臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日歌壇から(11月29日掲載・其のⅠ・決定版)

2010年11月30日 | 題詠blog短歌
[高野公彦選]
○  月曜日ひとの少ないキャンパスを運ばれてゆくパネル「祭」「!」「!」  (鴻巣市) 一戸詩帆

 この作品につきましては、当初、私は、作中の「ひとの少ないキャンパス」というフレーズに引かれたまま、「日曜日ひとの少ないキャンパスを運ばれてゆくパネル『祭』『!』『!』」という、本来の作品とは異なった形で記載させていただき、それについての、私自身の感想なども記載させていただきました。
 作者の一戸詩帆様及び関係者の皆様には、大変ご迷惑をお掛け致しました。
 つきましては、ここに深くお詫び申し上げると共に、この一件に関わる、一戸詩帆様からのコメント及び、それに対する私のお詫びのコメントをそのままの形で転載させていただき、併せて、誤記した形の作品についての私の恥ずかしい鑑賞文、そして、正しい形の作品についての、私の新たな鑑賞文を、ここに改めて掲載させていただきます。 
 読者の方々の中には、私が、こうした恥ずかしい形で、この件を処理することについて、ご理解に苦しまれるお方も居られましょうか?
 しかしながら、このような、ブログ上の記載ミス及びそれに伴う関係者の方々にお掛けするご迷惑は、これからも、私に限らず、いろいろな方々の間に起こり得ることかと存じます。
 だからと言って、私たちブロガーが、「文を書いたから恥をかくのだ。恥をかく事に繋がるブログ書きは止めるに如かず」とばかりに、書く事を止め、萎縮してしまったら、パルプ資源を枯渇させることを危惧されている紙媒体での発言にとって代わるべき、ブログなどのインターネット通信による発言の発展に、大きく水を射すことにもなりましょうし、私自身にとっても、関係者の皆様にとっても、敢えて大胆に申し上げるならば、これからの時代にとっても、決して得策では無い、と私は思います。
 そこで、今回、私は敢えて恥を忍んで、かかる記事をこの欄に掲載させていただき、皆様にお目に掛ける事に致しました。
 つきましては、何卒、私の意のあるところをご理解下さい。

 
 本作を、「日曜日ひとの少ないキャンパスを運ばれてゆくパネル『祭』『!』『!』」という、正しく無い形で読ませていただいた結果、私が記した、当作品に対する大変恥ずかしい鑑賞文。

 「日曜日」で「ひとの少ないキャンパス」内を、学生たちが<学園祭>の準備の為にやって来ていて、「祭」と書いた「パネル」を運んでいるのでありましょうが、末尾の二つの「!」「!」には、どんな意味があるのでしょうか? 
 また、選者の高野公彦氏は、この作品の何処に良さを認めて、入選作の首席に据えたのでありましょうか?
  〔返〕 比較的人込み多い土曜日はパネル運びをしなかったのか?   鳥羽省三


 上記の、大変恥ずかしい鑑賞文に関してお寄せになられた、一戸詩帆様からのコメント。

 Unknown (一戸詩帆) 2010-12-01 03:39:55
 はじめまして。コメント失礼いたします。
 この記事の一首目を作った者ですが、この歌の初句は「日曜日」ではなく「月曜日」です。
 小さなことではありますが、「日曜日」だと意図したところがほぼ通らなくなってしまうと思うので、おそれながら指摘させていただきます。


 上に引用させていただいた、一戸詩帆様からのコメントに対する、私・鳥羽省三からのお詫びのコメント。

 臆病なビーズ刺繍 (鳥羽省三) 2010-12-01 05:03:17
 一戸詩帆 様
 わざわざコメントをお寄せいただまきして大変ありがとうございました。
 お申し越しの内容、「日曜日」と「月曜日」の違いは、決して小さいものではありません。
 私は、ついうっかり、「ひとの少ないキャンパス」というフレーズに引かれたままに「日曜日」として記載し、そのまま、率直な感想を述べさせていただきました。 
 大変失礼致しました。
 そこで、先の記事はそのままにしておいて、その直前に、一戸詩帆さまの正しい作品を掲載させていただき、それに付いての私自身の感想やお詫びなどを掲載させていただきます。
 本来ならば、先の記事を抹消した上で、また新たに正しい作品についての感想などを述べさせていただくべきなのかも知れませんが、やがて、紙媒体にとって代わるべき、インターネット通信に、まま起こるに違いない、こうした事故及び、関係者の皆様に与えるご迷惑など、いろいろさまざま考慮させていただいた上、敢えて恥を忍んで、そうした措置を取らせていただきました。
 一戸詩帆様の作品については、朝日歌壇やNHK短歌大会などにご出詠なさった作品など、さまざまに鑑賞させていただき、大変勉強させていただいて居ります。
 その一戸詩帆様に、私の拙いブログをお目に掛けていることを知り、しかも今回は、私の不注意及び怠慢から大変ご迷惑をお掛けしたことをも知り、大変恥ずかしい思いに捉われて居ります。
 大変失礼致しました。
 また、真にありがとうございました。
 曲げてご容赦下さい。   鳥羽省三

 
 作者ご自身からの大変ありがたいお申し出に基づいて、訂正させていただいた正しい作品及び、それについての私の鑑賞文。

○  月曜日ひとの少ないキャンパスを運ばれてゆくパネル「祭」「!」「!」  (鴻巣市) 一戸詩帆

 作中の曜日が、<日曜日>や<土曜日>では無く、「月曜日」である事には、くれぐれも注意しなければならない。
 作品鑑賞には不可欠な、当該作品の正しい引用を怠って、それに係る鑑賞文を記し、作者及び関係者の皆様に多大なるご迷惑をお掛けした上、万天下に恥を曝した、何処かのB級評論家気取りの老いぼれの轍を踏むようなことは、決して在ってはならないことだと、厳に思われるのである。
 ウィークデーたる「月曜日」なのに、何で「キャンパス」には「ひと」が「少ない」のでありましょうか?
 老獪と申し上げたら、真に失礼申し上げることになりましょうが、ご年齢は未だ妙齢とは拝察申し上げますが、短歌を詠ませたら、平成の和泉式部と申し上げても宜しいような老獪な作者は、本作の詠い出しを、先ず「日曜日」とせずに、「月曜日ひとの少ないキャンパスを」とすることに拠って、私たち読者を困惑させ、私たち読者を強引かつやんわりと作品世界に導き入れるのである。
 本作を入選作首席に置いた選者・高野公彦氏は、果たして其処まで見通して、この作品を首席作品となさったのでありましょうか?
 もしも、其処までお見通しになられた上でのご措置であったとするならば、選者・高野公彦氏に対する私の認識の一部を訂正しなければならないと思って、本作についての高野公彦氏の選評を拝見させていただいたら、「学園祭の翌日の光景。祭りのあとの寂しさを、軽妙なタッチで描く」とあった。
 真に簡にして要を得た選評と申すべきであり、一言もありません。
 学園祭が終わった後の「ひとの少ない」「月曜日」の「キャンパスを運ばれてゆくパネル」の中の一枚の「パネル」は、「キャンパス」の門前に、大きくでかでかと掲げた
<○○大学学園祭>と掲げた巨体「パネル」の中の一枚「祭」の字であったのでありましょうか?
 そして、作中のその後の二つの「!」「!」は、その超巨大「パネル」に圧倒された、本作の作者・一戸詩帆さんの驚嘆のお気持ちを表わしたものでありましょうか?
 だとすれば、選者・高野公彦氏が、この作品を入選作首席としてご推奨なさったことに対しても、納得が行くのである。
  〔返〕 水曜日妻の寝ている明け方に作者のコメント読んで吃驚   鳥羽省三

                          十二月一日の明け方に記す。


○  小谷村橅の林に鎌池と鉈池とあり黄葉映して  (熊谷市) 内野 修

 「鎌池」と言い、「鉈池」と言う。
 そのネーミングからして、何か曰く在りげなのであるが、例えば、以下のような伝承が在るのかしら。
 むかし昔、信濃の国北安曇の郡の小谷村の外れに、鎌のような形をした小さな池と、鉈のような形をした大きな池が在りましたとさ。
 ある夏の初めに、鎌のような形の小さな池の畔に、草刈りにやって来た一人の農夫が、草刈る手を休めて、幾ら働いても貧乏のどん底から這い上がれないでいる己の運命を嘆いていたところ、突然一陣の風が吹いて来て、その農夫が手にしていた鎌が池の底に飛ばされて行ったとさ。
 と、すると、其処に池の神様が現れ、「あなたの失った鎌はこれですか?」と言って、金の鎌を差し出しましたとさ。
 ところが、その農夫は村一番の正直者であったので、「いいえ、その金の鎌は私が失くした鎌ではありません。私の鎌はそんな立派な金ビカの鎌では無くて、ただの鉄の鈍い色をした鎌です」と言って、その金の鎌を受け取らなかったとさ。
 と、すると、池の神様は、「あなたには、村一番の正直者との噂がありますが、私は、あなたが噂通りの正直者であるかどうかを試したのです。その結果、あなたは噂通りの正直者であることが判りました。だから、この金の鎌は、この私からのご褒美である。どうぞ、お受け取り下さい」と言って、その正直者の農夫に、その金の鎌を強引に受け取らせて忽然と姿を消してしまいましたとさ。
 その翌日、その話を耳にした、これも亦、その村の農夫が、昨日の池とは別の、鉈のような形をした大きな池の畔にやって来て、柴を伐るふりをして、手にしていた鉈をわざと池に放り込んでしまったとさ。
 と、すると、昨日と同じように、池の神様が現れて、「お前には、村一番の嘘吐きという噂があったが、その噂通り、お前はやはり大の嘘吐きであった。この鉈は、そうしたお前に与える、私からの天罰である」と言って、その村一番の嘘吐き農夫に、彼が池の底に沈めてしまった鉈よりもずっとずっと使い勝手が悪く、重い重い石の鉈を強引に押し付けて、忽然と姿を消してしまいましたとさ。
 とっぴんぱらりのぷー。
 いっちがぽーんとさけた。

 これら二つの池は、紅葉・黄葉の名勝地として、今に至るまで多くの観光客に、その名を知られているのである。
 作中の「黄葉映して」という最終句が、二つの池の様子を極彩色に映し出していて美しい。
  〔返〕 池水に心の底まで見透かされ嘘吐き男は反省しきり   鳥羽省三


○  生ごみをベランダに干し嵩低く収集に出すわが小さきエコ  (我孫子市) 河島綾子

 「生ごみをベランダに干し嵩低く」するとは、「生ごみ」を小さくすることに依って、「生ごみ」「収集」作業に従事される方々のご苦労を小さくする事であり、これこそ正しく「小さきエコ」ならぬ<大きなエコ>でありましょう。
  〔返〕 粗大ごみみたいな我が生ごみを毎朝出しに行くのが役目   鳥羽省三


○  産院の新生児らは母さんの名前の籠にそれぞれ眠る  (広島県府中市) 内海恒子

 そう、三十数年前の記憶が、今まさにまざまざと甦って来ました。
 我が家の長男の場合も、次男の場合も、「産院の新生児」室に於いては、未だ名前とて記されていなく、「鳥羽翔子・男児」とだけ、保育「籠」に書かれていて、彼ら自身はやがて必然的にやって来る、自分の運命も知らぬげにすやすやと眠って居りました。
 その中の一人である次男が、今日の午後、<鴨鍋セット>を手土産にして我が家を訪れ、その「母さん」たる鳥羽翔子を喜ばせました。
  〔返〕 「父さんの家に来た」とは言わないで「母さんの家に来た」と言うのか息子   鳥羽省三
 次男が我が家に訪れている時に、大阪に単身赴任中のその兄(私たちの長男)から携帯が入ったりすることがある。
 そうした場合、次男は、「今、僕は母さんの家に居るんだ」などと言って、お尻の穴の狭い私を腐らせるのである。


○  我慢我慢老後の為に子の為にそして四十五で妻は逝きけり  (羽村市) 安元文紀

 「四十五」でお亡くなりになられるとは、余りにも<若死に>であり、その死は悼みても余りある。
 「我慢我慢老後の為に子の為に」と生き、「そして」その挙句、「四十五で妻は逝きけり」とは、この世には、神様も仏様も無いのだろうか?
  〔返〕 痩せ我慢辛抱だけの一期にてそれでも父は米寿を祝ふ   鳥羽省三
 思い返せば、私の父は米寿の翌年の春に亡くなりました。
 その昔、私の育った田舎町には、米寿を迎えた人に「米」という文字を書かせて、それを隣近所や親戚の家に配って歩く風習が在りました。
 そのお札をいただいた家では、それを米櫃の上などに貼って置いて、不老長寿の呪いにしたのでした。


○  わが独房(セル)がいかに閑かな部屋なのか初めて気が付くくさめしたのち  (アメリカ) 郷 隼人

 「独房」に「セル」という振り仮名を施した短歌をお詠みになられるのは、恐らくは、本作の作者・郷隼人さんだけでありましょう。
 お身体大切になさって、益々素晴らしい歌を、海の向うの獄窓の内側からお寄せ下さい。
  〔返〕 くしゃみして夜の静けさを知る汝か淋しくあろう寒くもあろう   鳥羽省三


○  こんなにも可愛い顔で笑うんだ病室のぞけば父が手を振る  (赤穂市) 内波志保

 「病室」を「のぞけば」、病いの床にあるご尊「父」殿が「手を振る」のである。
 そのご尊「父」様の有様を見て、「こんなにも可愛い顔で笑うんだ」と言う本作の作者は、優し過ぎる程に優しい娘さんなのでありましょう。
 「七十過ぎれば幼児と同じ」とも言うのである。
  〔返〕 こんなにも優しい娘も居たもんだ手を振る父に手を振る娘   鳥羽省三


○  破れても破れてもなほ己が巣を結べる蜘蛛よ空が水色  (中津市) もりたはつみ

 取って付けたような感じの「空が水色」であるが、本作の作者としては、「破れても破れてもなほ己が巣を結べる蜘蛛」に感動し、その「蜘蛛」に「空が水色だよ」と言って、元気付けようとしているのでありましょうか。
 それとは別に、「破れ」かけた「蜘蛛」の「巣」越しに覗く秋の「空」の「水色」は確かに美しい。
  〔返〕 書かれても書かれてもなお読まぬ人も在るのか朝日歌壇に   鳥羽省三
 

○  夕潮の満ちいる湾に高低を分けて鷗と鳶の舞う秋  (高松市) 菰渕 昭

 「鳶」は高く舞い、「鷗」は低く舞うのであるが、その目的は同じ。
 要するに、「鷗」も「鳶」も、舞うように見せながら、餌を漁っているのである。
  〔返〕  高く舞ふ鳶に餌を攫はれて鷗は食はねど高楊枝かな   鳥羽省三 


○  秋深し茗荷畑に葉を摘みて母を偲びて作る茗荷餅  (アメリカ) 久下朋子

 アメリカにも「茗荷畑」が在り、その「茗荷畑に葉を摘みて」、「母を偲びて」「茗荷餅」を「作る」人も居るのである。
  〔返〕 茗荷食べ物忘れするご婦人がアメリカ社会で如何に暮すや   鳥羽省三

一首を切り裂く(045:群・其のⅠ)

2010年11月29日 | 題詠blog短歌
(tafots)
○  雲梯を群青色に塗りこめて七月末の校庭静か

 「七月末」と言えば、日本全国、夏休み真っ最中でありましょう。
 その夏休みに入り、学童一人居ないグラウンドの片隅の「雲梯」が、腕に覚えのある先生方の手によって、まるで太平洋の真っ只中を思わせる「群青色に塗りこめ」られたのである。
 「雲梯」とは、文字通り「雲」に攀じ登る為の「梯」でありますから、「群青色に塗りこめ」るのが最良と思われるのである。
 私もかつては、夏休み中の一週間を費やして、小市民と言うよりも大村民とでも申し上げるべきご面貌の教頭先生と一緒に、生徒の落書きによって汚されていた、某高校の校舎内の壁を、全面クリーム色に「塗りこめ」たことがありました。
 最近は、学校教育に要する予算が逼迫しているという事情もあってか、校内の些細な工事は、外注しないで、勤務する教職員の手によって行われることが多いが、それは極めて好ましい現象である、と評者は思うのである。
 その事の是非はともかくとして、広い校庭にも、その片隅の「群青色に塗りこめ」られた「雲梯」にも、今日は人っ子一人居ないから、あたり全体が静けさに満ちているのである。
  〔返〕 二筋の飛行機雲の交差する学校プールは波も立たない   鳥羽省三
 

(古屋賢一)
○  群れるのを嫌がる犬を群れるのを嫌がる犬の群れに捨て犬

 教師時代の私にとっての悩みの一つは、遠足や社会見学や修学旅行などの際の生徒の<班編成>、即ち<グループ分け>であった。
 大半の生徒たちの声に従えば、「好きな者同士」のは班編成となって、班編成の作業そのものは比較的にスムーズに行われるのであり、現に、私以外のほとんどの学級担任教師は、生徒から言われるままにその方法を採っていたのである。
 だが、一学級が四十数人規模ともなると、其処に必ず、誰をも好きでなく、誰からも好かれない生徒が数人は現れ、例えば、一班五、六名ずつの班を作ったとしても、五つか六つの班は即座に成り立つのであるが、それから余った生徒たちの班は、<好きでもないのに、強引に組ませられて出来た班>という結果になってしまうのであった。
 本作に接して、私が真っ先に思ったことは、そのことである。
 そうした事は、学校の集団行動の場合の<グループ分け>に限らず、この現実社会のあらゆる方面に見られる現象かも知れない。
 人間は、たった一人だけでは社会単位として成り立たないのである。
 したがって、人間が人間として、社会単位として生きていく為には、必ず、何処かのグループに、何かの班に属さなければならない事になる。
 何処かの<グループ>に属するとは、何かの<班>に属するとは、自分を自分の手に拠って、何処かに、何かに<投企>することである。

 この彼を好きでもないのに、この彼と添わなければならない彼女。
 この父を好きでもないのに、この父を父としなければならない息子。
 この姑を好きでもないのに、この姑を母と呼ばなければならない嫁。
 あの学校に誇りを持っていないのに、あの学校を母校として履歴書に書かなければならない、あの学校の卒業生。
 儲け主義のこの会社の為には、たったの一日だって働きたくないのに、他に就職口が無いから、この会社で働いているしかない社員。
 財政破綻寸前になった、あの市町村の住民では決してありたくはなかったのに、懐事情に因って、この市町村に住むしかなかった住民。
 その政党から立候補したくないのに、経済的な関係や選挙区の事情などの力学的な関係から、その政党から立候補せざるを得なくなった候補者。
 スキャンダル塗れのこの元幹事長に仕えるのは、歩行者天国で賑わう、銀座一丁目から銀座七丁目までパンティーもブラジャーも外して走り廻るより恥ずかしいことなのに、その元幹事長を党代表に担ぎ上げなければならない陣笠女性代議士。
 わずか四年間で、五人もの馬鹿者が次から次へと総理大臣になった我が日本国に対しては、いささかの忠誠心も持っていないし、爪の垢ほどの誇りも感じていないのに、国籍を捨てる訳にはいかない、わが日本国民などなど。
 私たちの全ては、何かの理由で以って、「群れるのをを嫌がっているのに、群れるのを嫌がっている犬の集団に捨て犬された犬みたいな存在であるとも言えましょう。
 だが、此処からがこの文章の一番大事な点なのである。
 フランスの哲学者<ジャン=ポール・サルトル>は、自身の講演「実存主義はヒューマニズムであるか」(1945年)に於いて、「実存は本質に先立つ」と述べ、何かの事情で以って、そのサルトルと生活を共にしていた女性作家<シモーヌ・ド・ボーヴォワール>は、夫サルトルの考え方を敷衍して、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」とも述べているのである。
 そこで考えるに、私たち社会の一員は、先ず第一に、私たち自身が、現に<投企>されている、この現実に立脚しなければならないのである。
 いや、私たちは、現に自分が所属しているその現実に、誰かの手に依って無理矢理<投企>されているのではない。
 私たち自身が、他ならぬ私たちの手に拠って、私たち自身をこの現実に<投企>したのである。
 即ち、<投企>とは、他者によっての<投企>では無く、<自己投企>なのである。
 私たちは、私たち自身が<自己投企>したこの現実を受け入れ、その現実の中で、何かの役割りを果たし、何かに働き掛けて行かなければならないのである。
  〔返〕 群れたのを受け入れ吠えて群れたのを嫌がる犬に働き掛けよ   鳥羽省三 
      誰一人読まぬ現実受け入れてブログ更新励み行くべし        々


(コバライチ*キコ)
○  群鷄の眼は我を睨みつつ微動だにせず若冲の軸

 本作は、あらゆる人間に普遍的に備わっている性質としての、<自己中心主義的傾向>から未だ離脱出来ないで居る、本作の作者・<コバライチ*キコ>さんの抱いている<強迫観念>に因って詠まれた傑作である。
  〔返〕 鶏冠(けいかん)に見入る雌鶏居たりして一様ならず若冲の軸   鳥羽省三


(伊倉ほたる)
○  群れている羊の翳す携帯は祈り捧げる墓標のように

 試みに、動詞「翳す」の意味を、手許に在る国語辞書『大辞林』で調べてみたら、「① 手に持って頭上に高く掲げる。<団旗を翳して進む>」、「② 物の上方におおいかけるように手をさしだす。<火鉢に手を翳す>」、「③ 光や上方より来るものをさえぎるために手などを額のあたりに持っていっておおう。<扇子を翳す>」とあった。
 仮に、本作の用例が、上記説明中の「①」に該当するとすれば、「群れている羊」たちは、一体どんな理由で「携帯」を<頭上に高く掲げる>のでありましょうか?
 その秘密を解く鍵は、本作中の「祈り捧げる墓標のように」という叙述に在ると思われるが、「群れる羊」たちは、その「墓標」のような「携帯」に向かって、どんな種類の「祈り」を「捧げる」のでありましょうか?
 思うに、「群れている羊」たちにも等しい<少年少女>たちが、現代社会の「墓標」の如き「携帯」に向かって、必死になって叫んでいる言葉、即ち「私はあなたを愛しているからね」、「だから私を捨てないでね。きっときっと捨てないでね」、「渋谷駅前のハチ公像の前で待っているから、夕方の六時までには必ず来てね。きっとだよ。もしもあなたが午後六時を過ぎてもハチ公像前に現れなくても、私はずっとずっと待っているからね。夜露に濡れて待っているからね」などといった言葉は、彼ら<迷える子羊>たちにとっては、唯一絶対の「祈り捧げる」言葉なのかも知れません。
 また仮に、本作の用例が、上記説明中の「③」に該当するとすれば、「群れている羊」たちにとっての<光や上方から来るもの>とは、一体どんなものでありましょうか?
 思うに、<迷える子羊>にも等しい<少年少女>たちにとっての、<光や上方から来るもの>とは、現代社会の「墓標」にも相当する「携帯」を通じて齎される<彼>や<彼女>の呟く<愛の言葉>乃至は<呪いの言葉>なのかも知れません。
 それらのいずれの場合にしても、本作の作者・伊倉ほたるさんの言う、「群れている羊」たちとは、一様に塞ぎ、一様に閉鎖的かつ排他的な若者たちの事を指すのであり、また、彼らがそれぞれに排他的かつ閉鎖的な心を抱えたままに群れ集っている、渋谷駅前のハチ公像前は、其処から徒歩十五分ほどの距離に在る<青山墓地>以上に<墓地的>な場所であるに違いない。
  〔返〕 青春は二度と還れぬ墓場にて「もっと光」と祈るばかりぞ   鳥羽省三


(今泉洋子)
○  福寿草群がり咲けば杳(とほ)き日の家族十一人集ひ来さうな

 <杳遠>という、今となっては<お臍の穴に黴の生えたような言葉>が在る。
 その<杳遠>の<杳>も<遠>も、今を基準として、此処を基準として、<遥か遠く隔たっている>という意味であり、<杳遠>という言葉は、同じ意味を持つ二つの言葉を重ね用い、その意味を強調しているに過ぎません。
 だとすれば、文部科学省の指示に従って、「遠き」とすれば宜しいのである。
 だが、それを敢えて賢しら振って「杳き」とし、しかも、鑑賞者にご自身の意図するところを確実に伝え得る自信が無いものだから、「とほき」などと無用な振り仮名を施しているのである。
 そうしたところに、佐賀県の与謝野晶子たる、歌人・今泉洋子さんの病根が認められるのである。
 <三つ児の魂百までも>という喩も在りましょうが、今泉洋子さんは、生まれつき<杳>の字は文学的であり、<遠>の字は文学的では無い、と、ご知覚なさって居られるのでありましょうか?
 それはそれとして、春を待たずして花開く「福寿草」は、その群がって咲く様子からして、いかにも、古き良き時代の「家族十一人」の比喩として用いたくなるような花ではある。
 されど、知る人ぞ知る。
 彼の「福寿草」の塊根には<猛毒>が含まれている、と言う。
 今泉洋子さんの「杳き日の家族十一人」たちも、表面の笑い顔とは別に、その根っこの部分に、それぞれ、彼の「福寿草」の如き<猛毒>をお抱えになって「集ひ」来るのでありましょうか?
 だからこそ、家族親族たちが一同に会する場、即ち、婚礼や葬儀の場などには、賢明なる評者たる私は、なるべくならば近づかないように注意しているのである。
  〔返〕 福寿草群がり咲ける八つ墓の村を見下ろす岡の日溜り   鳥羽省三

今週の朝日歌壇から(11月22日掲載・其のⅢ)

2010年11月28日 | 今週の朝日歌壇から
[馬場あき子選]
○  一瞬のたじろぎの後ムササビは闇の真中に身を投じたり  (大阪府) 灘本忠功

 昨年の八月末に亡くなった姉の婚家は田舎の曹洞宗寺院の隣りであったが、深夜になるとそのお寺の庭の樹齢五百年を超える杉の古木に「ムササビ」が訪れ、木から木へ飛翔する光景を視ることが出来た。
 で、私もある年の秋にそうした場面に立ち会ったことがあるのでよく解るのですが、本作は、「ムササビ」の視線が人間の視線と合った時の「ムササビ」の一挙一動を余すところ無く映し出した傑作であると思われる。
  〔返〕 一瞬のためらいののち魁皇は上手投げ打ち把瑠都を葬る   鳥羽省三    

○  遠き世は海なりしとう畑に採る蓮田の大き梨みずみずと重し  (蓮田市) 青木伸司

 下の句「蓮田の大き梨みずみずと重し」の字余りが惜しまれる。
 この場面は、「蓮田の大き梨みずみずし」として、字余りを回避された方が宜しかったのではないでしょうか?
  〔返〕 <蓮田梨>無銘の梨にして甘し歌詠み人はさくさくと噛む   鳥羽省三


○  背が伸びたリナちゃんと話す帰り道六年ずっとずっとこうして  (富山市) 松田梨子

 <松田梨子>さんと言えば、あの<出来過ぎ姉妹>のお姉さんの方であるが、相変わらずの大人顔負けの傑作である。
 上の句に「背が伸びたリナちゃんと話す帰り道」とあるが、入学当初はご自身と同じ程度であった「リナちゃん」の背丈が、いつの間にか自分より頭一つも伸びてしまい、そんな「りナちゃん」を、本作の作者の松田梨子さんは見上げるようにして話しながら、学校帰りの道を歩いているのでありましょう。
 下の句の「六年ずっとずっとこうして」という表現からは、「この『六年』の間にはいろいろなことが在ったが、自分と『リナちゃん』とはいつも仲良く、こうして話しながら学校帰りの道を歩いて来たのである」という、作者の感慨が読み取れるのである。
  〔返〕 リナちゃんに背丈で負けて悔しいが勉強だったら絶対負けぬ   鳥羽省三


○  吾が業の日誌は重し今月も癌に逝きたる死者の名ありて  (八戸市) 山村陽一

 本作の作者・山村陽一さんの「業」は葬儀屋さんである。
 「癌に逝きたる死者の名」に限らず、彼の業務「日誌」に記載されている人名の殆んどは「死者の名」なのである。
 したがって、「吾が業の日誌は重し」という本作の詠い出しも亦、「日誌」の記載内容と吊り合う程の重さであろうかと思われる。
  〔返〕 葬りし亡骸ほどの重さをば日々感じ居て汝が業重し   鳥羽省三


○  蕎麦六俵売れたと伝える友の声北の大地に農夫となりぬ  (三鷹市) 森 文弥

 「売れた」「蕎麦六俵」の売却代金は如何程のものでも無いでしょう。
 仮に一俵<一万円>としても、「六俵」で<六万円>である。
 それでも、「北の大地に農夫」となった「友の声」は、「私の作った『蕎麦』に、今年初めて買い手がついたんだよ。一俵当たり一万円で、締めて六万円に過ぎなかったのだが、それでも、こちらに来てから初めて手にした売却代金だから、私はとてもとても嬉しかったのだ」と、喜びに満ちたものであったのでありましょう。
  〔返〕 来年は作付面積十倍に所得も十倍目指して頑張れ   鳥羽省三


○  年寄りの仕事減りたりと嘆きつつ廊下の日溜りにマウス操る  (岡崎市) 服部俊介

 下の句に「廊下の日溜りにマウス操る」とあるので、作中人物の「仕事」は<情報処理関係>であることが予想されるが、その作業場が「廊下の日溜り」とあるからには、それから得られる賃金は知れたものでありましょう。
 上の句に、「年寄りの仕事減りたりと嘆きつつ」とあるのも道理である。
  〔返〕 陽の溜まる廊下の窓辺が作業場で得られる所得は煙草も吸えぬ   鳥羽省三


○  義父介護ひたすら務めし我が妻はひたすら眠る初七日の夜  (いわき市) 松崎高明

 一句目の頭の「義父」に<ちち>との振り仮名が施されているが、本作の場合は、無用と言うよりも、むしろ有害と言うべきでありましょうか。
 何故ならば、短歌の世界の悪しき習慣にしたがって<ちち>と読んでも二音、そのまま無理無く<ぎふ>と呼んでも二音で、韻律の上では何ら得る所が無いからである。
 それよりも何よりも、このままの表現では、「初七日の夜」を迎えた、今は亡き「義父」が、何方にとっての「義父」なのか判然としないのである。
 作者ご本人としては、このままの形でも、「亡き人は、作者自身にとっての<父>であり、作者の妻たる『我が妻』にとっては『義父』である、ということを鑑賞者たちが理解してくれるだろう」と期待して居られるでありましょう。
 だが、その責任を鑑賞者に押し付けるのは、作者の身勝手と言うよりも、表現の未熟さと言えましょう。
  〔返〕 舅たる父の介護に疲れ果て吾妻は眠る初七日の夜を   鳥羽省三
 

○  天保二年創業といふ薬店の看板朽ちて秋の長雨  (宇治市) 山本明子

 「天保二年創業」と言えば、作中の「薬店」は、「創業」以来<179年>になるのである。
 どんな<金看板>と言えども、179年もの長きの間、風雨に曝されれば「朽ちて」しまうでありましょう。
 したがって、作中の「薬店の看板」が「朽ち」た原因は、今年の「秋の長雨」にあると言うよりも、179年もの長きに亘って風雨に曝された結果と言うべきでありましょう。
 このままではいくら何でも、格別に長かったとも言えない、今年の「秋の長雨」が気の毒である。
  〔返〕 運悪く看板腐(くた)しの元凶とされてしまへり秋の長雨   鳥羽省三

今週の朝日歌壇から(11月22日掲載・其のⅡ)

2010年11月27日 | 今週の朝日歌壇から
[高野公彦選]
○  タンポポの花のてんぷら葉のサラダひとひの画材をいただく夕餉  (大分市) 岩永知子

 摘んで来て、花籠に盛り、描いて、食べて、詠むといったところでありましょうか。
 普段は都会暮らしをしている主婦にとっては、その日一日の体験は久し振りの自然体験であり、心身共に充実感が感じられたのでありましょう。
 ところで、通常、「タンポポの花」や「葉」を食用に供するのは、春の初めの新芽や初花の頃だけのことかと評者には思われるのですが、その点についてはいかがでありましょうか?
 その時期を過ぎて、夏の熱い太陽の光を照射され、野塵を存分に被った挙句、そろそろ冬篭りの仕度でも始めようとしている時期に摘んで来た「タンポポの花のてんぷら」や「葉のサラダ」は、余り香りも良くなく、やたらに強張っているばかりであるから、固さも固しというところでありましょう。
 だが、本作の作者・岩永知子さんにとっては、それでも充分に美味しかったのでありましょうか?
 季節外れの<季節詠>は詠む方も詠む方、採る方も採る方である。
 本作が、歌集の中の一首であったのならともかく、四季の中の折々の感動やニュースに敏感に反応するべき新聞歌壇中の、しかも「高野公彦選」の首席を占める作品なのである。
 と、ここまで記して私が小用に立った時、これを覗き見したわが連れ合いが、「もう少し誉めたらいかがですか。それに第一に、この作品は、タンポポの旬の時期に詠んだ作品であって、たまたま晩秋になってから投稿したのかも知れませんよ」などと無用な口出しをする。
 春に詠んだ作品だとしたならば、春に投稿すればいいのである。
 気の早いサンタさんなら、鈴の音を鳴らしてトナカイの橇に乗って訪れようとしている時期ではありませんか。
 季節詠めかしながら、生半可な知識と観念とだけで丸めた作品を、余人ならばいざ知らず、他ならぬ岩永知子さんが無闇に投稿したりしてはいけません。 
 『万葉集』<巻第八>に、<志貴皇子の懽の御歌一首>として、「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」という感動的な季節詠が収録されている。 あの歌が、制作時期から千三百年以上も経った今になっても多くの人々に感動を与え続けている理由は何処に在るのか?
 本作の作者も、本作を朝日歌壇の首席に据えた選者も、その理由について、よくよく考えてみなければならない。
  〔返〕 花も葉も黒ずみ強張り香り悪しそれでも旨しと言ひて召すのか?   鳥羽省三


○  青芒葉先丸めて門に挿し魔物(やなむん)入るなと泡盛を打つ  (沖縄県) 和田静子

 沖縄方言を巧みに生かした民俗詠、風俗詠と言えましょうか。
 前述の岩永知子さん作と比較した場合、本作は、季節を詠もうとする意志よりも、習俗を詠もうとする意志の方が遥かに勝っているのである。
 しかも、仮に季節詠として扱っても、必ずしも季節外れとは言えない。
  〔返〕 柚子十顆浮かぶ湯舟に身を沈め疲れ取りたし冬至の夜は   鳥羽省三 


○  栗秋刀魚馬鈴薯鮭檸檬買い物かごに季語が寄り添う  (春日部市) 宮代康志

 列挙された食品「栗・秋刀魚・馬鈴薯・鮭・檸檬」の五品目の全ては秋の「季語」である。
 「季語」としての性格を同じくするそれらが、たまたま「買い物かご」の中に「寄り添う」ようにして入っていたとすれば、本作は短歌の神のみならず、秋という季節を司る神<白帝>を味方にしてお詠みになった一首とも言えましょうか?
  〔返〕 韮慈姑胡瓜枝豆牛蒡葱八百屋の店先季語がばらばら   鳥羽省三
      鰆鱏鱩鮪鯒鰯鯖鯛鰖鮍魪                     々


○  天平の琵琶のおもての椰子の木やラクダは螺鈿の花群のなか  (箕面市) 大野美恵子

 正倉院展は毎年秋、奈良国立博物館を会場として行われますが、今年の目玉展示品と言うべきはものは「螺鈿紫檀五弦琵琶」である。
 「螺鈿紫檀五弦琵琶」は弦楽器と言うよりも、絢爛豪華な螺鈿細工の施された美術品というべきであり、未だに制作当時の輝きを失っていないその表面には、「螺鈿」細工で「椰子の木」と「ラクダ」に跨ったペルシャ人の姿が装飾されている。
 本作の作者・大野美恵子さんは、奈良市からそれ程遠くは無い箕面市にお住いの方でありますから、逸早く会場に足を運ばれて、「天平」文化の粋を思いっきりご堪能になられたのでありましょう。
  〔返〕 ぼろぼろの布や幡など並ぶなか綺羅雅やか天平の琵琶   鳥羽省三


○  霜降の無人駅舎にモネの「積みわら」友と観にゆく  (福岡県) 小倉由子

 フランス印象派の画家・モネの代表作の一つである「積みわら」は、連作として描かれたために、色彩の微妙に異なった作品が数十点在るとされているが、本作の作者・小倉由子さんの身近で、その「積みわら」シリーズの一点を鑑賞出来るのは、岡山県倉敷市の大原美術館である。
 作者・小倉由子さんは「霜降の無人駅舎」に「友」と待ち合わせをなさり、その後、新幹線に乗り継いで、遙々と倉敷市までお出掛けになったのでありましょう。
 「霜降の無人駅舎」と「モネの『積みわら』」の世界とは、どちらも茫漠としたような感じであり、バランスが取れているようないないような感じなのである。
  〔返〕 祝日のごった返しの人並みに揉まれてゴッホの『自画像』は見ず   鳥羽省三


○  本屋なれ売れれば補ふ本ありてエンデの『モモ』は三十五年  (長野県) 沓掛喜久男

 詠い出しの「本屋なれ」が一考を要する表現である。
 断定の助動詞「なり」の已然形「なり」は、通常は接続助詞「ば」を伴って「なれば」の形で「(本屋)であるから」といった意味となり、それに続く部分の前提条件を示したりするのであるが、そうした場合でも、本来は「なれ」の下に接続させるべき「ば」を省略することがある。
 また、そうした用法とは別に、「本屋なり」と終止形で言うべきところを、一種の<強調表現>として「本屋なれ」と已然形で言う場合が希に在る。
 本作の作者・沓掛喜久男さんは、それらのいずれの意味で、この作品の詠い出しを「本屋なれ」となさったのでありましょうか?
 沓掛喜久男さんのようなベテラン歌人の場合は例外であるが、結社などに入っていて、その体制にべったりの初心者が、先輩の作品や先行作品を模倣して「体現+なれ」の形、その後に接続させるべき「ば」を省略した形を使用するのは間違いのもとになるので止めた方が宜しい。
 「エンデの『モモ』」は、永遠のロングベストセラー。
 発売されてから、もう「三十五年」にもなるのだろうか?
 「売れれば補ふ」という表現に、地方の小規模の「本屋」さんの経営者の方のご苦労の程が偲ばれる。
  〔返〕 教師なれ問はれぬ先に教ふるも役目の一つと任じてのこと   鳥羽省三


○  のこる命生きて歌詠めよ樫の実がしぐれをなして吾が上に降る  (筑西市) 斎藤絢子

 「しぐれをなして吾が上に降る」「樫の実」に、自然の神の啓示をお感じになったのでありましょうか?
  〔返〕 来む世にも他人の歌を難ぜよと公孫樹落ち葉が我が身に諭す   鳥羽省三


○  峡棚田空稲架あると見たりしが夕べに百の大根吊りて  (宮城県) 須郷 柏

 乾燥し上がった稲株を取り去った後の稲架に、「大根」や大豆などを掛けている風景も、田舎ではよく見掛ける風景であった。
  〔返〕 一億も持つと見たりし寡婦なれど当てが外れて着た切り雀   鳥羽省三


○  海がんでひろった貝がらにじの色スイミーからのプレゼントかも  (笠間市) 高野花緒
 
 小学生の高野花緒さんとて、まさか「海がんでひろった」「にじいろ」の「貝がら」が、「スイミーからのプレゼント」とは、少しも思っていないのである。
 だが、そこをそう正直に言わずに、「スイミーからのプレゼントかも」と言えば、小学生らしくあどけない表現の作品になるということを、誰に教えられたのでも無くて知っているのでありましょう。
 その一方、<海岸>とすればいいのに「海がん」とし、<貝殻>とすればいいのに「貝がら」とし、<虹>とすればいいのに「にじ」とするなど、とことん入選狙いの食えない作品、などと申すのは、この日本の歌壇で評者ぐらいのものでありましょう。
  〔返〕 たまプラで話し掛け来しあの少女少し気のあるふりしたかった  鳥羽省三



[永田和宏選]
○  ほんのりと昼を灯せる本屋なり立ち読みひとりくすりと笑ふ  (長野県) 沓掛喜久男

 「くすりと笑ふ」のは、「立ち読み」のお客様でありましょうが、余りの客足の鈍さに、店主の沓掛喜久男さんが「くすりと」お笑いになったようにも思われるところが、この作品の面白さである。
  〔返〕 ほんのりと昼を灯せる電気料勿体ないなら店閉じなさい   鳥羽省三


○  じいちゃんも金魚も寂しいやろなあと二ひく一を子が思う秋  (和泉市) 星田美紀

 「じいちゃん」が死んで、「じいちゃん」から愛されていた「金魚」一匹だけが生き残っているのか?
 「じいちゃん」は死なないで、たった一匹、ペットとして「じいちゃん」から愛されていた「金魚」だけが死んだのか?
 それとも、「じいちゃん」も「金魚」も死んでしまった結果、後に残された「子」が、「じいちゃん」と自分との関係をふり返り、或いは、金魚と自分との関係をふり返り、どちらにしても、この場合は『二引く一』である、と納得し、観念しているのでありましょうか?
  〔返し〕 「二引く一」答えは常に「一」となるじいちゃん死んで金魚も死んだ   鳥羽省三


○  スイミングはじめてとった金メダルこっそりないた帰りの車  (笠間市) 高野真気

 「『こっそり』撫でた」と言わないで、「こっそりないた」と言うところが、<大人社会の影響>大なるところでありましょうか?
  〔返〕 ルッツ決め今夜は取るか金メダル浅田真央ちゃんピンチ瀬戸際   鳥羽省三


○  「出会ったとき」「襲って来たとき」熊役の女性レポーター懐こい笑顔  (山形市) 渋間悦子

 「熊役」もやれて、顔の「懐こい」「女性レポーター」と言えば、迫文代さんに決まっているようなものですが、やや日焼け気味で、やや太り過ぎなところが災いしてなのか、彼女の顔はこの頃テレビ画面に映りません。
  〔返〕 「襲うとき」が「襲われたとき」より適役で迫文代さん熊にぴったり   鳥羽省三


○  うどん打つ音とうどんを茹でる湯気通りに満ちるわが街の冬  (高松市) 新田仁史

 高松市と言えば香川県の県庁所在地。
 香川県と言えば讃岐饂飩の本場である。
 したがって、「うどん打つ音とうどんを茹でる湯気通りに満ちるわが街の冬」という言い方は、少しも誇張した言い方ではありません。
 「うどんを打つ音」と「うどんを茹でる湯気」。
 これこそ正しく歳末の高松の「街」の風景を象徴するものである。  
  〔返〕 素醤油をかけた饂飩がなぜ食える高松市民は意外に粗食   鳥羽省三


○  会社では浮いた存在であるを告げこれ以上晒すものなし妻に  (和泉市) 長尾幹也

 沈んでいるよりも浮いている方がかなり増しである。
 「これ以上晒すものなし妻に」と言えるのは、沈んでしまって再び浮かび上がれないと決まったときでありましょう。
  〔返〕 一例を上げれば深夜のベッドにて「あなた駄目ね」と言われた時か   鳥羽省三


○  黄金の埋蔵場所を知ってゐる秋の夕べの屋上の猫  (大分市) 長尾素明

 こちらは陽の射している長尾さんでありましょうか?
 「秋の夕べの屋上」に寝そべっている「猫」の背中に西日が当たって、黄金色に輝いているのを見て、「黄金の埋蔵場所を知ってゐる」と表現したのは大変素晴らしい発想である。
  〔返〕 レアアースの埋蔵場所を知りたくて土俵の砂に這ったか白鵬   鳥羽省三  


○  中学で村田銃兵の日三八歩兵銃握りし右腕の掌の平の皺  (相模原市) 中村健次

 内容はどうでも、韻律の悪さはカバーは言い訳出来ようもありません。
  〔返〕 今日もまた模造鉄砲担いでの歩行訓練ばかりで暮れた   鳥羽省三


○  辺土岬これが琉球の藍ですと黄泉覗くがに断崖に立つ  (沖縄県) 和田静子

 それ程に、沖縄の海は紺青なのでありましょうか。
  〔返〕 辺土岬バンザイクリフにあらざるも今も真っ青沖縄の海   鳥羽省三  

○  朝日歌壇掲載ページ破り持ちバスに飛び乗る月曜の朝  (横浜市) 新井邦子

 ことほど然様に、「朝日歌壇」に入選したという事実は大変な事実なのである。
 ここに、選者の皆様の覚悟して選歌に当たらねばならない所以がありましょうか。
  〔返〕 此処に亦一人相撲の評者居て誰も読まない評を書いてる   鳥羽省三

今週の朝日歌壇から(11月22日掲載・其のⅠ)

2010年11月26日 | 今週の朝日歌壇から
[佐佐木幸綱選]
○  納豆をかきまぜながら見ておりぬ救出される人人人人  (香川県) 薮内眞由美

 過ぎし日に地球の裏側の国・チリで発生した鉱山の落盤事故とその結末に取材した作品かと思われる。
 逆の見方をすれば、ごく普通の日本人が「納豆をかきまぜ」るといった日常生活の中の、ごく普通の一瞬の間にも、この地球中の何処かで尊い人間の命が失われて行く、ということにもなりましょうか。
  〔返〕 わたくしがこの文章を綴る間に春の準備をする水仙の芽   鳥羽省三
 チューリップの球根やパンジーの苗を餓えた先日に続いて、一昨日は水仙の球根を植えました。
 来春が楽しみです。


○  指名され男子生徒は取り囲みグランドピアノを「せいの!」と運ぶ  (奥州市) 大松澤武哉

 中学校や高等学校の音楽の先生の大半は女性でしかも美しく、その学校の男子生徒たちからアイドル視されているのである。
 したがって、学期末などの大掃除などの際に、そのアイドル先生から、「鳥羽君と三好君と中牟田君と万里小路君と松坂君は音楽室に来て下さい。安田君は来なくて宜しい」などとのお声掛かりがあろうものなら、「来なくて宜しい」と言われた安田君まで、待ってましたとばかりに音楽室に駆けて行って、お姫様を助けるナイトよろしく「せいの!」と声を上げて、運ばなくてもいい「グランドピアノ」を持ち上げてしまうのである。
 と、ここまで書いて来て、ふと作者名に注目したら、其処に書かれていた名前は、<大松澤武哉>という、昨日熊の巣穴から出て来たような男性名であったので吃驚仰天。
 私が期待していたのは、<木村かおり>とか<前田あんぬ>とか<松下奈緒>とか<城門芙美子>とか、いかにも美人女性ピアニストらしいお名前だったのである。
 思うに、本作の作者・大松澤武哉さんは、その学校の体育科主任の先生か、教頭先生であり、彼も亦、年若いアイドル先生からのお声掛かりを密かに期待して、自分自身の持ち場を離れて、音楽室の前辺りを徘徊していたのかも知れません。
  〔返〕 私なら一人で持てると大松澤武哉先生大張り切りだ   鳥羽省三


○  我よりも大きい子のシャツ並べ干す洗濯物は反抗しない  (川越市) 津村みゆき

 そうです。
 「洗濯物」はどんなに大きくたって、一切「反抗しない」ですからね。
 また、近頃は、洗濯機の性能もぐっぐっぐっと向上していますから、本当に楽になりましたね。
 それに較べて、子育ては時代が経つにつれて益々難しくなって行くばかりである。
  〔返〕 乱暴な息子のシャツの袖からみ私のブラウス破けちゃったよ   鳥羽省三


○  立ち飲みでホッピー二杯をぐいと空けわれを放てり神田駅前  (小平市) 桂木 遙

 「われを放てり」とあるから、<女性解放>かと思って喜んでいたら、「立ち飲みでホッピー二杯をぐいと空け」、<急性アルコール中毒>になってしまった、というだけのことでした。
 <女性解放>の場面としても、<急性アルコール中毒>に罹って暴れる場面としても、「神田駅前」という場面と極めて適切な場面である。
 なにしろ、至るところ酒場だらけですからね。
  〔返〕 立ち飲みで電気ブランを五杯飲み風雷神と格闘しちゃった   鳥羽省三


○  あて先は志布志市志布志町志布志 誤植にあらず乱視にあらず  (奈良県) 秋野和昭

 本作に登場する地名「志布志市志布志町志布志」については、夙に珍しく煩わしい地名として有名であり、インターネットで検索すると、「志布志市志布志町志布志の男性容疑者しぶしぶ自首す」などという、この地名に関わる珍談奇談が満載されている。
 で、この「志布志市志布志町志布志」には、「志布志市役所志布志支所」という行政機関が在って、これをハガキなどに宛先として記せば、「志布志市志布志町志布志 志布志市役所志布志支所 御中」となって、そのややこしいこと、ややこしいこと。
  〔返〕 宛先は「志布志市志布志町志布志 志布志市役所志布志支所」御中   鳥羽省三 


○  寂し気に啼きつつ獄庭(にわ)に餌を漁る鷗の群れよ今はもう秋  (アメリカ) 郷 隼人

 「獄庭」に、「鷗の群れ」が「漁る」ような、どんな「餌」があると言うのだろうか。
 それにしても、「寂し気に啼きつつ獄庭に餌を漁る鷗の群れ」に「今はもう秋」と密かに呼び掛ける、本作の作者のご心境の何と淋しく哀れなことよ。
  〔返〕 郷さんよ今は詠うな詠わずに遥かに続く小説を書け   鳥羽省三


○  熊楠の可愛がりたる「猫楠」が水木しげるのペンで跳ねおり  (町田市) 田上 脩

 『猫楠―南方熊楠の生涯』という<水木しげる>の著作が<角川文庫ソフィア>の一冊として刊行されている。
 私は未見であるが、これも漫画なのでありましょうか。
  〔返〕 「猫また」は「猫の経上が」るものなりと徒然草の八十九段   鳥羽省三
 『徒然草』に登場する「猫また」と「猫楠」とは、何らかの関わりがあるのだろうか? 


○  耳(おなもみ)を付けて戻りし猫のこと書き留めて置く家計簿の隅に  (山口市) 山本まさみ

 本作に接し、詠い出しにいきなり「耳」という、見慣れない語が出て来た時、私は一瞬困惑してしまった。
 何故ならば、この二字の語は、単に見慣れないだけでは無くて、私にとっては読めない漢字でもあったからである。
 そこで、インターネット辞書『ウィキペィディア』を引いてみたところ、次のように記されてあったので、その要点のみを引用させていただきたい。

 「オナモミ(耳、巻耳、学名:Xanthium strumarium)は、キク科オナモミ属の一年草。果実に多数の棘(とげ)があるのでよく知られている。また同属のオオオナモミやイガオナモミなども果実が同じような形をしており、一般に混同されている。」
 「草丈は50~100cm。葉は広くて大きく、丸っぽい三角形に近く、周囲は不揃いなギザギザ(鋸歯)がある。茎はやや茶色みをおび、堅い。全体にざらざらしている。夏になると花を咲かせる。雌雄異花で、雄花は枝の先の方につき、白みをおびたふさふさを束ねたような感じ。雌花は緑色の塊のようなものの先端にわずかに顔を出す。
見かけ上の果実は楕円形で、たくさんの棘をもっている。その姿は、ちょうど魚類のハリセンボンをふぐ提灯にしたものとよく似ている。先端部には特に太い棘が2本ある。もともと、この2本の棘の間に雌花があったものである。」 以上、引用終わり。

 上記、『ウィキペィディア』には、引用させていただいた記事の他に、「耳」の写真も掲載されていたが、一見して判ったことであるが、私にとって未知の言葉であった「耳」とは、私たちが子供の頃に野山などに出掛けた時によく目にし、身体にくっ付いたりして厄介な植物と思っていた<くっつき虫>のことであり、私の故郷では、これを<のさばりこ>と呼んでいたのである。
 <のさばりこ>とは、<母親などに甘えて、いつもべたべたくっ付いてばかりいる子供>のことであり、私たちは、野山に行くと身体にくっ付いてくる「耳」を厄介な植物として敬遠し、これに<のさばりこ>という蔑称を奉っていたのであった。
 本作の作者・山本まさみさんは、この<のさばりこ>たる「耳」を身体に「付けて」戻った「猫のこと」を「家計簿の隅」に「書き留めて」置いた、とお詠みになっているのである。
 <所変われば品変わる>という言葉が在るが、その言葉とは異なって、日本という国は狭いから、本州の東の外れに近い私の故郷にも、本州の西の外れの山口市でも、身体中に「耳」即ち<のさばりこ>をくっ付けて帰宅する、甘えん坊の子供や猫が居たのである。
  〔返〕 ワイシャツに溢した御飯をくっ付けて職場に行った<のさばりこ>かも   鳥羽省三


○  わが国の春夏秋冬ほどの良き春と秋とが削られてゆく  (兵庫県) 陰山 毅

 私も亦、つい先日、そんな気がして連れ合いに話したら、連れ合いも亦、そんな気がするということでした。
  〔返〕 ボーナスは夏と冬とに貰うもの春と秋とを削ればお徳   鳥羽省三


○  カレンダーもうあと二枚になっちゃったサンタの家のももうあと二枚  (富山市) 松田わこ

 <松田わこ>さんと言えば、私が言うところの<出来過ぎ姉妹>のお妹さんの方でしたか。
 相変わらずの可愛らしく素晴らしい出来栄えの作品であります。
  〔返〕 白鵬の五連覇決定すれば直ぐ我が家の暦はあと一枚になる   鳥羽省三

一首を切り裂く(044:ペット・其のⅢ・決定版)

2010年11月25日 | 題詠blog短歌
(ワンコ山田)
○  向日葵の俯くあたり終の巣にペットを終えた子を送る夏

 ご結婚なさって、ご両親の「ペット」としての役割りを果たし「終えた」お子様のお住いになられる「終の巣」即ち<新婚所帯>は、ご両親のお住いになって居られる生家の直ぐ近くかと拝察する。
 何故ならば、新婚夫婦の熱々振りに目を背けて新婚所帯の庭に俯いて咲いている「向日葵」の様子が、本作の作者であり、新婚夫婦の親である<ワンコ山田>さんには見えるのですから。
 「ペットを終えた」と言い、「子を送る」と言いながらも、ご結婚なさったお子様を自分の身近に置こうとするところに、未だ<子離れ>することが出来ないでいる<ワンコ山田>さんの、親としての弱点が窺われる作品である。
  〔返〕 向日葵が俯くような新婚を身近に置こうとする親のエゴ   鳥羽省三 


(詩月めぐ)
○  海を越え漂うペットボトルにも逢いたいひとがいたのでしょうか

 「日本人の海外旅行熱にも一服の感がある」と言われている昨今であるが、名も知らぬ遠き島にも、その昔、旅行中の日本人男性と抜き差しならぬ関係を持った女性が居て、その怨念の籠った「ペットボトル」が、「海を越え」て遙々と日本の海岸にまで漂って来るのでありましょう。
  〔返〕 逢へぬ故その怨念の籠りたるペットボトルは波間漂ふ   鳥羽省三


(蓮野 唯)
○  愛玩もペットもたいして変らない餌の名前は「お前だけだよ」

 そうです。
 彼らのような犬畜生に、いちいち「愛玩」動物だとか「ペット」だとかと名付けて区別するのは、実に馬鹿馬鹿しい習慣である。
 それはそれとして、彼らに与える「餌の名前」が「お前だけだよ」とは、これ亦、蓮野唯さんらしい、素晴らしいネーミングである。
 「お前だけだよ」という名称の動物の「餌」、案外ヒットするかも知れませんよ。
 先ずは、商標登録なさって、それから金回りのいいスポンサーを見つけて事業化しなさったらいかがですか?
  〔返〕 ペットらに「一つだけよ」と言い聞かせ「お前だけだけだよ」食べさせなさい   鳥羽省三
 宜しかったら、事業化の後にテレビCM用のコピーとしてお使い下さい。


(駒沢直)
○  逃避行そんなつもりもない首都高 ペットボトルのキャップを失くす

 本作の作者・駒場直さんは、「『首都高』を車で飛ばす私には『逃避行』、『そんなつもり』はさらさらにありませんよ」と、仰っているのでありましょう。
 だが、今どき、至るところ渋滞だらけの「首都高」を飛ばして「逃避行」をする馬鹿もいないでしょうから、それは<言わずもがな>のことかと思われます。
 それよりも、「首都高」を飛ばしていて、「ペットボトル」のがぶ飲みしてはいけませんよ。
 渋滞していて低速運転だからと安心していたら、車間距離が短いですから、直ぐに玉突き追突事故に結びつきます。
 したがって、「ペットボトルのキャップを失くす」などと呑気なことは言ってられません。
  〔返〕 首都高の先は東北自動車道奥日光は紅葉盛り   鳥羽省三


(空色ぴりか)
○  左手をじゅりあとつなぐ 右手にはペットボトルのお茶  こぽこぽと

 「手」を「つなぐ」相手が「じゅりあ」で良かったですね。
 これが、<天童よしみ>だとか<豪風>だとかだったりしたら、臭くてたまりませんし、それに第一に短歌になりませんからね。
  〔返〕 右手にてソフィア指差し左手に持ったフォークでパスタ絡める   鳥羽省三


(今泉洋子)
○  いつしらにペットのやうに携ふる電子辞書けふも開けゆく

 「電子辞書」を「ペット」代わりに携えて今日も歌会通いとは、大変結構なことでございます。
 で、肝心の詠草のお出来はいかがでございましたか?
 「電子辞書」頼みでは碌な歌も詠めませんよね、今泉洋子さん。
  〔返〕 風景を見ないで電子辞書を見る吟行歌会能因みたい   鳥羽省三


(帯一鐘信)
○  ブーツ脱ぐ時間がなくて玄関のペットマットにお座りをした

 「ブーツ」を「脱ぐ」のには、手間が掛かりますからね。
 その手間暇を惜しんで、「玄関のペットマットにお座りをした」ということですが、それはいけませんよ。
 何故なら、その「ペットマット」には、ついさっき<クロちゃん>がおそそをしたばかりでしたから。
  〔返〕 玄関のペットマットにお座りし年賀の客にお年玉乞う   鳥羽省三


(やすまる)
○  蛇口からペットボトルへ注ぎこみペットボトルの形になる水

 せっかくの好材料なのに、詰めが甘い。
 それを詠むなら、次のように詠みましょう。
  〔返〕 蛇口からペットボトルに注がれてペットボトルの形とる水   鳥羽省三


(ミナカミモト)
○  飲みさしのペットボトルに傾いた月が射し込む主なき部屋

 服喪と「ペットボトル」との組み合わせに目新しさが感じられるが、いかんせん売り物はそれだけである。
 だが、評者はそれなりの数学頭であるから、月齢何日の何時何分何秒ならば、入射角度何十度、屈折率何パーセントなどと計算したくなるのである。
  〔返〕 飲みさしのペットボトルを投げ棄てて残り五キロの勝負に賭ける   鳥羽省三


(南葦太)
○  輪廻していつか世界を救うのだ 何かの満ちたペットボトルよ

 「輪廻」の後には、「ペットボトル」の中に「満ちた」<空洞>が、案外、「世界を救う」日が来るのかも知れませんね。
  〔返〕 お茶飲んだペットボトルに何が満つ徒労と愚痴と漏れた溜息   鳥羽省三

一首を切り裂く(044:ペット・其のⅡ・決定版)

2010年11月24日 | 題詠blog短歌
(青野ことり)
○  ほとばしる 水 水 水 を受けとめる ペットボトルの水はさみしい

 「ほとばしる 水 水 水 をうけとめる」とあるが、ドッドッドッと「ほとばしる」「水」を、ガラスのコップで「受けとめる」のか、直接てのひらで「受けとめる」のか、本作の作者たる<青野ことり>さんという未知の女性は、作品中の表現では決して明らかにしようとしない。
 そこで、人一倍想像力の逞しい評者などは、「青野ことりさんという女性は、或いはその『水』を、コップや掌で『受けとめる』のでは無くて、ご自分の<膣>で『受けとめる』のかも知れないな」などと、とんでもない事まで考えてしまうのである。
 と、すると、それに続く下の句「ペットボトルの水はさみしい」という表現中の「ペットボトル」の解釈も少し妖しくなって来る。
 とどのつまりに、評者は、「この作品は愛を伴わない性行為の淋しさや侘しさを、膣内に精液を『受けとめる』女性の立場から詠んだ傑作である」などという迷解釈をしてしまって、澄ましているのである。
 そんな意地の悪い評者とて、勿論、この作品は、「ペットボトル」という狭い牢屋のような器に閉じ込められていて、一旦その蓋が開けられるや否や、解放されたと言わんばかりに、ドッドッドッと堰を切ったようにして「ほとばしり」出て来る「ペットボトル」の中の「水」の印象の「さみしさ」を詠った作品であることを、十二分に承知しているのである。
 そうしたまともな解釈とは別に、かなり怪しい解釈をも許容する作品。
 それが名作に備わっているべき条件の一つであり、また、そうした怪しい解釈をも、笑って受け入れられるような心の余裕を持っている歌人が、優れた歌人とも言えましょう。
 さてさて、本作の作者・青野ことりさんは、優れた歌人でありましょうか? 
  〔返〕 この扉ひらけば飛び立つ青い鳥未だ逃がさず飛び立たせぬぞ   鳥羽省三


(七十路ばば)
○  子ら巣立ち井戸端会議ではずむのはこの子この子とペットの自慢

 「子ら」を巣立たせた後の主婦が、<犬><猫>或いは<青のことり>などを、現代版「井戸端会議」の席上で、「この子この子」と「自慢」することは大いに有り得ましょう。
 <七十路ばば>などと仰りながら、本作の作者たる女性は、まだまだお若く、若いママたちに伍して、一歩もひけを取らずに、自己主張なさって居られるのでありましょう。
  〔返〕 墓標には「祖母の愛」とぞ記すのみペット墓場の景色空しい   鳥羽省三


(高松紗都子)
○  六月の空の高みに打ち上げたペットボトルは神になりたい

 「六月の空の高みに打ち上げたペットボトル」とは、あの<月面探索機・かぐや>なのである。
 あの<かぐや>は、「神」になり、「神」としての責務を十二分に果たし、はるばると月世界から、また、この地球上に生還したのである。
  〔返〕 振り向けば少し歪な青い星<かぐや>の観たるふるさと地球   鳥羽省三


(五十嵐きよみ)
○  ため息で倒れかねない空っぽのペットボトルのような心境

 「ため息」はほとんど<風力>を伴わない。
 その「ため息」を吹き掛けられてさえ「倒れかねない空っぽのペットボトルのような」私の今の「心境」などと仰りながら、本作の作者・五十嵐きよみさんは「ため息」を吐いているのである。
  〔返〕 諦めか安堵か知らぬため息を吐きて五十嵐きよみは笑う   鳥羽省三


(flower_of_the_briar)
○  南里文雄のトランペットがラジオから流れる雷雨の中の天幕...

 涸沢の幕営地に「ラジオ」を携えて行ったのであるが、生憎の「雷雨」で、楽しみにしていたキャンプ・ファイヤーは中止と決まった。
 そこで、やること無しに、「天幕」の中でラジオを聴いていたら、流れて来たのは、あの「南里文雄」が「トランペット」を吹いての名演奏『スター・ダスト』であった。
  〔返〕 日本のサッチモ逝きて幾年か雷雨の空に星瞬かず   鳥羽省三


(村木美月)
○  無造作にペットボトルを飲むしぐさ腕と顎との角度が好きよ

 こんな感じ、あんな感じ、どんな感じと、「ペットボトル」を手にして、いろいろポーズをつけてみるのだが、本作の作者・村木美月さんに「腕と顎との角度が好きよ」と言われるような状態にはなかなかならない。
 と言うことは、これは「腕と顎との角度」の問題と言うよりも、ご面相の問題なのかしら?
  〔返〕 重そうにペットボトルをテーブルにそんな怠惰な貴方は居ない   鳥羽省三


(丸井まき)
○  嘘はもう始まっている嫁に行く家のペットを「カワイイ」と言う

 犬嫌いの女性が犬好きの「家」に嫁入りしたら悲劇ですね。
 でも、相手の男性のことが好きで、その男性が親との同居を望むなら致し方ありません。
 <嘘も方便>という言葉もありますから、少し我慢して、<クロちゃん>のことを「カワイイ」と言ってあげて下さい。
 それで姑さんが喜び、家庭内が丸く治まるのでしたら、<儲けもの>といったところでありましょう。
 ところで、結婚後の<丸いまき>さんの姓はどうなるんでしょうか?
 まかり間違って<杉山まき>とか<松原まき>なんてことになってしまったら、一生の笑い者ですからね。
  〔返〕 <只野まき>この頃わたし燃えてます夜昼と無く燃えて燃えちゃう   鳥羽省三

一首を切り裂く(044:ペット・其のⅠ・決定版)

2010年11月23日 | 題詠blog短歌
(夏実麦太朗)
○  何をするでもない春の休日にペット売り場の犬を見ている

 「何をするでも」無く出掛けた「春の休日にペット売り場の犬を見ている」といったことは、まま在り得る事である。
 そんな場面を詠むのが、短歌という文芸様式の積極的に果たすべき役割りの一つである。
  〔返〕 何を買う当てども無しに出掛けたが結局家を買うはめになる   鳥羽省三
 というのは、この8月初めのことでありましたが、今日の場合は、
      ブリキ製のワン公買ひに出掛けしもガレを紛へる照明も買ふ   鳥羽省三
 という、結果になりました。我が家のリビングの照明は、仮住まい時代のものをそのまま使っていたのですが、昨夜からオレンジ色の歪んだガラス製のガレ工房製作品を模したものに替わりました。
 

(松木秀)
○  ペットなら飼うならば遊ぶのならば猫だもちろん殺すのならば...

 この受賞作家は、時々こういう失言をやらかすことがあるのだが、彼が法務大臣でも内閣官房長官でも無いからなのか、それが彼の歌人としての特質乃至は魅力の一つだとして、許容されていたり、賞賛されていたりする向きが無いでも無い。
  〔返〕 ベッドなら買うなら長く使うならパラマウントの医療ベッドを   鳥羽省三


(tafots)
○  バスが来なくて貼り紙を読み尽くす 迷子のペット増えゆく街で

 夏実麦太朗さん作と同様に、こういう事もよく在ることであり、こうした何気ない場面を<五七五七七>の短歌形式に託すのも、優れた歌人の果たすべき積極的な役割りの一つかとも思われる。
  〔返〕 序でにと指名手配の容疑者の顔見たりしてバス乗り過ごす   鳥羽省三


(アンタレス)
○  ペットとし飼いたるインコ手の平に冷たくなりて小さき命逝く

 前作に於いて、剥製となっても家族のみんなから声を掛けられる、と詠まれていた、あの「インコ」ちゃんの臨終場面でありましょうか。
 ごく平凡な表現ではあるが、<アンタレス>さんちの「ペット」として飼われていた「インコ」の「小さき命」を愛おしむ作者の温かい心が一首全体に込められているものと思われる。
  〔返〕 手のひらに余らぬほどの小ささの命惜しめる人の哀れさ   鳥羽省三


(髭彦)
○  他人事と思へぬ病耳なれぬペットロスとふ症候群の

 「ペットロス」とは文字通り「ペットを失う事」であり、その「ペット」を失うと、飼い主やその周辺の者には、様々な精神的・身体的な症状が起こる。
 こうした症状は、ペットたる動物と共生する事によって養われた深い愛情が、突然のペットの死によって向け所を失ってしまうことによって生じるものである。
 その症状の種類や程度の大きさは個人差が大きく、例えば、子供の無い熟年夫婦にとっては、ペットが我が子同然の存在になっている場合があるから、その死によって引き起こされる障害も必然的に大きなものになるのである。
 で、本作に登場する<ペットロス症候群>とは、ペットに死なれたという<ストレス>がきっかけとなって発症した<精神疾患>を言うのであって、その疾患が、精神症状のみならず身体症状となって現れる場合も多いと言う。
 彼の内田百大人の佳作『ノラや』(1957年年)は、未だ<ペットロス症候群>という言葉すら無かった時代に、<ペットレス症候群>を主題として扱った作品として、最近、特に注目されているのである。
 本作の作者・鬚彦さんの周辺には、<ペットロス症候群>に罹っている人物が皆無なのでありましょうか?
 私は、小学生時代に、猫を飼い、兎を飼い、亀を飼い、鶏を飼い、その都度、彼らと死別して来たのであるが、そうした時に味わった大きな失望感は、今になってみれば、<ペットロス症候群>と呼ぶべきものであったに違いありません。
  〔返〕 愛犬を<クロぽん>と呼ぶ信ちゃんも罹ってしまうかペットロス症候群   鳥羽省三
      クロぽんを<この犬>と呼ぶ慶くんは罹るはず無しペットロス症候群      々
 二首の返歌中に登場する<信ちゃん><慶くん>の二人は、旧姓・田中光子さんとそのご夫君・五日市恭祐氏のご愛息です。
 何と驚いたことに、五日市恭祐氏は密かに喫煙を已めていたそうです。


(間宮彩音)
○  踏み出せばふかふかしてるカーペット雲の上かと思いて歩む

 段通でも絨毯でも無く、「カーペット」として買ったからには、それはせいぜい十万円未満の廉価な敷物に違いありません。
 それなのに、「踏み出せばふかふかしてる」と仰り、「雲の上かと思いて歩む」と仰る、本作の作者・間宮彩音さんの生活感覚の何と質素なことよ。
 こういう女性の為にこそ、サンタの伯父さんは豪華なクリスマスプレゼントを用意するべきである。
  〔返〕 我が妻は貰えぬはずのプレゼント我が家の敷物ペルシャ絨毯   鳥羽省三


(リンダ)
○  たわむれのペットでいたい願望は吠えて噛むので調教は無理

 「たわむれのペットでいたい願望」とは、蓮っ葉な女性、美しさと教養に自信を持っている女性にままあり勝ちなことですから、私にもよく解ります。
 また「吠えて噛む」のは犬であるから無理が無いとしても、自分自ら「調教は無理」などと言ってはいけません。
 例えば、この作品にしても「調教」ならぬ<添削>が出来るのですよ。
  〔返〕 戯れにペットで居たい願望で吠えて噛むけど調教可能   鳥羽省三


(わたつみいさな)
○  あなたから手紙が届く春さきはペットボトルのお茶ばかり飲む

 「春さき」の乾燥した空気の中で、渇望の思いと共に「あなたから」の「手紙」を待っていたから「ペットボトルのお茶ばかり飲む」のである。
  〔返〕 来ぬメール待ち焦がれてるこの秋はブルマン珈琲ブラックで飲む   鳥羽省三


(はこべ)
○  庭に置くペットボトルの水替えが日課となりて幾年経ぬらん

 習慣の違いということでありましょうが、私は未だに「ペットボトル」に「水」を入れて、庭先や門前に置いたことはありませんし、その意味についても全く解りません。
 聞くところに拠ると、あれは野良猫除けとか?
  〔返〕 庭に置くペットボトルの水冷えて氷りついても恋人は来ず   鳥羽省三


(ぶらつくらずべりい)
○  気がつけばペットに話し掛けるのと同じトーンで僕の名を呼ぶ

 そういう事ってよくありますよね。
 そうした場合、私は、「彼は私のことを動物並みに扱っているのか」と思って、わざと返事をしないで居たりするのですが、案外、彼は、私のことをペット並みに可愛がっているのかも知れませんよね。
  〔返〕 気がつけばペットの食べる焼き干しを味噌汁作りの出汁雑魚にしてた   鳥羽省三


(六六鱗)
○  ペットとは呼べないほどに肥大した鯉の錦が歪んで痛い

 錦鯉には適正な大きさというものがあるので、一定以上の大きさになると、色と色とのバランスが取れなくなり、「錦が歪んで」見えるのだそうです。
 それと同じことが、日本庭園の植樹と巌組の関係についても言えましょう。
  〔返〕 松五尺巌は一丈この庭の完成時期は約二十年後   鳥羽省三


(梅田啓子)
○  赤き水入れれば赤きペットボトルそのひそやかな淋しさを置く

 殆んどの「ペットボトル」は無色透明だから、「赤き水」を「入れれば赤きペットボトル」になるし、<カルピス>を「入れれば」白き「ペットボトル」になるのである。
 このことに何の不思議があろうかとも思われるのですが、「ペットボトル」たちのそうした在り様は、恰も、環境に馴らされ、流されて行く人間の在りようを見ているようで、本作の作者・梅田啓子さんは、ふと「ひそやかな淋しさ」をお感じになったのでありましょう。
 「そのひそやかな淋しさを置く」とした下の句に風情が感じられる。
 で、五句目の「淋しさを置く」とは、「淋しさ」を湛えた「ペットボトル」を、テーブルの上か何処かに「置く」ということでありましょうか?
 それとも、「淋しい」気持ちそのものをご自身の心の中にしまい「置く」ということでありましょうか?
 そのいずれにしても、お題「ペットボトル」中の白眉とも言うべき傑作である。
  〔返〕 パンパンにファンタ詰めたらパンクしたペットボトルに人の世を見る   鳥羽省三


(野州)
○  先に死ぬこともペットの役割と知りつつ泣いて春を数ふる

 「先に死ぬこともペットの役割」とは、真に卓見である。
 そうは「知りつつ」も、愛犬クロの死んだ「春」になると、毎年毎年、その年を数えて、甥の信ちゃんは人知れず涙するに違いないのである。
  〔返〕 信ちゃんは気が優しくて力持ちママの買い物いつもお供だ   鳥羽省三


(理阿弥)
○  八月のペットボトルの汗ばみを真似たふくらな二の腕を噛む

 本作の作者・理阿弥さんは、季節柄、この頃かなり汗ばんでいる奥様の「二の腕を噛む」こともあるのでしょうか?
 でも、それは<愛噛>と言って、一種の愛情表現として、狐・狸・犬・猫・猿をはじめとして、万物の霊長たる人間も、ごくたまにはやらかすのである。
 したがって、本作の作者・理阿弥さんが、奥様の美肌に<愛噛>をやらかしたとしても、少しも不思議なことではありません。
 いや、むしろ、そうした行為を為すことによって、理阿弥さんの仏様ならぬ人間性が保証されるのでありましょう。
 とは言え、この頃、お宅の奥様の「二の腕」がふっくらとして汗ばむようになったのは、何も「八月のペットボトルの汗ばみを真似た」わけでも無いかとは思われますが。
  〔返〕 霜月のペットボトルは干乾びて妻のお腹に似るべくも無し   鳥羽省三

一首を切り裂く(043:剥・其のⅢ・決定版)

2010年11月22日 | 題詠blog短歌
(豆野ふく)
○ 「父さんは母さんのこと好きだった?」剥き身のアサリに話しかける母

 「父さんは母さんのこと好きだった?」と「話しかける」相手が「父さん」では無くて「剥き身のアサリ」だったとは、いささかならず<意味深>であり、新鮮でもある。
 「母さん」としては、「父さん」の巧みな手捌きによって初めて「剥き身のアサリ」状態にされた、あの日のことを思い出して、現在、自分の目前にあって、あの日の自分の如く「剥き身」を曝している「剥き身のアサリ」に向かって、つい「話しかけ」たくなったのでありましょう。
 でも、よくよく考えてみれば、「好き」でも無い女性を「剥き身のアサリ」にする男性は居ないと思われますから、「母さん」は「剥き身のアサリ」に「話しかれ」て聞いてみるまでも無く安心していて宜しいかと思われます、とは評者の弁である。
  〔返〕 「あの頃は母さんのこと好きだった」と浅蜊の剥き身を噛みながら思う   鳥羽省三
      「でも今は母さんのこと嫌いか」と剥き身の浅蜊は問い質してる        々


(牛 隆佑)
○  告白は大胆にかつ繊細にかさぶた剥がすあの感覚で

 お題「剥」を詠み込んだ作品としては余りにも月並みとも言える、「かさぶた剥がす」「瘡蓋剥がす」といった作品ばかり読まされて、評者はいささかならず辟易していたのである。
 だが本作は、そうした月並みな発想による作品群の中では、まずまずの出来の作品かと思われるので、採り上げることにした次第である。
 そのように判断した理由は、「告白」という慎重かつ切ない決断を要する行為を、「かさぶた剥がす」という、これまた慎重かつ切ない決断を要する行為で以って比喩的に表現した点にある。
 言いたくても言いたくても言えないで居た思い、痛々しくて切なくて苦しい思いを断ち切って「告白」する時の気分は、痛々しいのを我慢して恐る恐る「かさぶた」を「剥がす」時の気分に通うものが在るのでありましょう。
  〔返〕 BCGの注射の跡の瘡蓋を思えば辛し小学時代   鳥羽省三


(生田亜々子)
○  むらさきのあなたを薄く剥がしてはガラス小びんに入れて楽しむ

 「その昔、海水浴の後で海辺のお土産物屋で父から買ってもらった品物の中の一つに、『むらさき』色をした何かがありました。あの『むらさき』色をした何かは、海草の類だったのでしょうか、それとも、染色した貝殻だったのでしょうか? 今となってはすっかり忘れてしまいましたが、その何かを、一枚一枚『薄く』丁寧に『剥がして』、『ガラス』の『小びん』に『入れて』楽しんでいた時代が、確かに私にもありましたよ」とは、乳母日傘(おんばひがさ)で育ったと言い張る我が妻の言葉である。
 その妻と連れ添って四十年余り、彼女の頭髪にもこの頃はすっかり白いものが目立って来たから、「いっそのこと、紫色に染めたらどうですか?」と勧めようかしらとも思わないでも無いこの頃である。
 昨日私たちは、<東京メトロ千代田線>を乃木坂駅で下車して、<サントリー美術館>で行われていた<蔦谷重三郎展>を観た後、<東京ミッドナイトタウン>を徘徊して来たが、同じ<東京ミッドナイトタウン>を徘徊するにしても、白髪頭の女性と徘徊するよりは、紫色に染め毛した女性と徘徊する方が、いくらか増しかと思うからである。
 ところで、作者・生田亜々子さんは、本作に於いて、「むらさきのあなたを薄く剥がしてはガラス小びんに入れて楽しむ」とだけ言っているのであって、私の連れ合いの元乳母日傘の場合とはいささか異なって居て、その「むらさきのあなた」が海草の類とも染色した貝殻とも、何とも仰っていないのである。
 だとすると、生田亜々子さんなる女性は、案外、猟奇趣味の老婆なのかも知れません。
 嗚呼、気持ち悪い。
 でも、少しは剥がされてみたいような気がしないでも無い。
 でも、この歳ではいささか無理な注文かな?
  〔返〕 夜な夜なに少年少女を剥ぎ取ってガラスの小瓶に入れて楽しむ   鳥羽省三


(イズサイコ)
○  付け爪を剥がし女を遣り切った今日も彼にはちゃん付けされた

 「女を遣り」切る為には、「付け爪を剥がし」たり、<付け睫>を逆さに植えたりしなければならないのでありましょうかしら。
 そうかどうかを、この後に出て来る作品の作者・蓮野唯ちゃんに問い質してみようかしらん。
 それにしても、「付け爪を剥がし女を遣り切った」イズサイコさんを、「今日」も「ちゃん付け」して呼ぶとは、作中の「彼」は、あまりに酷い「彼」である。
 その「彼」に一言申し上げます。
 貴方はイズサイコさんを「イズサイコさん」と、ちゃんと呼ばなければなりませんよ。 
 貴方という男性は、女性の人格とプライドを何と心得て居るんですか。
 愛する彼女を「イズサイコちゃん」などと「ちゃん付け」で呼ばずに、「イズサイコさん」と、ちゃんと呼んで上げなさい。
 可哀想に彼女は、「付け爪を剥がし女を遣り切った」のですよ。
  〔返〕  付け爪で咽喉(のみど)に穴を開けられた女の恨みほんに恐ろし   鳥羽省三 


(蓮野 唯)
○  タマネギの皮剥くようにいつまでも本音出て来ずイライラとする

 お久し振りです、蓮野唯ちゃん。
 いや失礼、蓮野唯さんでした。
 大変不躾ながら、最初に先ず、お尋ね申し上げます。
 貴女は「女を遣り切った」と思われる場面を、過去半生に於いて、ご経験なさって居られますか?
 もし、ご経験なさって居られるならば、その場面で、貴女は「付け爪を剥がし」ましたか?
 と、などと評者に尋ねられても、本作の作者・蓮野唯さんは、「タマネギの皮剥くようにいつまでも本音出て来ずイライラとする」ばかりなのかしら?
 ところで、「タマネギ」に「本音」が在るとしたら、その「本音」とは、一体何なのでありましょうか?
 どっどっどっと流れ出る涙なんでありましょうか?
 それとも、タマネギ入りドレッシングのあの爽やかさなのでありましょうか?
 その点についてもお答え下さい、蓮野唯さん。
  〔返〕 新玉のタマネギのごと新鮮な一首ご期待蓮野唯様   鳥羽省三


(たざわよしなお)
○  ゴキブリホイホイですわたくしの胸の薄紙を剥がして下さい

 「ゴキブリホイホイです」と、自ら名乗り出るのは、短歌表現の詠い出しとしては大変目新しい。
 韻律の乱れを犠牲にしてまでも目新しい表現で以って詠い出そうとする、本作の作者・たざわよしなおさんの、冒険心と異能とに先ずは敬意を表します。
 また、そうした特異な上の句に続いて、下の句には「わたくしの胸の薄紙を剥がして下さい」とありますが、よくよく考えてみると、あの「ゴキブリホイホイ」の中身の部分を覆っている薄い紙蓋は、確かに「胸の薄紙」に他なりません。
 この優れた一首をものしただけでも、たざわよしなおさんは、あの穂村弘氏や桝野某氏にも劣らない軽量短歌の名手として賞賛されましょうか?
  〔返〕 身の細る思いしてまでゴキブリを退治するのかゴキブリホイホイ   鳥羽省三


(桑原憂太郎)
○  教室に貼られし「みんな仲良く」の目標べりべり剥がす放課後

 桑原憂太郎先生が只の凡百の教師だったならば、校長に<右倣え>をして、教室に「みんな仲良く」のポスターを貼っていて恥ずかしいとも空々しいとも思わないのでありましょう。
 だが、そんな無神経な教師のままで居るにしては、我らが桑原憂太郎先生のセンスは少しばかり繊細過ぎるのである。
 この評者は「いくら生活に困っても、乞食と教師にだけはなりたくない」と言われた時代の教師であるが、そんな頭の悪い評者にしても、「お弁当はみんなで丸く輪になって食べましょう」とか「みんな仲良く」とか「一人が伸びればみんなが伸びる」といった、学級スローガンのインチキ性は知っていた。
 まして、教師花形時代の桑原憂太郎先生をや。
 「教室に貼られし『みんな仲良く』の目標べりべり剥がす放課後」というこの一首は、桑原憂太郎先生のそんな微細な芸術家センスを、余すところ無くご発揮なさった佳作でありましょう。
  〔返〕 我が胸に焼き付けられし聖職の印し掻き遣り校門を出づ   鳥羽省三
      我が胸に焼き付けられし聖職の印し毟りて紅楼に入る      々


(伊倉ほたる)
○  癖だから剥がしてしまう二枚舌、重ね貼りする値札のシール

 発想の発端は、久々に入った<ブックオフ>の商品棚にずらりと並んだ歌集の「値札のシール」が、二重三重の「重ね貼り」状態になっているのを、目にしたところに在るのでありましょう。
 一例を以って示すと、先日、私が近所の<ブックオフ>で僅か105円で買った、大滝和子歌集『竹とヴィーナス』(砂子屋書房刊)の定価は3000円なのである。
 だが、その<ブックオフ>の<105円棚>には、3000円というその本の定価の数字を隠すような隠さないような感じで、その真下に<1500円>の「値札のシール」をべたりと貼られ、その右横にも更に<500円>の「値札のシール」がべたりと貼られ、更にその右横にも<105円>の「値札のシール」がべたりと貼られている本が埃を被って並んでいて、数々の悔しい体験を重ねた挙句、この頃、歌集と称する書物には<105円>以上の資金を投資しない覚悟を決めている評者の目に止まったのである。
 <大滝和子>さんと言えば受賞歌人であり、今では、ひとかどのプロ歌人として、総合誌などにも作品を発表している著名な歌人である。
 しかも、私がたった<105円>で入手した『竹とヴィーナス』の巻頭には、「無限から無限を引きて生じたるゼロあり手のひらに輝く」「腕時計のなかに銀の直角がきえてはうまれうまれてはきゆ」といった珠玉のような、将来、彼女の代表作品と呼ばれるような作品が掲載されていたのである。
 評者は、本作の作者・伊倉ほたるさんを、大滝和子さん以上の優れた歌人になるような素質を秘めた女流歌人として大いに期待しているのであるが、彼女の繊細そのもののセンスは、世上の物の値段のそうしたインチキ性を逸早くキャッチして、本作を成したのでありましょう。
 ところで、本作の上の句は、「癖だから剥がしてしまう二枚舌」となっている。
 作者・伊倉ほたるさんが、ご自身の性癖ゆえに「剥がしてしまう」のは「二枚舌」では無く、件の歌集の定価を隠すように隠さないように「重ね貼り」された<二枚目・三枚目>の「値札のシール」である。
 したがって、この作品の上の句の末尾の「二枚舌」の「舌」の一字は、この上の句だけを見ていると、思わずやらかしてしまった横綱白鵬関の<勇み足>のような感じでもあるが、それと見せ掛けて、さり気無く「重ね貼りする値札のシール」という下の句に続けて行く手際の素晴らしさは、私のような凡百の歌詠みには、到底考えることも出来ない離れ業なのである。
 事の序でにもう一言申し添えると、昨今は、例の週刊誌の暴露記事の影響もありましょうが、さすがのあの「嵐」ブームも、まるで二百十日の台風の嵐のように過ぎ去ってしまい、私の家の近所の件の<ブックオフ>のCD棚に並んでいる彼らの<CDアルバム>には、<1800円>の「値札のシール」の上に<1500円>の「値札のシール」が、<1500円>の「値札のシール」の上には<1000円>の「値札のシール」が、<1000円>の「値札のシール」の上には<500円>の「値札のシール」が重ね貼りされている始末で、昨日の日曜日は特売日とあって、<500円>の彼らの<CDアルバム>が、たったの<250円>で投売りされていたのであった。
 世上の噂に拠ると、本作の作者・伊倉ほたるさんは、その人並み優れた知性にも似合わず、評者などから見れば只の馬鹿者でしかない、あの人「嵐」の熱烈なファンだとか。
 だとすれば、「癖だから」と「剥がしてしまう」のは、「二枚舌」でも大滝和子歌集『竹とヴィーナス』の「重ね貼り」された「値札のシール」でも無く、同じ<ブックオフ>の<特価CDアルバム・250円棚>に燻っている、<嵐>の<CDアルバム>に「重ね貼り」されている「値札のシール」かも知れません。 
 と、申すのは、それが素朴な<ファン心理>というものだと、評者は密かに思っているからなのです。
 お気の毒さま。
 御身お大事にお過ごしあれ。
  〔返〕 癖なれば少しけち付け誉めもする二枚舌かも鳥羽省三は   鳥羽省三
 この傑作については、もう少しの解説を要するかと思われる。
 優れた短歌の魅力の一つに、<批評性>ということがある。
 これまで、この短歌について私が論じて来たことの要点は、この短歌の持つ<批評性>についてであったが、批評性をテーマとした短歌が、単に批評性だけで終わったならば、その魅力は限定的なものとなる。
 一例を上げて説明すれば、彼の寺山修司の名作「マツチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」の魅力の一つは、戦前から戦後へと価値観が百八十度変わった事への<批評性>であるが、この名作が名作として謳われる理由は、この作品には、前述の<批評性>に加えて、青春時代を生きる者の<放浪性><不良性><浪漫性><憧憬性>などの数々の複雑な性格が備わっているからである。
 で、本題の伊倉ほたるさん作「癖だから剥がしてしまう二枚舌、重ね貼りする値札のシール」にも、前述の通りの<批評性>の他に、倒錯的隠微的な<性的魅力>が備わっていると思われるのである。
 作中の「二枚舌」は、彼の「嵐」の連中の巧みな<舌技>とも、「重ね貼りする値札のシール」は、彼らが年増女性を相手にする時に二重に三重に身に纏う下着などとも思えば、この作品の魅力は、一気に二倍増、三倍増するかと思われるのである。
 もう一点、本作の作者について言えば、こうした手の込んだ名作を投稿する知性的な女性が、その知性をかなぐり捨てて、あの低能集団、痴漢集団としか思われない「嵐」の連中の熱烈なファンとなって狂う所に、女性の可愛らしさ、面白さが在り、女性のみならず、人の世の面白さが在るのである。
  〔返〕 この際は知性も品も捨てちまえ嵐吹いたらどうせずぶ濡れ   鳥羽省三   

(黒崎聡美)
○  毎日をまわりのせいにしていると気がつきつつも独活の皮剥く

 「気がつきつつも独活の皮剥く」という下の句のセンスは大変素晴らしいが、上の句で「毎日をまわりのせいにしていると」と言うだけでは、具体性に乏しくあまり説得力が無いと思われる。
  〔返〕 独活食へば物忘れするその事を知るや知らずや黒崎聡美   鳥羽省三


(振戸りく)
○  剥ぎ取ったパーツを元に戻す時ひとつひとつに口づけをせよ

 作中の語「パーツ」を「パンツ」と読み違えてしまったのは、評者の視力の劣化が原因なのでありましょうか?
 それにしても、本作の作者・振戸りくさんもお名前に似合わず、大変危なっかしいことを仰るものである。
  〔返〕 剥ぎ取った瓦を元に戻すとき一枚一枚粘土でとめた   鳥羽省三
 屋根瓦を固定する時は、その一枚一枚の裏側に粘土を塗って固定するとか。
 評者もまた、ひょっとするとひょっとしかねない、本作のイメージを修復し固定する為に、敢えて上記のような地味な作品を返歌とさせていただきました。


(山田美弥)
○  案外に広かった部屋にひとつずつ君の剥製並べていった

 これは、<男性不信症候群>ないしは<男性願望症候群>に陥った女性の見た<真夏の夜の夢>の世界なのである。
 「君の剥製」とは、本作の作者・山田美弥さんをさんざん弄んで捨てた彼の「剥製」でありましょう。
 その<彼>の「剥製」を幾体も作って、今となっては独り寝するばかりの「部屋」に並べて行ったら、まるで<ドミノ倒し>の<ドミノ>のように、その「剥製」が幾体あっても足りずに、それで以って、かつては彼と暮していた自分の部屋が、「案外に広かった」ということを知った、というだけの話である。
  〔返〕 彼の居ぬ心の隙が感ぜしむⅠDKの部屋の広さを   鳥羽省三
 

(お気楽堂)
○  始発待つ時間の無頼ひとりなれば剥げた化粧をなおす気もなし

 本作の作者・お気楽堂さんは、歌舞伎町のホストクラブのナンバーワンなのでありましょうか?
 明け方までのお勤めを終えて、新宿駅で「始発」電車が発車するまでの「時間」を「待つ」三十分ほどは、年増女性に体当たりしての、昨夜来のサービスに努めた疲れが原因で「無頼」な気持ちになって居り、しかも、その時間に新宿駅の高尾方面行きのホームに居るのは、自分「ひとりなれば剥げた化粧をなおす気もなし」と仰っているのでありましょう。
 何処で誰が見ているか分からないのが、この世の中の常なのです。
 そんなに「無頼」なお気持ちにならずに、コンパクトぐらいは使いましょう。
  〔返〕 この頃は女性もいるぞ<JR東日本>給料が良い   鳥羽省三


(久哲)
○  いかにも消火栓だったという顔で剥離したんだろう赤ペンキ

 「消火栓」は、「赤ペンキ」にも嫌われるのか?
 鳴かず飛ばずの<久哲>さんが、久々に放った快打である。
  〔返〕 消火栓犬が小便ひっかけて赤いペンキが一年もたず   鳥羽省三  


(bubbles-goto)
○  湯剥きしたトマトを残しそのまんまローマへ向かうマストロヤンニ

 名画『8 2/1』や『ひまわり』などに出演した、世界的大スター<マルチェロ・マストロヤンニ>は、1924年にイタリア北部の小都市<フォンターナ・リーリ>の家具職人の家に生まれたが、いろいろと曲折の在る生活を経た末、第二次世界大戦が終結した1945年に、演劇界に入る為に「ローマ」に向かったと言う。
 その際、彼「マストロヤンニ」が、それまでの荒んだ住居のキッチンに「湯剥きしたトマトを残しそのまんまローマ」へ向かったかどうかについては、評者の知るところではありません。
 しかし、<イタリア>と言えば<マカロニ>であり、<マカロニ>と言えば「湯剥きしたトマト」であるから、この着想はなかなかに素晴らしい。
  〔返〕 採って来たわらびの灰汁(あく)抜きせぬままに上京したのか柳葉敏郎   鳥羽省三
 あの大スター・柳場敏郎さんの故郷は、ブナ林と山菜以外には、何にも名物の無い田舎です。


(わだたかし)
○  傷はもうとっくに癒えたはずなのに絆創膏は剥がせずにいる

 大相撲の琴欧州のことでありましょうか?
  〔返〕 負けた時怪我で負けたと言えるから絆創膏は剥がずに置こう   鳥羽省三


(今泉洋子)
○  感情が漲つてくる可惜夜(あたらよ)に子宮のかたちの洋梨を

 「可惜夜に子宮のかたちの洋梨」を剥くことは出来ても、洋梨のかたちの子宮を剥かれることが出来なくなったのが、本作の作者の数在る悩みの一つでありましょうか?
 ことほど然様に、今泉洋子さんは女性として用無し(洋梨)になって仕舞われたのである。
 かくなる上は、旅行と詠歌三昧の生活に浸る他無し。
 とは言えど、「可惜夜」に「あたらよ」と振り仮名を施さなければならない性癖が、いささか苦しい。
  〔返〕 あたら夜を見向きされずに独り居て子宮の形の洋梨を剥く   鳥羽省三
 またまた、大変失礼申し上げました。
 この男は、<ああ言えば上佑>の類でありましょうか?


(ゆらり)
○  剥がされるものたち集う秋祭り 太鼓三味線 声高く鳴る

 事の序でに、「秋祭り」の際に「剥がされるもの」をもう一つ付け加えれば、<薦被りの樽神輿の樽>である。
  〔返〕 そのかみの秋祭りの夜に剥がされてそれが機縁の夫婦(めをと)なりしも   鳥羽省三


(帯一鐘信)
○  アイドルの水着写真の八月を剥がすときまで毎年生きる

 それでは、「八月」以降の数ヶ月の生活は、まるで<生きてる屍>みたいなもんでしょう。
  〔返〕 アイドルのヌード写真が剥がされる大晦日までせめては生きよ   鳥羽省三


(イノユキエ)
○  昼月に爪立てて空の表面を剥げば祈りの声は降りふる

 「昼月に爪立てて空の表面を剥げば」という発想が大変宜しい。
 また、「空の表面を剥げば祈りの声は降りふる」という発想も少しは宜しい。
 故に、全体的にはなかなか宜しい。
  〔返〕 昼月に鶏冠逆立て軍鶏が鳴く我は密かに不倫してゐる   鳥羽省三


(小林ちい)
○  剥製と目が合ったから君の手を握り損ねる小さな駅で

 北海道や東北や九州の田舎の駅舎に、その土地に棲息する大型動物の「剥製」が飾られている光景は、よく目にすることである。
 旅の途中の下車駅でも無い「小さな駅」で、そうした大型動物の「剥製」と「目が合った」としたならば、「君の手を握り損ねる」ことだって大いにあり得ましょう。
 「旅の恥は掻き捨て」との、邪まな心が動物に見透かされたような気になるからでありましょうか?
  〔返〕 生きている熊と間違うふりをして彼女の胸にしがみ着いちゃお   鳥羽省三 


(村上きわみ)
○  剥がれゆく秋の本意を汲みかねて噴き上げの水はつか傾く

 「剥がれゆく」のは公園の紅葉した木の葉でありましょう。
 そんな美しい木の葉たちが散り急ぎ、樹上から「剥がれゆく」のを見て、その「本意を汲みかねて」「噴き上げの水」が「はつか傾く」こともありましょう。
 「噴き上げの水」になり代わって、評者がその心を説明して言えば、「君たち、美しい木の葉たちよ。君たちは君たちの生涯の中で、今が最も美しく輝いている時である。それなのに、どうして亦、そんなにも散り急ぐのか? 私は君たちの本意が汲みかねるから、ここにこうして首を傾げ、傾いて噴き上げているのだ」というところでありましょうか?
  〔返〕 こんなにも冷え勝りたる秋空に噴き井の水は何故に噴くのか   鳥羽省三


(闇とBLUE)
○  理科室で雲母が剥がされていくように私のくちびる恥ずかしがった

 「理科室」と言ったら「雲母」の標本。
 その「雲母」の標本と言ったら「剥がされていく」と来る。
 本作の上の句「理科室で雲母が剥がされていくように」までは、下の句中の「恥ずかしがった」を導き出す為の<序詞>的な役割りを果たしているのである。
 で、「私のくちびる恥ずかしがった」とは、作中に名乗り出て来ない<少年>が、作中の「私のくちびる」を吸うのを「恥ずかしがった」ということでありましょう。
 つまりは、本作は、中年女性の少年愛の世界を扱っているのである。
  〔返〕 一重また一重一重と剥がさるる雲母の如き君の衣衣(きぬぎぬ)   鳥羽省三


(勺 禰子)
○  全剥(うつはぎ)に剥ぎて並べて満開の桜の花の下で畢(をは)んぬ

 「満開の桜の花の下」には、全裸死体がごろごろ埋まっている、という次第に相成るのでありましょうか?
 本作は、詠い出しに「全剥」、詠い納めに「畢んぬ」という堅い語を用いているが、名代の気取り屋たる本作の作者・勺禰子さんとしては、この際どうしても、古文書学で教わった、これらの語を用いたかったのでありましょう。
  〔返〕 うつ伏せに全裸死体を重ね埋め死者らの恥を少なくせむか   鳥羽省三

一首を切り裂く(043:剥・其のⅡ)

2010年11月21日 | 題詠blog短歌
(蝉の声)
○  君もわれも無印良品レッテルやエンブレム剥がして真夏の海へ

 「無印良品」販売コーナーが老舗デパートの中に設けられたりして、今や「無印良品」の商標も一躍「エンブレム」の様相を呈して来た。
 そうした中で私がいつも思っていることは、街の目抜き通りにデカデカと掲げられている「無印良品」の看板の「印」の字と「良」の字の間に、宵闇に紛れて「不」の字を書いてくる怪盗が現れないか、という果敢ない望みである。
 私ですか?
 十年前ならいざ知らず、今となっては足腰も立たなくなっている私には、そんなサーカスみたいな離れ業は出来ません。
 それに第一に、今の都会には<宵闇>と言えるような<漆黒の闇>はありませんし。
 私がいつも思っているのは、彼のボードレールが夜な夜なほっつき歩いた、十九世紀半ばのフランスの都・巴里の宵闇なんですよ。
 十九世紀半ばの巴里の夜は、街の中も人の心の中も、まさしく漆黒の闇そのものであった。
 だが、尤も十九世紀半ばの巴里には、「無印良品」の看板が掲げられている筈はありませんが。
 ところで、本作の作者<蝉の声>さんたちは、「レッテルやエンブレム」を「剥がし」た自分の肌に、毒蜘蛛模様の写し絵を貼って「真夏の海へ」行くのでありましょうか?
  〔返〕 「無印」とは印し無きこと、だとすれば「無印良品」看板無用   鳥羽省三 


(すくすく)
○  モンスター倒して剥いだ皮などで武器を作って売るのが家業

 巨大帝國・アメリカの権威が失われた今の世の中には、「モンスター」らしき「モンスター」は何処にも居りません。
 したがって、本作の作者<すくすく>さんがせっかくご創業なさった「家業」も、どうやら開店休業状態に置かれていると思われます。
 尤も、アメリカの後を襲って「モンスター」たらんとしている国が、我が国の直ぐ近くにも在りますが。
 でも、彼の国の面の皮はかなり厚くて、剥ぐにも剥げない程だと思われます。
  〔返〕 レアアース高く売りたい魂胆の見え見え国家の面の皮剥げ   鳥羽省三


(高松紗都子)
○  剥きだしの感情ひとつ抱きしめて流されてゆく渋谷坂下

 今の渋谷駅界隈には、何方でもご存じの「道玄坂」「宮益坂」の他に「間(あいだ)坂」「間坂(まさか)」「金王坂」「八幡坂」「南平坂」「かめやま坂」「天狗坂」「オルガン坂」「スペイン坂」と、至る所「坂」だらけであり、したがって、今の渋谷駅の辺りはその坂のどん詰まりの吹き溜まりのようなものである。
 本作中の「渋谷坂下」とは、おそらくは「宮益坂下」を指すものであろう。
 青山通りから「宮益坂」を下り詰めれば渋谷駅。
 本作の作者・高松紗都子さんは、お年頃に似合わず、その「渋谷坂下」を、何の理由があって、「剥きだしの感情ひとつ抱きしめて流されてゆく」のでありましょうか?
 そこに、中年男女の実らぬ恋、不倫の恋の存在を感じているのは、評者一人では無いでしょう。
  〔返〕 過ぎし日のスペイン坂の出逢いにて契り交わした今日の再会   鳥羽省三


(五十嵐きよみ)
○  付け髭が剥がれかけても慌てずに何もなかった顔で押し切れ

 五十嵐きよみさんには「付け髭」がお似合いである。
 時ならぬ雨に降られて、その「付け髭が剥がれかけても慌てずに何も無かった顔」で、今夜の晩餐会は「押し切れ」という訳でございましょう。
 大変結構なお心掛けと拝察申し上げます。
  〔返〕 描き眉が崩れかけたらお仕舞いとタクシーの中ブラシ探して   鳥羽省三

一首を切り裂く(043:剥・其のⅠ)

2010年11月20日 | 題詠blog短歌
 数週間ぶりに「一首を切り裂く」の稿を綴っている。
 私が短歌鑑賞の筆を執ったそもそもの出発点は、この<題詠企画>の投稿作について、ただ単に、これが好き、あれが嫌いといったことだけでは無く、作者の創作意図とか、それぞれの作品に込めた作者の情熱とかを探ってみたいと思ったことであったので、少し大袈裟に言えば、まるで故郷に帰って来たような気持ちがしないでもない。
 故郷と言えば、妻の父親の兄に当たる者が北東北地方の果樹栽培の権威とも言うべき存在で、生前にはNHKのテレビやラジオなどに引っ張り出されたり、彼方此方の農業団体に招かれて講演をしたりする人であったから、在宅中は、農業関係の出版社などから依頼された原稿執筆に余念が無かったと言う。
 その連れ合いに当たる女性、つまりは私の妻の義理の伯母を当たる女性は、美しさと手先の器用さと家計の始末の上手さだけが取り得の女性であった。
 随分誉めてしまったような感じであるが、評者としては悪口を言っているつもりなのである。
 でも、女性として、美しさと手先の器用さと家計の始末の上手さという三条件が備わっていれば、それで百点満点なのかも知れません。
 貶すつもりで書こうとした文が誉める結果となってしまったから、一先ずは軌道修正をして話を続けよう。
 果樹栽培の権威者として、その方面の論文執筆に余念の無かった男性の連れ合い、つまりは、私の妻の義理の伯母は、その連れ合いの伯父とは異なって、昨今の世の中で言うところの<一般教養>らしきものは、ただの一欠片も持ち合わせない女であったが、それでも、彼女は彼女なりに、自分の夫がいつも机に向かって原稿書きをしていることが嬉しかったらしくて、隣り近所の人たちに、「うちの夫はゲンコン(げんこうに非ず)書きばっかりしていて、忙しくて忙しくて、夜も昼も私の相手なんかしてくれません。私はそんな夫に、あまりゲンコン書きばかりしていると身体を壊してしまうから、たまには他所のお父さんみたいにお酒でも飲みなさいと言うんだけど、それでも夫は止めないんだよ。本当にあんまり偉い夫を持つことは良し悪しでもあるし、お互いにあんまり嬉しいとも言えないね。茂世子さん」などと触れ回っていたということである。
 事の序でに、もう一つ注釈をすると、「お互いにあんまり嬉しいとも言えないね。茂世子さん」と話し掛けられた<茂世子さん>のご夫君の篠山雅幸さんは、地方新聞の記者であった。
 私の妻は、そんな義理の伯母の義理の姪だから、私がパソコンに向かっていると、「またゲンコン書きをしているんでしょう。書いても書いても一文の得にもならないくせして」などと言ってからかうのである。
 その妻も、ここ数日は、鼻炎とか風邪とかで元気が無く、今朝はもう七時半を過ぎたのに、未だに寝床からもそもそ這い出して来る気配を示さない。


(夏実麦太朗)
○  剥がされた光GENJIのポスターのなかなるひとのそれぞれの今

 そう言えば、「光GENJI」とか言う、じゃりタレグループが居ましたよね。
 彼らは今頃、ジゴロにでもなっているんでしょうか?
  〔返〕 剥がされた夏目雅子のポスターの諸肌脱ぎの艶なる記憶   鳥羽省三


(松木秀)
○  男なら経験済みだ亀頭から乾いたティッシュを剥がす痛さは...

 松木秀さんは自家発電専門ですか?
  〔返〕 陰処(ほと)拭い丸めて捨てた花紙の今朝は開いて薔薇薔薇薔薇だ   鳥羽省三


(tafots)
○  あたらしきバターの銀紙剥がすとき 何かやましき嬉しき心地

 対象物の如何を問わず、何かを「剥がすとき」に感じる、「何かやましき嬉しき心地」は、万人共通のものだと思われる。
 ところで、私は未だに、本作の作者<tafots>さんの性別や年齢を存じ上げない。
 年齢はともかく、性別は女性なんでしょうか、男性なんでしょうか?
 そこで、<tafots>さんにお尋ね致しますが、あなたは剥がされた方ですか、それとも剥がした方ですか?
 尤も、男性であったとしても、飛び切りの美形であったりしたら<剥がされる>場合もありましょうが。
  〔返〕 大吟醸<美少年>の王冠剥ぐ時は惜しくもあるし嬉しくもある   鳥羽省三


(映子)
○  泡立てたボデイーソープで剥がせると   タカをくくった 昨日が粘着く

 「泡立てたボデイーソープで剥がせる」のは、写し絵の刺青ぐらいのもんでしょう。
 したがって、「昨日」汚したあそこの「粘着く」ような感覚は、何時まで経っても、どんな高価な「ボデイーソープ」で洗っても、絶対に取れませんよ。
 何故ならば、それは、物理的と言うよりも、心理的な汚点だからなのです。
 ところで、三句目と四句目、四句目と五句目の<数字空き>には、一体どんな意味があるのでしょうか?
 ただ何と無く、漫然としてやっているのだとしたら、即刻止めた方が宜しいかと思います。
  〔返〕 よく練ったジェームス・ボンドでくっ付くと思って分かれた彼が恋しい   鳥羽省三

 
(アンタレス)
○  母子して目を泣きはらし看取りたるインコの剥製未だ声かく

 久し振りにアンタレスさんの御作を読ませていただく。
 今年の冬は夏の暑さと逆比例して意外に寒そうだから、お身体を大切に。
 また、春先には、例年の倍以上のスギ花粉が舞い散るとの予報であるから、その方面にもご注意下さい。
 「インコ」に限らず、長い間愛育して来た生き物が命を落とすのを看取るのは堪え難い。 
 私の妻などはこの十月に買って来た十匹の金魚のうちの二匹が死んだからといって、未だにその衝撃から立ち直れないで居るみたいで、「あなたって人は、私とは別人種なのかしら。私の金魚が二匹も死んだっていうのに、いつもいつも高野公彦さんと加藤治郎さんの悪口ばっかり書いていて、信じられないわ。この間、買って来てから一週間も経たないのに、あの赤くて可愛いのが死んだのに、昨日は大きくて丈夫そうな黒いのも死んだのよ。加藤治郎先生の祟りかしら」などと、まるで見当違いのことを仰るのである。
 金魚を呪い殺した<生霊>にされてしまうとは、いくら何でも、あの加藤治郎大先生も可哀想である。
 そんなこんなで、アンタレスさん「母子」は、「目を泣きはらし」ながら「インコ」の死を「看取り」、その亡骸を「剥製」にしておき、今でもまだ「インコちゃんお早うございます」「インコちゃんお休みなさい」などと、「母子」して「声」を掛けていらっしゃるのでありましょう。
 もし、そうだとすると、評者の私としても、大変切ないことでございます。
  〔返〕 剥製のインコに優しく声掛けて娘はたまにお里帰りす   鳥羽省三
 

(西中眞二郎)
○  この角もビル壊されて裏のビル剥き出しとなる窓なきままに

 あちらの「ビル」もこちらの「ビル」も無惨に壊されて、<都市再開発事業>とやらが、また始まったのである。
 本作の作者・西中眞二郎さんは、かつてのキャリア官僚である。
 「壊され」た「ビル」の「窓」に、こんなにも心を寄せる官僚がもう少し多かったならば、国土交通省の雰囲気も、もう少し風通しのいいものになっていたに違いありません。
  〔返〕 お役所に窓は在っても其処に居る役人どもには窓一つ無し   鳥羽省三


(髭彦)
○  身ぐるみか化けの皮かは知らねども剥ぎてみたばや将軍たちの

 「将軍たち」とは、江戸幕府歴代の「将軍たち」を指すのでありましょう。
  〔返〕 江戸幕府初代将軍家康は化けの皮剥いでも古狸なり   鳥羽省三


(船坂圭之介)
○  夢をまた剥離されしや屈まりて眠るロシアン・ブルーの眼の仔

 「ロシアン・ブルーの眼の仔」とは、どんな種類の猫なんでしょうか?
  〔返〕 夢をまたレースに繋ぐプロシアン・ブルーのシャツ着た山梨学院


(黒崎立体)
○  背中から剥がれた羽根に気付かずに少女は角を曲がっていった

 登校途上の女子児童の「背中」には、確かに「羽根」が生えているような気がします。
 下校途中の女子高生の中には、確かに「背中」の「羽根」が「剥れた」ような少女が居ます。
  〔返〕 背中から生えてた羽根を剥がすのも教師の役目であるのだろうか   鳥羽省三


(野州)
○  路地に沿ふ塀はペンキを剥がしつつねこを通せる破れ目を持つ

 一般的な言い方をすると、「路地に沿ふ塀はペンキを剥がしつつ」では無くて、「路地に沿う塀からペンキは剥れつつ」と言うのでありましょうが、本作の場合は、「ねこを通せる破れ目」作る為に、「路地に沿う塀」は自発的積極的行為として「ペンキ」を剥がす、のだと言っているのである。
 「猫にも主体性」が流行語になった時代が在ったが、昨今は「塀にも主体性」の世の中なのであろうか?
  〔返〕 路地に沿う垣根に咲ける朝顔が今では雑草扱いだとか?   鳥羽省三


(理阿弥)
○  沸きをらぬ湯槽に二月飛び込めりザボンの剥きやう考えてゐて

 間抜けな理阿弥さんである。
 「ザボン」で<ザブン>とは是のことかしら?
  〔返〕 この頃はコメント寄せない理阿弥さんお風邪召されて元気無いのか   鳥羽省三


(青野ことり)
○  丁寧に剥かれた皮を花にする 甘夏柑の匂いの指で

 <ことりごと>の世界としては、なかなかに意味深な作品である。
 彼の手によって「丁寧に剥かれた」ご自身の肌を「甘夏柑」のような「匂い」のする自分の「指」で擦り擦りして、「花」のように美しく染める、という意味なのでしょうかしらん?
 だとすれば、それは本番を前にしての<自発的自慰的前戯>と位置付けられましょうか?
  〔返〕 てのひらが甘夏柑の香りするミューズ石鹸よい石鹸ですね   鳥羽省三

今週の朝日歌壇から(11月14日掲載・其のⅣ)

2010年11月19日 | 今週の朝日歌壇から
[永田和宏選]
○ 七分間のシャワーのあるを知りてより湯に浸るたび君を思いぬ  (池田市) 森下文子

 はっきり申し上げて、このままの形で作者ご自身の創作意図やご意志を充分に読者に伝えたることが出来ると思っているとすれば、それは作者ご自身の一人合点というものでありましょう。
 多少舌足らずであっても、鑑賞者が作者の思い通りに解釈してくれるだろうと思っていらつしゃるとすれば、それは作者の我が儘身勝手であり、表現の未熟さである。
 いろいろのケースが想像されて面白くなるような場合とは異なって、本作の場合は、単に、作者の思いに表現が追いつかなかった、というだけのことでありましょう。
 選者の永田和宏氏におかれましても、こうした推敲の余地のある作品を、入選作首席として採り上げることはいかがなものでありましょうか。
  〔返〕 百円で七分間のシャワーとか入浴するたびそのこと思う   鳥羽省三 


○ 魚道をば鮠がのぼりてゆく如くだんだん満ちてくる子の言葉  (青梅市) 石田武美

 幼い我が「子」の「言葉」の充実ぶりを「魚道」を「のぼりてゆく」「鮠」の様子に見立てたのであるが、その発想自体は大変新鮮で宜しい。
 但し、「だんだん満ちてくる」という繋ぎ語に「やや推敲の余地あり」かと、評者は思うのである。
 要するに、「子の言葉」が「満ちてくる」ということは解るが、「魚道」を「鮠がのぼりてゆく」場合、何が「満ちてくる」のか、其処の辺りが曖昧なのである。
 「鮠」の勢いかとも思われるし、「魚道」の水の勢いかとも思われるのである。
 多少舌足らずであっても、鑑賞者が作者の思い通りに解釈してくれるだろうと思っていらっしゃるとすれば、それは作者の我が儘身勝手であり、表現の未熟さである。
 いろいろのケースが想像されて面白くなるような場合とは異なって、本作の場合は、単に、作者の思いに表現が追いつかなかった、というだけのことでありましょう。
  〔返〕  魚道をば鮠一列に上るごと滑らかになる我が子の言葉   鳥羽省三
   

○ 突然にこおろぎ橋に行きたいと降り立つ君はあの時のまま  (神奈川県) 中沢洋之

 「こおろぎ橋」は何処に在るのでありましょうか?
 この一首に接して、私も「突然にこおろぎ橋に行きたい」と思いました。
 とまで記した後に、私の心の中にひょいとある思いが頭を擡げて来たので、インターネット辞書<ウィキペディア>を検索したところ、その中に「こおろぎ橋」について、次のような記事が記載されていたので、大変失礼ですが、その記事をそのまま無断で引用させていただきました。

 「こおろぎ橋は、石川県加賀市山中温泉(旧:江沼郡山中町)の大聖寺川にかかる橋である。江戸時代に造られた橋と言われ、かつての形や構造を殆ど変えず総檜造りで1990年(平成2年)に新たに架け替えた。山中温泉のシンボル的存在であり、1978年に同名のテレビドラマが樋口可南子主演で放映された。大聖寺川はこの橋から下流へ約1km余りの黒谷橋にかけて鶴仙渓と呼ばれる渓谷を作り景勝地として知られる。名前の由来は落ちると危険な事から<行路危>が転じたという説と昆虫のコオロギによるという二説が伝えられてきたが最近では「清ら木」から転じたとされる。元禄年間には橋が存在したとされるが元禄2年に山中温泉で長逗留した松尾芭蕉の奥の細道や同行した河合曾良の日記には登場しない。<漁火にかじかや波の下むせび>と芭蕉が詠んだ句碑が橋の傍にある。」
 以上で引用終わり。
 なお、この橋を舞台にしたドラマ「こおろぎ橋」が、1978年<ポーラテレビ小説>の一環として<TBS系>テレビで放映され、そのドラマの主題歌「こおろぎ橋(作詞-門谷憲二、作曲・編曲・歌唱-丹羽応樹)も、同年にキングレコードから発売されて話題となったそうだ。
 ということは、私の思った通り、本作は<テレビ・ネタ>でした。
 しかし、作者の中沢洋之さんは、実際に現地にいらっしゃったに違いありません。
 五句目に「あの時のまま」とあるところから推してみるに、作者とその同行者の「君」とは、数年隔てて「こおろぎ橋」に二回もいらっしゃったのでありましょう。
 ところで、私は、その当時のことを全然知らなかったのですが、あの人気女優・樋口可南子さんのデビュー作が「こおろぎ橋」だったそうです。
  〔返〕 人と人の心を繋ぐこおろぎ橋行路危うきその橋渡る   鳥羽省三


○ 何もないのが心に残るローカル線木造駅舎のある温かさ  (大阪府) 宮本 秀

 「何もないのが心に残る」とは、一種の<思い込み>でありましょうが、こうした<思い込み>の根は以外に古くて深い。
 一例を挙げれば、彼の有名な<三夕の歌>中の藤原定家作「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ」から感得される<わび・さび>などは、典型的な<思い込み>から来る<美>でありましょう。
 作者たる定家自身が「見わたせば花も紅葉もなかりけり」と言っているのだから、その「浦のとまや」には、<美>とするに足るものが何ら無く、ただ寂び寂びとしているのであ。
 それと同じように、本作中の「ローカル線」には、作者ご自身がおっしゃっているように「何もない」のであるから、「心に残る」と言うのは<思い込み>としか言いようがありません。
 「木造駅舎」と来れば「温かさ」と反応するのも、実感と言うよりも、先行作品を読んで学習したことが原因で起こる<思い込み>でありましょう。
 「何もない」とは、「心」にも「何も」残らないということである。
  〔返〕 何も無いから気に掛かる月給日前の私の財布空っぽ   鳥羽省三
 

○ ゼロ磁場とふ分杭峠の走り根に座してもみぢの天蓋あふぐ  (飯田市) 岡田まつ子

 「ゼロ磁場」及び「ゼロ磁場」の地として近年有名になった「分杭峠」についての解説はやめましょう。
 科学的知識に乏しい私が、その解説をするのは、かなり背伸びしなければならないからであり、私が解説出来る程度の知識は、読者の皆様がとっくの昔にお持ちであろうと思われるからでもある。
 「走り根」とは、盆栽用語で言うところの「土中に於いて、他の根に比べ極端に長く伸びた根のこと」を指すのでありましょうか?
 だとすれば、それは地面から一段と盛り上がって大きい樹木の「根」であり、本作の作者・岡田まつ子さんは、女だてらに、その「根」にどっかりと腰を下して、「天蓋」のように覆い被さっているその樹木の紅葉した葉を、まるで天下取りの宿願を果たした木下藤吉郎のような気分で仰ぎ見ているのでありましょう。
  〔返〕 分杭の峠は洞ヶ峠にて天下の形成うかがふ峠   鳥羽省三
 

○ 「晩年」という語さみしく響くときその晩年の笑みを思いぬ  (東京都) 白石瑞紀

 「『晩年』という語」は、その字面からしても、その読みからしても、確かに「さみしく響く」と思われる。
 その「『晩年』という語」を口にしてみて「さみしく響くとき」、本作の作者・白石瑞紀さんは、ご自身の血縁者たる何方かが、「その晩年」にふと浮かべた「笑み」の「さみしさ」を、「思い」出してしまったのでしょうか?
 老境に達して、明日をも知れぬ状態で生きている者が、その顔面に、ふと「笑み」を浮かべることは、確かに在り得ることであり、その「笑み」は、それを見ている者が鳥肌を立てる程の「さみしい」「笑み」であると思われる。
 したがって、この作品は、人間としての普遍的なテーマを扱った作品とも申せましょう。
 それだけに、必然的に<既視感>も伴っているのである。
  〔返〕 末期とふ言葉の寒く響くとき父に与へし末期の水よ   鳥羽省三


○ 吟行の列忽ちに乱れけり通草の熟るる径に入りて  (神戸市) 内藤三男

 まるで、スーパーマーケットの<今日の目玉商品・限定二百パック・赤殻卵・九十八円>に殺到する女どもみたいです。
 「通草」は種ばかり多くて、見掛けほど美味しくはないのですよ。
 その美味しくもない物の皮まで食べるのは、山形賢人ぐらいのもんでありましょうか?
 おっと失礼、「山形賢人」では無くて「山形県人」の間違いでした。
  〔返〕 六甲の山にもあけびの実の熟し熟女のお腹に納まるのかい   鳥羽省三


○ こぼれ種の夕顔ほわっとしろく咲き隣家にもらった夕ぐれがある  (浜松市) 松井 恵

 「こぼれ種の夕顔」が「ほわっとしろく」咲いているのは、寡婦だけが住み、手入れの行き届いていない「隣家」の生垣である。
 本作の作者・松井恵さんは、その「隣家」から「もらった」美しく淋しいイメージの「夕ぐれ」の雰囲気を一首の歌に詠もうとしているのでありましょう。
  〔返〕 我もまた寂しき身寄り殿ばらよ夕顔を見に立ち寄りたまへ   鳥羽省三


○ ひそやかに書棚の奥のしらまゆみハル9000をだれも待ちいる  (鎌倉市) 大西久美子

 作中の「ハル9000(HAL9000)」は、SF小説及びSF映画の『2001年宇宙の旅』や『2010年宇宙の旅』などに登場する、人工知能を備えた架空のコンピュータである。
 インターネット辞書『ウィキペィデア』には、「映画版では1992年1月12日、クラークによる小説版では1997年同日に、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校にて誕生したとされている。開発者はシバサブラマニアン・チャンドラセガランピライ、通称チャンドラ博士。木星探査(小説版では土星探査)のための宇宙船ディスカバリー号に搭載され、船内すべての制御をおこなっていた。チューリング・テストをクリアする程の高度なコンピュータである。姉妹機に<SAL9000> がある。探査ミッション遂行のため、<HAL 9000>は乗員と話し合い協力するよう命令されていた。しかし一方で、密かに与えられたモノリス探査の任務について、ディスカバリー号の乗員に話さず隠せという命令も受けていた。『2001年宇宙の旅』の最後では、これら二つの指示の矛盾に耐えられず異常をきたし、乗員を排除しようとしたと考えられている。乗員が(死んで)いなくなれば永遠に話さずに済む。ミッションは自分だけで遂行すればいいと<HAL9000>は考えたのである。このことから、『コンピュータの反乱』の象徴ともなっている。その後、<HAL9000>の異常に気付いたディスカバリー号船長ボーマンによって自律機能が停止されることになる。機能停止されるさなか、<HAL9000>が『デイジー・ベル』を歌うシーンは有名である。ディスカバリー号と共に10年近く木星付近に放置されることになるが、両機は『2010年宇宙の旅』でも重要な役割を持つ」とある。
 正直なところ、私には、この作品の解釈は不可能である。
 特に、「ハル9000」と「書棚の奥のしらまゆみ」との関わりについては全く解らない。
 「ハル9000」のイメージと「書棚の奥のしらまゆみ」のイメージとに、何か共通点でもあるのだろうかとも思うのであるが、この一首の解釈については、何方か適当なお方にお教え願いたいものである。
  〔返〕 乞うご教示<ハル9000>の歌について何方かコメントお寄せ下さい   鳥羽省三

「田中光子(長崎県新上五島町ご在住)さんの作品」について寄せられた四通のコメントについて

2010年11月19日 | 今週のNHK短歌から
 数週間前の「『NHK短歌』鑑賞」に置いて、私が「NHK短歌」(9月26日放送)の<米川千嘉子選>特選三席に選ばれた、田中光子さんの御作についてふれさせていただいたところ、その数日後にその作品の作者と名乗るお方から、下記のようなコメントを頂戴した。
 そこで私は、新聞に掲載されたり、公共放送で放送されたりした他の方々の短歌についての感想などを書き散らしている私の拙い文章を、他ならぬその作品の作者の方がお目にとめられたことを大変恐縮に思ったり、感激したりしたので、その感謝の意味をも込めて、それに引き続いて、田中光子さんの他の作品・数首についても、稿を改めて掲載させていただいたのである。
 ところが、私が<米川千嘉子選>特選三席に選ばれた作品について記した文章に対応するが如くに寄せられた最初のコメントが、そもそも<田中光子>さんの「成りすまし」の者にコメントである、とのコメントが先日来二通も寄せられた。
 そこで今回は、それらのコメント四通の全てをここにコピーして掲載し、併せて、それらに関連しての私の感想なども述べさせていただきたいと思うのである。

〔一通目〕
   Unknown (胸に抱く犬に舐められつつわれは…の作者)
     2010-11-02 10:37:14
     取り上げて頂き感謝します。
 
〔二通目〕
   成りすましに関し (長崎県民)
     2010-11-18 20:04:29
     私は田中さんの友人です。
     当ブログを閲覧していましたところ、田中さんと思われる方が
     コメントをされています。
     ところが、本人に確認を取りましたところ、そういったコメントは
     一切していないとの事です。IPで分かるかと思いますが、
     田中さんは長崎県の方です。成りすましはどうかと思われますが。
     管理人様、注意をお願いします。
     
〔三通目〕
   成りすましに関し (長崎県民)
     2010-11-18 20:05:43
     私は田中さんの友人です。
     当ブログを閲覧していましたところ、田中さんと思われる方が
     コメントをされています。
     ところが、本人に確認を取りましたところ、そういったコメントは
     一切していないとの事です。IPで分かるかと思いますが、
     田中さんは長崎県の方です。成りすましはどうかと思われますが。
     管理人様、注意をお願いします。

〔四通目〕
   Unknown (Unknown)
     2010-11-18 19:22:17
     五島は晴天。皆様のお言葉有り難く頂戴しました。 田中


 以上の通りである。
 二通目と三通目のコメントは同内容であるが、もしも、その内容が真実だとすると、一通目のコメントの発信者は、そのご指摘通り、田中光子さんの「成りすまし」者の悪戯ということになりましょうが、その真相を知る手段を、今のところ私は持っていない。
 また、仮にそれが、田中光子さんの「成りすまし」者の悪戯ということになると、私が記した二つの文章中の二つ目は、書かれなかったことにもなりましょう。
 しかしながら、一通目のコメントが「成りすまし」者の悪戯だとしても、その内容には、件の短歌作品の作者の田中光子さんの名誉を傷つけるような事は一切記していないし、それに反応して、田中光子さんの他の作品についての感想を述べた文章を記し、作者たる田中光子さんに対して感謝の意をも記した私の立場はいささか滑稽にも微妙にもなるが、それに対して、私は今のところ格別な怒りなどを感じていないし、そのコメントが無ければ、私は、田中光子さんという優れた歌人について、ただ単に、「長崎県の五島列島の一廓に、田中光子さんという歌人がいらっしゃって、<NHK歌壇>に優れた作品をご投稿なさって居られる」という程度の認識しか持たなかったはずであるから、そうした点では、仮に一通目のコメントの発信者が偽物であったとしても、「これはやられた」といった程度の気持ちになるだけのことである。
 この際、申し上げますが、短歌形式というこの伝統ある文芸の混乱を憂慮し、幾つかの結社の無秩序な勢力争いや、無定見なボスどもに支配されている現状を打開しようという意志を持って、マイブログ「臆病なビーズ刺繍」での執筆活動に邁進している私にとっては、爾後に至って、「あれは書かなければよかった」という文章は殆んど無いし、また、仮にそうした場面に至ったとしても、それとことわって、記載内容を改めて掲載すれば良いのが、他の発言媒体に見られない、インターネット通信の優れた点であると思っているのである。
 但し、そのインターネット通信が、その美点を余すところ無く発揮して、発言媒体の主流の座を確立するためには、今少しの時間と、関係者の良識を必要とすると思われるのであるが。
 なお、二通目三通目のコメント中に「IPで分かるかと思いますが、田中さんは長崎県の方です」とありますが、その点については、私にはいささかの誤解も無いし、偽物のコメントをお寄せになられた悪戯者の方のコメント中にも、それに踊らされて田中光子さんの作品について長文を記した私の拙い文章中にも、長崎県及び長崎県民を傷つけるような発言は、何ら記されていないのであるから、せっかくの親切心を余すところ無く受信者に伝える為には、今少しの記載内容のチェックを要すると思われます。
 私は、今回の一連の出来事に関連して、「こうした混乱は、そのうちに印刷媒体にとって代わると豪語しているインターネット通信には、未だ何ら、ルールらしきルールも、モラルらしきモラルも確立していない。先日の尖閣列島に関する漏洩騒ぎなども、それ故に発生したくだらない事故である」ということを改めて認識した次第である。
 私の拙いブログ「臆病なビーズ刺繍」が、インターネット通信のルールないしモラルの確立の一助となれば幸いである。

〔追伸〕
 つきましては、ここにコピーさせていただいた四通のコメントの原文の全てを削除させていただきます。
 申し忘れましたが、四通目のコメントは、一通目のコメントの発信者による、「してやったり」という快哉の叫びでありましょうか?
 もし、そうだとすると、そのうちにあなたも足元を掬われて、手痛い怪我をする場合もあるでしょうから、よくよくご注意の程を。
 川崎市は昨日に続いて、本日も晴天なり。
  〔返〕 偽者が偽物を呼ぶコメントのルール確立緊急要す   鳥羽省三 

山本律子(東京都在住)さんの一首

2010年11月18日 | あなたの一首
○  二つ三つうつせみすがるままを咲きさはさは香るひひらぎもくせい  (東京都) 山本律子

 本作中の「うつせみ」は、<生きている人間>や、その<人間が苦しみ生きている世の中>を指す言葉としての「うつせみ」では無く、昆虫の<蝉>を指す言葉としての「うつせみ」である、と一応は言い得よう。
 しかしながら、「うつせみ」という言葉の原義に、前者の意味があることを意識しておくことは、本作の鑑賞に当たっては、決して邪魔にならないし、否、むしろ、絶対必要なことであるとも思われる。
 題材となっているのは、今を盛りと咲き、周囲に「さはさは」とした香りを漂わせている「ひひらぎもくせい」である。
 だが、本作の場合は、その「ひいらぎもくせい」が、ただ単に<柊木犀>としてのみ、単独で咲いているのでは無く、その細い枝に「二つ三つ」の「うつせみ」、即ち二、三匹の<蝉>を取り縋らせて咲いているところに、この一首の眼目が在ると思われる。
 異説も在るが、一般的に<ヒイラギモクセイ>は<ギンモクセイ>と<ヒイラギ>の雑種であるとされ、公園木や庭木として植栽されていることが多い。
 二種類の樹木の雑種としての<ヒイラギモクセイ>は、現在のところは雄株だけが知られて居り、毎年、九月頃から十月頃に咲くその白い花には雌花は無く、<雄花>だけであるから、いくら美しく香しく咲いても、決して結実しないと言われている。
 また、この<ヒイラギモクセイ>の葉は、その大きさが一方の親である<キンモクセイ>に似ているが、その周辺がギザギザとなっていて、棘が在るのは、もう一方の親である<ヒイラギ>から受け継いだ性質であるし、その繁殖法としては<取り木>以外の方法が無いなど、どっちつかずの性質を持った樹木である。
 この作品に登場する「ひひらぎもくせい」は、そんな意味で、その性格が複雑であり、繁殖・栽培の難しい樹木であることなども、この作品を鑑賞する場合に必要な知識かと思われる。
 さて、一首の意味を思うがままに説明してみたい。

 周囲に「さはさは」とした微かな香りを漂わせて「ひひらぎもくせい」が咲き誇っている。
 だが、その「ひひらぎもくせい」の花は、<花は咲けども実の生らぬ><雄花>なのである。
 <花は咲けども実の生らぬ><雄花>ではあるが、それでもなおかつ「ひひらぎもくせい」は、周囲に、独特の香りを漂わせて、今を盛りと一所懸命に咲いている。
 しかし、いくら美しく咲いても、いくら香しく咲いても、それは決して報われない行為なのである。
 その報われない行為として咲いている「ひひらぎもくせい」の枝には、何と驚いたことに、「うつせみ」即ち<蝉>が、一匹ならばともかく、二匹も三匹も一所懸命にしがみついている。
 鳴きもせず、動きもせずに、不毛の花「ひひらぎもくせい」に一所懸命にしがみついている「うつせみ」は、その様子からして、一匹、二匹、三匹と数えるよりも、一つ、二つ、三つと数えた方が良いと思われるが、その<うつせみ>の命は、その名に相応しく、たった一週間と言う。
 たった一週間の命を謳歌するために、七年もの長きに亙って地下生活をするのが「うつみみ」の「うつせみ」たる所以だとも言う。
 <花は咲けども実の生らぬ>「ひひらぎもくせい」の枝に、一所懸命にしがみついているのは、たった一週間の命の為に七年間の地下生活を宿命付けられている「うつせみ」なのである。
 その有様は、まさに<人間が苦しみ生きている世の中>という意味としての「うつせみ」そのものである。
 「うつせみ」を生きることは、「ひひらぎもくせい」にとっても、「うつせみ」即ち<蝉>にとっても、それを見つめている人間にとっても、なかなかに苦しい。 
  〔返〕 二つ三つ蝉止まらせて知らんぷり刺刺だらけのヒイラギモクセイ   鳥羽省三

今週の朝日歌壇から(11月14日掲載・其のⅢ)

2010年11月18日 | 今週の朝日歌壇から
[高野公彦選]
○ 子供らのユニフォーム洗うわが日々にまだ着る側の伊達公子あり  (佐倉市) 船岡みさ

 本作の作者・船岡みささんは、往年の女子テニスプレーヤーであったのでありましょうか?
 そして、最近、<クルム伊達公子>というカタカナネームを背負って復活した伊達公子選手が未だ<第一次の現役>の頃に、彼女と伊達公子選手とがフルセットマッチの大試合を演じたのでありましょうか?
 その往年の名プレーヤーが、今は家庭の人となって、「子供らのユニフォーム洗うわが日々」を送っていたのである。
 事がそのままで進めば、船岡家にとっては万々歳であったのでありましょうが、そうは問屋は卸しません。
 ごく最近、船岡家の主婦としての家事労働に余念の無かった<みさ>さんの胸を掻き立てるような大事件が発生したのである。
 その大事件とは、申すまでも無く、<クルム伊達公子>選手のカムバックとその後の衝撃的かつ予想外の活躍振りである。
 一首全体、<悔やんでも悔やんでも悔やみきれない>といった、往年の名選手の怨念の籠った傑作である。
  〔返〕 ご亭主の酒の相手をする時も銚子二本を左手に持つ   鳥羽省三


○ 柿の葉のたより桜の葉のたより 風のたよりもなき日のたより  (城陽市) 山仲 勉

 「柿の葉」も「桜の葉」も真っ赤に紅葉しているのである。
 本作の作者・山仲勉さんのところには、長距離恋愛中の彼女から、最近、ケータイのメールはおろか、「風のたより」さえもも無いのである。
 11月の日曜日のある日、近所の子供公園で、ぶらんこに揺られて、ぼんやりと彼女のことを考えていた山中勉さんの眼前に、その「風のたよりもなき日のたより」として、真っ赤に紅葉した「柿の葉」や「桜の葉」がひらりひらりと舞い散って来たのである。
  〔返〕 あの赤さあの不気味さが心配だ離れて暮らす彼女の危機か?   鳥羽省三


○ 部屋裡に入る秋の陽が連れてくる伐られし欅の影の記憶を  (羽村市) 竹田元子

 かつてのこの部屋には、今は伐られて無くなってしまった「欅」の木の「影」が揺曳していたのである。
 春は淡い色の影が、夏は濃い色の影が、秋は木の影に加えて、舞い散る木の葉の影も、そして、冬の晴れた日には、透け透けの冬木の影が、思い思いの趣きで揺曳していたのである。
 しかし、今は、その欅の木が伐られてしまったから、この部屋には、その欅の木の影が漂わなくなってしまったのである。
 そして、ある「秋」の日の午後、この部屋に「秋の陽」が射し込み、その「秋の陽」は、あの懐かしい「欅の影の記憶」を「連れて」来たのである。
  〔返〕 影たちがかけっこしてたこの部屋に今は秋陽が射し込むばかり   鳥羽省三


○ 二つ三つうつせみすがるままを咲きさはさは香るひひらぎもくせい  (東京都) 山本律子

 本作については、稿を改めて「あなたの一首」で以って、詳細に鑑賞させていただきますから悪しからず。


○ 一滴の涙のごとき形して西域匂う正倉院五弦琵琶  (横浜市) 竹中庸之助

 「正倉院」御物の「五弦琵琶」を「一滴の涙のごとき形して」と述べた直喩が素晴らしい。
 ちょっと見には、この<直喩>はかなり飛躍した無理のある表現と思われるが、よくよく熟慮してみると、「正倉院」御物の「五弦琵琶」に限らず、「琵琶」の形を縮小して行くと、その究極には「一滴の涙」の「形」に行き着くから、竹中庸之助さんのこの<直喩>の凡庸ならざることを知るに至るのである。
 あの「正倉院」御物の「五弦琵琶」が、はるばると駱駝の背に揺られ、船に乗せられて、「西域」から我が国まで運ばれて来た来歴を想像している、本作の作者・竹中庸之助のロマンティズムに乾杯。
  〔返〕 ウイグルの王女の涙のひとしずく西域渡りの五弦の琵琶は   鳥羽省三   

○ 昼と夜めぐるこの世の庭さきの檸檬に兆すレモンイエロー  (須崎市) 森 美沢

 <南国土佐>と歌われる、高知県須崎市ともなれば、「庭さき」で「檸檬」を栽培しているのでありましょうか?
 その南国土佐・高知県須崎市にお住いの、本作の作者・森美沢さんのお宅の「庭さき」、陽の射す「昼」が訪れ、陽の射さない「夜」が訪れ、そして亦、南国の陽の射す「昼」が訪れる。
 こうした「昼と夜」とが交互に「めぐる」「この世の庭さき」に於いて、「檸檬」の色は益々その<色>を深めて行き、あの美しい「レモンイエロー」が現出するのでありましょうが、本作は、「庭さき」の「檸檬」に、あの独特の「レモンイエロー」が兆し始めた頃合を捉えて一首を成したのである。
 「昼と夜めぐるこの世の庭さきの檸檬」という表現に、「檸檬」の成熟を心待ちにしている作者の気持ちが込められているのである。
  〔返〕 昼と夜交互に廻る片隅に我は息して歌を読み詠む   鳥羽省三


○ 恋話いつも聞き役わたしには失恋さえも眩しいひびき  (八王子市) 青木 凪

 「失恋さえも眩しいひびき」とは、また何と気弱で哀れなこと。
  〔返〕 青木凪お名前通りの女性にて風の便りに独り身と聞く   鳥羽省三


○ 白子乾しに蛸まじりゐて職場での個性豊かな友思はしむ  (東京都) 上田国博

 今から四十年ほど前のことである。
 その頃扱っていた現代国語の教材に、そのジャンルは忘れてしまったが、「白子乾し」に小さな「蛸」が混じっていることについてふれた文章があったが、私はその説明を補強する為に小田急江ノ島線の三ツ境駅前のある魚屋を訪れたことがある。
 その時はたまたま運悪く、「蛸まじり」の「白子乾し」を買い求めることが出来なかったが、数日経って、その魚屋を再訪したところ、先に対応して下さった女子店員の方が、「先日はすみませんでした。あなたからあんな話があったので、あの翌日から『白子乾し』に混じっている『蛸』を探していたのですが、これだけ見つけましたので、あなたの訪れるのを今日か今日かと待っていたのです。でも、今日お会いすることが出来て大変嬉しいことです。それに、よく注意して見ると、『白子乾し』の中には『蛸』ばかりでは無く、こんな物も混じっているのですよ。よろしかったらお持ち下さい」と言って、小さな『蛸』を二十数匹、その他に、小さく赤い蝦や鯵の赤ちゃんや微小な貝や蝦蛄などが数匹ずつ混じったポリ袋を手渡して下さった。
 あいにく、その授業は数日前に終わっていたが、それでも、その翌日、それらを教室に持って行って生徒に見せたところ、生徒たちの多くは、目を輝かせてそれを凝視していたが、事の序でにと、その親切な魚屋の女子店員さんのことを生徒たちに話したところ、翌日から、生徒たちの何人が件の魚屋に買い物に行ったと思われ、ある生徒は、「私も昨日お母さんと一緒にあの魚屋さんに行って、『蛸まじり』の『白子乾し』を買って来ました。その時、先生のことを話したら、『あの先生は少し変わっているけれど、真面目な先生ですね』と、あの店員さんが話していました。先生、あの若くて綺麗で親切な店員さんに、真面目な先生と見られて良かったね。あの店員さんは、どうやら独身らしいですよ。何でしたら、奥さんに内緒でお休みの日にでも、デイトに誘ってみたらどうですか。<蛸が愛を生む>とは、この事でしょうね」などと言うのであった。
 町場の魚屋がスーパーマーケットやデパ地下などに放逐される前の、言わば<古き良き時代>の思い出話である。
 ところで、本作の三、四、五句目に「職場での個性豊かな友思はしむ」とあるが、「個性豊かな友」とは、この鳥羽省三のことでは無いかしら、とも思ってしまうのである。
 あの若くて綺麗で親切な店員さんも還暦を過ぎて、今頃は数人の孫持ちの<梅干婆さん>になっているに違いない。
 確か、「梅干と蛸とは食い合わせが悪く、食べたら最後、腹痛を起してしまう」と、子供の頃見た、越中富山の置き薬屋さんから貰った錦絵に書いてあったような気がする。
  〔返〕 あの時にあそこの角を曲がったら腹痛起して死んでたかもね   鳥羽省三


○ 雨合羽着たる男が目瞑りて<モデルハウス↓>の看板を持つ  (調布市) 水上香葉

 「↓」は、どう読むのでしょうか?
 絶不況下の今日では、本作に書かれているような光景に出くわすことが多い。
  〔返〕 モデルとも思えるような美少女が工事現場の旗振りしてる   鳥羽省三