臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の読売歌壇から(8月10日掲載・そのⅢ)

2010年08月25日 | 今週の読売歌壇から
[俵万智選]

○ 新宿で小田急線にのりかえて旅のおわりをかみしめている  (海老名市) 玉川伴雄

 その昔、小田急江ノ島線・長後駅付近の高層住宅に住んでいた頃、私は教員仲間の一人と一緒に、新宿二幸前に集合して、山梨県の勝沼近辺のワイナリー巡りに参加したことがあった。
 その頃は長男がやっと幼稚園に入ったばかりであったが、私が電車やバスに乗って、桃の花咲く遠くの村まで行くと言うと、この幼稚園児が「僕も行きたい、僕も行きたい」と言い出して聴かなくなったので、已む無く主催者の<ワインアカデミー>に電話をしたら、「お子様の座席はご用意出来ませんが、バスの中では、お父様のお膝の上にお乗せになられるんでしたらどーぞ」という次第と相成りましたので、お子様をお膝の上にお乗せになられてのワイナリー巡りとは相成りました。
 現地では、行く先々のワイナリーで、自家製のフランスパンやチーズやソーセージをつまみにしてのワイン試飲会が開かれ、一杯二杯と試飲するうちに、大人の大半はワイン漬けになってしまったのであるが、子供向けに葡萄液や他のジュース類を用意しているワイナリーが多く、我が家のお子様もそれなりにご満足のご様子でありました。
 最終訪問先の某大手醸造会社の見学コースで盛大なワインパーティーが開かれた後、帰路はあちこちの桃の花畑などを横目で見ながら、新宿二幸前に到着して解散という運びと相成ったのでありましたが、私と教員仲間の某氏とは、共に小田急江ノ島線沿線の住人であったので、「新宿」でバスから「小田急線にのりかえて」の帰宅となったのであるが、その頃になると、すっかり旅行気分が身についてしまった我が家のご長男は、「小田急線に乗ってしまうと、もう旅行もお終いか。僕つまんない。お家に帰りたくない」などと言い出した。
 すると某氏は、「旅行はまだまだ続くんだよ。新宿から君のお家の在る長後駅までは、この旅行の最終コースさ。もうワインは飲めないけど、チュウインガムでも噛んで、旅行の最終コースを楽しみなさい」と言って、私とお子様の口にガムを一枚づつ入れ、小田急線の車中に居るのにも関わらず、いきなり「ガムで乾杯。今日の勝沼ワイナリー巡り、お疲れ様でした」と言い出して、私たちばかりでは無く、周りの乗客たちまでびっくりさせたのであった。
 そういう訳で、「新宿で小田急線にのりかえて旅のおわりをかみしめている」という、この一首は、私の思い出とも重なって、大変興味深く観賞させていただきました。
  〔返〕 二幸にてピロシキ買ってお土産に小田急線は旅の途中だ   鳥羽省三 


○ 海女たちの数だけ桶が波にゆれ海の底にも夏が来てをり  (愛西市) 坂元二男

 「海女たちの数だけ桶が波にゆれ」という表現は、ただ単に「波にゆれ」ている「桶」の数だけ「海女たち」が海中に潜っていることを説明しているだけでは無く、「桶」を揺らす「波」が、夏の暖かく柔らかい「波」であることをも示しているのである。
  〔返〕 桶の数だけの海女らが素潜りで真夏の海にあわび採り居り   鳥羽省三


○ 死んでから三年経ちし弟が夢の中にて初めて話す  (群馬県) 斎藤祐史

 本作の作者・斎藤祐史さんと「死んでから三年経ちし弟」さんとは、「弟」さんの生前から、あまり親しく話さない仲だったのでありましょうか?
 「死んでから三年経ちし弟」さんが、「夢の中にて」お兄さんに「初めて」話した話の内容は、一体いかなる話だったのでしょうか?
 作者より年齢の少ない「弟」さんが、「三年」も前にお亡くなりになったのは、いったい何が原因だったのでしょうか?
 「弟」さんの早逝に、本作の作者はどのように関わっていたのでしょうか?
 或いは、関わっていなかったのでしょうか?
 本作に具体的に描かれていない、斎藤祐史さんご兄弟の謎はまだまだ多い。
  〔返〕 殺(や)ってから七年過ぎた被害者が夢枕に立ち俺は眠れぬ   鳥羽省三 


○ 駐車券を入れろと連呼し呑み込めばとたんにしずまりバー上がりたり  (沼津市) 森田小夜子

 ホテルやデパートや大型スーパーマーケットや遊戯施設などの駐車場での出来事をおもしろ可笑しくお詠みになったのでありましょうが、実際の駐車場の<駐車券入れ嬢>の話し方はもっともっと優しく、「駐車券をお入れ下さい」「駐車券をお入れになりますと出口のバーが上がりますから、どーぞお通り下さい」などと、美人女性の涼やかな声で言うのである。
  〔返〕 「注射針さっさと刺せ」と駄々を捏ね刺せば刺したで「痛い」と怒る   鳥羽省三
 とは、病院風景と言うよりも、白いお粉を必要とされる方がお集まりになって居られる場所の風景でありましょう。


○ 幾つかの島に立ち寄り人は皆レジへと向かふ船のごとくに  (所沢市) 鈴木照興

 「幾つかの島」とは、スーパーマーケットのそれぞれの売り場のことであろう。
 買い物に訪れた人々は、<野菜売り場>、<食肉売り場>、<魚売り場>、<お菓子売り場>、<果物売り場>、<レトルト食品売り場>などに思い思いに「立ち寄り」、買いたい品物を籠に入れたら、港に「向かふ船のごとくに」「レジへと向かふ」のである。
  〔返〕 幾つかの島に立ち寄り荷を積んで連絡船は消息を絶つ   鳥羽省三


○ 抜け殻となったじょうろをぶら下げて濡れて輝く植物を見る  (高島市) 宮園佳代美

 草花に水をやる為に、水をたっぷりと入れた「じょうろ」はかなり重いから、作者が、水をやり終えて空になった「じょうろ」を「抜け殻となったじょうろ」と形容して言うのは、無理の無い表現であると思われる。
 「濡れて輝く植物を見る」という下の句は、単独に見てもなかなかの表現であるが、頭に「抜け殻となったじょうろをぶら下げて」という上の句を置いて読むと一層素晴らしい。
  〔返〕 抜け殻になった夫婦が連れ立って札所巡りの懺悔の道行き   鳥羽省三

今週の読売歌壇から(8月10日掲載・そのⅡ)

2010年08月24日 | 今週の読売歌壇から
[小池光選]

○ 選手らの笑顔撮らんと携帯を差し上げる腕腕フラミンゴの群  (熱海市) 岸 浩子

 野球やサッカーが終わったばかりのグランドで、<ヒーローインタビュー>を受けている「選手らの笑顔」を「撮らん」として、スタンドを埋めた人々が、一斉に「携帯を差し上げ」ている場面は、現代社会の風俗として既にお馴染みである。
 だが、誰よりも素晴らしい写真を撮ってやろうとして「差し上げ」た大勢の人々の「腕腕」を「フラミンゴの群」に例えたのは、本作の作者・岸浩子さんの大手柄である。
 彼や彼女らの「腕腕」こそはまさしく、アフリカのビクトリア湖の朝空けに、一斉に飛び立たんとしている、百万羽の「フラミンゴ」の長い首そのものである。 
  〔返〕 さだまさし歌うは『風に立つライオン』我らファンの腕はしびれて   鳥羽省三


○ 扇風機首を回して右を向き少し考えまた振り返る  (仙台市) 岩間啓二

 「扇風機」と言えば、一時代前に活躍した送風器具のようにも思われるが、今年の夏は、その昭和の夏のヒーローたちに沢山お目にかかった。
 「首を回して右を向き少し考えまた振り返る」という描写は、活躍中の「扇風機」の様子を、実に鮮やかに捉えた表現である。
 それとは別にこの措辞は、政治や思想上の<右向き・左向き>などということをも思わせて面白い。
  〔返〕 思索する者の如くに扇風機少し右向きまた振り返る   鳥羽省三


○ 木漏れ日の流れのうへにゆれてをり井上成美の余生おもへり  (市原市) 井原茂明

 
 上の句は少し分かり難いが、「夏の午後の『木漏れ日』が、小川の水の『流れのうえ』に『ゆれて』いる」というわけである。
 本作の作者・井原茂明さんは、その夏の静寂の中で、大日本帝國・最後の海軍大将「井上成美の余生」のことを思っているのである。
 親英米派の米内光政や山本五十六の人脈に属した「井上成美」は、日独伊三国軍事同盟や日米開戦に強硬に反対したが、立場上、日本軍の重慶無差別爆撃の実施やガダルカナルに飛行場の建設を提言するなど日本の戦線拡大にも関わってしまったので、終戦後は、贖罪の為に人前にはほとんど出ることが無かったから、<沈黙の提督>とも呼ばれた。
  〔返〕 夏の陽に井上成美思ひ居り笠智衆に似しあの提督を   鳥羽省三


○ 二十八で逝きたる森の石松の墓石はあはれすこぶる小さし  (群馬県) 丸山錦一

 たかがヤクザに過ぎない男の「墓石」が、大きかろうと小さかろうと、私たち堅気の者の生活には何ら関係無さそうにも思われるのだが、その「すこぶる」小さい「墓石」が、他ならぬ「森の石松の墓石」とあらば、私たちの心の中にも、少しぐらいは、ものの「あはれ」を催すのである。
  〔返〕 二十五で逝きにし兄の墓石の前に生ひたる川原撫子   鳥羽省三


○ 淡赤き山桃の実は梅雨の空に君の乳首のごとく愛しき  (川口市) 大塚叶人

 一見、生易しい内容の歌のように思ってしまいそうな歌ではあるが、実のところはかなり生々しい内容の歌なのである。
  〔返〕 山桃の赤き実はめば偲ばるるあの日あの時酸ゆき思ひ出   鳥羽省三

 
○ 階段でふらつく我を支えしは腕にタトウの黒き人なり  (小金井市) 酢谷啓示

 「黒き人」の心の温かさは人も知るところである。
 「タトウ」の「腕」に一瞬慌てたが、やがては、その親切をありがたく受け止めたのでありましょう。
  〔返〕 泡風呂でふらつく我に与へしは胸にタトウの白き美女なり   鳥羽省三   


[栗木京子選]

○ 心臓から遠いところに若さ見ゆ冷房部屋の素足サンダル  (伊丹市) 山崎清子

 「心臓から遠いところ」とは、手足の指先であり、身体中で最も冷え易い「ところ」である。
 したがって、「冷房部屋」での「素足サンダル」は、若くなければやれないことでありましょう。
  〔返〕 心臓に最も近い心臓が冷えたといふのは冷めたといふこと   鳥羽省三


○ ついでにと不祝儀袋求めたり花の扇子をえらびしあとに  (浜松市) 藤田文子

 「不祝儀袋」の買い置きをするのは縁起が悪いという理由で、普通はしないことであるが、どうしてもということで、「花の扇子」を選んで買った「ついでに」という理由をくっ付けて買ったのでありましょう。
  〔返〕 ついでにと買い置きしていた不祝儀の袋は今もあの時のまま   鳥羽省三


○ 津和野駅降りし頃よりゆっくりと時間溶けだす鳶の鳴く声  (吹田市) 鈴木基充

 「津和野駅」には、私も過去三回「降り」立った。
 レトロなSLから降りて、あの小さな駅頭に立つと、確かに「時間」が「溶けだす」ような感覚に捉われた。
 五句目に「鳶の鳴く声」とあって、やや安易な結び方とも思われるが、街空に「鳶の鳴く声」がする風景にも、今となってはなかなか出会えないから、これはこれで致し方無いことであろうか?
  〔返〕 こくのある刺身醤油と酒・魁龍 橋本本店津和野駅最寄り   鳥羽省三 


○ 大方のテナント去りし雑居ビルに燦と灯ともる法律事務所  (下関市) 磯辺喜佐子

 何処も同じシャッター通りの「大方のテナント去りし雑居ビルに」、「燦と灯」を灯して「法律事務所」が頑張っているのだが、その「法律事務所」は、他の「テナント」とは異なって、採算が取れるだけの顧客を掴んでいるので、頑としてその「雑居ビル」から動こうとしないのであろうが、考えようによっては、「法律事務所」が法律を楯にとって、建て替え計画の進んでいる、その「雑居ビル」に居座っているようにも思われる点が面白い。
  〔返〕 法律で四角四面を囲いして賃借ビルに居座る事務所   鳥羽省三


○ 麦二升三里の道を背負ひ来てパンと換へたる十二歳の夏  (埼玉県) 小林 実

 数字合わせの短歌としてはなかなかの出来である。
 それは、作者ご自身の過去の生活体験に基づいて詠んだ作品だからでありましょう。
  〔返〕 小糠一斗二畝の畑にばらまいて三里の山道歩いて帰る   鳥羽省三

今週の読売歌壇から(8月10日掲載・そのⅠ)

2010年08月23日 | 今週の読売歌壇から
[岡野弘彦選]

○ 首すぢのたしかな気配わが肩に死神を負ふ夏のゆふぐれ  (高槻市) 長沢英治

 くされ縁で繋がるある女の話に拠ると、「首すぢ」は、やがて「肩」に掛かって来たり背中に背負わなければならなくなったりする、霊類の「気配」を感じる身体の重要な箇所なのだそうだ。
 彼女は、苦難に満ちた彼女自身の人生の中で、そうした「首すぢのたしかな気配」を数回感じ、その都度何か現実のものとは異なる重いものを背負わされたが、そのものに対する彼女自身の適切かつ真摯な対応を通じて、人生の苦難を脱して来たのだと言う。
 高槻市在住の長沢英治さんは、「夏のゆふぐれ」に「わが肩に死神を負ふ」「首すぢのたしかな気配」を感じたと仰る。
 人間が走行中の自動車の前に飛び出したり、山道を歩いていて首吊りに手ごろな枝を探していたりする瞬間は、そうした瞬間ではないでしょうか?
 長野県在住の作家・某氏の作品を読むと、一見、科学的判断に長け、知性の塊のような彼でさえ、そうした死への衝動に駆られたことが何度かあったそうだ。
 彼も又、「わが肩に死神を負ふ」「たしかな気配」を感じる、敏感なる「首すぢ」の所有者なのかも知れません。
  〔返〕 首筋に膏薬貼った老嬢が女風呂から突然消えた   鳥羽省三


○ 疎開の寺訪へばかの日の僧は亡く楠の大樹に湧く蝉しぐれ  (神戸市) 足立伴子

 大変失礼なことを申し上げるようではありますが、今から六十五年以上も前に学童疎開の一員としてお世話になったことのある田舎の「寺」を、ひょっとしたら「かの日の僧」にお逢いすることが出来るのではないかという期待を、ほんの少しでも抱いて訪れたのだとしたら、本作の作者・足立伴子さんは、なかりの程度、老耄の世界に足を踏み入れられた方ではないか、と思われます。
 「かの日の僧」がお亡くなりになっていたのは当然のことであり、その「寺」の境内に生えている昔懐かしい「楠の大樹」とその「大樹に湧く蝉しぐれ」とが出迎えてくれたことは、遙々と訪れた彼女にとっての何よりの慰めだったに違いありません。
  〔返〕 昨日来たマクドナルドにまた行くと目当てのバイトは既に辞めてた   鳥羽省三


○ 曇天に鳶なきめぐるあたりより次第に空のあをさ広がる  (我孫子市) 原美佐子

 本作を漢字書きを多めにして、「曇天に鳶鳴きめぐる辺りより次第に空の青さ広がる」としたら、如何なものでありましょうか?
  〔返〕 晴天を二分割する飛行機雲その白きより悲しみの湧く   鳥羽省三


○ お互ひに腰が痛いとかこちつつ畦の草刈る老いたる二人  (東京都) 森田 厚

 「お互ひに腰が痛いとかこちつつ」今日も田圃の「畦」に出て「草」を刈らねばならないところに、この「老いたる二人」の楽しみがあり悲しみも在るのでしょう。
 昨今流行りの<肩掛け式草刈り機>を用いての作業ならともかく、旧式の<草刈り鎌>を用いての作業の場合は、作業している間中、中腰にならなければなりませんから、とてもじゃないがたまりません。
  〔返〕 痛むなら腰揉み器械を買えばいい土地持ち百姓余裕あるはず   鳥羽省三


○ 笹百合にちなみて祖父がつけしならむ母の名早百合老いてすこやか  (白井市) 毘舎利道弘

 他の百合に先駆けて咲き、そして萎む「早百合」が、「老いてすこやか」とは、真に解せないことでありましょう。
 それよりも何よりも、本作の作者・毘舎利道弘さんの<毘舎利>という姓が、私にとってはとても珍しく感じられました。
  〔返〕 毘舎利氏は三代続きの易者にて黙って座ればびしゃりと当たる   鳥羽省三 

○ 霧しろく流るる暁のはちす田に茎立つつぼみなべて天向く  (西条市) 山本美知子

 「茎立つつぼみ」が「なべて天」を向いているのは、夜明けを待って開花する準備をしているのである。
 やがて霧が晴れ陽が昇れば、パチンと弾けるようにして花が開くのである。
 「茎立つつぼみなべて天向く」という表現に、崇高な意志のようなものが感じられる。
  〔返〕 霧低く流るる暁のはちす田はものみななべて柔らかに見ゆ   鳥羽省三 


○ 臥してみる窓一面の蠍座は身をよぢりつつ移りゆくなり  (志摩市) 近藤きみ子


 「蠍座」は、日本では夏から初秋にかけて、宵のころ南の地平線上に見える雄大なS字型の星座である。
 「臥してみる」とは、この星座が宵の南天の地平線上ぎりぎりに見えることから、視線を低くして視なければならないことを指して言うのであろうが、この星座の一等星である赤星・アンタレスに対する畏怖心や、この星に因んで<蠍座の女>という言葉があることから、その言葉に対する忌避感などをも表わしているのだろうと思う。
 また、「窓一面の蠍座は身をよぢりつつ移りゆくなり」という表現は、この星が南天に現れてから消えて行くまでの実態を表わすとともに、<蠍座の女>と呼ばれる性悪のダンサーが、男性を魅惑し陶酔境に誘う為に、自分の自慢の肉体をくねくねと「よぢり」ながら舞台で踊る様などを思わせていて面白い。
  〔返〕 性悪で魅惑的なる蠍座は舞台の下にひれ伏して見よ   鳥羽省三
 

○ 満潮に獲物くはへて月の夜のなぎさを低く五位鷺はとぶ  (鴨川市) 落合とほる

 「五位鷺」という水鳥の生態をよく観察して詠んだ作品である。
  〔返〕 干潮に獲物探せるウミガラス朝の渚をどよもして鳴く   鳥羽省三


○ 足腰のうごく幸せありがたし老いのひと日がけふもくれたり  (日立市) 鈴木良平

 「老いのひと日」が「足腰のうごく幸せ」を「けふもくれたり」と、老後の一日に健康で居られることに感謝している、といった内容の作品かと思ったが、どうやら早とちりの誤読であったようだ。
 誤読を防ぐ為には、せめて「けふもくれたり」を、「けふも暮れたり」と表記して欲しかったと思う。
  〔返〕 好き放題言へる幸せありがたし減らず口叩き今日も暮らしつ   鳥羽省三

今週の朝日歌壇から(8月8日掲載・其のⅡ)

2010年08月21日 | 今週の朝日歌壇から
[馬場あき子選]

○ さし出されるマイクをさけてエビ漁に出られぬ男が船べりを打つ  (アメリカ) ソーラー泰子

 メキシコ湾の原油流失事故に取材した作品でありましょう。
 「さし出されるマイクをさけて」「船べりを打つ」という表現に、「エビ漁」に生活を賭けている「男」の無念さが偲ばれる。
 「そんな悠長なことをして居られる場合じゃないぞ」という訳である。
 「直接被害を受けた者にとっては、報道は必ずしも正義でも味方でもない」という、報道や報道取材の在り方として考えるべき問題を含んだ一首である。
   〔返〕 流れ来る油に塗れエビたちは衣も着ずに息絶へにけり   鳥羽省三


○ 拾ひ来し山繭ひとつ卓上に淡く光れり夜半のしじまを  (成田市) 神郡一成

 山行中に拾う「山繭」は、ピンクに輝いたり、淡いグリーン色をして光っていたりすることが多い。
 それは、繭の中に居住する蛾たちが外敵から身を守る為に、周囲の環境に合わせた色の繭を作るからである。
 そのピンクにグリーンに光り輝く「山繭」を「ひとつ」「卓上」に置き、本作の作者は、今日の山行の思い出に浸っているのである。
 「夜半のしじま」の中に「淡く」光っている「ひとつ」の「山繭」の輝きが、作者に今日の山行の疲れを忘れさせ、彼を歌人にするのである。
  〔返〕 拾ひ来し山繭ひとつの輝きを思い出として夜半に歌詠む   鳥羽省三


○ 『樛木』を読めずに買いしその頃の沼津の街の思わるる夜  (静岡市) 篠原三郎

 『樛木(きゅうぼく)』は、7月13日にご逝去された玉城徹氏の第二歌集であり、第24回読売文学賞を受賞した。
 歌集『樛木』の刊行年は昭和47年であるから、「『樛木』を読めずに買いしその頃の沼津の街」とは、昭和47年頃の「沼津の街」を指して言うのでありましょう。
 『樛木』の作者の玉城徹氏がご逝去されたという情報に接した「夜」に、本作の作者・篠原三郎さんは、玉城徹氏がお住いになって居られた「沼津の街」の辺りのことを、懐かしく思い出しているのでありましょう。
 玉城徹氏の第一歌集『馬の首』(昭和37年刊行)には、「いづこにも貧しき路がよこたはり神の遊びのごとく白梅」「ほのかなる象牙の肉の黄をおびしこぶしの花や夕空にして」「街にしてあやふきまでにむらさきの菫の花を立ちて見てをり」「かなしみに馴るるがごとき日を経つつ鶯鳴けり靄の中には」「この道を貧しき女ら多く行き手籠の中も覗き見るべし」「夕ぐれの街に来たれば籠の鳩しづかにをれど猛々しけれ」「積みてある貨物の中より馬の首しづかに垂れぬ夕べの道は」などの珠玉の名作が盛られているが、これらの名作に描かれているのは、復興間もない昭和三十年代の「沼津の街」の風景でありましょう。
  〔返〕 水清く山美しく岳麓の沼津は玉城徹氏の街   鳥羽省三


○ この世にてあの世を思う夕まぐれほわんほわんと合歓の花あり  (福島市) 美原凍子

 「この世にてあの世を思う」という措辞は、文字通り「現世にて来世を思う」と解するべきでありましょうが、<財政破綻の町・夕張市>から福島市に転居なさった作者・美原凍子さんのご事情を考慮すると、「福島市での生活の中で夕張市時代のことを思う」とも解釈されるが、それは余計な深読みでありましょう。
 しかしながら、「ほわんほわんと合歓の花あり」という下の句の措辞は、「作者・美原凍子さんの今の暮らしの満ち足りた様子を表わしているもの」と解釈したい誘惑には勝てない。
  〔返〕 あの世からこの世を見ればひとしきりほわんほわんとして居る我か   鳥羽省三


○ 山鳩の来て坐りおり去年棄てし荒れ果てし巣を繕いもせず  (四万十市) 島村宣暢

 燕は「去年」の「巣」を藁や泥で繕って営巣すると思われるが、「山鳩」は「去年」の「巣」を繕いもせずに、新しい巣を作って営巣するのでしょうか?
 だとすれば「山鳩」は、その姿に似ず横着者である。
 彼の横着振りは、「デデッポ、デデッポ」という、その愛想の無い鳴き声にも表れている、と言ったら言い過ぎでしょうか?
  〔返〕 山鳩に見られぬように種蒔けと農家暦は教えてくれる   鳥羽省三


○ 針先のごと頼りなき稚魚たちが人影させばはや藻に隠る  (名古屋市) 田中稔員

 「針先のごと頼りなき稚魚たち」とは、<針魚>もしくは<目高>の「稚魚たち」のことでしょうか。
 だとすれば、絶滅を危惧されている彼らは、彼らなりの身を守る術を心得ているといわなければならない。
 「人影させばはや藻に隠る」という表現は、事の実態をよく観たうえでの表現かと思われる。
  〔返〕 人影がさせばすばやく藻に隠れ針魚たちの防空演習   鳥羽省三
      人音がすれば皆一斉に藻に隠れ目高の学校退避訓練     々


○ ホバリング後のギンヤンマを見失う空にゆったり夏雲遊ぶ  (堺市) 丸野幸子

 「ホバリング」とは、「ヘリコプターが空中で停止している状態」を指して言う軍事用語である。
 本作の作者は、その「ホバリング」という軍事用語で以って、一端飛び立った「ギンヤンマ」が空中で停止している状態を説明しようとしているのである。
 水稲の葉面などに止まっていた「ギンヤンマ」が空中に飛び立って行く様子を見ていると、飛び立って行き、盛んに動いている間は、人間はその行方を見失うことは無いが、動きを止めて「ホバリング」状態に入ると、光線などの関係で「見失う」ことがある。
 本作の作者は、そうしたことで「ギンヤンマ」を見失ってしまったのであるが、「ギンヤンマ」が居なくなって、空(から)になった「空にゆったり」と「夏雲」が「遊ぶ」のを見出し、夏盛りの真昼の開放感や空虚感を味わっているのである。
 余計なことを言うようではあるが、何かが見えなくなれば、何かが見えて来る。
 それは、「ギンヤンマ」と「夏雲」の関係のみならず、私たちの生活の中でも、ちょこちょこ在ることである。
 「人生は捨てたものでは無い」ということなのでありましょうか、とまで申してしまったら、あまりにも世俗的な解釈になってしまうでしょう。
  〔返〕 住む家を失ってこそ得る自由なり人生はこれ塞翁が馬   鳥羽省三


○ 境内に日時計ありて静かなり此の世と違う時間を指して  (塩釜市) 佐藤幸一

 「境内」の「日時計」は、<植物時間>という<異界の時間>を刻んでいるのである。
 <植物時間>は<人間時間>とは異なって、徒に忙しく喧しくないから、「日時計」の在る「境内」は静かなのである。
 と言うのは、単なる言葉の遊びであって、実の事を申せば、本作の作者・佐藤幸一さんは、塩釜神社の「境内」の「日時計」の周りの静けさに、ふと「此の世」ならぬ「あの世」に行ってしまったような感覚に陥ったのでありましょう。
 人間が異界に召されるのは、こうした瞬間なのである。
  〔返〕 異界なる時間刻みて静かなり塩釜神社の古き日時計   鳥羽省三



[佐佐木幸綱選]

○ 原爆に逝きにし父の忌めぐり来て夏幾度の桐の花咲く  (徳島市) 磯野富香

 <佐佐木幸綱選>は<終戦記念日特集>と見受けられ、本作はその筆頭作である。
 「桐の花」は真夏の暑さの中で咲き、あの淡い紫色の花は、「原爆に逝きにし父」を思い出すに最も相応しい花である。
  〔返〕 人の無き北部キャンパスに咲き乱れあの日を思い出させるカンナ   鳥羽省三
 八月の熱い盛りに、河野裕子さんは冥界に旅立たれました。
 本作は、今は亡き河野裕子さんへの追悼歌として、彼女のご息女・永田紅さんの歌集『北部キャンパスの日々』から一語をお借りして詠ませていただきました。 


○ その母の背中の赤子がこの私引揚げ船は横浜に着く  (横浜市) 松村千津子

 本作の作者・松村千津子さんと何方かとは、「横浜」港に着いた「引揚げ船」の写真を見ながら対話をしているのである。
 「その母」と言う時には写真に写った母を指差して言い、「この私」と言う時には自分自身を指差して言っているのであろう。
  〔返〕 「その母の背中の赤子が自分」と言ひ涙に咽び後は言ひ得ず   鳥羽省三


○ 復員し六十五年色褪せし歩兵操典自分史に載せる  (奈良市) 吉田淳一

 本作の作者・吉田淳一さんは「色褪せし歩兵操典」の呪縛から、未だに解放されていないものと見受けられるが、その事を以って、吉田淳一さんが戦争を賛美しているとは言えないだろう。
 表現について言えば、「自分史に載せる」は「自分史に載す」とするべきではないでしょうか?
  〔返〕 復員後六十五年今年米寿歩兵操典紙面蒼白   鳥羽省三


○ 空からは岩に見えよとうずくまる機銃掃射未だ見る夢  (横須賀市) 矢田紀子

 「空からは岩に見えよとうずくまる」とは、真に迫る表現である。
  〔返〕 空からは蟻に見えよと願えども蟻一匹も逃さぬ掃射   鳥羽省三


○ 卒寿なる姑(はは)の作りたる茄子の馬に乗りて戻り来む軍服の義父  (浜松市) 桜井雅子

 「乗りて戻り来む」は「乗って戻り来るだろう」という意味であるが、この作品の場合は、敢えて推量形を採ること無く、「乗りて戻り来(こ)」と命令形にする方が適当かと思われる。
  〔返〕 二十歳なる孫の焚きたる迎へ火に戻りて来よと姑(はは)は言ひたり   鳥羽省三


○ 予科練の「整列」に似る群雲をわれは見放くる生き存えて  (新潟市) 伊藤 隆

 「生き存えて」という言葉一つに、一首の全重量がかかっているのである。
  〔返〕 大空に懸かる雲見て思ひ出すあの江田島の熱き夏の日   鳥羽省三


○ 戦争を知らぬ私が戦争の絵本を子らに読み聴かせおり  (和泉市) 星田美紀

 「こんな私がこんなことをしていて、これでいいのかしら」とお思いになることもありましょうが、「戦争を知らぬ」ことは決して悪いことではありません。
 また、「戦争の絵本を子らに読み聴かせ」ることは、積極的に良いこととして薦められるべきことです。
 したがって、お迷いになることはありません。
  〔返〕 戦争を微かに知れるわたくしが戦争知らぬ君に呟く   鳥羽省三

今週の朝日歌壇から(8月8日掲載・其のⅠ)

2010年08月20日 | 今週の朝日歌壇から
[高野公彦選]

○ ジェット機の飛びたつ基地の我が街に静かに鳴きて大雪加飛ぶ  (三沢市) 遠藤和夫

 「大雪加(オオセッカ)」とはヒタキ科ウグイス亜科の鳥。
 体長13㎝ぐらいの雀よりやや小型な鳥である。
 背中は褐色で黒い縦縞があり、腹は白い。
 本州北部の湿地に分布するが、個体数が既に1000羽を割ったとも言われ、絶滅を危惧されている。
 本作の作者・遠藤和夫さんがお住いになって居られる青森県三沢市は、空軍を中心とした在日米軍と航空自衛隊に依存した人口四万人余りの「基地」の「街」であり、人々が生活している頭上を、けたたましい爆音を上げて「ジェット機」が飛び回っている。
 作者は、その「我が街」に、「ジェット機」とは対照的にごく小さく静かな声で鳴く「大雪加」が「飛ぶ」ことを心の慰めとし、「ジェット機の飛び立つ」騒音の中で生活し、子供や雛を育てなければならない自分たち哀れな人間と、自分たちより更に哀れな「大雪加」に対して、限り無い愛情を寄せているのである。
 「基地の街」三沢を歌い、その「街」の上空を飛ぶ「ジェット機」と「大雪加」を歌い、何よりも「ジェット機」の騒音や「大雪加」の静かな鳴き声と一体となった、自分たち三沢市民の生活を歌っているのである。
  〔返〕 寺山と太田投手と貴乃浪七年一度の三陸津波   鳥羽省三
 小比類巻某という女性歌手も居りましたが、この頃はどうしているのやら?


○ 語り出す「学徒動員」それからを生き抜いて来し声の静けさ  (福島市) 美原凍子

 「それからを生き抜いて来し声の静けさ」が絶妙である。
 本作の作者は、話し相手が「学徒動員」生活とその後の戦後の荒波の中を「生き抜いて」来た、自分の苦労話を声高に語らないところに好感を感じているのである。
  〔返〕 声高に語らざれども偲ばるる学徒動員その後の悲惨   鳥羽省三


○ 孵せざる鮞(はららご)抱きて鮒鮨になりし似五郎は目をむきてをり  (神栖市) 寺崎 尚

 「似五郎」鮒は、「孵せざる鮞抱きて鮒鮨になりし」恨みに「目をむきて」いるのである。
 ああ恐ろしや、死んでなお且つ七代祟る。
 誓って申し上げます。
 評者は、「似五郎」鮒の「鮒鮨」を決して食べません。
  〔返〕 孵せざるブリコ抱きてハタハタは内館牧子に食べられにけり   鳥羽省三 


○ アマリリス花の貌(かたち)は城山に空襲告げゐし警報機に似て  (堺市) 鳳みさお

 花径が20cm以上にもなる大輪のアマリリスの「貌」は、確かに「警報機」の形に似ている。
 特に、あの毒々しいまでに赤い花を見たら、「城山に空襲告げゐし警報機」を思い出すのはごく自然なことであろう、とも思う。
  〔返〕 そのかみのフランス土産のアマリリス逝きしバーバの貌想はする   鳥羽省三


○ 早春に釘煮送りし古里ゆ母の顔してメロンが届く  (赤穂市) 堀百合子

 評者は、ついうっかり、「母でも無い女(継母)が『母の顔して』夕張『メロン』を宅急便で送ってくれました」と誤読してしまいました。
 私の甥に当たる青年の妻の父親が、初婚の妻(即ち私の甥の妻の母親)と離別した後、北海道で再婚したというホットニュースに接したばかりだったからです。
  〔返〕 憎らしきメロンに描いた義母の顔ケータイ写真で今朝届きたり   鳥羽省三
 『枕草子』第百五十一段に、「うつくしきもの瓜にかきたるちごの顔。雀の子の、ねず鳴きするにをどり来る。二つ三つばかりなるちごの、急ぎてはひ来る道に、いとちひさき塵(ちり)のありけるを目ざとに見つけて、いとをかしげなるおよびにとらへて、大人などに見せたる、いとうつくし。頭は尼そぎなるちごの、目に髪のおほえるをかきはやらで、うちかたぶきてものなど見たるも、うつくし」とあるのは、既に皆様、ご存じのこととは拝察しますが。
 

○ 沢蟹の歩める庭に目覚めけり離れの母の淡きともしび  (神戸市) 小田玲子

 「沢蟹の歩める庭」とは、六甲山麓の閑静な「庭」を指すのか?
 その閑静な庭に面した部屋で「目覚め」たところ、庭を隔てた「離れの母」の部屋に「淡きともしび」が灯っていたのでありましょう。
 ご高齢者は、豆電球を灯したままで就寝することが多い。
 「離れの母」の部屋に灯っている「淡きともしび」が、ご高齢に達した「母」の「淡き」命を思わせて切ない。
  〔返〕 沢蟹の泡吹く庭の片隅に母の手植えの桔梗花咲く   鳥羽省三


○ 黄泉近き患者ふたりが骨壷の絵柄を語るデイルームの午後  (千葉市) 田口英三

 「黄泉近き患者ふたり」という言い方はやや無情に過ぎるとは思われるが、「午後」の「デイルーム」で「骨壷の絵柄を語る」「ふたり」の「患者」さんは、そのことを充分に理解し、覚悟を決めたうえで、残された日々を生きて居られるのでありましょう。
  〔返〕 医師われもいづれ逝く身と知り居れば末期の水に涙流しぬ   鳥羽省三



[永田和宏選]

○ 殺すなと言うあり殺せと言うありて草食む牛をテレビは映す  (赤穂市) 堀百合子

 誰ひとりとして、「殺せ」と思っては居りません。
 にも関わらず、「殺せ」と言わざるを得ない心の切なさよ。
 今年の春から夏に掛けて(7月22日現在)、宮崎県で殺処分された牛の数は68266頭、豚の数は220034頭になると言う。
 殺処分され、土の中に埋められる牛や豚の姿は、ほとんど毎日のようにテレビの大型画面に映し出されて話題となった。
 明日、殺処分されると決まっているのにも関わらず、牛たちは無心に「草」を食み、飼育農家の人々は有心に餌を食べさせていたのである。
  〔返〕 「殺すな」と言っても叶わぬ事だからみすみす殺した牛七万頭   鳥羽省三


○ 臥す妻と食うたこ焼をぶら下げて祭りの夜の人込みを掻く  (久喜市) 児玉正広

 埼玉県の久喜市と言えば東北本線の沿線ながら、特急はおろか快速電車さえも停まらない、ただの田舎町である。
 その久喜市にも、「臥す妻と食うたこ焼をぶら下げて祭りの夜の人込み」を掻き分けた人が居たのかと思うと、人間というものは住む場所や風貌は違っても、やることはそれほど違わないものだ、と、つくづく思わざるを得ません。
  〔返〕 愚かなる息子娘に資せんとし妹騙した女も居たね   鳥羽省三


○ 又ひとり歌人が逝きぬベランダのミニトマト越し香貫山見る  (三島市) 渕野里子

 去る7月13日に肺炎の為にお亡くなりになった、歌人・玉城徹氏の歌集に『香貫』が在る。
 享年八十六歳。
 氏の代表作「いずこにも貧しき道がよこたわり神の遊びのごとく白梅」は、現代短歌の精髄とも言うべき傑作と思われる。
 「ベランダのミニトマト越し香貫山見る」とあるが、「ベランダのミニトマト」と「香貫山」との取り合わせが目新しい。
  〔返〕 ベランダのゴーヤのカーテン揺るがして揚がる花火にしばし涙す   鳥羽省三 


○ トルコ帽剃りのこる鬚そのままの玉城徹は鰰好む  (山形県) 佐藤幹夫

 「トルコ帽剃りのこる鬚そのままの」という措辞に、人付き合いを好まず、詠歌一筋に生きた<孤高の人・玉城徹氏>の生前の風貌の一端が偲ばれる。
 本作の作者・佐藤幹夫さんは、山形県遊佐町に在住される方と思われるから、玉城徹氏の好まれた<鰰の湯上げ>をご一緒されたことがおありなのかも知れません。
  〔返〕 剃り残す顎鬚風に靡かせて何処を歩むか玉城徹は   鳥羽省三 

 
○ おぞましや身の毛もよだつゲジゲジは譱(ぜん)という字にしかし似ている  (新潟市)
 太田千鶴子

 作中の「譱」は「善」の古字であり、その意は「善」と同じく「よし・よい・正しい・美しい・立派」などである。
 作者にとって、「おぞまし」く「身の毛もよだつゲジゲジ」が、よくよく観察してみると、「譱という字にしかし似ている」から歌にする気にもなったのである。
 本作は、コスモス幹部の某氏言うところの<認識の歌>の一種であろうが、作者・太田千鶴子さんとしては、「譱」という古体字を自作短歌の中に取り入れてみたかったのではあるまいか?
 「しかし」がなかなかに効いている。
  〔返〕 太田なる肥田に棲めば千鶴の子もメタボになりて北へ飛べずも   鳥羽省三


○ 僧ゆえに人より多く祈り来し形ばかりの祈りなれども  (三原市) 岡田独甫

 「僧ゆえに人より多く祈り来し形ばかりの祈りなれども」という認識や好し。
 その認識が、筆者・岡田独甫和尚をして聖職者たらしめているのである。
  〔返〕 形式はものの初めと極みなり形ばかりの祈り清しき   鳥羽省三  


○ 革靴の革の匂いをただよわせ主人も客もいない靴店  (塩釜市) 佐藤幸一

 地方都市の自営業者の現状は私たちの想像以上に厳しいかと思われる。
 私の知り合いの弁当屋の女主人が、自分の店で販売する弁当を作り上げると、もっと大きい他の弁当屋にアルバイトに行っていると言う。
 「主人も客」もいなくて閑散としている「靴店」に、「革靴の革の匂い」だけが漂っているのである。
 「客」はともかくとして、「主人」は何処へ出掛けたのか?
 「主人」は金策に出掛けたのか?
 「革靴の革の匂いをただよわせ」という表現は、一見すると過剰表現のようにも思われるが、必要にして充分な表現と思われる。
  〔返〕 桐下駄の桐の匂いを漂わせ旧盆前の店の賑わい   鳥羽省三
      たこ焼きの蛸の匂いを漂わせ道頓堀の宵の賑わい    々


○ カメラ下げ鉾追ふ亡夫に出会へさうな祇園祭の人混みの中  (京都市) 内海和子

 
 「去る者は日を以って疎し」とは言うが、他ならぬ夫婦の間柄ともなれば、確かにそんな気もしますねー。
 カメラ気違いの「夫」に、髪結いの奥さんの取り合わせでしょうか?
  〔返〕 鉦叩き足拍子取り鉾の先歩みし夫の今も恋しき   鳥羽省三


○ われ若くそもたのしかりき鉾町の囃子の底の残業の日々  (京都市) 箕坂品美

 かと言えば、こういう変わったお方もいらっしゃいます。
 「鉾町の囃子の底」に居て、若き日の箕坂品美さんは、京人形の顔作りの「残業の日々」を過ごしていらっしゃったのでしょうか?
 祇園祭を題材にしながら、その賑わいの「底」に居て、「残業」に余念の無かった青春の日々を描いているのは大変目新しい。
  〔返〕 その後も祇園祭の賑はひに関はらず生き古希を過ぎぬる   鳥羽省三


○ 「ご家庭で不用なものは無いですか」毎日マイクで来るのには参る  (大分市) 長尾素明

 この頃、よく聞く声です。
 妙齢の女声で「ご家庭で不用なものはありませんか。壊れていても構いません。何でもお引取り致します。分からないことがございましたら、お気軽に運転手にご相談下さい。毎度お騒がせして、真に申し訳ありません」と言うから、窓から顔を出してみたら、狂水病に罹った落ち武者みたいな男性が運転したりしていて。
 「毎日マイクで来るのには参る」に惚けた味があって宜しい。
  〔返〕 ご家庭で不用な者は私です持参金付きでお払いします   鳥羽省三
   

『NHK短歌』観賞(東直子選・8月15日放送)

2010年08月19日 | 今週のNHK短歌から
○ 島の家は鱗のように重なりて出船入船見下ろして建つ  (伊丹市) 岡井祥子

 作者の目に、「島の家」が魚の「鱗のように」重なって見え、その「家」が島の港に出入りする「出船入船」を「見下ろして建つ」ように見えたとしたら、本作の作者は、一体いかなる場所を立ち位置としているだろうなどと、ごく日常的な場所に居る評者は、つい考えてしまうのである。
 しかしながら、歌詠みが歌を詠む為に立つべき位置は、時空を超えた<特権的な位置>であるから、本作の作者には、居ながらにして「島の家」が魚の「鱗のように」重なり、港に出入りする「出船入船」を「見下ろして」建っているように見えるのである。
 歌詠みが歌を詠む為に立つべき時空を超えた<特権的な位置>とは、言葉を替えて申せば、<神の視座>に他ならない。
 本作の解釈に当たっては、この<神の視座>を意識してかからなければならないが、<神の視座>に立って歌を詠んでいるのは、何もこの作品の作者の岡井祥子さんのみならず、他の歌を詠む、他の歌詠みの場合も全く変わらないことなのである。
 例えば、今は亡き河野裕子さんの第一歌集『森のやうに獣のやうに』に、「逆立ちしておまえがおれを眺めてた たった一度きりのあの夏のこと」という作品が在り、「この作品は、作者・河野裕子が、恋人・永田和宏の視点に立って詠んでいるのである」などという、訳の分からない解説が為されていて、私のような平々凡々たる読者たちを困惑させている。
 しかし、この作品の作者・河野裕子さんが、この作品を詠むに当たって占めていた位置が、他ならぬ<神の視座>であることを知れば問題は一挙に解決し、私のような平々凡々たる読者たちに対しても、何一つの混乱を与えないのである。
 また、こちらは未だご存命でご活躍中の方であるが、あの栗木京子さんの第一歌集『水惑星』に、「観覧車回れよ回れ想い出は君には一日我には一生」という作品が在り、「作者・栗木京子さんが、『想い出は君には一日』と言う時は、相手の男性に弄ばれている可能性を危惧し予測し、予測的に言うのであって、『我には一生』と言う時には、たとえ弄ばれたにしろ、自分にとってのこの数分は、絶対的、永遠的なものである、という確信に基づいて言うのである」などという、これまた訳の分からない解釈が横行しているが、この作品の解釈に当たっても、作者・栗木京子さんの立ち位置が、時空を超越した<神の視座>であることを知れば、問題は一挙に解決するのである。
  〔返〕 見上げれば庇のように被さって島の傾りに家々は建つ   鳥羽省三 
      回転床回れよ回れ眩惑は我には一夜君には一生        々 


○ 瀬戸内の無人島なる白砂に会社の友としばし戯る  (熊谷市) 米山直昭

 事ここに到れば何をか言わん。
 「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹と戯る」の捩りとも模倣ともつかない、この駄作が<NHK短歌・東直子選>の<特選二席>に居座ろうとは、呆れ返ってものも言えません。
  〔返〕 倒壊の危険性あるこのビルの地下に商うスナックに飲む   鳥羽省三


○ 広島がヒロシマになるあの日まで母は天涯孤独じゃなかった  (広島市) 坂田世輝

 「広島」を「ヒロシマ」と書き、「長崎」を「ナガサキ」と書けば、「世界のヒロシマ」、「世界のナガサキ」になる。
 だが、「東京」を「トーキョー」と書き、「横浜」を「ヨコハマ」と書いても、ナツメロのタイトルにしかならない。
 また、「名古屋」を「ナゴヤ」と書いてしまったら、何がなんだか判らなくなってしまう。
  〔返〕 広島をヒロシマにしたあの日から日本は米のしもべと化した   鳥羽省三


○ 半島と離島数多の長崎は風車の羽根と滴の如し  (大村市) 沖田睦枝

 長崎県は「数多」の「半島と離島」から成り立っているが故に、「風車の羽根」と「風車の羽根」から滴り落ちる「滴の如し」と、本作の作者は言っているのである。
 今、私が試みに手元の日本地図帳を開いて長崎県を鳥瞰してみると、その地形は、確かに「風車の羽根と滴」の如く見えない訳では無い。
 長崎県には、<島原半島、長崎半島、西彼杵半島、北松浦半島>と、四つの大きな「半島」が在るので、本作の作者は、これらの四つの「半島」を「風車の羽根」に見立てているのであり、また、<対馬、壱岐島、福島、鷹島、青島、平戸島、生月島、度島、的山大島、二神島、九十九島 (西海国立公園)、黒島、針尾島、五島列島、男女群島、鳥島、大島、蛎浦島、崎戸島、江島、平島、松島、池島、伊王島、高島、端島(軍艦島)、樺島、九十九島 (島原市)>などの「数多」の島々があり、本作の作者は、それらの島々を「風車の羽根」から滴った「滴」に見立てているのである。
 ところで、ごく普通の人間である私は、本作に詠まれている事柄の真実性を確認する為に、高校生や中学生が学習に用いている地図帳を開いてみたのであるが、本作の作者・沖田睦枝さんがこの作品をお詠みになられるに当たっては、私のように、ちんけな地図帳を開いてみたり、鳥の翼に乗って、あの複雑怪奇な形をした長崎県全域を鳥瞰した訳では無いでしょう。
 先にも述べた通り、歌人が歌を詠む時の立ち位置は<神の視座>である。
 したがって、本作の作者が本作をお詠みになった場合も、<神の視座>にお立ちになってお詠みになったのに違いない。
  〔返〕 滋賀県はその大半が琵琶湖にて人が住むにはあまりに狭し   鳥羽省三


○ 狐似せ白く塗った児踊る島ここはこの世かと彼の手握る  (北九州市) 松瀬詩子

 「ここはこの世かと彼の手握る」とは、是また大袈裟なもの言いである。
 要するに、奇怪な民俗舞踊を見物する為に同行した「彼の手」を握りたかっただけなのに。
 ホテルに帰ってからが楽しみである。
 「ここはこの世」では無いのだから、彼と彼女とは、今夜どのような狂態を晒しても、一夜の夢の中の出来事でしか無いのだから。
  〔返〕 翌朝は狐の嫁入り日照り雨夕べのことが少し恥ずかし   鳥羽省三 


○ 地球儀にいりこのやうに背を伸ばす日本列島指に撫でつつ  (広島市) 玉浦章平

 「いりこ」とは<海参>即ち<ほしこ>のことか、それとも<煮干し>のことか?
 まさか、<煎り粉>即ち<むぎこがし>のことではないだろう。
 評者としては、一首全体の雰囲気から推して、「いりこ=煮干し」と解釈したいが、その説に立っても、本作の作者が、「地球儀にいりこのやうに背を伸ばす」と表現した真実の意図があまり良く解りません。
 あるいは、「地球儀」上の「日本列島」の愛しさと神々しさに、思わず姿勢を正してしまった、という意味でありましょうか?
  〔返〕 地球儀に思わず涙を降り注ぐ日本列島あまりに小さし   鳥羽省三


○ 夏の日にシャツの背浮かぶ日本地図君の住む島背骨の左  (大阪市) 鮎澤千晶

 「夏の日にシャツの背浮かぶ日本地図」という表現は、どのような見ても、無理で窮屈な表現である。
 一考を要する。
 「背骨の左」に相当する「君の住む島」は、<佐渡>でしょうか、<対馬>でしょうか?
  〔返〕 真夏日のシャツに浮き出る日本地図君の住む街へその裏側   鳥羽省三


○ 草取りに屈めば首に耳に目にボルネオ島の藪蚊群れ来つ  (枚方市) 三上 昇

 「草取りに屈めば首に耳に目に」、現実に「群れ」来る「藪蚊」は、「ボルネオ島の藪蚊」ではあり得ない。
 筆者は、この一首を詠むに当たって、「ボルネオ島」での悲惨な戦争体験を回想しているのでありましょう。
  〔返〕 宵闇の妻の柔肌狙ひ飛ぶ夜蚊(よが)の憎らし赤き血吸ひて   鳥羽省三
 「古希過ぎて『妻の柔肌狙ひ飛ぶ夜蚊の憎らし』も何も無いでしょう。歳を考えなさい、歳を。それに私だって、もう歳ですから、『柔肌』では無く<鮫肌>ですよ。がさっがさっです」と、妻が言うので触ってみようと手を出したら、叩かれてしまった。


○ 青田から青田へこましゆく風の青田抜ければ行方失ふ  (津市) 奥山 功

 方言と思われる「こましゆく」の意味があまりよく解らないが、要するに、「青田から青田に吹き渡って行き、青田の苗をなびかせていた風が、はるか彼方の青田を吹き抜けて行った後と、行方知れずとなってしまった」と言うのでありましょう。
 是また、<神の視座>から一望した風景を写実的、印象的に描いている。
  〔返〕 稲田から稲田へ渡る夏風に背中押されて蝗捕りする   鳥羽省三


○ 会いに来て帰る子の背に「抜かるな」とホームの老女声をかけたり
                 ※老女 (おうな) (長野県松川町) 有賀 愛

 「『抜かるな』」とは、ご「老女」殿よくぞ言ったり。
 ご自身がご老齢になってしまって、老人「ホーム」で暮らすようになっても、このご「老女」殿にとっては、「会いに来て帰る子」は、我が子に違いないのである。
 「『抜かるな』」という言葉一つに、このご「老女」殿の思うままにならなかった人生の全てが集約されているのでは無いでしょうか?
  〔返〕 「馬鹿たれ」と背中叩かれ叱られて米寿の祖母の見舞ひを終えつ   鳥羽省三


○ 君からの電話もなくてゆるゆると過ぎてゆく午後バナナ熟せり  (藤沢市) 花戸みき

 「君からの電話」は待ち焦がれている電話なのか、それとも、どうでもいい電話なのか?
 それが判らないところに、この一首の魅力の一つが在るとも思われ、その後の「(電話もなくて)ゆるゆると過ぎてゆく午後」が、「電話」の内容の謎を解く鍵かとも思われるが、更にその後の「バナナ熟せり」で以って、その予測が再び覆されたような気がする。
 かくして、とにかく上手い作品である。
 この一首で以って、<花戸きみ>さんの実力の程を充分に確認することが出来ました。
 今後とも、そのご実力を充分にご発揮なさって、素晴らしい作品を沢山お詠み下さい。
  〔返〕 あてにせぬ電話ばかりが鳴り響きあてにしていた送金は無し   鳥羽省三 


○ 兄散りし南の孤島地図に見つけ母は毎日撫でていたりき  (国分寺市) 森田 進

 「撫で仏」という言葉があるが、本作中のお「母」様にとっては、その「南の孤島地図」は、<撫で地図>であったのでありましょう。
  〔返〕 兄散りし南の島の地図を撫で母はみまかる笑みさへ浮かべ   鳥羽省三

『NHK短歌』観賞(加藤治郎選・8月8日放送)

2010年08月18日 | 今週のNHK短歌から
○ おかっぱとおさげが好きな子教えあう赤チン塗ったひざを並べて  (盛岡市) 砂花ことは

 「赤チン塗ったひざを並べて」、「おかっぱとおさげが好きな子教えあう」とあるが、本作の作者の<砂花ことは>さんは、「おかっぱ」だったのでしょうか、それとも「おさげ」だったのでしょうか?
 そのいずれにしろ、その頃は「おさげ」も「おかっぱ」も<南部・盛岡>の田舎娘でありながら、世間並みに「好きな子」を胸底に秘め、その「子」に自分の心を打ち明けられない為に、それなりに悩んでいたのでありましょう。
 ところで、昭和の二十年代から三十年代にかけては「赤チン」の全盛時代であり、「ひざ」を擦り剥いても「赤チン」。
 鼻っ柱を引っ掻いても「赤チン」。
 家によって、母親によっては、擦り過ぎて血を出してしまった息子の<黒チン>に、<赤チン>を塗って治してしまった、という落語みたいな話さえあったような時代であった。
  〔返〕 赤チンを塗った顔して登校す父に小突かれおでこ擦り剥き   鳥羽省三


○ ぱすんしょわしょわラムネの音は少年の昭和の音よぱすんしょわしょわ  (金沢市) 前川久宜

 現代短歌の担い手たちの<オノマトペ>好きには首を傾げざるを得ない。
 しかし、今回の選者の加藤治郎氏はその第一人者にも目されている方であるから、本作を<特選二席>に推したのも納得せざるを得ないところである。
 「ぱすんしょわしょわ」という詠い出しは、字余りもそれほど気にならず、目新しい<オノマトペ>を採り入れた作品としては、一応成功していると言わねばならない。
  〔返〕 パスンショワという名の街が南米の何処かの国の首都だったとの説   鳥羽省三


○ 取りおきし旧紙幣からゆらゆらとあふれてきたる昭和の香り  (豊中市) 松本紗矢子

 「旧紙幣」を見ていたら、それが<お金>として通用していた昔の記憶が甦って来た、というパターンの短歌は、これまでにも数回目にしたことがある。
 したがって、この一首は極めて安易な発想による作品かと思われるが、「旧紙幣」を「旧紙幣」と言わずに、<聖徳太子のお札>などと具体化して言うことによって、幾分かの現実感が保証されるとは思う。
  〔返〕 遣へざる大黒様の紙幣から零れて来たる明治の涙   鳥羽省三
      一枚の聖徳太子のお札から甦って来た昭和の記憶     々
 <NHK短歌>に投稿し、あわよくばその特選一席に座ろうとする者が、月並みな発想をしていてはいけない。


○ 降る雪に二の字二の字の下駄のあと昭和は遠くブーツ行き交う  (日田市) 立花和子

 「初雪や二の字二の字の下駄の跡」という俳句が江戸時代に在る。
 また、「降る雪や明治は遠くなりにけり」という俳句は、あの中村草田男の名句である。 人口に膾炙したこれら二つの俳句をミックスし、作者が「昭和」の風俗として捉えている「下駄のあと」に、平成の風俗としての「ブーツ行き交う」を加えて成り立ったのが本作である。
 手が込んでいると言えばそうも言えるが、所詮、他人の褌で相撲を取るの類の作品である。
 したがって、「前掲の松本紗矢子さん作以上の月並みな発想による作品」と、悪口の一つや二つは言いたくもなる。
 「詠むのも阿呆、採るのはそれ以上の阿呆」かとも思われる。
  〔返〕 降る雪をスパイクタイヤで掻き散らす昭和なつかし道路穴ぽこ   鳥羽省三


○ 昭和とは服従だった思い出の親も教師も鎖のかたち  (瀬戸内市) 小橋辰矢

 本作の作者の、「昭和とは服従だった」という哀しい認識には同情を覚える。
 しかし、本作の作者は、昭和から平成へと年号が変わり、その間に、私たち日本人の人権意識や生活がどれだけの進歩を遂げたと思っているのだろうか?
 そうした点には、私は大きな疑問を感じている。
 つい昨日、私は新百合ヶ丘の<スーパー・SATY>に買い物に出掛けたが、その帰りに寄ったある公営プールの前で、小学校低学年と思われる男女の子供二人が、「じーじ、じーじ」と大声を出して怒鳴っているのである。
 すると間も無く、その<じーじ>と思しき年配者が、そのプールの玄関に自分の自動車を横付けした。
 察するに、その子供たちは、自分たちが<じーじ>という現代的侮蔑的愛称を奉っている祖父の運転する自動車でプールに遊びに来ていたのであるが、遊びの時間が終わって、愛する<じーじ>が駐車場から自動車を出す間の数分間の熱さに耐え切れずに、「あの<じーじ>の要領が悪いばっかりに、自分たち王子様と王女様が、この暑い最中をこんなにも待たせられるのか」と、怒鳴り散らしていたのであろう。
 考えてみると、昭和から平成への時間の経過と共に変わったことと言えば、新聞少年や納豆売りの少年やマッチ売りの少女が路上から消えて、学童たちが、学力に欠け忍耐力に欠けた王子様、王女様に変身してまったことや、かつての<じじい>や<ばばあ>が、<じーじ><ばーば>に変身させられて、<馬鹿王子><我が儘王女>の前に這いつくばっているばかりではないだろうか?
 自分の子供や受け持ちの児童生徒を、無闇やたらに殴りつける親や教師は確かに絶滅寸前にある。
 しかしながら、その後には、無責任と陰湿な虐めが残り、学力も忍耐力も人生観も理想も就職先さえも失ってしまった若者たちが大量に生産されてしまったのである。
 本作の作者・小橋辰矢さんは、いったい何歳ぐらいの方でありましょうか?
 昭和と呼ばれたかつての時代に、軍隊生活を強いられたり、無実の罪を着せられて獄窓に繋がれていた経験をお持ちの方ならともかく、今年の六月に古希を迎えた私ぐらいの平凡な半生を送った者ならば、「思い出の親も教師も鎖のかたち」とまで言うのは、少なからぬ未練がましさと恨みがましさを感じる、と評しても、決して言い過ぎではないだろうと評者は思うのである。
 とは言え、かく申す私にも、金と女と昭和には数々の恨みがございます。
  〔返〕 <女中→お手伝いさん→サポーター>次々変身<昭和→平成>   鳥羽省三
   

○ 全国の健康優良児てふ表彰を軍から受けし十歳の夏  (奈良県田原本町) 片岡 石走

 今はどうなったかは知りませんが、私が学童の頃には、文部省や厚生省の主催と思われる、<全国健康優良児>表彰という一大イベントが在った。
 つい先刻、このイベントの実態を知ろうとしてインターネットの検索窓に<全国健康優良児>と入力して調べてみたら、先生たちが学童の人権や感情を無視して、今ならセクハラとして新聞沙汰になるような破廉恥な身体検査などをした結果、男女一名ずつの学校代表が選ばれ、それに続いて、もっと酷く破廉恥な身体検査を行った後、県代表が選ばれ、更には<全国審査会>という段階に至るのだそうだ。
 県代表となり、晴れて<全国審査会>に参加した<健康優良>な男女の児童は、その段階に至るまで、いったい何回、先生やお役人といった良識ある大人たちの前で裸にされ、羞恥心を無視され、プライドを傷つけられねばならなかったことだろうか?
 私の通っていた小学校からは、鳴り物入りの大騒動の後に、隣りクラスのI君が学校代表に選ばれ、県代表審査会に行ったのである。
 私と彼とは中学時に同級生となり、親しく会話を交わすような関係になったのであるが、その彼の話によると、彼が学校代表になったのは、彼の知らない間に行われていた学級担任同士の闇取引みたいなもので、彼としては、学校代表として県に送られる資料作成の段階で、数回に亙って屈辱的な身体検査や面接などを強制されたりして、迷惑以外の何ものでも無かったそうだ。
 父親が戦死し、終戦時に母親を結核で失って、弟と二人で叔父さん夫婦に養われていた彼は、中学校を卒業すると同時に、横浜鶴見の日本鋼管の研修社員に選ばれて故郷を去った。
 それから一年余りたったある夏の日、私は東映映画専門の映画館の暗がりの中で彼の姿を発見したが、銀幕に見入る彼の姿勢に何やら異様な雰囲気を感じて、話し掛けることさえも出来なかったのである。
 彼が横浜市鶴見区内の山の中で首を括って死んだのは、それから約一ヵ月後のことであった。
 彼が<健康優良児>として、学校代表になるには、何か決定的なものが欠けていて、彼自身かなり無理をしていたのでは無いかと、この頃、私はしきりに思うのである。
 昨今、<心身共に健全>という言葉がよく使われるが、その頃の<健康優良児>の審査には、<心>の審査が無かったのであろうか?
 尤も、昨今の世の中で<心身共に健全>な若者とは、一体どんな若者を指して言うのだろうか、と、心身共に不健全な私は、考えてしまうのである。
 本作の作者・片岡石走さんは、「十歳の夏」に、「全国の健康優良児てふ表彰を軍から受けし」ことについて、どのように思い、どのように懐かしんでいるのでありましょうか?
  〔返〕 もろ出しのフルチン叩き「はい、合格」恥や外聞捨ててしまいな   鳥羽省三


○ どの島もひょっこりひょうたん島でした高度成長時代懐かし 兵庫県 神戸市 松下 弘美

 「どの島もひょっこりひょうたん島でした」という上の句は、つい先日、『ひょっこりひょうたん島』の作者・井上ひさし氏がお亡くなりになったことからの着想かも知れません。
 井上ひさし作の『ひょっこりひょうたん島』が、全国の子供たちを白黒テレビの前に釘付けにしたのは、確かに「高度成長時代」でありました。
  〔返〕 どの家の子らも『ひょっこりひょうたん島』でした。ひさしは死んだガバチョはいずこ   鳥羽省三


○ 学歴も職歴も皆一行の昭和一桁父の生き様 滋賀県 大津市 小見 伸雄さん

   学歴  滋賀県大津市立大津小学校高等科卒業。
   職歴  同校卒業後、大津タイヤ㈱に永年勤務。
 「昭和一桁」らしい、実に見事な一行書き、見事な生き様でした。
  〔返〕 <賞罰>は交通違反が二度三度 一行書きが出来ねば書かず   鳥羽省三


○ 蓄音機の発条(ぜんまい)を巻く母がいて東海林太郎は歌う昭和初期 山梨県 甲府市 田辺 新造

 お題が<昭和>であるから、「発条」巻きの「蓄音機」が登場し、「東海林太郎」が登場し、そのテーマは<懐旧の情>となるのは、ごく自然なことである。
  〔返〕 東山千栄子・笠智衆・原節子主演の名画『麦秋』懐かし   鳥羽省三


○ ざら紙の印刷面を中に折り綴じたノートが吾らの戦後 東京都 八王子市 浅輪 セツ子

 それともう一つ、墨塗りの教科書も忘れられない。
  〔返〕 兄の着た国防色のリフォームが学童われの通学服に   鳥羽省三 


○ 夕餉時、カラーテレビを観る為に訪ねし幼馴染の家よ  (八王子市) 取雅史

 『てなもんや三度笠』や『ひょっこりひょうたん島』などの子供向け人気番組は、「夕餉時」に放映されていたからである。
 テレビを視させてもらった序でに、夕食をご馳走になることも度々であったが。
  〔返〕 懐かしき『ペリーヌ物語』の少女らは今頃メタボのマダムで無惨   鳥羽省三


○ 夢がまだ埃の匂いにまみれてた東京タワーも新幹線も 千葉県 市川市 笹木 佑美

 評者が上京した頃の東京は、「埃の匂い」以上に<汚水の匂い>と<化学薬品の匂い>と<油の匂い>と<生コンの匂い>に満ち満ちていた。
 それと、都電のパンタグラフから飛び散る火花と車輪の軋む音が印象的であった。
  〔返〕 夢がなお油の匂いに塗れてた羽田空港小工場群   鳥羽省三


今週の読売歌壇から(8月2日掲載・そのⅢ・改定版)

2010年08月17日 | 今週の読売歌壇から
[栗木京子選]

○ おにぎりの天辺に光れ塩の粒富士山頂に今日立つ娘  (東京都) 三輪祐子

 本作の作者の三輪祐子さんは、富士山行に出掛けた「娘」さんに手作りの「おにぎり」を持たせたのである。
 「富士山頂に今日立つ」のは自分では無く、自分の「娘」さんなのに、つい力を入れてしまって、「おにぎりの天辺に光れ塩の粒」などと言ってしまうのは、相も変わらぬ親心というものである。
 「おにぎりの天辺に光れ塩の粒」とは良くぞ言ったり。
 三角形の頂点の「富士山頂」に、三角「おにぎり」を持った「娘」さんが立つ。
 そして「娘」さんが手に持った三角「おにぎりの天辺」で、「塩」の結晶が<母の愛の結晶>とばかりに光り輝いているのである。
  〔返〕 おにぎりを巻いたる海苔は故郷の佐賀の鹿島の最上の海苔  鳥羽省三
 三輪祐子さんの故郷は佐賀県で無いかも知れません。
 だが、私の友人の峰松三四男・雅子さんご夫妻は、お二人とも佐賀県鹿島市のお生れで、「海苔と言えば佐賀の鹿島。佐賀県鹿島産以外の海苔は、やたらにごわごわしているばかりで、不味くて食べられないばってん」と仰るのが口癖だから、この返歌に於いては、敢えて<故郷・佐賀鹿島>を強調させていただきました。 


○ 夕暮れの施設は船のように見え母の部屋にも明かりのともる  (小平市) 栗原良子

 「施設」と言っても、<高齢者介護施設>に限らずさまざまの「施設」がある。
 例えば、東京ドームや日産スタジアムなどのような競技場も<スポーツ施設>という名の「施設」なのである。
 然るに、昨今の世の中では、「施設」と言えば<高齢者介護施設>ばかりを指して言うことの不思議さよ、哀しさよ。
 評者の少年時代には、「施設」と言えば<母子寮>や<授産場>などの<母子家庭救護施設>を指していて、私の小学校時代の級友のK君は、ある<母子寮>から通学していた。
 彼の母親はご主人との間にK君とその弟さんの男子二児を得た後、戦後間も無くご主人に先立たれ、その<母子寮>に付設されていた<授産場>で働いて、K君とその弟さんを養育していた。
 そんな気の毒な事情も省みずに、私の通っていた小学校の児童のほとんどと先生の中の数名は、K君兄弟のことを<施設の子>という別称で呼んでいました。
 <施設の子>は貧乏だから、うかつに遊んだりしたら学用品やお金などを盗まれるかも知れない、という訳です。
 そういう次第で、「施設」のという言葉の中身は時代と共に変化して行くのでありましょう。
 ところで、本作の作者・栗原良子さんは、「夕暮れ」になって、「母の部屋にも明かりのともる」高齢者介護施設を、別世界を見るような、まどろんだ眼差しで見ているのである。 「こんな海に浮かぶ『船』のような不安定な施設にも、『夕暮れ』ともなれば世間並みの家のように『明かり』いうものが灯って明るくなるのだ」と思って、ほっと胸を撫で下ろすような気持ちで、<施設>という言葉を受け止めているのである。
  〔返〕 あの<施設>卒業した後K君は東京・恵比須の寿司屋に就職   鳥羽省三
 

○ この路を通ったはずの自死をせし彼の心に思いを馳せる  (糸魚川市) 猪又久子

 「自死」をした「彼」が「通ったはず」の「路」を、通勤か通学の都合で毎朝・毎夕必ず通らねばならないとしたら、彼女の「こころ」には、一体どんな「思い」が「馳せる」のだろうか?
 私事ながら、少年時代の評者は<糸魚川>という地名に憧れを抱いていた。
 渓谷に<万葉翡翠>がごろごろ転がっている<糸魚川>。
 そこはまさしく夢の国、別天地に違いなかった。
 そういう訳で、成人して教員になったある年の夏、その憧れの地<糸魚川>まで出掛けようとして、東京から夜行列車に乗って、信濃大町まで行ったのはいいが、折悪しく、突如、大糸線が不通となり、<別天地・糸魚川>まで行こうとする宿願は、未だ果たせないままで終わっている。
 本作に接して私は、その<別天地・糸魚川>にも、「自死」をしなければならない青年が居たと知り、この地上には憧れるに足る土地は無いような思いがして愕然とした。
  〔返〕 万葉の翡翠輝く糸魚川その聖地にて自死する若者   鳥羽省三


○ 筍はごみになる量多いとて茹でて届けてくるる優しさ  (相模原市) 荒井 篤

 新百合ヶ丘の<スーパー・SATY>の火曜市に行くと、入り口近い野菜売り場でいきなり異様な光景に出くわす。
 お客の多くは一本九十八円の玉蜀黍の売り場に群がり、その皮剥きに余念が無く、他のお客が其処を通って別の売り場に行こうとしても、容易には行かれないのである。
 玉蜀黍の皮剥きに熱中している人たちは、同じ一本九十八円の玉蜀黍でも、実入りの良いのと良くないのがあることを知っていて、また、玉蜀黍は「ごみになる量」が「多い」ことをも知っていて、まるで熱中症に執り付かれたようにして、玉蜀黍の皮剥きに熱中しているのである。
 本作の場合は、新百合丘のスーパーの場合とは異なって、自家生産の「筍」を、わざわざ茹でた後、皮を剥いて「届けてくるる」知人の気持ちの「優しさ」を述べたのである。
  〔返〕 ゴミになる玉蜀黍の皮剥いて売り場に捨てる主婦の優しさ   鳥羽省三
      実入り良き玉蜀黍を買いたくて皮剥く面の皮の厚さよ       々


○ 爆音を閉ざして低き梅雨空の下連なりて遍路バス行く  (西条市) 一原晶吾

 昔気質の評者にとっては、そもそも「遍路バス」という存在自体が気に食わない。
 徒歩で行ってこそ価値もご利益もある「遍路」を、「バス」を連ねて行くとは何たることか!
 「爆音を閉ざして低き梅雨空の下」「連なりて遍路バス行く」とは、間然する所が無い詠風であるが、「遍路バス」の乗客たちには、お大師様は何一つご利益をお与えになられないかと思われる。
  〔返〕 鉦鳴らし八十八箇所行く時は草鞋を履いて徒歩立ちで行く   鳥羽省三


○ 門灯の下に蛙の住みをりて日毎に太る鳴くこともなく  (下野市) 川中子とよ子

 「門灯の下」に「住みを」る「蛙」は、「門灯」に群がる夏の虫を食べて「日毎に太る」のである。
 「鳴くこともなく」なったのは、彼の欲望が、目下性欲を忘れて食欲だけに集中しているからである。
  〔返〕 飛んで灯に群がる虫を食べ過ぎて胃腸カタルを起した蛙   鳥羽省三 



[俵万智選]

○ リビングのテレビを消してめいめいの部屋で見ている同じ番組  (伊丹市) 山崎清子

 家族と言えども、家中の者が同じ部屋に集まり、同じ番組に見入り、お互いに馬鹿面を曝して居られるほど、人間の面の皮は厚くないのである。
  〔返〕 リビングのテレビに虚ろな眼を向けて家族一同待ってる出前   鳥羽省三


○ 隣家の枇杷はたわわに実りたり我も小鳥になりたく思う  (東京都) 森田 厚

 評者としては、「『なりたく思う』のなら、なればいいじゃん」と言うしかない。
 単なる思い付きに過ぎない、この程度の作品が<読売歌壇>の、しかも<俵万智選>の二席とは呆れ返ってしまう。
 新聞歌壇に投稿して、入選して掲載される場合でも、いい入選の仕方と悪い入選の仕方との二つのケースがあるようだ。
 本作のような入選の仕方は明らかに後者の場合であり、この作品が入選したからといって、それ以後の本作の作者には、なんら益するところが無いどころか、単なる思い付きに過ぎない作品を入選させた、<読売歌壇>とその選者とを舐めてしまうことも充分に考え得るのである。
 選者の俵万智さんは、他でも無くご自分が<読売歌壇>の選者をやっている意味について、この際、じっくりと考えるべきでありましょう。
 ところが、その選者の俵万智さんの選評には、「つぶやくような思いがピタッと七七に乗った下の句がいい。豊かに実った枇杷に対して、これ以上の賛辞はないだろう」とある。
 「これ以上の賛辞はないだろう」とは、この一首に対する選者の評言のことだろうか?
  〔返〕 白桃のたわわに実る夜の園二顆捥ぎ採りて心遣らなむ   鳥羽省三


○ 捨てようと手に握っていたぼろ布が涙を拭くのにちょうど良かった  (土浦市) 樋口直子

 選者の評言に、「一首全体が、ある状況の比喩なのだろう。身近すぎて疎ましくさえ思っていた存在が、辛い出来事に出会ったとき、思いがけない支えになってくれることがあるものだ」とある。
 評言中の「一首全体が、ある状況の比喩なのだろう」というところまでは大変宜しい。
 ところが、「身近すぎて疎ましくさえ思っていた存在」という語句が、「捨てようと手に握っていたぼろ布」の解釈として適切かどうかについては大いに疑問であるのである。
 とは言え、「当たらずと言えども遠からず」と言うべき評言かとも思われるから、評者としては、余計困ってしまうのである。
  〔返〕 堕ろそうと思ってた子であったけど今の私を支えてくれる   鳥羽省三


○ 苦瓜の葉の間より仰ぐ空犬の形の雲走りだす  (佐倉市) 薄井 隆

 この夏に流行っている、団地のベランダなどに日除けとして植える一方、収穫も期待できる、あの「苦瓜」のカーテンの「葉の間より仰ぐ空」から「犬の形の雲」が見え、見えたと思ったら途端に雲行きが変わったことを、「犬の形の雲」が急に「走り」出した、と言ったのでありましょう。
 語と語の取り合わせ及び着眼点がすこぶる宜しい。
  〔返〕 虫除けと日除け代わりの苦瓜の棚に咲いたる花も可愛い   鳥羽省三


○ 缶入りのサクマのドロップばらまいたようにきらきら咲くポーチャラカ  (京都市) 五十嵐幸助 

 真夏の庭に数多の極彩色の小さな花をつけて、「きらきら咲くポーチャラカ」の様子は、まさしく「缶入りのサクマのドロップばらまいたよう」である。
 取り合わせと見立てが宜しい。
  〔返〕 ユザワ屋で買ったビーズの粒粒のポーチャラカの花 真夏の座布団   鳥羽省三

今週の読売歌壇から(8月2日掲載・そのⅡ)

2010年08月16日 | 今週の読売歌壇から
[小池光選]

○ 真剣に「読売歌壇」を読む人を驚きて見るマクドナルドに  (春日部市) 土屋和子

 Jリーグファンや阪神ファンやパチンコファンなどに逢うことはよくある。
 また、芸術・芸能方面に於いては、団十郎ファンや韓流ドラマファンや美空ひばりファンや喜久扇ファンなどに逢うことは勿論、ごく希には俳句ファンにだって逢うこともある。
 しかしながら、歌会の席上以外の場所で、短歌ファンに逢ったことは山田かつて無いし、そうした傾向は、評者のみならず、日本社会の一般的、普遍的傾向であるに違いない。
 ところが、本作の作者・土屋和子さんは、事もあろうに、あの「マクドナルドに」於いて、「真剣に『読売歌壇』を読む人」に出逢ったのだと言う。
 その「驚き」や、一体如何ばかりであったのでありましょうか?
 表現上の細かな点について申せば、「読売歌壇」を括った括弧は<無くもがな>という感じであるし、五句目の「マクドナルドに」は「マクドナルドで」にした方が佳かったかな、という感じもしないでもありません。
  〔返〕 キンキラの伊太利屋好みのカップルにいつも出逢うよ日比谷スタバで   鳥羽省三


○ 見るからに草食系の青年が声絞り出す教育実習  (京都市) 峰尾秀之

 よくぞ詠んだり。
 教育実習生のみならず、学校現場で出会う「青年」の多くは「草食系」男子そのもので、「苧の腐ったような、こんな軟弱なやつらに、日本の未来を担う子供たちを預けられるか?
」と思うのは、再々である。
 とは言うものの、評者もかつては、北山たけし張りのなよなよとした教員として教壇に立っていたものであった。
  〔返〕 見るからに肉食系の美少女がダンプ転がす246号線(ニーヨンロク)で   鳥羽省三


○ スポーツ紙ひらき読む時朝陽射し琴光喜の躰袈裟切りにする  (常総市) 渡辺 守

 「スポーツ紙」の三面にて「射す」「朝陽」に「袈裟切り」にされた後の、元不人気大関「琴光喜の躰」いまいずこ。
  〔返〕 そのうちに女子プロレスの司会者として頑張るか田宮なにがし   鳥羽省三


○ 手から肘口から顎へ滴らせ丸かじりするから旨い桃  (国分寺市) 大沢早苗

 評者は、「手から肘口から顎へ滴らせ丸かじりする」という「桃」の食べ方が嫌いである。
 一顆三百円以上もするあの「桃」を、「手から肘口から顎へ」果汁を「滴らせ」、台所の洗い場の上で、上半身裸で「丸かじり」しなければならないのは、あの果物の最大の欠点であると思われる。
  〔返〕 薄皮を剥かないままで八つ割りにして食べるのが好きよ白桃   鳥羽省三


○ 雨の中週に一度の休日は競輪場に行かねばならぬ  (青梅市) 増田 正

 「行かねばならぬ。行かねばならぬ。どんなに雨が降ろうが、槍が降ろうが、週に一度の休日は競輪場に行かねばならぬ」というところでしょうか?
 久々に『天保水滸伝』の平手造酒を思い出しました。
  〔返〕 平塚の競輪場の場内で予想売ってた髭面いずこ   鳥羽省三   


○ 古写真捨てる作業が滞るスコットランドの野薔薇の刺に  (福井市) 佐々木博之

 一首の背景となった場所は、日本国内の北陸のとある町のとある民家の庭である。
 本作の作者・佐々木博之さんは、その庭で、身辺整理の一環として、「古写真」を破り、焼き「捨てる」「作業」に熱中していたのであるが、ふと気がついてみたら、庭に生えている「スコットランドの野薔薇の刺に」指を刺されていたのである。
 その時の作者の頭の中には、「いくら『古写真』とは言え、青春の思い出がいっぱいに詰まった写真は破り捨てたくない、焼き捨てたくはない」という思いが在ったに違いない。
  〔返〕 古写真破る作業の手を休めイングランドの薔薇に見入りぬ   鳥羽省三


○ 亡き夫がときどき家へ帰り来て旅の本出し見ている茶の間  (稲敷市) 磯山豊子

 本当のような嘘の話。
 いや、嘘のような本当の話かも。
 今日は8月16日。
 旧盆の<送り盆>に当たります。
 本作は、旧盆に読むのに相応しいミニ怪談でありました。
  〔返〕 亡き父の愛用してた古時計・RADOの針が時々進む   鳥羽省三


○ 一匹になった金魚は取り立ててする事も無く水槽の中  (筑紫野市) 二宮正博

 「一匹になった金魚は」「取り立ててする事も無く」「水槽の中」を泳ぐとも無く泳いでいるばかりである。
 連れ合いに死なれて一人になった者は、一通り泣き疲れた後は「取り立ててする事も無く」、家の中に居て、あれこれ細々としたことをしているばかりである。
 蓋し名作である。
  〔返〕 泳ぐ気の無くなったあと琉金は夕陽の向こうに眼をやるばかり   鳥羽省三


○ 学習効果持たぬ夏の蚊のかなしさよ追へども追へども死線に挑み来  (横浜市) 折津 侑

 「学習効果」を「持たぬ」ことは、必ずしもマイナスばかりとは限らない。
 あの阪神タイガースが、巨人戦になると死に物狂いの闘いを挑み、五試合に一試合ぐらいは勝つことがある。
 それは何よりも、「学習効果」という余計なものを持たぬ「夏の蚊」が、フマキラー噴射という「死線」の前に、果敢に「挑み来」るようなものではないだろうか?
  〔返〕 学習効果持たぬ相撲の稀勢の里負けても負けても愚直に当たれ   鳥羽省三


○ サイレンを鳴らさず走る消防車洗車のあとの如く濡れをり  (北九州市) 末次奎司

 本当は火事場からの帰りでありましょうが、この暑さの中ですから、筑紫川の川原にでも行って、水浴び方々「洗車」をして来たのではないか、とも考えられましょう。
 一首全体、なかなかの表現であるが、特に「洗車のあとの如く濡れをり」という下の句が秀逸である。
  〔返〕 サイレンを鳴らして走るパトカーがモテルの前で突如停まった   鳥羽省三    

今週の読売歌壇から(8月2日掲載・そのⅠ・決定版)

2010年08月15日 | 今週の読売歌壇から
[岡野弘彦選]

○ かぞいろは逝きてひさしも井戸古りてむかしのごとく雪の下さく  (前橋市) 矢端桃園

 「かぞ」は<父>の意であり、「いろは」は<母>の意である。
 本作を詠んだ作者の意図の一つは、「かぞいろは」という古色蒼然たる語を現代短歌中に採り入れ、細々として消え入りそうなその命を甦らせようようとした点にある、と評者は理解している。
 それでは、作者・矢端桃園さんが、「かぞいろは」というこの言葉を敢えてお使いになった意図なども汲み取ったうえで、拙いながらも、先ずは本作の口語訳を試みてみよう。
 即ち一首の意は、「ああ今は亡き父よ、母よ。私に<命>を与えて下さった父母がお亡くなりになってから久しく時が経ってしまった。そして、父母がご在世当時は我が家の唯一の生活用水源としてお使いになっていた庭の釣瓶井戸も、今ではお使いになる人も無く、使用する必要も無くなり、すっかり古びてしまった。しかし、昔懐かしいその井戸の周りには、父母のご在世当時と同じく、『雪の下』の花が小さくて目立たないながらも美しく咲いている。ああ、この『雪の下』の花を見ると、父母のご在世当時のことがしきりに思い出されることだ。ああ、今は亡き懐かしい父母よ」といったところでありましょうか?
 かくして、この一首の重みのほとんどは詠い出しの「かぞいろは」という古語にかかっているのである。
 作者が、この一首を敢えて、読売歌壇の岡野弘彦選にご投稿になったのは、極めて適切かつ意義あるご判断であった、と評者は思う。
  〔返〕 過ぎ逝きて還らぬものはかぞいろは匂ほへど散りぬる花も還れよ   鳥羽省三


○ ものの芽の萌えたつひかりやはらかしすくすく癒えよ妻の病も  (秋田市) 渡辺五郎

 上の句の「ものの芽の萌えたつひかりやはらかし」という季節の把握とその表現が素晴らしい。
 本作の作者・渡辺五郎さんにとっては、本作の創作意図は、この素晴らしい上の句よりも、「妻の病」を「すくすく癒えよ」と願う、下の句の方に傾いていたのではないか、とも思われるが、この上の句の表現の素晴らしさは、ごく平凡な発想から生まれた下の句の表現とは比較するべくも無い。
  〔返〕 ものの芽の萌え立つ今を赤々と妻よ命の炎を燃やせ   鳥羽省三


○ 年ごとに過疎となりゆくわが村に家あたらしく建ちて灯ともる  (胎内市) 小泉 長

 八年間の田舎住まいから逃れて来た評者にとっては、本作は、作者の「かくあれかし」という願望が込められている一首のように思われてならない。
 国体開催に伴っての国道拡張工事の恩恵を受けて、かつての評者が居住していた市のごく限定された地域に於いて、ほんの一時期、本作に詠まれたような現象が見られたが、その最中もそれ以後も、市全体としての人口の急激な減少傾向は止まず、それは滅びの前に咲いた徒花のようにも思われたのである。
  〔返〕 年ごとに道路新設され行けど走る車はその度に減る   鳥羽省三 


○ 物置のかげより今年もあふれいで咲ける十薬梅雨に入りたり  (福津市) 大庭愛夫

 「十薬」は、あの匂いや棲息する場所などを考えると、およそ風情の対象にされるに相応しい植物とも思われないが、感性細やかな歌人たちからは、あの白い花の趣きが存外に愛されているご様子で、それを題材にした作品は多い。
 本作も亦、そうした傾向の一首であり、「物置のかげより今年もあふれいで咲ける十薬」
という着眼点はなかなかであるが、五句目を「梅雨に入りたり」と常套句で逃げたのは宜しくない。
 新聞歌壇の常連クラスの歌人の投稿作品には、こうした傾向の作品が多く見られるが、こうした安易な詠風の作品を投稿することを止めて、ご自身の本来のご創意とご力量をを充分にご発揮なさった作品をお詠みになられ、ご投稿なされることを願う。
  〔返〕 物置のど真ん中にぞ座を占めて石油ストーブはやスタンバイ   鳥羽省三
 福津市は、津屋崎土人形のふるさとの福岡県津屋崎町と周辺地区とが合わさって誕生した市かと思われる。
 私が<津屋崎土人形>の蒐集の為に、かつて同地を訪れた時は、もう二月半ばなのに積雪が見られた。
 本作の作者・大庭愛夫さんも、いつもの手馴れたお手並みで、本作のようなどうでも良い作品ばかりを投稿し、入選して悦に入っていると、もう直ぐ日本海から激しい北風が吹いて来て、石油ストーブのお世話になったりしますよ。
 ご油断召されぬように。


○ 街川に鯉はぬる音たかくして雲の裏ゆく月しらみ照る  (稲城市) 山口佳紀

 材料を多く詰め込み過ぎた点や声調などに着目し、「明治初期の<御歌所派>歌人の作品のような趣きあり」として退けられる危険性無きにしもあらずではあるが、幅十メートル足らずの「街川」が通りの片側を流れる田舎町の暗い夜の雰囲気が醸しだされていて、それなりの風情が感じられる。
  〔返〕 月見んと路地を出づるも折からの風に煽られ軒端にぞ寄る   鳥羽省三


○ 終戦日かちたる国は勝利の日平和いのるは負けし国のみ  (国分寺市) 森田 進

 作者は、本作の短歌作品の完成度の低さを充分に認識しつつも、述べたいと願ったことを十二分に述べたので、それなりの満足感を覚えているのでありましょう。
 即ち、十二分に述べたというその内容とは、主として「平和いのるは負けし国のみ」の部分でありましょう。
  〔返〕 負けてこそ平和を祈る終戦日あの日の空の青さ忘れず   鳥羽省三
 敗戦の日の正午の空の青さを知っている評者は、今や絶滅歓迎種に属するのでありましょうか?   


○ 絶えまなく竹群かぜになびく夜を祖母はしきりにふるさとを恋ふ  (東京都) 鈴木えり子

 背戸山が「竹群」になっていて、「かぜ」が吹くと、その「竹群」が「なびく夜」ともなれば、作中の「祖母」ならずとも「しきりにふるさとを恋ふ」こともありましょう。
 「道具立ての一語一語に風情があり、一首を成さぬ前から既に<詩>となっているのを、名人上手のお手並みによって、よく<三十一音>にまとめた」という積極的な評価が下されることも在る一方、「ひと昔もふた昔も前の詩歌に登場する語を連ねただけの、常套的手法に拠る、既視感在り在りの作品である」という消極的な評価が下されることも在り得ましょう。
  〔返〕 竹群を撫でて秋風さやぐ夜を我は手習ふ良寛の書を   鳥羽省三


○ 訃報きぬ小暗き庭にしろじろと灯のごとしくちなしの花  (志木市) 吹雪雪乃介

 「死人に口無し」などという世俗的な格言を持ち出したら、作者・吹雪雪乃介さんに対しては、あまりに失礼なことでございましょう。
 「くちなしの花」は、初夏の「庭にしろじろと」咲くものである。
 「訃報きぬ」という時が時だけに、その「しろじろと」咲く「くちなしの花」が、喪家の「庭」に「しろじろと」ともる「灯」の如く見えたのでありましょう。
 「天の時を得、地の利を得た作品」などと、またまた大変失礼なことを申し上げたくなりました。
 「見立ての興」は、短歌作品を評価する基準の一つでありましょう。
  〔返〕 弔家出ず 真昼の庭をしらじらと染めて空しき梔子の花   鳥羽省三


○ 胡瓜トマトそだちいまだしと言ひながらああまた妻が畑みにゆく  (下妻市) 神郡 貢

 「我が家の孫がいちばん可愛く、我が畑の胡瓜トマトがいちばん美味しい」とは、本作に接しての評者の即興の格言である。
 「『胡瓜トマト』の育ちが見事」と言っては「畑」を見に行き、「胡瓜トマトそだちいまだしと言ひながら」「畑みにゆく」のが、家庭菜園のオーナーシェフならぬ、オーナー主婦たる「妻」君殿の日課なのである。
  〔返〕 水遣りが足りなかったと言いながら我が家で採れた捻り茄子食う   鳥羽省三


○ 離農してむなしき日々を癒やされしつばめ巣立つを夫と見おくる  (堺市) 寺内千寿

 今年の晩春の一日、私は大阪に単身赴任中の長男に案内されながら、境市内を自転車で見物して来た。
 与謝野晶子の生家が目抜き通りのど真ん中に在ったり、千利休がその水でお茶を立てた井戸がビル裏に在ったり、鉄砲鍛冶の屋敷が棟割り長屋みたいだったり、市内のいたる所に古墳が在ったりして、見どころは色々様々であったが、私にとっての最大の見どころは、市内のいたる所に張り巡らされた、参議院議員・谷川秀善氏のポスターであった。
 私はかねがね、あの容貌魁偉な政治家に注目して居り、大変失礼ながら、「『秀れて善を為す者は、秀れて悪を為す者である』と言うが、あの悪たれ坊主め、いったい何処に根を張っているからといって、いつもあんなに威張りくさって居られるのか」などと、半ば畏敬し、半ば嫌悪していたのであったが、たまたま訪れた堺市が、谷川秀善氏の強固な地盤の一つであったことを確認し、その底力の凄さに恐れ入ったことであった。
 ところがごく最近、その彼が、自民党の参議院議員会長に一旦は決まり掛けたのに、若手議員らの反乱に遭ってなり損ねてしまったのである。
 本作の作者・寺内千寿さんは、あの谷川秀善氏の選挙地盤の堺市の住民ながら、「離農してむなしき日々を癒やされしつばめ巣立つを夫と見おくる」などという、優しい歌をお詠みになって居られる。
 本作の作者が「離農してむなしき日々」を過ごさなければならなくなったのは、かつての自民党政治の貧弱な農業政策にも、その責任の一端が在るとも思われる。
 <参議院議員・谷川秀善>のポスターが隈無く張り巡らされた、あの堺市の一廓で、「離農」した後の「むなしき日々」を「つばめ」に「癒やされ」、その「つばめ」が「巣立つ」のを「夫と見おくる」女性歌人がいらっしゃるのである。
 さすが<百万都市・堺>。
 堺市は広い。
 参議院議員・谷川秀善氏のご武運とご舌鋒のなお尽きざることを願い、併せて、寺内千寿さんのご文運のますます盛んならんことを祈念し、本日の筆納めとさせていただきたい。
  [返] 票数は同数ながら抽選で負けた谷川秀善あわれ   鳥羽省三  

今週の読売歌壇から(7月26日掲載・そのⅣ)

2010年08月13日 | 今週の読売歌壇から
[俵万智選]

○ 検針に来たるバイクのおばさんの勝ちましたねと大声にいふ  (市原市) 井原茂明

 私は常々、電気・ガス・水道の「検針」の方のご苦労の程は並大抵のものではないと思っている。
 以下の事柄は、最近、我が家に東京ガスの「検針」に訪れた男性の方からお聞きした話である。
 彼は現在のお仕事に就く以前に関東地方のある田舎町の水道局にお勤めになられ、上下水道使用料の「検針」のお仕事をなさって居られたそうである。
 彼は「検針」のお仕事を効率良く進めるために、担当地域のご家庭の犬や猫は勿論のこと、時には屋敷の守り神の青大将をも手懐けていらっしゃったと仰るのである。
 彼の勤務していた町の水道局では二ヶ月に一回ずつ「検針」を行うそうだが、ある大きな御屋敷に彼が「検針」に訪れると春から秋に掛けての期間は、水道のメーターボックスの扉の上に、毎回、彼の訪問を予期していたようにして、そのお屋敷の守り神かと思われる身の丈六尺に余る青大将がとぐろを巻いているのだそうだ。
 彼はその地区の「検針」を担当するに当たって、前任者から事務引継ぎの一環としてそのこととそれへの対応策を聞いていたので、最初はとても気味が悪かったのであるが、前任者からご教授された通り、「お屋敷の守り神様。今月もお世話になりますので宜しくお願いします」と小さな声で挨拶すると、守り神様は彼の言葉の意味がお解りになると思われ、メーターボックスの陰の草原にするすると退いて行かれ、「検針」のお仕事には何ひとつ支障を与えなかったそうである。
 さて、本作は<ワールドカップ南ア大会>関連の一首と思われ、件の「検針」の「おばさん」は、仕事道具の「バイク」のエンジンを止めるや否や、訪問先のご家族の方に「(岡田ジャパン)勝ちましたね」と「大声にいふ」のだと思われる。
 しかし、いくらお仕事大切、お口上手の「バイクのおばさん」と言えども、軒並みに「(岡田ジャパン)勝ちましたね」と言いまくっている訳ではあるまい。
 前述の「お屋敷の守り神様・・・・(後略)」と同じように、この「「バイクのおばさん」は、それぞれの場合に応じた言葉を予め用意しているのであって、本作の作者・井原茂明さんちの場合は、ご主人の井原茂明さんがすこぶる付きのサッカーファンであることを、ある情報筋を通じて知っていたから、「おはようございます」という挨拶を交わすような気分で、「(岡田ジャパン)勝ちましたね」という言葉を掛けたのだと思われる。
 「バイクのおばさん」のこうしたご努力は、彼女の勤務先の責任者にも大いに評価して頂かなければならないし、私たち短歌創作者と言えども、彼女の行動から何らかの学ぶべき点があるはずだ、と私は思うのである。
  〔返〕 「ジャイアンツ昨日も負けた」とお隣りの意地悪婆さん減らず口きく   鳥羽省三


○ 青空に攻め入るごとくぐんぐんとゴーヤの蔓は我が丈を越す  (東京都) 小菅暢子

 「ゴーヤ」の成長期の勢いは、まさに「青空に攻め入るごとくぐんぐんと」と形容するに値する。
 察するに、本作の場合は、団地の中層住宅の一軒のお宅が日除け代わりにベランダにネットを張って植えた「ゴーヤ」ではないだろうか?
 たかが「ゴーヤ」。
 されど、その「ゴーヤの蔓」が「青空に攻め入るごとくぐんぐんと」伸びて「我が丈を越す」という段階に至っては、本作の作者・小菅暢子さんは、この夏を「ゴーヤ戦争」の夏と位置づけていらっしゃるのではないだろうか?
  〔返〕 今未明ゴーヤ三顆を採り得たり豚肉及び豆腐ご用意   鳥羽省三


○ 白菜の葉の一枚を天下とし青虫はをり昨日も今日も  (広島県) 荒巻武子

 詠い出しは大仕掛けであるが、末尾の一句を「昨日も今日も」で逃げたのは、俵万智選の入選作としてはやや安易とも思われる。
  〔返〕 白菜の葉の四、五枚を塩漬けに晩餐準備これでOK   鳥羽省三 


○ 見なかったことにすると言ふをみなごをのせて心を揺らすぶらんこ  (東京都) 三輪祐子

 「見なかったことにすると言ふをみなご」とあるが、この「をみなご」は、一体何を「見なかったことにする」と言うのでしょうか?
 一首の中に不明の箇所が一箇所ぐらい在るのは、その作品の世界に鑑賞者を誘い、その作品の深みを増すことになったりするのであるが、本作の場合は、「いくらなんでも」という感じがする。
 選者のお考えや如何に。
  〔返〕 見なかったことにするとふ思ひにて処女(をとめ)の漕げる鞦韆の前   鳥羽省三


○ 掘り出した卒業記念えんぴつの芯のやわさが脳に伝わる  (名古屋市) 杉 大輔

 タイムカプセルに「卒業記念」」の「えんぴつ」を入れていたのであろうが、そのタイムカプセルを何年ぶりに「掘り出した」のだろうか?
 「芯のやわさが脳に伝わる」という<七七>は、やや硬直に過ぎるだろうか?
  〔返〕 掘り出した卒業記念の鉛筆で生まれ来る子へ手紙を書いた   鳥羽省三
 この返歌の場合のタイムカプセルは、小学校の校庭に埋めた二十五年前のタイムカプセルである。


○ アヤメユリアジサイキスゲタチアオイ久美浜湾の岸を彩る  (生駒市) 宮田 修

 開花時期がわずかに異なる花が並べられているのではないか、との疑問は残るが、春から夏に掛けて咲く花を順序よく羅列しているようにも思われる。
 作中の「久美浜湾」は、京都府京丹後市久美浜町に在る観光地で、四季を通じて整然と植えられた草花が美しいと聞いている。
  〔返〕 ハギキキョウクズブジバカマオミナエシオバナナデシコアキノキリンソウ   鳥羽省三


○ 全盲の妻が干しゐる洗ひ物ぼくが指示する右30度  (鹿児島市) 松本清展

 「右30度」と「指示する」前に自分がやればいいと思うのであるが、それなりの事情があってのことだろうとも思う。
 所詮、夫婦のことは夫婦に任せるしか無いのだろう。
  〔返〕 全盲の妻女が干せるハンカチの白きが涼し梅雨の晴れ間に   鳥羽省三


○ 南天の緑あせたる古き葉もガラスに揺らぐ影は美し  (池田市) 今西幹子

 冬越しをした「南天」の葉は色が褪せ、「古き葉」としか言えないくらい貧弱である。
 しかし、その「南天」の貧弱な「古き葉」も、「ガラス」に「影」を映して「揺らぐ」時は美しい、と作者は言うのである。
  〔返〕 帰国後の松井秀樹はボロボロで打率二割も当てに出来ない   鳥羽省三


○ 去年の今日つらいことでもあったかな五年日記が空欄のまま  (東村山市) 高野珠遥

 かれこれ二十年にもなるが、ある年の暮れに妻が<五年連用日記>を買って来た。
 彼女に日記を付けるような殊勝な習慣があるとは聞いていなかったし、その日までただの一度たりとも、彼女が日記帳を買いたいという話をしてはいなかったから、私は不思議なことがあるものだと思ってその理由を問い質してみた。
 すると彼女は、「来年からは人生の終盤戦に入るから、一日一日の生活を大切にして生きて行きたい。だから、年が明けたら毎日毎日日記を付けることに決めたのです」と、尤もらしい顔をして話すのであった。
 そして年明け早々に彼女は日記を付けることを始めた。
 ところが、その日記付けはものの十日と持たなかった。
 未だ松が取れない頃、私と妻との間に些細なことが原因で口争いがあった。
 彼女が、日記を付けることを止めたのはその日からであった。
 年の初めの数日間だけの天候や来客や食事の内容などについて記し、それ以後の数百日間は空白のままの日記は、その後の数ヶ月、彼女の机の引き出しに入れていた様子だったが、一年余り経ってからその行方について訊ねてみたら、あのまま書かずに捨ててしまった、ということであった。
 「五年日記」の「去年の今日」の分が「空欄のまま」になっていることを理由に、「去年の今日」、何か「つらいことでもあったかな」と思い返してみるのは、尤もなことである。
 人間というものは例外無く弱い。
 人間は弱いが故に、堅く決意してやっていたことでも、些細な事をきっかけにして、簡単に止めてしまったりするものである。
 本作は、人間一般に普遍的に備わっている<弱さ>を、やや軽く優しいタッチで詠んだものである。
 〔返〕 そう言えば去年の今日はカナダにて山井茂が自殺したっけ   鳥羽省三 


○ はじめての携帯電話を前に置き自分で自分に電話してみる  (東久留米市) 中里正樹

 かなり前のテレビ番組に「はじめてのお使い」という番組があって、ほとんど毎回視ていたように思うが、若者社会がケータイ無しには成り立たなくなっている今日、初めて携帯電話を購入した高齢者を出演させる、「はじめての携帯電話」と番組をレギュラー番組として放送したら、老若男女を問わず、かなりの視聴率を稼げるに違いない。
 七十歳になって、生まれて初めて携帯電話を買い求めた鳥羽省三という男が、購入先のNTTドコモの店から出るや否や、自分のケータイの番号を記したカードを<たまプラ駅>前の街頭に立って配ろうとするのだが、なかなか受け取って貰えない。
 ごくたまに、手を出す年寄りがいるので、その手に強引に押し込むのだが、「ちえっ、ティツシュかと思ったのに」と舌打ちされて捨ててしまわれる。
 そうしたことで、悲しみにうち暮れて家に帰った鳥羽省三は、さんざん考えた末に、自分のケータイ番号を押して、自分で自分に電話しようとする・・・・・・などなど、話は尽きようとにも無い、といった内容の番組である。
 着メロは、「おれは死んじまったど。おれは死んじまったど。天国行きだど」というあの名曲である。
  〔返〕 初めての携帯電話に驚いて産気づきたるお隣りのタマ   鳥羽省三 

今週の読売歌壇から(7月26日掲載・そのⅢ)

2010年08月12日 | 今週の読売歌壇から
[栗木京子選]

○ 病院の近くを走る路線バスつり皮空いても握り棒混む  (高槻市) 上辻正七郎

 「路線バス」の中のあの「棒」の存在と用途は知っていたが、「握り棒」という即物的かつ散文的な名称で呼ばれているとは知らなかった。
 私は私なりに自分の年齢を自覚しているので、バスに乗車する場合はなるべくならば座席に腰掛けるようにしているが、それが叶わない時には、「つり皮」では無く「握り棒」の厄介になることにしている。
 何故ならば、バスが急停車したような場合は「握り棒」の方が「つり皮」より安全だからである。
 したがって、「病院の近くを走る路線バス」は「つり皮」が「空いて」いても「握り棒」が「混む」のは、ごく当然のことと思われる。
 それにしても、「路線バス」の車中を題材にした歌に「握り棒」が登場したのは珍しい。
 何よりも、本作の作者・上辻正七郎さんの着眼点の良さに注目したい。
  〔返〕 病院に通へるバスは病院の送迎バスで料金無料   鳥羽省三


○ あら草は手の感触で引いてゆく日々の暮らしにどこか似ており  (旭市) 服部恒子

 逆から言えば、「日々の暮らし」は「あら草」を「引いてゆく」ように、「手の感触」を頼りにして営んで行かなければならない、ということになる。
 <歌は読むもの、暮らしはしてみるもの>という感じである。
 いいことを教えていただいた。
 歌を詠む場合や歌を鑑賞する場合も、結局は同じことであろうと思う。
 最初はあまり細かな点には拘らず、大まかなレイアウトを決めて詠む。
 すると、その後は、庭の「あら草」が、それを「引いて」いる者の「手」に付いて来るように、自然と纏まった形になるのである。
  〔返〕 家計簿も磁石も地図も不要なりこの手頼りに日々を過ごさん   鳥羽省三


○ イケメンの孫にバイオリン贈りたりこの子の未来まだ楽しめる  (千葉市) 中田節子

 一読すると、あまり出来の良くない息子夫婦への当て付けめいた内容の作品かと思われる。
 しかし、よくよく考えて読むと、あまり出来の良くない息子夫婦の息子である「孫」を「イケメン」と呼び、その「イケメンの孫」に、高価な「バイオリン」を贈ろうと言うのだから、本作の作者・中田節子さんとその息子夫婦との仲は、それほど険悪化したものではないらしいし、その上、その「イケメンの孫」に寄せる期待度も、「この子の未来まだ楽しめる」と言うのだから、この「イケメンの孫」もそのうちに馬脚を現すこともあるだろうが、今のところは可愛がれるだけ可愛がっておこう、といった程度のものであり、決して全面的な「バーバ馬鹿」振りを発揮しているわけでは無いと思われるのである。  
  〔返〕 イケメンの孫の親父もイケメンで元を糾せば我の腹から   鳥羽省三


○ 子供手当もらえぬ我が家に三枚の投票所入場券届く  (福岡市) 今橋和徳

 その「入場券」を持って「投票所」に行き、「子供手当」支給に反対している政党の候補者に投票するのだろうか、とは思うが、その実は?
  〔返〕 七人の息子娘は独立し今では孫が三十五人   鳥羽省三


○ 冷汗を拭ひつづけし先週のハンカチまとめアイロンかけぬ  (八王子市) 皆川芳彦

 先週は亭主の私が<ぎっくり腰>を起したり、私の田舎の境港から両親が訪ねて来たり、長女の愛子が、突然「幼稚園に行きたくない」と言い出したりして、妻の扶美江も「冷汗」を掻き続けだったのである。
  〔返〕 露台にて洗濯物を取り入れる妻の扶美江の背丈の高さ   鳥羽省三


○ 栗の木は実となる花の鮮やかに盛りあがり来て厨まで匂ふ  (幸手市) 新井佐和江

 観察眼が細かいばかりでは無く、嗅覚まで利かしているが、必ずしも客観写生という感じの作品ではない。
  〔返〕 栗の木は雌花盛り上げ咲き香り厨の窓に虻を誘ふ 鳥羽省三


○ 川風が音運び来る遠花火消灯過ぎし病床に聴く  (久喜市) 深沢ふさ江

 遥か昔、未だ中学二年の頃、私も「遠花火」の「音」を「病床」で聴いたことがあります。
 未だ国民健康保険制度も確立していなかった頃のことですから、その「遠花火」の「音」が、私を病院のベットから何処かへ追い立てる為の「音」のように聴こえたものでした。
  〔返〕 工場の煙と共に昼花火 中二の我は涙して聴く   鳥羽省三


○ 退院は沙羅のわかばに風清くじゃがいもの花白きこの日に  (桜川市) 友常満里子

 「沙羅のわかばに風清くじゃがいもの花白き」風景は、退院を予定していた「この日」の、病室の窓から見えた風景でしょうか。
 それとも、退院して行く途中の道端の風景でしょうか。
 いずれにしても、どんなに嬉しく、どんなに印象深かったことかと、しみじみと観賞させていただきました。
 この作品と前後の作品とに、選者・栗木京子さんの配列の妙を感じました。
  〔返〕 『沙羅の花咲く峠』とふ名画での主役・三船は偽医者なりき   鳥羽省三


○ あれこれと不安を問ふに若き医師はすべて老化と一刀両断  (ひたちなか市) 広田三喜男

 本作に登場して「すべて老化と一刀両断」する「若き医師」は、言葉を知っていると言うべきでしょうか、知らないと言うべきでしょうか。
 いずれにしても、その「若き医師」に命を預けた患者としての本作の作者・広田三喜男さんの「不安」と戸惑いが、実にリアルに感じられます。
  〔返〕 あれこれと不安はあるが結局は一刀両断己が責任   鳥羽省三
      あれこれと迷い悩むが人生で一刀両断出来はしないさ   々 


○ 夏の朝昨日と何も違はねど恐竜柄のネクタイ選ぶ  (瑞穂市) 渡部芳郎

 いや、「昨日」と「何」か違ったことがあった筈である。
 例えば、朝刊に「ハマコー逮捕」の記事が載っていたとか?
  〔返〕 夏の夕昨日と少し気分変えバタフライにてひと泳ぎする   鳥羽省三 

今週の読売歌壇から(7月26日掲載・そのⅡ)

2010年08月11日 | 今週の読売歌壇から
[小池光選]

○ どう見ても紛ふかたなき八十の顔になりたり万歳三唱  (横須賀市) 竹山繁治

 人間の心理は複雑である。
 年齢一つを例にしてみても、一人の人が、ある時は出来るだけ若く見られたいと思い、また別のある時は実年齢以上の年輩の者に見られたいと思ったりもするのである。
 自分の顔を鏡に映して見て、「どう見ても紛ふかたなき八十の顔になりたり」と思い、「万歳三唱」を叫ぶ、という本作の作者は、極めて温厚な性格で品行方正な男性ではないだろうか、と私には思われる。
 三十三歳の女性が三十三歳の女性に見られたくないからこそ、インチキな化粧品訪問販売業者に騙されるのであり、六十歳の禿げ頭が六十歳の禿げ頭に見られたくないからこそ、誇大広告を専らにする鬘販売業者や毛生え薬輸入業者に騙されもするのである。
 したがって、八十歳の竹山繁治さんがご自分のお顔を鏡に映して見て、「どう見ても紛ふかたなき八十の顔になりたり」と喜び、「万歳三唱」を唱えていれば、其処には何一つの問題も発生せず、世界平和の思想は竹山繁治家を起点として、この地球上に瞬く間に拡大普及するに違いない。
 万歳三唱。
  〔返〕 三十のママさん議員が一重なる黒帯巻いて戦えるのか?   鳥羽省三
      中日の山本昌が四十四で勝利投手になり万歳す         々


○ ケーキの上のいちごとかシューマイの上のグリーンピースって感じ  (奈良市) 杉田菜穂

 ある女性が、「わたしって、『ケーキの上のいちごとかシューマイの上のグリーンピースって感じ』?」って言えば、男性にとっては、その女性のことが急に可愛くなるものである。
 だが、その同じ女性から、「あなたって、『ケーキの上のいちごとかシューマイの上のグリーンピースって感じ』!」って言われれば、とたんに憎たらしくなるものである。
  〔返〕 眼めぐりの付け睫とか目の上の描き眉って言う感じの役割り   鳥羽省三


○ この客は降りると賭けた次の駅そのまた先も座れず仕舞い  (小田原市) 安見 潤

 そういうことはよくあることですが、それにしても、「賭けた」って言うのは少し大袈裟ですね。
 野球賭博とは違うから、犯罪として罰せられたりはしませんが、かなり大袈裟ですよ。
 それに、あなたは何方と何を賭けるんですか?
 座席を賭けるんですか。
 小田急線の<新宿>から<相模大野>か<本厚木>辺りまでは、確かにとても混んでいますからね。
 それこそ、「賭け甲斐のある」ってやつでしょう。
 それから先はがらっがらっですがね。
  〔返〕 酔っ払いおじん寝転ぶ隣席はいつも空いてて誰も座らぬ   鳥羽省三


○ 病まざれど湿気を吸へる古畳のごとく重たし梅雨のわが身は  (稲城市) 山口佳紀

 「梅雨のわが身は」「湿気を吸へる古畳のごとく重たし」程度のことなら、誰にでもあることですよ。
 それに何よりも、詠い出しの「病まざれど」が羨ましい。
  〔返〕 治らねば瘴気を吸へる猫のごと廊下うろうろ歩むばかりぞ   鳥羽省三


○ ひさかたの光あかるきベランダに布団三枚他人の暮らし  (小平市) 栗原浪絵

 この「ひさかたの」は宜しい。
 手放しに宜しい。
 「ひさかたの光あかるきベランダに」とあるが、その「光あかるきベランダ」は、勝手知らない「他人」の家の「ベランダ」。
 その「他人」の家の「ベランダ」を手放しで見上げたところ、その手擦りに「布団三枚」が干されていた。
 その「布団三枚」を目にした途端、作者は、其処に「他人の暮らし」が営まれていることを知ったのである。
 その「布団三枚」から、本作の作者・栗原浪絵さんは、その「他人」たちの家族構成などを推測したりはしない。
 「他人の暮らし」はあくまでも「他人の暮らし」に過ぎなく、自分の暮らしでは無いからである。
  〔返〕 ひさかたの光り輝くステージに歌い踊るは他人のAIKO   鳥羽省三
 かつては自分のものであったアイドル歌手たちも、今では他人のものになってしまったのである。


○ 会釈して過ぎたる後をふり向ればまなこかち合ふばつの悪さよ  (二本松市) 内藤四郎

 こういうこともよく経験する。
 お互いに「会釈して過ぎたる後」に、お互いに「ふり向」くことはよくあるし、お互いに「ふり向」いたので、お互いの「まなこ」が「かち合」って、お互いに「ばつの悪さ」を感じることもよくある。
 その「ばつの悪さ」を、いかにも「ばつが悪」いようにして詠んでいる手際が宜しい。
  〔返〕 眼付けし通り過ぎたが恐くなり後振り向けばやつも振り向く   鳥羽省三   

○ 何十年振りだろう!泥鰌見たのは?急いで帰り妻に教える  (厚木市) 石井 修

 昨今の厚木では「泥鰌」が珍しいのでしょうか?
 私が住んでいた頃の厚木では、「泥鰌」どころか<蛞蝓>さえも珍しくなく、かえって自動車の方が珍しかったのに、とまで言ったら、冗談が過ぎるでしょうか?
 それはともかくとして、私が陸稲(おかぼ)を炊いて作ったご飯を、生涯たった一度だけ食べたのは、厚木の在の住人の同僚教師の家を訪問した晩であった。
 それにしても、本作の作者・石井修さんも冗談が好きな方らしい?
  〔返〕 何十日振りだろうか牛肉は? 宮崎牛はやはり美味しい!   鳥羽省三


○ 可愛らしきおばあちゃんになりたしと言へば即座に友は否定す  (海老名市) 栗原恭子

 「可愛らしきおばあちゃんになりたし」と言うような類の中年女性がこの頃多い。
 古希を越えた私からすれば、まるで女子高生みたいな年齢であり顔立ちであるのだが、娘や息子がある程度の年頃になると、彼女らは恥じらいも躊躇いもせずに、そんなことを言い出すのである。
 七十歳を過ぎたのにも関わらず、二人の孫に未だ「省ちゃん」と呼ばれている私は、この一首に関する限り、「可愛らしきおばあちゃん」になることを「否定」する「友」の側に立ちたいのである。
 しかし多勢に無勢、可愛らしいかどうかは他人の判断に任せるにしても、遠からず私も妻も、「おじいちゃん」「おばあちゃん」の位置に追い遣られるに違いない。
 何故ならば、年齢には全く不足が無いからである。
  〔返〕 省ちゃんがお爺ちゃんになった日に沢の田螺は阿弥陀被りす   鳥羽省三
 

○ 浦島のお伽は生きてはやぶさの戻れば首相は六人目なり  (常陸大宮市) 久下沼満男

 敢えて入選作とするにも及ばないような、平凡な発想に基づいた平凡な作品である。
 逆から数えて、「菅・鳩山・麻生・福田・安倍」と五人の名前は挙げたが、最初の一人の名前は挙げることが出来なかった。
  〔返〕 心魂を擦り減らしつつ戻ったが是といったるお土産は無し   鳥羽省三
      小泉は一人で五人分もやりそれでも懲りず息子に託す       々


○ ハンカチに欠伸を包む女(ひと) 見惚れいる間に我に移れり  (竹原市) 岡元稔元    
 「ハンカチに欠伸を包む」と言うが、言われてみれば確かに、そのような人に出会ったことが私にもある。
 そのような動作をする人の全てが必ずしも美人とは限らないが、仮に美人だったとしたら、私も亦、人並みにその人に「見惚れ」、彼女の「欠伸」が私に移ったとしたら、その匂いを香水を嗅ぐようなつもりで嗅ぐに違いない。
  〔返〕 昼日中ティッシュで欠伸を噛み殺し事のついでか鼻をかむ人   鳥羽省三

今週の読売歌壇から(7月26日掲載・そのⅠ)

2010年08月11日 | 今週の読売歌壇から
[岡野弘彦選]

○ 田植にはすこし寒いと思いつつ口出しできぬ齢となりぬ  (胎内市) 小泉 長

 「口出し」したら最後、「そんなこと言うんなら、自分でやってみたらどうだ。やれもしないくせに『口出し』ばっかりして」と言われてしまうから、体力に自信の無い高齢者は、うかつには「口出し」出来ないのである、とは一応の理屈である。
 それとは別に、水稲の品種改良や農機具の発達普及などのさまざまな点で、本作の作者が農家の担い手であった頃と今とでは大きな違いがあるから、本作の作者は、自分が出る幕では無いことを自覚しているのでもありましょう。  
  〔返〕 隠居にはかなり早いと思ひしに隠居せざるを得なくなりもし   鳥羽省三   

○ 棲む鳥のなき籠ひとつ昏れのこり野ばら咲きたり売り家の庭  (明石市) 中條節男

 夕方、「この家売ります」という立て札が立っている「売り家の庭」に、「棲む鳥のなき籠」が「ひとつ」置き残されていて、其処だけが何故か奇妙に明るかったのであろう。
 下の句に「野ばら咲きたり売り家の庭」とあるが、住む人が居なくなって、庭の手入れをしなくなると、真っ先に生えるのが「野ばら」やススキの類である。
 そのまま三年も経つと、塀の破れから<犬・猫・狐・狸>の類が出入りするようになり、挙句の果てには、庭の古木の洞に<木霊>などという異界の者まで棲むようになる。
 私は昨年の初夏(実質的には一昨年の晩春)、退職金のほとんどを叩いて建てた家を縁戚の者に託して首都圏での生活を再度始めたのであるが、その間、最も気になったのは、その家の始末についてであった。
 私たち夫婦が信頼して自宅を預けた縁戚の者が、間違いなく管理してくれるだろうか?
 常識外の低価格で譲渡する約束を交わしているが、果たして代金を払ってくれるだろうか? などなどである。
 しかし、こうした経験を通して今回解ったのは、持ち主不在の空き家に自由に出入りする<犬・猫・狐・狸>の類や<木霊>といった異類も恐いが、それ以上に恐いのは、私たちの心の間隙をついて、持ち主に無断で空き家を転売しようと画策した人間である、ということであった。
  〔返〕 住み慣れし家も人手に渡しけりふるさと横手は捨つるに如かず   鳥羽省三


○ 登校をこばみ自室にひき籠り四年目の児が金魚にもの言ふ  (名古屋市) 浅井清比古

 最初は、引き篭もっている「自室」に時折り出入りする、<アリ>や<トンボ>や<蝶>といった小動物の類。
 そのうちに、自分を含めた家族の者が愛玩している<金魚>や<犬・猫>の類にも話し掛けるようになる。
 やがてはその範囲が人間にまで及び、知らず知らずのうちに自室の外側の世界にも興味を示すようにもなる。
 かくして、「ひき籠り」への対応策は、まさに心理戦、神経戦、長期戦である。
  〔返〕 琉金は互みに尾鰭重ね合ひ花に藻草に戯れて居り   鳥羽省三


○ 倒産の会社の社長あいさつに来て期限切れの食品を置きゆく  (新潟市) 渋谷まこと

 例え「(賞味)期限切れの食品」であっても、自社製品を持って「あいさつ」に訪れたのは、「倒産」した「会社の社長」としては、精一杯の誠意の示し方であったのでありましょうか?
 一首全体、本来は笑っては済ませられない出来事を、独特のユーモアセンスで詠い上げ、飄々とした味わいさえ醸し出している。
  〔返〕 出がらしの煎茶など淹れ倒産の会社社長に最後のもてなし   鳥羽省三


○ 長生きができますよとの先生の言葉になごみ青葉路かへる  (千葉県) 酒井朝子

 「医者は知識よりも技術よりも先ず<心>が大事。医者として備えていなければならない要件は<温かい心と優しい言葉>。それ以外のものは、二の次、三の次です」とは、医者ならぬ石頭の我が連れ合いが常に口にしている言葉である。
 本作の作者・酒井朝子さんは、掛かり付けの病院の「先生」から「長生きができますよ」との、宝石のような「(お)言葉」を戴いて、どんなに嬉しかったことでしょうか。
 行く時は枯葉路に見えた道を「青葉路」と感じながら帰宅したのでありましょう。
  〔返〕 「わたくしもあなたと同じ病ひです」相も変はらず南木佳士言ふ  鳥羽省三
      「これからがあなたの実りの時です」と村の代診味なこと言う     々


○ もの食ぶるときわが唇を噛むことも老いし故かとひとりさびしむ  (福津市) 大庭愛夫

 「もの食ぶるとき」に、自分で自分の「唇を噛むこと」があったとしたら、それは確かに、自分が老境に入ったことの徴かも知れません。
 しかし、その事に限らず、自分で自分の「老い」を自覚しなければならないことは、とても辛く寂しいことであると、近頃は評者も亦、痛切に感じております。
  〔返〕 高からぬ石段にさへ躓きて己の老ひを己で知りぬ   鳥羽省三


○ 道路修理の使役終えきて地下足袋をぬぐにもくるし夕暮れの土間  (鳥栖市) 高尾政


 「道路修理の使役終えきて」とあるが、「使役」という硬直した言葉の意味に拘って解釈すると、本作の作者・高尾政彦さんは、作中の「道路修理」に土木会社などの従業員として有給で携わったのでは無く、居住集落などの構成員の義務として、一種のボランティアとして無給で携わったものと思われる。
 集落の年中行事の一つとして行われる小規模な「道路修理」だから、遊び半分で参加するという訳には行かない。
 集落で毎年一回程度行われる「道路修理」は、大型の土木機械などを使わずに鍬やスコップなどを使っての力仕事であるから、かえって疲れてしまい、一日の「使役」から逃れて家に帰り、いざ「地下足袋」を脱ごうとしても、脱ぐに脱げないほどの状態になってしまっているのである。
 「地下足袋をぬぐにもくるし夕暮れの土間」とあるが、「地下足袋」を脱ぐにも脱げず、「夕暮れの土間」に、ぐったりとへたり込んでしまっている一人の男の姿が、私たち鑑賞者の胸に迫ってくる。
 日本全国が<高齢化社会>に成り果ててしまった今、村落共同体の秩序を維持することは容易なことでは無い。
  〔返〕 「どこそこのお父(とう)はとんだ怠け者」村の噂は百里を走る   鳥羽省三


○ にくき人もいとしきものも皆遠し長寿むなしき日だまりに居る  (志摩市) 野村そのえ

 「長寿むなしき日だまりに居る」という下の句、真に然りと思われ、がっくりと来ました。
 と言うのは、私の周辺を見回して、「長寿」と言われるまでに長生きをした結果、それで栄耀栄華を満喫した、などと言う人はただの一人として居ないからなのです。
 大抵の人は、「あの人は五年も早く死んでいれば、あんな辛い思いをしないで居られたのに。なまじ長生きしたばっかりにあんな眼に遭って可哀そうでならない」などと、せっかくの「長寿」を空しいものに思われているのである。
 表現上の細かい点について言えば、「にくき人もいとしきものも皆遠し」という上の句は、「にくき人もいとしき人も皆遠し」、或いは「「にくきものもいとしきものも皆遠し」にする手もあった筈である。
 それなのにも関わらず、そのように杓子定規に統一しなかったところに、本作の作者の工夫が感じられる。
 また、最終句の「日だまりに居る」もなかなか宜しい。
 敢えて、欠点と言えないようなささやかな欠点を指摘すれば、一首全体を口語調で統一するならば、「皆遠し」の「遠し」を嫌い、評者なら「にくき者もいとし人も皆はるか長寿むなしき日だまりに居る」としたい。
  〔返〕 鳩山も小沢も菅もみな間抜け覇権争いしてる場合か   鳥羽省三 


○ 夕月のかげほのぼのと水面にゆれ峡の代田は田植日を待つ  (仙台市) 勝 美彰

 「代田」とは、<代掻き>の済んだ田のこと。
 通常は、田植の前日に<代掻き>を行う。
 したがって、「田植日」は明日なのである。
 「田植日」の前夜、「代田」の「水面」には「夕月のかげ」が「ほのぼのと」映り、僅かばかり吹いている風に「ゆれ」ているのである。
  〔返〕 峡の村 月は代田にかげ落とし早乙女たちは明日を夢見る   鳥羽省三


○ 昨日刈りし草の香しきり匂いたつ土手の草生をふみしめて行く  (東京都) 根本亮子

 本作に使用している単語の中で、唯一例外的に口語とは言えない語が、「昨日刈りし」という<初句>中の過去の助動詞「し」である。
 そこでこれを嫌って「た」とすれば、一首全体は「昨日刈った草の香しきり匂いたつ土手の草生をふみしめて行く」となるが、恐らくは、作者としても鑑賞者としても、この改作を良しとしないであろう。
 と言うことは、この作品は一首全体として、文語的発想に基づいて詠まれた作品と言うことになる。
 だとすれば、「匂いたつ」の「匂い」を、何故「匂ひ」にしなかったのだろうか?
 ささやかで目立たない欠点ではあるが、評者としては、その点が惜しまれる。
  〔返〕 今朝刈ったばかりの草が匂い立つ畦に腰掛け小昼など食う   鳥羽省三

今週の日経歌壇から(8月8日掲載・改訂版)

2010年08月10日 | 今週の日経歌壇から
[岡井隆選]

○ 若かりせば共にもがもな観覧車空に上がりて何を語らむ  (松戸) 中原政人

 「若かりせば」とは、<もしも若かったならば>ということであり、作者・中原政人さんは、現在<若くはない>のである。
 したがって、何方か女性の方と「共」に「観覧車」に乗るのも、乗った「観覧車」の中で「何」かについて語るのも、全て<反実仮想>でしかないのである。
 ところで、この作品の創作に当たって、作者・中原政人さんが殊更に古いスタイルを採った理由は何処に在るのだろうか?
 詠い出しの「若かりせば」は「若からば」とすれば事足りることであるし、二句目の「共にもがもな」に至っては、「共に乗らなむ」或いは「共に乗りたし」とでもすれば、何方にでも容易に理解される一首になったはずである。
 それなのにも関わらず、「若かりせば」と言ったり、「共にもがもな」と言ったりして、その意を殊更に難しくしたのは、一種の古典語コンプレックスが災いしているのではないだろうか?
 大変厳しいことを申し上げるが、古典文法についての高校生程度の学力があれば、そのような小難しく小賢しい表現はしないものである。
 この点は、作者のみならず、これを入選作とした選者の岡井隆氏もまた同罪である。
 表現上や文法上のアドバイスをしないで、何の選者であろうか?
  〔返〕 若からば我には一世彼女には一夜の夢の大観覧車   鳥羽省三
 本作は、あの栗木京子さんのあの歌を意識して創作されたと思われるから、評者もまた、あの栗木京子さんのあの歌を意識して即興に創った歌を返歌とさせていただいたのである。


○ 乱暴でエゴイスティックなこの雨にはあの悪党も濡れ鼠だろう  (横浜) 森秀人

 「あの悪党」とは、誰のことであろうか?
 その「悪党」よりも更に「悪党」で「乱暴でエゴイスティックなこの雨には」、さすがに「あの悪党」も「濡れ鼠」になるだろう、というわけである。
 「悪党」の正体を明らかにしないで「悪党」を論じている。
 突然の雨を「乱暴でエゴイスティックな(雨)」と言うことによって、それと同等、いや、それ以上の「悪党」の人間を想像させているのである。
  〔返〕 逞しくヒューマニスティックな我なれど腹が減っては戦は出来ぬ   鳥羽省三


○ 銭を得て村を沈めて街にでた村人たちらし我々はみな  (東京) 野上 卓

 久々に「ダム御殿」という言葉を思い出した。
 自民党内閣時代に、ダム建設地に指定された峡谷の村には、「一刻も早くこの谿を出て、町のダム御殿に住んでみたい」と思っている人々が、わんさかわんさか居るに違いない。
 そうした問題とは別に、私のような田舎生まれの者の頭の中には、「銭を得て」なのかどうかは別にして、「村を沈めて街にでた村人たちらし我々はみな」という意識が、常に付き纏っているのではないだろうか。
  〔返〕 銭持たず村を逃げ出し街に出てバタリー鶏舎に棲み付くわれら   鳥羽省三
 私の妻の父親は、今で言う<マンション>、その当時の<中、高層住宅>のことを、「バタリー式鶏舎みたいな家」と呼んでいた。
 建築士として人並み以上の才覚を発揮していた彼にとっての<家>とは、<一戸建ての家>のことであり、それ以外の<家>は、<鶏小屋>にしか見えなかったのだろう。


○ やはらかい闇を奪ひしコンビニに源氏螢は何処へ行きけむ  (成田) 神郡一成

 昼夜を問わず煌々と照り映える「コンビニ」の明かりは、日本全国の村や町から「やはらかい闇を奪ひ」、あの「源氏螢」たちを路頭に迷わせ、絶滅せしめたに違いないのである。
 「やはらかい闇を奪ひしコンビニに」という上の句の措辞が、何とも言えないくらい魅力的である。
  〔返〕 やはらかい闇に包まれ眠りたし街の明かりに我ら眠れぬ   鳥羽省三


○ 泣きながら帰ってくるのは子供だけ日暮れの寂しさ我慢しなくちゃ  (東京) 平岡敦子

 本作の作者は、一体誰に向かって「泣きながら帰ってくるのは子供だけ日暮れの寂しさ我慢しなくちゃ」と語り掛けているのだろうか?
 察するに、本作の作者・平岡敦子さんは、ご自身に向かってこのように語り掛け、自らを励ましているのであろう。
 ところで、最近の子供たちは、評者からみるとまるで別人種である。
 別人種である彼らも亦、「日暮れ」時になると、寂しい気持ちになるのだろうか?
  〔返〕 泣きながら砂を袋に入れながら球児は何を思っているか?   鳥羽省三


[穂村弘選]

○ 半分にまた半分に切りゆけば西瓜の中で逃げ惑ふタネ  (半田) 安西洋子

 「西瓜の中で逃げ惑ふタネ」が何とも言いようが無いくらい面白い。
 まさかそんなことはあるまいが?
 つい先日、ある用事で埼玉県川口市の姉の家を訪問した時、何かの話の序でに、<スーパーや八百屋で、独り者が食べ易いように、二等分にしたり四等分にしたりして売っている西瓜>の話になった。
 その時、姉は、「あの八百屋で売っているあの西瓜はかなり小さいから、四つ割りでは無く、六つ割りしているのだろう」と言うのだ。
 この姉は僅かばかりの金は持ってはいるが、自我が人並み以上に強く、例え転げ出したとしても「西瓜は四角」と言い張るような、例えもそもそと這い出したとしても「黒豆」と言い張って憚らないような性格の女である。
  〔返〕 三分の一また三分の一と西瓜切り九等分にするのは難し   鳥羽省三


○ 何枚も書く気でいたが一枚で充分だった退職届  (名古屋) 山川藍天

 本作の作者・山川藍天さんは、自分が社長室に行って「退職届」を差し出したら、社長は自分を慰留するに違いないと思ったのでありましょうか?
 それとも、作者は若い頃、気の向くままに会社を転々とする生活に憧れ、「退職届」を何枚も何枚も書くつもりであったが、何かの都合か心境の変化で、結局は一社に永年勤務して定年退職したのでありましょうか?
  〔返〕 「こんなとこ、辞めてやらー」と啖呵切り辞めたが最後飯も食われず   鳥羽省三


○ 半分こした鯛焼が汝と我の中を半身づつ泳いでる  (甲府) 村田一宏

 「汝と我の中を」とは、詳しく言うと<汝と我の腹の中を>ということになるのであろう。
 だが、「鯛焼」は生き物では無いから、「<汝と我の腹の中を>半身づつ泳いでる」ことは、まさかあるまい。
 そんなことはどうでも、「鯛焼」を「半分こ」する時は、頭の部分と尻尾の部分に分けるのだろうか、それとも、片身ずつ分けるのだろうか?
  〔返〕 半分こした鯛焼の僕の分には白餡がかなり少ない   鳥羽省三
 評者は、「餡」は「餡」でも、あの小豆色した「餡」では無く、「白餡」が好きなのである。


○ 母の里の土蔵に「家の光」拾ひ読むサマータイムの学童期ありき  (飯能) 松本和子

 人間誰しも同じような経験をしているものである。
 だが、評者の場合は、「母の里の土蔵」では無く<自宅の屋根裏>であり、「家の光」では無く<婦人雑誌の性典>であった。
  〔返〕 屋根裏で人に隠れて<性典>を読みにし頃よ中一の頃   鳥羽省三


○ 四本の脚で立ってたテレビにはウサギのやうな耳が付いてた  (仙台) 間 啓

 毎朝、「ゲゲゲの女房」を視ている人はご存じでしょうが、白黒時代のテレビは、本体とそれを支える四足の部分が直結していて、その土地の電波事情によっては、本体の頭に「ウサギのやうな耳が付いてた」のである。
  〔返〕 超薄で四原色でエコ対応我が家のテレビは最新型だ   鳥羽省三