臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

古雑誌を読む(角川「短歌」1016年3月号・そのⅠ)

2016年05月25日 | ビーズのつぶやき
     葉牡丹    青田伸夫(歩道)


○  暮れ方の欅並木の下ゆけばわれに触りつつ散る落葉あり

○  あかあかと沈む夕日を見送りて冬の間近になりしを思ふ

○  爛熟の時代に生きる一人にてデジタルの語にいまだ戸惑ふ

○  梯子車のその先端に人立ちて銀杏の木末伐りはらひ居り

○  宇宙より還りし人が地を踏みて重力感ずと言ひし一言

○  初飛行終へし国産ジェット機をテレビに見つつ心晴れくる

○  突風に吹き煽られし林より立ちし鴉ら宙にさまよふ

○  公園の一角見えて吹く風に立ち騒ぐ木々狂ほしくみゆ

○  歌ごころ閉ざせるままに暮れし日よ憐れむごとく地震ゆりくる

○  捨つるべく廊下に積みし雑誌類不意にみづから崩るる音す

○  あるかなし存在示すごとくにて林檎の種が床に落ちゐる

○  鉢植ゑの葉牡丹ならぶ店先にしばし佇み感傷はらふ

古雑誌を読む(角川「短歌」1016年1月号・そのⅠ)

2016年05月25日 | ビーズのつぶやき
     黙      岩田正(かりん)


○  「ほう」とつく迢空の息ふかき息はかなくさびし老いて知りたり

○  日がな空みてあれば雲群雲となりて束なす雨となり降る

○  汁さますふうふうがふはふはになりわが老い確かにすすみゐるらし

○  雨すらや日日情緒なく降りに降り秋の長雨のさびしさはなし

○  ゆらゆらと時間はうつるこの秋をわが魂夕べの庭をさまよふ

○  威勢よい時だけ威勢よくその後だんまりきめこむ学生諸君

○  無理もない学生の不発は面接の怖いおぢさん待つてゐるから

○  福島の左歩くな右パンチとんでくるぞと若かりしころ

○  「立松和平ゐるか」「岩田正ゐるか」福島の開口一番絶叫のこゑ

○  賞作家賞作家とぞ言ふめれどゆめゆめ歌の賞作家でなし





古雑誌を読む(角川「短歌」1016年2月号・そのⅠ)

2016年05月14日 | ビーズのつぶやき
      森の洞     岩田正(かりん)


○  近づいて遠ざかる音不可思議な音なりわれの生死の音か

○  日向から日陰を歩みくる影はいつもみなれた怪しげな影

○  深夜ふつと眼ざむることありしかたなく醸して消ゆる不安といふは

○  朝あさの目薬まつすぐさせぬままわれは終らむこころ残して

○  釈迦は凄い死んでゐるのか寝てるのか横臥の姿勢拝まれてゐる

○  母の写真鴨居にかけて眠りしがこのごろすこし怖くなりたり

○  天敵を懼るる雀餌撒くと戸あくれば逃ぐ逃ぐるはくやし

○  餌はまだ濡れぱなしなりこの驟雨つきてとびくる雀あらぬか

○  餌撒くと枝移りくる寒雀かくは馴染みてくれてありがたう

○  老いてわれすこし利己主義きかでいいこと悉くきかぬふりする

○  時くればさまざまに鳴るオルゴール十年曲名いまだ知らざり

○  幽霊の絵をあまた見て怒りたりむかしやまとのをのこの狡さ

○  昭和びと天皇も好きとふケチャップライスなつかしチキンライスの富士山

○  冬の雲そよぐ柚の木窓枠にくぎられてみるわれの風景

○  船の事故・飛行機の事故・人の事故政治の事故といふものもある

○  こともなくテロ撲滅を言ふ男厭な男は厭なのである

○  家に棲む座敷童は怪にしてわが留守を守るこよなき仲間

○  森の奥に不思議な洞あり樹々黒くひしめき迫り森をかこめり

○  洞ふかく魑魅魍魎とともにゐる座敷童よわれを離れて

○  魍魎の棲む洞のうちに入らざれば木や石の怪われは知らざり

○  森の洞出でし魍魎修廣寺の竹林わが家の背戸にひそめる

○  カラオケ組麻雀組とあるセンター百人一首もちてわりこむ

○  老い達の競ふ百人一首さてはまづ空札一枚わが歌を読む

○  百人一首節つけよめばセンターの職員・仲間遠ぞきてきく

○  テーブルの上にて競ふ百人一首熱中すればみな立ちあがる

○  取られたくない取りたいと引きよせる「をとめのすがたしばしとどめむ」

○  牌掻く音カラオケのこゑ歌留多読むわが声凛たり昼のセンター

○  こは何の修羅場か賭場か百人一首机をはさみ老い立ちあがる

○  取りし札積みてにんまり笑む老女読み手のわれにふかく礼する

○  病んでないことは異状かケアセンターもの忘れだけならいいわと言はる

○  下の句で札をとるなら上の句はいらぬよむなと朗朗と老い
  
         

結社誌「かりん」2016年4月号より(作品ⅠAの続き)

2016年05月08日 | ビーズのつぶやき
○  わが裡はいまだ凪がずや今朝の夢なにか激怒す別れし夫に  (東京) 櫻井千鶴
○  吾のつくりし御節もちゆき娘はもその父まねきふるまいしとぞ

 二首目中の「娘」にとっての「その父」とは、即ち、作中主体(=作者)の「別れし夫」に他なりません。
 「『別れし夫』の『夢』を私は『今朝』見た。そして、その『夢』の中で私は『激怒』していた。とすると、私は、私自身の心中で今となっては他人となってしまった彼の事を許していないのだろうか?」というのが一首目の大意である。
 また、二首目のそれは、「私の『娘』が私の作ったお節料理を自宅に持ち帰り、それで以て、彼女にとっての父、即ち、私の別れた夫を自宅に招いてご馳走した、ということを私は耳にした」ということである。
 思うに、今となっては赤の他人となってしまった元夫婦の間には、お互いにそれなりの言い分はありましょう。
 だが、本作の作者(作中主体)は、今となっては赤の他人であるはずの元夫のことを初夢の中で見ているのであり、しかも、その夢の中での彼の言行に対して「激怒」さえしているのである。
 また、作者の「娘」にとっては作者の元夫は実の父親であり、娘はその父親を自宅に招いて作者ご手製のお節料理を肴にして正月酒を振舞っているのである。
 煎じ詰めて言うならば、これら二首の作品に描かれているのは、「作者の元夫に対する、憎もうとしても憎みきれない切なく激しい感情」であり、もう少し想像を逞しくして言うならば、「もう一度、彼の懐に飛び込んで行って、彼の温かい胸に抱かれたい」という、愛を求める気持ちなのかも知れません。
 「かりん」五月号には上掲の二首の他に、同じ作者の作品として「その滾り戦争にではなく箱根路に ああ若者がひた駆けてゆく」など、六首の作品が掲載されている。
 これら六首の作品全体から推測してみるに、作者・櫻井千鶴さんは、現在、ひたすらに自分以外の者の温かい体温に触れることを願望としているように思われる。
 ということになると、作者と元夫との復縁は遠からず実現する、ということになりましょうか?


○  毎日歩く鶴見川辺の散歩道袋橋より富士くっきりと見ゆ  (町田) 戎居孝

 掲出の作品は、本稿の筆者も所属している「とある短歌」の一月歌会の詠草として発表された、「毎日を歩く川辺の散歩道袋橋より今日富士を見ゆ」であったと思われる。
 「とある短歌会」の歌会は、歌会に先立って郵送されて来る詠草集に隣接して印刷されている二首の作品の作者二名が、互いに他の一者の作品に対する批評や感想などを述べ、その後、当日の出席者の中の挙手して特に希望した出席者が当該作品に対する批評や感想などを付け加えて述べるという、慣行的な形で展開されて行くのである。
 という訳で、当日の歌会に於いては、前述の戎居さんの詠草に対する批評を、斯く申す私(本稿の筆者)が述べるべき巡り合わせとなったので、私は、「大変失礼ですが、本作の五句目中の格助詞『を』は、『の』乃至は『が』の間違いかと思われます。・・・・・・・・(以下、省略)」と述べさせていただいたように記憶している。
 また、私の発言の中には、「作中の第一句目『毎日を』の、格助詞『を』の使用の適切さと、その『を』を使用したことによって生じる作品世界の奥行の深まり、含蓄の深さ、言葉の運びの軽快さ、一首の内容のゆったり感」といった点に就いての指摘も含まれていたように記憶している。
 斯くして、私の発言の主旨は、前述の格助詞「を」の使用に関わる作者のケアレスミスの指摘を除いては、「私はこの作品を、奥行が深く、ふくよかな感じがする作品として高く評価したい」というものでありました。
 ところが、私の発言の後に、あるベテラン会員の方がやおら挙手をして、「私たちは、通常、自作の短歌の中の<を>にどんな意味があるのか、などと思ったりして短歌を詠む訳ではありませんし、その上、『毎日を歩く』などという表現は、とても怖くて出来ません」などとの趣旨の発言が為されたのであり、そうした指摘は、新入会員の私にとっては、真に不思議な現象に見受けられました。
 また、件の発言者は、「この作品には具体性が欠けている。例えば、二句目中に『川辺の』とあるが、『川辺の』だけでは何処の『川辺』なのがよく判らない。鶴見川の川辺なら鶴見川の川辺と、具体的に明記しなければならない」とのご指摘をなさり、件の発言者に続いて挙手されたベテラン会員の方からも同様の主旨の発言が為されました。
 思うに、本作の作者・戎井孝さんが、前掲のような形で本作を「かりん」誌上に発表なさったのは、前述のベテラン会員二者のご指摘(アドバイス)に基づいてのことかと思われる。
 私が指摘した、初稿の五句目中の格助詞「を」の使用上の誤りは作者のケアレスミスと思われますから、それを訂正すれば、本歌の初稿は「毎日を歩く川辺の散歩道袋橋より今日富士の見ゆ」となりましょうが、「これとあれとを比較してみた場合の本歌の完成度の差には歴然としたものが見られる」と、本稿の執筆者の私には思われるのである。



結社誌「かりん」2016年4月号より(作品ⅠA)

2016年05月06日 | ビーズのつぶやき
○  新人の教師突然失踪し半年ののち辞表届きぬ  (千葉) 愛川弘文
○  隣席の同僚急に職を退く「私事都合」という謎を残して
○  朝練のオーケストラ部の演奏を聞きつつ授業をシュミレートする
○  生徒らはほどよき距離を保ちつつ受験間近の教室に居り
○  とげ王子・とんがり姫を前にして高校最後の国語の授業
○  我が知らぬ生徒の素顔も知っていよう三階通路の鏡の精は

 朝日歌壇でもお馴染みの千葉県の高校教師・愛川弘文さんの「SOS」というタイトルの作品六首が、「作品ⅠA」の第二席に掲載されている。

 一首目、民間企業との賃金格差が狭まり、年を追うごとに採用される事が難しくなった県立高校の教師であるが、その反面、この一首の題材になっているような出来事、すなわち「新人の教師」の「突然」の退職が新聞紙上で騒がれ、問題となっている今日、本作の作者・愛川弘文さんの勤務校に於いても、新人教師の「失踪」事件が発生し、「半年」後に[辞表」なる紙切れが郵送されて来たという、傷ましくも笑うべき内容の一首である。
 最近の学校に於いては、新人教諭として採用された後の一年間は、指導教官と称するベテラン教師が付きっ切りで指導に当たっているということで、かなり楽になったとも思われるのであるが、そうなればそうなったで、新人教師にとっては、いろいろと困難な問題が生じるのでありましょうか?
 総体的に言えることは、年を追うごとに大卒の若者たちの顔に精気の漲りが見られなくなった、ということである。

 二首目、前作同様、本作の内容も、教師の突然の退職に取材したものである。
 突然退職の教師は、作者の隣席の教師であり、その退職理由は「私事都合」とのこと。
 一口に「私事都合」と言っても、その内容は様々であり、例えば、通勤途上の車内での痴漢事件が発覚しての退職も「私事都合」の範囲内におさまりましょうから、職場内には様々なる憶測が生まれ、「謎」が「謎」を呼ぶ、といった結果とは相成るのである。
 だとしたら、それこそはまさしく「SOS」でありましょう。

 三首目、作者の最終勤務校には「オーケストラ部」が在るのである。
 だとしたら、その学校は、千葉県家でも指折りの成績上位校でありましょう。
 それはそれとしても、「朝練のオーケストラ部の演奏を聞きつつ授業をシュミレートする」とは、作者の教師生活は、何と優雅なうちに終焉の日を迎えるのでありましょうか。

 四首目、国語教師の愛川弘文先生との間を、付かず離れずの「ほどよき距離を保ちつつ受験間近の教室」に居るとは、教師も教師ならば、生徒も生徒であり、お互いに信頼感で結ばれた授業形態を成しているのである。

 五首目、そんな成績賞以降でも、「とげ王子」が居たり「とんがり姫」が居たりするものである。
 彼らとんがり族に共通しているのは、自尊心が巨大な少年少女、すなわち男子は「王子」であり、女子は「姫」である点にある。
 彼らとんがり族の巨体なる自尊心を傷つけないようにして、教室内を融和され、授業内容を理解させることが、定年退職を前にしたベテラン教師・愛川弘文先生の腕前である。

 六首目、昨今の高校生は、男女を問わず自分なりのおしゃれをしているが故に、彼らの「素顔」は学級担任教師でさえも知り得ません。
 したがって、定年退職の日を前にした、作者・愛川弘文先生は、最終勤務校の校舎の「三階通路」に設えられている「鏡」に向って、「鏡よ!鏡!三年B組のあのとんがり姫の素顔を映し給え!彼女の姿は真実にとんがって居るや!」と念じているのでありましょう。

結社誌「かりん」2016年4月号より(作品・馬場欄の続き)

2016年05月06日 | ビーズのつぶやき
○  七草も節分、盂蘭盆なにもかもおしえてスーパーやさしく微笑む  (東京) 石井照子

 「スーパー」は私たち市民に、「今日は七草、粥炊きなされ」、「明日は節分、豆撒きです」と、何もかも手を取るようにして教えて下さるのである。
 しかしながら、贈る相手も居ない私に「3月14日はホワイトデー」などと教えて下さってもありがた迷惑な話である。
 ところで、何事に於いても見栄を張るのが都会生活というものでありますから、四句目中の「スーパー」は、「デパ地下」或いは「明治屋」とした方がカッコ良く、都会風になりましょう。
 石井照子さんぐらいのセレブともなれば、みだりにスーパーで食材を買ったりしてはいけません。
 セレブの唯一の役割は、高価な買い物をして内需拡大に貢献することにある。


○  渡りくる唐土の鳥と唄われてインフルエンザの記憶残れる  (秦野) 古谷 円

 正月七日は七草粥を炊いて食べる日である。
 「七種なずな、唐土の鳥が、日本の土地へ、渡らぬ先に、七草たたいて、トントントン」と唄いながら、セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロといった春の七草をまな板に載せて叩くのである。
 「唐土の鳥」と言えば、何年か前には、「鳥インフル」ってのもありましたから、渡り鳥たちにも迂闊には触れません。
 それにしても、「唐土の鳥」と聞いて、即「鳥インフル」を思い出したりしていては、日中関係の改善などは到底望めませんな。


○  浄財を求むる菩薩並びたち南無観世音いそぎ過ぎ去る  (稲城) 鈴木良明

 「菩薩」とは、「仏の次の位のもの。みずから菩提を求める一方、衆生を導き、仏道を成就させようとする行者である」とか。
 また、「浄財」と言えども、結局のところは石原大臣の言う「金目」のことでありましょう。
 したがって、作中の「菩薩」が真の意味の菩薩であるならば、「浄財」を求めたりするはずはありません。
 三十六計、「いそぎ過ぎ去る」に如かず。


○  面倒臭いし雪が溶けたら出て行くし見ぬふりをする冬の椿象  (山形) 小関祐子

 私は、この一首の四句目までの慨嘆的な叙述「面倒臭いし雪が溶けたら出て行くし見ぬふりをする」を読んだ瞬間、「あっ、これだ!この一首こそは私が鑑賞するに値する短歌であろう!」と感じたのでありましたが、末尾の二字「椿象」に就いては、何と読むのか?どういう意味なのか?も解りませんでした。
 そこで、インターネットで検索したところ、「椿象」とは、悪臭を放つことで嫌われている、あの「カメムシ」のことであることを知ることが出来ました。
 自分自身の知識の無さを棚に上げて斯く申し上げる次第ではありますが、作者・小関祐子さんがこの傑作を詠むに至った発端は、身の周りにいて困らせる昆虫「カメムシ」の漢字表記が「椿象」であることを知った点にあるかと思われます。
 だとすると、その新知識に寄り掛かって単純に一首を為せば、その作品は単なる「物知り自慢の短歌」、せいいっぱい褒めても「認識の歌」のレベルで終わってしまうようにも思われます。
 しかしながら、本作の作者・小関祐子さんは、伊達や酔狂で雪国・山形の限界集落住まいをしているわけではありません。
 本作の最大の魅力は、一首・三十一音の大半を領する「面倒臭いし雪が溶けたら出て行くし見ぬふりをする」という、慨嘆的な叙述に在るかと思われます。
 これとあれとを結びつけて「面倒臭いし雪が溶けたら出て行くし見ぬふりをする冬の椿象」という一首、雪国の限界集落の住人としての自らの「捨て鉢」にも似た心境、諦念的な思いを述べているのでありますが、その点に就いては、多くの読者の共感を呼ぶに違いありません。
 それにしても、あのカメムシが雪国の山形で越年することがあるのでしょうか?
 「面倒臭いし雪が溶けたら出て行くし」とは、雪下ろしなどの必要が在って、積雪期間だけ限界集落に住むことを余儀なくさせられた人々にとっての共通の思いでありましょう。


○  あとがきから先に読む癖われにありてそこに赤い花咲いていたりする  (岐阜) 山崎信子

 「あとがきから先に読む癖」は、斯く申す筆者にもあります。
 「そこ」とは「あとがき」、「赤い花」とは興味深く、ためになる話。
 「あとがき」を読んで思わぬ得をしたことが私にも再三ありました。
 因みに、「かりん」四月号の「あとがき」の劈頭には、「寒い日がつづいている。電車の中はマスクにスマホだらけだ。何だかいっそう不健康感がつのる。尾崎朗子さんの現代短歌新人賞受賞の日も近づいた。『かりん』の三十代女性はこの賞をよくいただいている。いつも研究会や歌会後の歌話に熱心な人達らしい。(あき子)」と書かれています。


○  冬雲の光の梯子をいま登りこの世出てゆく人もゐるべし  (広島) 三原豪之

 広島に住む作者は、夏と冬との違いがあるにせよ、「冬雲の光の梯子」という表現に格別な思いを込めているのでありましょう。
 ヒカドンに殺られて逝くのも昇天。
 「冬雲の光の梯子」を「登りこの世出てゆく」のも昇天である。
 それにしても、「冬雲の光の梯子をいま登り」とは、あまりにも印象鮮やかである。


○  無印良品店いでて帰らん夕まぐれ無印良人ゆきかふ巷  (埼玉) 田中穂波
○  襟立てて帽子かぶつてマスクして正体不明に歩むも楽し

 「巷」を「ゆきかふ」人の全てが「無印良人」とは限りませんぞ?
 ブスリと一刺し殺られたらお終いですから、「正体不明に歩むも楽し」などと、呑気なことを言ってはいられません。


○  ダウンロード九〇パーセント完了を見ている時間もわが持ち時間  (鎌倉) 下村道子

 私もつい先日、「ウインドウズ10」のダウンロードをやったばかりですから、作者・下村道子さんのお気持ちはよく解ります。
 着手してから完了するまでの長い時間の全てが「わが持ち時間」だったのですね。




 
 

  

結社誌「かりん」2016年4月号より(作品・馬場欄)

2016年05月05日 | ビーズのつぶやき
○  さまざまな記念日つくり福袋売り出せば人福に寄り行く   (川崎) 馬場あき子

 さし当たっては、1月28日を「馬場あき子生誕記念日」と致しましょうか。
 そして、それを記念してイオン新百合ケ丘店が売り出す福袋の中身は「王禅寺柿最中」としては如何でありましょうか?
 〔反歌〕  馬場あき子生誕祝する福最中われも買いたしイオンに行かむ  鳥羽省三


○  福のなき世かなさまざまな福袋そのふくらみを指で押す人   同上

 「そのふくらみを指で押す人」とは泣かせます!
 それにしても、馬場あき子先生ともあろうお方が、「福袋」の「ふくらみを指で押す人」の挙動を観察しているとは?
 これを以て知るに、昨今は何事に於いても世知辛い世の中になり果ててしまったのである。

  
○  きつと詐欺だと切りし電話のこと話題に出せば友があやまる  同上

 馬場あき子先生の友達の中にも〈おれおれ詐欺紛い〉の電話を掛けて来る人が居たんですかね?
 まさかね?


○  木曜に手紙まとめて書くと言へり伊東屋に河野裕子さん思ふ  (つくばみらい) 米川千嘉子

 「伊東屋に河野裕子さん思ふ」とは、思わず納得させられてしまいました。


○  豪商のやうに雪ふる散財のやうに雪ふる関東平野  (群馬) 渡辺松男

 「関東平野」に降る「雪」こそは、まさしく「豪商のやうに」降る「雪」であり、「散財のやうに」降る「雪」でありましょう。


○  わが庭を領分としてよこぎりしノラに地球はかなり巨きい  同上

 渡辺松男氏のご邸宅の敷地免責は広しと言えども、せいぜい1,000平方mくらいのものでありましょう。
 それに比して、この地球の面積は510,100,000平方kmである。
 その差は余りにも巨大過ぎて、話にも何にもなりません!


○  眠らざる信号機の目をにじませて赤い雪落つ青い雪落つ  (小金井) 梅内美華子

 梅内美華子さんよ!「眠らざる信号機の目をにじませて」も何も、「信号機」が眠ったりしたら、私たち庶民の生活が成り立ちませんぞ!


○  竹下景子がこのごろ老けたと妹は言ひて「われらも」とつけ加へたり  (東京) 草田照子 

 女優の「竹下景子」さんは、1953年9月15日生まれ、御年62歳に相成ります。
 「このごろ老けた」としても、何の不思議もありません!
 それとは別に、竹下景子さんのような顔は、出羽方言に言う「ババコづら」といって、少女時代はともかくとして、三十過ぎになると「老け」が急激に目立って来るような顔なんですよ。
 ところで、本作の作者・草田照子さんは昭和19年生まれであり、姉妹ともども年齢に不足はありません、 それなのに、「妹」さんが、「『われらも』とつけ加」えるとは、あんまりではありませんか!
  

結社誌「かりん」2016年4月号より(作品・岩田欄)

2016年05月05日 | ビーズのつぶやき
○  いろどりのスーツさがれる妻の部屋老いても女の部屋ははなやぐ  (川崎) 岩田正

 「老いても女」は女であり、ましてや、馬場あき子先生の場合は、未だに女性としての魅力が赤ちゃんの小指の先ほどにも褪せてはいません。
 ということでありますから、そのご夫君たる岩田正先生とてうっかりしては居られませんぞ!


○  十年後蠅取り紙の値もあらぬ博士論文ぞ夜すがら読むは  (つくばみらい) 坂井修一
○  文学博士もとつてはいかが? おとなりの文学部長がわれにささやく

 専門が専門ですから、「十年後蠅取り紙の値もあらぬ」という作者の弁は必ずしも謙遜しての事とは言えません。
 それにしても、つい最近まで「籠に飼へぬ頼家螢」などとお母さんから呼ばれていた少年が、博士号を取得するとは驚きである。


○  青空に展翅されたるわが身なればほのぼのと雲を浮かべてゐたる  (千葉) 川野里子
○  丁寧に白山羊の舌の舐めくるるわが手わが足夢にて温し

 「青空に展翅されたるわが身」とは、青空の下に裸身を曝していることである。
 ならば、「ほのぼのと雲を浮かべてゐたる」の「雲」とは、裸身の作者の恥部を覆い隠すためのものでありましょうか?
 一首目の内容が内容だけに、二首目に登場する「白山羊」とやらも、何だか怪しい変態オヤジみたいな感じです。


○  淀藩の池は残りて青山のわが影あをく細くゆれおり  (東京) 日置俊次

 今月号の日置俊次さくは「山椒魚」と題する八首連作、掲出作品はその中の七首目であるが、その直前に「脱自己流ダイエットといふリバウンドなき痩身の魔法あるらし」「ダイエットの車内広告とりわけて豪華痩身プランみてゐる」という、「ダイエット」関連の二首があるだけに、作者の日置氏が肥満体で悩んでいるのか、痩身自慢なのかは判然としません。
 ところで、作中の「淀藩の池」とは、淀藩稲葉家下屋敷跡の「池」かと思われる。
 だとすれば、その淀藩稲葉家下屋敷跡とは、渋谷駅から宮益坂を上った先に在る青山通りに面した、かつての「こどもの城」、今の「国際連合大学」の敷地であり、この地は、幕藩時代の淀藩稲葉家下屋敷の跡地であるから、その敷地内の何処かに、作者の日置俊次氏が「わが影」を映した「池」らしき窪地が在り、雨上がりのその日は、たまたま日置氏の身体が映るくらいの雨水が溜まっていたものと思われる。
 ということになると、「わが影あをく細くゆれおり」という、四、五句目の叙述は、三句目に置かれた「青山の」にひかれての〈言葉のあや〉ということになり、実物の日置俊次氏は、「ダイエットの車内広告とりわけて豪華痩身プランみてゐる」に相応しい巨大漢ということになりましょうか?
 それにしても、「わが影あをく細くゆれおり」とは、まるでギリシャ神話のナルキッソスみたいであまりにもカッコ良過ぎではありませんか!







古雑誌を読む(角川「短歌」1015年1月号・そのⅣ)

2016年05月03日 | ビーズのつぶやき
〇  子が泣けば抱きよせ添ふる耳なりと、医師に伝へて吾が遠きこゑ  光森裕樹

 「子が泣けば抱きよせ添ふる耳なりと、医師に伝へ」るとは、阿呆臭くてたまりません。
 光森さんよ、汝それでも大人かいな?
 金玉持ってるのかいな?


〇  岸をうつしずかなる波この地球のどこにも戦あってはならぬ  小西久二郎

 本日付の朝日俳壇の金子兜太選に「入学式戦なき世をこの子等に」という句が入選句として掲載されていた。
 ということは、人間というものは、「岸をうつ」「波」が「しずかなる」につけても、「入学式」に臨むにつけても、「戦なき世をあらしめたい」と切なく願う存在なのかも知れません。


〇  くつきりと沖の島見ゆ漁獲量へるに漁師らいかに生くるや  小西久二郎

 「沖の島」の「漁師」は漁業以外には生活手段がありません。
 したがって、彼らは「漁獲量」が減ろうがなにしようが、晴れている限り、沖へ出て魚を獲るしかありません。


〇  山鳩が朝のうちから鳴いてゐる熟れ麦赫る青葉深き村  小見山輝

 「赫る」とは?

〇  虫はみなはだかと思ふこほろぎも例外ならず雨に勇まし  高久茂

 「雨に勇まし」はともかくとしても「こほろぎも例外ならず」はいただけません。

〇  雨続く九月のはじめ助けられ医院にあゆむ娘と連れ立ちて  高久茂

 「連れ立ちて」が余分である。


〇  思ほえば八十四のいのちさへみづから保ち来しにはあらず  高久茂
 
 改めて詠まねばならないようなことではありません。
 

古雑誌を読む(角川「短歌」1015年1月号・そのⅢ)

2016年05月02日 | ビーズのつぶやき
〇  職退きてのちの歳月振り返る徒歩にて渡りてきたると思う  三井修

 下の句に「徒歩にて渡りてきたると思う」とあるが、「徒歩にて渡りてきたる」という比喩的表現は、作者の「職退きてのちの歳月」の如何なる側面を捉えての表現でありましょう?
 三井修氏が三井物産を退社したのは五十歳時であり、氏が語学通で腕利きの商社マンとして活躍していた三井物産と言えば、人も知る彼の三井財閥の中核を為す大企業であり、貿易大国たる我が国を代表する商社でもある。
 したがって、氏が五十歳という若さで敢えて退社したのは、ただ闇雲に詠歌三昧の生活に憧れたからといったことではなく、退職後の生活とその生活資金に見通しをつけての措置であったと推測されるのであるが、その氏をして「職退きてのちの歳月振り返る徒歩にて渡りてきたると思う」と歌わしめるとしたら、それは、退職後の彼の経済的に乏しい生活ぶりを比喩して「徒歩にて渡りてきたる」と、述べているのでは無くて、退職後の彼が事として来た短歌に関わる何事かに対する彼自身の不満足感を「徒歩にて渡りきたる」と比喩的な表現に託して述べているものと思われるのである。
 となると、歌人・三井修氏は、三井物産を早期退職して短歌三昧の生活を送るようになってからの、自らの歌人としての至らなさを「徒歩にて渡りてきたると思う」と述べているのかも知れないし、或いは、結社誌「塔」での自らの位置、乃至は、歌壇での自らの位置に就いて不満足感を覚えていて、その気持ちを「徒歩にて渡りてきたると思う」と述べているのかとも思われるのである。
 そのいずれにしても、この一首から窺われるのは、小説家・中島敦描く「隴西の李徴」にも増さる、歌人・三井修氏の飽くなき自尊心・自負心と果てし無い願望以外の何者でもありません。


〇  かの夏に歌に対する考えを異にし別れき それより合わず  三井修

 この一首もまた、歌人特有の自負心(思い上がり)が齎した作品である。
 世の多くの人々にとっての「別れの原因」というものは、「歌に対する考えを異にし」といったような甘いものではありません。
 その多くは、石原何某大臣の言った如く、「金目」が原因、食うか食われるか、といった切った張ったの修羅場が原因でありましょう。
 この一首で以って、作者の三井修氏は、「歌人にとっての短歌観の違いの大切さ」を述べようとしているのでありましょうが、それは、「年から年中、遊びに過ぎないことを遣らかして息を吐いている、歌人特有の思い上がり」というものでありましょう。
 私、鳥羽は、決して、決して、この一首から、歌人の心の純粋さ、真剣さ、などといった心理を読み取ることが出来ません。
 只今は、平成二十八年四月二十七日の午前零時二十八分。
 私は今、こうしてパソコンのキーを叩いている。
 私にとってのこうしている時間は、頗る楽しい時間であり、頗る幸福な時間である。
 私は、だから、「かの夏に歌に対する考えを異にし別れき それより合わず」などというつまらない短歌を傑作として認めたくはありません!


〇  センターを守る選手のごとく今日はさびしい 人に離れきて  三井修

 「センター」であろうがライトであろうが、スタメンで起用され、守備位置が有ったら、それで宜しいではありませんか?
 よしんば、補欠としてのベンチでの椅子であろうとも!
 「センター」という守備位置は外野の要であり、試合の行方を大局的な見地に立って眺め、いざ鎌倉という事態にに備えて、精神統一して守らなければならない位置である。
 「センターを守る選手のごとく」という下の句の叙述が、「人に離れきて」「今日はさびしい」という上の句の直喩として成立する要因は、外野と内野の距離に在る、のであるが、離れているといっても、まさか内野から外野までの距離は無限大ではありません!
 因って、この直喩は成立しません!

 〔反歌〕  歌詠みの甘へ切つたる根性を徹底的に叩きてやらむ  鳥羽省三