気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ…遅れてきた私
著作権は近藤に帰属します
白日傘さして私を捨てにゆく とつぴんぱらりと雲ケ畑まで

三日月が小舟 古賀大介 

2018-02-20 23:30:30 | つれづれ
窓の灯にそれぞれ暮らしある事をほつほつ思いほつほつ歩く

耳たぶのたぶがぽろっと取れそうで市役所前で飲み込んだガム

靴下を穿く脱ぐなどを繰り返しつつちちぷぷと一年は過ぎ

「楽しめ」とブロッコリーが言うのです熱いシチューの中で何度も

コンビニを出でて小暗き道ゆけば「温めますか」の「か」が冷えてゆく

テーブルの下に父、母、われ必死にうずくまりたり「よかね、大丈夫ね、」

熊本城天守閣の瓦ぼろぼろにああぼろぼろに崩れ落ちたり

駅前の銀行のドアは開いていてしゃきしゃき下ろす五万円ほど

三日月が小舟のように浮かびたる夜を仄かな灯火とせり

葉にしずく手の中に風一点の抒情は深く呼吸しており

(古賀大介 三日月が小舟 六花書林)

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短歌人所属の古賀大介の第一歌集より。熊本在住。
「ほつほつ」「ちちぷぷ」「ぼろぼろ」「しゃきしゃき」など、擬態語を多用している。音に引かれて、次の音を導く。熊本地震の歌は、方言の話し言葉で臨場感を出す。

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シジフォスの日日 有沢螢 

2017-12-28 01:14:54 | つれづれ
今日手術しなければ死ぬと言ひ切られ夜桜の下(もと)運ばれてゆく

痰だけは正岡子規に負けるまじ日に三箱のティッシュを空ける

日日に詠む歌を書きとる術もなくそらんじてはまたそらんじてをり

「短歌人」出詠のため枕辺に看護師長立ちき十五分間

万象の凝れるごとき曇天に白き腹見せ百合鷗飛ぶ

歌の友が集ひて歌を語るときわが病床に花咲くごとし

冬の日の訃報は悲し 竹田圭吾 田村よしてる デヴィッド・ボウイ

良きことの知らせのあれば裸足にて春の坂道駆けたきものを

見舞ひくれし酒井佑子の頰ずりにいのちの砂の熱く流れ来

寝たきりで法令線も消えたれば吉祥天女のごとしと言はる

(有沢螢 シジフォスの日日 短歌研究社)

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短歌人の先輩、有沢螢の第四歌集を読む。

螢さんは、短歌人の校正をコンビでしていた仲間だ。病気になる前の数年間、わたしが初校をして、つぎの蛍さんに送っていた。ときどき電話がかかってきて雑談のあとに、いくつかのアドバイスがあった。校正の経験のなかったわたしはそこでずいぶん多くのことを教わったものである。

そんな螢さんが病に倒れられた。頭脳ははっきりしているのに、動けずあちこちが痛む状態。新年歌会で上京しては、お見舞いに訪ねた。そして。必ずこちらが励まされた。

一首目。緊急を要する場面で、夜桜が出て来て詩になる。二首目。正岡子規に対抗しようとする心意気よし。子規よりずっと重症なのに。
三首目。四首目。頭に浮かんだ歌を、言葉をすぐに文字にできないもどかしさ。
書きとる看護師長の緊張も伝わる。
六首目。螢さんのところには、歌の友が集まる。歌集には、多くの歌友、歌集名が登場する。彼女の存在が人を引きよせるのだ。
八首目は、素直な心情なのだろう。心を打つ。
車椅子でさまざまなところへ出かける姿は頼もしい。在宅療養を支える親友の長谷川さん、介護スタッフとの信頼があるからだが、堂々としている姿が魅力だ。不条理な病であっても。くじ引きのように誰かがそれを引き受けなければならない。存在そのものが、周囲に力をくれる人である。

われもまた神を許さむ動かざる手足に窓の虹を見上げて

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そらみみ 宇田川寛之 

2017-12-20 15:13:01 | つれづれ
私語のなき朝の列車に乗り合はす昨日と違ふあまたの人と

地下茶房の柱時計の鳴りわたり親しかりけり過去とふ時間

化粧せぬきみの母なるやさしさよ若葉の午後はみどりご囲み

子に寄り添ひ昼寝したりきわれと子は同じ寝相をしてゐしといふ

参道をひとはあふれて去年よりわづかに大きな熊手を買ひつ

葉桜のしたを駆けゆく子の背(せな)の見えなくなりぬ見えなくなりぬ

「あはれしづかな」と突然に子はゆふぐれの祈りの言葉のやうにつらねる

ゆふやけて一人遊びを覚えたる子はいつしんに鶴を折るなり

子の放るバトンは秋のあをぞらに弧を描きたり歓声のなか

階段の濡れてゐたれば遠くまで行きたし夏の荷物を置いて

(宇田川寛之 そらみみ いりの舎)

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宇田川寛之の第一歌集『そらみみ』を読む。

宇田川さんは、短歌人の編集委員として、毎月の雑誌の編集と発行に関わっておられる。ボランティアではあるが、引き受けた限りは全力を尽くすのみであることを教えられた。感謝しています。わたしの歌集を出版するにあたっても大変お世話になった。はじめての歌集ということ。意外な気がするが、自分のことは後回しになってしまうというのが、宇田川さんらしい。

一首目、二首目は三十歳代の歌。都会的な乾いた感じがあって好ましい。三首めは子供さんが生まれたときの歌だろう。みどりごとその母である妻を見る目がやさしい。若葉の午後がなんと爽やかなことか。こうして親となり、家族となっていく。五首目は、歳末に商売繁盛を願ってのことか。「わづかに大き」の慎ましくも希望を抱く感じが良い。
六首目。子どもの成長を、頼もしくも、ちょっとさみしく見る。「見えなくなりぬ」の繰り返しが効果をあげる。七首目。歌人の夫婦の会話に出たのであろう。有名歌を暗唱している子に驚く。あれは祈りの言葉だったんだと気づかされる。
九首目は、一瞬の輝きを短歌として捉えた。
十首目の「夏の荷物」はなんだろう。家族との幸せな生活や充実した仕事があっても、ふと、あてのない旅に出たくなるような心を思う。短歌という枠のなかでの表現を選んだ人は、どこか定型から外れたい気持ちと、収まっていることの安寧の間を、彷徨うものかと感じた。

無名なるわれは無名のまま果てむわづかばかりの悔いを残して

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去年マリエンバードで 林和清 

2017-12-10 13:39:38 | つれづれ
虫襖(むしあを)といふ嫌な青さの色がある暗みより公家が見詰めるやうな

そこには何もないと知りつつ探しに行く類語あるいは冬のヒラタケ

個室居酒屋でずつと話を聞いてみたいお湯割りの梅を箸で突きつつ

足音に呼応して寄る鯉たちの水面にぶらさがるくちくち

歌人ていふ嫌なくくりだこんなにも君と俺とはちがふぢやないか

ひろすぎる座敷にふとんの流氷の上に一夜をただよふばかり

ゑのころが根ごと抜かれて死んでゐた人と人には悪意も絆

ちいさいひとがいくにんも座つてゐたといふジャングルジムの鉄の格子に

からうじて夜をささへてゐた白い燈(とも)しが消えて千年の闇

廃市より来たやうな男 配達の判子を請うて鷺の香はなつ

(林和清 去年マリエンバードで 書肆侃侃房)

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林和清の第四歌集『去年マリエンバードで』を読む。
林さんとは神楽岡歌会でお知り合いになった。玲瓏に所属の実力派歌人で、カルチャー教室の人気講師として活躍されている。古典、和歌、源氏物語に詳しい。

一首目。「嫌な」「公家」が林さんのキーワードかと感じる。物凄く観察眼の鋭い人で、詰まらないことを言っても絶対に相手に恥をかかせるようなことはない。気配りされる人なので、その分おそろしい。公家の目とはどんな目なのか、想像するしかないが、なぜか想像できてしまう。
二首目は、類語と冬のヒラタケの取り合わせが面白い。
三首目は「浩宮」という一連から。浩宮という呼び方からピンと来るのは、ある年齢以上だろう。おふたりの居酒屋での会話、襖の影で聞いてみたい気がするが、いつまでも本音は出ないだろう。そこに至るまでの駆け引きがすごいだろうな。こう書きながら自分の卑しさが恥ずかしくなる。
五首目。まさにその通り。短歌には人柄が表れやすい。こんなにちがう君とはだれか。すぐに多くの名前が思い浮かぶ。
六、七、八首目は、不穏な空気のある歌。作者の闇をはしばしに感じさせつつ。芯のところは絶対に言わない。闇はわたしの闇でもある。読みながら自らを思うとき、すこし痛快になった。「悪意も絆」は大好きなフレーズ。
九首目、十首目は、24時間 ~200X年のある一日~ と題された百首。時折挟まれる詞書に時刻が書かれて、作者の一日を記録する形で詠まれている。虚実綯い交ぜになっているのだろう。国鉄野(こくてつの)という言葉など、面白く読ませてもらった。

塚本邦雄はサル年だつたといふ話題 鯉の甘煮の骨吐きながら

死ぬ人の歌のはうが身に刺さるとうからとうから秋の実が落つ

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ユリカモメの来る町 中埜由季子 

2017-11-30 15:20:32 | つれづれ
豆ごはん作らむとしてむきてゆく京賀茂豌豆にほふわが家

北山しぐれ遠ぞく昼の厨にて糖蜜黄に透き光りはじめつ

化粧水掌(て)に溜めながら遠き日の想ひよみがへる朝光のなか

今年またしろき息吐きシベリアに帰るこゑあげユリカモメ無尽数

ぎんなんの葉陰に芽ぶく寺町の舗道ゆく人あをき影ひく

震災の津波に耐へて粒大きく育ちし牡蠣がわが顔照らす

九条葱のしたたる緑にほふ昼幾たびの時雨くぐりしものぞ

半木の夕みちの桜ことごとく水面にむかひ輝きはなつ

みどり濃き柿の葉寿司を売るところ過ぎて甘酸ゆくにほふ母の香

梅の実のあをきを干せる日のひかり逆まき狂ふと思ふまで猛暑

(中埜由季子 ユリカモメの来る町 青磁社)

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結社「歩道」所属、歌誌「賀茂」主宰である中埜由季子の第四歌集『ユリカモメの来る町』を読む。

中埜さんとは面識がないが、京都在住の大先輩歌人である。
歌に詠まれる地名や食材に共通するところはあるものの、美しく端正な詠みぶりだ。ユリカモメの歌が多くある中で、ここにあげた無尽数のうたを良いと思った。結句の字余りが、数えられないほど多くいるユリカモメと呼応した文体になっている。ほかの土地の人の期待する「京都のスタイル」を思わせながら、実感がこもる。引用した最後の歌の下句、「逆まき狂ふと思ふまで猛暑」はまさにそのとおり。八首目の下句は、佐太郎を思わせる。
また、東日本大震災への心寄せの歌があり、まだまだ忘れてはならないと思い起こさせてもらった。
わたしも京都で歌を作る人の端くれにいるわけだが、こういう先輩の歌にせっして、まだまだ修行が足りないと思ったことだった。

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エゾノギシギシ 時田則雄 

2017-11-24 15:36:58 | つれづれ
エゾノギシギシ おまへは同志 さあ今日も野に出て緑の汗流すのだ

青き山の真上の雲の仁王立ち仰ぎつつ明日を歩きてをりぬ

ざらざらの指だ ごはごはのてのひらだ 年ねん木賊のやうになりゆく

南瓜ひとつ抱へて妻が歩み来る霜に濡れたる石を踏みつつ

釘ぬきに抜かるる釘の鈍き音に浮かび来父の太き親指

墨色の廃油の染みし生命線洗へば明日が近づいて来る

鎌をあつれば褐色の実をふりこぼすエゾノギシギシ また秋が来る

長靴は足の抜け殻ほのぐらい闇を宿して突つ立つてゐる

てのひらのぶ厚い男と飲みながら千年前の話してゐる

紺瑠璃の空を翔け来る一羽ありたつたひとりの弟ならむ

(時田則雄 エゾノギシギシ 現代短歌社)

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時田則雄の第十二歌集『エゾノギシギシ』を読む。

1946年北海道生まれ、百姓、とあるように、農作業の歌が多い。北海道帯広市で大規模に農場を営むと聞く。
歌は素直で、大自然と、そこで生きる家族が主なテーマとなっている。
歌集名『エゾノギシギシ』は世界の五大雑草と呼ばれるほど繁殖力の強い草。
自分を投影するように何度もくりかえし、エゾノギシギシを詠んでいる。
五首目の釘抜きの音からの父への連想。九首目の「てのひらのぶ厚き男」で、相手のすがたや労働の様子を思わせる歌に注目した。




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八十の夏 奥村晃作 

2017-09-24 00:31:59 | つれづれ
独り異質の短歌を詠み来て変らざる我の短歌を我はよしとす

包丁の刃を石に研ぐ一定の角度を保ち三度に分けて

右の手の中指頰にわずか触れ弥勒菩薩は微笑みいます

ゾウを見てゾウさんと呼びトラを見てトラさんとふつう人は呼ばない

池水に立つ青鷺が細き脚泥から抜いて一歩踏み出す

ライオンが檻から抜けて会場に飛び出た場合われ等どうする

「あと何回桜見れるか」などと言う発想哀し八十のわれ

ビニールの傘が地面に張り付いて骨みな折れて雨強く打つ

黄金の八十の年代(とし)、傘を差し時には濡れて歩いています

コンクリの壁面固し 軟球のボール投げ込む一〇〇球に決め

(奥村晃作 八十の夏 六花書林)

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奥村晃作の十六番目に最新歌集『八十の夏』を読む。
奥村さんは昭和十一年うまれで、現在は八十一歳。八十歳のときの一年間の歌を収めて『八十の夏』を出版した。文字通り、八十歳の一年間の記録となっている。

一首目。誰のものでもない自分の個性を発揮して詠む短歌への言挙げ。二首目。二句切れの歌。角度、三度の「度」が別の意味を持ちながら、音としては四句め、五句めでリフレインする。定型ぴったりなのが心地よい。
三首目。細かいところまでよく見ている。微笑みいます、のやわらかい言い方が魅力的だ。
四句目。そういえば、トラさんとは言わないと気づかせる発見の歌。こういう歌は奥村さんしか詠まない。逆に「ふつう」って何だろうと感じる。
五首目。丁寧に青鷺を見て、表現しているのが魅力。
六首目。木下大サーカスという一連から。過去の作品に「もし豚をかくの如くに詰め込みて電車走らば非難起こるべし」がある。現実のことから、もし何かが起こったらどうしようという不安が心を過ぎり、それを歌にする。わたしも似た不安を持つことがあり、よくわかる。
七首目。「あと何回桜・・・」という発想はよくある。よくあるからと、歌にするのを止める歌人は多いだろうが、これを敢えて行うのが奥村流。「見れる」は「ら抜き言葉」だが、押し通す。
八首目は強い歌。これでもか、これでもか、と重ねるように描写して、雨の強さを言う。それが歌の強さになる。
九首目。八十歳であることを黄金と言ったのが、素晴らしい。下句にも説得力がある。「歩いています」に実感がこもる。
十首目。八十歳でこんなに強い運動をする人が他にいるだろうか。アンソロジーにある「くろがねに光れる胸の厚くして鏡に中のわれを憎めり」に戻って読むと、味わいが深い。
ますますのご健詠を祈ります。

八十を越えて終電・終着の駅でタクシーに乗る愚か者

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やはらかい水 谷とも子 

2017-09-14 01:17:55 | つれづれ
やはらかい水を降ろしてまづ春は山毛欅の林のわたしを濡らす

雨はもう止むんだらうな木の下のリュックに鳴つたサクマドロップス

カップ麵のふたに小石をのせて待つ今日のもつとも高いところで

木の影とわたしの影のまじりあひとても無口な道となりたり

夕焼けにひとりひとりが押し出され鞄さげつつ下りゐる坂

壮年の弟の首うなだれて「ごめん」と言ふうちおとうとになる

木とわたし話すことなどもう無くて霧にからだを湿らせてをり

なんだらうこのしづけさはと思ふときほたるぶくろの花のうちがは

袋から出したものなど口に入れコンビニのイートインコーナーにゐる

ふくろ買ひふくろ断り自転車の籠にふくろのあらは放り込む

(谷とも子 やはらかい水 現代短歌社)

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未来短歌会、谷とも子の第一歌集『やはらかい水』を読む。

谷さんとは、五年ほど前から参加している神楽岡歌会で、ほぼ毎月ご一緒している。神楽岡歌会に参加できることになって初めてのとき、同じように初参加で緊張していたのが谷さん。飾り気のない人柄でなんでも言い合う友達だ。谷さんは山歩きをする人で、それが歌の題材として生きている。

一首目、山毛欅の林で濡れる身体から、季節を感受する。三句目の「まづ春は」が効いている。二首目は、サクマドロップスの具体がリュックで鳴っていて、こちらまで嬉しくさせられる。三首目。山に登る人は、そうか、高い所でカップラーメンを食べるのか。蓋に小石を載せるのがユーモラス。下句がいい。この三首は「苔の花」と題された巻頭の一連。登山の様子がいきいきと描かれている。

四首目、七首目も、登山のうた。山道を歩くとき、声を出すことはない。静けさの中で作者と自然は一体となっている。五首目。夕方の仕事を終えての帰り道を、ひとりひとりが押し出され、と詠む客観性が良い。六首目は、弟=人間の出てくる歌。大人になった弟が謝るとき、ふと表情が子どものころに返った気がした。「壮年の弟」「おとうと」の表記にしっかり気配りがされている。
九首目の「袋から出したもの」は菓子パンだろうか。急いで食事をする感じが上句にうまく言い表されている。十首目。「ふくろ」の繰り返しに、ドラマが展開される。ふくろに注目しながら、人間が見える。

モノを通した描写が巧い作者であるが、やはり自然詠に魅力がある。現代ではどうしても人工的、観念的な歌が多く、その点で、自然に入って行って、対話できるということは貴重だ。また、文語と口語の混合、旧かなで書く口語表現ということにも注目した。

沢の面のひかりをうすく削ぐやうにカワトンボゆく前へ前へと

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風のおとうと 松村正直

2017-09-03 00:41:06 | つれづれ
鎌を持つおとこと道ですれ違うおそらくは草を刈るためのかま

ここに来るまでの歩みを巻きもどし頭のなかに傘をさがしぬ

あこがれとあきらめとあり天秤はまたあこがれに少しかたむく

子のためと言ってわれらがなすことのおおかたは子のためにはならず

らんかんをかんかんたたく傘の音ひびきて子らの下校の時刻

缶詰の中に知らない町がありカラフトマスの中骨がある

道を聞くひとと教えるひとといて日はかげりゆく秋の三叉路

この世では出会うことなき大根と昆布をひとつ鍋に沈めつ

もうわれを待つこともなく祭へと駆けてゆき子は参道に消ゆ

にんじんの新たな面を次々と生み出してゆく俎板のうえ

(松村正直 風のおとうと 六花書林)

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松村正直の第四歌集『風のおとうと』を読む。

さまざまな短歌の場でお世話になっている松村正直さんの歌集。2011年から2014年までの作品をまとめた一冊になっている。

一首目。こわい歌である。下句から、もしかしたら別の目的に鎌を使うのかという連想をさそう。二首目。よくある経験である。傘をなくしたとき、言われればまず頭のなかから探しているのだ。
三首目。前向きで共感できる歌。こういうときに負に傾くと、わたしはがっかりしてしまう。
四首目。まったくそのとおり。五首目。「かんかん」の音をよく響かせている。k音の重なりの乾いた感じ。小学生って、なんで昔からこういうことをするんだろう。
六首目。昨年『樺太を訪れた歌人たち』を上梓し、樺太にことさら関心を持つ作者。缶詰の中にも町を見つける。樺太への愛がある。

七首目。道を尋ねるという行為を、聞くひと、教えるひとという両面から見ているのが面白い。下句は季節感がある。ほかにも物事の表と裏を見る歌があった。
八首目。この大袈裟な言い方に笑ってしまう。九首目。ひとり息子が成長していく姿を嬉しく、また寂しく見ている。親であっても歌人であるから、わが子をも客観的に見る。
十首目。まな板でにんじんを切っているだけのことでも歌にする力。

歌数は505首と多いけれど、飽きることなく読める。一読わかる歌だが、中身は深いところに届く。薄味でありながら、コクがあると言える。
2014年までの作品だから、その後の活躍を思うと、いずれ次の歌集を出すための助走かと思われる。短歌の実作と評論や文章にますます活躍する松村さん。

もう相当前になるが、府立図書館の前のベンチに座ってられるのを見つけて、おしゃべりをしたことがあった。何を話したのかは忘れてしまったが、あれがわたしにとって大事なひとときだったと、今も思う。ベンチはなくなってしまったが・・・。これからもよろしく。

もう死んだ人とこれから死ぬ人が向き合って立つ秋の墓苑に

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鱧と水仙49号

2017-08-30 23:27:20 | 鱧と水仙
鱧と水仙49号が出ました。

今回の作品は「雪花菜」14首。「きらず」と読みます。おからのこと。わたしのテーマの一つ、チープな食べ物シリーズ。
あと「バザール」という1頁分、何を出してもよいという企画では、短歌7首とエッセイで近況を書きました。

かずかずの惣菜ならぶ棚の前きのふと同じ雪花菜をえらぶ
しろがねの匙にココアを混ぜるとき時計まはりに沈む渦巻
(近藤かすみ)

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