goo blog サービス終了のお知らせ 

臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

この頃は野菜が高くなりまして休耕地にもじゃがいもの苗

2017年07月09日 | 今週のNHK短歌から
 今朝の六時から放映されたNHK短歌の〈添削コーナー〉に取材して書かせていただきましたが、私は、既に古稀を過ぎておりますので、肝心要の原作そのものは忘れてしまいましので、原作者の方には篤くお詫び申し上げます。
、NHK短歌の〈添削コーナー〉は、斯界の権威者たる選者の方が、投稿投稿作品の中から特定の一首を選定なさり、「この原作は、こうすれば入選作レベルの佳作となる」という具合に添削してみせるというコーナーでありまして、数多くの短歌アァンからも期待されている、お馴染みの好企画でありますが、今朝は、明らかに初心者の作品と思われる原作を、選者の大松達知先生が、「この頃は野菜が高くなりまして休耕地にもじゃがいもの苗」と、鮮やかに添削・変身させて、入選作並の佳作にして見せたところまでは良かったのではありましたが、不肖・私に言わせれば、「彼・大松達知先生は、〈じゃがいも〉いう極めて有り触れた球根作物が、どのようにして畑に植えられ育ち、どのようにして八百屋やスーパーの売り場に並べられるのか?という、肝心要のところを知らないのではないか?」と、思われるのである。
 この事は、学校農園や市民農園などの普及などを通じて、今となっては都会の小学生でも知っていると思われるところの、〈知識と言うにも烏滸がましい程の一般的な野菜に関する知識〉なのでありますが、〈じゃがいも〉という球根野菜は〈種芋〉という形で畑に植えられて育つのであり、同じ〈いも〉でも、〈苗〉という形で畑に植えられて育つ、〈さつまいも〉とは、その栽培方法を異にするのである。
 彼・大松達知先生は、見た目からしてへなへなとしていて、いにしへの〈ストリップ小屋の幕引き〉としては、少しは役に立つかも知れませんが、野良着姿でじゃがいも畑やさつまいも畑に立って働いたり、NHK短歌の選者として国民大衆の前にあのひょうひょう然とした顔を曝すには、少なくとも百年くらいは早いのではありませんでしょうか?

今週のNHK短歌から(10月13日放送・斉藤斎藤選)リバイバル版

2016年06月19日 | 今週のNHK短歌から
 「今週のNHK」は、選者があの斉藤斎藤氏で、ゲストがあの上田信治氏である、と聴いてビックリ仰天!
 私は、少年時代から今に至るまで、「鳥羽君はクラス一番の美男子だ!」、「鳥羽先生は本校一のハンサム教師だ!」、「うちの亭主は、町内で最たる美顔のジイジだ!」などと言われて、いい気になって暮らしている所為なのか、生れつき不細工な男が大嫌いであり、不細工な男に対する理解の無さは、或いは、私の性格の唯一無二の欠陥なのかも知れないとさえ思っているのである。
 あの不細工な斉藤斎藤氏に、あの不細工な上田信治氏が絡んだら、どんなに不細工な場面が展開されるだろうか、とテレビを点ける前から、私は失望していたのである。
 ところが、豈図らんや・・・・・・・・・・?

[一席]

(市原市・今別府美江)
〇  驚きの胡瓜の甘さ苗を植え水は天から吾は捥ぎしに

 「是がなぜNHK短歌の第一席に?」と、心(或いは、心得)有る人ならば悩みたくなるような意外な選出ではあるが、斯界に名だたる「斉藤斎藤選」とあらば、別次元の話でありましょうか?
 選者の斉藤斎藤氏が盛んに推奨し、ゲストの上田信治氏が頷いていた「苗を植え水は天から吾は捥ぎしに」という上の句も、「出鱈目極まりない言葉の斡旋」としか言いようがありません。
 選者は、この三句を「長い時間の経過をよく十七音で表し得た」と盛んに褒め讃えていた。
 だが、「苗はホームセンターから買って来て植えただけ、水は天から降って来た雨水が当たっただけ、そして私は捥いで来ただけなのに」といった意は、辛うじて読み取れるのであるが、それとて、読み取れるだけのことであり、もう少し別の言い方があろうというものである。
 公共放送テレビ・NHK総合は、私たちから集めた受診料を叩いて我が国の伝統文化たる短歌文芸の滅亡を謀らんとしているのでありましょうか?
 〔返〕  驚きの選歌の甘さ!脈絡も考えも無く連ねし言葉!  鳥羽省三 


[二席]

(渋谷区・鈴木穣)
〇  赤紙が又来ましたと亡き妻がそっと差し出す夢におどろく

 是もまた驚きの選歌ぶりである。
 短歌関係のあるブログに「彼は私たちファンの期待を大きく裏切り、何処にでも在るような歌を選び、誰にでも口にすることが出来るような言葉で以って褒め上げているが、それではNHK短歌が彼を選者に起用した意味が無いではないか」といったニュアンスの斉藤斎藤選の悪口が書かれていましたが、本作を二席に選んだ「快挙」否「暴挙」こそはまさしくその悪口の正しさを証明するものである。
 本作の意は、「赤紙が又来ましたと言いながら、亡き妻がその赤紙らしきものを、私にそっと差し出す夢を見て、私は驚く」、というだけのことであり、命からがら戦地から引き揚げて来た旧軍人らしき作者の発想になる、古いタイプの短歌であり、題材にも表現にも、何一つとして目新しい点は見られません。
 また、この短歌を評するに当たって、選者の口から「この作品の中に見られる出来事は、五、六十代以上の人の人たちの経験・・・云々」といったニュアンスの言葉が飛び出していたのも驚きである。
 不肖、鳥羽省三は昭和十五年、即ち皇記二千六百年生まれであり、当年取って七十三歳になりますが、未だ曾てただの一度として「赤紙が来て驚いた」といった内容の夢を見たことがありません。
 〔返〕  赤線が廃止されたと友は云う友よお前は童貞なのか  鳥羽省三  


[三席]

(箕面市・林薫)
〇  蛇に会う三度も出合う真夏日にソフトクリーム謙虚になめる

 選者曰く「真夏日の一日に三度も蛇に出逢ったとしたならば、謙虚な気持ちになってソフトクリームを舐めるしか手がありません。」
 然り、斉藤斎藤氏としては珍しくもご適切なる評言である。
 〔返〕  妻に会う外出先で妻に会う!妻も不倫をしてるのかしら?  鳥羽省三


[入選]

(仙台市・石川のり子)
〇  数あれど不満の一つ呟けば夫は箸止め酒こぼしたり

 「常日ごろ貯まる不満は数々あれど」という訳でありましょうか。
 〔返〕  募る不満口に出だせば箸止めて酒溢すなむ不実な夫は  鳥羽省三

 
(江戸川区・松井正多)
〇  おどろいて逃げる蜥蜴が振りむいてぼくも家族になりたいという

 本当かどうかは知らないが、「人が来たのに驚いて、蜥蜴が逃げるときは、必ず一度立ち止まって、後ろを振り向いて見るのよね」などと、選者とゲストが語り合っていて、二人とも会心の笑みを浮かべていた。
 それにしても、いかにも選者受けを狙ったような「かんたん短歌」である。
 〔返〕  驚いて逃げる鼬は走りつつ必ず臭い屁を放つんだ  鳥羽省三


(北区・保苅澄子)
〇  感情のやや錆び付きて大空へ飛べたらきっと驚くだろう

 意味不明瞭なところが選者に気に入られたのかも知れません?
 即ち「感情がやや錆び付いたのが原因で、私が大空に飛べたとしたならば、誰もがきっと驚くだろう」という意味なのか?
 「感情がやや錆び付いたままで私が大空へ飛べたら、私自身がきっと驚くだろう」という意味なのか?
 「感情がやや錆び付いたままで私が大空へ飛べたら、周囲の誰もがきっと驚くだろう」という意味なのか?
 「感情がやや錆び付いた状態、即ち、部品がやや錆び付いた状態で、飛行機が大空へ飛べたら、世界中の人々がきっと驚くだろう」等など多種多様な解釈が成り立つのである。
 したがって本作も亦、「斉藤斎藤選」への投稿作品らしい野放図な表現である。
 〔返〕  感覚が錆び付くままの選歌なり斉藤斎藤感覚磨け  鳥羽省三


(調布市・岩崎公一)
〇  清流に小石落とせばおどろきて乱るる魚影のやがて整ふ

 観察眼の鋭さと着眼点の佳さが覗われ、言葉の斡旋の宜しきを得た作品であり、朝日歌壇の選者諸氏のお眼鏡にも適いそうな佳作である。
 という事は、選者の「斉藤斎藤氏の短歌観は奈辺に在りや?」と疑いたくもなるような選歌であるとも言えましょう。
 〔返〕  清流に針を放てばたちまちに岩魚飛び付き釣り師小踊り  鳥羽省三
      たちまちに岩魚飛びつき水濁るそれも束の間やがて静寂 


(奈良市・福井照子)
〇  四捨五入六十年を共に棲みおどろくことがあと一つ在る

 本作を評するに際して、選者の口から「二人のうちのどちらかが四捨五入して六十年という主語の作品である」というニュアンスの解説が為されているのも驚きである。
 「夫婦仲良く連れ添ってかれこれ五十数年、四捨五入して六十年を共に棲み、それでも尚且つ、夫(の生活態度や言動や性癖)にはおどろくことがあと一つ在る」という文意ではありませんか。
 うろ覚えの知識しか持たないくせして、無用な詮索は止めましょう。
 子供や外人に聴かれたら笑われてしまいますよ。
 〔返〕  四捨五入五十ポイント以下の思考力それで選歌はとても無理です  鳥羽省三


(福山市・守谷和之)
〇  前腕にオクラをこすりつけてみる産毛同士の未知との遭遇

 入選作九首の披講が終わった段階での私の予想(選者が選者であるが故に)では、本作が第一席を占めるだろうと思っていたのであるが、事態は予想外の展開を遂げ、本作は只の入選作となってしまったのであり、お気の毒様としか申せません。
 「産毛同士の未知との遭遇」という下の句はともかくとしても、「前腕にオクラをこすりつけてみる」という発想は、真に奇想天外な発想であり、いかにも斉藤斎藤氏好みの着想ではありませんか?
 〔返〕  前身頃後ろ身頃が豹柄の伊太利屋ルックの野暮くさ凄し  鳥羽省三  

今週のNHK短歌から(1月5日放送・小島ゆかり選・決定版)

2014年01月06日 | 今週のNHK短歌から
[一席]

(熊本市・岡田万樹)
〇  敗走の森にて死すと文そへて戻りきし父の軍用毛布

 作中の「戻りきし」「軍用毛布」には、確かに「父の軍用毛布」であると証拠立てる何か、即ち、「氏名かイニシャル」かが記されていたのでありましょうか?
 と言うのは、私の従兄が、フィリピンのミンダナオ島で名誉の戦死を遂げたということで、遺骨と軍服の上着が戻って来ましたが、遺骨箱の中身はただの石ころであり、愛用の軍服なるものは、だれが着ていたのかも判らない襤褸切れであったからである。
 〔返〕  戻り来し上着はただの襤褸切れで遺骨箱には石ころ三つ


[二席]

(国立市・坂元稔)
〇  静寂と無数の視線惹きつけてボルトの走る長い九秒

 正確に言うと「ボルトの走る長い九秒」では無くて、「ボルトの走る長い9・58秒」でありましょう。
 100メートルという距離を10秒以下のスピードで走る場合の、「9秒」と「9・58秒」の差は、余りにも大きいと言わざるを得ません。
 〔返〕  喧騒とあまたの嫉妬を惹きつけて白組司会の嵐の五人

 
[三席]

(北九州市・松瀬詩子)
〇  積もる雪蹴散らし走った日々遠く老犬は嗅ぐ風の匂いを
 
 作中の「老犬」は、「風の匂い」を嗅ぎながら「栄光の日々」を回想しているのである。
 〔返〕  粉雪を蹴散らし走った栄光の日々は帰らず我は老犬


[入選]

(北見市・浅野昭久)
〇  俯きて赤いポストに手を合わせ少女くるりと走り行きたり

 事の次第を正しく説明すれば、「クイズの答を書いた葉書を投函した後、その少女は俯いて赤いポストに手を合わせ、身体をくるりと半回転させて自宅の方に走って行った」ということでありましょう。
 と言うことは、副詞「くるりと」は「走り行きたり」という述語文節を修飾しているのではなく、省略されている「半回転させて」という述語文節を修飾している、ということになりましょう。
 〔返〕  俯いて赤いポストに呟いた「今度は絶対当選するぞ」と 


(千葉県長生村・望月勝子)
〇  少しづつ放されてゆくランナーの荒き息づかひマイクは拾ふ

 正月二日の朝からテレビの前に座り込んで、箱根駅伝のランナーたちの走る姿に一喜一憂しておりましたが、「少しづつ放されてゆくランナーの荒き息づかひ」を「マイクは拾ふ」という場面には、とうとう出くわしませんでした。
 日本テレビが使用している「マイク」は、某経済大国製の粗悪品なのでありましょうか?
 〔返〕  少しずつ離されて行くランナーに小涌園前の観衆激励


(大府市・近藤勉啓)
〇  脳走る神経線維病得て記憶のもみじあかくちりゆく

 兼題「走る」に直面して「脳走る神経線維病得て」と詠い出した、作者・近藤勉啓さんの卓越した着想に注目しなけれはなりません。
 しかしながら、掲歌鑑賞の眼目は「記憶のもみじあかくちりゆく」でありましょう。
 何かの原因で「神経線維」が損傷した瞬間、人間の記憶の全てが一挙に抹消してしまうのでありましょうが、作者の近藤勉啓さんにとっては、かつて小豆島の寒霞渓で目にし、記憶していた「もみじ」が「あかくちりゆく」光景こそは、記憶の全てであったのかも知れません。
 〔返〕  なお走る山梨学院大学の三区のランナー襷紅白
 事もあろうに、エースランナーの留学生選手が途中棄権してしまうとは?
 留学生ランナーを疲労骨折するほどに酷使したりすると、我が国とアフリカ諸国との友好関係に罅が入ってしまいましょう。
 その結果、お腹を抱えて喜ぶのは、某経済大国だけでありましょう。
 山梨学院大学スタッフは総理大臣閣下と結託して、某経済大国を喜悦せしめる策に出たのでありましょうか?


(境港市・重森弘行)
〇  時化休み続く漁港をトロ箱が風に吹かれてからから走る

 今回の兼題は「走る」である。
 掲歌の作者・重森弘行さんは、この兼題に直面して、箱根駅伝のランナーや「ななつ星」が走る光景を詠むのでは無くて、事もあろうに「トロ箱が風に吹かれてからから走る」光景を詠んだのである。
 「トロ箱が風に吹かれてからから走る」光景こそは、いかにも我が国有数の漁港たる境港に相応しい光景である。
 兼題「走る」を手玉に取って、故郷・境港ならではの風景を詠んだ、重森弘行さんの奇抜なご着想に対しては、私・鳥羽省三とても素直に脱帽しなければなりません。
 〔返〕  トロ箱が風に吹かれて逃げて行くゲゲゲの鬼太郎追っ駆けて行け


(福岡市・堺多鶴)
〇  沿線のコスモス揺らし日常のわれを揺らして走る<ななつ星>

 「日常のわれ」とは、ご亭主殿の少ない給料をあれこれと遣り繰りして、慎ましやかな生活を営んでいる「われ」でありましょう。
 その「われを揺らし」、「沿線のコスモス」さえも「揺らし」て、あの「ななつ星」野郎は、ひたすらに由布院駅に向って走るのでありましょう。
 〔返〕  ななつ星明日は博多の駅に着く三泊四日料金高過ぎ 


(大牟田市・桑野智章)
〇  走るのを急に止めたるランナーは寒風の中靴ひも直す

 「靴ひも」が解けてしまったら「走る」のは勿論のこと、歩くことさえ出来ません。
 したがって、「靴ひも」の状態が気になったら、たとえ「寒風の中」だろうが地獄の業火の中だろうが、しっかりと立ち止まって結び直さなければなりません。
 今年の箱根駅伝でとても印象的だったのは、第一区のランナーたちが、あの冬の早朝の寒い中でそれぞれ靴ひもを結び直していたことでありました。
 〔返〕  駒大の復路六区のランナーがスタート直後にずっこけちゃった
 あの瞬間に、駒沢大学の大学三大駅伝制覇の夢は幻となってしまったのである。
 大八木監督及び窪田主将の胸中や如何に?

今週のNHK短歌から(12月15日放送・永田和宏選・福袋版)

2014年01月05日 | 今週のNHK短歌から
 後述の松澤龍一さんの御作に関連して、森鷗外の文学作品中で「接吻」という二字に「キッス」というルビを振った作品があるかどうかと思って、退屈凌ぎに「ブログ逍遥」と洒落込んでいたところ、たまたま『もえたたんとゆうたたんのたんたん短歌』というタイトルの初見のブログにヒットした。
 その中の「2013年12月19日(木)」の記事は、「NHK短歌」の「12月15日放送(永田選)分」の作品に関する鑑賞記事であったので、後学の為に、ブログの管理者には大変失礼ではありますが、以下、そのまま、作品毎に、無断転載させていただきます。

 下記は、無断転載させていただいた記事中の「前書き」に相当する文章である。

 今回は、NHKのEテレで毎週日曜早朝に、すなわち、ブログ主が起床する前に、放送されている「NHK短歌」2013年12月15日放送分に紹介された作品について、たいへん僭越ながら、添削を行ったものであり、本日から三回にわたって掲載する。なお、当日の選者は永田和宏氏で、題は「読む」であった。
 もちろん、当該番組に投稿された作品は、選者に評価されてテレビに放送される、あるいは、採用されずに放送されない、の二者択一しか無い。なお、採用された場合に「歌意」を批評されることを除いて、いずれの場合においても、詠み方、すなわち、言葉の選び方や並べ方等を添削されるようなことは決して無い。そして、世の中には「人様の詠んだものを、頼まれもせず、勝手に添削することなぞ、たいそうおこがましい」と思う人が多いことも、ブログ主は十分に承知している。
 それでもなお、ブログ主は己の信念に基づき、そして、短詩型文芸としての短歌の詠み方の在るべき姿を想いながら、この文章を記すものである。今回は、掲題の元歌(以下に赤字で示す。なお、もし、元歌に一字空けがあったとしても放送画面では判別できないので、それは無いものとして扱う。)から改題(以下に青字で示す。)に至るまで、できる限り詳細な検討を行った積りである。掲題の作者の皆さんには、ブログ主の添削が決して単なる趣味に基づくものではないことを理解していただければ幸いである。
 ちなみに、もし、ブログ主が他者詠みを、すなわち、掲題の元歌に詠われた同じ情景を全く白紙の状態から詠った場合には、それは元歌を添削した後の改題とも異なる姿形となる。試しに、最初の一首目および最後の九首目については、元歌、改題、そして、他者詠みの三者を並べてみた。当ブログの読者の皆さんには、具体的な実作を通じて、それらの相違を確認していただければ幸いである。


[一席]

(福岡市・松本里佳子)
〇  読みかけのすべての本を読み終わる悲しさがあり栞をはさむ

 (以下に記す文章は、無断転載させていただいた文章中の、上掲歌に関連する記事である。尚、二首目以降の作品に関する記事に就いては『転載』とのみ略記させていただきます。)

 掲題の歌意は、凡そ「私の目の前にある読みかけとなっている全ての本について、もし、それらを読み終わった際には、それぞれに読み終わってしまった悲しさが生じることだ。私はそんなことを考えながら、本に栞をはさんでいる」である。
 掲題で詠われている情景はたいへん面白い感慨である。そして、言葉や文字の選び方や並べ方等の表現方法についても、特に指摘する箇所も無いので改題を詠まない。

 (前掲の記事に就いて及び掲歌に就いての私・鳥羽省三の評言。以下『評言』と記す。)

 無断転載させていただいた記事中の「掲題」とは、私の謂うところの「掲歌」であり、「改題」とは、私の謂うところの「返歌」でありましょう。
 ところで、掲歌の上の句には、「読みかけのすべての本を読み終わる」と、文末が終止形(完了形)で書かれている。
 したがって、上掲の記事中に「私の目の前にある読みかけとなっている全ての本について、もし、それらを読み終わった際には、それぞれに読み終わってしまった悲しさが生じることだ。私はそんなことを考えながら、本に栞をはさんでいる」とあるのは、明らかに誤読に基づいた評言でありましょう。
 「ブログ主」の手になる評言と同様に、掲歌の表現も亦、文意不明瞭である。
 「読みかけ」の「本」が幾冊か在ったのでありましょうか?
 それとも「読みかけ」の「本」は一冊だけ在ったのでありましょうか?
 その点はともかくとして、掲歌の作者・松本里佳子さんは、今しも「読みかけ」の「本」を読み終わってしまったのであるが、その途端に、何故か「悲しさ」を感じたのであるが、それと共に心残りを覚えたので、読み終わったばかりの本の中に「栞」を挟んでおいたのでありましょう。
 〔返〕  読み終えた途端に湧いた悲しみに13ページに栞を挟む


[二席]

(野田市・松澤龍一)
〇  接吻にキッスとルビを打たれたる鴎外を読む文化の日なり

(転載)
 掲題の歌意は、凡そ「文化の日に、森鴎外の作品を読んでいたら、「接吻」に「キッス」とルビが振られていた」である。
 まず、「ルビ」は凡そどう取り扱うものかと調べれば、一般的には「振る」か「付ける」ものらしい。なお、特定の業界では「組む」と表現することもあるようだが、掲題のように「打つ」とは滅多に聞かないことだ。なお、タイプライターで印字する際に道具が紙を打っているように見えたり、あるいは、「電報を打つ」という表現から連想して、この言い回しを用いたのかもしれない。それでも、何か別の事物に対する動作として掛けている等の理由で意図的に用いられているのでもなければ、凡そ正確ではない言い回しは避けるべきだろう。
 次に、「なり」は指定・断定の助動詞であるから、掲題を厳密に解釈すれば、「鴎外を読んだのは(、その日は)文化の日だ」という意味になる。ただし、ブログ主が思う掲題の一首のポイントは「少々変わったルビ」であり、他方、「文化の日」を結句に置いて強調する意義は見当たらない。少なくとも、文化の日に「なり」を付けて指定・断定する必然性は無いので、これは削除するべきである。
 以上の諸点を踏まえ、かつ選者の永田氏に敬意を表して、改題を次のように詠む。
  文化の日に鴎外を読めば接吻に「キッス」のルビの振られていたり

(評言)
 「転載」の記事は、「括弧」の中に「同じレベルの括弧」に括られた文が挿入されていたり、作品の読みが出鱈目であったりして、凡そ、日本語の表現とは言えないようなレベルの幼稚な文章である、と言わなければなりません。
 しかしながら、掲歌中の「ルビを打たれたる」という言い方に関連して、あれこれと詮索している点に就いては、良しとしなければなりません。
 とは言えど、「ルビを打たれたる」という言い方が日本語の表現として正しくない表現である、と断定することは出来ませんし、ましてや、「何か別の事物に対する動作として掛けている等の理由で意図的に用いられているのでもなければ、凡そ正確ではない言い回しは避けるべきだろう」などと、無用な詮索をするに及んでは、「他人のふり見て我がふり直せ」とでも言いたくなるのである。
 なお、掲歌は明らかに「文語短歌」を志向しての作品である。
 ならば、作中の「鴎外」は、正字を用いて「鷗外」とするべきでありましょう。
 もう一点、書き添えますが、私は、本稿を草するに際して、ネット中の「青空文庫」などを参照させていただきましたが、今のところ、森鷗外の作品中で「接吻」の二字に「キッス」とのルビを振った(打った)作品は見当たりません。
 就きましては、作者及び識者の方々にお願い致しますが、件の作品を、当ブログのコメント欄を通じて、この不勉強な私にご教示下さい。


[三席]

(岡崎市・中村佐世子)
〇  吹く風がページを捲ることは無し電子書籍は読みかけのまま

(転載)
 掲題の歌意は、凡そ「電子書籍においては、従来の紙の本のように、風が吹き、ページが捲れ、そして、閉じられることが無いので、読みかけのままである」である。
 ところで、ブログ主の理解によれば、「読みかけ」とは本を未だ読み終わっていない状況を指す。したがって、最後まで読み終わっていなければ、本が或るページを境にして左右に開いていようが、あるいは、閉じていようが、それらは「読みかけ」に変わりは無い。つまり、紙の本のページが風で捲れる有り様に対して、電子書籍の不動のそれを「読みかけ」と表現することは、正しく説明できていないだろう。
 なお、ブログ主が掲題の作者の思いを推測すると、それは凡そ「従来の紙の本であれば、休日の午後にベランダでひなたぼっこをしながら読書を楽しめば、爽やかな風がページをパラパラ捲るといった悪戯をしたものだ。他方、最新の電子書籍は便利ではあるが、風が吹いても続きを表示し続ける。こうした紙の本にはあった風情が文明の進歩によって失われてゆくのは些か味気ないことだ」と思われる。したがって、電子書籍の有り様を簡潔に表現すれば、それは凡そ「次に読むべき続きを表示し続けている状態」である。
 以上の諸点を踏まえて、改題を次のように詠む。
 風吹けど頁の捲れることも無く続きを示す電子書籍は

(評言)
 このような傑作に、このような文意不明の、しかも出鱈目極まりない評言を加えるに及んでは、ブログ『もえたたんとゆうたたんのたんたん短歌』の「ブログ主」なる人物は、凡そ、短歌の何たるかのイロハも御存じで無い人物と判断せざるを得ません。
 文中に「電子書籍においては、従来の紙の本のように、風が吹き、ページが捲れ、そして、閉じられることが無いので、読みかけのままである」とあるが、是を掲歌に就いての解釈としてみれば、「ブログ主」なる御仁の解釈は、大筋としてはそれほど見当外れのそれとは言えません。
 しかしながら、「従来の紙の本であれば、休日の午後にベランダでひなたぼっこをしながら読書を楽しめば、爽やかな風がページをパラパラ捲るといった悪戯をしたものだ」とまで言うに及んでは、また、「他方、最新の電子書籍は便利ではあるが、風が吹いても続きを表示し続ける。こうした紙の本にはあった風情が文明の進歩によって失われてゆくのは些か味気ないことだ」とまで評するに及んでは、言語道断と言うべきでありましょう。
 要するに、「ブログ主」なる御仁は、日本語表現のイロハも知らない人物と判断される。
 〔返〕  葉を揺らす秋風寒く主のなき電子書籍はページ捲らず


[入選]

(岩沼市・山田洋子)
〇  難解で読み応えのある論文集わたしのことを君はそう言う

(転載)
 掲題の歌意は凡そ「君はわたしのことを「難解で読み応えのある論文集」と呼んだ」である。それでは、掲題に記された順に、指摘してゆこう。
 まず、人を指して「難解」だと言えば、それは凡そ何を考えているか理解できない性格を述べており、同様に、「読み応えのある」と言えば、それは凡そ奥深く、波乱万丈で奇想天外な人生経験や人格を述べているだろう。すなわち、一見とっつきにくそうに見えながら、付き合ってみれば本当は面白いといった有り様を表している。もし、そうであれば、両者を明確に逆接する、例えば、「難解だが読み応えのある~」とすべきであろう。
 次に、「論文集」とは凡そ、学校における児童生徒や研究機関における研究者の複数人等が記述した論文を集めた冊子を指す。したがって、これをたった一人の人間である「わたし」を指して喩したならば、もし、それが多重人格といった有り様を述べようとしたのでなければ、作中における「君」は「わたし」に対する比喩的表現を些か誤ったと言える。ただし、これは掲題の作者の詠みではないので、このままでもよいのだが、もし、掲題において論文の単複にそれほど重心が無ければ、ここは「論文」と単数に済ませてよいだろう。あるいは、初句で「難解で」と宣言し、さらに、凡そ読解が困難なイメージを持つ文である「論文」と詠むのは、同じ意味を重ねてしまっているので、これを例えば「作品集」とすれば、凡そ個人の作家による著作物を指すので違和感が無いだろう。
 そして、「わたしのことを」は、掲題をどのように読んでも、「わたしを」と同じ意味しか持っていない。例えば、「私のことは忘れてください」と言えば、それは凡そ「(その他の事物に関してはさて置いて、)私に関する事物、つまり、君が私と過ごした過去は無かったこととし、また、二人で歩む将来も期待しないでください」という些か複雑な状況を意味するだろう。他方、掲題においては、「わたし」を「論文集」に擬するだけであるから、わざわざ「わたしのこと」と表現する必要が無い。敢えて言えば、四句の音数を単に七音に合わせただけに見える。そこで、「のこと」は削除するべきである。
 さらに、結句における指示語の「そう」は、上の句全体の「難解で読み応えのある論文集」を指しているのだが、詩歌は日常会話や論文でないので、指示語を用いることはできる限り避けるべきである。なお、指示語を使わずに同様な趣旨を表現する最も簡単な方法は、対象物を一つの文の中に入れることである。例えば、「~と君はわたしを呼びます」とでもすれば済む。
 最後に、「君」が「言う」とする表現には、君のわたしに対する感情が全く示されていない。すなわち、愛情も嫌悪も無く、さらには、中立と断定して良いかどうかさえも不明である。もし、愛情を込めて言うのであれば「君はささやく」等であり、また、扱いづらいと思っていれば「君は嘆く」等であり、あるいは、特に感情を持たなければ「君は呼ぶ」等であろう。
 以上の諸点を踏まえて、ここでは、作中の「君」が作中主体に愛情を込めて喩していると読んで、次のように詠む。
  難解だが読み応えのある論文と君はささやく私を見つめ
 ちなみに、ブログ主が掲題と全く同じ状況において詠んだ場合は、すなわち、他者詠みは次の通りである。なお、題の「読む」が直接詠まれていない点はご容赦されたい。
  この本は難しいけど面白い「君のようだ」とあなたは笑う
 なお、初句における「この」は指示語であるので、先ほど述べたことと矛盾しているように見えるだろう。ただし、これはもちろん、「あなた」が「君」に向けて、本を指で差しながら話している言葉である。そして、また、複数在る本の中で特定のそれを強調するために、すなわち、「あなた」にとって「君」が特別な存在であることを暗示するために置かれているので、絶対に削ることができないことをご理解されたい。

(評言)
 一行目から二行目に掛けての括弧書きされた部分、即ち「君はわたしのことを「難解で読み応えのある論文集」と呼んだ」は、「君はわたしのことを『難解で読み応えのある論文集』と呼んだ」と書き改める必要がありましょう。
 括弧書きされた部分に、更に引用文や会話文などの括弧書きする必要がある語句や文を挿入しなければならない場合は、「鳥羽省三はブログ主を『ばっかじゃなかろか?』と思っている」などと、挿入句を二重括弧書きしなければならないのであり、そのような日本語表現の常識も弁えていないような文章が満ち満ちているブログは、宇宙空間を彷徨うゴミとでも謂うべき存在なのかも知れません。
 ましてや、「まず、人を指して『難解』だと言えば、それは凡そ何を考えているか理解できない性格を述べており、同様に、『読み応えのある』と言えば、それは凡そ奥深く、波乱万丈で奇想天外な人生経験や人格を述べているだろう。すなわち、一見とっつきにくそうに見えながら、付き合ってみれば本当は面白いといった有り様を表している。もし、そうであれば、両者を明確に逆接する、例えば、『難解だが読み応えのある~』とすべきであろう」とまで評するに及んでは、言語道断としか言えません。
 また、それに続く「次に、『論文集』とは凡そ、学校における児童生徒や研究機関における研究者の複数人等が記述した論文を集めた冊子を指す。したがって、これをたった一人の人間である『わたし』を指して喩したならば、もし、それが多重人格といった有り様を述べようとしたのでなければ、作中における『君』は『わたし』に対する比喩的表現を些か誤ったと言える。ただし、これは掲題の作者の詠みではないので、このままでもよいのだが、もし、掲題において論文の単複にそれほど重心が無ければ、ここは『論文』と単数に済ませてよいだろう。あるいは、初句で「難解で」と宣言し、さらに、凡そ読解が困難なイメージを持つ文である『論文』と詠むのは、同じ意味を重ねてしまっているので、これを例えば『作品集』とすれば、凡そ個人の作家による著作物を指すので違和感が無いだろう」も、出鱈目極まりなくて言語道断の詮索であり、それ以下の文も亦、同様である。
 〔返〕  難儀して読む価値の無い駄文集 私は君をそのように言う  

(世田谷区・丹羽功)
〇  古事記読み神様の名は多くして前の頁の神の名忘る

(転載)
 掲題の歌意は、凡そ「古事記を読んでいると、神様の名前がたくさん出てくる。それで、前のページに出てきた神様の名前を、もう忘れていることだよ」である。
 まず、「古事記読み」や「神の名忘る」には格助詞の「を」が省略されており、正しい表現はそれぞれ「古事記を読み」および「神の名を忘る」である。そこで、格助詞を省略しない表現に、あるいは、格助詞を省略する必要のない表現に変更する。例えば、前者を「古事記には~」とすれば、「古事記を読んだら、そこには」という内容を表すことができるだろう。
 次に、「神」および「名」が二回登場するのだが、作者はリフレイン(繰り返し)の修辞技法を意図した訳ではないだろうことから、これを一回のみに直す。
 以上の諸点を踏まえて、改題を次のように詠む。
   古事記には多くの神が登場し読んだばかりの名前を忘る

(評言)
 「掲題の歌意は、凡そ『古事記を読んでいると、神様の名前がたくさん出てくる。それで、前のページに出てきた神様の名前を、もう忘れていることだよ』である」までの評言に就いては異論無し。
 但し、それ以下の部分(特に“格助詞”云々)に就いては、無用な詮索以外の何物でもありません。
 〔返〕  八百万神の名あまた在るなれば何が何だか解らぬ古事記

 
(横浜市・橘高なつめ)
〇  妹の日記を読んでいたある日「読むな」の太い文字現れる

(転載)
 掲題の歌意は、凡そ「昔々、私は妹の日記をこっそり勝手に読んでいた。ある日のこと、いつものようにそれを読んでいたら、「読むな」と太い文字で書かれた一文が現れる」である。
 さて、掲題を無理矢理「いもうとの/にっきをよんで/いたあるひ/よむなのふとい/もじあらわれる」と読めば、五句三十一音である。しかし、掲題は確かに三十一音ではあるが、決して五句定型の短歌ではない。強いて言えば、総音数が三十一音の短い現代自由詩である。すなわち、掲題は二行詩として下記のように書かれ、そして、読まれるだろう。
  妹の日記を読んでいた
  ある日「読むな」の太い文字現れる
 ところで、一行目が「読んでいた」と過去完了に書かれているのに、なぜ、二行目が「現れる」と現在形で書かれているのだろうか。ブログ主であれば間違いなく、「現れた」と韻を踏むように詠んだことだ。
 それはさておき、掲題を五七五七七の五句定型に、もちろん、歌意はできる限り変えないように変形する。なお、掲題は過去を回想して詠んだように見える。そこで、当ブログの読者の皆さんの中にいるご年配の方に、特にフォークソング・ファンの方に、「過去の回想」といったイメージを連想しやすいように、改題を工夫して次のように詠む。
  妹の日記をこっそり読んでたら或る日突然太字で「読むな」

(評言)
 掲歌は、必ずしも「NHK短歌」の入選作として称揚されるべき作品とは思われません。
 しかしながら、「ブログ主」の云々するところに就いて評すれば、全く以って言語道断の四字熟語で片付けられるべき性質の言い分でありましょう。
 〔返〕  妹の日記を読んだりする姉に婚約者など居るはずは無い


(川崎市・岩崎幸子)
〇  音読で孫が選んだ「ごんぎつね」何度聞いてもごんは死にます

(転載)
 掲題の歌意は凡そ「孫の通う小学校の国語の宿題に「音読(物語等を声に出して読むこと)」が出た。そこで、孫は「ごんぎつね」の物語を選んだ。そして、孫はそのお話を正しく読めているかどうかを私に聞かせて確認する。物語を何度聞いても、狐のごんは死んでしまう」である。
 新美南吉(1913-1943)の名作「ごん狐」の結末において、狐のごんは兵十に撃たれて死んでしまう。したがって、物語を何度聞いても当然、狐のごんは必ず死ぬ。さて、掲題の作者は下の句の「何度~死にます」にどのような思いを込めただろうか。例えば、「孫がユーモアとウィットをたまには働かせて、撃った玉が外れて、ごんは助かったといったお話に変えて読んだりしないだろうか」等と思ったかもしれない。
 なお、ブログ主は、作者の意図を「孫が音読をすれば、その回数分だけ、ごんが死ぬことを繰り返し聞かされるので、それは些か悲しいことだ」と読んだ。そこで、この思いをできる限り明確に表現するために、四句の「何度聞いても」を「読んだ数だけ」と変えてみた。なお、この変更によって作者が孫の音読を「聞く」という行為が消えてしまったので、代わりに上の句の「選んだ」の箇所を「聞かせる」に変更した。
 以上の諸点を踏まえて、改題を次のように詠む。
  音読で孫が聞かせる「ごんぎつね」読んだ数だけごんは死にます

(評言)
 他の入選作に就いて書かれた評文と比較した場合、それほど難点を指摘する必要の無い評文と言えましょうか?
 しかしながら、括弧内の引用文に二重括弧を使用していないなど、不勉強な中学生が書いたような未熟な文章ではある。
 〔返〕  老い我に孫が語れる『ごんぎつね』聴いた数だけごんは死ぬのだ 
 

(大阪府泉南郡・岡野はるみ)
〇  「見ないで」は「必ず見て」と読むのだと少女はいつから知るのだろうか

(転載)
 掲題の歌意は、凡そ「世の中で、特に、大人の女性が「見ないで」と言った、と記されていることは、本当は「必ず見て」といった反対の意味に読むものである。(それは例えば、「嫌よ嫌よも好きのうち」といった内容と似ている。)さて、今は未だ少女の君たちも、このような表現をいつ頃になったら知る(、そして、使う)のだろうか。(それは、いつか必ず知ることだ)」である。なお、掲題における「読む」は、例えば、「行間を読む」等の慣用句におけるそれと同様に、「解釈する」等の意味で用いられているだろう。
 さて、「いつから知る」といった言い回しについて、ブログ主は些か違和感を持つものである。
 まず、掲題における「知る」という行為が、つまり、或る事物を知覚認識した状態が、過去から現在までのいずれかの時点から始まっていることを表現したいのであれば、「から(英語では「since」)」という言葉には、現在形の「知る」ではなく、「知っている」あるいは「知っていた」と完了形で接続すべきである。
 次に、上述した時制では無く、タイムスケジュールや時間割等を表現する場合、例えば、「赤ん坊は生後○か月目から離乳食を食べる」のような表現の場合には、「から」に動詞の現在形の「食べる」が接続され得る。ただし、この場合の動詞は凡そ継続可能な動作や状態を表すものであって、「知る」のような知覚認識を表す動詞が接続するのは適当ではないだろう。例えば、「私は中学生になってから英語を学ぶ(習う、話す)」とは言い得ても、「私は中学生になってから英語を知る(見る、聞く)」とは凡そ聞かないことであって、後者の場合には、「いつ(の時点において)知る(見る、聞く)」とすべきであろう。
 結論としては、「いつから知っている」あるいは「いつ知る」のいずれかに変えることになる。ただし、掲題における作者の意図は、「少女がそのことを知る時期や年齢を知りたい」という疑問ではなく、「少女はいつか必ずそのことを知る」という事実にあるだろうと思い、改題では後者を明確に詠うこととしたので、上記のいずれの変更も結局用いなかった。
 また、掲題では、「~のだ」といった凡そ男性的で断定的な言い回しがリフレインされている。ただし、この表現は「少女」を詠った歌には凡そ相応しくないと考え、これを「こと」といった些か柔らかな言葉を繰り返すように変更した。
 以上の諸点を踏まえて、改題を次のように詠む。
  「見ないで」は「必ず見て」と読むことを少女はいつか知ることだろう

(評言)
 括弧の濫用、語句の不適切さ、及び論旨の混乱、不明瞭。
 到底読み続けるに堪えません。
 〔返〕  「見ないで!」少女は叫ぶ!私には「見てね!」と言ってるように聴こえる


(鹿児島県屋久島町・あさくらはるか)
〇  七五三の子らの名前の読み方を親に確かめ祝詞をあげる

(転載)
 掲題の歌意は凡そ「神社では七五三のお参りが賑やかである。受付では、子供たちの名前の読み方を親御さんにきちんと確認している。そして、神主は子供たちの名前を読みながら、祝詞をあげている」である。
 さて、掲題における一首のポイントは、上述した歌意には全く書かれていない。ブログ主が思うに、それは「最近のお子さんの名前には、キラキラネームといって、漢字からは全く想像もできない読み方をさせることが流行っている」という点である。ただし、掲題ではその点の表現が無いので、もし、読者がそういった最近の流行に疎ければ、上述した歌意そのままに読んでしまうことだろう。そこで、この点を明確に示して、改題を次のように詠んだ。
  七五三に難読の名の子が集い読みがなを振り祝詞をあげる
 ちなみに、元歌に詠われた同じ情景をブログ主が見て、全く白紙の状態から詠った場合には、次のようになる。
  着飾ってキラキラ光る七五三 神様ならばフリガナ要らぬ?
 それにつけても、短歌は難しい。それでも、短歌は明るく楽しく、そして、素晴らしいものだ。

(評言)
 「それにつけても、短歌は難しい」と仰る点に就いては、全く同感である。
 しかしながら、それに続く「それでも、短歌は明るく楽しく、そして、素晴らしいものだ」と仰る点に就いては、同感出来ません。
 日本語の表現に就いて、碌々知りもしないで「それでも、短歌は明るく楽しく、そして、素晴らしいものだ」とまで仰るとは、言語道断である。
 〔返〕  楽しみは他人の書いた短歌評茶々入れながら読むことである 

今週のNHK短歌から(12月8日放送・斎藤斉藤選・決定版)

2014年01月04日 | 今週のNHK短歌から
[一席]

(新発田市・渋谷和子)
〇  村に目立つ外国の人藻屑めく顎に秋陽を溜めて笑みかく

 所が新潟だけに、作中の「外国の人」は、中古車購入などの商談があって来日したロシア人と判断される。(笑)
 〔返〕  村に目立つ外国かぶれせし人の藻屑蟹めくもじやもじや頭  


[二席]

(茨木市・田辺榮一)
〇  korean?と聞かれてすぐにJapanese!強く答える我も外国の人
 「すぐにJapanese!強く答える」ところがいかにも日本人らしい。
 〔返〕  「korean?と訊くとは何と失礼な!」「正真正銘Japaneseなるぞ!」  


[三席]

(横浜市・清水峻)
〇  花のパリさぞや美人がと見回せど美人は真昼うろうろしない

 何が花のパリなもんですか!
 パリ暮らし8年の友の話に拠ると、「パリの第一印象は、犬の糞尿臭い街だということである。日本と同じように犬に散歩させているパリジャンやパリジャンヌが沢山いるが、彼らと私たち日本人との決定的な違いは、彼らには、自分の飼い犬が仕出かした糞尿の後始末を自分がしなければならない、という意識が決定的に欠けているということである。また、パリの街には煙草の吸殻がやたらに落ちていて、雨の降る日に歩道を歩いていたら、煙草の吸殻で黄濁した水が跳ねてズボンの裾を汚してしまうから、雨天の際の外出は絶対に避けなければならない」とか。
 また彼の話を拠ると、「巴里の街頭や地下鉄の車両内には。飛び切りの日本美人を女房にしている自分さえも振り向きたくなるような美人は確かにいる。しかしながら、私は、今の女房を棄てたり裏切ったりしてまでも、彼女たちと結婚したいとは思わないし、同衾したいとも思わない。何故ならば、彼女らの肉体は、パリの街頭を埋め尽くしている犬の糞尿の匂いで染められているのであり、その体臭の酷さといったら、鼻がひん曲がってしまうくらいなのである。パリの女が自分の身体や着衣に香水をやたらに振り撒くのは、そうしなければ糞尿臭くてたまらないからである」とか。
 〔返〕  体臭で鼻ひん曲がるパリジャンヌ香水掛けねば人とは会えぬ
      犬の糞踏んで歩くも花の巴里セーヌ汚れて入水魂胆(je suis content)


[入選]

(つがる市・松木のり子)
〇  注文を終へたるあとの安心や基地の家族に母国語もどる

 木造町の神武食堂に「基地の家族」たちがお客様として訪れ、「注文を終へたるあと」に安心感を抱くのは、食堂側もお客様側も同じことでありましょう。
 〔返〕  注文を貰った後の気安さに弥三郎節を歌って歓待

 
(龍ヶ崎市・倉野いち)
〇  おふくろの味を聞いたらラザニアと答える舌と対峙している

 「舌と対峙している」とは、真にシニカルな言い方である。
 でも、「おふくろの味がラザニア」と言われたぐらいで驚いたりしてはいけません。
 驚く勿れ、私の二人の息子たちにとっての「おふくろの味は生キャベツである」とか。
 今の我が国には、「生キャベツにブルドックのとんかつソースをかけたのが、たった一つのおふくろの味だ」と思っている可哀そうな子供が沢山いるんですよ!
 〔返〕  おふくろの味を訊いたら冷奴大蒜おろしをたんまり掛けて


(瑞浪市・西尾文夫)
〇  外国の観光客に殊の外おもてなしとて折り紙指導

 「外国の観光客」相手に「折り紙指導」とは、「殊の外」に元手要らずの「おもてなし」なのかも知れません。
 〔返〕  折り紙は中国製で105円殊の外なるおもてなしなり


(名古屋市・田中稔員)
〇  金髪の人隣席に座したれば我が半身の意識がそよぐ

 「金髪」を珍しがっていて、よく名古屋に住んでいられますね?
 〔返〕  金髪の美人が隣に座ったら我が下半身自意識過剰
      名古屋嬢隣の席に座ったら味噌カツ丼の匂いぷんぷん


(新見市・小川みや子)
〇  ゆきずりにアメリカ人らしき人と会う英語教師かと振りかえりみる

 掲歌の作者・小川みや子さんがお住いの新見市は、「岡山県の西北部、吉備高原上に位置する市である。北は中国山地を介して鳥取県に、西は広島県に接する」とか。
 「ゆきずりにアメリカ人らしき人」を目にすれば、即「英語教師か」と思うとは、中国山地のど真ん中の新見市民に相応しい素朴な発想である。
 〔返〕  ゆきずりのアメリカ娘と出来ちゃってシアトル暮しの友より賀状


(鹿児島市・郷戸格)
〇  中国の友は母国の論を説きかなしくなるほど水餃子食む

 喋りたいだけ喋らせている他無し!
 〔返〕  自国製水餃子食み自国製論旨ぺらぺら喋り捲って

今週のNHK短歌から(12月1日放送・小島ゆかり選・決定版)

2014年01月03日 | 今週のNHK短歌から
[一席]

(徳島県北島町・重川敏子)
〇  無口な子今日は怒っている無口吹っ切るように鞦韆を漕ぐ

 「無口な子」の無口振りにもいろいろなスタイルがあって、「今日」の場合は、自分自身の「無口」を「吹っ切るように」して「鞦韆を漕」いでいるのであるから、自分自身の不甲斐なさを「怒っている」スタイルの「無口」であろう、と掲歌の作者・重川敏子さんは判断しているのでありましょう。
 「無口な子」にそれとなく注いでいる、作者・重川敏子さんの温かく優しい視線が感じられる佳作である。
 〔返〕  無口な子今日はぶらんこ漕ぐ気ない暗くなっても家に帰れぬ


[二席]

(文京区・市岡和恵)
〇  新しい靴が踏まれた総武線たぶん私は無理をしている

 「総武線」という、極めて特色のある路線の車内風景を活写すると共に、その沿線に住み、通勤にその路線を利用せざるを得ない、作者自身の遣る瀬無い心理状態をも描写した作品である。
 田園都市線や半蔵門線などの他の路線の乗客たちと比較すると、埼京線や総武線の乗客たちは、先を争って座席に掛けようとするし、混雑した列車の中で他の乗客の靴を踏んだりしても、決して謝ろうとしないのである。
 文京区内にお住いになられ、朝晩の通勤に「総武線」を利用している、掲歌の作者・市岡和恵さんは、なけなしの金を叩いて「新しい靴」を買ったのであるが、ある朝、あろうことか、その「新しい靴」を履いて「総武線」の乗客となってしまったのである。
 客観的に判断すると、その結果は予想通りであったのであるが、当日のご当人の気持ちからすれば意外なことに、なのかも知れませんが、彼女の「新しい靴」は、他の乗客たちの遠慮会釈の無い泥足の格好の餌食となってしまったのである。
 「たぶん私は無理をしている」とは、見るも無残な姿となってしまった「新しい靴」と、真っ赤に膨れ上がったおみ足を前にしての、作者の反省の弁でありましょうが、「遅かりし由良之助」とは、こうした場合に口にするセリフでありましょうか?
 〔返〕  貞操が幾つ在っても成田線振り向きざまにスカート切らる 

[三席]

(さくら市・大場公史)
〇  赤飯にたっぷり胡麻を振るように夕焼け空に無尽の鴉

 見立てが宜しくありません!
 「夕焼け空」に「無尽」に飛んでいる「鴉」を、「赤飯にたっぷり」振った「胡麻」に見立てるとは、何たる不作法でありましょうか!(なんちゃったりして・笑)
 〔返〕  焦げ飯に冷えたカレーを掛けたようプラツトホームに酔客の反吐


[入選]

(苫小牧市・秋山輝義)
〇  廃線となりたる跡に「幸福」駅と呼ばれし無人の駅舎残れり

 「幸福駅とは、北海道帯広市幸福町にあった日本国有鉄道・広尾線の駅であったが、広尾線の廃線に伴い昭和六十二年(1987)二月二日を以って廃駅となったのである。しかしながら、駅名の縁起の良さから乗車券や入場券などが観光客の羨望の的となり、廃止後も観光地として整備されている」といった説明が為されるのでありましょうが、北海道内にお住いの作者からすれば、往時の面影も虚しくして、その実態は「廃線となりたる跡に『幸福』駅と呼ばれし無人の駅舎残れり」といったことに成り果ててしまったのでありましょう。
 発想そのものは有り触れたものであるが、北海道民としての実感が込められている一首でありましょうか?
 〔返〕  廃線を面影求めて彷徨えば幸福駅は幻想の駅
 

(川口市・豊田トヨ子)
〇  兼題の無は面白く身近にも無鉄砲居て無頓着も居る
 
 掲歌に接した機会に、一つだけ勉強させていただきました。
 と言うのは、手元に置かれている辞書に拠ると、掲歌中の「兼題」とは、「《兼日の題の意から》歌会・句会などで、題を予め出しておいて作るもの。また、その題。⇔席題」という解説が為されているのであり、この言葉自体は、私もとっくの昔から知ってはいたのでありましたが、最近、各地で行われている歌会の場に於いては、当日に主宰者側から示される「兼題」を、敢えて「兼題」と呼ぼうとしないで、「お題」などという、「格式ばった」と言うか、「乙女チックな」と言うか、妙に不潔で不健康な言い方をしているのであり、私は、その度ごとに、その場に居た堪れないような思いに捉われていたのでありました。
 そういう訳で、私は今日から「兼題」という言葉を人前で誰に遠慮することも無く、使ってみようと決意した次第でありました。
 「兼題」という言葉を私に思い出させ、私に使わせる決意をさせて下さった、埼玉県川口市の豊田トヨ子さん、この度は真に有り難うございます。
 一期一会ならぬ「一語一会」の御恩、私は決して忘れはしません。
 感謝感激に浸っているのはこれくらいにして、そろそろ本題に戻りましょうか。
 本日の「兼題」とされている「無」の一字は、「兼題」として面白いか面白くないかは別として、私たちの身の周りには、「無頓着・無節操・無気力・無感動・無責任・無器量・無定見」といった、接頭語として「無」の一字を戴いた人物や事象がごまんと在るのである。
 しかしながら、掲歌の作者の謂う「無鉄砲」な人物は、非常に少なくなってしまったのか、或いは皆無になってしまったのでありましょうか?
 一見すると、昨今の安倍総理大臣閣下の一連の行為などは「無鉄砲」極まりない行為のようにも思われますが、彼の行為は「無鉄砲」と言うよりも、むしろ「無節操・無責任・無定見」極まりない行為と言うべきでありましょう。
 かくして、私たちの身の周りから「無鉄砲」な人物が消え失せてしまいましたが、「無鉄砲」な行為をする人物は、夏目漱石の昔物語の中にしか存在しないのでありましょうか?
 〔返〕  無鉄砲なら許せるが無節操馬鹿丸出しの江田新党か


(川越市・小野長辰)
〇  学校は行きたくないし行きたいしごちやごちやだよと言ふ一年生

 「ごちやごちやだよ」とは、まさしく至言である。
 昨今の一年生(のみならず、教師も亦)の心境は、「学校は行きたくないし行きたいし」「先生は好きでもあるし嫌いでもあるし」「ごちやごちやだよ」なのである。
 その「ごちやごちや」したところの内容を細やかに分析して、対応するのが校長の職務なのであるが、世に謂う「校長」の殆どは「無節操・無責任・無気力・無器量・無頓着・無定見」極まりない輩であるから、彼らに期待して居ては、事態は何一つ解決しないのである。
 〔返〕  恰好は付けたくないし付けたいし卒業式の校長訓話


(千葉市・熊谷貢)
〇  連れ歩く母はもう無し街路樹の日向づたひに落葉ふむ音

 「老老介護」の場面を回想しての一首でありましょうか?
 作中の「落葉ふむ音」は、作者自身の「落葉を踏む音」というよりも、幻影の中の「母」の「落葉を踏む音」なのかも知れません。
 〔返〕  吾を牽くクロも亡くなりもう三月 日向伝いに杖突き歩む


(福岡県篠栗町・末松博明)
〇  ファミレスの真後ろの席の老人は「詮無いこと」と繰り返すなり

 今更悔やんでも詮無いことでありましょう。
 独り暮らしの老耄になってしまったことも、退職金を使い果たしてしまったことも、道を歩いていて若い女の子のぶつかりでもしようものなら、「この糞じじい!いい年して、ふらふらすんなよ!」と叱り飛ばされてしまうことさえも、家に帰っても灯り一つ点っていないことさえも。
 〔返〕  市営バスの後ろの席の女高生「メール来ない!」と呟いている


(小城市・野中暁)
〇  みんなからちょっぴり離れていたいだけ用なきトイレにゆっくりと行く

 「お茶する」という言い方は在っても、「トイレする」という言い方は在りません。
 だけれども、「みんなからちょっぴり離れていたいだけ」の時には、「用なきトイレにゆっくりと行く」ことも有り得ましょうから、「お茶する」という言い方と共に「トイレする」という言い方も在って欲しいものである。
 〔返〕  小田急のバスの吊革にぶら下がりウルトラCをやらかす祖母よ

今週のNHK短歌から(11月3日放送・小島ゆかり選・決定版)

2013年11月06日 | 今週のNHK短歌から
[一席]

(豊中市・岡野大嗣)
〇  あまびこの自動音声に導かれしんと済みゆく生前予約

 「あまびこの」は、「音」「音羽」「訪れる」など「おと」という音(おん)を伴った語に係る枕詞である。
 その係り受けの関係を説明する次の通りになる。
 即ち、「『あまびこの(天彦の)」の『天彦』は『山彦』つまり『こだま』と同義語であり、そこから必然的に『音(おと)』という語や音(おん)が導き出され、結果的には、『あまびこの』が『音』『音羽』『訪れる』といった語の枕詞になったのである」と。
 それはそれとして、作中の「生前予約」とは、未だご存命の作者ご自身の葬儀を生前に予約する事を指して言うのであり、本作の意は、「(何事もコンピューターに拠って進められて行くのが、当世流であるから、)『自動音声に導かれ』『しんと』して何事も無く済んで行く、私の葬儀の『生前予約』である」といったことになりましょう。
 〔返〕  朝採れの法蓮草を炒めれば昼の食事の一品になる  鳥羽省三


[二席]

(千葉市・谷川保子)
〇  産声を聞けば母乳が噴き出して我の体はリズム感良し

 私が学童であった頃は、「年若い農婦が田圃の畦道で大きな乳房を丸出しにして赤ん坊に授乳している」といった光景がごく当たり前のようにして見られたものであったし、それはそのまま、彼女らの人間性の、女性性の健康さの証しでもあったのである。
 然るに、「昨今の若い母親は、胸の谷間の深さを誇るかの如き透け透けの服を着て、敢えて人前に出没するかと思うと、自分の産んだ赤ちゃんに授乳している場面を、舅や姑には勿論、自分の夫や子供にさえも見せない」といった矛盾した振る舞いを示しているのである。
 こんなことを書いていると、「鳥羽の爺は、またあられも無いことを抜かしおって!幾つになっても馬鹿は馬鹿である!」などという声が、讃岐の粟島辺りから聞こえて来そうな気がするのである。
 ところで、本作は、そんな愚かな評者をして「何も、ここまで詠まなくても・・・・」と、慨嘆せしむるが如き痛々しくもあられも無き作品である。
 短歌は「詠めば良し」というが如きものではありません。
 「自分の女性性を隠さず曝け出せば宜しい!」といった性質のものでもありません。
 「産声を聞けば母乳が噴き出して」来る、といった事は、作者ご自身の女性性についての確かな認識であり、確かな発見でもありましょう。
 百歩譲って申せば、母性本能の発露なのかも知れません。
 だからと言って、それを敢えて人前に曝け出して「我の体はリズム感良し」などと口に出し、霰も霙も無いような振る舞いに及ぶとは「とんでもハップン」。
 小説『自由学校』の作者にして文化勲章受章者の獅子文六(本名・岩田豊雄)氏が谷中霊園の墓所から化けて出ましょう。
 物事には節度というものがありましょう。
 短歌とてその例外ではありません。
 本作と、あの「自己の女性性を赤裸々に詠んだ」と評価されている、中城ふみ子の諸作品とを比較する時、前者の文学センス及び人間性の欠落は明らかでありましょう。
 この作品は、母性本能に名を借りたストリップショーではありませんか!
 斯かる作品は、詠む方も詠む方であるが、採る方も採る方である。 
 選者の小島ゆかり氏は、未だ人間としての、女性としての成熟度が不足しているのである。
 頼まれもしないのに、我が家の六十吋テレビの画面に毎月一度顔を現し、それが魅力の歯を剥き出しにして「ケタ、ケタ、ケタ」と笑うのは「百年早い」というところでありましょう。
 〔返〕  「産声を上ぐれば父母が喜ぶ!」と我が嬰児の思ひしならむ?  鳥羽省三          <注> 嬰児(みどりご)  
 

[三席]

(西海市・まえだいっぽ)
〇  蚯蚓にも亀にも秋にさえも声あると言い張る俳句歳時記

 「(蚯蚓にも亀にも秋にさえも声あると)言い張る俳句歳時記」とした、ユーモアセンスが買われたのでありましょう。
 因みに「蚯蚓鳴く」は秋の季語である。
   童子呼べば答なし只蚯蚓鳴く   正岡子規
   蚯蚓鳴く六波羅蜜寺しんのやみ  川端茅舎
   縁あつて地球に生まれ蚯蚓鳴く  今瀬剛一
   彼女とはもう過去のこと蚯蚓鳴く 稲畑廣太郎
   考へのつゞきは夢で蚯蚓鳴く   稲畑汀子
   蚯蚓鳴く夜の生温かき乳房抱く  浜芳女
   陸奥の短しといふみみず鳴く   山口昭義
 また「亀鳴く」は春の季語である。
   亀鳴くはきこえて鑑真和上かな  森澄雄
   締切は斯くも動いて龜鳴けり   中原道夫
   亀鳴いて世の中丸くなりにけり  木村淳一郎
   亀鳴くをききたくて長生きをせり 桂信子
   亀鳴くを信じてゐたし死ぬるまで 能村登四郎
   亀鳴くや月暈を着て沼の上    村上鬼城
   税すこし戻るはずなり亀鳴けり  千田百里
 〔返〕  「亜紀泣く!」と妻が言うから止しちゃった宵の九時では幾らなんでも  鳥羽省三


[特選]

(福島市・米倉みなと)
〇  兄弟はこうまで声も似るものか亡き人からの電話に、息のむ

 実感の伴った作品ではあるが、その実、「『亡き人』の弟さんからの『電話』であった」という結論の見え透いた仕掛けになっている作品でもある。

 〔返〕  京大はこうまでレベルが高いのか?光森裕樹は京大出身!  鳥羽省三

  鈴を産むひばりが逃げたとねえさんが云ふでもこれでいいよねと云ふ
  われを成すみづのかつてを求めつつ午睡のなかに繰る雲図鑑
  花積めばはなのおもさにつと沈む小舟のゆくへはしらず思春期
  しろがねの洗眼蛇口を全開にして夏の空あらふ少年
  ゼブラゾーンはさみて人は並べられ神がはじめる黄昏のチェス
  致死量に達する予感みちてなほ吸ひこむほどにあまきはるかぜ
  六面のうち三面を吾にみせバスは過ぎたり粉雪のなか
  友の名で予約したれば友の名を名告りてひとり座る長椅子
  自転車の灯りをとほく見てをればあかり弱まる場所はさかみち
  手を添へてくれるあなたの目の前で世界をぼくは数へまちがふ
  ドアに鍵強くさしこむこの深さ人ならば死に至るふかさか
  大空の銃痕である蜘蛛の巣をホームの先に今朝も見上げつ
 
 上掲の十二首は、いずれも光森裕樹の第一歌集『鈴を産むひばり』から転載させていただいたものである。
 平成の世は、そして私は、このような作品を若き歌人たちに要求しているのである。


(新発田市・渋谷和子)
〇  酒を酌む夫と息子は酔ふほどに同じ声して同じこと言ふ

 本作の作者の「夫と息子」に限らず、「酒を酌む」男どもは「酔ふほどに同じ声して同じこと言ふ」ものである。
 それにしても、新潟の酒の美味しいことよ!
 〔返〕  「にごり酒・五郎八」二升三千円(楽天優勝・特価販売)  鳥羽省三


(豊田市・塩谷美穂子)
〇  面会後の数日は我を呼ぶ母の声がかならずうしろからする

 「面会後の数日は」と断わったのも宜しいが、「かならずうしろからする」と断わったのは更に宜しい。
 〔返〕  お見舞いもせずに退院されたから病気したこと知らぬふりする  鳥羽省三


(高石市・金井弘隆)
〇  ひと声の五輪開催都市を聴く世界の耳と同時の耳で

 まさしくひと声、「トーキョオー」とのみ聴こえました。
 但し、その声を私たち日本人が「世界の耳と同時の耳で」で聴いたのかどうかは判然としません。
 何故ならば、世界の総人口・七十数億の大多数は、2020年の「五輪開催都市」が何処に決まろうと自分たちの今日の暮らしに関わりが無いはずであり、詰まるところ、あの場面に注視していたのは、おそらく、日本人を含めて僅かに二億人足らずのものであっただろうと思われるからである。
 〔返〕  「トーキョオー」とひと声耳にしただけで数百億の円が動いた  鳥羽省三
 否、むしろ、「円が動いた」と言うよりも「弗が動いた」と言うべきかも知れません。  


(神戸市・伊藤絹子)
〇  間のびせる鴉の声を聞きながら今朝のオムレツふっくら焼けた

 「今朝」の「鴉の声」を「間のびせる(声)」と聞いたのは、気持ちに余裕があるからでありましょう。
 気持ちに余裕があればこその「今朝のオムレツふっくら焼けた」でありましょう。
 「鴉の声」どうこうの問題ではありません。
 〔返〕  早起きは三文の得とはよく言った今朝のオムレツふっくら焼けた  鳥羽省三


(生駒市・西田義雄)
〇  カテーテル入りますよと医師の声冷たき空気動き始むる

 「カテーテル入りますよ」との「医師の声」で以って、「冷たき空気動き始むる」のは当たり前のことである。
 何故ならば、私たち庶民にとっての「カテーテル」に拠る「治療」乃至「検査」は、地獄の手前の三途の川を渡るようなものだからである。
 それにしても、五句目の七音を「動き始める」としないで「動き始むる」としたとは・・・・・・。
 〔返〕  「カテーテル入りますよ」と軽く言う医師にとっては日常茶飯事  鳥羽省三

今週のNHK短歌から(10月6日放送・小島ゆかり選・決定版)

2013年10月07日 | 今週のNHK短歌から
[一席]

(堺市・林龍三)
〇  台風の過ぎ行く雲の晴れ間より友よぶ子どもきらめき出づる

 「台風の過ぎ行く雲の晴れ間より」「きらめき出づる」「子ども」とは、「台風の落し児」みたいな子供であるが、その子供さえも世間並に仲間を欲しがる子供、即ち「友よぶ子ども」なのである。
 〔返〕 台風の過ぎ行く時の狭間より顕れ出でし風の落とし児  鳥羽省三


[二席]

(オーストラリア・樋口強)
〇  高三の十月十日の一日は心に残る晴れの日なりき

 「十月十日」と言えば、今から49年前の1964年(昭和39年)の「十月十日」を指して言うのであり、丁度その日は、第十八回夏季オリンピックの開会式が明治神宮外苑の陸上競技場で行われた当日である。
 奇跡的に晴れ上がったあの晴天は、評者にとっても決して忘れることが出来ません。
 〔返〕  正しくは「国立霞ヶ丘陸上競技場」未だ忘れずあの晴天は  鳥羽省三


[三席]

(栃木市・佐藤聖子)
〇  水を替えぱっと晴れたる水槽に赤黒金の金魚を放つ

 「ぱっと晴れたる水槽」とは、まるで魔法使いか手品のようである。
 その魔法使いか手品のように、「ぱっと晴れたる水槽」に「赤黒金の金魚を放つ」とは、これ亦、魔法使いか手品のような見事な手捌きである。
 〔返〕  手品師がぱっと晴れたる秋空にパラグライダー見事に放つ  鳥羽省三
      将軍様がぱっと晴れざる海峡に弾道ミサイル無闇に放つ 


[入選]

(吉川市・猫丘ひこ乃)
〇  晴れている音が聴こえぬ街じゅうを見下ろして待つ面接怖い

 動作主体は、迫り来る「面接」の怖さに慄きながら、「街じゅうを見下ろ」す屋上に震えながら佇んで居るのである。
 今の彼女が知覚可能な事柄と言えば、「(今日の空が)晴れている」事と「(彼女の耳に何一つ)音が聴こえぬ」事ぐらいのものである。
 以上の条件から推測するに、彼女は今回の「面接」試験にも失敗するに違いありません。
 〔返〕  雨が降る足下ぬかるむもう駄目だ敗戦投手間違い無しだ  鳥羽省三


(足立区・長峯雄平)
〇  天晴が口癖の祖父今日もまた天晴と言い入れ歯を飛ばす

 「天晴と言い入れ歯を飛ばす」とは、実に天晴なジイジであることよ!
 〔返〕  落語家で手癖の悪い小遊三が天晴見事に座布団十枚  鳥羽省三


(日野市・柿沼敏夫)
〇  青信号に攻め込むごとく人急ぐ朝からかっと晴れ上がる空

 「青信号に攻め込むごとく人急ぐ」とは、まさしく真に迫れる描写である。
 「空」が「朝からかっと晴れ上がる」とは、今日も猛暑日なのかも知れません。
 お身体には、くれぐれもお気を付け下さい。
 〔返〕  今日もまた熱中症にならぬよう水道水をがぶがぶ飲もう  鳥羽省三


(横浜市・水野真由美)
〇  秋晴れの青の絵の具を垂らしつつ一人静かに居る美術室

 「ちえっ、あの女、ブスのくせして恰好付けちゃってさぁ!」なんて言葉が、何処かから飛んで来そうな気がする。
 「ブスのくせして」という付け足しは、勿論、僻み根性から出た言葉でありましょう。
 〔返〕  チューブ入り白の絵の具を垂れ流し雪景色とは洒落てやがんな  鳥羽省三


(川崎市・水澤優岸)
〇  はればれと泣けぬ女に夏木立しんしん語りつづけてゐたり

 「しんしん語り」とは「一単語」であり、勿論「名詞」である。
 〔返〕  杉木立 泣けぬ女に懇懇と涙の出どこ説明し居り  鳥羽省三


(豊田市・山村博保)
〇  秋晴れの峡の空へと立ち上がる裏谷分校組み立て体操

 「裏谷分校」の「組み立て体操」ならば、高学年児童の総員十名ぐらいの規模のそれと思われ、さほどの危険も感じられない事でありましょう。
 組み立て上がった状態をよくよく観察してみたら、それは村の半鐘柱ぐらいの高さであった。
 〔返〕  秋晴れの峡の底から湧き上がるとても冷たき霊気なるかも  鳥羽省三

今週のNHK短歌から(9月15日放送・永田和宏選)

2013年09月30日 | 今週のNHK短歌から
[一席]
(杉並区・荒川流美)
〇  板の間の隙間に詰まる君が爪小さき欠片を楊枝に拾ふ

 同じ「欠片」でも大まかな「欠片」は手掴みで拾って何したのであるが、それだけでは満足しなかったので、その後、「小さき欠片を楊枝に拾ふ」という運びになったのでありましょう。
 ところで本作の場合は、作中主体(=作者)が、今、自分自身が厳然として行っている事柄を描写しているだけであり、自分がしている事の意味も、それを行っている時の自分の心理状態も説明していないのであるから、それ以上の事は、鑑賞者の鑑賞能力に委ねられているのである。
 という事は、先に私が示した「同じ『欠片』でも・・・・・云々」は、鑑賞者たる私の勝手な憶測を述べたまでの事であり、それが正しいかどうかの判断は、本文の読者の判断に委ねられているのである。
 しかしながら、本質的に勝手な憶測を述べる事で成り立つはずの本作の鑑賞を、憶測すらしないままで、私が勝手に中止してしまったら、私は、鑑賞者としての責任を果たせないことになり、何時如何なる時に、その責任を追及されて詰め腹を切らせられる事態が生じるかも知れません。
 其処で、今しばらくの間は、曲解を恐れずに勝手ながら手前勝手な憶測をこのまま述べ続けさせていただきます。
 先ず、先に私が述べた「何した」について考えてみると、本作の作中主体は、真実「何をした」のでありましょうか?
 本作の作中主体は、「板の間の隙間に詰まる君」の「爪」の「小さき欠片を楊枝」で拾い集めて「何をしようとしている」のでありましょうか?
 通常、エロ小説などの描写場面で、作者が「何した」と書く場合は、「セックスをした」とか「接吻をした」とか「愛撫をした」とかに決まっていますが、本作の作中主体の場合の「何した」は、その類の「何した」とは明らかに異なっていて、「たまの休みに、ご亭主が暇潰しに爪切りをした後、そこいらじゅうに散らばっている爪の欠片を片づけもしまいまま、再びごろ寝を始めてしまったので、件のご亭主の配偶者としての作中主体が、その後始末をしているだけの事」なのである。
 と言う事は、本作の「創作意図」乃至「目的」が、「当ブログの読者諸氏の大多数がご期待なさって居られるような、隠微な出来事の大胆な描写にあるのではない」という事になる。
 でも、それだからと言って、当ブログの読者諸氏は、あんまり愕然としないで下さい。
 ところで、本作の作者は、東京都杉並区にお住いの荒川流美さん。
 察するに、荒川流美さんの生まれ在所は、元々、あの寅さんの生まれ在所と同じ「葛飾区柴又」では無かろうか、と、本文の執筆者の私は、たまたまならぬ、またまた勝手な憶測をしてしまうのである。
 〔返〕  荒川で産湯を遣った流美さんが杉並区にて爪拾いする   鳥羽省三


[二席]
(三郷市・川原晴恵子)
〇  じりじりと爪噛む女性がうつされるウインブルトンのファミリーボックス

 「ウインブルトンのファミリーボックス]と仰るからには、本作の題材となったのは、テニスの四大国際大会の一つである、あのウィンブルドン選手権が行われる芝生のテニスコートの内部の出来事では無く、その観客席での出来事でありましょう。
 その点を弁えたうえで、本作の題材となった光景について述べると、凡そ次の通りである。
 即ち、「彼のウィンブルドン選手権が行われている芝生のコートを見下ろすファミリーボックスの中に居て、今しも、一人の女性が爪を噛んでいるのである。ところが、その女性の何気無い仕草が、一台のテレビカメラに拠って「じりじりと」余す所無く映し出され、彼の爪を噛む女性の仕草は、世界各国、一億人以上のテニスファンの目前に曝されようとしているのである」となる。
 テレビカメラってなんて意地悪な文明の利器でありましょうか!
 本作に接して、私・鳥羽省三は、文明の利器たるテレビカメラに対して激しい怒りを感じると共に、一方ならぬ嫌悪の情をも覚えました。
 ところで、詠い出しの五音として置かれた副詞「じりじりと」は、直後の連文節「爪噛む」を修飾すると共に、その後の「(女性が)うつされる」をも修飾するのでありましょうか?
 だとすれば、本作の作者は、なかなか効率の良い言葉遣いをしている事になりましょうが、私が思うに、「じりじりと」という副詞は、切迫した事態を強調して述べる場合に使うべき副詞であるので、「ウインブルトンのファミリーボックス」に居て、テニスゲームを見ている女性客が「爪」を噛んでいる様子を述べる場合に、その何気無い仕草を修飾しようとして「じりじりと」という副詞を使うのは、やや不適当かと思われるのである。
 作者の川原晴恵子さんに於かれましては、如何でありましょうか?
 三歩退いて熟慮してみるに、件の女性が「爪」を「噛む」のは、芝生のコート内で展開されているテニスの試合の去就が気になり、「じりじりと」焦っているので、その代償行為としてなのかも知れません。
 〔返〕  じりじりと夏が焼け行く匂ひしてテニスコートは爆破寸前   鳥羽省三


[三席]
(岡山市・安藤兼子)
〇  爪無きこと選びし蛙の吸盤がぺたぺた登る散水の先

 あの田圃の「蛙」は、「爪」が無い状態で生きて行く事を敢えて自ら選択してまで、この世に「蛙」として現れ出でたのでありましょうか?
 また、不肖・鳥羽省三の連れ合いのS子は、この出来の悪い私と生活を共にする事を敢えて選択してまで、この世の中に一人の女性として現れ出でたのでありましょうか?
 本作に接して、私・鳥羽省三は、そんな事まで考えてしまったのであり、その結果として、先刻から、愕然たる思いに捉えられているのである。
 それにしても、「爪無きこと」を敢えて選んでこの世に蛙として現出した、その蛙が、爪の代わりとして自ら選んだ生活道具であり手段である「吸盤」を用いて、「ぺたぺた」と音を立てて、庭に置かれている「散水」ホースの「先」まで登って行く光景は、あまりにも傷ましく哀れな光景である。
 私の連れ合いのS子は、特価販売の味噌「料亭の味」を入手しようとして、この残暑の盛りに、片道約二キロメートルの距離に在るスーパーまで、徒歩で出掛けたのである。
 「この頃、運動不足で少し体重が増えたみたいだから、体重を減らす為のトレーニングみたいな気分で歩くのだから、気にしないでね」と彼女が言ったから、私は、彼女が徒歩で買い物に出掛けることを気にしない事にしたのではあったが、「爪無きこと選びし蛙」と同様に、彼女の歩行での買い物も、私にとってはなかなか哀れではある。
 〔返〕  ぺたぺたと音を立ててるサンダルの音に気付けばS子の帰宅   鳥羽省三


[入選]
(仙台市・小野寺寿子)
〇  爪の字を瓜と違えて書きし短歌(うた)瓜がよろしと入選したり

 本作を読んだとしたら、「そんな事って本当にあるのかしらん?わたし、信じらんない!」と、今年、中一の孫娘ならきっと言うに違いない。
 〔返〕  「爪に爪無く瓜に爪有り」とふいにしへの教へ有り難き哉   鳥羽省三


(日高市・横田武志)
〇  鷹爪ちぎって入れれば夏の味麻婆豆腐は親爺のレシピ

 この広い世間には、「たんたん短歌」や「かんたん短歌」が在るので、それと同様に「簡単レシピ」も在るはずであり、それがいつの間にか「親爺のレシピ」になってしまっていた、という訳でありましょう。
 世の親爺族とすれば、何時如何なる時に、女房族から放っぽり出されるかも知れないから、「簡単レシピ」ぐらいは身に付けて置かなければならない、という訳なのでありましょう。
 〔返〕 レタスの葉指で千切って湯で解いた味噌に放てばレタスの味噌汁   鳥羽省三
 先日、NHK総合テレビの昼の番組を観ていて知ったことですが、高原野菜の本場の野辺山高原の農家の主婦は、「レタスの味噌汁」という簡単レシピをお手の物としているそうです。
 その日の夕飯時に、早速、我が家でも「レタスの味噌汁」を作ってみたのでしたが、パリパリしていて案外美味しかったんですよ。


(横浜市・水野真由美)
〇  「待つ」という時間の甘さふくませて爪にゆっくり塗る茜色

 本作の作者の方は、「水野真由美」という、いかにもお美しそうなお名前からして、水商売に従事なさっておられるのかも知れません。
 それにしても、「『待つ』という時間の甘さ」との五七句の、何という巧みで美しくロマンチックな表現であることよ!
 その「甘さ」を「ふくませて」、「爪」を「ゆっくり」「茜色」に染めてご出勤なさったならば、どんなに志操堅固な男性でもイチコロになってしまうに違いありません。
 〔返〕 横浜で真由美という名で出ています阿仁の酒場じゃお熊でしたの   鳥羽省三
 上掲返歌中の「阿仁」とは、秋田県は県北の辺陬の地の名称であり、「阿仁のマタギ」と言えば、「知る人ぞ知る」といった存在であり、彼の地には、一昨年ぐらいまでは「熊牧場」と称する私設の観光施設が存在していたのでありましたが、その後の、その施設の帰趨は私には判りません。
 ところで、その僻陬の地の阿仁にも酒場らしきものが何軒か存在し、その昔、その施設に寝起きして居て、懐に大枚の紙幣を入れて通って来る「阿仁のマタギ」諸氏のお相手を仕る社交嬢たちは、己が醜名を「お熊」だとか「お鹿」だとか等と、戯れに名乗っていたとの事。
 その真偽の程は、私にも判然としません。


(横浜市・横森幸夫)
〇  残業で時どき遅刻の夜学生爪の中まで機械油染みて

 本作に接した瞬間、それまで私の胸底に眠っていた一つの記憶が突如蘇って来ました。
 それは、今から半世紀以上前の出来事でありますが、その年の「歌会始の儀」の入選作の一つとして、確か「夜学ぶ我が子らはみな火の匂ひ鉄の匂ひをさせて集ひ来」といった内容の作品が選ばれ、翌日の朝日新聞に掲載されていた、という記憶である。
 しかしながら、そのままの形では「歌会始の儀」の入選作品として相応しい作品とも思えませんから、その原型を、私が此処に正しく記すことは出来ません。
 その作品の作者の方は、東京都内の夜間高校にご勤務なさって居られる教師の方であったようにも記憶しておりますが、そちらの方も確かな記憶とは申せません。
 つきましては、当ブログの読者の方の中で、件の作品及びその作者に就いて、何らかの事をご存じの方が居られましたら、何卒、このブログのコメント欄を通じて、私にご教示賜りたくお願い申し上げます。
 〔返〕  馬場さんも三枝さんも勤めてた夜間高校いまに何処に   鳥羽省三
      吾もまた夜間高校に勤めてたその頃短歌に興味が無かった


(桜井市・中嶋隆男)
〇  縁側で独り爪切る姿あり我が亡きあとの君の姿か

 作中の「縁側で独り爪切る姿」は、本作の作者の幻視、或いは幻想だったのでありましょうか?
 だとすれば、私は、本作を「縁側で独り爪切る姿見ゆ汝が亡き後のまぼろしに見ゆ」などと改作したいという思いにも捉えられるのである。
 何故ならば、「縁側で独り爪切る姿あり」と詠んだ後、それに続けて「我が亡きあとの君の姿か」とまで詠んでしまうと、其処に駄目押し的な表現、即ち、二重表現的な思いが残ってしまうからである。
 〔返〕 縁側で爪切る我の姿見ゆ我が亡き後のまぼろしに見ゆ   鳥羽省三  

(広島市・大多和義)
〇  白墨のかけら抓みて書きにしか「姉様江」とふ被爆伝言

 「被爆伝言」の場合にしろ、他の場合にしろ、今は亡き肉親の書き残した文字や文章に接して、「我が肉親は、件の文字を記すに当たって、一体全体、如何なる思念に捉われていたのであろうか?」などと思うことは、よくあることである。
 まして、本作の場合は、広島市の「広島平和記念資料館」に展示されている「白墨」で記された「姉様江」という悲愴な文字を見てのことであるから尚更の事である。 
 「姉様江」の「江」が泣かせます。
 〔返〕  五指をみな傷付け破りて記せしか「敵は鳥羽」との血文字ありにき   鳥羽省三
      江どのへ 我が屍を乗り越えて秀忠殿に尽くすべきなり   

今週のNHK短歌から(9月8日放送・斉藤斎藤選)

2013年09月29日 | 今週のNHK短歌から
[一席]
(阿南市・森岡圭子)
〇  雑巾が長さ揃えて干されおり駅トイレ横タクシーの車庫

 本作の上の句、即ち「雑巾が長さ揃えて干されおり」という一文は、「主語(部)+述語(部)」の関係から成り立つ一文である。
 また、述語(部)を構成する「長さ揃えて干されおり」という連文節は、「連用修飾語(節)+被修飾語(節)」という関係から成り立つ連文節であり、連用修飾語(節)を成す連文節「長さ揃えて」は「連用修飾語+被修飾語(節)」の関係から成り立っているのであり、更に詳しく説明すると、主語(部)を成す「雑巾が」という文節はそれに続く「長さ揃えて」という連文節にも、その後の「干されおり」という連文節にも主語として係っているのである。
 したがって、本作の上の句、即ち「雑巾が長さ揃えて干されおり」を、文節同士の係り受けに留意して冗談交じりに口語訳してみると、凡そ次のようになる。
 即ち「あの小生意気な雑巾の野郎が、事もあろうに、蚤の褌みたいにわざわざ長さを揃えて干されている」と。
 で、この場面で、当ブログの読者諸氏に筆者の私からお願いがありますが、それは、「『雑巾なんちゅう無生物が、わざわざ長さを揃えて干されている、なんちゅう非現実的かつ非科学的な事があるもんか!べらんめー!』といった勇ましい啖呵を、この際は切って欲しくない」ということである。
 理屈から云うと、確かにその通りではあるが、この話は「本作の上の句を日本語の語法に従って素直に解釈すると私の言う通りになる」と言うだけの話なのであるから。
 でも、読者諸氏の言いたい事は、いくら阿呆な私でもよく解ります。
 何故ならば、真面に考えると、「雑巾が」「干され」ているという言い方は理屈に合った言い方ではあるが、「雑巾が」「長さを揃えて」いるという言い方は、非現実的で、理屈に合わない言い方であるからである。
 と、なると、本作の上の句の表現は、一種の省略話法なのではないか?とも思われるので、次に本作の上の句を省略話法として捉えたうえで、一首全体を解釈してみると、凡そ次のような二通りの解釈が成り立つかと思われる。 
 即ち「駅のトイレの横のタクシーの車庫に、雑巾が(誰かの手に拠って)長さを揃えられて干されている」という解釈と、「駅のトイレの横のタクシーの車庫に、雑巾が(雑巾自らの手で)長さを揃えて(誰かの手に拠って)干されている」という解釈との二通りの解釈である。
 前者と後者の違いは、敢えて説明する必要も無い程に歴然としているのであるが、この際、手間暇を惜しまずに説明すれば、前者の場合は「雑巾の長さを揃えたのは、雑巾以外の誰か(何者か)であった」という事であるのに対して、後者の場合は「雑巾の長さを揃えたのは、他ならぬ雑巾自身であった」という事になるのであり、評者の私は、当初、後者の立場に立って、本作の上の句を解釈して示したところ、たちまち読者諸氏から袋叩きにされるような憂き目に遭ったので、あわてて、此処に二つの解釈を示してみたのである。
 一首の短歌の解釈を巡って、二通りの対立的な考え方が生じる事は、本作の場合に限らずよく在る事ではあり、その曖昧さが当該作品の最大の魅力となっている場合もよく在る事である。
 だが、本作の場合は、そうした場合とは明らかに異なるのである。
 何故ならば、本作に於ける曖昧さは、作者が日本語の語法に精通していない(かどうかは存じ上げませんが?)が故に、出鱈目な語法を用いた(とまで言ってしまえば、あまりにも失礼かしら?)事に因って生じた曖昧さであるからである。
 私の連れ合いの女高生時代の親友が未だ独身であった頃のこと、その頃彼女が交際していた、ある男性の家を訪れたところ、その家の「ニワ」と呼ばれる広い土間の壁に、使い古しの箒が数十本、長さ順に綺麗に並べられて吊るされていたのを目にしたので、彼女は、このように神経の細かい人ばかりいる家庭に私が嫁いだとしたら、結婚後の私の日常生活が、どんなにかピリピリしたものになるだろうと不安を感じ、それ以後、その男性との交際をピタリと止め、彼とは別の、おおらかで茫洋としていて、包容力のありそうな男性と結婚した、ということである。
 本作の作者の森岡圭子さんが、本作をお詠みになられた発端は、恐らくは、「『駅トイレ横タクシーの車庫』に『干され』ていた『雑巾』が『長さ』を『揃え』られて『干され』ていた」という、異様な光景を目にされたことにありましょう。
 だとすれば、本作は、「着眼点佳し、発想も亦佳し」としなければなりません。
 しかしながら、「着眼点佳し、発想も亦佳し」の題材を、あたらドブに棄ててしまったような結果になったのは、作者が功を急ぐあまりに、その具体的な表現に際して、日本語としては「破格な語法」、と云うよりは「出鱈目な語法」を用いたからなのである。
 こと此処に至っては、本作を自選の第一席に推した選者にも責任無しとせず。

 と、まあ、此処までは、評者独自の揶揄精神を発露させていただいた場面ではありましたが、論はこれからが本番である。
 上掲の森岡圭子の御作を、日本語の正しい語法に則って改作させていただきますと、其処に次の二首の短歌らしき作品が現出することになる。

[改作案そのⅠ]
 〇  雑巾が長さ揃ひて干されをり駅トイレ横タクシーの車庫  

[改作案そのⅡ]
 〇  雑巾を長さ揃へて干して在り駅トイレ横タクシーの車庫

 日本語の正格語法に則って詠めば、森岡圭子さんの御作の趣旨は、上記[改作案そのⅠ]乃至は[改作案そのⅡ]の何れかに拠って満たされるはずである。
 だが、私が仮に、これら二通りの改作案を、作者の森岡圭子さんに提示したとしても、彼女はその何れをもお受入れになられないに違いない。
 何故ならば、彼女が本当に詠みたいとお思いになっておられる作品と上掲の改作案「そのⅠ」及び「そのⅡ」との間には、埋め難い径庭が存在するからである。
 故に、短歌表現は、時に日本語の正格語法に「拠るも佳し」、「拠らぬも佳し」としなければならない。
 三歩下がって、再度、熟読玩味させていただきますと、森岡圭子さんの御作は、短歌形式という独自の省略表現の許容範囲内に収まっているとも思われないでもないのである。
 〔返〕  雑巾の背丈揃ひて干されをり登戸駅の公衆トイレ   鳥羽省三
      草箒背丈の順に並べ干し美(は)しき乙女に逃げられにけり
      梅干しを色佳く仕上げ食べさせず斯かる家には誰も嫁がず


[二席]
(盛岡市・藤倉清光)
〇  だからってさびしくないのだ河馬の子は自分のうんちをゆっくりおよぐ

 A曰く、「河馬の子が、自分のうんちが浮かんでいる沼の中をゆっくり泳いでいるが、その姿はいかにも寂しそうで可哀そうだ!」
 B応えて曰く、「だからってさびしくないのだ!河馬の子はやはり河馬の子以外の何者でもないから、自分のうんちの浮いた沼の中を泳いでいても、ちっともさびしくなんかないのさ!」
 A再び曰く、「そうかなあー? 本当かなあー? 僕には河馬の子の気持ちがちっともわかんないわ?」
 
 本作の表現上の問題点を指摘すれば、「自分のうんちをゆっくりおよぐ」という下の句の表現にはかなりの無理がありましょう。
 だが、それを敢えて受け入れようとするのが「斉藤斎藤選」の「斉藤斎藤選」たる所以でありましょうか?
 〔返〕  河馬の子は下から読んだらバカの子だ だから寂しく感じないのだ   鳥羽省三
 返歌は、何だか「天才バカボン」風なものになってしまいましたが、是で以って失礼させていただきますのだ!


[三席]
(東大和市・板坂壽一)
〇  妻逝きて不要となりし手摺へと小型ラジオを吊す用便

 選者の斉藤斎藤氏からすれば、「本作はこれで良し」ということになりましょうが、私からすれば、「妻逝きて不要となりし手摺へと小型ラジオを吊す」までは良しとしても、それに続く末尾の「用便」は、訳の分からない「逃げ」ということになりましょう。
 〔返〕  妻逝けば手摺もラジオも用が無い手摺にラジオを繋いで置こう   鳥羽省三
 返歌の作者のお住いは、かなり手狭なものと判断される。



[入選]

(白井市・関根孝明)
〇  仕方なくわずかな時間手を離すふたたびの手は少し冷たい

 「手」という語が二ヶ所に置かれているが、合理的に考えてみると、その「手」の所有者が、前と後とで異なっているとは考えられない。
 そこで、察するに、その「手」の所有者は死の床に就いている者であり、本作の作者(=作中主体)は、件の死の床に就いている者の為に、病院にお見舞いに出掛けたのであったが、彼の憔悴し切った顔を見るや否やいち早く彼の手を握ったのである。
 ところが、しばらくして自分の懐に在るケイタイが鳴り出したので、残念ながら、死の床に就いている者の手を、一度は離さざるを得なくなってしまったのであり、ケータイへの応対が終わった後、再び死の床に就いている者の手を握ったところ、その手の温もりは、この度は既に冷めてしまっていた、という事なのでありましょう。
 〔返〕  仕方なく束の間彼の手を握る彼の手はもう冷め切っていた   鳥羽省三


(習志野市・田口博司)
〇  下痢腹で途中下車した駅ごとのトイレの位置をいまだ記憶す

 必ずしも記憶に止めて置く必要が無いような事柄、否、強引にでも記憶から去らしめたいような事柄を何時までも記憶している。
 そんな事って、よくありますよね。
 私の場合は、私が中二の夏に黄泉路に旅立った私の長兄の、発病に始まって、それに続く臨終、更には、あまりにも質素な形で行われた葬儀の次第などを、いちいち事細かに記憶していて、それが何時までも私の脳裏から去らない、ということなのである。
 〔返〕  下痢腹で已む無く入った駅前の公衆便所の汚れの酷さ   鳥羽省三
 かつて、私が横浜市内の某高校に通勤していた頃のこと。
 私は、人の言う下痢腹であり、自宅からバスに乗って行った先の三ツ境駅前の公衆トイレに飛び込んだことが、度々ありました。
 そのトイレの汚らしさと言ったら・・・・・・・・・。


(小金井市・柳原恵津子)
〇  動物園みたいだきみと僕とではトイレのちがうとこが汚れる

 作中の「僕」は、男性であることが確実であり、「きみ」は女性である可能性が大である。
 だとすれば、「きみと僕とではトイレのちがうとこが汚れる」のは、むしろ当然のことでありましょう。
 だって、放水路の形態があれほどにも極端に異なっているのであるから!
 それにしても、「動物園みたいだ」とまで言われるとは、柳原恵津子さんちのトイレはあまりにも汚らし過ぎます。
 たまには、強力トイレ洗剤で以って、ごしごし洗って下さいよ!
 〔返〕  動物園みたいだ君と僕の部屋ティッシュは匂うしゴキブリは這う   鳥羽省三  


(多摩市・浦本洋子)
〇  洗濯機を取りて椅子置く洗面所今朝から電動歯ブラシ使う

 「洗濯機を取りて」という言い方は如何かしらん?
 とは言え、「図体がデカいばかりで邪魔っけな洗濯機を取り除き、その後の空間を利用して洗面所の所に瀟洒な椅子を置き、その椅子に座って、今朝から電動歯ブラシを使って歯を磨く」なんて事は、いかにもありそうな事ではある。
 〔返〕  姑の寝ていた部屋をリフォームし息子二人の勉強部屋に   鳥羽省三
 上掲の返歌の内容は、勿論、架空の出来事であり、身辺にそのモデルを求めたりするようなことは、私に限って決してありません。


(八王子市・荒井幹雄)
〇  死ぬ前にちょこっと済ます事あるや出掛ける前のトイレのように

 「死ぬ前にちょこっと済ます事」が、もしかして「ある」としたら、それは細君に内緒で託っていた愛人のマンションに足を運んでなにすることぐらいのものでありましょう。
 だとしたら、それは「排泄行為」に他なりませんから、「出掛ける前のトイレのように」との下の句の表現とも平仄が合致しましょう。
 本作の作者・荒井幹雄さんは、この鳥羽省三が、斯くの如き隠微な評言を書くことを予め予想していて、斯くの如き「隠微にして滑稽な一首」を仕立て上げたのでありましょうか?
 〔返〕  死ぬ前に度々します者やある?俳人一茶の場合のように   鳥羽省三 


(福岡県・坂口菜美)
〇  泡立てる肩に被さる気配して鏡に焼き付けてしまいたい

 このままでは、何を言ってるのか皆目見当がつきません。
 それで居て「泡立てる/肩に被さる/気配して/鏡に焼き付/けてしまいたい」と、三十一音の定型には適っているのである。
 是をNHK短歌に投稿なさった方及び是を入選作となさった方は、或いは、ある種の天才なのかも知れません。
  〔返〕  虫図這う肩に被さる気配してせっかく貼ったトクホン剥いだ   鳥羽省三

今週のNHK短歌から(9月1日放送・小島ゆかり選)

2013年09月28日 | 今週のNHK短歌から
[一席]
(長野市・原田りえ子)
〇  担任が筆圧強く鉛筆でマス目を埋めて進路が決まる

 「担任」は男性教師かも?
 「筆圧強く鉛筆でマス目を埋めて進路が決まる」とあるが、決められた生徒としては、「進路という、私の人生にとっての重大事がこんなにも簡単に決められていいのかしら?あのやる気の無い学級担任が、鉛筆でマス目を埋めたぐらいでさ?」などと思ったに違いない。
 ところで、「担任が筆圧強く鉛筆でマス目を埋め」たのは、其処に担任としての彼の決意と意志が込められている、と解釈しても宜しいが、実のところは、担任の不器用さがその場面で発揮されたのかも知れません?
 〔返〕  水色のボールペンもてサインして学級日誌当番終了   鳥羽省三


[二席]
(仙台市・佐藤純)
〇  定年に万年筆を求めたりインクの色はミステリーブラック

 「インクの色はミステリーブラック」とあるのは、「定年後の人生設計が未定」乃至は「定年後の暮らしに不安を感じていること」を象徴しているのでありましょう。

 〔返〕  店員に万年筆の売り場訊く?店員は指す⇒アンネの売り場!   鳥羽省三
 大手のスーパーの店内では、日常茶飯事のようにして、このような笑うに笑えない悲喜劇が展開されているのである。
 問題は、店員の多くが商品知識が乏しく、常識にも欠けたパートタイマーである事にある。
 私が、一昨日、新百合ヶ丘の大手のスーパーの支店に買い物に出掛け、店内を巡回中の一人の店員に「明礬は何処の棚に並んでるんですか?」と訊ねたところ、その店員は、「えっ、ミョウバンってなんですか?」と逆に質問したので、私が「茄子や胡瓜の塩漬けをする時に、発色を良くするために擦り込む薬みたいな奴ですよ!」と応えたのであるが、それを聴いた彼の店員は、「薬だったら薬屋さんで無ければ売っていませんよ!隣りのビルの一階に薬局がありますから、そちらに出掛けたらいかがですか!」と言いながら、忙しそうにして、また、店内の巡回を始めたのでありました。
 それはそうとして、あの「アンネ」という名称の生理用品は今でも販売されているのかしらん?
 〔百倍返し〕  ひと月に三日は必ずアンネの日 蒸れない漏れない破れない   鳥羽省三


[三席]
(焼津市・山口無門)
〇  鉛筆でゆでと書きたる卵あり妻外出の冷蔵庫の中

 我が家の場合はサインペンかボールペンで「半熟」とか「固」とか書かれているのである。
 〔返〕  サインペンで「固」と書かれた卵割り 卵かけご飯を食べようとした   鳥羽省三



[入選]

(盛岡市・菊池陽)
〇  肥後の守使い仏像彫り上げる葛西君を息止め見てた

 「葛西君を」の「を」で以って、初めて、「肥後の守」を使って「仏像」を「彫り上げる」ような器用な人物が「葛西君」である事が解る仕掛けになっているのである。
 〔返〕  肥後の守使って裸像を彫り上げた葛西君らがドングリマナコで見てた   鳥羽省三 


(流山市・桐山豊穀)
〇  蜩の声を聞きつつ墨磨れば夕陽は沈む硯の海へ

 「硯」の墨を溜める為の薄い窪みの部分を「海」と謂い、墨を磨る為の少し高い部分を「陸」と謂うのである。
 「海」と「陸」。
 一面の「硯」の中に「海」と「陸」が在るのは、我が国の人々に先駆けて「硯」を使っていた古代中国の人々が、「硯」という「無から有を産み出す文具」には、一大乾坤が浮かんでいると思っていたからである。
 一首全体、頗る格調が高く、趣き深さと季節感を感じさせる佳作である。
 作中主体(=作者)は、禅宗寺院の納所坊主かも?
 だとしたら、彼は暑さと眠たさを堪えながら、師の僧の言い付けに従って、「墨」を磨っていたのでありましょう。
 〔返〕  カナカナの鳴く音聴きつつ塔婆書く墨は掠れる眠気は増さる   鳥羽省三


(富山市・松田梨子)
〇  4階の廊下を風が吹き抜ける君がえんぴつ派だって知って

 タイプの男子生徒が「えんぴつ派」であるか?「シャーペン派」であるか?、という問題は、恋を知り染めた女子中学生にとって、私たち大人の想像している以上に重大な関心事なのである。
 何故ならば、私の経験則から言っても、「えんぴつ派」にはわりかし堅実な考えを持っている者が多く、「シャーペン派」の多くは「ぐうたらタイプ」だからである。
 私が、現役の国語教師であった頃、実際に調査して判ったことであるが、学習成績が上がらず、定期試験などでも平均点以下の点数しか取れない者に限って、授業中や試験中に「シャーペン廻し」をしているのであった。 
 ところで、本作の作者・松田梨子さんは、過ぎし日の作文コンクールに於いて第一位の栄冠に輝いたのであるが、作中の「君」が「えんぴつ派だって知って」、賞品として獲得した一グロスの「三菱鉛筆ユニ」の中から、一ダースをプレゼントしようとしたのかも知れません。
 それにしても、「4階の廊下」を「吹き抜ける」「風」はあまりにも涼し過ぎて、坊主頭の「君」は夏風邪を引きそうになっているのである。
 〔返〕  4階の廊下通ると悪童が「才女、才女」と囃し立てるの   鳥羽省三
      4階の廊下なんかは歩かない「才女が通る」と囃されるから
 

(愛知県・橋本秀幸)
〇  今日子らはわれに寄り来ず三本のチョークの折れし授業にあれば

 成りたての教師であった私に、「チョークというものは黒板に字を書く為に使うものではなくて、居眠りをしていて授業を聴いていない生徒に投げつける為に使うのである」と教えてくれたのは、その後、神奈川県の教育長になった某教諭であったように、私は記憶しております。
 〔返〕  杏子らは我に寄り来ず今朝われがデオドラントを付けなかったから   鳥羽省三


(神戸市・國友道治)
〇  行ごとに定規を当てて読み合わす行方不明の違算百円

 銀行と農協とで、通算10数年働いていた連れ合いの話に拠ると、「金融関係の職場で、一端、『違算』が生じたことが明らかになると、支店長以外の職員全員がサービス残業をして、机の下に潜ったり、ゴミ箱を引っ繰り返したりして、1円玉1個を探そうとしたり、目を皿のようにして、在る限りの伝票や帳簿類を点検したりして、大騒ぎをした」とのこと。
 〔返〕  行ごとに常軌を逸した回峰行二回収めた行者が逝去   鳥羽省三


(岡山市・永井志保)
〇  コンパスで彫られた「バカ」の字薄くなり君の帰省を待ちわびる机

 「君の帰省を待ちわび」ているのは「机」では無くて、他ならぬ「君」のお母上様である。
 それにしてもあの頃は、机の蓋の裏に温泉マークを描いたり、消しゴムを鉛筆削りで切って、「マグロのお刺身ですから、新鮮なうちに、どうぞお召し上がり下さいませ」などと言って、隣りの女の子にすすめたりして、授業時間も休み時間も見境なく、遊び回ったものでありました。
 〔返〕  コンパスも海図も持たずに船出した闇夜の国から逃れむとして   鳥羽省三

『NHK短歌』鑑賞(花山多佳子選・5月13日分・病床のうどん熱きを吹く妻に)

2012年08月03日 | 今週のNHK短歌から
[特選一席]

○  病床のうどん熱きを吹く妻に記憶はつかに蘇り来ぬ  (横浜市) 井上智敬 

 鑑賞するに当たっては、連体格の格助詞「の」の働きに留意しなければならない。
 即ち、ついうっかりすると、「『病床』で『うどん』の『熱』いのに息をふうふうと『吹』き掛けながら食べる『妻に記憶』が『はつかに蘇』って来た」と解釈としてしまうところであるが、詠い出しの二句は、「病床でうどん熱きを」ではなく、「病床のうどん熱きを」となっているのである。
 つまり、作者の意図する「うどん」とは、「讃岐屋のうどん」とか「稲庭食堂のうどん」とか「信太蕎麦屋のうどん」とかとは、明らかに異なる、「病床」ならではの特別な「うどん」なのである。
 「病床のうどん」であればこそ、「妻」にとっては特別に「熱」く、特別に「熱」い「うどん」であればこそ、「妻」はふうふうと息を「吹」き掛けながら食べたのであり、特別に熱い「うどん」に息をふうふうと「吹」き掛けながら食べたからこそ、「妻」の「記憶」が「はつか」ながらも「蘇」って「来」たのである。
 作中の「妻」は、認知症の患者として「病床」にある身の上の方でありましょうか?
 だとしたら、彼女の永久に失われてしまったように思われていた「記憶」は、「熱き」「うどん」にふうふうと息を「吹」き掛けながら食べるという、少女時代に何回となくやったことのある日常的な行為を「病床」に於いて再体験する事を通じて、「はつかに蘇」って「来」たのでありましょう。
 〔返〕  外孫が乳房貪る様を見て母の記憶は蘇り来ぬ   鳥羽省三


[同二席]

○  意志という鍵で監禁されている部屋にて君は口笛を吹く  (安曇野市) 中野香澄

 「口笛を吹く」のは、引き籠もりの部屋から間も無く出ようというサインでありましょうか?
 〔返〕  夕されば君の部屋から聞こえ来る口笛の音は何のサインか?   鳥羽省三

 
[同三席]

○  雨ののち約束のごと風吹きて枝先の葉をこそぎ落とせり  (千葉市) 佐藤夏生

 「約束のごと風吹きて」という七五句が宜しい。
 〔返〕  風吹きて雨の洗へる枝先の葉を落とせるは天の約束   鳥羽省三



[入選]

○  息子から便りのなきはよき便りむかし呉れたるポピン吹きおり  (横浜市) 阿部 泉

 作中の「ポピン」は、今は家を離れて暮らす「息子」が高校の修学旅行の折りに長崎で買い求めたお土産の品でありましょうか?
 〔返〕  そのかみの長崎土産のポピンなれ我が子偲びて日の暮れに吹く   鳥羽省三


○  吹抜けに置かれる螺旋階段は老いだってスカートつまんで降りる  (横浜市) 樋口美智子

 突如吹く風に「スカート」が捲れて下半身が露出したとしても、本作の作者・樋口美智子さんくらいのご年齢になったら、何方からも見られる怖れはありませんよ。
 それよりも、階段を踏み外して「吹き抜け」の天辺から真っ逆様に転落して尊い命を無くする怖れが多分にありますから、無用な仕草は止めましょう。
 〔返〕  スカートを抑ふる仕草も板につき姐御稼業も六十余年   鳥羽省三


○  妻亡くせし定年の父がある日ふと口笛吹きて草取り始む  (秦野市) 森谷四郎

 「いつまでも塞ぎ込んでいても亡き『妻』が喜ぶ筈が無い」と達観なさったのでありましょうか?
 〔返〕  妻も無く職も無くせる父なれど口笛吹きて庭の草取り   鳥羽省三


○  炎天の畑仕事はきつかりき母は風呼ぶ口笛吹きて  (立川市) 藤本辻子

 作中の「母」は、アルプスの少女・ハイジみたいな側面と魔女みたいな側面とを一身に備えた魅力的な女性である。
 〔返〕  炎天の畑仕事は辛ければ風を呼ばむと口笛を吹く   鳥羽省三


○  大震災の特集記事よむ玻璃ごしに辛夷芽吹けりあの日のやうに  (酒田市) 横山和子

 「玻璃ごしに」とは、らしからぬ洒落っ気をご発揮なさったのでありましょうか?
 〔返〕  春浅く辛夷の花もまだ咲かず今日は二度目の震災記念日   鳥羽省三

『NHK短歌』鑑賞(坂井修一選・5月20日分・お黙りおやすみ分かってるから)

2012年07月19日 | 今週のNHK短歌から
[特選一席]

○  ちろちろと我が飼うへびの赤い舌お黙りおやすみ分かってるから   (横浜市)  横山美智子

 「わかってるから」だけでは、「我が飼うへび」とて何の事だかさっぱり解りません。
 いっそのこと、「もうじき私も入って行くから、お前は私のベッドの中に先に入って、大人しくして居なさい!」とまで、言って上げなさい。
 「ちろちろと我が飼うへびの赤い舌」という上の句が、鑑賞者の心を淫靡な想像に誘い、薄気味悪さを醸し出しながらも、魅力ある一首を成す要素となっているのである。
 〔返〕  ちろちろと我が陰を這ふ赤き舌私の彼は五尺の大蛇   鳥羽省三  ※陰(ほと)              


[同二席]

○  ニュートリノ光には勝てずまた舌を出してるだろかアインシュタイン  (目黒区) 南本禎亮

 相対性理論で知られた天才物理学者・「アインシュタイン」を印象付ける肖像写真は、彼の七十二歳の誕生日に撮られたと言い伝えられている、あの「舌出し写真」である。 
 昨年の9月に、「素粒子の一つであるニュートリノの速度が、光速を超えた」との発表がなされ、「あの天才物理学者にも間違いがあったのか?」との、有り難くない噂が立ち、アインシュタインの名声が、一夜にして崩れそうになったのであるが、その後の再実験の結果、「ニュートリノの速度が光速を超えているという発表は、実験装置の不備が原因の間違いであった」の訂正発表がなされて、一件落着の運びとなったのである。
 と言うことは、「あのアインシュタインの名声が、結果的には微塵も揺るがなかったことになり、あの天才物理学者が、天国に於いて、再びお得意の舌出しポーズをしているだろう」ということになり、取りも直さず、そのことが本作の趣旨でもある。
 数年来話題となっている「ニュートリノ」と「アインシュタイン」との組み合わせ自体には、格別なる新鮮さは見られないが、「アインシュタイン」を題材するに当たって、あの有名な「舌出し写真」に着目したことは、本作の作者・南本禎亮さんの手柄と言えましょうか?
 〔返〕  「ざまー見ろ!あっかんべー!」とばかりにお得意の舌出しポーズで仕返し   鳥羽省三


[同三席]

○  舌を切る老婆の役を貰いしが悲しかりける小一の冬  (カリフォルニア州) 石井志おん

 「舌を切る老婆の役を貰いし」時期、即ち「小一の冬」には、本作の作者・石井志おんさんは、未だ祖国日本に滞在していたのでありましょうか?
 小学時の学芸会で主役を貰い損ねて悔しがった記憶は、何方にとっても永久に忘れられない悲しい思い出となっているのでありましょう。
 かく申す私・鳥羽省三も、桃太郎劇の青鬼役しか貰えなかったのが悔しくて、学芸会当日、学校を無断欠席して街の盛り場をほっつき歩き、ぼんやりと野犬の交合を眺めていたことがあります。
 〔返〕  赤鬼は石屋のせがれの悪太郎猿と雉子とは鍛冶屋の双児   鳥羽省三


[入選]

○  注射器の水の雫に老い犬が舌を動かす我に抱かれて  (諫早市) 峰由美子

 本作の作者の峰由美子さんはペット専門の若い獣医さんでありましょうか?
 それとも、独り身の小学校の女性副校長先生でありましょうか?
 〔返〕  首筋の愛咬のあと消せざるも診察服の似合ふ梅ちやん   鳥羽省三


○  湿舌がペロリと舐めて列島の田圃に梅雨という宝物  (西海市) まえだいっぽ

 鎌倉三大将軍・源実朝の作に「時により過ぐれば民の嘆きなり八大竜王雨やめたまへ」という、降り過ぎた「梅雨」を「民の嘆き」として捉えて歌った作品がある。
 何事も程度問題であり、程々の「梅雨」は稲作農家にとっての「宝物」でありましょうが、程度を越えた「梅雨」は「民の嘆き」になるのでありましょう。
 先日来、九州地方を襲った梅雨の終わりの豪雨は、まさしく「民の嘆き」というべきでありましょう。
 〔返〕  蕎麦つゆの旨さが店の宝物信州辰野の万五郎そば   鳥羽省三

 
○  舌見せて茫洋と空仰ぎをり日本の春を生きる河馬たち  (桑名市) 佐藤浩子

 我が国の詩歌壇には、無類の河馬贔屓が居て、「馬鹿」を歌ったのでは優れた詩歌と評価されないが、「河馬」を歌うと、それだけで傑作として評価されるような傾向が無きにしもあらずである。
 そうした傾向を巧みに察知して、一躍「河馬ブーム」といった傾向を齎したのが坪内稔典氏の俳句であり、その代表句として知られている「正面に河馬の尻あり冬日和」「ぶつかって離れて河馬の十二月」「秋の夜の鞄は河馬になったまま」「万年の水のかたまり夏の河馬」「桜散るあなたも河馬になりなさい」「恋人も河馬も晩夏に腰おろし」「横ずわりして水中の秋の河馬」「水中の河馬が燃えます牡丹雪」などは、いずれも、「河馬」の大きな図体と優しく「茫洋」とした味わいのある風貌に着目しての作品である。
 本作中にも「茫洋と」という副詞が用いられているが、このことは、本作が坪内稔典流に連なるものであることの何よりの証明である。
 本作の表現について申せば、歌い出しの五音を「舌見せて」としたのは、やや遣り過ぎのようにも思われ、ここは素直に「口を空き」とするべきであるかと思われる。
 また、「日本の秋を生きる河馬たち」という下の句は、昨今の我が国の現状が現状であるだけに、広大なアフリカ大陸の湿地帯で自由に棲息していた「河馬たち」が、よりによって、大震災と津波と放射性物質の国「日本」の檻の中に繋がれでいなければならない悲哀が醸し出されていて、坪内稔典氏の句作の亜流を脱する秀句である。
 〔返〕  愛咬の痕も露はに今日もまた諸肌脱ぎで水撒く女将   鳥羽省三 


○  雨の日のお化けのやうな竹林はペロリ舌出しかぶさり来たる  (日進市) 植手芳江

 私の居住地である多摩丘陵の特色の一つとして挙げられるのは、家並の背後に鬱蒼とした「竹林」が見られることであり、折も折、梅雨の時期である現在は、本作に詠まれたような光景に至る所で展開されているのである。
 本作の作者・植手芳江さんの居住地である愛知県日進市には「竹の山地区」と呼ばれている区域が在るようですが、多摩丘陵同様に、日進市も亦「竹林」が多く見られるのでありましょうか。
 それにしても、「雨の日のお化けのやうな」という雨天の日の「竹林」についての直喩、そして、梅雨の長雨の為に重くなった笹の葉が道行く人の傘の上に被さって来るような光景を「ペロリ舌出しかぶさり来たる」とした擬人法的表現は、なかなか見事である。
 〔返〕  風の日は笹の葉さやさや呟いて妻なき男を寂しがらせる   鳥羽省三
 今月上旬から来月の半ばに掛けて次男の居住している川崎市宮前区鷺沼のマンションがリフォーム中であるが、昨日の午後、その工事の進捗状況を見るために出掛けたところ、マンション内の掲示板に訃報を知らせる紙片が貼られていた。
 次男の語るところに拠ると、お亡くなりになった方は彼の隣室に住む高齢者男性であるとか。
 偕老同穴の夫を失ったお婆さんのこれからの生活はどうなるのでありましょうか?
 また、葬儀はどのような形で営まれるのでありましょうか?
 〔返〕  笹の葉がささやくような語らいの聴こえる夜さえ時折りありき   鳥羽省三
 
    
○  飴玉を二つに割いて妹と舌に転がし遊びし昭和  (本宮市) 廣川秋男

 「飴玉を二つに割いて妹と舌に転がし遊びし昭和」などと言えば、「昭和」という時代がいかにも貧しかったような印象であるが、決してそんなことはありません。
 〔返〕  蛙の尻にストロー刺してお腹を膨らませて遊んだ昭和   鳥羽省三


○  今カノを紹介されて少しだけ舌がもつれたことのくやしさ  (仙台市) 成田智恵

 元カノとしては、決して彼に見せてはならない場面を見せてしまったことに因る「くやしさ」でありましょう。
 〔返〕  「元カノを紹介します!」と言われちゃいかなり慌てた昨夜のホテル   鳥羽省三

『NHK短歌』鑑賞(来嶋靖生選・6月3日分・神様の涙だというドロップを)

2012年07月13日 | 今週のNHK短歌から
[特選一席]

○  涙さえ明るき春の味になる新玉葱を刻みておれば  (川西市) 原田洋子

 本作の評価は、偏に「新玉葱を刻みておれば」と「涙」との取り合わせをどう評価するかに掛かっているのでありましょう。
 遠慮無く評者の感想を言わせていただきますと、こうした予定調和じみた取り合わせは月並みな表現とも思われ、それほど高くは評価出来ません。
 〔返〕  三年味噌も明るい春の味になる新大蒜に付けて食べれば   鳥羽省三


[同二席]

○  堪へゐし涙のどつと溢れたり夫の病状を母に告げつつ  (武蔵野市) 平井千恵子

 「なんと夫思いで、なんとお姑さん孝行なお嫁さんですこと!」などと、つい、うっかり、皮肉の一つも言いたくなるような作品である。
 〔返〕  「つれ合わぬ、嫁さん貰ったせいかしら!」息子の死期の旦暮に迫る   鳥羽省三


[同三席]

○  ゆつくりと鏡に変はる夕暮れの列車の窓に映る涙目  (長野市) 原田浩生

 「ゆつくりと鏡に変はる夕暮れの列車の窓に映る涙目」は、何が原因で流す涙の故とも知れません。
 敢えて言うならば、本作の作者の原田浩生さんの目は、旅先の車中で夕暮れに出遭うと、極く自然に涙で曇るような仕掛けになっているのでありましょう。
 〔返〕  おセンチで乙女チックなやつでして日暮れになると涙を流す   鳥羽省三



[入選]

○  神様の涙だというドロップを口に含めば梅雨空の味  (茨木市) 山上秋恵  

 寡聞にして評者の私は、「ドロップ」と言えば「佐久間のドロップ」か「別所毅彦投手のドロップ」しか知りません。
 作中の「神様の涙だというドロップ」は、一体、何方の投げる魔球なのでありましょうか?
 そう言えば、昨今では「ドロップ」という言葉も聞かれなくなりましたが、かつての「ドロップ」を、今の球界では、何と呼んでいるのでありましょうか?
 〔返〕  神様の涙だというドロップの今の呼び名は縦のカーブだ   鳥羽省三


○  お互いの涙は見ないようにして夫と共に劇場を出る  (横浜市) おのめぐみ

 「お互いの涙は見ないようにして夫と共に劇場を出る」と言っておりますが、そんなことをしていたら、何の為に映画を観に行ったのか解らなくなるではありませんか?
 御夫婦がお揃いで映画を観に出掛けるのは、お互いに相手の優しさを確認して安心する為なんですよ。
 「なーんだ、あなたも涙を流していたのか!あの場面では、私も涙を流してしまったんですよ!私たち夫婦は二人とも優しい心の持ち主だったんですね!安心しました!」などと、「劇場」を出てから話し合って、再び二人の愛を確認する為なんですよ!
 おのめぐみさんよ、反省しなさい!
 〔返〕  お互いの瞳を見ながら確認す涙の量は愛の深さだ   鳥羽省三 


○  風出でてたわむ葉の露乱れ散り我がほほ濡らす涙のやうに  (千葉市) 宮古梨絵

 本当の事を言えば、宮古梨絵さんは「ほほ」を濡らして「涙」を流しているんですよ。
 本作は、それと無くそのことを述べているんですよ。
 〔返〕  風が出て胡椒の壜が倒れちゃい涙が流れてたまんないのよ   鳥羽省三


○  見せまいと思う涙が溢れきて用あり顔につと席を立つ  (日立市) 滑川皓一

 「用あり顔につと席を立つ」という心掛けが真に芳しく、これあることに因って、人は歌を詠み歌人と言われることにもなるのである。
 〔返〕  流すまいと思えど涙が流れ出てジャケットの袖を濡らしてしまった   鳥羽省三


○  太陽の涙のようなミカン食む空も海も青い瀬戸内  (岩沼市) 山田洋子

 一見すると、ただ単に瀬戸内海の景色を褒めているだけのような作品ではあるが、作者の居住地が岩沼市であるところから判断すると、本作も亦、あの大震災の惨禍を回顧しての作品でありましょうか?
 〔返〕  太陽の恵みのような牡蠣を食む島も翠の松島の海   鳥羽省三


○  続く続く瓦礫の道を走り抜け友を探せり陽は沈みゆく  (一関市) 須藤雄治郎

 本作こそは正真正銘の大震災の惨禍を詠った作品である。
 ところで、本作の作者は、「続く続く瓦礫の道を走り抜け」ただけで、「友」を探すことが出来るのでありましょうか?
 〔返〕  目を覆う瓦礫の山を掘り崩し友を探せりブルトーザーで   鳥羽省三

『NHK短歌』鑑賞(花山多佳子選・6月10日分・液状化する人の波見ゆ)

2012年07月13日 | 今週のNHK短歌から
[特選一席]

○  終電の鏡の窓にぐにゃぐにゃと液状化する人の波見ゆ  (高石市) 金井広隆

 本作の作者・金井広隆さんがお住まいの高石市は、臨海部に巨大な石油コンビナートを擁する工業都市という性格と、内陸部が大阪市のベッドタウンという性格を備えた大阪府の泉北地区に位置する人口総数6万人の町である。
 高石市には、南海鉄道及びJR西日本の阪奈線が乗り入れ、市内には六つの鉄道駅が設置されているので、作中の「終電」とは、大阪市からの帰宅客を運んで来た深夜0時過ぎの電車と思われ、作者ご自身も、その「終電」の乗客の一人であると思われる。
 事の序でに、作中の「終電」の乗客たちについてもう少し拘泥してみますと、彼や彼女は、かつて「天下の御台所」と言われた大阪市内の職場で朝早くから夜遅くまで働いたり、遊んで来たりした人々であり、更に詳しく言うならば、その多くは、一日中、汗塗れ、涙塗れ、油塗れになって酷使されてきた若い男性社員や女性社員、立場上サービス残業をせざるを得なかったり、接待宴会の座に連ならざるを得なかったりした中間管理職クラスの中高年男性社員、更には、スナックや酒場などの夜の職場で、へべれけに酔い痴れた酔漢たちに胸部や恥部などをべたべた触られ、飲酒を強要されて来た綺麗なお姐さんたち、学校や職場などから解放された後、道頓堀や梅田などの盛り場をほっつき歩いて来た遊び好きの若い男女でありましょう。
 これらの老若男女の共通点はただ二つ、その一つは心底から疲労困憊していることであり、後の一つは、そのような生活から一日も早く解放されたい、と強く願っていることでありましょう。
 本作の作者の金井広隆の場合もその例外では無く、疲労困憊の極に達した彼の眼に映った「終電」の車内風景が「ぐにゃぐにゃと液状化する人の波」であり、虚ろな眼をした彼は、目の前の「終電」の窓に映っているそうした車内風景を目にした時、身体の底からしみじみと今日一日の疲れを感じているのでありましょう。
 〔返〕  終電の窓に映れる汝が顔のぐにゃぐにゃしててスケベたらしい   鳥羽省三
      終電の窓に映れる我が顔のぐにゃぐにゃしてて惨めたらしい


[同二席]

○  山道をのたうち走る巨木の根ひと息入れて眼鏡拭きたり  (生駒市) 西田義雄

 「のたうち走る」という言い方は評者としても初見であり、通常は「のたうち回る」という言い方でありましょう。
 また、仮に「のたうち走る」という変則的な言い方が許容されたとしても、それは「『巨木の根』が苦しみもがいて其処ら中に走り回っている光景」と解釈される可能性が大であり、作者の意図するところは、読者諸氏に充分に理解されないことにはなりませんか?
 〔返〕  けもの道をのたうち回るつちのこのひと息入れて沢水飲めり   鳥羽省三
      山道をのたうち回る山おんな息せき切って「助けて!」と云う
[同三席]

○  星よりも遠きところにある如し万華鏡から見える模様は  (茨木市) 山上秋恵

 「万華鏡」を逆さにして覗いた時に見み光景の印象を一首の歌にしたものでありましょう。
 〔返〕  手を伸ばし掴めるような花模様万華鏡から見える世界は   鳥羽省三
      手を伸ばし掴みたくなる星くずのしばしの後は崩れて夢か


[入選]

○  自家製のこわれかけたる望遠鏡帰省せし兄修繕しおり  (西之表市) 尾形之善

 「帰省せし兄」は、西表島に生い立った後に就学か就職といった事情に因って島を離れて生活をしているのでありましょう。
 その「兄」が久しぶりに「帰省」したのは4月末から5月初めに掛けての大型連休であり、折も折、5月21日の金冠月蝕、6月4日の部分月食、6月6日の金星の太陽面通過と続く、いわゆる「天体ショー」を前にした時期であったので、年端の行かない弟や妹たちの為に「自家製のこわれかけたる望遠鏡」を「修繕」していたのでありましょう。
 本作の作者の尾形之善さんは、その優しい「兄」の父親でありましょうか?
 〔返〕  賜物の望遠鏡を引き出して天体ショーに興じる子供   鳥羽省三
      お日様を望遠鏡で見てはダメ優しい兄を悲しませるな


○  母逝きし齢はるかに超えしいま鏡の中にも母は在さず  (高知県佐川町) 永田ヱミ

 本作の作者の永田ヱミさんは、かつては、佐川小町の評判の高かったお母様と瓜二つの美形であったのであるが、その「母」の「逝きし齢」を「はるかに超えしいま」となっては、その面影も無くなってしまった、と愕然としているのでありましょう。
 〔返〕  老ひたりと言へども何処か母に似て佐川小町の名残り薫れる   鳥羽省三


○  幼子は双眼鏡を逆に見て「かあさんがとおい、ぼくはさびしい」  (三原市) 岡村禎俊

 「よく出来た話」と言いましょうか?
 作為が気になる作品である。
 〔返〕  幼子は三面鏡の前に立ち「ぼくはイケメン!春馬にそっくり!」   鳥羽省三
      小三は双眼鏡を逆に見て「富士山は小さく!日本は狭い!」
 馬鹿馬鹿しくてやってられませんよ!


○  内視鏡入るがままにいつぽんの管そのものとなりて横たふ  (岐阜県池田町) 太田宣子

 ご自身の内蔵の中に入って行った「内視鏡」の行方を感覚的に捉えて詠んだ作品でありましょう。
 診察台に座らせられて、これから自分の小さな口から入って行って、自分の内蔵の中をいろいろと探索するに違いない「内視鏡」を目前にした時の驚きと、その「内視鏡」が実際に自分の身体の中に入って行った時の、「心配していた程の事は無かった!」という思いとの感覚の違いが表現されているのでありしょう。
 〔返〕  麻酔とは恐ろしいもの!あの太い内視鏡さえするりと飲み込む!   鳥羽省三


○  現実は鏡の中と思わせてじわりと拡がる春の黄昏  (足利市) 茂呂田誠

 「現実は鏡の中と思わせてじわりと拡がる」のは、「春の黄昏」だからなのである。
 これが「夏の黄昏」や「秋の黄昏」や「冬の黄昏」であったならば、感覚的にはかなり違って来ることでありましょう。
 〔返〕  現実はゴビの砂漠と思わせてじわりと寄せ来る夏の黄昏   鳥羽省三
      現実はタイガの森と想わせてびりりと罅割れる冬の黄昏


○  多面体の鏡となれるビルとビルひとつの雲を受け渡しする  (宇都宮市) 木里久南

 「ひとつの雲を受け渡しする」とは、まさしく真昼のビル群のガラス張りの壁面の光景を、よく観察し得た光景かと思われる。
 〔返〕  一面の鏡となれる飾りまど佇む汝を美しくする   鳥羽省三