臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日歌壇から(6月16日掲載・永田和宏選より)

2014年08月10日 | 今週の朝日歌壇から
 6月16日の「朝日歌壇」の「永田和宏選」の第一席として、「民主主義冒さるるとき民として何人にも抗へとドイツ憲法」という、朝日新聞の「解釈改憲反対キャンペン」に迎合するが如き作品としてはやや趣向が変り、従来のその種の作品よりは少し手の込んだ佳作が掲載されていて、作者欄には「フランス・松浦のぶこ」とあった。 

 作品の出来、不出来は別として、昨今の朝日歌壇にはその種の作品が毎週のように束を為して掲載されているので、私は、件の作品の着想の良さにかなりの魅力を感じながらも、「これも亦どうせ選者諸氏の立場と気持ちを見通した上での入選狙いの作品では無いか?」などという気持ちにもなり、その場では、「いわゆる『戦う民主主義』に取材した一首であるが、ドイツ連邦共和国は『戦う民主主義』を標榜している国の代表的な例とされる」などと、どうでも宜しいと言った感じの評文を記し、返歌として「民主主義侵さるる今国民よ挙りて安倍を引き摺り落せ」と、是も亦どうでも宜しいといった感じの腰折れを記し添えて当ブログに掲載させて頂いた次第でありました。

 然るに、それから数日経った、去る6月28日の未明、遥々遠くの泰西は仏蘭西共和国から、掲歌の作者・松浦のぶこさんが、当ブログ宛てに次のようなコメントをお寄せになりましたので、先ずはそれをそのままに下記の通り転載させていただきます。

 即ち、「6月16日/拙歌/(松浦のぶこ)/2014-06-28 01:11:04/松浦のぶこです。/6月16日朝日歌壇に永田和宏選で掲載された拙歌は許諾なしに改変されています。/原作は『民主主義冒さるるとき民として国に抗へとドイツ憲法』ですが、『国に抗へ』を『何人にも抗へ』に改変してあります。/問い合わせたところ、『ドイツ憲法条文ではそうなっているから添削した』とのことでした。/短歌は作品であって報道記事ではなく、字句の指す精神を詠うものであること、作者の許諾なしに字句を改変するのは納得できないこと、歌壇の年鑑には原作どおりに載せてほしいことを要請しました。/詳しくはブログ『松浦のぶこの家』をご覧いただければ幸いです。」と。

 このコメントを一読して直ぐさま、私は、掲歌の作者・松浦のぶこさんのご指示通りに、ブログ「松浦のぶこの家」を拝読させていただきましたところ、次のような興味深い記事が掲載されておりましたので、それをもそのまま、当ブログに無断転載させていただきました上で、この件に関する、私・鳥羽省三の感想や見解なども後述させていただきます。

 曰く「2014-06-25/短歌が改作されてしまった/現『民主主義冒さるるとき民として何人(なんぴと)にも抗へとドイツ憲法』/元『民主主義冒さるるとき民として国に抗へとドイツ憲法』/6月16日の朝日歌壇に拙歌が永田和宏の選で掲載された。あれっと思った。投稿した元の歌とちょっと違うのである。『国に抗へ』が『何人にも抗へ』に変えられている。歌の大意はお分かりと思う。どちらが歌として優れていると思いますか、皆さまのご意見をぜひ聞かせて下さい。/自分の作品を知らないうちに変えて公表され、ショックを受けた。10年以上朝日歌壇に投稿してこんなことは初めてだ。最近少しぼけてきたので、万が一推敲しているうちに自分の思わないことをうっかり書いてしまったのかとも疑い、念のため朝日歌壇の係に問い合わせてみた。すると次のような返事が来た。/もともとお送りいただいた歌は『民主主義冒さるるとき民として国に抗へとドイツ憲法』となっています。ただ、『国に抗へ』が事実かどうかドイツ大使館に憲法の条文を確認したところ、正確には『この秩序を排除することを企てる何人に対しても、すべてのドイツ人は、他の救済手段が可能でない場合には、抵抗する権利を有する』となっているとのこと。これを踏まえて、永田先生は『何人にも抗へ』と添削なさったわけです(後略)。/つまり朝日歌壇は『国に』という言葉の『事実性』に疑問をもって憲法条文を調べ、その文言どおりに書き換えたのだ。え?憲法条文の文言をそのまま書き写さなければいけないの?短歌は報道記事ではないのに?/ドイツ憲法は、ナチス政権がドイツを破滅に追いやった過去を反省して、再び同じことが起こらないために、厳格に強固に作り上げられたものだという。市民的不服従権を憲法に明記しない国もある中で、ドイツ憲法がそれを抵抗権として(憲法20条に)明記したのは、憲法を冒すものを許さないという国民の断固とした精神のあらわれだろう(実際は連合国の各々が草稿を書いて突合せ、ドイツの当時の首相アデナウアーもドイツの考えを反映するべく奮闘した。経緯そのものは日本憲法の場合と似ている)。抵抗権を発揮する主たる相手は――抽象的に『何人』と言い表したとしても――政府であることは誰が読んでもわかるだろう。/この抵抗権の精神を短歌として短く表現しようとして、私は日本の『国と民』『お上と下々』という誰でも知っている対句を想起した。伝統的に上下関係で社会や政治を捉え、上には従うしかないと諦める国民的風潮への批判を、対句を使うことによって効果的に表現できると思った。字数の制約から『国と民』のほうを選んだ。これが『何人と民』じゃ全く対句の効果はない。/それに『国に抗へと』は8音だが、『何人にも抗へと』は11音だ。5・7・5・7・7の7が11になって、大幅な字余り。作品として落第だ。/新聞や雑誌はいわゆる編集権が著作権より強いと言われる。私も朝日の『声』に投稿した記事を修正されたことが何度かある。ただそれは、紙面の都合で最後の1行を削るとか、2行に分けてある文章を1行に合体するのに伴い助詞を取りかえる、というようなテクニカルな修正で、いずれも事前に電話で承諾を求められた。キーワードを改変されたことはない。/選者の永田和宏氏は拙歌に対して『ナチズムの台頭による第二次世界大戦の苦い歴史的教訓から、自由と民主主義を防衛する義務を課したのがドイツ憲法の精神。政府が憲法と国民に背いた場合、抵抗権を発揮できる。松浦さんは今の日本にその精神をと訴える』と異例に長い評を書いてくれた。こんなによく解説していただき感激している。だから言うのは憚られるが、この評の中で『国に』は憲法原文では『何人にも』となっている、と短く付言することはできたと思う。添削はテレビの短歌教室では本来の役目だが、歌壇にも適用されるのだろうか。/しろうとの投稿者が文句を言うのは生意気だ、今後は選ばれなくなくなるよ、と歌仲間に冷やかされた。朝日歌壇にかぎってそんなことはないと信じている。/補足・①ドイツでは公衆の面前でナチの歌を歌ったり、ハーゲンクロイツの旗を掲げたりすることは許されない。言論結社の自由は、憲法に背くことをする個人や団体には保証されない(アメリカやフランスはこれほど厳しくないが)。つまり『政府』だけではなく『個人』『団体』も抵抗権の対象になる。『何人にも抵抗する』と表記されているのはこういう場合にも対応しうるためだろう。/②『政府』と『国』とは同じとは言えない、『国』にまで抵抗権を認めれば革命肯定ではないか、という意見もある。難しい。だがそれは政治論、法律論であって、短歌という文学作品の表現にまで関わることかどうか。/③今まで考えたことのない問題を呈示され、ショックではあったが考えるきっかけにはなった。花の名が間違っていても修正されないだろう。社会詠は剣呑だ。」と。

 松浦のぶこさんがお寄せになられた、当ブログ宛てのコメント(以下、コメントと謂う)及び、ブログ「松浦のぶこの家」に掲載されている、件の記事を一読ならぬ二読、三読、熟読させていただきましたので、真に僭越ながら、それに対する、私・鳥羽省三の感想及び見解を述べさせていただきます。

 コメントの冒頭の「朝日歌壇に永田和宏選で掲載された拙歌は許諾なしに改変されています」という一文に接し、更に「歌は作品であって報道記事ではなく、字句の指す精神を詠うものであること、作者の許諾なしに字句を改変するのは納得できないこと、歌壇の年鑑には原作どおりに載せてほしいことを要請しました」という記事に接した瞬間、私は、これらの文の、かつて類例を見ない程の激烈なる文体に幽かなる危惧の念を抱くと共に、朝日歌壇に<添削>という極めて親切かつ有り難い(或いは、有り難くない)習慣が残っていた事を知り、八大集以来の伝統的慣習が残存していた事を知り、大いなる感動を覚えました。

 何故ならば、「事の是非はともかくとして、和歌(短歌)を肇とした我が国の伝統文芸の世界に於いては、斯道の権威者たる選者(=宗匠)に拠る<添削>という伝統的かつ独占的な作業が厳密に施された後、当該作品が原作者の作品として紙誌上に掲載され、世間一般に公表されて来た事は紛れも無い歴史的事実であり、永田和宏氏を肇とした朝日歌壇の選者諸氏とても、その道の専門家として仰ぎ奉られる権威者(昔風に言うならば<宗匠様>)でありましょうから、投稿作品に訂正するべき字句や文法的な間違い、或いは社会通念上非常識的と思われる表現などが認められた場合、それを訂正した上で紙面に掲載するのが、選者として為すべき当然の任務であり、義務でもある」と、私は認識していたからである。

 私が8年間に亘って田舎暮らしをしていた頃、私の歌詠み仲間の某氏(故人)は、父祖譲りの左官業に従事しながら、結社誌「アララギ」の「土屋文明選」に長年に亘って投稿して来た、という来歴を持つベテラン歌人であった。
 彼の作品が「土屋文明選」に初めて採られた時、件の掲載作品は、彼を作者としながらも原作の面影を止めないように無惨に改作されていた、との事である。
 彼と彼の歌友たちは、それでも尚且つ、彼の作品が初めて「土屋文明選」に採られた事を祝し、彼が居住する横手市内のとある縄暖簾で入選記念の宴会を開き、一晩中どんちゃん騒ぎを繰り広げ、飲めや歌えの大騒ぎを展開した、との事である。

 然るに、仏蘭西共和国にお住まいの松浦のぶこさんと仰る女性は、「畏れ多くも歌壇の権威者にして<歌会始の儀>の選者たる永田和宏宗匠の手に拠り、朝日歌壇に投稿した自作に添削の筆を加えられた」からと言って、「短歌が改作されてしまった。/短歌は作品であって報道記事ではなく、字句の指す精神を詠うものであること、作者の許諾なしに字句を改変するのは納得できないこと、歌壇の年鑑には原作どおりに載せてほしいことを要請しました」などと騒ぎ出し、あまつさえ、ご自身の管理するブログ上に「何だ神田」と、文句たらたら記してしまう始末なのである。

 「松浦のぶこの家」の記事に拠ると、永田和宏宗匠の斧鉞を得て朝日歌壇に掲載された短歌は、当初「民主主義冒さるるとき民として国に抗へとドイツ憲法」として投稿したにも関わらず、掲載時は「民主主義冒さるるとき民として何人にも抗へとドイツ憲法」と改作されていたという事であり、それに対して作者の松浦のぶこさんは、「あれっと思った。投稿した元の歌とちょっと違うのである。『国に抗へ』が『何人にも抗へ』に変えられている。歌の大意はお分かりと思う。どちらが歌として優れていると思いますか、皆さまのご意見をぜひ聞かせて下さい」と、自信たっぷりに仰り、更には「自分の作品を知らないうちに変えて公表され、ショックを受けた。10年以上朝日歌壇に投稿してこんなことは初めてだ。最近少しぼけてきたので、万が一推敲しているうちに自分の思わないことをうっかり書いてしまったのかとも疑い、念のため朝日歌壇の係に問い合わせてみた。すると次のような返事が来た。/もともとお送りいただいた歌は『民主主義冒さるるとき民として国に抗へとドイツ憲法』となっています。ただ、『国に抗へ』が事実かどうかドイツ大使館に憲法の条文を確認したところ、正確には『この秩序を排除することを企てる何人に対しても、すべてのドイツ人は、他の救済手段が可能でない場合には、抵抗する権利を有する』となっているとのこと。これを踏まえて、永田先生は『何人にも抗へ』と添削なさったわけです(後略)。/つまり朝日歌壇は『国に』という言葉の『事実性』に疑問をもって憲法条文を調べ、その文言どおりに書き換えたのだ。え?憲法条文の文言をそのまま書き写さなければいけないの?短歌は報道記事ではないのに?/ドイツ憲法は、ナチス政権がドイツを破滅に追いやった過去を反省して、再び同じことが起こらないために、厳格に強固に作り上げられたものだという。市民的不服従権を憲法に明記しない国もある中で、ドイツ憲法がそれを抵抗権として明記したのは、憲法を冒すものを許さないという国民の断固とした精神のあらわれだろう」、「抵抗権を発揮する主たる相手は――抽象的に『何人』と言い表したとしても――政府であることは誰が読んでもわかるだろう。/この抵抗権の精神を短歌として短く表現しようとして、私は日本の『国と民』『お上と下々』という誰でも知っている対句を想起した。伝統的に上下関係で社会や政治を捉え、上には従うしかないと諦める国民的風潮への批判を、対句を使うことによって効果的に表現できると思った。字数の制約から『国と民』のほうを選んだ。これが『何人と民』じゃ全く対句の効果はない。/それに『国に抗へと』は8音だが、『何人にも抗へと』は11音だ。5・7・5・7・7の7が11になって、大幅な字余り。作品として落第だ。/新聞や雑誌はいわゆる編集権が著作権より強いと言われる。私も朝日の『声』に投稿した記事を修正されたことが何度かある。ただそれは、紙面の都合で最後の1行を削るとか、2行に分けてある文章を1行に合体するのに伴い助詞を取りかえる、というようなテクニカルな修正で、いずれも事前に電話で承諾を求められた。キーワードを改変されたことはない。/選者の永田和宏氏は拙歌に対して『ナチズムの台頭による第二次世界大戦の苦い歴史的教訓から、自由と民主主義を防衛する義務を課したのがドイツ憲法の精神。政府が憲法と国民に背いた場合、抵抗権を発揮できる。松浦さんは今の日本にその精神をと訴える』と異例に長い評を書いてくれた。こんなによく解説していただき感激している。だから言うのは憚られるが、この評の中で『国に』は憲法原文では『何人にも』となっている、と短く付言することはできたと思う。添削はテレビの短歌教室では本来の役目だが、歌壇にも適用されるのだろうか。/しろうとの投稿者が文句を言うのは生意気だ、今後は選ばれなくなくなるよ、と歌仲間に冷やかされた。朝日歌壇にかぎってそんなことはないと信じている。/ドイツでは公衆の面前でナチの歌を歌ったり、ハーゲンクロイツの旗を掲げたりすることは許されない。言論結社の自由は、憲法に背くことをする個人や団体には保証されない(アメリカやフランスはこれほど厳しくないが)。つまり『政府』だけではなく『個人』『団体』も抵抗権の対象になる。『何人にも抵抗する』と表記されているのはこういう場合にも対応しうるためだろう。/『政府』と『国』とは同じとは言えない、『国』にまで抵抗権を認めれば革命肯定ではないか、という意見もある。難しい。だがそれは政治論、法律論であって、短歌という文学作品の表現にまで関わることかどうか。/今まで考えたことのない問題を呈示され、ショックではあったが考えるきっかけにはなった。花の名が間違っていても修正されないだろう。社会詠は剣呑だ」などと、事の次第をこと細やかにかつ具体的に説明され、それに対するご自身のご意見をも、極めて攻撃的な姿勢で書き加えて居られるのである。

 原作の「国に抗へ」を「何人にも抗へ」と、永田和宏氏が斧鉞を加えた事の是非に就いて言えば、「国に抗へ」よりも「何人にも抗へ」の方がドイツ憲法の実態に即した表現であるので、例え原作者と雖も、これを以って「え?憲法条文の文言をそのまま書き写さなければいけないの?短歌は報道記事ではないのに?ドイツ憲法は、ナチス政権がドイツを破滅に追いやった過去を反省して、再び同じことが起こらないために、厳格に強固に作り上げられたものだという。市民的不服従権を憲法に明記しない国もある中で、ドイツ憲法がそれを抵抗権として明記したのは、憲法を冒すものを許さないという国民の断固とした精神のあらわれだろう」「抵抗権を発揮する主たる相手は――抽象的に『何人』と言い表したとしても――政府であることは誰が読んでもわかるだろう」などと即断して嘯き、大騒ぎをする必要はさらさらに認められません。

 何故ならば、記紀万葉や八代集以来の斯道の在り方もさる事ながら、こと他国の憲法の条文に取材した短歌作品である場合は、事に因ると国家間紛争を引き起こしかねませんから、選者の永田和宏氏が、この件に就いて「在日ドイツ連邦共和国大使館」に問い質した上で、原作の「国に抗へ」を「何人にも抗へ」と斧鉞を加えた事は、当然過ぎるくらい当然なご措置であり、作者の松浦のぶこさんに感謝されこそすれ、決して恨まれるような筋合いのものとは思われないからであり、加えて言えば、「松浦のぶこの家」の記述中の「つまり朝日歌壇は『国に』という言葉の『事実性』に疑問をもって憲法条文を調べ、その文言どおりに書き換えたのだ。え?憲法条文の文言をそのまま書き写さなければいけないの?短歌は報道記事ではないのに?」という件が、何よりも雄弁に永田和宏氏のこの度のご措置の適切さと、松浦のぶこさんご本人の<認識不足>及び<非常識さ>を物語っているからでもある。

 また、松浦のぶこさんは、投稿作と掲載作とを比較して、「この抵抗権の精神を短歌として短く表現しようとして、私は日本の『国と民』『お上と下々』という誰でも知っている対句を想起した。伝統的に上下関係で社会や政治を捉え、上には従うしかないと諦める国民的風潮への批判を、対句を使うことによって効果的に表現できると思った。字数の制約から『国と民』のほうを選んだ。これが『何人と民』じゃ全く対句の効果はない。/それに『国に抗へと』は8音だが、『何人にも抗へと』は11音だ。5・7・5・7・7の7が11になって、大幅な字余り。作品として落第だ」とまで、激烈な口調で述べて居られるのであるが、「短歌表現に対句を用いると効果的である」とする松浦のぶこさんのご認識は、もはや「迷信」とでもいうべき時代遅れのご認識であり、仮にそれを良しとしても、短歌のリズムというものには、「外在律(ことばのリズム)」と共に「内在律(こころのリズム)というものが在るのであるから、「民主主義冒さるるとき民として何人にも抗へとドイツ憲法」という掲載作は、音読するに際しても格別なる支障は生じません。

 更に言えば、松浦のぶこさんは、「選者の永田和宏氏は拙歌に対して『ナチズムの台頭による第二次世界大戦の苦い歴史的教訓から、自由と民主主義を防衛する義務を課したのがドイツ憲法の精神。政府が憲法と国民に背いた場合、抵抗権を発揮できる。松浦さんは今の日本にその精神をと訴える』と異例に長い評を書いてくれた。こんなによく解説していただき感激している。だから言うのは憚られるが、この評の中で『国に』は憲法原文では『何人にも』となっている、と短く付言することはできたと思う」と述べて居られるのであるが、掲歌の寸評として永田和宏氏が記された言葉、即ち「ナチズムの台頭による第二次世界大戦の苦い歴史的教訓から、自由と民主主義を防衛する義務を課したのがドイツ憲法の精神。政府が憲法と国民に背いた場合、抵抗権を発揮できる。松浦さんは今の日本にその精神をと訴える」は、永田和宏氏に与えられた寸評スペースの全てを用いての善意溢れる寸評であるので、松浦のぶこさんの仰る、「この評の中で『国に』は憲法原文では『何人にも』となっている、と短く付言することはできたと思う」という苦言は、「鹿を追って山を見ざる者」の駄弁、或いは「鯨を追って海を見ざる者」の駄弁、更に言えば「経済効果ばかり考えて働く者の心情を一顧だにしない政治家や経営者の姿勢」と同一である、と断じざるを得ません。

 ところで、掲歌の作者の松浦のぶこさんは、「我が国の出版界に於いては、短歌に限らず小説など文芸作品の全てに、選者乃至は編集者の斧鉞が加えられた上で誌面掲載されるという良き習慣が在る」という事実に就いてご存じでありましょうか?
 その事実に就いては、芥川賞受賞作家の南木佳士氏を肇とした多くの作家の方々が、ご自身の著になる随筆などで語って居られるので、松浦のぶこさんは、少しく勉強する必要があるのかも知れません。
 ましてや、事柄が千数百年の歴史と伝統を有する和歌(=短歌)に関する事に及ぶや、例え新聞歌壇に投稿した作品とは言え、時には選者の善意ある斧鉞が加えられた上で紙面掲載の運びになるという事は、常識中の常識であり、その常識を非常識として非難し、抗議せんとする者の常識が問われる場面でありましょう。

 話が本題から少しく逸れてしまうのであるが、「昨今の結社誌に於いては、掲載作品の全てが選者の斧鉞を得ないままに掲載されている事が多い」とのこと。
 それは、当該する結社誌が投稿作品に斧鉞を加えることが出来るような選者を得ないが為の、極めて無責任な措置であり、「短歌の垂れ流し」とは、そうした現象を指して謂うのでありましょう。
 新聞歌壇にしろ、結社誌にしろ、選出作品を掲載する場(誌紙面)は、投稿作品の単なる発表の場では無く、作者と選者及び読者が一帯となっての、八大集時代から今に変らぬ交遊交感の場として捉えなければならない側面もあるのであり、一に創造の場であり、そして何よりも短歌創作を志す者の学習研鑽の場であることを、私たち短歌を愛する者は強く認識しておくべきであり、掲歌の作者の松浦のぶこさんも亦、その例外ではありません。

 以上、長々と駄弁を弄するばかりで、本ブログの読者並びに掲歌の作者の松浦のぶこさんには、真に申し訳がありません。
 末筆ながら、未だ残暑厳しき折柄、皆様方には、何卒、健康専一にお過ごし下さるようにお願い申し上げます。                   平成二十四年八月八日夕刻   鳥羽省三拝
 〔返〕  故郷は残り七夕の宵ならむ思ふどち相寄り酒飲むならむ

 追記。
 上掲の文章は、ともすれば「昨今の歌壇の現状が、八大集以来の旧態依然とした状態、即ちヒエラルキー構造を成しているのであり、永田和宏氏などの結社誌の主宰諸氏が、茶の湯や生け花の世界と宗匠的存在の人物と同様に、結社の最上階に鎮座していて、下層に位置する会員や新聞歌壇への投稿者などに君臨し、統率していると私・鳥羽省三が解説し、主張しているものであり、筆者の鳥羽自身も歌壇のそうした在り方を肯定し、かつ、宗匠然として威張り散らしている主宰諸氏や新聞歌壇の選者諸氏を尊崇している事を表しているが如き内容」と解釈されがちであり、現に私が是を記してからの数時間の間にも、「通りすがり」と称する方からの「歌壇の現状及びそれを尊崇する鳥羽省三を糾弾し、その責任を問う」といった、恫喝的内容のコメントが立て続けに数通寄せられているのである。
 しかしながら、「それが全くの誤解であり、筆者の私の意図するところはその辺りには無い」という事は、上掲の文章を熟読玩味されれば、必ずやご理解なされる事と思われますので、何卒、宜しくお願い致します。(八月十日暁闇に是を記す。鳥羽)