楽しくお添い遂げ下さい。
 冗談はこれ位にして、本作の表現について一言申し添えれば、四句目中の「かなしみか」は、“言わずもがな”とも思われるのである。
 〔返〕  我の背にふうはりと舞ひ止まれるは桜の花か淡き命か   鳥羽省三


(只野ハル)
○  大雑把な細君と細やかな亭主のバランス崩れぬように

 本作の叙述から推測させていただきますと、こちらのご夫婦の問題は、ご性格に限定された「大雑把」さ「細やか」さについてである。
 しかし乍ら、一般的には、肥満型の人間の性格は「大雑把」であると言われて居り、痩身タイプの人間の性格は「細やか」であると言われて居りますから、作中の「細君」即ち本作の作者・只野ハルさんの体重は少なくても60kgを下らないものと推測され、作中の「亭主」即ち只野ハルさんのご主人様の体重は、多くても50kgを越えないものと推測されるのである。
 その「バランス」が「崩れぬように」と願うのは、夫婦喧嘩の際に、出来るだけ優位に立とうとしている只野ハルさんの密かな願望でありましょうか?
 〔返〕  細腰のをみな娶りし筈なるに腰廻り約九十五センチ   鳥羽省三


(空音)
○  事務的な声が伝える君の死と葬儀日程詳細わからず

 電話で告げられる訃報は事務的であることに加えて、告げられる側の心の動揺なども重なって、「葬儀日程」などの「詳細」が分かり難いことがある。
 しかも、その訃報の内容が「君」と言えるような親しい者についてのものであった場合は尚更である。
 本作は、そうした場面に遭遇した作者・空音さんの心の空洞と動揺を物語っているのである。
 〔返〕  暗号の如く告げ来る訃報にて解読するすべ我は持たざる   鳥羽省三


(雑食)
○  薬瓶みつめてやがて細くなるきみの鼓動をただ聴いている

 「薬瓶」を「みつめてやがて細くなる」のは、「きみ」の心臓の「鼓動」のみならず“命”そのものでもありましょう。
 本作の作者・雑食さんはお名前に似合わず、案外気配りが細かい方であり、こうした「きみ」の“命の危うさ”を先刻から覚悟しているからこそ、「きみの鼓動をただ聴いている」のでありましょう。
 〔返〕  ひたすらに君の命を見つめてる君の鼓動を我は聴くのみ   鳥羽省三


(ちょろ玉)
○  黒板を君はメガネをかけて見る 僕は細めた目で君を見る

 コンタクトレンズが全盛の今日、男性ならともかく、「メガネをかけて」いる女性は非常に珍しくなり、その女性の個性、否、魅力とも言えるようになってしまったのである。
 本作の作者・ちょろ玉さんは、教室の最前列に居て「メガネをかけて」一所懸命に「黒板」に見入っている学究肌の女性を、教室の後ろの方の席に居て、「細めた目」で見ているのである。
 「細めた目」とは即ち“惚れた目”である。
 不良学生・ちょろ玉さんの隣席に座っているコンタクトレンズの女性は、ちょろ玉さん同様の不勉強かつ性欲ばかりが旺盛な野村佳苗さんである。
 野村佳苗さんとちょろ玉さんとは、昨夜も身体を重ねたのであるが、現在のちょろ玉さんは心密かに、野村佳苗さんから「メガメをかけて」「黒板」に見入っている女性に乗り換えようと思っているのである。
 〔返〕  黒板を眼鏡で見入る百香さん危うしちょろ玉うしろで狙う   鳥羽省三
 

(浅見塔子)
○  「血管が細いね」と言う看護師は私の全てを知っているの?

 「看護師」と言っても、作中の「看護師」は女性看護師すなわちナースなのである。
 同性たる「看護師」から「『血管が細いね』」などと、何もかも、命の行く末まで見通したようなことを言われて、本作の作者・物見塔ならぬ浅見塔子さんは怒り心頭に達し、「そんなことを『言う』あの『看護師は私の全てを知っているの?』」と血相を変えているのである。
 で、年若い「看護師」から「『血管が細いね』」と注意された中年女性が、怒り心頭に達して血相を変えると、一体どうなるのでありましょうか?
 〔返〕  血管が破裂し忽ち脳溢血見え見えだからこそ注意した   鳥羽省三


(珠弾)
○  おそらくは抜けられません細道に入ってまわれ右も厭わず

 “抜けられ桝”ならぬ「抜けられません」が意味深である。
 珠弾さんは、競馬場通いから足を洗い、永井荷風を慕って旧・私娼窟通いを始めたのでありましょうか?
 だからこそ、もしも間違って競馬場への近道の「細道に入って」しまっても「まわれ右も厭わず」に帰って来ると仰っているのでありましょうか?
 〔返〕  一睡後旧玉の井を散歩する酔余の我に街燈赤し   鳥羽省三


(ぽたぽん)
○  笑っても笑わなくても細い目にわたしはちゃんと映っていますか

 「笑っても笑わなくても細い目」を、本作の作者・ぽたぽんさんは“可愛くて可愛くて仕方が無い目”と思っていらっしゃるのである。
 その“可愛くて可愛くて仕方が無い目”に「わたしはちゃんと映っていますか」と語り掛ける“ぽたぽんさん”のお気持ちは真に切なくて哀れである。
 そんな“ぽたぽんさん”の切なくて哀れなお気持ちも知らぬ気に、彼女は、その独特な「笑っても笑わなくても細い目」で以って、韓流ドラマのヒーローとヒロインの濡れ場を眺めているのである。
 可哀想なぽたぽんさん。
 〔返〕  「ぽたぽん」と呼ばれて気付く身の軽さ「さよなら」なんて何を今さら 
  鳥羽省三


(久哲)
○  ぎやまんの器に盛れば永久にとけない見込みもある細雪

 鬼才・久哲さんのせっかくのご投稿ではあるが、“ガラスの容器”を「ぎやまんの器」としただけの作品である。
 用語だけに縋り、いつまでも誤魔化しの作品を詠んで居てはなりません。
 貴方の才能を以ってすれば、加藤治郎や穂村弘は“物の数にも入らない”と思われますよ。
 〔返〕  ぎやまんの器に盛れば甦るDNAか鬼才果てぬる   鳥羽省三
 ついうっかり、鬼才・久哲さんを亡き者にしてしまいました。
 大変失礼に存じ上げます。


(横雲)
○  忍ぶるに身を細らする想いかな雪間を分けていつや君来む

 『伊勢物語』の世界を思わせるせっかくの“文語短歌”なのに、「想いかな」の失着が惜しまれる。
 「忍ぶる」「細らする」と、他の動詞と助動詞の接続には誤りが無いのに、「想ひかな」を「想いかな」と、つまらない表記ミスをしてしまったのはどうしたことでありましょうか?
 付け焼刃の文語短歌であったのでありましょうか?
 〔返〕  耐へ来しに身には表はる思ひかな筧に映る己が痩身   鳥羽省三


(清次郎)
○  骨と灰の中から細い黒を取り(入れ歯の金具)と教えてくれた

 作中の(入れ歯の金具)は、引用語句と思われる。
 ならば、会話部分に準じて、「入れ歯の金具」と記すべきかと思われる。
 昨今の結社誌などには、奇を衒って、様々なカッコや記号を用いた作品が投稿されているが、それをそのまま受け入れて掲載している選者の識見及び態度には大いに問題がある。
 彼らは鮮度が悪くて売れ行きの悪い八百屋の亭主以下の馬鹿な商売人なのである。
 それはともかくとして、今は亡き義父の骨上げの際に、評者は、「入れ歯の金具」が細く黒い物体となることを確認したことがあるので、本作を実感の伴った佳作として鑑賞させていただきました。
 清次郎さんもなかなか優れた歌人であるから、これからも一首一首を注目させていただきます。
 〔返〕  焼け尽きて脆き灰とはなりにけむ片目義眼の海賊の長   鳥羽省三
            [注]  長=をさ


(水風抱月)
○  夕暮れて泥むあたりに幼子の迷犬(まよいぬ)捜し呼ぶ声細く

 「迷犬」を「まよいぬ」と読ませようなどとの姑息な手を用いずに、次のようにするのも一つの手ではありませんか?
 〔返〕   暮れ泥む下町辺り 幼子が迷子の犬を捜して叫ぶ   鳥羽省三  


(じゃこ)
○  細胞のひとつひとつが反乱を起こしたことによるつまみ食い

 一般的に何方かが「つまみ食い」をする原因としては、「① 親の躾が良くなかった場合。 ② 本人の食い意地が張っている場合。 ③ 親の躾が特別に悪くなく、本人が特別に食い意地を張っていなくても、その日に限って我慢出来ないくらい、お腹が空いていた場合」などが上げられます。
 然るに本作の作者・じゃこさんは、ご自身の「つまみ食い」の原因として、「細胞のひとつひとつが反乱を起こしたことによる」などと責任逃れのことを仰るのである。
 洒落にもなりませんな。
 でも、よくよく考えてみると、そういうケースの「つまみ食い」も、確かにお在りなのかも知れませんね。
 私は、すっかり解らなくなってしまいました。
 〔返〕  箸を持つ右手の指の二本だけ逆上してのつまみ食ひかも   鳥羽省三

一首を切り裂く(003:細・其のⅠ)

2011年03月26日 | 題詠blog短歌
(はこべ)
○  『細雪』四人姉妹のおりなすは滅びの美学谷崎文学

 お題「細」から谷崎の『細雪』をご着想なさったのは真に適切なご着想かと思われます。
 しかし乍ら、肝心要の作品が、「四人姉妹のおりなすは滅びの美学谷崎文学」などと、高校の国語の副読本から抜き出した如き常套句を繋ぎ合わて無理矢理仕立て上げたような感じの作品になってしまったのは、頗る残念なことと思われます。
 作者ご本人としては、お題「細」を生かして日本近代文学史上の粋美『細雪』の世界を詠み得た、とご満足なさって居られるかも知れませんが、このままでは明らかに“手抜き”以外の何物でもありません。
 はこべさんならまだまだ優れた作品をお詠みになられる筈です。
 猛省を促します。
 〔返〕  風に舞ふ細雪かも蒔岡の四人姉妹のさだめ哀しき    鳥羽省三
      砲声がドレスの裾を揺らす日も四人姉妹は若草のごと    々
 四人姉妹の物語という点では『細雪』も『若草物語』も同じような性格を持っている。
 で、ありながら、前者は“成長物語”と言うよりも“マイナス成長物語”という性格を備えているのに対して、前者は文字通りの“成長物語”という性格を備えている。
 これは単に、両作品の作者の趣味や資質の違いと言うよりも、日米両国の国情や民族性の違いと言えましょうか?


(西中眞二郎)
○  駅頭にたむろしている若者らいずれも細く長き足持つ

 本作の作者とほぼ同年輩の評者も亦、こうした光景を眼にすることが多いのであり、「この時節に人通りの激しい『駅頭にたむろして』長い『足』を曝け出して煙草を吸って居るとは何事だ!交通の妨げになるから早々に立ち去りなさい!」などと、一喝も二喝もしたいような衝動に駆られるのである。
 しかし、この頃は出歩きの際の同行者の妻が、自分たちの行き先にそういう場面が待っているような気配を感じると、さり気無くその手前の店などに私を導き、そうした荒れ場の現出を未然に防いでいるような感じなので、評者は未だに彼らと直接ぶつかったことはありません。
 よくよく考えてみると、「若者ら」の「いずれ」もが、古希を過ぎた西中眞二郎氏や評者よりも「細く長き足」を持っているのは極めて当然なことであり、繁華街や「駅頭」に出るや否や、逸早くそれを眼にしてしまうのは、私たちが年取ってしまい、いくら悔やんでも彼らのようになることが出来なくなってしまっていて、彼らを羨ましがっているからではないでしょうか?
 “君子危うきに近寄らず”。
 なるべくならば、煙草の煙と若者の長く細い脚と放射能が充満しているが如き繁華街には出ないようにするのが、私たち年配者に課せられた宿題なのかも知れません。
 本作の作者・西中眞二郎さんに於かれましては、いかがお考えになって居られましょうか?
 世の中が今よりも幾分か落ち着きを取り戻してきた頃に、朝日新聞紙上で亦、貴兄のご意見をお伺い致したく存じ上げます。
 〔返〕  喫煙所に屯して居る中年の女性らなども怒鳴りつけたい   鳥羽省三
 男女同権の世の中と言え、肺癌の苦しさが声高に叫ばれ、政府が煙草税の大幅な増税に踏み切った今になってまで、赤い唇に煙草に咥えている女性を見るのは、真に腹が立つのである。


(南野耕平)
○  細い道でしたが確かに道でした 少し冷たい水をください 

 その「道」は、何処に至る「道」でありましょうか?
 「細い道でしたが確かに道でした」と仰り、「少し冷たい水をください」とも仰る。
 本作の作者・南野耕平さんは、今までもこれからも、細くて長い道程をてくてくとお歩きにならなければなりません。
 でも、「少し冷たい水をください」などと仰っても、頂戴した水は放射能で汚染された「水」かも知れませんから、よくよくご注意下さい。
 独白と懇請との二つの会話から成り立つ作品であるが、韻律も宜しく、読者の介入を誘うような内容でもあり、“なんちゃって短歌”風を装いながらもなかなかの傑作である。
 〔返〕  獣道でしたが確かに道でした 藪を薙ぎ倒しつつ歩きました   鳥羽省三


(アンタレス)
○  針程の細き枝にも積もりゆく静けき雪に忍の字覚ゆ

 アンタレスさんの久々の傑作と申せましょう。
 欲を出して申し上げれば、五句目を「忍の字覚ゆ」となさり、格言的・教訓的内容の作品に仕立て上げていらっしゃる点が惜しまれます。
 考え方の問題であり、好き好きでもありましょうが、短歌にしろ、俳句にしろ、一般に、格言的・教訓的な内容に仕立て上げてしまうと、“俗臭紛々”といった感じになってしまい、一段と格調が下がる、言われて居ります。
 美しいと言わずに美しさを感じさせ、悔しいと言わずに悔しさを感じさせ、「忍の字を覚ゆ」と言わずに、作者が「忍の字」を感じていることを感じさせるのが短歌だと言われて居りますが、そうなると、短歌と言えどもなかなか難しいことになりますね。
 でも、詰まるところは、好き好きの問題でありますから、それほど難しく考える必要はありません。
 〔返〕  玻璃のごと淡く震へて木の枝に凍れる霜の愛しき今朝よ   鳥羽省三


(黒崎聡美)
○  快晴の間延びした日に細長く光を放つ避雷針を見る

 「快晴」の「日」には、確かに「間延びした」ような感じが在る。
 また、屋上の「避雷針」はついも、否、特に「快晴の日」には、空中に細長い光を
放っているような感じである。
 本作は、そうした微妙な感覚を二つ組み合わせて成り立った作品である。
 評者は末尾の「を見る」に、わずかながら首を傾げているのであるが、それはそれで仕方が無いのかも知れない、とも思っているのである。
 〔返〕  快晴の間延びした日に間延びして飛行機雲の薄れ行く見ゆ   鳥羽省三


(紗都子)
○  目を細め見上げる空はいくたびも重ね塗りした郷愁の色

 そうです。
 晴れ上がった日に「見上げる空」の「色」は、確かに「郷愁の色」をして居りますね。
 しかも、その「郷愁の色」は、一度ならず二度も三度も幾度も、「重ね塗りした」ような感じの「郷愁の色」なんですね。
 〔返〕  郷愁を幾度も重ね塗りをして彼らは遂に国に還らず   鳥羽省三
 「彼ら」とは、私の従兄や叔父などの戦地に倒れた方々のことである。


(あひる)
○  細やかに心配れる言葉より荒々し手に引き寄せられたし

 「暴力で以って遇されることに対する憧れは人間の体内に、特に女性の体内には確かに在る」などと書かれた、暴力肯定論紛いの小説を読んだことがある。
 本作は、その短歌篇とも言える内容である。
 しかしながら、そのせっかくの傑作も詰めを怠っては台無しである。
 例えば、四句目の「荒々し手に」は、一字の字余りを怖れずに「荒々しき手に」とするべきでありましょう。
 〔返〕  荒々と家鴨一羽の毛を毟り焼いた料理に心温めり   鳥羽省三


(藍澄さねよし)
○  細菌のごとくひしめく人々も吾もレンズの底に居るなり

 「吾も」亦「細菌のごとくひしめく人々」の中の一人に違いありません。
 〔返〕  アメーバの如く奔れるイレブンの一個が今しシュート決めたり   鳥羽省三


(浅草大将)
○  つららゐる細谷川の帯なれど春には解かめ吉備のなか山

 彼の藤原定家卿に「つららゐるかけひの水はたえぬれどをしむに年のとまらざるらむ」という一首在り。
 また、『新古今和歌集』の撰者の一人・飛鳥井雅経の嫡孫の飛鳥井雅有に「夕暮に鷺のとぶをみて」と題して、「つららゐる刈田のおもの夕暮に山もととほく鷺わたる見ゆ」という一首が在って、両作とも「つららゐる」という枕詞を用いた名作として高く評価されている。
 関連歌を更に一首挙げれば、『古今和歌集』(巻二十?)に「神遊びの歌」として、「真金吹く吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ」という歌が在り、これまた人に知られた名歌である。
 本作は、これらの名歌を思案の中に置いてお詠みになられた“本歌取りの歌”に近い性格の作品であると思われるが、これを敢えて、“本歌取りの歌”として見ると、本歌に相当するのは、『古今和歌集』の「真金吹く吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ」でありましょう。
 だが、本作の成立に当たっては、藤原定家の歌の影響も無視し難いと思われる。
 一首の意は、「歌枕の地・吉備の中山の麓を帯のように長々と美しく流れる細谷川に氷柱が張っているが、その固い氷柱も春になれば融けるでしょうが、浅草大将殿が恋い焦がれている浅草芸者の固い帯も亦、浅草大将殿の願いが叶って、春になれば解けるでしょう」という訳である。
 「浅草大将殿もなかなかやるな」といった感じの作品でありますが、それならば、評者も亦、浅草大将殿の向こうを張りましょうか?
 〔返〕  氷柱張る墨田の川に春来れど万札張っても帯解かざらめ   鳥羽省三


(髭彦)
○  いと細き見えぬ流れも絶えざれば大河とならむ人世のことも

 五句目を「人世のことも」とするなど、鬚彦さんらしからぬ凡作である。
 お題「細」の扱いにご苦労なさったのでありましょうか?
 〔返〕  いと太く長き黄河も源流は細谷川の雫たるらむ   鳥羽省三


(みずき)
○  蝶翅と揺れゐる蘭の細やかな風の行方か海の遠鳴る

 潮の遠鳴りを、「蝶」の「翅」のように「揺れ」て咲いている「蘭」の花に吹く「細やかな風の行方か」と思って、耳を傾けて聴いているのでありましょう。
 「夜半独居」とでも、詞書をお付けになられたらいかがですか?
 〔返〕  胡蝶蘭の白並び居る石原の選挙事務所に吹ける秋風   鳥羽省三 


(猫丘ひこ乃)
○  細道の鮮魚店にはなまぬるいイカソーメンの雨が止まない

 お題が「細」である以上は、作者としては致し方無かったのでありましょうが、詠い出しの「細道の」が極めて雑である。
 また、「魚屋」と言えば済むところを、わざわざ「鮮魚店」とまで言うところに、語彙の少なさ、表現の未熟さが感じられるのである。
 それはそれとして、本作の作者のお名前は、竹久夢二の作品のモデルであり愛人でもあった女性のそれを思い出させるし、竹久夢二の版画にも猫丘ひこ乃さんの短歌にも、「イカソーメンの雨」はお似合いである。
 〔返〕  千駄木の魚屋の屋根の錆トタン濡らして細き雨降りしきる   鳥羽省三


(ウクレレ)
○  細心の注意を払い虹の橋の紫だけをきみと歩いた

 まさしくアクロパットである。
 ウクレレさんも彼女も、一本歯の足駄を履いて「虹の橋の紫だけ」を選んで「歩いた」のでありましょう。
 〔返〕  最新の自転車ならば虹の橋漕いで渡れることでしょうか?   鳥羽省三


(さと)
○  「あんた地獄に落ちるわよ」って細木K子に言われて良い 逢いたい

 一見すると、本作の作者・さとさんが「逢いたい」のは、作中の「細木K子」さんのようにも思われますが、まさかねー。
 一首の意は、「あの細木K子のババアに『(他人の亭主を寝取るなんてとんでもない。そんなことをすると)、あんた地獄に落ちるわよ』って言われても、私は彼と逢いたい」といったところでありましょう。
 情熱の女“さと”。
 恥も外聞も捨てた女優“さと”。
 只ひたすら彼と不倫したい女優“さと”。
 地獄行き覚悟で女優仲間の亭主の肉体にむしゃぶり付く女優“さと”といったところでありましょうか?
 〔返〕  原子炉の火花の如き灼熱で不倫に耽る破廉恥女“さと”   鳥羽省三


(矢野理々座)
○  「細麺にスープがからみこのネギと・・・」ラーメン好きがまた語りだす

 「ラーメン」通はこれだから困ってしまうのである。
 しばらく留守にしている間に、「くじら軒」のも「さぶちゃん」のも、美味しく無くなりました。
 白濁した汁の“博多風ラーメン”は元々嫌いです。
 〔返〕  「チャーシューがどんぶり塞ぎ七枚も」「それは邪道だ、食べたくもない」   鳥羽省三


(原田 町)
○  細々と生きるも楽し道の辺の土筆はこべを摘みつつ行けば

 今春のは、「道の辺の土筆」も「はこべ」も放射能汚染されていますから、食べてはいけませんよ。
 〔返〕  細々と生きてる我らの幸せを奪って夜毎寄せ来る余震   鳥羽省三


(芳立)      〈亜州春景〉 
○  み吉野に桜かすめば藍毘尼の無憂樹も咲ふ亜細亜うるはし

 本朝の「み吉野に桜かすめば」遠き天竺の「藍毘尼の無憂樹も咲ふ」とは、まさしく東洋アジア的スケールの大作である。
 〔返〕  乃木坂の寿司屋のトロの値高騰し大西洋ではマグロが跳ねた   鳥羽省三 


(たた)
○  塾帰りだったのでしょう糸よりも細くチーズを割いていました

 なんのことか解らないのが、この作品の最大の魅力でありましょう。
 〔返〕  二十歳過ぎのOLでしたよ。ケータイを一心不乱に叩いてましたね。   鳥羽省三


(新田瑛)
○  望ましい未来に向かう細道じゃ 誰も後ろを向いてはならぬ

 電力の消費量を三割減にし、一日三度の食事を二度にし、四キロ以内の道程は徒歩にするなど、贅沢度を現在の七割程度に抑えれば、「望ましい未来に向かう細道じゃ」とも言え、「誰も後ろを向いてはならぬ」とも言えましょうか?
 〔返〕  望ましい獣道とも言えましょう 大人も子供も飲酒喫煙   鳥羽省三


(akari)
○  蝋梅の香る小路に細い月「ご苦労さん」と白く微笑む

 「蝋梅の香る小路」に「細い月」と道具立てがすっかり整っている。
 古風ながら結構なご趣味でございますこと。
 「『ご苦労さん』と白く微笑む」のは、尾崎紅葉か泉鏡花の舞台から抜け出てきたような、妖艶な美女でございましょうか?
 〔返〕  十三夜 銀杏返しに黒繻子をかけ泣いて縋った隅田の河畔   鳥羽省三


(穂ノ木芽央)
○  少しだけこころに細工を施して回転木馬の順番を待つ

 たかが「開店木馬」に乗るに過ぎないのに、あたかも玉の輿に乗るが如きご準備をなさる穂ノ木芽央さんである。
 下手な「細工」を施すと「回転木馬」に生ま足を噛み付かれますよ。
 〔返〕  生ま足を回転木馬に噛み付かれお嫁に行けない熟女・芽央さん   鳥羽省三
 

(飯田彩乃)
○  こんなにも細くて頼りないからだで降ること決意したのね 雨は

 「雨」とは、“実体”ではなく“現象”である。
 降る前は雨雲ないしは水滴であり、降ってしまえば、只の水に過ぎません。
 したがって、「細くて頼りないからだ」でも、太くて頼り甲斐のある体でもありませんし、「降ること決意した」も“決意しない”もありません。
 とは、申せ、なかなかのご発想と思われます。
 「雨は」の前の一字空きも宜しい。
 一種の“認識の歌”と申せましょうか?
 〔返〕  こんなにも冷たく濡れてびしょびしょと自分を苛めているのね雨は   鳥羽省三  


(天国ななお)
○  早いとか細いとかいうフレーズがいちいち気になる初めての朝だ

 本作の作者・天国ななおさんは、昨日の深夜、お相手様からどんなことを言われたのでありましょうか?
 「ななおさんのななおさん自身は、細くて壁を擦らないないから、私つまんない!」
 「だめ、だめ、だめよ。まだまだ早いってば! 自分ばかり行ったりして、あなたは自分勝手なのね! わたしのことも考えてね。まだまだ早いからね!」などなど。
 〔返〕  矮小で早漏なるを咎められ昨夜のななお立つ瀬もなけれ   鳥羽省三


(村木美月)
○  美しい裏切りでした繊細なメランコリック投げかけたひと

 村木美月さんのお相手は、いつも明るく楽しそうに振舞わなければならないのでありましょうか?
 お話の接ぎ穂を失って、ついうっかり塞いだり俯いたりすると、すぐさま「裏切り者め!」とやられてしまうのである。
 でも、「裏切り」は裏切りでも、只の「裏切り」では無くて「美しい裏切りでした」と言われ、「繊細なメランコリック投げかけたひと」と、まるで誉められたような感じのことを言われるのは、それは言われた方の裏切り方が美しかったり、繊細だったりした、と言うよりも、自分をいつまでも被害者の位置に置いておきたくない、という、村木美月さんの我が侭なご性格のせいでありましょう。
 美人とは、被害感を幸福感に即座に変え得るようなご性格を備えた動物の別名である。
 〔返〕  美しい裏切りに出会う度ごとに熟女の鼻は益々高く   鳥羽省三
      鼻柱ますます高くなり行きて迫害されても幸福になる    々


(中村成志)
○  しなやかに舞いし宇受賣の足ゆびの皹いよよ細くあからむ

 伊勢神楽でありましょうか?
 それとも、出雲神楽でありましょうか?
 そのいずれにしても、旧正月の村々の露天や仮舞台で裸足で行われる行事でありますから、作中の「宇受賣」の手足に限らず、大国主命の手足にも、手力雄命の手足にも、皸が切れて居り、赤らんでいるのである。
 〔返〕  わらわらと暴れ捲れる大蛇にも皸が見え赤く腫れてる   鳥羽省三


(ネコノカナエ)
○  些細だと流せていたら苦しみもなかったそしてこのつながりも

 「苦しみ」を克服なさった今となっては、「このつながり」の方をいとおしく思われ、あの時、「『些細だ』と」流さないでよかったと思っていらっしゃるのでありましょう。
 〔返〕  苦しみが大きければこそ楽しみも大きく君と繋がっている   鳥羽省三


(音波)
○  詳細は問いませんから金持ちで優しくて背の高い二十代にして

 詠い出しの「詳細は」という言い方はかなり雑だと思われます。
 〔返〕  美醜など問題でなし金持ちで丈夫で若く優しい女性を   鳥羽省三
      あの歌手を十五歳ほど若くして鼻ぺちゃ女で優しい女     々


(こはぎ)
○  細やかな気遣いが減る二年目の君がますます愛おしくなる

 夫婦生活の機微を捉えた傑作と思われます。
 新婚早々はお互いに「こまやかな気遣い」ばかりしていて、徒にぎくしゃくするばかりなのです。
 「細やかな気遣いが減る二年目の君」は、ちょっぴりずつ我が侭なども言うようになるから、「ますます愛おしくなる」のでありましょう。
 〔返〕  「こんなはずでは無かった」と思うのは五年目で後は惰性で続く   鳥羽省三


(佐藤紀子)
○  正月のお宮の露店にならびゐき しんこ細工の小さなうさぎ

 佐藤紀子さんの“干支シリーズ”は、今のところ極めて順調に流れて居ります。
 お題(001:初)は「初雪を盆に集めて作りたり明日は融けゆく小さなうさぎ」。
 お題(002:幸)は「新しき年の幸せ願ひつつ年賀状には子うさぎを描く」でありました。
 そして今回は、舞台を「正月のお宮の露店」に移し、其処に並んだ「しんこ細工の小さなうさぎ」をお詠みになって居られる。
 ところで、たった今、気が付いたのでありますが、何方かが“君のパンティ”シリーズをお詠みになって居られますが、あれとこれの違いは奈辺にお在りなのでしょうか?
 〔返〕  故郷のしんこ市にも並んでた裃を着た小さなうさぎ   鳥羽省三


(山田美弥))
○  細切れの心を繋いでかろうじて形作ってる明日の虚像

 「細切れの心を繋いでかろうじて形作ってる」のが「明日の虚像」に過ぎないのだとしたら、私たち人間は、一体、何の為に生きているのでありましょうか?
 本作は、人間存在の根源に関わることを主題に据えた問題作である。
 〔返〕  食うために生き且つ生きるために食う我の生涯何ごとならむ   鳥羽省三


(五十嵐きよみ)
○  か細くてたちまち風にさらわれる叶うあてなき祈りの声は

 私たち、大多数の庶民の「祈りの声は」、本作にある通り、「か細くてたちまち風にさらわれる叶うあてなき」ものでありましょうが、それでも祈らずに居られないのが人情というものでありましょうか?
 〔返〕  「アブラカダブラ」と祈ってた徹子さん若くてとても可愛かったね   鳥羽省三

 
(南葦太)
○  春を曳く木馬になってみませんか 制服貸与 委細面談

 “春を鬻ぐ”と言わないところが味噌なのである。
 「制服貸与」も宜しいが「委細面談」も宜しい。
 〔返〕  裸にて野郎乗せるか木馬には漕いで揺られて漕いで揺られて   鳥羽省三


(野州)
○  一丁の豆腐を購め細き路地出ずれば五分刈り頭が寒い

 「購め」という動詞は存在するのでしょうか?
 「購入する」という意味ならば、「購ふ・購う」という言い方が通常の言い方である。
 また、口語の「出る」に対しての文語の「出づ」ですから、四句目中の「出ずれば」は「出づれば」とするべきでありましょう。
 結社などが「出ずる」といったような出鱈目な表記を許容しているのは、選者たちの見識の無さや会員獲得の為の姑息な手段でしかありません。
 〔返〕  一丁の豆腐を買って帰る道スポーツ刈りに満月が照る   鳥羽省三


(藍鼠)    (晩酌講話)
○  「灯火もなきまま歩く細道ぞ恋は」と酔うた父の含羞

 その「含羞」や宜し。
 その後に、「暗闇心一つに」と続くのでありましょうか?
 〔返〕  停電もたまには宜し臆病な女抱き締め一夜を明かす   鳥羽省三


(るいぼす)
○  手を合わせ一攫千金ではなくて細く長くを祈る正月

 欲の無い“るいぼす”さんである。
 「一攫千金」を祈っても、妻に八つ当たりされるの関の山の今日、「細く長く」と祈って、何が当たるのでありましょうか?
 〔返〕  細くかつ長くしたたる小便に腹を立てるな還暦過ぎは   鳥羽省三  


(詩月めぐ)
○  三日間会わないだけで細長い君の指先ぎこちなくなる

 本作の作者・詩月めぐさんは、「三日間会わないだけで」「ぎこちなくなる」「細長い君の指先」に、どんな作業をさせているのでありましょうか?
 〔返〕  ぎこちなく探られるのもたまに良い時間を掛けて繰り返しつつ   鳥羽省三


(酒井景二朗)
○  細水(ささらみづ)川藻の緑靡かせて流れさやけき春の野邊かな

 ほとんど“中世和歌の世界”である。
 〔返〕  細雪川面の亀は慌てだし甲羅返しに巣篭もりにける   鳥羽省三


(天野ねい)
○  細胞が貴方のために新しくなっていることたまに感じる

 それを以って新陳代謝と言うのであり、格別に何方の為に「細胞」が「新しく」なるのではありません。
 〔返〕  細胞分裂をあまたたび繰り返し君は吾と交わる肉こさえた   鳥羽省三
      細胞は細胞自身が生き延びる為にのみ新しくなるのだ       々


 (内田かおり)
○  沈み行く陽が一線となる刹那緋色は細く藍を滲ませ

 その「刹那」、太陽が地平線下に没したのである。
 〔返〕  沈み行く夕日が没して夜となる後は朝まで辺りは真っ暗   鳥羽省三


(青野ことり)
○  良心に問うてみなさい(迷うたび)か細い声がどこからかくる

 作中の「迷うたび」を「(迷うたび)」となさったのは、如何なる所存でありましょうか?
 「短歌は五七五七七の五句一続きを以って基本とする。句読点も括弧もその他の記号も無用なり」との「か細い声がどこから」か聞こえて来ませんか?
 「良心に問うてみなさい」。
 迷って居てはいけませんよ。
 せっかくの詩心をあたら無駄にしてはいけませんよ。
 〔返〕  迷うたび心が叫ぶ身が叫ぶ基本に帰れ基本に帰れ   鳥羽省三

『NHK短歌』観賞(東直子選・3月23日分・其のⅡ)

2011年03月25日 | 今週のNHK短歌から
[入選]

○  校舎へと向きなおりつつ聴いているあなたの声が音になるまで  (宮崎市) 大塚泰子

 「あなたの声が音になるまで」という表現には、格別な新しさを感じている訳ではない。
 何故ならば、評者は過去に何首かの類想歌に出会っているからである。
 だが、「あなたの声が音になるまで」「校舎へと向きなおりつつ聴いている」私即ち本作の作者・大塚泰子さんと「あなた」とのご関係については大いなる興味を感じているのである。
 「あなた」は作中の学校の校長であり、その校長の「あなた」が「校舎」で生徒に向って訓示を垂れているのを、早退して来た生徒の大塚泰子さんが、「校舎へと向きなおりつつ」「声が音になるまで」「聴いている」場面。
 「あなた」は「校舎」内で同じクラスの大勢の児童に苛められて泣いている児童であり、その苛められて泣いている児童の母親たる大塚泰子さんは、息子たる「あなた」の「声が音になるまで」「校舎へと向きなおりつつ聴いている」場面。
 本作は、上記の如きいろいろな場面を想像してみることが出来るような魅力を湛えた作品でもある。
 〔返〕  「天城越え」声張り上げて歌ってる娘のあなたは合唱部員   鳥羽省三


○  「元気でね」返事もせずに子は降りてウインカーの音鳴り続けてる  (山口市) 阿佐くの

 本作もまた、読者をさまざまな世界に誘うような魅力を備えた作品である。
 そこで、作中の語句・表現を手掛かりとして、評者が想像した数々の場面の中の一例を次に示してみよう。
 即ち、本作の作者・阿佐くのさんは、子まで生した仲の男性と別れ、現在は山口市内のマンションで独居生活をなさって居られるのであるが、離婚調停の際に交わした条件の一つとして、毎月一回、第三日曜日には、前夫側に託して来たご子息を前夫の家に迎えに行き、一日を母子で睦ましく過ごした後、夕方の六時には前夫の家までマイカーで送り届けることが習慣となっているのであるが、本作の題材となった当日の夕方は、いつものようにご子息を前夫の家の前まで送って行き、これも亦いつものように優しく、「元気でね」と声を掛けたのである。
 だが、何が気に入らなかったのか、その日に限って、ご子息は「返事もせずに」下車し、継母と義理の姉が待っている父親の家に駆け込むようにして入って行ったのである。
 で、未だ小学三年生でしかないご子息のそうした行動は、今日一日、精一杯愛情を傾けて母親らしいことをしたつもりになっている作者にしてみれば、余りにも思いがけないことであり、ご子息が「返事もせずに」荒々しく扉を閉めて下車した後、操作もしないのに「鳴り続けて」いる「ウインカーの音」を、只々茫然として聴くとも無しに聴いているばかりなのである。
 〔返〕  予備校へ送り届けた浪人の娘は母に無愛想なり   鳥羽省三
 

○  JR乗り換へまでの二駅を「野菜食べよ」と言ひて別るる  (岡山県和気町)  高原晴子

 またまた謎だらけの作品である。
 本作の作者・高原晴子さんは、何方かを「JR」の「乗り換へまでの二駅を」電車に乗ってお送りになられ、「乗り換え」駅で「『野菜食べよ』と言ひて別るる」ということでありますが、この場合の「何方」は、一体全体「何方」でありましょうか?
 ご丁寧にも「JR乗り換へまでの二駅」を電車に同乗してお送りになられ、「乗り換へ」駅でお別れになられる際には、極めてご親密なご口調で「野菜食べよ」を声をお掛けになられた事から拝察させていただきますと、作中の「何方」は、ご事情が在って別居中の戸籍上のご亭主殿ないしはご子息様かと思われますが、いかがでありましょうか? 
 〔返〕 精気無き元の亭主を見送って「野菜食べよ」と背中叩いた   鳥羽省三


○  カーナビにおばあちゃんちと入力し訪ねし子らと別れをおしむ  (富山県上市町) 廣田キヨヰ

 「カーナビ」に「おばあちゃんちと入力し」たとしても「カーナビ」はそれほど頭が良くありませんから、「おばあちゃんち」に連れて行ってくれる訳ではありません。
 したがって、そのあまり頭の良くない「カーナビ」以上に頭が良くない可能性が感じられるが、人一倍「おばあちゃん」思いで可愛らしい「子ら」が「おばあちゃんち」に迷い迷い辿り着いたのは、到着予定時刻をかなりオーバーした時刻でありましょうか?
 本作は、やっとこさ訪ねて来たと思ったら、一時間も経たないうちに帰った行かなければならないお孫さんたちとの「別れをおしむ」、“お孫さん思い”の「おばあちゃん」の切ないお気持ちを表現した佳作である。
 〔返〕  最初からおばあちゃんちは知っていた馬鹿で入力したのではない   鳥羽省三


○  お別れの気配がします私ではなくて後ろのガラスを見ている  (北区) 飯田彩乃

 またまた大きな謎を含んだ佳作である。
 察するに、本作中の「お別れ」とは、恋人たる女性に愛想尽かしを感じた男性が、それと無く自分の気持ちを相手の女性に解らせるつもりで、対面する女性に視線を合わせようとせずに、故意に、その女性の背面の「ガラス」窓を「見ている」のである。
 だが、捨てられる側の女性も亦、相手の男性が自分を見ようとしないことから、その男性の打算的な気持ちを逸早く察知したので、「こんな打算的な男を、この私が、今まで何で好いていたんだろうか? 向こうが向うなら、こっちもこっちだ」と思っているようにも思われる。
 しかし、さすがの評者にも、その女性が「こうなったら、慰謝料はたんまり執ってやるぞ」とまで思っているかどうかまでは判りません。
 〔返〕  最初から計算づくの男だがこれ程ひどいと思わなかった   鳥羽省三


○  光浴びて歯を磨きいるこのひとと別れの日はくる遠く見ている  (目黒区) 江川森歩

 今回のお題「音」であり、決して「別れ」ではありません。
 だが、今回の入選歌の殆んどは、「別れ」をテーマにした作品のように思われる。
 ことほど然様に、選者・東直子さんは、私たち“NHK短歌”の読者や投稿者との「別れ」を惜しんで居られるのでありましょう。
 で、本作の作者は、「光」を「浴びて歯を磨きいる」「人」との「別れ」の予感を、「遠く」を「見ている」相手の視線や表情から感じ取り、悩んでいるのでありましょう。
 ところで、前述を翻すようではあるが、本作で「遠く見ている」のは、必ずしも、作中の「このひと」とは限らず、その点が亦、本作の魅力の一つでもある。
 本作の魅力を成しているもう一つの要素を上げれば、「光浴びて歯を磨きいるこのひと」という描写が注目される。
 余りにも生々しいこの描写からは、性的なものさえ感じられるのである。
 〔返〕  歯磨きをしつつ遠くを見て居しにあれから十日妻は帰らず   鳥羽省三


○  ぼろぼろに失恋した日うろこ雲みたいなタオルにくるまりたいな  (八王子市) 五味直子

 本作の鑑賞の要諦は、「ぼろぼろに失恋した日」に話者が「くるまりたいな」と願っている「うろこ雲みたいなタオル」を、私たち読者が如何にイメージするか、という点にありましょうが、正直にも申し上げますと、現在のところ評者には、そのイメージが明確なもの、現実感のあるものとして浮かんで来ません。
 つまり、評者には、“魚の鱗”を名に負った「うろこ雲」から、「ぼろぼろに失恋した日」の女性の心身を優しく柔らかく温かくふわふわと包む「タオル」といったイメージが湧かないのである。
 〔返〕  ちかちかと肌を刺すごと恨めしき鱗雲かも彼への思ひ   鳥羽省三


○  (りっとう)の動詞好めり削ぐがす引きずるものらと別れるための  (東村山市) さいとうすみこ

 評者には、本作の歌意も創作意図も皆目見当が着きませんので、鑑賞及び論評を控えさせていただきます。
 〔返〕  「りっとう」は刀を置いた旁にて刑・削・刎・刺・刻などがそれ   鳥羽省三 


○  リハビリの友を見舞えば別れ際太さの違う両手差し出す  (鳩ケ谷市) 豊田トヨ子

 「別れ際」に差し出された「太さの違う両手」は、「リハビリの友」の心身の痛みの程を具体的に表わしているのでありましょうか?
 〔返〕  その太さ異なる両手差し出して我に示せるリハビリの友   鳥羽省三

『NHK短歌』観賞(東直子選・3月23日分・其のⅠ・決定版)

2011年03月25日 | 今週のNHK短歌から
[特選一席]

○  搾乳の役目終えたる老牛のいやがる乗車をわれは叩けず  (福島県西郷村) 黒澤正行

 「乗車」してしまったら最後、乗せられて、運ばれて行った先が即ち場なのである。
 「場」という言葉はあまりにも残酷過ぎる言葉だからなのか、パソコンに「とさつば」と入力して変換しようとしても「場」変換されない。
 「場」とは、それくらい残酷極まりない殺戮の場なのである。
 したがって、運ばれて行く運命の「牛」も「いやがる」し、その「牛」から散々「搾乳」して稼いだ挙句、その牛の命の燃え殻たる廃牛をも売って、なにがしかのお金にしようとする、言わば強欲とも言える飼い主さえ、「乗車」を「いやがる」「牛」の尻を叩いて運搬車の荷台に追い遣ることは出来ないことなのである。
 〔返〕  「尻叩き追い遣ることが出来ぬなら売るな」と言うはこれまた無情   鳥羽省三


[同二席]

○  引力を解かれて歩む冬暗し君は君として僕は僕として  (仙台市) 横田竜巳

 作中の「僕」は捨てられたのでありましょうか?
 それとも捨てたのでありましょうか?
 そのいずれにしても「君」とは別れてしまったのであるが、「別れてしまった」と言ったのでは余りにも文学的で無いから、本作の作者は「引力を解かれ」と洒落めかして言っているのである。
 ところで、作中の「僕」は「引力を解かれて歩む冬暗し」と言っているのでありますから、「僕」と「君」との別れはどちらかと言うと、“捨てた”と言うよりも“捨てられた”とという形の別れであると思われる。
 したがって、出来得るならば、潔く「僕は君に捨てられた」と言うべきでありましょう。
 だが、「僕」と言うからには、彼は一応は男性であり、男性という存在は見栄の塊でありますから、虚勢を張って「君は君として僕は僕として」などと誤魔化して言っているのであり、この世間では、こうした誤魔化し的な表現を指して“文学的修辞”などと言うのである。
 それはそれとして、「僕」を捨てた「君」は「君として、大威張りで堂々と生きられるに違いありません。
 だが、「僕」は「君」に捨てられた訳ですから、「君」に捨てられた「僕」は「僕として」、大威張りで堂々と生きられる訳はありません。
 したがって、そうした点にも「僕」即ち作者の“心理的な誤魔化し”即ち“文学的修辞”が認められるのである。
 〔返〕  引力を無理矢理解かれ捨てられて僕は僕として生きられる訳無し   鳥羽省三
      修辞とは誤魔化しであり見栄である故に歌人は見栄の塊   鳥羽省三
      我もまた見栄で歌評を書いているかとも思うが何で見栄張る   々
 

[同三席]

○  「もうここでいいよ」「そうか」と別れたる齢重ねし姉へ手を振る  (東海市) 後藤洋一

 本作の作者・後藤洋一さんは、「齢重ねし姉」の含みのある言葉の含みの部分を読み取れなかったのでありましょう。
 即ち、「もうここでいいよ」とは、「もう少し送ってくれ」という意味であり、もう少し送ると、更に「もうここでいいよ」と言うのでありましょうが、それにも亦、幾分かの含みが含まれているのである。
 〔返〕  「もうここでいいよね」と言い別れ来し姉に手を振るせいせいしたと   鳥羽省三

今週の朝日歌壇から(3月21日掲載・其のⅣ)

2011年03月24日 | 今週の朝日歌壇から
[永田和宏選]

○  おなかからケンカの声も聞こえてる? あなたの二人の姉さんたちの  (和泉市) 星田美紀

 「星田さん、三人目の赤ちゃんがお腹に。『ほら聞こえる? あのケンカはあなたの姉さんたちなのよ』と。」とのご選評。
 お亡くなりになられる歌人も居れば、生まれてくる赤ちゃんも居る。
 永田和宏氏もまだまだご奮闘なさらなければなりません。
 頑張って下さい。
 二つの会話によって構成されている本作。
 母子二人の問答とも言えませんし、自問自答とも少し違うかな?
 こうした形式の対話は、何と言うのでしょうか?
 いずれにしろ、なかなかの味わいか、と思われます。
 〔返〕  二階から口ケンカの声聞こえ来る二所帯住宅何かと不便   鳥羽省三


○  「就職が決まりました」と飼つてゐる亀の桜に報告をする  (鹿嶋市) 榎本麻央

 三句目の「飼つてゐる」は、苦肉の策かと拝察致しましたが、もう少し我慢なさりご推敲なさった方が宜しいかも?
 〔返〕  「就職は決まってないぜ」と元カノに復縁迫る二十二の春   鳥羽省三


○  雪の夜の雪に音ありふかぶかとひとりの部屋に毛糸編みをり  (東京都) 長谷川瞳

 副詞「ふかぶかと」の位置が大変宜しい。
 「雪の夜の雪」に「ふかぶかと」とした情趣を感じながら、「ひとりの部屋」の暖炉の前に「ふかぶかと」腰掛け、「ふかぶかと」した思いで、「ふかぶかと」した手触りの「毛糸」を編んでいるのである。 
 ところで、「雪の夜の雪」には、本当に「音」があるんですよ。
 決して誇張ではありませんよ。
 新しく降った「雪」に圧されて前に降った「雪」が悲鳴を上げる「音」。
 そして、冷たい風に飛ばされて、降る「雪」がすすり泣きする「音」。
 〔返〕  降る雪も積もれる雪もすすり泣く雪は重たくそして冷たい   鳥羽省三


○  十年後もあと十歳若ければと思うだろうスカイツリー伸びる  (横浜市) 森 秀人

 評者の経験からすると、三十の声を聞くと同時に「あと十歳若ければ」と思うようになるものである。
 それぞれの年代に応じて、「あと十歳若ければ」、オリンピックを目指して練習したのに、あの資格を取ってあの仕事をしたのに、あの女にアタックしたのに、こんな男とは別れてスナックのママになったのに、こんな思いをしてまで介護施設に来なくても良かったのに、などなど、色々様々でありましょう。
 大震災に見舞われてしまった今となってみれば、「スカイツリー」なんて無くても良かったのに、という思いもしないでもありません。
 〔返〕  放射能汚染の被害が増すごとにスカイツリーの背丈伸び行く   鳥羽省三


○  応仁の壺見て下る山道の風は春寒海も春寒  (坂戸市) 山崎波浪

 作中の「応仁の壺」とは、何処の美術館の収蔵品でありましょうか?
 一首の趣きから推測して、熱海の“MOA美術館”の収蔵品のようにも思われますが?
 〔返〕  「永仁の」ならざる壺は「応仁の」戦火くぐりし名品なるか?   鳥羽省三


○  溺れるを引き上げるごと両脇に腕差し込まれ母は起こさる  (久喜市) 児玉正広

 熟睡中の高齢の「母」が、息子によって「両脇に腕差し込まれ」起されるのを「溺れるを引き上げること」とした直喩がなかなか宜しい。
 〔返〕  両脇に腕を差し込み抱き上げて母は二歳にベーゼし居たり   鳥羽省三


○  あと少し自分自身でありたくて駅のスタンドコーヒーを抱く  (横浜市) 桑原由吏子

 「駅のスタンドコーヒー」ならずとも、「コーヒー」には、ある時は気持ちを昂らせ、ある時は気持ちの昂りを鎮める効果が認められるのである。
 〔返〕  スタバにてカフェラテ喫んだ勢いが千駄ヶ谷まで止まらなかった   鳥羽省三


○  二十四はオバサンと言ふ教官の横に座りてアクセルを踏む  (京都市) 敷田八千代

 自動車学校の「教官」側からすれば、二十歳を過ぎた美女を「オバサン」と呼んだりして、彼女の手を取り、足を取ったりして教えるのが、“教官冥利に尽きる快感だ”ということである。
 その一方、教わる側の女性からすれば、未だ若く程ほどに美しい自分を掴まえて「オバサン」呼ばわりをする「教官」には、幾分かの反感を感じつつも、つい気を許してしまうような側面も在り、その結果として、彼女が目出度く免許を取得する頃には、かなりの深みに嵌まってしまうことがあるのだ、ということである。
 評者の知人の自動車学校の教官から直接聞いた話である。
 〔返〕  教わるも教える側も危なくて深みに嵌まる運転教習   鳥羽省三
      ブレーキの掛かること無く坂下る路上運転実地訓練     々


○  降る雪に海鳴りはるか能登の通夜冬の蛍は闇にただよふ  (小松市) 沢野唯志

 作中の「冬の蛍」とは、この世とあの世との狭間を未だ彷徨っている亡き人の魂でありましょうか?
 それとも、ホタル烏賊の輝きでありましょうか?
 遥か彼方の「冬」の海から聞こえて来る「海鳴り」の音。
 そして、得体の知れない怪しい輝き。
 「能登」の「冬」の「通夜」は、あまりにも淋しく冷たく怪しい。

 〔返〕 こんな夜は箪笥の環も泣き出して妻に死なれた侘しさ募る   鳥羽省三
     冬の夜は箪笥の環の風に泣き妻を亡くせし男も淋し        々
 半村良著『能登怪異譚』(集英社文庫・340円)所収の短編怪異小説『箪笥』をお読み下さい。


○  嵌めころし開くことのなき天窓に子の刻月が覗いておりぬ  (名古屋市) 藤島朋代

 完了の助動詞「ぬ」に凭れ掛かった句の運びと言い、その他の用語と言い、リズムと言い、明らかに“文語短歌”を志向してお詠みになられた作品と思われる。
 ならば、「覗いておりぬ」は「覗いてをりぬ」とするべきである。
 〔返〕  嵌め殺し開くことの無い天窓の片割れ月に覗かれている   鳥羽省三
      片割れの月は全てを知っている男の囁き女の喘ぎ        々

今週の朝日歌壇から(3月21日掲載・其のⅢ・決定版)

2011年03月24日 | 今週の朝日歌壇から
[高野公彦選]

○  探梅の径のほとりにゆくりなく山宣の墓所ありて手合わす  (宇治市) 山本明子

 「思わぬ所で山本宣治の墓に出会い、手を合わす。治安維持法の改悪に反対して闘った人への敬意が歌の底にある」と、高野公彦氏は選評に言う。
 作中の「山宣」とは、選評にもある如く、政友会政府の治安維持法の改悪に反対して激しく闘った挙句に右翼の凶刃に倒れた社会主義政治家であり、解放運動や産児制限運動を行った社会運動家でもあった彼は、動物学者として同志社大学や京都帝国大学の教壇にも立ったのである。
 彼は普通選挙法に基づいて1928年に行われた第1回衆議院議員選挙(第16回衆議院議員総選挙)に労農党公認(非合法の共産党推薦)候補として京都2区から立候補し、官憲や対立候補側からのありとあらゆる悪辣な選挙妨害を受けながらも、2041票を獲得して当選した。
 政友会政権下の社会主義者・衆議院議員としての彼は、1929年3月5日、帝國議会に於いて“治安維持法”改正への反対討論を展開する予定であったが、彼が演説を行う前に与党政友会の動議によって改正案は可決された。
 彼が東京神田の宿舎・光栄館で右翼団体「七生義団」の構成員・黒田保久二に刺殺されたのは、その日の夜のことであった。
 彼の墓所は、本作の作者・山本明子さんの居住地・京都府宇治市内の“善法墓地”に在り、彼の命日に当たる3月5日には、毎年、日本共産党支持者に限らず、平和と平等を愛する多くの市民が参列してしめやかな墓前祭が行われている。
 宇治市の善法墓地に支持者たちや縁者たちの志に拠って建てられた山本宣治の墓は、建立当初、官憲からの許可を得られないままに放置されていたのであるが、結局は裏面の碑文をセメントで塗り潰し、表面には宣治及び両親の名を刻さず、「山本家之墓」と訂正することで官憲からやっとその存在が認可されたという経緯が在り、その後も何回か、セメントが剥がされては塗り潰されたりするような経過を辿ったが、1945年12月の戦後最初の追悼墓前祭で、かつての同志が鑿を手にして墓石裏面のセメントを剥がすことに拠って復元された。
 彼の生家であった宇治の「花やしき」には「山宣資料室」が在り、それらとは別に、彼に関わる施設としては、長野県別所温泉に「山本宣治記念碑」が在る。
 ところで、作中の「ゆくりなく」という副詞の意味に忠実に副って本作を解釈すれば、或いは高野公彦氏の選評の通りになるかとは思われる。
 だが、当日の“探梅行”の途中に「山宣の墓所」があることを、本作の作者・山本明子さんが事前に知らなかったかどうかは、何とも言えない微妙な問題である。
 「探梅」とは、通常、数日を費やして新幹線などの大掛かりな交通機関を用いて行われるものでは無く、徒歩ないしは自転車を利用し、或いは、せいぜい自家用車かバスに乗るか利用して、居住地からそれほど離れていない梅の名所に出掛けるものであるから、作中の「山宣の墓所」とは、長野県別所温泉の「山本宣治記念碑」では無く、本作の作者・山本明子さんのお住いが在る、京都府宇治市内の「善法墓地」のそれを指していることは確実である。
 したがって、宇治市に居住なさっている山本明子さんは、探梅行の途中に「山宣の墓所」が在ることを知っていたとするのがごく自然なことであり、それはそれとして、当日の探梅行の日程の中に「山宣の墓所」への参拝予定が含まれていなかったので、作中では「ゆくりなく山宣の墓所ありて」と詠い、「手を合わす」と詠ったのかと思われる。
 「治安維持法の改悪に反対して闘った人への敬意が歌の底にある」と言う、高野公彦氏の選評について申せば、それはそうだとしても、「山宣」と同郷者たる作者・山本明子さんが、治安維持法の改悪反対の為に闘って凶刃に倒れた社会主義者としての「山宣」に対する格別高い尊敬の念を持って居なくても、故郷・宇治出身の著名人・文化人、或いは平和と平等を愛する人としての彼の「墓所」の前を通り掛かったら、墓前に立って「手を合わす」といった程度のことは、ごく自然な日常的な心構えとして行ったのかも知れません。
 したがって、限られた選評スペースの中で、徒に「治安維持法の改悪に反対して闘った」という点だけを強調すると、「探梅」の途中で「山宣の墓所」に「手を合わす」という、一連の自然の流れを詠んだ作者の創作意図と本作の趣きの深さを曖昧にする恐れがあるのである。
 本作を鑑賞するに際して見逃せないのは、作品後半の「山宣の墓所ありて手合わす」のみならず、前半の「探梅の径のほとりにゆくりなく山宣の墓所あり」でもある。
 つまりは、歌詠み人の日常の営みとして行われる探梅行。
 その目的地たる梅の名所の地は、“道”ならぬ「径」を辿って行った処に在り、その「径のほとりにゆくりなく」も「山宣の墓所があり」、本作の作者・山本明子さんは、「ゆくりなく」も、その「山宣の墓所」に「手」を「合わす」という行いを、自然の流れとして行った、というのが、本作の内容である。
 ごく限られたスペースの中で必要かつ最低限のことを言わなければならないという責任を負った、新聞歌壇の選評の難しさは其処の辺りに在るのである。
 知っていることを全て書けばいい、ということではありません。
 〔返〕  大衆を背に負ひつつも武器持たず山宣独り孤塁を守る   鳥羽省三
      在るものは労農の支持と信念と山宣独り孤塁を守る      々


○  前よりも垢にて顔が褐色になりしホームレス一飯を乞う  (三原市) 岡田独甫

 「前よりも垢にて顔が褐色になりし」という語句に拠って、作中の「ホームレス」が本作の作者・岡田独甫和上に「一飯を乞う」のが初めてでは無かったことが分かるのである。
 仏教に「施餓鬼」という言葉が在り、「餓鬼の世界におちて飢餓に苦しむ亡者に食物を供えて弔う法会」を意味するのである。
 「前よりも垢にて顔が褐色になりしホームレス」に「一飯」を供与する事も亦、一種の「施餓鬼」であり、僧侶として必要な心掛けでありましょうか?
 〔返〕  門前に一飯を乞う乞食の餓鬼の如くにがつがつと喰ふ   鳥羽省三
                    [注]  乞食=こつじき


○  ガチ緊張していたんだね発表に番号見つけ泣き出した君  (東京都) 金子しげみ

 新し物好きの選者・高野公彦氏は、「ガチ緊張していたんだね」の「ガチ」にご注目なさったのでありましょうか?
 〔返〕  ガチガチに身の固まりて赤門の合格発表掲示の刻待つ   鳥羽省三


○  思い切り泣いてもいいよ採用の通知の来ない砂漠のラクダ  (彦根市) 日比野美鈴

 「採用」の「通知の来ない」若者は「砂漠のラクダ」であり、彼らは背中に負わなければならない哀れな“瘤”に苦しみ、かつその瘤で以って餓えや渇きを凌ぎながら「採用」の「通知」の来る日をひたすら待つのである。
 〔返〕  泣いている暇をも惜しみアルバイト時給はわずか八百円のみ   鳥羽省三


○  驚きて飛び立つ鴨の羽ばたきの雫引きゆく早春の空  (島田市) 小田部雄次

 「羽ばたきの」の「の」は、主格の格助詞である。
 即ち、作者は「早春の空」に「鴨」が「雫」を「引きゆく」と述べているのでは無く、「早春の空」に向って「羽ばたき」をする「鴨」の、「羽ばたき」そのものが「雫」を「引きゆく」と述べているのである。
 〔返〕  早春の空へと鴨が憧れて飛沫上げつつ羽ばたきをする   鳥羽省三


○  どんな時も話を聴いていてくれる湯呑み茶碗の底にいる夫(ひと)  (福島市) 美原凍子

 再三に亘って感じたことであるが、夕張市から福島市へご転居なさった後の、美原凍子さんの御作の表現には、それ以前と較べて、やや雑な点が認められる。
 本作に即して申せば、「湯呑み茶碗の底にいる夫」と言う言い方で以って、私たち読者に、亡きご夫君を連想させ、そのご夫君に対する作者の慕情を思わせるのはかなり無理な注文かと思われるのである。
 〔返〕  朝食の湯呑みの底に浮かびたる亡夫の貌の我に呟く   鳥羽省三


○  やると決め寒き夕べも素振りするこの子はわれに似ておらぬなり  (佐倉市) 船岡みさ

 たかが野球である。
 「やると決め寒き夕べも素振りする」我が「子」を「われに似ておらぬなり」と決め付けること無かれ。
 尤も、作者・船岡みささんが、ご自身の青春時代を振り返ってみて、その頃のご自分の“意志薄弱振り”を反省なさってのことであれば、それはそれとして宜しいことでございましょう。
 いずれにしても、たかが野球レベルのことであり、これで以って、わが子の意志の強靭さが確認された、などとお思いになって居られたとしたら、そのうちとんでもないことになるかも知れませんよ。
 〔返〕  行くと決め床屋に未だ行かず居る我が子は我と似て無精者   鳥羽省三


○  ひさびさに湯屋の湯船の湯気のなか風呂の修理は遅れてもよし  (東京都) 海老根清

 「ひさびさに湯屋の湯船の湯気のなか」でご気分ご爽快な状態になったからといって、「風呂の修理は遅れてもよし」などと仰るのは、ご冗談にしても少し過ぎると思います。
 町場の「湯屋」の入湯料は今や大人500円になろうとしています。
 夫婦二人に子供連れで行けば、それだけで1,250円。
 風呂上りにコーヒー牛乳を飲めば300円。
 これでは、物価高、給料安の今日、家計が持ちませんよ。
 早々に、お風呂のご修理をなさった方が賢明かも?
 〔返〕  自家風呂と言えどガス代200円湯銭とさほど変わりませんよ   鳥羽省三


○  出荷する葱揃えつつ膝を付く春の畑の土柔らかし  (三重県) 喜多 功

 「出荷する葱」を「揃え」ていたところ、作業の慌しさに疲れ、不覚にも「膝を付く」ことになり、その結果として「春の畑の土柔らかし」とお気付きなられたのでありましょうか?
 それとも、「春の畑の土」が柔らかい為に踏ん張りどころが無くて「出荷する葱」を「揃えつつ」「膝」をついてしまったのでしょうか?
 そのいずれにしても、「畑の土」に「膝」を付き、「土」の柔らかさを感じつつ、「畑」に訪れた「春」の柔らかな趣きをしみじみと感じているのでありましょう。
 〔返〕  東北や関東のネギ壊滅しいよいよ出番だ三重県の葱   鳥羽省三


○  ふろあがりせなかからゆげ出ているよママの正体かいじゅうですか  (笠間市) 篠原 周

 福井市の仲良し姉妹に代わって、今週のお子様指定席は笠間市の篠原周くんである。
 なかなかの作品かと思われますが、いかにも高野公彦氏らしいご選歌かとも思われます。
 周くんは「ママの正体かいじゅうですか」と仰いますが、「ママ」という動物は“千変万化”の女狐であり、時に応じて、「かいじゅう」にも聖母にも娼婦にもなるのですよ。
 〔返〕  風呂上り冷えた牛乳欲しいとこ地震騒ぎで買えはしません  鳥羽省三 

今週の朝日歌壇から(3月21日掲載・其のⅡ)

2011年03月23日 | 今週の朝日歌壇から
[佐佐木幸綱選]

○  兄の手の苗札添へて撒く順に積まれ形見の種袋かな  (相模原市) 角田 出

 「園芸だろうか。花の色や品種などが書き込まれていたのだ。しみじみと思い出される兄の几帳面さ」との選評があるが、その中の前半部分は、無駄弾と申すも愚か、“書かずもがな”の恥曝しである。
 それぞれ入選作として十首を選ぶ各選者に与えられている“選評スペース”は僅かに7行であり、1行が21字(但し、先頭の2行は18字詰め)であるから、そのスペースの全てを活字で埋めたとしても、記し得る字数は140字である。
 その中の三分の一余りのスペースを潰して、選者の佐佐木幸綱氏が、父祖以来の短歌の家の恥辱を日本中の短歌ファンの前に曝してしまったのであるが、その必要は何処に在ったのでしょうか?
 先ず、作中に「種袋」とあるのに、殊更に「園芸だろうか」などと“無駄口を叩くく”必要は一切ありません。
 次に、年恰好の者が「種袋」と言えば、それは即ち、大豆や小豆更には胡麻・麦などの穀類の「種」を入れた「袋」、或いは白菜や大根やネギ・カボチャなどの野菜類の「種」を入れた「袋」のことだ、と想像がつくと思われるのに、「花の色や品種などが書き込まれていたのだ」などと、これ亦、“無駄口以上の無駄口”を叩いて、ご自身の不勉強振りを万天下の読者の前に曝しているのである。
 本作の作者・角田出さんの居住地は相模原市であるが、相模原市の「角田」姓と聞けば、私が直ぐに思い出すのは、現在の相模原市緑区の鳥屋地区や青根・青野原地区である。
 それらの地区は、かつては津久井町と呼ばれた農山村地帯、田園地帯の一廓を占め、丹沢山塊に囲まれた海抜の高い山村であり、この地区や隣接する“神奈川県愛甲郡愛川町字角田”辺りには「角田」姓の民家が多く、それらの家々の人々は、現在はともかく、かつては山仕事や農作業に従事して家計を賄っていたのである。
 思うに、作中で「兄」と呼ばれている故人もまた、鳥屋集落辺りで、お勤めの傍ら、或いは専業として、農作業にご従事なさり、毎年、秋になると、翌年の春に蒔く穀物の種や野菜の種をハトロン紙か布で作った「種袋」の中にご準備なさり、その表面に、“品種”や“蒔き時”などを律儀に墨書なさって居られたのでありましょう。
 そうした多くの「種袋」の中に花の種を入れた袋が在り、その表面に「花の色や品種などが書き込まれていた」としても、それはあくまでも例外であり、その「種袋」の大半は、野菜や穀物の「種袋」に違いない。
 したがって、選者の佐佐木幸綱氏は、せっかくの傑作に余計な選評を加え、作品の価値を低めたばかりか、父祖の名を辱めたのでありましょう。
 本作の選評に限らず、佐佐木幸綱氏の選評は、ただ単にそのスペースを埋める為の選評、即ち無駄な選評となっている場合が多いのである。
 “朝日歌壇”の選者・四氏の中で、馬場あき子氏と他の三氏との間には、余りにも大きな学識や経験の差がある。
 彼ら三名の選者は、いずれも現代歌壇の重鎮であり、その作品も大変優れていると思われるが、結社誌や新聞歌壇の選者としての役割りを十分に果たす為には、まだまだ勉強をしなければならないのである。
 〔返〕 例外としての花の種袋を残して兄は逝きにけるかも      鳥羽省三
     「蒔き時は花見時分」と墨書在り能筆な兄みまかりにける     々

  
○  獄塀は夜の帳に柔らかく有刺鉄線も包まれてゆく  (アメリカ) 郷 隼人

 「有刺鉄線」には「レーザーワイアー」と、「帳」には「とばり」との振りがなが施されているが、前者は必要かつ有効な措置と思われ、後者は不必要かつ作品の価値を貶める措置と思われる。
 剥き出しの「「有刺鉄線」、即ち現地語での「レーザーワイアー」が、高々とした「獄塀」と共に「夜の帳に」「柔らかく」「包まれてゆく」という叙述はなかなかのものである。
 本作は、郷隼人さん独自の“牢獄短歌”としても久々の傑作であるが、彼のご境遇を離れた“叙景詩”としても極めて優れた作品と言えましょう。
 
 〔返〕  夕闇は獄舎の窓を包み込み囚徒の吾を眠りに誘ふ   鳥羽省三
 結句を思いつかず、「眠りに誘ふ」などという常套句で逃げるなど、実体験に基づいてお詠みになられた郷隼人さん作と比較してみると、根拠としての実体験を持たないだけに、返歌の軽薄さが恥ずかしいのである。
 「罪無くして流刑の地に在り」という心境に浸るのは非常に難しい。

 〔返〕  夕霧は獄窓深く忍び寄り囚人われの枕を濡らす    鳥羽省三
 光源氏の子・夕霧が、父の正妻格の女性たる“女三宮”の寝室に密かに忍び入って不倫を犯し、その結果として夕霧の子を孕んでしまった女三宮が、自らを囚人として恥じ悩み、人知れず涙で枕を濡らす場面なども想定しての返歌である。


○  バス停にスコップ置かれ待つ間雪をひとかきする人のあり  (奥州市) 大松澤武哉

 雪国の「バス停」はプレハブ小屋状を成していることが多く、その中には「スコップ」などの雪掻きの道具が常備されていたりする。
 都会地のそれとは異なって、田舎のバスは一日に数本という程度しか運行されないから、「バス停」で次のバスを「待つ」人の中には、バスの停車の妨げにならないようにと親切に、或いは単なる“暇潰し”にと、「バス停」付近の雪を「ひとかき」“ふた掻き”して体を動かすことが多いのである。
 〔返〕  待つ間にと煙草一服する人も二、三人居てバス停煙し   鳥羽省三
 
 
○  見舞いおえバス通りから振り向けば窓にはりつくガウンが見えた  (茅ヶ崎市) 和田光子  

 それと言わずに、たまに訪れる見舞い客に去られて寂しがっている入院患者のお気持ちをも表現しているのである。
 昨今では死後同然とも言える「ガウン」という語が、病床に在る者のご年齢やご境遇を示しているようで大変宜しい。
 「窓にはりつくガウンが見えた」の「はりつく」もなかなかの形容であるし、「バス通りから振り向けば」もまた同じである。
 その昔、湘南の茅ヶ崎に「南湖院」というサナトリウムが在り、大手拓次・落合直文
国木田独歩・佐藤惣之助・杉浦重剛・坪田譲治・田端修一郎・八木重吉・吉井勇・中里介山などの著名な文士が入院していたと伝えられているが、現在は、どうなっているのでありましょうか?
 〔返〕  病床に臥して尚かつ荒淫を望みし性の哀しさ 独歩   鳥羽省三


○  のんのんと雪降る町に明かりともす町内一軒のちさき居酒屋  (秋田市) 渡部栄子

 夫・修一郎が愛人の戸田敦子を西伊豆の雲見温泉で首を締めて殺し、そのまま熱海の錦ヶ浦に奔って投身自殺を遂げた翌年の夏、那賀幸恵は小学校への通学路に面した自宅の縁側と小庭を改造して、町内でたった一軒だけの居酒屋を開いた。
 開店に備えて一人暮らしの幸恵の家の前にリホーム業者の車が停まり、即日、縁側を酒場に改造する工事が始まった。
 居酒屋とは言うが、その規模は酔客が十人も坐れば満席となるスタンドだけのそれであったから、工事そのものは十日余りで終わった。
 だが、工事半ばに達すると、近隣の主婦たちが幸恵の家の縁側が居酒屋になることを知って騒ぎ出し、やがては小学校学校の教師たちまで連名の「居酒屋開店反対」のビラが近隣の民家一帯に配られ、ポスターが貼られるような町内挙げての大騒ぎとなった。
 工事が終了し、リホーム施工業者や酒販店などの納入業者からの花輪が玄関先に並び、いよいよ今夕から開店の運びとなった日の早朝には、母親たちと一緒に通学途上の小学生たちまでも新装なった店の前に並び、「欲の皮の突っ張った女はこの町から出て行け。飲み屋の開店に反対。大反対。ここは通学路だぞ。経営者は反省して、町内から出て行け。」などと、まるで数日前から、この日に備えて稽古していたかのように、声を揃えての大合唱が始まったのである。
 その声を一切無視して、幸恵は予定通り、その日の午後四時から店を開けたが、案の定、訪れる客と言えば、リホーム業者とその従業員、そして酒販店と肉屋と魚屋と八百屋の経営者だけ。
 その夜は彼らに励まされ、幸恵は持ち前の美顔に精一杯の愛想を浮かべてサービスに努め、酔客たちが帰った午後二時過ぎには、自分自身もすっかり酔い潰れてしまい、カウンターに顔をうつ伏せにして、翌朝の十時過ぎまで居眠りを決め込んでいた。
 二日酔いを我慢して、幸恵はその日も四時かっきりに店を開けた。
 だが、その夜は、昨夜の忘れ物を取りにと、リホーム業者の従業員が訪れただけで、飲み客はただの一人として訪れなかった。
 その翌日も、そのまた翌日もそうであり、そうした状態は十日余りも続いたのであったが、そろそろ秋風が暖簾を揺らすようになったある日の夕方、以前から醜女の細君との夫婦仲が宜しくない、との評判が立っていた町内の一中年男性が、その遊び仲間と称する二人の青年を連れて、半ば酔い潰れた状態で立ち寄ったのである。
 彼の細君とは異なり、顔良し、スタイル好しの幸恵が、猫なで声でサービスに努めたからなのか、彼らはそれから三日間も続けて訪れ、それが切っ掛けとなったのか、開店から一ヶ月も経たないうちに、幸恵の営む居酒屋は、彼女もその住人の一人である町内ばかりでは無く、近隣の町も含めた、細君や家族たちにわだかまりを持っているような中年男性たちのたまり場のような存在となってしまったのである。
 洋酒メーカーの名入りの看板の灯りは深夜まで瞬き、近隣の主婦たちを慄かせ、反感を買った。
 だが、開店後一ヶ月を過ぎた頃になると、近所の主婦たちの誰一人として、幸恵の店の悪口を言わなくなり、さりとて、彼女を同じ町内の女として受け入れるでもなく、ごくたまに家庭ごみ集積所などで出会うと、顔を背けてすごすごと立ち去るような状態となったのである。
 その頃になると、開店前には近隣の主婦たちと連名の「開店反対」のビラを配り、ポスターを貼ったはずの小学校の教師たちさえも、勤め帰りに二人、三人と連れ立って訪れるようにり、彼ら若い男性教師に乞われるままに、一つ覚えの演歌「天城越え」を歌う幸恵のかすれ声が通学路にまで響くようにもなったのである。
 幸恵が教師の中の一番の美男と肩を寄せてデュエットを決め、酔い潰れ、満足して教師が立ち去った後、「わたしは一人勝ちしたみたい」と幸恵はふと呟いたのであった。
 幸恵の店のシンボルの看板は、開店当初からの「サントリー」の名入りのに加え、もう二つ、「剣菱」と「薩摩白波」のも加わって、その輝きはいよいよ増し、近隣の主婦たちの寝静まった深夜まで通学路を煌々と照らすのであった。
 その町を大震災が襲い、潰れた住宅兼店舗諸共に幸恵が津波に攫われたのは、その一年後のことであった。
 〔返〕  剣菱の看板波間を漂いてやがて藻屑と消えにけるかも   鳥羽省三  


○  野を駆けるゆめ眼裏に馬一頭首をたれて客を乗せたり  (生駒市) 辻岡瑛雄

 本作の作者に限らず、優れた短歌作者の目には、「一頭」の「馬」の「眼裏」に隠れた「ゆめ」、例えば「野を駆けるゆめ」さえも見えるのである。
 見えるはずのない事物や人間の心の奥底までも見える。
 それが、本作の作者・辻岡瑛雄さんを初めとした、優れた短歌作者の特権なのである。
 だが、どんなに優れた歌人とて、自分を見舞うはずの宿命までは見通せません。
 〔返〕  明日寄せる地震に津波それさえも気付かず夢を語っていたね   鳥羽省三


○  島の町ふるさと祭りであのひとのこのひとの抱く海のゆたかさ  (尾道市) 山崎尚美

 瀬戸内海の「島の町」の「ふるさと祭り」で、漁師の男たちが「海」に賭ける男としての自分の夢を語り、その夢の「ゆたかさ」に本作の作者・山崎尚美さんは圧倒されたのでありましょうか?
 〔返〕  そのかみの村上水軍大将の後裔なるぞ嫁に来い尚美   鳥羽省三


○  地元への用地説明終えたるも重き宿題いただく日曜  (京都市) 後藤正樹

 本作の作者・後藤正樹さんは関西電力株式会社の社員であり、京都府内に建設される予定になっている用地買収の責任者として、建設予定地の「地元」の人々に対する「用地」買収の説明会を催したのであるが、折から、地権者たちからは果果しい返事を貰えずに「宿題」をいただいたような気分で「日曜」を過ごしているのでありましょう。
 〔返〕  福島の第一原発爆発と伝えるニュースに足引っ張られ   鳥羽省三


○  金平糖の入選歌読みお菓子屋へふるさとに暮らす叔母に送りぬ  (八王子市) 原 秀雄

 本作の作者・原秀雄さんは、唯一の身内である「叔母」さん思いの男性であるが、糖尿を病む「叔母」さんに「金平糖」を送るのは、いくら「叔母」さん思いから出た行為と言えども、それは余りにも迷惑なことである。
 〔返〕  甥御から送られて来た金平糖通い介護の友らに上げた   鳥羽省三

今週の朝日歌壇から(3月21日掲載・其のⅠ)

2011年03月22日 | 今週の朝日歌壇から
 幾日ぶりの“朝日歌壇”であろうかと思って、ブロクの記事一覧表を開いてみたら、前回は3月7日の掲載分についての記事であったので、休載期間はわずか二週間(二回)でしかなかったのである。
 だが、この日を待ち焦がれていた私の気持ちとしては、数ヶ月振りのような感じの朝日歌壇の常連作者たちとの再会なのである。
 “NHK歌壇”も昨日は放送もされなかったし、放送予定の入選歌も掲載されていなかった。
 いつもは目にすることが少ない“朝日俳壇”に目をやったら、稲畑汀子選の二席に「雁風呂を偲び波音聞く湯浴み」という古風な作品が掲載されていた。
 「雁風呂」とは、“渡って来た雁がくわえていた木片を集めて焚く風呂”ということである。
 昔の風流人たちは、シベリアから遙々と雁たちが咥えて渡って来た木片を拾い集めて、風呂を焚いたのでありましょうか?
 だとすれば、なかなかに風流なことでもあるが、すごぶる悠長なことでもある。
 その風流かつ悠長な「雁風呂」ならずとも、昔の風呂はスイッチ一つで満タンというわけにも行かず、重い釣瓶を操って井戸水を汲み上げ、それを手桶に入れて風呂場まで運び、燃料はと言えば、山から伐り出して来た薪を鉈や鉞を振り上げて庭先で割らなければ燃やすことが出来なかったものであり、入浴中にも風呂場の隙間から寒風が吹いて来るやら、煙突から立ち上るはずの煙が逆流するやらで、わずか十分足らずの入浴の為に大汗を流し、寒さや煙さを堪え、家族総出の大騒動であった。
 しかしながら、ここ数日の地震騒ぎ、原発爆発騒ぎの渦中に居ると、あの頃のことが奇妙に懐かしく思われ、古き良き時代とは、あの頃のことではなかっただろうかとも思われるのである。
 十時前に、米や牛乳などの生活必需品を入手しようと思い、百合ヶ丘のスーパーに出掛けたのであるが、入り口前に買い物客が溢れ、入場制限をしていた。
 やっとのことで入場したら、豆腐売り場の前に行列が出来ていて、並んでいた中の一人の身の丈六尺余りの老人が、行列が進まないのに腹を立てて、「早く進めよ。こら、俺は急いでいるんだから。そんなにもたもたしているやつは、行列から抜けて後から買え。俺は他にも買わなければならない物が沢山あるんだぞ。進め。進め。さっさと買えよ」と大声で喚いていた。
 そこで、私はついうっかり「好きでもたもたしている人は一人として居ませんよ。いつもより値段が高いから、買おうか買うまいかと迷っているのでしょう。もう直ぐ、順番が来ますから、我慢して待ちましょう」などと、らしくもなく、やんわりとたしなめてしまったのであるが、その大男は私を威嚇するような目つきで一睨みするや、「何を言うか。俺は言うぞ。早く買って、早く進め。迷っているババアは買うな。俺は忙しいんだから」と、またまた大声を張り上げるのであった。
 ブログには、“通りすがりの者”と称する輩から暴力的内容のコメントが何通も寄せられるし、買い物に行けば、このような始末である。
 こうした状態がいつまで続くのでありましょうか?
 また、昨日の午前中のことである。
 大阪に単身赴任中の長男が溝の口の自宅に帰省中とのことで、留守家族の妻子三人を連れて我が家を訪れるという電話が入ったので、私は孫たちに何か美味しいものを食べさせようとして、新百合ヶ丘駅界隈に出掛けたのであるが、駅裏の三井住友銀行の脇の喫煙場所に、十人余りの男女が屯して居て、ブカリプカリと煙草をふかしているのであった。
 テレビ中継される避難所などでも、時折り、煙草をふかして懐手をしている者の姿が映ったりして、「この非常時に煙草をふかして懐手をしているとは、何たることか」という気になるのである。
 彼ら、彼女らは、高額の煙草税を支払って、被災地の復興に貢献しようと思って、肺癌に犯される危険に怯えながらも、煙草をふかしているのでありましょうか?
 だとすれば、彼ら、彼女らは、私たち非喫煙者とは異なって、震災からの復興の一大貢献者と申すべきでありましょう。
 したがって、煙草も吸わないけちん坊の私が、彼や彼女の行動に腹を立ててはいけない、ということになりましょうか?
 〔返〕  喫煙者の十四、五人も居りぬべし三井住友銀行の脇   鳥羽省三


[馬場あき子選]

○  烏賊船の去りし港に毛蟹船吃水深くつぎつぎ戻る  (稚内市) 藤林正則

 「吃水深くつぎつぎ戻る」とは、美味しい「毛蟹」を沢山捕獲して「港」に「戻る」光景でありましょう。
 朝日歌壇の常連の藤林正則さん作らしい、観察が細かく、ローカル色豊かな傑作である。
 ところで、稚内港から撤退した「烏賊船」は、何処の港を母港として就労なさって居られるのでありましょうか?
 〔返〕  毛むくじゃらな男の握る万札で顔を張られて蟹のごと脱ぐ   鳥羽省三


○  外人の研修生乗せ春浅き土佐の港を鰹船出る  (四万十市) 島村暢宣

 藤林正則さんは稚内市から、島村暢宣さんは四万十市から、共に朝日歌壇名物のお二人が、北から南から、ローカル色豊かな漁港風景をお詠みになられた作品をご投稿なさり、“馬場あき子選”の一、二席を占めているのである。
 昨今は、縫製工場にも、自動車工場にも、菓子工場にも、高齢者介護の現場にも、野菜生産の現場にも、怪しげな酒場にさえも、「外人の研修生」と称する労働者が居るのである。
 
 〔返〕  パンの耳ひと袋ただの五十円 外人研修生の主食に   鳥羽省三
 昭和三十年代の半ば、東京で苦学中の私は、アルバイトに出掛ける途中、小さなパン屋に立ち寄り、ひと袋五円のパンの耳を買って、朝食兼昼食にしたものであった。
 銀紙に包んだマーガリンとパンの耳、あの味は今でも忘れられない。


○  算用師峠に立てば松前の春の沖ゆく巨船の白き  (弘前市) 今井則三

 選評に「算用師峠という独特の名の峠は竜飛岬にある。名のいわれも知りたいが、白い春の巨船の景と釣り合う力がある」とある。
 馬場あき子氏の識見を以ってすれば、「算用師峠」の名の由来をご存じにならないはずもなかろうかとは存じ上げますが、それを秘しての選評には感服せざるを得ません。
 〔返〕 懐の野帳にしかと書きとどめ算用師らは峠を下る   鳥羽省三    


○  足を病む母はかなしも浴槽に胸打ちしこと隠しゐにけり  (佐世保市) 宮崎たみ枝

 二句目中の「かなしも」の存在が惜しまれる。
 「かなしも」と言わずに客観写生に徹すれば、「足」を病み、「浴槽に胸」を打って苦しんでいる「母」に対する娘としての気持ちが、自ずから表現されると思われます。
 〔返〕  浴槽に胸打ちしこと子に言はず足病む母は日溜りに居り   鳥羽省三  

○  幼らに離れて入試を終え来たる女生徒ひとりぶらんこを漕ぐ  (相模原市) 岩元秀人

 「幼らに離れて」の位置が宜しくなく、誤読に導く怖れ無しとせず。
 〔返〕  入試終へし少女ならむや園児らを離れて独りぶらんこ漕げり   鳥羽省三


○  夜半のバスに子と出会いたり塾帰りと会社帰りの疲れ解け合う  (和泉市) 長尾幹也

 “長尾幹也短歌”の神髄を見せられたような感じの傑作である。
 「塾帰りと会社帰りの疲れ解け合う」という下句が特に宜しい。
 普段は、「親父は威張りくさっている」、「うちの息子はさっぱり勉強しない」などと、お互いに幾分かのわだかまりを感じて居たお二人の気持ちが、「夜半のバス」の中で通い合ったのでありましょう。
 〔返〕  大阪に単身赴任の息子にて妻子連れ立ち我が家を見舞ふ   鳥羽省三   

○  奮発して買いたる紅いブラウスをマネキンの着る半額セール  (千葉市) 吉井清乃

 ブティックの「半額セール」の単なる説明、宣伝に終わっているのではなく、「もう一週間待てば、半額で買えたのに。早まってしまった。失敗した」「紅いのも欲しかったが、青いのも欲しかった。今なら二枚とも買えたのに、買い急いで失敗してしまった」といった、作者の遣る瀬無い気持ちが詠まれているのである。
 〔返〕  清乃さん、残念でした。今ならば、同じお金で二枚も買えた。  鳥羽省三  


○  ギター弾くおよびの先に春の来てトレモロ水のごとくこぼるる  (福島市) 美原凍子

 「トレモロ」が「水のごとくこぼるる」から逆算して、「ギター弾くおよびの先に春の来て」という認識に行き着いたのである。
 ところで、本作の作者・美原凍子さんは、あの財政破綻の夕張市から逃れ、福島市にいらっしゃったのであるが、今回はまた、大震災に加え、原発爆発騒ぎの渦中にお立ちになって居られるのである。
 衷心よりお見舞い申し上げます。
 〔返〕  オカリナのぶ厚い穴にも春が来て囁きながらサラサラ行くよ   鳥羽省三


○  パパは今日マジシャンクラブの発表会ロープはうまくつながったかな  (福井市) 松田わこ

 「マジシャンクラブの発表会」の「パパ」の「ロープ」はともかくとして、“わこ ちゃん”の“五七五七七”は「うまく」つながりましたね。
 おめでとうございます。
 〔返〕  この春は中学ですか梨子ちゃんは仲良し姉妹も短歌はライバル   鳥羽省三


○  日本語を忘れしひいなうす紙をはがせば春の呼吸をはじめる  (アメリカ) 悦子ダンバー 

 祖国・日本からはるばると携えていらっしゃった雛人形を大切にしたい、と、「うす紙」で包んでいたのでありましょう。
 「ひいな」たちは、たとえ「日本語」を忘れていたとしても、「うす紙をはがせば春の呼吸」を始めて、そのうちに自然と「日本語」を思い出すに違いありません。
 〔返〕  うす紙を剥がせるやうに治り行く雛人形の失語症かも   鳥羽省三