臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

一首を切り裂く(010:カード・其のⅢ・空色のポストカードの片隅の)

2012年06月29日 | 題詠blog短歌
(さとうはな)
○  空色のポストカードの片隅の子犬にきみの名を名付けたり

 本作の作者の姓は「佐藤」でも「左藤」でもなく、「さとう」であり、名は「花」でも「華」でもなく、「はな」なのである。
 つまり、本作は「佐藤花」さんや「左藤華」さんの作品ではなく、「さとうはな」さんの作品なのである。
 いきなしにこんなくだらないことを言い出したので、数多くの読者諸氏の中には、「鳥羽省三もとうとうネタ切れになってしまったようだ!二、三ヶ月前までは毎日更新していたのに、この頃はそれも止めてしまったみたいだから、もしかしたら、持病が悪化してしてしまったのかも知れない。だとしたら、少し可哀想なことだ!」などと仰り、心配して下さる方が、三人程度は居られるかも知れない。
 それらの方々が心配して下さるのも尤もであり、最近の私の健康状態は確かに良くなく、今夜も眠れないままに、午前三時前にベッドからもそもそと這い出し、する事なしにこんなどうでも宜しいみたいな事を書いているのである。
 とは申せ、本作の鑑賞にこと寄せて、作者のお名前が「さとうはな」さんであることについて言い出したのは、筆者の私としてはそれなりに意味のあることであり、決してネタ切れになった訳でも、持病の悪化が理由でもありませんから、ご心配なく。
 只今、六月二十七日の午前三時四十分、ラジオからは今は亡き石原裕次郎の『俺の小樽』という忘れかけていたムード歌謡が流れて来る。
 弟の裕次郎ならともかくとして、その兄の東京都知事閣下が、少年時代にあの港町・小樽に住んでいたことを知らされて、私は少しく愕然として居ります。
 小樽に住むに相応しい人間と言えば、小林多喜二とか、伊藤整とか、格別に繊細な心を持っている人かとばかり思っていたのに、およそ繊細さとは無縁な石原慎太郎が、例え一時期とは言え、小樽の住人であったことを知って、私は何故か、あの小樽が穢された街のように思われてならなかったのである。
 「穢された」と言えば、かつての私の縁辺に、「佐藤花」なる女性が二人居て、二人とも「穢された」と言うに相応しい境涯を辿った人物なのである。
 一人は、私の父の遠縁に当たる女性の「佐藤花」さん。
 明治末年生まれの彼女は、父の言葉で言えば、いわゆる「売られて行った女」の一人で、後年、彼女は、真っ赤な衣装を纏って帰郷し、かつての自分と同じように貧しい少女二人を「買って」、意気揚々と東京に引き上げて行ったということである。
 もう一人の「佐藤花」さんは、かつての私と同じ町内の住人で、彼女のご亭主の職業はいわゆる「高利貸し」であり、この男は、その当時の町内で名うての強欲爺として知られていたのであるが、その連れ合いの彼女は、夫以上の強欲婆として名を馳せ、昭和三十七年、古稀を迎える前に彼女があの世に旅立った日の夕方には、町内の有志が花火を上げた、とまで噂されていた女性なのである。
 そんな「佐藤花」さんたちと同じ音の「さとうはな」さんという女性が、「空色のポストカードの片隅の子犬にきみの名を名付けたり」と言う、おセンチな作品をお詠みになられたのである。
 「名は体を表す」とは、「いとこのよっちゃん」が私の連れ合いの翔子の友人・野田祥子さんに当てて書いた今年の年賀状の中の言葉であるが、「『空色のポストカードの片隅の子犬にきみの名を名付けたり』という作品は、何と“佐藤花”さんならぬ“さとうはな”さんに相応しい作品であろう」と、今朝の私は思っているのである。
 只今、午前四時三十一分。
 ラジオからは、癈人ならぬ俳人の黒田杏子さんが、「名残の花」について喋くり回っている声が聴こえて来る。
 〔返〕  さとうはな、ポストカードの片隅に子犬の名さえ書き加えたり   鳥羽省三
 只今、午前四時四十四分。
 私の背後に在るラジオの中で、黒田杏子さんは、杖を突いて歩む人生の素晴らしさや俳句を詠んで生きる人生の素晴らしさについて、喋くり回っている。 


(矢野理々座)
○  しずかちゃんとデート専用スーパーカードラえもんなら持っているかも

 「しずかちゃんとデート専用スーパーカードラえもんなら持っているかも」という言い方が複雑である。
 即ち、本作の作者は、「『ドラエもんなら』『しずかちゃん』と『デート』する時『専用』の『スーパーカー』を『持っているかも』?」と言いたいのか?
 それとも、「『ドラえもんなら』『しずかちゃんとデート』するとき『専用』の『スーパーカード』を『持っているかも』?」と言いたいのか?
 〔返〕  ランボルギーニ・カウンタックをぶっ飛ばせ しずかちゃんと共に地獄へのデート   鳥羽省三


(松木秀)
○  年収百三十万の私にも発行されたりセゾンカードは

 先方様、つまり「セゾン」側も商売ですから、「年収百三十万」だろうが九十六億だろうが関係無しに「カード」ぐらいは発行しますよ。
 但し、実際に融資するかどうかについては別次元の話である。
 〔返〕  恐らくは融資額ゼロに違いない!松木さんには金など貸せぬ!   鳥羽省三


(希屋の浦)
○  人生がシャッフルされたカードには選択肢など書かれていない

 「人生がシャッフルされた」という意識が宜しくない。
 自分の「人生」は他人の手に拠って「シャッフル」されたものではなく、自分の意志によって選んだものなのである。
 数多くの「選択肢」から自分の意志に拠って選んだものなのである。
 〔返〕  万策も希望も尽きし希屋の浦裏も表も真っ暗である   鳥羽省三


(鳥羽省三)
○  カードなら馬鹿っ花歴二十年後ろ姿に五光射してる

 柄にもなく、「馬鹿っ花」などというバサラな言葉を使ってみたかっただけのことである。
 「後ろ姿に五光射してる」とは、全く恥ずかしい限りの表現である。
 〔返〕  カードならイオンカード専用で貯めたポイント六万余点   鳥羽省三  

一首を切り裂く(010:カード・其のⅡ・京大カードに書き込んでいる)

2012年06月28日 | 題詠blog短歌
(風乃茉琴)
○  日常に潜む狂気を見つけては京大カードに書き込んでいる

 昔懐かしい「京大カード」という言葉を「見つけ」たので採らせていただきました。
 梅棹忠夫先生と言っても、今の不勉強な輩には「何処の独逸のことかしらん?」といった感じではありましょう。だが、梅棹忠夫先生こそは烈輝とした京大教授様であり、私の愛読して止まない『知的生産の技術』(岩波新書・1969年7月21日刊行)の御著者でもある。
 私が「京大カード」の存在を知ったのは、梅棹忠夫先生の御著『知的生産の技術』を読むことに依ってである。
 「京大カード」とは、フィールドワークや資料研究などに拠って得た情報を書き込むカードであり、B6判の白い厚紙で出来ている。
 元々研究者などがメモや論文執筆の準備などの情報整理に用いていたが、梅棹忠夫先生が、ベストセラーとなった御著『知的生産の技術』で紹介して以来、研究者以外にも使用する人が現れるようになり、パソコンが普及した今でも、この薄っぺらで小型なカードに頑なに拘っている研究者が居たりして、コレクト株式会社から発売されている「京大式カード」の売れ行きは未だに衰えていないとのことである。
 本作の作者の風乃茉琴さんは、「日常に潜む狂気を見つけては京大カードに書き込んでいる」とのことですが、作中の「日常に潜む狂気」とは、例えば、「日本橋通りを歩いていたら、突然暴走車に轢き逃げされた」とか、「秋葉原のホコ天を歩いていたら、突然、若い娘に痴漢呼ばわりされた」といった事項を指して謂うのでありましょうか?
 〔返〕  日常に潜む非情を怖がつて兄弟仁義に惚れ込んでゐる   鳥羽省三
      日常に潜む臭気を見つけてはビニール袋に貯め込んでゐる
      日常に潜む健気を見つけては十年連用日記に記す      ※健気(けなげ)

(佐竹弓彦)
○  屁理屈はいいから早く笑福亭鶴瓶会員カードを貸して

 私の連れ合いの翔子の嫌いなものは、ナメクジと「いとこのよっちゃん」と何処かのテレビ局が放映している「鶴瓶の家族に乾杯」に出演している下手な落語家の剥げ頭である。
 本作に拠ると、我が国には「笑福亭鶴瓶会員カード」というものが在るらしいが、それならば、もしかしたら「ナメクジ会員カード」や「いとこのよっちゃん会員カード」なども在るのかも知れません。
 もしも、そうだとしたら、一昨日(6月25日)は、「いとこのよっちゃん会員カード」を首からぶら下げた連中・約二十四名が、東京スカイツリーの天望回廊でウロチョロしていたかも知れません。
 〔返〕  いとこのよっちゃん会員カードを持ってればお城の形の最中が貰える   鳥羽省三


(湯山昌樹)
○  最近はカードの枚数とみに増え買い物財布はふくらみ続ける

 「最近はカードの枚数とみに増え買い物財布はふくらみ続ける」とは、正しく実感の伴った表現である。
 私は、各種のポイントカードの他に健康保険証や自動車運転免許書、更には川崎市内の公立図書館の利用カードや温泉施設の利用カードまで、一個の財布にごちゃ混ぜに入れているので、お札を入れておく余裕がありません。
 〔返〕  昨今は女と行くのがとみに増えモテルに男と行く気がしない   鳥羽省三


(五十嵐きよみ)
○  青空のポストカードに書き込んだ雲の一字が雨になるまで

 さすがに五十嵐きよみさんである。
 「青空のポストカード」とは、無限大とも言える雄大な「ポストカード」であり、その雄大な「ポストカードに書き込んだ雲の一時が雨になるまで」は、ほぼ一億光年の時間を要するのでありましょう。
 〔返〕  大空のバースデーカードに書き込んだ雲のハート(♥)が嵐を呼んだ   鳥羽省三


(梅田啓子)
○  金銭に触れでひと日の過ぎてゆく食パン一斤カードに払う

 「食パン一斤」と言えどもその価格は、私の知っている範囲内で述べても、スーパー三和の火曜日特売の八十八円の品物から、帝国ホテルの天然酵母食パンの八百四十円の品物まで色々様々である。
 当日、本作の作者・梅田啓子さんが「カード」で支払った「食パン一斤」の価格は、一体全体、どれ位であったのでしょうか?
 〔返〕  知りたくもあり知りたくもないような食パン一斤の支払い価格   鳥羽省三

一首を切り裂く(010:カード・其のⅠ・十首めにして向き合うことに)

2012年06月27日 | 題詠blog短歌
(平和也)
○  手のうちのカードの心もとなさに十首めにして向き合うことに

 末尾に「なってしまった」という語句を補って鑑賞しましょう。
 〔返〕  役牌はツモ切り暗刻は崩せイチかバチかで平和狙え   鳥羽省三
      胸中に持てるカードの少なさを知ってるからの平和なりき       ※平和(ピンフー)
      

(ひじり純子)
○  添えられたカードの文字に癖がある カタログ通りの薔薇の花束

 「純子さん♡♡♡33歳のお誕生日おめでとうございます♥♥♥♥♥」と書かれた「カードの文字」が、元カレ独特の癖字だったのでありましょうか?
 でも、「カタログ通りの薔薇の花束」というのが、イマイチ解りません。
 多分、郵便局の“お誕生日花束プレゼント”の「カタログ」を、純子さんご自身も持っておられるのでありましょうが?
 〔返〕  添えられたカードの文字は殴り書きDV亭主と別れたばかり   鳥羽省三


(アンタレス)
○  旅先ではた珍しと買いためたテレホンカード始末に困る

 作中に見られる「はた珍し」という言い方は、ご年輩の方々がよく口にする言い方ではあるが、案外、口にしているご本人が、その意味をよく知らないままで口にしている場合が多いので、この際、副詞「はた(将)」の意味や用法などを解説させていただきながら、本作を鑑賞させていただきます。
 私の手元に在る辞書『大辞林』には、副詞の「はた(将)」について、次のような解説が為されている。

 「ある物事、特に並立または対立する物事をとりあげて、推理、判断する気持ちを表す。①また。あるいはまた。もしくは。〈雲かはた山か〉〈渠はうれしともはた悲しとも思はぬ様なりし(源おぢ・独歩)〉②もしや。ひょっとしたら。〈さ雄鹿の鳴くなる山を越え行かむ日だにや君がはた逢はざらむ(万葉)〉③そうはいうももの。しかし。さりとて。〈しばし休らふべきに、はた侍らねば(源氏物語・帚木)〉④思っていたとおり。はたして。〈男の御かたち・有様、はたさらにも言はず(源氏・明石)〉⑤やはりそうだなあという気持ちを表す。〈ほとどぎすはつこゑ聞けばあぢきなくぬし定まらぬ恋せらる(古今・夏)〉」  以上

 本作に用いられている「はた」は、上記の解説中の「②」のケースに該当するものと思われ、「旅先」の土産物店などで、それまで目にしたことのない「テレホンカード」に出会った時の、作者・アンタレスさんの「ひょっとしたら、これは世にも珍しいテレカではないかしら?五百円もするのでお金が惜しいとは思うが、将来への投資の為に、この際、清水の舞台から飛び降りるような気持ちになって買っておきましょう」という、切ない気持ちを表したものと思われる。
 〔返〕  それがまあ、使う機会も無くなって、値上がりもせず、タンスの肥やし   鳥羽省三
 かく申す、私・鳥羽省三にも、テレカ蒐集に目の色を変えていた時代がありまして、今となっては、その頃の事が夢・幻のように蘇って来て、日夜悔しい思いをしている次第であります。
 〔返〕  NTTよどうして呉れる!責任の所在を明らかにして損害を補償せよ!   鳥羽省三  


(酒井景二朗)
○  紛争など無關係さと言ひたげに古いタンカードックに眠る

 海上航行をめぐる国際紛争も、北方領土問題や東シナ海の資源問題などの、我が国と関係国との「紛争」など、数多くの事例が見られ、枚挙の暇が無いほどである。
 本作の意は、「かつては『紛争』地帯の海域を航行して母国に石油を運んでいた『タンカー』が、古くなり、モノの役にも立たなくなって、『紛争など無關係さと言ひたげに』『ドックに眠る』」という訳である。


(太田槙子)
○  捨てられる為に発行されているポイントカードみたいな恋だ

 作中の「捨てられる為に発行されているポイントカード」とは、獲得したポイントを表示するスタンプを指すのか?
 それとも、「スタンプカード」そのもの、即ちスタンプを押す台紙を指すのか?
 それらのいずれを指す場合でも、その大半は「捨てられる為に発行されている」ようなものであるから、表現上の無曖昧さはともかくとして、作者の言おうとする内容は解る。
 ところで、私の財布兼用のカード入れにも、行き付けのクリーニング店のやら、洋菓子店のやら、別の洋菓子店のやら、整体治療所のやら、眼鏡屋のやら、カラオケのやら、コンビニのやら、珍しいところでは、仏具店のやら、いろいろな「ポイントカード」が入っているが、そのいずれも、うっかりすると、風に吹き飛ばされそうな薄っぺらなカードである。
 したがって、本作の作者の経験した「恋」は、薄っぺらで風に吹き飛ばされそうな「恋」であったのでしょう。
 間違えていたら御免なさい。
 その時は許して下さい。
 〔返〕  蕎麦粉搗く石臼のような恋だった捨てる時には気が重かった   鳥羽省三


(tafots)
○  水茎の行方も知らぬさくらやのポイントカード 捨てても捨てても

 「水茎の」は、音の類似から「水城」に係る枕詞として万葉時代に用いられていたのであるが、中世以降、「みずくき」を「筆」及び「筆跡」の意として用いるようにもなり、やがて、「流る」「行方も知らぬ」に係る枕詞としての用法も生まれたのである。
 本作の意は、「通い慣れた『さくらやのポイントカード』は、私にとっては『捨てても捨てても』湧いて出て来るような代物である」といったところであるが、詠い出しに「水茎の」という枕詞を用いたことに因って、それに依って導き出される「行方も知らぬさくらや」が単なる店名を表すものではなく、満開の頃の桜の花びらが川面に散り、流れて行くような流麗な雰囲気を出そうとしているのでありましょう。
 文脈的に見るならば、「『さくらやのポイントカード』は、その『行方も知らぬ』ように『捨てても捨てても』湧き出て来る」といったような繋がりではありましょうが、作者の意図する点は、「水茎の行方も知らぬさくら」から桜の花びらが流れ散って行く様子を連想させることにありましょうか?
 〔返〕  水茎の行方も知らに桜もち妻に食べられ蟻にも食われ   鳥羽省三

一首を切り裂く(009:深・其のⅥ・あなたの彼女になんてなれない)

2012年06月25日 | 題詠blog短歌
(如月綾)
○  恋人と同じ過程を踏んだってあなたの彼女になんてなれない

 詠い出しの十七音が、如月綾さんに相応しくなく、やや舌足らずの表現であるので解り難い「恋人と同じ過程を踏んだって」とは、要するに、豪華なプレゼントをするとか、フレンチレストランに誘うとか、事の運びが、AからB、BからCへと緩やかに進行するとか、作中の「あなた」が紳士的に振る舞い、彼女即ち如月綾さんをもてなすことを指して言うのでありましょうか?
 〔返〕  お気に召すままに振舞う事も善しプレゼントさえ下さるならば   鳥羽省三
 本作の作者・如月綾さんの御ブログのタイトルは「お気に召すまま」である。
 だとしたら、作中の「あなた」とは、名代なる面食いの如月綾さんのお好みに合致せざる醜男ということになりましょうか?


(蜂田 聞)
○  声高に鳴いて程なく雨降りになったのだからアマガエルだね

 お隣の飼い犬も、時折り「声高に」鳴くことがあり、そういう時に限って「雨降り」になるから、一概に「アマガエルだね」とは断言出来ません。
 〔返〕  ブンブンと羽音を立てて飛びたくて蜂田聞とは名付けしならむ   鳥羽省三


(村木美月)
○  選択が自由であればある程にひとつを選べない不自由さ

 話題となっている事柄は、たまのデートにお出掛けになる時のお洋服やお靴のことでありましょうか?
 それとも、お見合いやご結婚のお相手のことでありましょうか?
 〔返〕  選択が自由であればある程になかなか選べぬ八百屋のトマト   鳥羽省三
      選択が自由であればある程に迷ってしまう畑の南瓜
      選択は自由であるが結局は一首も選べぬ題詠短歌

 
(ミカノ)
○  耳かきの一さじ程の卵食べ 吐くか腫れるか咳き込むか待つ

 私の長男の娘・芽衣も母親のDNAを受け継いだのか、極度の食物アレルギーであり、取り分け「卵」を摂取することが出来ないとは聴いておりますが、もしも無理矢理食べさせたならば「吐くか腫れるか咳き込むか」といった事態が発生するのでありましょうか?
 〔返〕  耳かきの一匙程の鹿茸をお酒に混ぜて飲んでをります   鳥羽省三
                                                   ※鹿茸(ろくじょう)

(鳥羽省三)
○  程々に通ひ慣れたる須磨明石澪標も無き蓬生の宿

 『源氏物語』の「花散里」と「関屋」の間の各帖のタイトルを順序よく並べただけの駄作である。
 〔返〕  夕霧に御法幻雲隠匂宮に紅梅竹河    鳥羽省三
 同じ趣向で、「宇治十帖」の直前の各帖のタイトルを列挙してみました。

一首を切り裂く(009:深・其のⅤ・あどけない少女が蝶に変わりゆく)

2012年06月25日 | 題詠blog短歌
(白亜)
○  愛しあうまでの過程をひとつずつ確かめていく君のゆびさき

 本作に描かれている情景は、世間で謂うところの“濡れ場”であるが、その濡れ場を演じている当事者の一人である本作の話者(=作者?)は、もう一人の当事者、つまり自分と同衾している男性の仕草の一つ一つに覚めた眼差しを注いでいるのである。
 本作の表現に拠ると、白亜さんの謂うところの「愛」とは、肉体的な欲望が満たされた極点を指すものであり、その段階に至るまでの「過程」は、言わば“準備運動”乃至は“前戯”のようなものなのである。
 でも、私の考えるところを言わせていただきますと、「ひとつずつ」の「過程」そのものが、「愛」即ち「愛しあう」ことではありませんか?
 〔返〕  愛し合えるまでの過程でお互いに流した汗の量が知れない   鳥羽省三


(本間紫織)
○  あどけない少女が蝶に変わりゆくための過程でほどくみつあみ

 それを言うならば、次のようにも言えましょうか?
 〔返〕  頑是無き乙女が毒蛾に変身する過程に観たる大人の世界   鳥羽省三 


(佐藤紀子)
○  程ほどの一生なりき 大過なく病気もせずに七十になる

 「病気もせずに七十になる」と言える人は、必ずしも少ない人数とは思われませんが、その七十年間の半生を、「大過なく」と言い得、「程ほどの一生なりき」と言い得る人は、そんなに多くいるとは思われません。
 今月半ばに七十二歳の誕生日を迎えたばかりの私も、自分のこれまでの人生を省みて、「自分が大過なき人生を送って来た」或いは「自分の一生は、程ほどの一生なりき」とは言うことができません。
 〔返〕  幸多き佐藤紀子さんの人生に更に大きな幸を与えよ   鳥羽省三


(村上きわみ) (北緯43度)
○  日毎夜毎たましい売りがやってきて囁く「如何程さしあげましょう」

 それを詠うならば、次のようにも詠えましようか?
 〔返〕  昨夜また“たましい買い”が現れて「貴女のたましいもう買えません!」   鳥羽省三


(ワンコ山田)
○  ある程度知ったかぶりができたってかしげてみせるためにある首

 私は本作を、才人・ワンコ山田さんに拠る「首」についての革新的なる新定義として承りました。
 〔返〕  歩道を走る自転車のこどもたちにとっての歩道とは何か?   鳥羽省三
      「すごい、嬉しい!」を連発する者の為の『言語にとって美とは何か』
 本作の作者・ワンコ山田さんの御ブログのタイトルは「歩道を走る自転車のこども」である。

一首を切り裂く(009:深・其のⅣ・空の音程たしかめている)

2012年06月24日 | 題詠blog短歌
(峰月 京)
○  今日という日を人生の過程と過ごすかいまわの際と生きるか

 「百でなければ零だ!」という考え方をしてはいけません。
 〔返〕  永からぬ我が人生の道程の一日一日が今際の際か?   鳥羽省三  

(ヒラタアリ)
○  ピアニカを吹いてきつねが真剣に空の音程たしかめている

 こぎつね コンコン 山の中 山の中
 草の実つぶして お化粧したり
 紅葉の簪 つげの櫛

 こぎつね コンコン 冬の山 冬の山
 枯葉の着物じゃ 縫うにも縫えず
 きれいな模様の 花も無し

 こぎつねコンコン 穴の中 穴の中
 大きな尻尾は 邪魔にもなるし
 小首をかしげて 考える

 こぎつね コンコン 雲の上 雲の上
 ピアニカ吹けども 音程合わず
 コンコンばかりじゃ 誰も来ず

 〔返〕  こぎつねは友だちも無くピアニカのコンコンコンと鳴るばかりなり   鳥羽省三
      こぎつねは友も持たずにピアニカをただコンコンと鳴らすだけです
 
 
(由弥子)
○  程々に生きてゆきたし春霞百ページめの小野茂樹を読む

 「小野茂樹」の編集者としての生き方、或いは『羊雲離散』『黄金記憶』に盛られた秀歌の作者としての生き方、そして、わずか三十四歳にして交通事故死した生き方は、必ずしも、本作の作者・由弥子さんが願うような生き方であったとは言えません。
 しかし、彼の詠んだ「朝霧に日のかたち見ゆあたたかき眼をおもひつつ家出づるとき」「ひつじ雲それぞれが照りと陰をもち西よりわれの胸に連なる」「くぐり戸は夜の封蠟をひらくごとし先立ちてきみの入りゆくとき」「鬼やらひの声内にするこの家の翳りに月を避けて抱きあふ」「あせるごと友は娶りき背より射す光に傘の内あらはなり」「あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ」「母は死をわれは異なる死をおもひやさしき花の素描を仰ぐ」「眠らむとしておもひをり閉ざさるるとびらのいくつこの日過ぎこし」「体刑の庭よりひとりまぬがれて帰り来たれば友欲し購ひても」などの数々の傑作について思い、非業とも言える彼の死について思うとき、私も亦、「程々に生きてゆきたし」と願うのである。
 〔返〕  程々の丈もまた佳し鬼やらひの声を逃れてキスをするとき   鳥羽省三
      焦るごと茂樹は逝ききあの夏の数限りなき表情見せて
      

(希)
○  私が私になる工程に必要だった無数のなみだ

 三句目が「行程に」では無く「工程に」となっていることに留意しなければならない。
 即ち、本作の作者・希さんは、「私を形作ったのは私自身であり、その『工程』に於いて、私は必要欠くべからざる行為として、『無数のなみだ』を流した」と言っているのである。
 〔返〕  わたくしが私自身になる行程で思い焦がれた無数の女   鳥羽省三

一首を切り裂く(009:深・其のⅢ・喰われた月の満ちゆく過程)

2012年06月23日 | 題詠blog短歌
(tafots)
○  鳰鳥のふたり並んで見届ける 喰われた月の満ちゆく過程

 一首の意は、「私(=作者か?)と彼との『ふたり』は、一旦は何者かに『喰われて』しまったようにして欠けてしまった今夜の『月』の『満ちゆく過程』を『見届け』ようとして、先刻からこの濡れ縁に並んで座っているのである」といったところでありましょうか?
 作中の「鳰鳥の」は、記紀万葉時代の枕詞の一種であり、「鳰鳥」即ち「カイツブリ」が、水中に息長く潜る習性を持っていて、雌雄の仲の良いことなどから、「潜(かず)く」「息長(おきなが)」「二人並び居」「なづさふ」などという言葉、或いは“葛飾”という地名に係る言葉として用いられているのである。
 万葉集の巻五(794)に、「旅人の妻の死を悼んで山上憶良が詠んだ歌」として、「大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず 年月も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間に うちなびき 臥しぬれ 言はむ術 為む術知らに 石木をも 問ひ放け知らず 家ならば 形はあらむを うらめしき 妹の命の 我をばも 如何にせよとか 鳰鳥の 二人並び居 語らひし 心背きて 家ざかりいます」という長歌が収録されている。
 〔返〕  鳰鳥のふたり並び居ることも無く蝕の月見る夜半の吾か   鳥羽省三
      鳰鳥のふたり並びし事忘れ許せないなら許さなくていい
 本作の作者・tafotsさんの御ブログのタイトルは「許せないなら許さなくていい」である。


(原田 町)
○  博士課程おえし息子の職無しと友の言葉に聞き入るばかり

 内容について申せば、私も亦、極めて身近な血縁の者が、かつて似たような境遇にあったので、特別に驚くようなこともありません。
 超高学歴者が職を得ることが出来ないのは、日本経済の不況が一因かとも思われますが、それ以外の個人的な原因もあるかとも思われます。
 一例を挙げれば、私のかつての同僚に、東大の大学院博士課程を経た理学博士がおりましたが、彼は俗に謂う“ダメ教員”であり、三十年余りの高校教員歴の間に、ただの一度も学級担任をすることも無く、彼の授業に耳を傾ける高校生は殆ど居りませんでした。
 〔返〕  博士号取得しをりし教員の講義を聞き入る者一人無し   鳥羽省三

一首を切り裂く(009:深・其のⅡ・来週の日程表を待つ運転手)

2012年06月22日 | 題詠blog短歌
(庭鳥)
○  うろうろとモニタを睨み来週の日程表を待つ運転手

 本作に詠まれた光景を、「新潟県内のさるバス会社の、さる営業所の、運転手控え室内の、さる土曜日の夕刻の光景である」と仮定して、本作の鑑賞を進めさせていただきます。
 高速観光バスなどの運転事故が再三発生して社会問題となっているが、旅行業界やバス業界が不況を極めている現在、都会と地方のバス会社間のバス所有台数や需給関係が極端なアンバランス現象を見せ、東京都内の旅行業者の斡旋に拠って、鎌倉に遠足に行く小学生たちを運ぶ為のバスが、東京から数百kmも離れた新潟県内のバス会社のバスであるような場合もそれほど珍しいことではありません。
 そうした場合、当該バスの乗務員たる運転手さんやバスガイドさんたちは、前夜の夜明け前に新潟県内の営業所を出発し、途中の何処かで、僅か一時間足らずの仮眠をした後、翌朝の八時前後から、東京の小学生たちを鎌倉まで運ぶ為のバスの乗務員としての責任を果たさなければならないのである。
 観光バスの運転事故が発生した後の運転手さんの言葉として、「あまりに眠かったので、つい、うっかり居眠り運転をしてしまったのかも知れません!」とは、よく聴く言葉である。
 そうした事情を考えますと、今週の厳しい乗務が終わった後の土曜日の夕方の営業所のパソコン画面に、翌週の自分の乗務日程が立ち上がるのを待っている、運転手さんやガイドさんたちの陰鬱なる心境は、自ずから窺われるのである。 
 〔返〕  「皆様方、庭鳥小屋へようこそ!」と可愛い妻子を職場案内   鳥羽省三
 本作の作者・庭鳥さんの御ブログのタイトルは「庭鳥小屋へようこそ」である。


(熊野ぱく) (ぱくたんか)
○  究極や至高だなんていう言葉いらないやっぱ程々がいい

 本作の創作動機を成しているのは、雁屋哲原作、花咲アキラ作画の人気漫画『美味しんぼ』でありましょうか?
 この人気漫画の主人公である、東西新聞文化部の記者・山岡士郎は、相棒の栗田ゆう子と一緒に、同社創立100周年記念事業として「究極のメニュー」作りに取り組むことになった。
 ところが、東西新聞のライバル紙の帝都新聞が、山岡士郎の父であり、美食倶楽部を主宰する料理界の権威者・海原雄山の監修に拠って、「至高のメニュー」という企画を立ち上げることになり、ここに、この人気漫画の最大のテーマである、「『究極』対『至高』の親子料理対決」が幾度も繰り返されることになったのである。
 本作の作者・熊野ぱくさんは、その名に相応しく、真に素朴かつ庶民的な考えの持ち主であり、漫画『美味しんぼ』以来、私たち日本国民の間ですっかりお馴染みとなった、「究極」や「至高」「だなんていう言葉」は「いらない」し、物事は何につけても「やっぱ程々がいい」とまで仰って居られるのである。
 〔返〕  程々の出来でありたき“ぱくたんか”究極や至高は勿論論外!   鳥羽省三
 本作の作者・熊野ぱくさんの御ブログのタイトルは「ぱくたんか」である。

一首を切り裂く(009:深・其のⅠ・楡の木に歌を教えている風の)

2012年06月19日 | 題詠blog短歌
(五十嵐きよみ)
○  楡の木に歌を教えている風の今日は安定しない音程

 私の連れ合いの妹のお姑さんに当たる早稲田瑞穂さんが介護施設に入居してから三週間あまり経つ。
 瑞穂さんが入居している介護施設は、それまで彼女が住んでいた家から徒歩で二十分足らずの距離に在るので、同居していたご子息の妻であり、ご自身の嫁に当たる義妹は一日置きに、義妹の夫であり、瑞穂さんの一人息子である孝一郎さんも亦、土・日ごとに見舞いに出掛けていたのである。
 ところが、今週の日曜日の午後に見舞った折り、お姑さんの口から「寂しくて寂しくてたまらないの!話掛けてくれる人も居ないし、職員の人たちも何もしてくれないから!」という呟きの声が漏れて来た、ということで、それ以来、義妹の心中は乱れ、ただでさえ繊細極まり無い義妹の神経は、目下、疲労の極に達している、とのことである。
 この事を私に教えたのは、私の連れ合いの翔子である。
 昨日の午前中、妹の運転する車で青葉台に買い物に行く途中、その話を妹の口から直接聞いたということで、翔子は、「孝一郎さんのお母さんは、認知症があまりにも進み過ぎているということで、その世話をしていた妹が渋っていたのにも関わらず、ケア・マネージャーの助言もあって、孝一郎さんの判断一つで、今の施設に入居させたのである。それなのに、今になって、そんなことを言われたって妹も困ることだろう。『寂しい!』なんて言われたってね!」などと、私に向ってたらたらと零すのである。
 翔子の言い分は、かなり身贔屓気味ではあり、いくら認知症の患者とは言え、実の息子さん一家との同居生活から離れ、たった一人で介護施設生活を強いられている瑞穂さんの気持ちは、私にも痛いように解るし、かと言って、お姑さんから「寂しい!」と言われたのを苦にし、悩んでいる義妹の気持ちも、解らないことではありません。
 義妹のお姑さんは、自分の一人息子夫婦に向かって、現在のご自身の生活の寂しさを訴えて、一人息子の妻の心を困惑させ、その心身を極度の疲労状態に追い込んでいるわけである。
 “寂しい”と言えば、義妹のお姑さんに限らず、人間誰しもなにがしかの“寂しさ”を湛えながら、現代社会の一員として生きているのである。
 かく言う私も亦、外形はともかくとして、その内面は、現代社会に生きている人間の一員であることには違いが無いから、一抹の寂しさ、いや、全幅の寂しさを抱えながら、七十二歳の人生を生きているのである。
 七十二年間の人間生活の間には、さまざまな辛さや寂しさを経験し、時には「死んだ方がまし!」といったような心境に陥ることもあったのである。
 ところで、私は今、読者の皆さんに向って何を語ろうとしているのでありましょうか?
 「題詠短歌」の主催者・五十嵐きよみさんの御作について語ろうとして、ついうっかり、私は、私の連れ合いの妹一家のプライベートな事情についてまで語ってしまい、挙句の果てには、自分の人生の寂しさや辛さについてまで語ってしまったのである。
 これは、老耄ゆえの私の失敗である。
 私は、「楡の木に歌を教えている風の今日は安定しない音程」という、五十嵐きよみさんの傑作に接する機会を得て、そうした機会を得た自分の人生の至福感について語ろうとして、自分自身の不徳の致すところから、つい、うっかりと、かかる不始末を仕出かしてしまったのである。
 私がこんなことを書いている今夜は、六月としては珍しく、台風が本土に上陸した、ということで、私の家の前の石段沿いに植えられている花水木の枝を激しく揺らし、轟々と音を立てて強風が吹き荒れているのである。
 五十嵐きよみさんの御作に、「楡の木に歌を教えている風」とあるが、この作品で以て、作者は、私たち読者の前に、「風」という自然現象についての新鮮にして優しくかつ新たなる、「風」についての定義を示して居られるのである。
 しかしながら、その「楡の木に歌を教えている風」も、「今日」は少しく強弱乱れて吹いているのであり、それを捉えて、五十嵐きよみさんは、「楡の木に歌を教えている風の今日は安定しない音程」とお詠みになって居られるのである。
 今夜、私の家の前の石段沿いに植えられている花水木の枝を激しく揺らして吹く「風」も、五十嵐きよみさんの御作に登場する「風」と同様に、花水木たちに「歌を教え」る為に吹いているのでありましょうか?
 だとしても、今夜の「風」はあまりにも激しく吹いているのであり、彼の「音程」はあまりにも乱れ過ぎているのである。
 〔返〕  花水木の枝を揺らして吹く風のあまりに激しく樂の音なさず   鳥羽省三
      花水木に歌を教えて吹く風の今夜は激しく樂の音なさず  


(吉里)
○  「死ぬ程」と書いたら後には「愛してる」と続けたいが相手がいない

 本作の作者・吉里さんも亦、私・鳥羽省三と同様に、本作を通じて、つい、うっかりと、ご自身の人生の寂しさを口にしてしまったのでありましょうか?
 〔返〕  「死ぬ程に愛しているよ!」と打ったけどメールを受け取る相手が居ない   鳥羽省三

一首を切り裂く(008:深・其のⅥ・みずからの澱を確かめ・決定版)

2012年06月18日 | 題詠blog短歌
(北爪沙苗)
○  みずからの澱を確かめそのドアを深い記憶の海に封じる

 作中の「澱」の意味するものは何でしょうか?
 作者の北爪沙苗さんは、いかなる事象を指して「みずからの澱」という抽象的な言葉を用いているのでしょうか?
 ごく平凡に解釈するならば、作中の「みずからの澱」とは、「それまでの自分自身の生活の中で生じ、体内に沈殿している“ストレス”或いは“疲労”」といったことになりましょうか?
 それはともかくとして、本作の作者は、詠い出しで「みずからの澱を確かめ」と述べている。
 そのことは、彼女、即ち本作の作者たる北爪沙苗さんの“心中”乃至は“体内”には、彼女自身がその存在を意識し、その分量を「確かめ」ておかなければならないと自覚している程の「澱」が存在していることを証明するものであり、それと同時に、その「澱」はともすれば、彼女自身の体内に備わっている「ドア」を蹴破って噴出し、彼女自身の言行を乱したり、世間様に悪臭を放って迷惑を掛けたりする恐れがあることをも証明するものであり、更に付け加えて言うならば、それを事前に防止するべく、彼女が自分自身の戒めとして体内に備えている「ドア」に頑丈な鍵を掛け、「深い記憶」のなかの「海」の底に「封じ」てしまわなければならないことをも証明するものである。
 と、ここまで書いて来て、たった今、気が付いたことであるが、作中の「みずからの澱」とは、彼女自身の単なる“失恋の痛み”程度のものであり、“噴出してしまって、辺りに悪臭を放ってしまう”ような大袈裟なものでは無かったのかも知れません。
 〔返〕  みずからのドブに手を染め汚れちゃえ自業自得というものである   鳥羽省三


(松木秀)
○  生き物は見ることは無し深海の生き物にあてられた光は

 本作を“倒置法”という特殊な構文から解放し、「上接語を、他と区別して特に取り立てて強調する」という、係助詞「は」の働きに留意して解釈すると、大よそ、次のような意味になりましょうか?
 即ち「当然のことながら、深い海の底にも生き物たちが生息していて、その生き物たちにも微かながらも光が当てられているのである。ところで、その深い海の底に生息している生き物たちを照らす、という殊勝な役割を果たしている光のことであるが、彼は、海底の生き物たちを照らすという貴重な役割を果たしていながらも、自分が照らし出している生き物たちの真実の姿は自ら見ることはないのである」と。
 以上、本作を真面目に解釈しようと試みてみたのであるが、私の本心を述べさせていただくと、作者の松木秀さんは、作中の三つの係助詞「は」の働きに十分に留意しながら本作をお詠みになったのであろうか、という少なからぬ疑問を感じている。
 〔返〕  文意などどうでも宜し音のみを言葉の韻きのみを愛でつつ   鳥羽省三


(佐藤紀子)
○  春浅く雪の残れる深大寺 人また人のだるま市立つ

 上掲の二首、即ち北爪沙苗さん及び松木秀さんの御作と比較すれば、本作には、それほどの深く込み入った意味が在るわけでも無く、作者の佐藤紀子さんご自身からしても、「お題『深』を織り込んだ上での季節詠」といった感じの作品なのかも知れません。
 「春」未だ「浅く」「雪の残れる深大寺」に、恒例の「だるま市」が立ったのであるが、ご高齢かつ最近視力衰退気味の作者の目を以てすれば、「だるま市」を目掛けて遣って来た人並みそのものが、ダルマ以上の達磨に見えたのでありましょうか?
 失礼をも顧みず、つい、うっかり冗言を弄してしまいましたが、短歌という文芸形式は、僅かに三十一音に過ぎません。
 僅か三十一音の言葉の中に、どれだけの情報を盛り込むことが可能でありましょうか?
 察するに、北爪沙苗さんや松木秀さんは、僅かに三十一音に過ぎない短歌形式に過大なる期待を抱いており、あまりにも多くのことを盛り込もうとしたのである。
 それと比較的に言うならば、本作、即ち佐藤紀子さんの作品は、短歌形式に相応しい程度の情報を盛り込んだ作品である、ということが言えましょうか?
 〔返〕  春浅く雪まだ消えぬ深大寺冷掛け蕎麦など食う気がしない   鳥羽省三


(廣田)
○  明滅をつづけるいのちの残像を都市最深部のカメラは映す

 ごく最近、地下鉄サリン事件の関係者として全国的に特別指名手配中であった男女が相次いで逮捕されましたが、彼らの姿を映したテレビ画面に見入りながら、私は「明滅をつづけるいのちの残像を都市最深部のカメラは映す」という本作を思い出してしまいました。
 地下鉄サリン事件が発生したのは、1995年3月のこと。
 あれから17年余りの長い歳月を、彼ら二人の男女は、何処でどうして「いのちの残像」の「明滅」を保って来たのでありましょうか?
 〔返〕  居酒屋で缶チュウハイを飲んだともカシラを三本食べたとも云う   鳥羽省三
      女子会でカラオケなどにも行ったかな?オムツ替えなどしてたのかしら?


(新藤ゆゆ)
○  シナプスの深いところをこじらせて私はいまだ靴が履けない

 常識人ならば、「右足の小指の先が痛むから私はいまだ靴が履けない」とでも言って済ませばいいところを、さすがは才女の誉れ高い新藤ゆゆさんである。
 当世はやりのカタカナ語などを使って「シナプスの深いところをこじらせて私はいまだ靴が履けない」とまで、込み入った言い方をしてしまうのである。
 短歌の世界に巣食う病根もいよいよ極まる所まで極まり、末梢神経の底の底まで刺激し合わなければ気が済まないような段階に至ってしまったのでありましょうか?
 〔返〕  瘤状のシナプス一個抉り取り煎じて飲めば靴も履けよう   鳥羽省三
      瘤状のシナプス一個毟り取りサラダにすれば痛みも増そう


(本田瑞穂)
○  深川といえば下町雨傘にきちんと雨の音がしている

 本作の作者は、「『深川といえば』下町中の『下町』、本格的かつ正統派の『下町』であるから、雨の降る日に『雨傘』に当たる音も本格的かつ正統派的なものである」とでも言いたいのでありましょうか?
 〔返〕  蛇の目傘 赤い長靴 本田家の瑞穂ちゃんは雨の日大好き   鳥羽省三
 本作の作者・本田瑞穂さんの御ブログのタイトルは「赤い長靴」である。


(やや)
○  初恋は初恋は闇深くなる公園に置きっぱなしの赤いスコップ

 「初恋」と「闇深くなる公園に置きっぱなしの赤いスコップ」との接点を探ろうとしても、本作の解釈に資する点は、何一つ見出すことはできません。
 案じるに、本作の作者・ややさんは、「初恋」の相手の男性と夕方の「公園」で待ち合わせをするつもりであったのであるが、相手の男性の変節に因って、深夜まで待ちぼうけを食らったのでありましょう。
 〔返〕  初恋に言の葉たちが弾けそう赤いシャベルで穴を掘りたい   鳥羽省三
 本作の作者・ややさんの御ブログのタイトルは「言の葉たち」である。

 
(藻上旅人)
○  深閨の吾妹子の髪撫でさせよ途絶えることの無き風なれば

 「深閨」に於いて「吾妹子」と一戦を交えるに当たって、本作の作者・藻上旅人さんは、その前戯として、彼女の翠成す黒髪を愛撫したくなったのでありましょうか?
 だとしたら、折からの「途絶えること」無く吹く「風」に拠って、彼女の肌の匂いが閨房一杯に蔓延しているので、さすがの藻上旅人さんも我慢がならなくなってしまったのでありましょう。
 〔返〕  旅にあれば締めたままなる下帯を家にしあれば解かむとぞする   鳥羽省三
      家にあれば解いてばかりの下帯を旅にしあれば解くこともなし
 察するに、本作の作者・藻上旅人さんは、俗に云う「一穴主義者」、即ち「吾妹子」一本槍の真面目人間でありましょう。

 
(七生)
○  お互いに深刻な表情(かお)して「今日のうどんはちょっとコシがたりない」

 意味するところは、「『お互いに深刻な表情』をしているわりには、話す事柄が少し下らない」といった事でありましょう。
 でも、人間にとって食物というものはとても大切なものであり、また、何処のご家庭でも、夫婦二人の共同作業として、手打ち饂飩を作ったような場合は、決まったようにして「今日のうどんはちょっとコシがたりない」などと、どちらからとも無く言い出すようですから、本作の題材となっている事柄は、短歌の題材としてならばともかく、一般的な家庭での出来事としては、それほど珍しいことではありませんし、恥じることでもありません。
 〔返〕  夫婦とは如何なるえにしサムシング?手打ち饂飩のコシが足りない!   鳥羽省三
 本作の作者・七生さんの御ブログのタイトルは「サムシング」である


(鳥羽省三)
○  深間には嵌るまい!とは思ひつつ「紀香いのち」と二の腕に彫る

 よくよく考えてみると、あの藤原紀香さんも御年、既に四十歳である。
 この鳥羽省三が、今更、自分の「二の腕」に「紀香いのち」と彫ったとしたならば、「深間に嵌った」と云うよりも「年増に嵌った」ということになり、大阪市の公務員試験の受験資格さえも失ってしまうことにもなりかねません。
 〔返〕  「年増には嵌るまい!」とは思いつつ「紀香いのち」と腕に彫りたい   鳥羽省三

一首を切り裂く(008:深・其のⅤ・マリンスノーは降り沈みゆく)

2012年06月17日 | 題詠blog短歌
(只野ハル)
○  絶え間なく光届かぬ深海にマリンスノーは降り沈みゆく

 詠い出しの五音「絶え間なく」の位置がやや不安定と思われましたので、いろいろと試行錯誤してはみましたが、結論的には、このままでも宜しいかと思われます。
 〔返〕  深海にひかり届かぬ真昼間マリンスノーは降り沈みゆく   鳥羽省三


(吾妻誠一)
○  落ち行けばこの深淵を抜け出すか 天地無用のラベル探す日

 パラドックスの具体例として直ぐに思い付くのは、私の小学校時代の恩師・原賀達哉先生のお言葉「私は差別主義者が大嫌いだ!」という言葉、もう一つ挙げると、同じ原賀達哉先生の「明日の二時間目に算数の抜き打ちテストを行います」という言葉である。
 本作の「落ち行けばこの深淵を抜け出すか」という上の句は、私の恩師・原賀達哉先生の名言に勝るとも劣らない、パラドックスを伴った言葉である。
 ところで、作中に見られる「天地無用のラベル」とは、「この荷物を逆さまにしてはいけません」と、いうメッセージを運搬者などに伝える為に、割れ物などの荷物を入れたダンボール箱などの上面や側面に貼る「ラベル」である。
 と言うことは、本作に於いて作者の吾妻誠一さんは、ささやかなインチキを伴った魔法を使っていることになりましょうか?
 何故ならば、「天地無用のラベル」が私の説明したような性質のものであったとしたならば、それを貼った箱の中に入れられながら落ちて行った者は何処までも落ちて行くばかりで、永久に「深淵」の底から這い出すことが出来ないような仕掛けになっているからである。
 現実世界に於いては、落ちて行った者が永久に救われない仕掛けを形作っている重要な要素が「天地無用のラベル」なのであるが、本作の作者は其処のところを誤解ないしは曲解して、この仕掛けを、恰も砂時計のような仕掛けとして扱い、「落ち行けばこの深淵を抜け出すか」と言っているのである。
 〔返〕  行けどなほコンクリート造りの畦道で我はたぢろぐ憩ふ術なく   鳥羽省三
 本作の作者・吾妻誠一さんの御ブログのタイトルは「コンクリート畦道」である。


(珠弾)
○  からだ深く沈めて湯舟敏郎のニヒルを口の端に浮かべて

 本作の作者・珠弾さんは、一日の労働に疲れた心身を休める為に、自分の「からだ」を「湯舟」に「深く沈めて」いるのであるが、彼は無類のプロ野球ファンであり、しかもアンチ巨人派であるから、その思いは、どうしてもかつて阪神タイガースの投手として鳴らした「湯舟敏郎」へと馳せ向かってしまうのでありましょう。
 後半の七七句が「ニヒルを口の端に浮かべて」となっているが、「ニヒルを口の端に浮かべて」、たらたらとした態度でスライダーやフォークやカーブを自由自在に投げ分け、並み居る巨人軍の強打者たちから三振を取るのが、彼・湯舟敏郎の最大の魅力であったことを私も記憶して居ります。
 〔返〕  ニヒルさは湯舟に負けぬ者なれば珠弾の詠むのはひねくれ短歌   鳥羽省三


(さとうはな)
○  伝わらぬ言葉の多さ木蓮の若木に深く水遣りをする

 本作の作者のさとうはなさんは、「木蓮の若木に深く水遣り」をしたからといって、決して「伝わらぬ言葉の多さ」が解消されるとは思ってもいないのであるが、それでも尚かつ、悩み多き日は「木蓮の若木に深く水遣り」をしたくなるような衝動に駆られるのでありましょう。
 〔返〕  貝がらの小舟に一首の歌を載せ山の彼方に流しましょうか   鳥羽省三
 さとうはなさんの御ブログのタイトルは「貝がらの小舟」である。


(矢野理々座)
○  あなたとの距離が次第に近づいてどの辺りから深い仲なの?

 「お臍の下20cmの辺りから」といった具合に、具体的な数字を示してお答えすれば宜しいのでありましょうが、何分、あちら方面のことについては不勉強なものですから、ご希望に添いかねます。
 〔返〕  あなたとの隔たりが狭くなり過ぎてお臍の辺りが痒くなっちゃう   鳥羽省三


(かげいぬ)
○  君の中の“立入禁止”を突破して深入りしてる僕を感じて

 本作の作者の場合も、「あなたとの隔たりが狭くなり過ぎてお臍の辺りが痒くなっちゃう」と、彼女に言わせたい口なのでありましょうか?
 〔返〕  君の躰の挿入禁止の立札を無視して我は心地良くなる   鳥羽省三


(磯野カヅオ)
○  学帽を目深にかぶる少年のステンカラーに降る春の雪

 作中の「ステンカラー」とは、男性用の外套の一種、即ち「ステンカラーコート」を指して言うのでありましょうか?
 だとしたら、「学帽を目深にかぶる少年のステンカラーに降る春の雪」とは、貧乏百姓の小倅の私にとっては、あまりにも羨ましい光景である。
 〔返〕  降る雪や大正ロマンは遠くなりステンカラーを私は持たない   鳥羽省三


(あみー)
○  ぽっかりと心にあいている穴の深いところをくすぐってやる

 「ぽっかりと心にあいている穴の深いところをくすぐって」やったとしたら、満たされない彼の心が、幾分かは満たされるのでありましようか?
 〔返〕 ぽっかりと彼の心に空いている深い洞穴弄って遣れ   鳥羽省三

一首を切り裂く(008:深・其のⅣ・東洋文庫の緑は深き・決定版)

2012年06月16日 | 題詠blog短歌
(津野)
○  書架の果てアラビアンナイトを盗みだす東洋文庫の緑は深き

 いわゆる「新書版」に近い版型で緑色の布張り表紙の書籍と言えば、1963年10月以来平凡社から刊行されている「東洋文庫」である。
 私・鳥羽省三と「東洋文庫」との因縁は深く、一時期の私は、「刊行済みの東洋文庫の全巻を置いているかどうかが、書店や図書館の格付けの基準になる」とまで思って居て、自分自身も、菅江真澄の『菅江真澄遊覧記』や松浦静山の『甲子夜話』など、百数十冊の「東洋文庫」を所有していたのである。
 次に掲載させていただいたのは、1963年10月に平凡社が「東洋文庫」を刊行するに当たって述べた同文庫の「刊行の言葉」である。

 古典には貴重な生命力と普遍性とが内蔵され、いつの時代にも多くの人びとの座右の書として長い歴史を生きつづけてきました。
 日本・中国・インド・イスラム圏を含む広大な大陸と海洋に、アジアの先人たちが築きあげてきた文化は、今なお脈々として私たちのなかに生きているのです。しかし、近代以降、西欧文明に馴れ親しんできた私たちにとって、アジアの文化や古典は、"むずかしいもの" "とりつきにくいもの" と思われがちでした。けれども、それらの古典の内容は、読み解いてみれば、じつに興味ぶかい思想をもち、また尊い人間の記憶として、私たちを感動せしめるのです。
 小社では、新しく開けゆく世界のなかで、われらアジア諸国がいかなる位置を占めるべきか、ということを知るうえで貴重な、これらの埋もれようとしていた、価値高い古典を再発掘し、読みやすい、理解しやすい現代語訳として、ここに『東洋文庫』の名のもとに、多くの宝玉を収めていくことにしました。幸いに読者の皆さまのご支援を得て、この文庫が新しい日本の歩みとともに成長していくことを念願いたします。                                       1963年10月

 出版社が文庫や新書や叢書といった継続的な刊行物を創設する際には、「刊行の言葉」といったスタイルの宣伝文句が付きものであり、それらの中でも取り分け有名なのは、昭和2年7月に、岩波書店が「岩波文庫」を創設するする際に、あの著名な哲学者・三木清が著し,社主の岩波茂雄名で発表した、「読者子に寄す―岩波文庫発刊に際して―」という名文である。
 そこで、事の序でに、此処にそれをも転載させていただきます。

     読者子に寄す―岩波文庫発刊に際して―
 真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある普及の書を少数者の書斎と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。近時大量生産予約出版の流行を見る。その広告宣伝の狂態はしばらくおくも、後代にのこすと誇称する全集がその編集に万全の用意をなしたるか。千古の典籍の翻訳企画に敬虔の態度を欠かざりしか。さらに分売を許さず読者を?縛して数十冊を強うるがごとき、はたしてその揚言する学芸解放のゆえんなりや。吾人は天下の名士の声に和してこれを推挙するに躊躇するものである。このときにあたって、岩波書店は自己の責務のいよいよ重大なるを思い、従来の方針の徹底を期するため、すでに十数年以前より志して来た計画を慎重審議この際断然実行することにした。吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今東西にわたって文芸・哲学・社会科学・自然科学など種類のいかんを問わず、いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわめて簡易なる形式において逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する。この文庫は予約販売の方法を排したるがゆえに、読者は自己の欲するときに自己の欲する書物を各個に自由に選択することができる。携帯に便にして価格の低きを最主とするがゆえに、外観を顧みざるも内容に至っては厳選最も力を尽くし、従来の岩波出版物の特色をますます発揮せしめようとする。この計画たるや世間の一時の投機的なるものと異なり、永遠の事業として吾人は微力を傾倒し、あらゆる犠牲を忍んで今後永久に継続発展せしめ、もって文庫の使命を遺憾なく果たしめることを期する。芸術を愛し知識を求むる士の自ら進んでこの挙に参加し、希望と忠言を寄せられることは吾人の熱望するところである。その性質上経済的には最も困難多きこの事業にあえて当たらんとする吾人の志を諒として、その達成のため世の読書子とのうるわしき共同を期待する。                                     昭和二年七月

 余談ながら、三木清という哲学者には、「段落意識」が欠けていたらしい。 
 とまで、冗談を言いながら、期せずして私は此処に、二つの刊行物の「刊行の言葉」を列挙させていただく結果となりました。
 だが、その魂胆は、決して、両者の文章としての格調の高さを比較してみようとしての事ではありません。
 私の目的とするところは、本作を鑑賞するに当たって、この際、作中に登場する「東洋文庫」という刊行物の特色を読者子の方々に説明しておきたかっただけのことである。
 作中に「書架の果て」とあり、「東洋文庫の緑は深き」とありますが、それはそのまま、「東洋文庫」という刊行物が現在置かれている状況について述べ、その外形的な特質について述べたものであると同時に、本作の作者が、東洋文庫版『アラビアン・ナイト』を公立図書館の開架式書架の隅から盗み出そうとした時の、心臓がどきどきするような気持ちを述べようとしたものでもある。
 「刊行済みの東洋文庫の全巻を置いているかどうかが、書店や図書館の格付けの基準となる」と思って居た私の気持ちとは裏腹に、現代社会に於ける「東洋文庫」の位置付けは、利用者数の少ない書籍の代表選手の如く、開架式図書館の書架の「最果て」に置かれるに相応しい刊行物に成り果ててしまったのであり、そうした現状とは別に、本作の作者・津野さんは、まるで深夜のトカプカ宮の暗闇の中からエメラルドで荘厳された王冠を盗み出して来るような気持ちで、あるいはイスラム社会の王様の幸妃を盗み出して来るような気持ちで、東洋文庫版の『アラビアン・ナイト』(前嶋信次訳・全十九巻)中の一冊を盗み出そうとしたのでありましょう。
 〔返〕  罰としてくぎのスープを飲ませられトカプカ宮に幽閉された   鳥羽省三
 本作の作者・津野さんの御ブログのタイトル「くぎのスープ」を拝借させていただきました。


(猫丘ひこ乃)
○  「深ければ深いほどいいものなぁに?」吾はときどきなぞなぞ小僧

 発想そのものは大変宜しい。
 しかしながら、「深ければ深いほどいいものなぁに?」という上の句はともかくとして、下の句の「吾はときどきなぞなぞ小僧」という措辞は、一考を要するかと思われます?
 〔返〕  「深ければ深いほどいいものなぁに?」「君の考えと力士のふところ!」    鳥羽省三
      「深ければ深いほどいいものなぁに?」「ミンダナオ海溝とひこ乃のあそこ!」
      「深ければ深いほどいいものなぁに?」「京の町家の奥行と軒!」
      「深ければ深いほどいいものなぁに?」「男女の仲と古井戸の底!」
      「深ければ深いほどいいものなぁに?」「井戸の周りでお茶碗欠いたのだぁれ!」


(tafots)
○  朝が来る 朝が来ている 深海松のミルキーウェイは腹を這う蛇

 同音の語、即ち「深し」とか「見る」とかといった語を導き出す枕詞たる「深海松」から「ミルキーウェイ」を導き出し、「ミルキーウェイは腹を這う蛇」と言って、悩ましく眩しいばかりの気持ちで「朝」を迎えなければならない、臈たけた中年女性の複雑な気持ちを述べようとしたのは、tafotsさんならではのお手並みである。
 〔返〕  昨夜来わが腹を這ふ銀の蛇ミルキーウェイよ昼も輝け   鳥羽省三


(もふ)
○  臈たけた女の伏せた面差しは深い怒りを宿して静か

 本作にも「臈たけた女」が登場し、「伏せた面差し」に「深い怒りを宿し」ながらも沈思黙考しているのである。
 彼女は、一体全体、何ゆえに「面差し」に「深い怒り」の情を浮かべ、それでも尚且つ、何ゆえに沈思黙考することを宿命づけられているのでありましょうか?
 〔返〕  臈たけし吾には少しの価値も無く沈思黙考して居るばかり   鳥羽省三  


(高島津諦)
○  もう足のつかない深みに来ていると貴方を深く受け入れた夜

 「貴方」との関係が「もう足のつかない深みに来ている」という認識は、既に何もかもスッカラカンに「受け入れ」てしまった後の女性ならではの認識でありましょう。
 そうした認識に達して居ながら尚且つ「貴方を深く受け入れた夜」を持つことが出来るとは、本作に登場する女性は、驚嘆に値する程に深い陰処を持っているものと想われるが、それは評者の見込み違いであって、本作は、単なる推敲不足の作品かも知れません。
 〔返〕  メロディは掠れてしまった貴方との深い深い夜の思い出と共に   鳥羽省三
 本作の作者・高島津諦さんの御ブログのタイトルは「メロディは掠れた」である。


(佐竹弓彦)
○  深海魚図鑑の中の鮟鱇のオスの部分で終わるつもりだ

 本作の作者・佐竹弓彦さんは、さる出版社の校正担当社員であり、既に正午を過ぎているのに未だ校正の作業を止める気配を示さない。
 それを見て腹を立てた同僚から、「もうお昼が過ぎているぞ!お前という奴は、一体いくら働けば気が済むんだ!バカ野郎!」と問い掛けられたのであるが、「深海魚図鑑の中の鮟鱇のオスの部分で終わるつもりだ」と応えたのである。
 〔返〕  深海魚図鑑の中の鮟鱇のメスの部分は食事してから  鳥羽省三


(原田 町)
○  深川飯の浅蜊は中国産なのかいぶかりつつも美味しく食べる

 やや読み難く解り難いような気がするので、作中の「いぶかりつつも」は「訝りつつも」或いは「疑いつつも」とした方が宜しいかも知れません。
 〔返〕  老いぬれど未だ失せざる歌ごころ今宵も綴るカトレア日記  
      子ら巣立ち孫も巣立てる我が身にて今宵も綴るカトレア日記
 本作の作者・原田町さんの御ブログのタイトルは「カトレア日記」である。

一首を切り裂く(008:深・其のⅢ・夢の世界で冴えたまま逝く)

2012年06月15日 | 題詠blog短歌
(東 徹也)
○  真夜中に深煎り珈琲飲んでから夢の世界で冴えたまま逝く

 格別な珈琲好きでも珈琲通でもない私には、深入り珈琲とそうでない珈琲との違いが未だに判りません。
 「深入り珈琲」を「飲んだ」場合は、興奮の度合いが高くなり、そのまま死に至ることもあるのでしょうか?
 本作の作者・東徹也さんの御ブログのタイトルは「詩歌句な日々」である。
 事の序でに申し上げますと、詩歌評論を中心とした私の個人誌のタイトルは『詩歌句誌面』である。
 〔返〕  真夜中に深煎り煎茶を飲んだなら四角な日々が丸くなるらむ    鳥羽省三


(アンタレス)
○  黒髪の白に染まりて久しくば深まる老ひを認むも寂し

 この機会に、接続助詞「ば」の用法について再学習しておきましょう。
 接続助詞の「ば」は活用語の未然形に接続して“順接の仮定条件”を表し、活用語の已然形に接続して「順接の確定条件」を表すのであるが、順接の確定条件を表す已然形に接続する場合は、更に「①原因や理由を表す(~ので・~から)場合」と「②偶然条件(~と・~ところ)を表す場合」と「③恒常条件(~といつも・~と必ず)を表す場合」との三つのケースが在る。
 本作の場合は、三句目「久しくば」の「久しく」が、シク活用の形容詞「久し」の未然形であるから、三句目の「久しくば」の意味が「久しいならば(白く染まってからの時間が長く経過したならば)」ということになる。
 つまり、本作の作者は、接続助詞の「ば」を仮定条件を表す語として用いていることになるのである。
 そうした事を前提として本作の意を述べると、「もしも、私の黒い髪が白く染まって久しい時間が経過したとしたならば、私が私自身の深まる老いを認めなければならないことになってしまい、それも寂しいことである」といった事になるのであり、五句目「認む」の使い方もかなり変則的(“認めること”という意味ならば、連体形“認むる”を使わなければなりません)である。
 案じるに、本作の作者の意図するところは、「私の黒い髪が白く染まって久しい時間が経過したので、私は私自身の深まる老いを認めざるを得ないことになってしまった。この事はとても寂しいことである」といったところでありましょうか?
 ならば、本作は「黒髪の白に染まりて久しければ深まる老ひを認むるも寂し」と改作しなければならないことになるのである。
 にわか知識で以て文語短歌を詠んではいけません。
 〔返〕  指呼するはアンタレスのみ綺羅星を余計な星を観てはいけない   鳥羽省三

一首を切り裂く(008:深・其のⅡ・お蕎麦も食べたバラ園も見た)

2012年06月14日 | 題詠blog短歌
(映子)
○  西小山目黒新宿深大寺   お蕎麦も食べた バラ園も見た

 下の句に「お蕎麦も食べた/バラ園も見た」とありますが、「お蕎麦も食べた」のお蕎麦屋さんはともかくとして、「バラ園も見た」の「バラ園」の所在を明らかにしようと思って、「西小山目黒新宿深大寺」と上の句に在る通り、その所在を検索してみました。
 先ず最初は「西小山」であるが、これは品川区東五反田五丁目に在る「ねむの木の庭」、即ち“皇后陛下のご実家・旧正田邸跡地”に造られた区立公園の「バラ園」を指して言うのでありましょう。
 次の「目黒」は、目黒区駒場一丁目の「駒場ばら園」であり、それに続く「新宿」は、今更言うまでも無く新宿御苑の薔薇園であり、お終いの「深大寺」は、神代植物公園のバラ園を指して言うのでありましょう。
 作中の「お蕎麦も食べた」のお蕎麦屋さんの方は、何卒、私以上にお暇な方がいらっしゃいましたならば、どうぞご自由にご検索なさるなり、現地にお出掛けになられ、“薔薇園蕎麦食べ歩き”をなさって下さいませ。
 末筆ながら、本作の作者の映子さんに申し上げますが、先般は真にご丁重なるコメントをお寄せになられ、本当に有難うございます。
 申し上げるまでも無く、この広い世間には、ホスピスに居ながら紫煙を燻らせる必要のある方もいらっしゃいましょうが、春秋の「バラ園」見物を初めとして、春になれば、梅や桜や藤や菖蒲の名所地にお出掛けになられ、秋になれば、紅葉狩りやお月見を欠かすことの出来ない方もいらっしゃいましょう。
 で、映子さんご自身に於かれましては、いかがでありましょうか?
 〔返〕  先週は生田緑地の薔薇園でアイスを食べて薔薇を見ました   鳥羽省三
      昨春は神代植物公園に出掛けて薔薇をしみじみ見ました


(南野耕平)
○  深くまで掘れば何かが出てくると言われましたがここでしたっけ?
 
 末尾の七音「ここでしたっけ?」がズッコケた趣きを醸し出している作品である。
 本作の作者・南野耕平さんの御ブログのタイトル「ボクといっしょに走りま専科」を、頭の中に入れて返歌を詠ませていただきました。
 〔返〕  お暇ならボクといっしょに穴掘りを楽しみま専科〈ここ掘れにゃんにゃん〉   鳥羽省三
 五句目が字余りになってしまいましたが、作者の私としては、「ここ掘れにゃんにゃん」の「にゃんにゃん」で以て「穴掘り」の実態をそれと無く示したような気になっております。


(ありくし)
○  産まれなかった卵らの降り積もる深海底に月は輝く

 「深海底」に「月」の「輝く」光景を実見することが出来たならば、本作中で「深海底」を修飾している、「産まれなかった卵らの降り積もる」という語句の適切さをまざまざと実感することでありましょう。
 〔返〕  ミズクラゲ群れ成し泳ぐ海底に我が水子らの恨み顔なる   鳥羽省三      ※海底(うなそこ)                   


(葵の助)
○  暗闇の奥深くまで沈められアンクレットがきつく煌く

 たまたま検索してみたところ、あるサイトに「足首に飾る装身具のことをアンクレット(anklet)といいますが、足首までの長さの靴下のこともアンクレットと呼ばれていますので、足首の周りに付けるアクセサリーや、関係しているものは、アンクレットと覚えておくと良いと思います。装身具としてのアンクレットの特徴は、足首より少し輪っかが広い(円周が長い)ヒモやチェーンなどを足首に付けるので、くるぶしに乗っかり、少し上下に揺れます。しかし、キツくなってしまうと、歩きづらかったり、切れてしまったりするので注意が必要です」とありましたので、それをそのまま此処に転載させていただきました。
 本作の作者・葵の助さんは、「アンクレット」を足首に装着した女性を、どっかから誘拐して来て、深海底の「暗闇の奥深くまで沈め」たのでありましょうか?
 だとしたら、我は世に希なるサディストであり、殺人鬼でもある。
 それとは別に、「暗闇の奥深くまで沈められ」ながらも「きつく煌く」ところに、「アンクレット」で装飾された女性の哀れな自負心と自己主張を感じることが可能でありましょう。
 〔返〕  海原の底深くまで沈められアンクレットの螺旋浮遊す   鳥羽省三
 尚、本作の作者・葵の助さんの御ブログのタイトルは「螺旋浮遊」である。


(ミカノ)
○  眠る子の深く沈んでいくようで 何度も寝息確かめている

 本作の作者・ミカノさんの御ブログのタイトル「日々、つづれ織り」に因んで返歌を詠ませていただきました。
 〔返〕  眠る子の深く沈んで行くような在り様見つつ日々つづれ織り   鳥羽省三
 粉雪舞い散る真冬に、我が子を嬰詰と呼ぶ藁で造った丸い嬰児用のベット状の入れ物に入れて、自分自身はその傍に置いた“いざり機”で以て「つづり織り」をしている母親像をスケッチしてみたかったのである。


(太田槙子)
○  暗闇を溶かして空を朝にする白の深さに支配されてる

 「暗闇を溶かして空を朝にする」のは、神様だけが為し得る、偉大なる業でありましょうか?
 だとしても、「朝」になった筈の「空」は尚且つ「白の深さに支配されてる」。
 ということは、あの偉大なる神様でさえも大自然の前では為す術が無い、ということになりましょうか?
  〔返〕  だとしても、それでも明日はやって来る。希望を捨てずに頑張りましょう。   鳥羽省三
 本作の作者・太田槙子さんの御ブログのタイトルは「それでも明日はやって来る」である。

一首を切り裂く(008:深・其のⅠ・陽の射さぬ深みにありて)

2012年06月13日 | 題詠blog短歌
(紫苑)
○  陽の射さぬ深みにありてスプリットタンの棲む木に薔薇ノ花咲ク

 作中の「スプリットタン」とは、いわゆる「身体改造」の意であり、「文化的背景や習慣、ファッションとして身体の形状を変更すること」を云うのでありましょう。
 だが、本作中の「スプリットタン」とは、「身体改造を為した人間(又は生物)」を指して云うのでありましょう。
 詠い出しの二句に「陽の射さぬ深みにありて」と置き、次いで、その「陽の射さぬ深み」に棲息するに相応しい生物としての「スプリットタン」の止まり木を置き、妖艶で薄気味の悪い彼女の孤独を癒すかの如く、彼女の「棲む木に薔薇ノ花咲ク」と置いて締め括ったお手並みは見事である。
 五句目の七音を「薔薇ノ花咲ク」としたのは、北原白秋の詩『薔薇二曲』の顰に倣ったのでありましょうか?

   薔薇二曲

一  薔薇ノ木ニ
   薔薇ノ花咲ク。

   ナニゴトノ不思議ナケレド。

二  薔薇ノ花。
   ナニゴトノ不思議ナケレド。

   照リ極マレバ木ヨリコボルル。
   光リコボルル。         (北原白秋『白金ノ独楽』より)
 〔返〕  紫苑がさね重ね重ねのマジックに鳥羽省三も敬服感服   鳥羽省三

               
(浅草大将) (和歌の浦浪)
○  伊勢島や浪に禊ぎてわだつみの深きに海女は真珠採るらむ

 「真珠」を「採る」のに「浪に禊ぎて」「深き」海に潜るのは、「伊勢」の海に漁る「海女」さんだけの風習でありましょうか?
 同じ真珠を採る場合でも、宇和島の海に潜る海女さんの間にはそうした習慣が無い、ということである。
 神様のお膝元の伊勢の海女さんたちは、土地柄か自分自身の穢れ深さを自覚しているので、伊勢の海女さんたちの間に、いつの間にかそうした習俗が定着したのでありましょうか?
 〔返〕  わだつみの深きを恥ぢぬ汝ならで詠み得ぬ和歌の浦波と知れ!   鳥羽省三
 本作の作者・浅草大将さんの御ブログ「和歌の浦浪」のタイトルをそのまま返歌中に借用させていただきました。


(天国ななお)
○  きょうからは深緑色好きな人だけとセックスすることにした

 私たち鑑賞者としては、三句目から五句目への「深緑色/好きな人/だけとセックス/することにした」という語句中の“句割れ”及び“句跨り”に留意して鑑賞しなければなりません。
 それ故に、評者は、本作をなかなかに手の込んだ作品として鑑賞させていただきました。
 本作の作者・天国ななおさんの御ブログのタイトル「お月様は許さない」をお借りして返歌を詠ませていただきました。
 〔返〕 深碧の好きな者とのセックスをお月様なら許すはず無し   鳥羽省三


(今泉洋子)
○  深刻に先のことなど思ふまじ椿の花は艶めきて散る

 老い先の短い私・鳥羽省三ならばともかくとして、資生堂のキャンペンガールのような今泉洋子さんの場合は、深刻に先のことなど思ふまじ」と仰るのは当然のことでありましょう。
 下の句に「椿の花は艶めきて散る」とあるが、これ亦、「椿の花」の「散る」姿を彷彿とさせる表現と言えましょう。
 本作の作者・今泉洋子さんの御ブログのタイトル「sironeko」の因んで返歌を詠ませていただきましたが、“鍋島の化け猫”は三毛猫か黒猫であったように記憶しているので、その点だけが気がかりになりました。
 〔返〕  深刻ぶる必要はけしてありません「白猫のタンゴ」のリズムで踊れ   鳥羽省三


(新井蜜)
○  春秋の僕らの生の水面が深くはないが身に沁みるのだ

 本作の作者・新井蜜さんの御ブログのタイトル「暗黒星雲」に因んで返歌を詠ませていただきました。
 〔返〕  春秋の君らの性の水面には暗黒星雲映っているよ   鳥羽省三


(秋月あまね)
○  群青は群れなす青というよりも深い青だと思われていたい

 本作の作者・秋月あまねさんの御ブログのタイトル「あさまだ記」を剽窃して返歌を詠ませていただきました。
 〔返〕  朝まだき勝手なこと云う群青に呆れてものが言えない我は   鳥羽省三


(蓮野 唯) (万象の奇夜)
○  呪われた我が顔(かんばせ)に魅入られて赤毛の人の堕ちる深淵
 
 「呪われた我が顔に魅入られて」という三句に、本作の作者・蓮野唯さんの屈折した心理と、それと綯交ぜになってプライドの全てが表現されているのである。
 即ち「呪われた我が顔」とは、女盛りを過ぎて、後は黄泉の坂道を下って行くばかりであるとご自覚なさっている彼女の心理状態を余す所無く表現したものであり、それに続く「魅入られて」という三句目の五音は、それでも尚且つ自恃する所の有る、彼女の複雑な心理をも表現したものである。
 ところで、末尾の二句に「赤毛の人の堕ちる深淵」とありますが、彼女の「深淵」に「堕ちる」者は「赤毛」で無ければならないのでありましょうか?
 私・鳥羽省三は、つい先年までは「黒毛」即ち「黒髪」でありましたが、古稀を過ごしてしまった現在では「白髪」になってしまいました。
 と云うことは、私は既に彼女の「深淵」に「堕ちる」資格さえも失ってしまったのでありましょうか?
 だとしたら、これからの私は、独立独歩、真に寂しい人生を歩まなければならないのである。
 老いて尚、「金髪女」に執着する破産歌手・千昌夫と、中年を過ぎて尚、「赤毛男」に執着する本作の作者とは、一対の雛人形みたいな関係にある。
 〔返〕  呪われた汝がかんばせに魅入られた赤毛が死んでる万象の奇夜   鳥羽省三
      しら馬鹿阿呆づらをみんなで見ろよ子持ちにて咲く花などは無い