臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

大室ゆらぎの短歌(其のⅣ)

2017年08月18日 | 結社誌から
○  鳴り出づる声明かとも思はれて忙しい夏の冷蔵庫歌ふ(2014/11)

○  悪口を言へばすなはち唇は歪みぬ野辺の草摘まむかな

○  山かひのひとすぢ道を人が来る物言ふゆゑに恐ろしき人(2014/10)

○  静脈に投入される麻酔薬ぱたんとまぶたのうへに落ちる闇(2014/8)

○  このうへなく落ち着き払つて頭からひゆつと闇黒に吸ひ込まれたり

○  桐の花を仔細に見むと桐の木に立て掛ける梯子ひかり眩しも(2014/7)

○  真つ暗な堤のうへを人魂のやうに灯して過ぎる自転車(2014/6)

○  石鹸と湯でいくたびも洗ふゆゑ老婆のやうな手をしてわれは

○  雨が降れば早くも夜になる空に眠りはきざす五時から眠る(2014/5)

○  半壊の元牛小屋の暗がりで飼はれて犬は吠えやまぬかも

○  剃り立ての頭を揃へしんしんと寒川高校野球部はしる(2014/4)

○  揃へずにをられぬ丸谷才一の全集を買ふ出るたびに買ふ(2014/3) 

○  夜を行く列車の音にこなごなに轢かるるこころ轢かれてしまへ(2014/1)

○  新聞は四時半に来るそれまでの時間が長いまだ暗ければ

○  死んでゐても毛はふはふはで撫でまはせばやはらかな毛が抜けやまぬよ(2013/12) 

○  うるさいのに何だか眠つてしまひさうほのあたたかくて少し汗ばむ(2013/11)

○  ニ十分は短い方と言はれたりさうかと思ひ薄く横たはる(2013/10)

○  奇つ怪な音を発する機械かなこれは何かに似てゐるテクノ

○  わが駆るは青い小さいシトロエンひかり眩しき半島を行く(2013/7)

○  シトロエンのかたちに自我は拡大すわれがくるまかくるまがわれか(2013/6)

○  山峡のゆふべ旧家の白壁にほつほつ落つる紅椿のはな(2013/5)

○  内容に飽きるのではなく文体に飽きるらしくて持ち替へる本(2013/4)

○  膝の高さにまつはる犬を掻き分けて朝の机にやうやう落ち着く(2013/3)


     「結社誌『短歌人』会員2欄」より抜粋   



○  峡覆ふ青葉の界に参入す いささかわれを失はむとして(2011/8)


     「結社誌『短歌人』会員1欄」より抜粋 


























                 

大室ゆらぎの短歌(其のⅢ)

2017年08月17日 | 結社誌から
○  猫の毛を梳けばどんどん小さくなり小さくなつて半分になりぬ(2017/8)

○  冬の前に死んでしまへばもう要らない服と思ひぬ、洗つて仕舞ふ

○  アスファルトしつとり黒く濡れてゐるそこにまばらに散る桃の花(2017/6)

○  真つ白いアイリングを持つめじろの眼、うつとりと閉ぢられてゐる(2017/5)

○  内臓が入ってゐるとは思へない小鳥の軽さ、てのひらに受く(2017/5)

○  文字通り狼藉とこそ言ふべけれ収穫直後のきやべつ畑は(2017/4)

○  悪しき実を持つとふ樒の花咲けば墓山の辺もやや明るみぬ(2017/3)

○  標本のやうな頭蓋が落ちてゐる。狸と思ふ、藪に蹴り込む(2017/2)

○  牛乳を買ひに牧場へわが犬ははだしで歩くわれは靴履く

○  定型に身を委ぬれば幾何かわれを失ふよろこびはあり(2016/12)

○  垂直に猫飛び上がる、前触れもなしに突然落雷すれば

○  鋤き込まれ牛糞堆肥が匂ふ宵、輪廻転生をやや信じ初む(2016/11)

○  遠雷は遠雷のまま終はりたり長いゆふぐれ夏葱を引く(2016/10)

○  暗がりを目覚めてくだる階段はいつもかならず一段多い

○  息苦しいばかりに咲いてひと鉢に二百四個の百合の花はも

○  暴風雨の一夜は明けてつながれた隣の犬が死んでゐた朝(2016/9)

○  交尾して卵を産めば死ぬといふ、口もなければ物も食べずに(2016/8)

○  自転車でゆく人その影白壁にしばらく映り行つてしまひぬ(2016/7)

○  大声といふそれだけで怯えたり人の話のなかばで帰る(2016/6)

○  声も上げずいつもそこにゐた眞帆ちやんは生き仏であつたと夫は言ひけり(2016/5)

○  あらたまの年を跨いで『イリアス』を三読したり注を繰りつつ(2016/3)

○  左目は本を読む目で右の目は遠くを見る目ひだり目使ふ

○  白巻の巻とは巻尾のことならむ細いながらに尾は巻き上がる(2016/2)

○  十日ほど病んで逝きたり大人しく声も上げずに耐へてをりしよ(2015/12)

○  わが犬のひらいてしまつた肛門に綿を詰めたり真つ白な綿

○  金沢へ片道四百五十キロ、シトロエンC3つばめ号駆る(2015/11)

○  日本海に沿つて北上、快走するわがつばめ号は夏の空の色

○  稲の花の匂ひ著けく夜もすがら水路を暗渠に落つるみづおと(2015/10)

○  大量に胡瓜の蔓は捨てられて腐らむとしていまだ腐らず

○  二十キロあつたからだが十二キロになつてしまひぬ固いあばらぼね(2015/9)

○  夕闇に紛れゆくときゐなくてもゐてもゐなくてもよいわれとはなりぬ(2015/8)

○  青鷺はぎやと鳴きたり竹やぶのなかから夜は始まつてをり(2015/4)

○  水仙を窓に活ければ猫が来て噛んで咥へて引いて行きたり(2015/3)

○  冷蔵庫以外のすべての電源を抜いてやうやうわが身はゆるぶ(2015/2)

     「結社誌『短歌人』同人2欄」より抜粋

結社誌「かりん」2017・5月号より(若月集より抜粋)

2017年06月09日 | 結社誌から
○  台のうえに足曲げ座り照射受けるわたしは極東の冷たい彫像   古田香里(藤沢)

○  如月の爪先の骨欠けており全きことまた遠のいていく

○  爪先の小さな骨が折れたとて骰子つくるに足りない大きさ

○  楊貴妃は器のようで愛されるためにはからっぽでなければだめだ

○  空をゆく鳥のかげ激しく横切りて翼竜夢見る駅のホームに

○  パティスリーは海辺にありてそこに行く世界は童話ほど美しくない

○  コロッケの匂いの小町通りにも『騎士団殺し』積まれておりぬ

結社誌「かりん」11月号より(岩田欄より抜粋)

2016年12月15日 | 結社誌から
○ ケアセンターの老女おしやべり老女むつちやくちや・傍若無人・唯我独尊 (川崎)岩田正

 岩田先生のお気持ちの程は、かく申す私にも、よく解ります。
 なにしろ、件の「老女」たちの多くは、お金持ちのくせして暇を持て余しているのですから、「ケアセンター」での「おしゃべり」が、人生最後の唯一の楽しみなのですからね。
 しかも、その「おしゃべり」の内容ったら、孫自慢のご亭主自慢と相場が決まっていますからね!


○ 小さな墓地購ひたりし後子のあらぬ二人の時間深まるごとし (市川)日高堯子

 そういう事ってよくありますよ!
 私・鳥羽省三の場合は、男子二人の子持ちではありますが、「小さな墓地購ひたりし後」の「(夫婦)二人の時間」は、それ以前とは比較にならない程にも「深ま」りました。


○ 書き掛けの手紙が二通それぞれに微妙にちがふ余白が残る (千葉)川野里子

 「二通それぞれに微妙にちがふ余白が残る」とありますが、「それぞれの余白」には、どんな違いがあったのか、評者の私としては是が非でも知りたいものである。


○ 七月のレッドドラゴンかくまでも甘きものとは思ひもよらず (台湾)日置俊次

 本作の作者の日置俊次さんは、只今、台湾に滞在中である。
 彼は「七月のレッドドラゴン」を食して「かくまでも甘きものとは思ひもよらず」などと能天気な事を仰っているのであるが、私に言わせれば、彼が「かくまでも甘きものとは思ひもよらず」と言って食したものが「七月のレッドドラゴン」だから良かったものの、それがまかり間違って豊満を以て知られる台湾娘だったりしたら、一体全体、どうなったでありましょうか?


○ 強さとはすさまじさだとひまわりの畢り見上げてきみ通院す (横浜)池谷しげみ

 大地にでんと根を張って夏の日を浴びて咲き、秋ともなれば沢山の実をならせる「ひまわり」は、見る者に「すさまじさ」をかんじさせるほどにも強い植物である。
 その「ひまわりの畢り」を「見上げて」、作中の「きみ」なる存在は「通院す」るのでありましょうが、彼が通院しなければならないのは、既に末期状態に達している癌細胞の故でありましょうか?


○ 「人見絹枝以来」といふ声流れ来てモノクロ画面の太ももの見ゆ (沖縄)松村由利子

 「人見絹枝」選手が陸上競技の女子・800米で銀メダルを獲得したのは、1928年に行われたアムステルダムオリンピックに於いてであった。
 それから64年後の1992年に行われた、バロセロナオリンピックに於いて、有森裕子選手は女子マラソンで銀メダルを獲得して、「人見絹枝以来」の快事として騒がれた。
 従って、「『人見絹枝以来』といふ声流れ来てモノクロ画面の太ももの見ゆ」という、本作中の「太もも」の持ち主は、あの有森裕子選手でありましょう。  

結社誌「かりん」11月号より(馬場欄より抜粋)

2016年12月14日 | 結社誌から
○ 仕事終へてせいせいと夜更けの水を飲むおや黄金虫が眠つてゐる (川崎)馬場あき子

 「妻は書きその腰の辺にわれ眠る妻夜遅くわれ朝早し」とは、馬場あき子先生のご夫君・岩田正氏の歌集『鴨の歌へる』所収の名作である。
 是を以て知るに、「眠つてゐる」のは「黄金虫」だけではなかろうかと存じます。


○ 枕辺に用意するもの安眠のためのリーゼは罠の餌のやう

 「リーゼ」とは「1978年に発売されたベンゾジアゼピン系抗不安薬」であるが、その効用としては「気分を落ちつかせる・緊張感や不安感の緩和・眠りやすくする」の三点が上げられ、「比較的に副作用が少ないので、高齢者向けの精神安定剤として精神内科の外来患者に処方される」とか。
 然しながら、「あまり頻繁かつ大量に服用すると〈眠気を催したり〉や〈体がふらつく〉などの副作用が出て来る場合もある」とか!
 そういう次第でありますから、馬場先生もその服用に際しては十二分にご注意ください。
 とまで申し上げてしまいましたが、この一首の「安眠のためのリーゼは罠の餌のやう」という叙述に着目してみれば、馬場あき子先生はどうやら「リーゼ」にも副作用がある事を、既にご存じであるらしい?


○ 大きい仕事二つ減らして遠白き秋なり兎を飼はんと思ふ

 「大きい仕事二つ減らして」から後の安心感と脱力感が「遠白き秋なり」という感覚を齎したのであり、それは欠落感をも伴ったものであったが故に、それを充足する為に馬場先生は「兎を飼はんと思ふ」に至ったのでありましょう。
 馬場先生に申し上げますが、先生は短歌結社「歌林の会」という、物凄く巨大で獰猛な猛獣を飼って居られるのではありませんか!
 結社誌「かりん」は、馬場先生が面倒を見なければ誰が面倒見てくれるんですか!
 

○ 馬や鹿の生肉を食む男らよ血の匂ひあらん近づきがたし
○ 生肉は胃に入りていかに溶けゆくやからだしだいに重たくなれり

 上掲の二首は、馬場先生が、去る九月二十四日に長野県塩尻市で行われた「第30回全国短歌フォーラムin塩尻」に選者の一人としてご臨席になられた時に詠まれた作品であろうと推察される。
 ならば、当日は、馬場先生と共に、選者として佐佐木幸綱先生、及び永田和宏先生がご同行なさったはずであり、また、司会者として穂村弘氏もご同行なさったはずでありますから、「フォーラム」終了後の晩餐会にも、食い意地の張った彼ら三人の獰猛な男性がいらしたはずである。
 従って、一首目作中の「馬や鹿の生肉を食む男ら」、即ち「血の匂ひ」がして、か弱い女性たる馬場あき子先生にとっては「近づきがた」い輩とは、歌人の佐佐木幸綱氏、及び、歌人の永田和宏氏、同じく歌人の穂村弘氏のお三方を指して言うのでありましょう。


○ イエス売つて銀得しユダの夜半の手を照らしたはずだ月の光は (横浜)高尾文子

 「イエス売つて銀得しユダ」という断定的な表現は、やや月並みな表現としての謗りを免れ得ませんが、その「ユダの夜半の手を照らしたはずだ月の光は」という推測的な表現は、敬虔なカトリック教徒である作者・高尾文子さんならではのロマンチックな表現として特筆するに値するものがある。


○ 月球が創られたのはいつ、どこで、だれに、芒の原で言問ふ

 八月十五夜の月、即ち「満月」は、「月球」と呼ぶに相応しい真ん丸な月である。
 「芒の原」に立ち尽くしていて、その「月球」を眺めながら、キリスト者にしてロマンチストたる作者・高尾文子さんは、「(この)月球が創られたのはいつ、どこで、だれに(よって創られたのか)」と、誰にとも無く「言問ふ」のでありましょう。
 熟慮してみれば、「言問ふ」とは、求婚の意である。
 ならば、本作の作者・高尾文子は、彼の「月球」に住まいせる神聖なる何者かに「言問ふ」のでありましょう。


○ 熟田津に船出せむ夜のおほきみの流離を知るやけふの満月

 「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」とは、今更説明するまでも無く、万葉集中第一の女流歌人・額田王の名作である。
 『日本書紀』の記載するところに拠ると、「額田王は鏡王の娘で大海人皇子(後の天武天皇)に嫁し十市皇女を生む」とあるが、『万葉集』〈巻一〉の収録歌「茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」(額田王作)と、「紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(大海人皇子作)との二首が、「(天智)天皇の、蒲生野に遊猟したまひし時に、額田王と元の夫の大海人皇子との間で交わされた相聞歌である」という説に従えば、彼の万葉の美女歌人・額田王こそは、二人の男性の胸から胸へと「流離」して止まない多情多恨の女性であろうと思われる。
 本作は、「『けふの満月』を眺めていると、万葉の昔に、額田王が『熟田津に船出せむ』として待ちこがれていた月の出を偲ばせ、尚且つ、『熟田津に船出』から後の額田王の人生の『流離』の跡が、私には偲ばれるのであるが、『けふの満月』よ、お前にもその事が偲ばれるのであろうか」と、作者の高尾文子さんが、「あまりにも美しい『けふの満月』に語り掛けている」といった内容の一首であり、一首の眼目は、四句目中の一語「流離」に在る。


○ このひともこのひとも歌をうすめゆく夏の木は悔しいから濃くなる (つくばみらい)米川千嘉子

 そうです。
 米川千嘉子さんが仰せになられ、ご危惧なさっているが如く、昨今の歌壇には(もしかしたら、歌林の会の会員の中にも)「歌をうすめゆく」だけが取り得の短歌を平気で詠む歌人(歌人ちゃん)が「このひともこのひとも」と、指を折って数え上げなければならないほどにも、わんさかわんさかと出没しているのである。
 こうした歌壇の現状を鑑みますれば、つくばみらい市の米川千嘉子さんのご邸宅のお庭の「夏の木」は、あまりにも「悔しいから」日増しに「濃くなる」のかも知れません。


○ 女物の傘ではすでにまにあはず蝙蝠ぬつとひろげ駆け出す
 
 本作の作者の米川千嘉子さんは、昨今、やや運動不足気味なのか、ささやかな肥満体になりかかって居られるのでありましょうか?
 だとしたら、「女物の傘ではすでにまにあはず蝙蝠ぬつとひろげ駆け出す」のも道理と言うものでありましょう。
 著名な女性歌人と言えども、還暦間近になれば、自らをカリカチュアライズして短歌の題材にすることもあるのであり、本作などはその一例でありましょう。
 

○ パルスオキシメーターの電池終はりたり入れ替へ可能はあはれのひとつ (群馬)渡辺松男
 

 本作の作者・渡辺松男さんは病気療養中であり、四六時中、件の「パルスオキシメーター」なる医療器具に自らの命を預けているのでありましょう。
 だとしたならば、本作は「ご自身の命を預けているものが、電池の入れ替えに因って作動したり作動しなくなったりする医療器具でしか無かったと知った時の、入院患者の愕然とした気持ちを詠んだ作品」でありましょう。
 ところで、件の「パルスオキシメーター」とは、「指先や耳などにセンサーを被せて、睡眠中の体内の酸素飽和度を計測する医療器具であり、病院などの医療機関に於いては、入院患者や麻酔手術を受けている患者が、睡眠時に無呼吸状態にあるか否かを診断する目的で使用する」という事である。


○ この家を出でずに終はる連日をあまり不幸とおもはず秋へ

 ご病気療養も長きに亙れば、その状態に置かれているのが自らの常体と思うようになり、ご自身がその状態に置かれている事を格別に「不幸」な事だ、と思わなくなるのでありましょう。

 
○ あ、いいぞお、走れ 甲子園のテレビの前の去年の父のこゑ (小金井)梅内美華子

 一首の眼目は、名詞「去年」に在り。
 去年の今頃はあんなにも元気であった父が、今は亡き人になってしまったのでありましょう。


○ 亡き人に加はりし父 灯籠の一つとなりて暗き水ゆく

 「亡き人に加はりし父」という上の回想句の後に「灯籠の一つとなりて暗き水ゆく」という嘱目句を付け加えて成り立っている一首である。 
 やや文意不明瞭ながら、末尾七音の「暗き水ゆく」が一首の眼目である。


○ ありの実やぶだうのにほふ秋となりもてあます洋なし型となる身を (東京)草田照子

  本作の作者・草田照子さんは昭和19(1944)年5月26日ご生誕でありますれば、既に後期高齢者と呼ばれる年齢に達して居られましょう。
 して、彼女は、お写真で拝見する限りに於いては、なかなかの美形かと存じますが、女性の体型も後期高齢者ともなりますると、或いは「洋なし型」の様相を呈するに至るのでありましょうか?


○ 行き交ひの旅人から本を没収し図書館を成せり古代アレクサンドリア (大和)松本典子

 本作に接するを得て、私はまた新たなる知識を得るに至りました。
 大和市にお住まいの松本典子さん、この度は真に有り難く存じ上げます。


○ 鹿ケ谷のフランス料理店に飲む赤葡萄酒(ブァン・ルージュ)くらくさざなみだてり (京都)中津昌子

 京都・東山の「鹿ケ谷」と言えば、彼の平家一門の全盛時に、藤原成親・西光・俊寛らの平家の政治に不満を抱く輩が集まり平氏打倒の謀議が行われた所である。
 その「鹿ケ谷のフランス料理店に飲む赤葡萄酒」が「くらくさざなみだてり」とは、穏やかならぬ出来事ではありませんか!


○ ベランダのわたしを恋した烏ゐてむかひの屋根に今日も見つめる (東京)石井照子

 本作も亦、前述の米川千嘉子さん作と同様に、自らをカリカチュアライズして詠んだ作品でありましょう。
 薹が立った女性歌人と言うものは、一首の傑作をものする為には、如何なる犠牲を払う事にも躊躇う事が無い、という事でありますが、という事になりますと、私たち男性はなかなかゆっくりもして居られません。


○ うっすらと悲哀のような雲が垂れ落蟬おおう静けさのあり (東京)鷲尾三枝子

 「雲が垂れ」ている様の直喩としての「うっすらと悲哀のような」という表現がなかなか宜しい。

結社誌「かりん」11月号より(かりん集より抜粋)

2016年12月13日 | 結社誌から
○ 人間のうろこのような山奥の棚田に秋のひざしのそよぐ (横浜)中山洋祐

 「山奥の棚田に」の「山奥の」は不要とも思われるが、「棚田」を「人間のうろこのような」と直喩表現した時は、「山奥の棚田に」と「山奥の」が在った方が宜しいかとも思われる。


○ ホテルに変わった小学校を見下して一本杉を越える満月

 少子化社会の我が国に於いては、人口減や市町村合併などに伴って住民の血税を費やして建てられた小学校や中学校の校舎が不要となり、その転用などが社会問題化している。
 本作の場合は、かつての「小学校」が「ホテル」されているとのことであるが、それは、過疎地の小学校と言うよりも観光地の場合でありましょう。
 その「ホテルに変わった小学校を見下し」て、今しも「満月」が村の「一本杉を越え」ようとしているのである。
 地元住民の感慨や如何?


○ ゆきすぎる海岸線を見るために、今、やわらかく捩じられた首 (名古屋)辻聡之
 
 結社誌「かりん」の次代を背負って立つ辻聡之さんは、愛車を飛ばして渥美半島一周のドライブにお出掛けになられたのでありましょうか?
 であるならば、「ゆきすぎる海岸線を見るために、今、やわらかく捩じられた首」の「首」のオーナーは、この度、お付き合いを初めたばかりの若き女性歌人でありましょう。

 
○ だれもみな頼りない首その上で笑ったり恋したり死んだり
 
 さすがは結社内受賞歌人の辻聡之さんである。
 件の彼女が「ゆきすぎる海岸線を見るために」「首」を「捩じ」曲げた時に、彼女の一瞬の動作を「やわらかく」と感じはしたが、直ぐ様、彼女及び彼女の「首」を見つめる視線が鋭く客観的なものになり、冷淡にも「だれもみな頼りない首その上で笑ったり恋したり死んだり」と詠むに至ったのである。
 歌人としての面目ここに在り、とでも言うべき作品である。


○ 水鳥も魚も食べず空っぽの胃袋のまま川は流れる (京都)大竹明日香

 言われてみればその通りで、「川」はいつでも砂利や泥や芥を飲み込む「胃袋」なのである。
 然るに、とある日のとある時刻の件の「川」に「水鳥」が浮かび「魚」が泳いでいたのであるが、それを見てとった作者は、「あの『川』は『胃袋』のくせして『水鳥も魚も食べず』に『空っぽ』のままで流れている」と洒落のめしたのである。
 洒落のめすこと、即ち、文学的修辞である。


○ 給与明細の数字もこもこ増えるかもベーキングパウダー振りかけおけば

 本作も亦、京都市にお住まいの歌人・大竹明日香さん一流の文学的修辞からなる一首である。
 「ベーキングパウダー振りかけ」れば、「給与明細の数字」が「もこもこ増える」のならば、私も川崎信用金庫の私名義の預金通帳に「ベーキングパウダー振りかけ」たいものである。
 それにしても「もこもこ増えるかも」とは、よく言ったものである。
 
○ コミークス巻頭カラーへ戻り来れば戦争前夜ののどかな酒場

 やや文意不明瞭な作品であるが、それを因って、この一首の深みが増すという側面もありますから、そこの辺りがこの一首の魅力なのかも知れません。


○ 執着とはアヲハタジャムの瓶の糊一箇所離れぬラベルのことか (横浜)長谷川典子

 ふとした発見・気付きが魅力の一首である。
 それにしても、「執着とはアヲハタジャムの瓶の糊一箇所離れぬラベルのことか」とは、良くぞ気付きたり!良くぞ言ったり!よくぞ詠んだり!
 そうです。然りです。
 私・鳥羽省三の場合は、「執着とはアシナガバチに刺されたっきり、いつまでもひかない頬ペタの腫れのことか」と思われます。


○ 再稼働再生支援再構築「再」付す言葉が虚しく増える (松山)吉岡健児

 全く以て「『再』付す言葉」とは「虚し」いものですね!



○ 色褪せたアグネス・ラムのポスターが未だ壁にある実家の部屋の

 我が国・日本で最初のグラビアアイドルと大活躍した「アグネス・ラム」さん。
 あのスリーサイズ〈B:90〉〈W:55〉〈H:92cm〉のナイスバデーの「アグネス・ラム」さんも今や五十七歳。
 寄る年波には勝てずに、あの〈ナイスバデー〉も今や沈没寸前とか?


○ 遮光せし薄暗がりにもの言はずわれを見据ゑる人体模型は

 「人体模型」が「われを見据ゑ」てものを言ったとしたら、浅草の奥山に小屋掛けして大儲けが出来るのではありませんか?


○ 夜の更けに帰りゆく道こおろぎの声を贅とし闇にやすらう (伊豆)船本惠美

 「こおろぎの声を贅」として聴くくらいが、私たち庶民にとっての身分相応というものでありましょうか?


○ 帰りたくないのであろう なかなかに灯ろうとせぬ流燈の火は (広島)岩本幸久

 「なかなかに灯ろうとせぬ流燈の火」を見て、「(ご先祖様たちも)帰りたくないのであろう」と思ったのは、最高最大のご先祖供養というものでありましょう。 


○ 黙し聴く 今そばにいる亡き父と車山山頂にうなる風音 (鴻巣)江川美恵子

 「亡き父」が「今そばにいる」との感覚が宜しい!


○ 夜空にも干支にも姿なけれども猫の気配は我家に残る (つくば)小野雅敏

 「夜空」とは星座。
 「干支」に「猫」の「姿」が無いのは、商(殷)代の中国で暦を作った者の責任として追求しなければなりません。
 また、星座に〈猫座〉が無いのは、古代ギリシャの王宮の守衛たちの責任として、これも亦、多いに追求する必要があろうかと存じます。
 それはともかくとして、つくば市にお住まいの小野雅敏さんのお宅では、今は亡き飼い猫・タマの「気配」が、今も尚、残っているのでありましょうか。


○ 猛暑日の陽を背負いたる大けやき樹液循環激しかるべし

 「猛暑日の陽を背負いたる大けやき」を目にして、「樹液循環激しかるべし」と思ったのは、さすがの小野雅敏さんです。
 なにしろ、彼っと来たら、三年前に死んだ飼い猫・タマの気配を未だに感じているくらいなんですから!


○ 藤村は末期の花袋に「死ぬのはどういう気持ちかね」と聞きたり (横浜)金井省二

 私も何かの本で読んだことがありますが、あの島崎藤村なら、それ位のことは仕出かしかねません。
○ 植木屋が上部(うえ)を切るしかないと言う我に見立てて愛でたる犬黄楊

 「我に見立てて愛でたる犬黄楊」の「上部」を鋸で切られてしまったら、横浜市にお住まいの金井省二さんは、気が狂ってしまうのではないかしら!
 

○ ハイジャンプ一度でいいからしてみたいタカアシガニは脚折りたたむ(相模原)羽嶋聡子

 「タカアシガニ」が「脚」を「折りたたむ」のは、「ハイジャンプ」する為なのでありましょうか?
 私は、魚介類の生態に就いての知識がまるっきりありませんから、何方か教えて下さいませ!


○ 兵児鮎の逆立ち泳ぎを見ておれば今の自分でいいかと思う

 『goo辞書』は、件の「兵児鮎」に就いて、「ヨウジウオ目ヘコアユ科の海水魚。全長約15センチ。体は細長くて著しく側扁する。体の後端はとげ状の突起になり、背びれが腹側に回って尾びれに接する。口は管状に長く、プランクトンを吸い込む。本州中部以南に産し、海底近くで、逆立ち姿勢をとる。」との解説を為している。
 それはともかくとして、私・鳥羽省三の場合は、「兵児鮎の逆立ち泳ぎ」に限らず、何を見ても「今の自分でいいかと思う」のであります。 


結社誌「かりん」10月号より(作品ⅠB欄抜粋)

2016年12月02日 | 結社誌から
○ 熊谷守一の猫の形に猫眠る形はかくも単純にして (広島)正藤陽子

 「熊谷守一の猫の形に猫眠る」とは、目前の光景であり、「猫眠る形はかくも単純にして」とは、目前の光景から得られた認識であるが、「猫」にしろ人間にしろ、生き物が「眠る形はかくも単純」なのである。
 こうした「単純」な「形」は「眠る形」のみならず、ありとあらゆる生き物の生きる「形」にも通じるのでありましょう。
 いろいろと示唆するところが多い作品であり、結社誌「かりん」10月号の「作品ⅠB欄」中の傑作中の傑作である。 
 広島市にお住まいの「かりん」会員の正藤陽子さんの作品には、これからも注視して行かなければなりません。


○ 「困っていることはありませんか」と見回りの隊員は孫のような若者 (阿蘇)中川 実

 本作の作者・中川実さんは熊本県阿蘇市にお住まいとのこと。
 阿蘇市と言えば、過日発生した熊本地震の被災地である。
 作中の「見回りの隊員」とは、日本全国から被災地救援の為に駆けつけたボランティアの若者の一人でありましょうか?
 作者の中川実さんは、その「見回りの隊員」を「孫のような若者」と仰って居られますが、そのように仰る時の中川実さんのお気持ちの程や如何?


○ 投票にゆく妻と吾常日頃かくあるごとく和みつつ行く (船橋)和木英哲

 「投票にゆく妻と吾」とは、「常日頃かくあるごとく和みつつ行く」とのことでありましょうが、「『常日頃』の作者と作者の奥様との間には厚い鉄のカーテンが結い廻されて、冷たい戦争が行われているのでありましょうか」といった、この作品に対する私の〈読み〉は、あまりにも偏った深読みでありましょうか?


○ 原爆忌 敗戦記念日 吾の生れし八月垣根をヤブカラシ覆う (川崎)広沢攸子

 広島長崎の「原爆忌」と我が国の「敗戦記念日」が重なる「八月」に、本作の作者の広沢攸子さんは、この世に生を享けたのでありましょうが、その「八月」に広沢攸子のご自宅の「垣根をヤブカラシ」が「覆う」とは如何なる凶事の前兆でありましょうか?
 それとも、これは彼女が今年の〈マージャンボ宝くじ〉の七億円の当選者となる前兆でありましょうか?


○ めうがの子採らんともぐる青藪にからだ透かしてつるむ舞舞 (佐渡)佐山加寿子

 佐渡市にお住まいの佐山加寿子さんが、佐渡見物に訪れる歌仲間にご馳走しようとして、お吸い物の具にする「めうがの子」を「採らんと」して「青藪」に「もぐる」と、「からだ」を「透かしてつるむ舞舞」が目についたとの内容の一首でありましょう。
 それにしても、件の「舞舞」どもは、真に以て運が宜しくありません。
 何故ならば、歌人なる人種は、目についたところ手当たり次第に短歌の題材として取り上げ、結社誌などを通じて日本中に喧伝してしまうような徒輩なのだからである。
 自らの性行為を短歌の題材にされてしまった、件の「舞舞」の前途に幸あらんことを祈る!
 

○ 肉付きが智恵子像のようだけど片胸たりない我の裸身は (青森)柴崎宏子

 「肉付きが智恵子像のようだけど」との自己認識は己惚れであり、「(肉付きが智恵子像のようだけど)片胸たりない我の裸身は」とは、あまりにも悲惨で厳しい現実的な自己認識でありましょう。
 しかしながら、人間の価値、なかんずく女性の価値は、「片胸たりない」云々で決められるような、単純なものではありません。
 青森市にお住まいの柴崎宏子さんよ、これからは「我の裸身」に「片胸」が「たりない」をことを励みとして、詠歌にご努力なさって下さい。
 とは申せ、私は何も、貴女に〈己が身体の欠陥を不幸と感じ、被害者意識丸出しの短歌を詠みなさい〉などと申し上げている訳ではありません。
  

○ 大癋見小癋見のごと朝なさな髭ととのへて祖父にあふ (川崎)塩野頼秀

 作中の「祖父」とは、今は亡き人でありましょうか?
 だとしたら、本作の作者の塩野頼秀さんは、いかにも厳しそうなそのご氏名に相応しい威厳を保持するべく、「朝なさな」、「大癋見小癋見のごと」く、殊更に「髭」を「ととのへて」、仏壇の前に膝まづくのでありましょう。
 私・鳥羽省三は、真に不可思議なるご縁で以て、本作の作者の塩野頼秀さんのご美髭を拝し奉ったことがありますが、それだけに、件のご美髭のオーナーの歌詠み・塩野頼秀さんが、ご自慢のご美髭に殊更に櫛をお入れになられて、「朝なさな」、ご自宅の仏壇の前に膝まづいて居られるとは、何ともまあ、滑稽極まりない図柄であり、〈能面の大癋見とは、その時、その場の彼のお姿に似せて、能面打ちの某が精魂込めてお打ちになられたのでありましょうか〉などと、思われてならないのであります。
 歌詠み塩野頼秀さんの畢生の傑作かと拝し奉り候。


○ 草野より出でし蝸牛は勝興寺の「越中国廰跡」の碑を這ひにじる (埼玉)江平幸子

 「草野より出でし蝸牛」が、あろうことか、恐れ多くも、阿弥陀如来をご本尊として奉る、富山県高岡市の古刹「勝興寺」の「『越中国廰跡』の碑を這ひにじる」有様に取材した一首であるが、本作を鑑賞する際に忘れてならないのは、件の健気な「蝸牛」に注がれる、本作の作者・江平幸子さんの、恰も阿弥陀如来の如き優しい眼差しである。
 私・鳥羽省三は、この一首に接して、思わず「やれ打つな蠅が手をする足をする」という小林一茶の名吟を口遊んでしまいました。     

結社誌「かりん」10月号より(岩田欄抜粋)

2016年11月27日 | 結社誌から
○ トイレの紙ぐるぐるとるはもつたいないもつたいないとぞ大正びとわれ (川崎)岩田 正

 「大正びと」ならぬ〈昭和十五年生れ〉の私・鳥羽省三も亦、「トイレの紙ぐるぐるとるはもつたいないもつたいないとぞ」思っています。


○ 「主よ」と呼ぶしづかな声をわれはもたず目つむれば夏の空に樹が響る (市川)日高堯子

 吾も亦、「『主よ』と呼ぶしづかな声」を持っていない人間でありますが、今、「目」を「つむれば」、部屋の中を飛び舞う死に損ないの蠅の羽音が聞こえて来ます。


○ 華氏百度日本に満ちて犬の鼻、蛙の水かき、わが脳乾く (つくばみらい)坂井修一

 「華氏百度」とは、摂氏に換算すると「37.8度」に過ぎません。
 仮に日本中が摂氏37.8度の高温に見舞われたとしたら、「犬の鼻」や「蛙の水かき」が「乾く」かも知れませんが、「わが脳」即ち、鳥羽省三の「脳」は「乾く」暇も無く、極めて順調に活動することでありましょう。
 東京大学大学院の教授様よ、軟弱なことを言ってはいけませんぞなもし!
 

○ 「国の秀や久住や高し」ちちははの飢ゑて仰ぎし久住連山 (千葉)川野里子

 「草深野ここに仰げば国の秀や久住は高し雲を生みつつ」とは、北原白秋作の一首であり、竹田市久住町には、この歌を刻んだ石碑が立っている。


○ 鳩山邦夫の訃報届きぬ椰子しげる公園にけふも舞ふ青き蝶 (台湾)日置俊次

 今は亡き・鳩山邦夫と「蝶」との関係、また、彼と台湾との関係は、本作の読者の皆様のご存じの通りでありますが、鳩山邦夫と本作の作者・日置俊二氏との関係は、寡聞にして私も知りません。


○ 手術のたびあと二年は生きたしと夫の二年の更新つづく (横浜)佐波洋子

○ オウム教にも大臣をりき 表情なき顔が議事堂の組閣にならぶ (横浜)池谷しげみ

○ やあやあ我はと始まるような戦争をなつかしむのは危険だけれど (沖縄)松村百合子

○ 鵺鳴くは地震の前触れかもしれず遠く近くを救急車ゆく (川崎)池内桂子

○ かまびすしすだく政治家蟬の声新緑染むまぶたをとぢむ (小野田)高崎淳子

○ 気位が高いと言へばすこし違ふよそよそしさが持ち味であり (浜田)寺井 敦

○ 一日の疲れの量に触れるごとまぶたの上に指先を置く (我孫子)遠藤由季

○ 二段階認証のやうな仏壇用ライターにて線香に火を移したり (横浜)鹿取未放

○ 憧れの名残りのごとくかすれつつ飛行機雲に白さまだある (さいたま)古志 香

○ 大きなる水玉模様の衣をまといはじけて歩く術後二年を (川崎)佐怒賀弘子

○ 辞書くりて見つけたる語の「隠し」には三つ目に載るポケットの意味 (新発田)泉 弘子

○ いいよどむ言葉をたれも補うな悲哀のごときもの消ゆるまで (新潟)西埜明美

○ わたし今何かをうたいたいだろか蟬全霊で鳴いている昼 (新潟)髙崎尚子

○ この夏も久住守景が妻子連れ涼みに来さうな夕顔の棚 (東根)庄司天明

○ 祝ひごとの後に聞きたり友の娘うつ病み飛び下り自死したること (千葉)齊藤みつ子

○ 棕櫚の葉にすがる二匹の空蟬をよけてホースの水を放ちぬ (鹿児島)辰野千鶴子

○ あの蟬にどんな世界が開けたか空蟬は虚空を見つづける (水戸)前野道子

○ 姉妹五人叔母につれられ亡き母の声聴くと訪ひし降霊の家 (八王子)白河里子

○ 良き事は気のせいなればうち捨てていつもの心保ちてゐたり (水戸)園部啓子

○ わが病や小康戻り白猫の野良また家に棲みつくらしき (千葉)田中茂子

○ 全局で選挙速報始まりぬカリンニコフに逃避する夜 (松戸)あさひな公枝

○ 親を送りはじめての夏私の立ち位置がいまだに分からずにいる (滋賀)佐々木まどか

○ お月さま見上げ本日平穏に勤めたことをまず感謝せり (横浜)高橋律子

○ 虚しさを両ポケットに閉ぢ込めて歩行マシンの一歩踏み出す (鹿児島)鷲尾陸子

○ 日に四度コーヒーを飲み浮かびくる歌会でしやべりしおのが愚かさ (盛岡)鈴木梅子

○ 「まだ歌を詠んでゐるのけ」と問ふごとく遺影の義姉は小さく笑まふ (柏)苅部國松 

結社誌「かりん」10月号より(作品ⅠA欄抜粋)

2016年11月26日 | 結社誌から
○ 栞ひも揺れて眠りを誘う時間図書館の窓を夏雲が過ぐ (広島)岩本幸久

○ 腰ひとつ痛いくらいで目の下に二匹のくまを飼う惰弱さよ (アメリカ)安永有希

○ きのふけふ油蟬啼きただ暑し迅く過ぎゆけこの世の時間 (静岡)泉 可奈

○ 作詞家も名司会者も横綱も星になりけり 昭和が終わる (千葉)愛川弘文

○ 妙なる白早暁の窓をはるかゆく八月六日と知らしめる鷺 (東京)櫻井千鶴

○ 警策に清しさ増して時も我も忘れて座せり寺の御堂に (那珂)池田美代子

○ 暑気払ひと梅干ひとつ口に入れ炎暑の街へ本買ひにゆく (豊橋)鈴木昌宏

 

結社誌「かりん」10月号より(馬場欄抜粋)

2016年11月25日 | 結社誌から
○ 目と鼻と口あたふれば棄てられてゐし木片もみほとけと化す (横浜)高尾文子

○ 十字架の木は何ならむ風説に花水木といふレバノン杉といふ

○ 悪夢のごとくスーパーマリオが似合ふ首相リオにあらはれわれは萎えたり (つくばみらい)米川千嘉子

○ 待ちかねし友のメールをあけたれば友は逝きぬとその子が書けり (東京)草田照子

○ しだれ桜がくらくかぶさる引き戸開け入ればすずし黒谷西翁院 (京都)中津昌子

○ 飛鳥なる誕生釈迦仏立像のふたつのちくびくすぐりたきを (東京)大井 学

○ 朝仕事にもいだ枝豆売り終えてあとは何もせぬ日と決める (新発田)島津エミ

○ ほのぼのと煙草くゆらす仕草など暮れゆく海に向かひて思ふ (草加)平林静代

 2014年10月25日死没の歌人・雨宮雅子(享年・85歳)に対する追悼歌と思われる。
 作中の「海」とは相模湾。
 雨宮雅子の歌集『昼顔の譜』に「北緯三五度東経二二九度相模湾沖きみが奥つ城」という、亡きご夫君・竹田善四郎氏を相模湾で海洋葬で弔ったと思われる一首が残されている。

○ 溺死者や胎児の屍流れ着く潮溜リもつマンションの脚 (東京)寺戸和子

○ 案内図天地まはしてわれも見る をみなの基点は常に自にある (東京)石井照子

 


挑発族今し歌林の聖域を侵さむとす!覚醒せよ、会員諸氏!

2016年10月23日 | 結社誌から
○  ささやかな本能 雨のはじまりを腕の毛がさやと教えてくれる  (名古屋)辻 聡之

 パソコンに「辻聡之」と入力し、検索ボタンを押してみると、何かの宴席と思われる雑然とした室内風景をバックにして結社誌「かりん」主宰の馬場あき子先生と並んだ一人の男性の姿が映し出されるが、件の男性は、角形の大きな伊達眼鏡を掛けて、今風な頭髪をしていて、必ずしも似合うとは思われない蝶ネクタイで首を縛られてはいるが、意外な事に「むくつけきおのこ」といった感じの大丈夫であり、過去の辻聡之作の短歌からイメージされる男性のそれとは明らかに異なるのである。
 本作は「ささやかな本能」という印象鮮やかな9音の歌い出しで以て始まるのであるが、件の実物写真を見てしまった今となっては、本作の歌い出しは「ささやかな本能」ならぬ「動物的な本能」と翻訳して読まなければならないのかも知れません。
 本作の意は「『雨のはじまり』を、私の『腕の毛がさやと教えてくれる』のであるが、それと言うのも、瀟洒な男性たる私自身の『ささやかな本能』が齎すところなのでありましょう」といったところでありましょうが、今の私は、作中の「腕の毛」を「豪腕剛毛」と翻訳して読み、「さやと教えてくれる」を「じわりと教えてくれる」と翻訳して読みたいような気がするのである。


○  驟雨あり選挙ポスターざんざんとほころびてゆく紫陽花の陰

 我が家の前の百段余りの石の階段を下りて行けば、かつては殷賑を極めた大山道に辿り着くのであるが、その傍らに、その季節ともなれば涼しい色して紫陽花が咲いている空き地があり、その空き地と大山道とを隔てるコンクリート作りの壁が、各候補、各政党の「選挙ポスター」の掲示スペースとなっているのである。
 私は、この度、この作品に接して、つい数十日前の6月の中頃に、前述の私の近所の「選挙ポスター」掲示スペースで展開されていた光景を思い出してしまいました。
 然り!
 梅雨時の驟雨に見舞われると、紫陽花の木陰に設置された掲示スペースに貼られた「選挙ポスター」は、今を盛りとして咲く「紫陽花の陰」に隠れて「ざんざんとほころびてゆく」のである。


○  雨、ランチルームに充つる沈黙に香を放ちたりわがカレーパン
○  直方体にとどめられたる牛乳のこの世のかたち提げて帰りぬ
○  しみじみと包丁は愉し内側を見せることなき日のキッチンで
○  空洞に砂糖がしみる七月のグレープフルーツくりぬきながら    
○  蕎麦、もやし、うどん、豆苗、細長きものばかり食う暮らしにも慣れ

 件の「馬場あき子先生とのトゥーショットの写真」を拝見する以前の私だったら、掲出の五首の作中主体(=作者)を「細面のソース顔の美青年」であると思ったに違いありませんが、件の写真を拝見してしまった今となっては、これらの作品の解釈に就いては、少なからず困惑して居ります。
 「雨」の日に「カレーパン」を作って「ランチルームに充つる沈黙」の中にその「香」を放つ青年。
 「直方体にとどめられたる」パック入りの「牛乳」を「この世のかたち」としみじみと思いながら「提げて帰」る青年。
 「内側を見せることなき日のキッチンで」、包丁を使って野菜を切りながら「しみじみと包丁は愉し」と思いつ呟く青年。
 「七月のグレープフルーツ」を「くりぬきながら」、「空洞に砂糖がしみる」としみじみと見入る青年。
 「蕎麦、もやし、うどん、豆苗」と、「細長きものばかり食う暮らしにも慣れ」て来た青年。
 こうした青年たち、即ち、掲出の五首の作品から読み知れる青年像は、あの「馬場あき子先生とのトゥーショットの写真」に映っている青年像とは、あまりにも隔たっているのである。
 斯くして、彼の塚本邦雄氏が、かつて『短歌考幻学』で仰った「もともと短歌といふ定型短詩に、幻を見る以外の何の使命があらう」という仮説の正しさが証明されて行くのでありましょうか?

 

○  薄もののすかーと銀河を曵くやうに渉るひとあり見惚れてしまふ  (横浜)黒木沙椰

 作者ご自身が実見なさった現実の風景ではありましょうが、あまりにも美し過ぎて、私・鳥羽省三も亦、思わず「見惚れてしまふ」のである。
 表現上の細かい点に就いて言えば、「薄もののすかーと」は、敢えて「薄もののスカート」とする必要が無く、このままの方が「すかーと」なる女性の穿き物の〈柔らかさや美しさをよく映し得ていると思われるのである。
 また、「銀河を曵くやうに渉るひとあり」の「渉る」がなかなかに宜しい。 
 何故ならば、「渉る」とは、単なる〈路上での直線的な移動〉ではなく、〈水の上を歩いて渡る〉という意味なのだからである。 
 作中の「薄もののすかーと」を身に纏った「ひと」は、横浜市緑区の〈こどもの国〉の芝生の上を渡り歩いていたり、川崎市麻生区の新百合ケ丘駅裏の跨線橋を渡り歩いていたりするのでは無くて、他ならぬ「銀河」の上を「薄もののすかーと」を「曵くやうに」して「渉る」のであり、もっと正しく言えば、「薄もののすかーと」そのものが「銀河を曵くやうに」して「銀河」の上を「渉る」のであるから、この作品に於ける動詞「渉る」の存在は、決して忽せにする事が出来ません。
 一首の末尾の「見惚れてしまふ」という七音に込められた、作者の手放しの褒めようも素晴らしい。

 
○  傍観者に終はらぬ生き方この先にもあるはず低く梅雨入りの雨

 「傍観者に終はらぬ生き方」とは、その対象が何であれ、ともかくも対象に積極的に関わって行く「生き方」である。
 問題は、関わって行くべき対象なのであるが、本作の作中主体とほとんど同一人物と思われる、本作の作者・黒木沙椰さんは、案外、その対象の何たるかをご存じで無いのかも知れません。
 であるならば、本作の作者は、この作品を通じて、日常生活の中で鬱積している得体の知れない欲求不満に対して儚い抵抗を試みただけのことでありましょう。
 黒木沙椰作の短歌の中で、目立った特色として挙げられるのは、一首全体の表現に漂う〈欠落感〉であり、〈喪失感〉である。
 作者・黒木沙椰さんは、「梅雨入りの雨」の中に身を置きながら、「傍観者に終はらぬ生き方この先にもあるはず」などと、希望とも不満ともつかない寝言めいた言説を弄して居られるのであるが、ならば問う。
 一体全体、本作の作者・黒木沙椰さんは過去に於いて、その対象が何であれ、それに対して積極的に関わった事がただの一度でもあるのでありましょうか?
 その回答が「NO」である事は聴かずして既に判って居りますが、人間という者は、老若男女を問わず、一般的に「本日、ただいま為すべき事を為そうとせずに、その解決を明日へ明日へと先延ばしする」ものであり、そうした自らの怠惰が原因で、日常生活の中に不満や失望を齎し、究極的には、それが得体の知れない〈喪失感〉や〈欠落感〉を彼に感じせしめるに至るのである。
 この事は単なる文学的な修辞の問題ではなく、一人の人間の生き方の問題である。
 ならば、本作の作者は、今、現在、何を為すべきか!
 その回答も亦、言わずして、作者ご自身が既に解って居られることでありましょうが、
 




○  子には子の語らぬ世界ありながらみんなで家族、紫陽花が咲く

○  やまもものジャム煮詰めればつぶつぶと本音は怒りにちかきものにて

○  過剰なる愛厭はれてほどかるるわが二の腕の猫の爪あと

○  いざとなればときが来ればとカタツムリひとりの覚悟背に負ひゆく

○  盆踊りの提灯昼を揺れてをりひとりにひとつの完結がある

○  砂を吐けば海の記憶も薄れゆきああ真水では生きられぬ貝  (鴻巣)江川美恵子

○  スーパーの袋を両手に提げてゆく直火で炙るような路地裏  (草加)かしたにみかこ

○  小気味よき音ひびかせて芋がらを食みてひとりの部屋の静けさ  (茨城)櫛田如堂

結社誌「かりん」9月号より(作品・岩田欄)挑発族、今し、歌林の聖域を侵さむとす!覚醒せよ、会員諸氏!

2016年10月21日 | 結社誌から
○  なにやらむ厨にものを刻む音人なき廃屋も夏は賑はふ  (川崎)岩田 正

 「廃屋」とは、いかにも岩田先生らしく、いささかならずご謙遜なさっていらっしゃいます。
 わずかばかりガタが来ているようには思われますが、岩田正先生のご邸宅はなかなか瀟洒なお住まいであるとお見受け致します。
 ところで、岩田先生のご邸宅には、毎年、夏ともなると、岩田・馬場両先生のご両親様やご先祖様方のご霊魂様がご帰宅なさるのでありましょうか?
 [反歌] キッチンで胡瓜を刻む音がする暁子の母さんまた出て来たか?  鳥羽省三


○  心配ごとあれば心は緊張す心配ごとはわれを生かしむ

 人の世に〈悩み〉即ち「心配ごと」は尽きません。
 因って、岩田正先生は百数十歳までものご長寿を約束されているのである。


○  住みしことなき家の夢またも見る堂堂めぐりは夜に及びて

 もしかして、茅ヶ崎辺りのあの家の光景が、岩田先生の見る夢の中で堂々巡りを………?
 ところで、先般読んだ、穂村弘氏との対談に依る馬場あき子先生の自叙伝『寂しさが歌の源だから』の記するところに拠ると、馬場あき子先生は、一時期、多忙を理由にして、ご亭主の岩田正先生と別居なさって居られた
とか。
 ならば、作中の「住みしことなき家」とは、或いは、その時期の馬場あき子先生のお住まいなのかも知れません。
 ならばのならば、「住みしことなき家の夢」を「またも見る」のも道理であり、その夢が「夜に及びて」も「堂堂めぐり」するのも道理でありましょう。
 [反歌]  独り寝のあまりに侘し彼の人の夢は今宵も堂々巡り  鳥羽省三


○  一対一裸一貫すがしくて相撲の人気野球にまさる

 初場所の琴奨菊に続いて、秋場所では豪栄道が優勝しましたから、大相撲に人気は益々高まることでありましょう。
 [反歌] 一対一蓮舫さんよ遣りなさい!鈴木庸介落としちやならぬ!  鳥羽省三


○  お利口さんぶつて昭和を生ききしが平成のわれさすが老いたり

 「お利口さんぶつて」とは、これは亦、岩田正先生らしく、「カマトトぶって」いらっしゃいますことよ!
 [反歌] 土俗派振りて短歌史を渡り来しも真実は叙情派ならむ  鳥羽省三 


○  夜の道うしろの足音不気味にて離りゆく音なにかなつかし

 「夜の道」を歩いている時の「うしろの足音」は「不気味にて」、「離りゆく音」は「なにかなつかし」とは、事の真実に迫る見事な表現である。
 [反歌]  この秋も去り往く今はなつかしく傾く月に見蕩るるばかり  鳥羽省三


○  老いが笑みうかぶるはたのし生真面目な仏頂づらこそ憎々しけれ

 その所為かどうかは解りませんが、お写真の中の岩田正先生のお顔は、いつ見ても微笑んでいらっしゃいます。
 あれは、〈微笑み顔〉と言うよりも〈含羞み顔〉と申し上げた方がより適切な言い方なのかも知れませんが!
 [反歌]  写し絵に笑みを浮かべて居られるも幾多の恥辱忍ぶるならむ  鳥羽省三 


○  眠るまでいくたび襖をあけてしめあけてしめ母は夜にとりすがる  (市川)日高尭子

 「眠るまでいくたび襖をあけてしめあけてしめ母は夜にとりすがる」とは、まさしく、私たち後期高齢者にとっての「身過ぎ夜過ぎ」を適切かつリアルに表現したものである。 
 [反歌]  消して灯し消して灯しのLED消さずじまひで明けにけるかも  鳥羽省三  


○  花終へて匂ふほかなきどくだみよ妻に嫌はれ狭庭に揺るる  (つくばみらい)坂井修一

 作中の「妻」とは即ち、彼の閨秀の誉れ高い米川千嘉子先生でありましょうが、米川先生は「どくだみ」の「匂」いが嫌いなのでありましょうか?
 [反歌]  花も香もありてめでたきこの世にて香をば厭へる米川先生  鳥羽省三 


○  朝の廊下ゆつくりと母の歩むとき氷上のやうに床は光りぬ  (千葉)川野里子

 川野里子さんの御母堂様にとっては、「ゆつくり」と「歩む」「朝の廊下」の「床」こそは、新横浜プリンスホテルのスケートリンクのようなものなのでありましょうか?
 ところで、「氷上のやうに床は光りぬ」とは、「『朝の廊下』を『ゆつくり』と『母』は『歩む』が、その母の前途は輝きに満ちている」とも解釈されましょうし、また、「『朝の廊下』を『ゆつくり』と『母』は『歩む』が、その母の『歩む』『床』は滑って危険だ」とも解釈されましょう。
 そのような多様な解釈を可能にしているのが、この作品の魅力の一つである。
 [反歌]  朝の廊下ゆつくり吾は歩むともたった五秒で玄関に着く  鳥羽省三 


○  子の多き公園に虫取り網を見ずせみに聞き入るものはをらぬか  (台湾)日置俊次

 作者のお住まいになって居られる台湾の子供たちは、夏休みになってもカブトムシやクワガタムシなどを獲って遊ばないのかしら?
 そう言えば、「私たち、飢渇に苦しむ人類に残された最後にして最良の食糧は昆虫であり、その事を既に知り、既に実践しているのは、お隣りの某経済大国の人々である」という謳い文句の書物を目にしたことがあります。
 [反歌] 蚤・虱・蜱に苦しみ蕉翁の一夜宿れる尿前の関  鳥羽省三


○  夜目に澄む水路にかかる右衛門橋ここゆけば右衛門に出会えるような  (横浜)佐波洋子

 作中の「右衛門橋」に該当する橋脚を、寡聞にして私は渡ったことは勿論、その名前すら聞いたことはありません。
 そこで、その名称に「衛門」の二字を伴った橋を挙げれば、「太郎右衛門橋とは、埼玉県の桶川市川田谷と川島町東野の間に架かり、荒川を渡る埼玉県道12号川越栗橋線の橋」である。
 また、「久右衛門橋」とは、「府中街道と玉川上水が交差する地点に架かる橋」であり、小平市の小平中央公園の入口に当たるが、直ぐ近くに津田塾大学が在るので、もしかすると、この橋を渡っている途中で才色兼備の女子大生に出会えるような」可能性だってありますから、是非、おみ足をお運び下さい。
 [反歌]  霧に咽ぶ南鳩ヶ谷の五右衛門橋の袂で逢ひしをみな真知子  鳥羽省 


○  丘の上の新総合病院しんと立ち蟻一匹ももらさぬ構へ  (川崎)池内桂子

 作中の「丘の上の新総合病院」とは、私の掛かり付けの病院、即ち「新百合ケ丘総合病院」でありましょう。
 小田急線新百合ケ丘駅から徒歩十分の「丘の上」に建つねその威容及びその施設設備の良さは、首都圏内の他のそれを圧するものがありますが、その警備状況が「蟻一匹ももらさぬ構へ」であるかどうかは、斯く申す、私も知りません。


○  一夜一編汲めども尽きぬ味はひの怖ろしをかし『山の人生』  (浜田)寺井 淳

 柳田国男の著『山の人生』は、私のかつての愛読書でありましたが、「陸封魚 – Island fish」により第36回短歌研究新人賞を受賞なさって寺井淳さんの、この著に取材した作品に接して、とても懐かしく思われました。
 因みに、彼の第一歌集『聖なるものへ』には、次のような魅力あふれる傑作が満載されているので、その一部を以下に転載させていただき、本作の鑑賞の足しにさせていただきます。
   水面よりたまゆら跳ねて陸封魚海の匂いを恋ふる日あらむ
   閉ぢられし世界に卵生みながら海にひかるる陸封魚われ
   水面より無数の指たつといふたつべし或は北斗をささむ
   さざなみはつひにさざなみ 極彩の愛しき疑似餌に釣られてゆかな
   軋みつつ人々はまた墓碑のごとこの夕暮れのオールを立てる
   神の贄なる鮑の太るわたつみは温排水の美しきたまもの
   ウツクシイニホンニ死せり日の丸の翩翻と予後不良の通知
   海風に揚がる奴凧(やつこ)の足にせる新聞の記事 たとへば「サカグチ」
   寸分も違はぬさまに礼なせる童顔の父子死者に何告ぐ
   軽々と春を孕みてゆく柳絮爪先立ちの手の少し先
   閉ぢられし世界に卵生みながら海にひかるる陸封魚われ  
   木末よりしたたるみどり一滴に世界をすべて閉ぢこめて 
   蕭々と降れる紅葉よわれのうちの小暗き湖をゆくうつほ舟
   ここを世界の中心とせり表徴はベンチの背なるカスガヰドロップ
   半日の喪服を解きて妻はいま夕餐の蓮根を煮るひと
   八月の身体髪膚気毀傷してピアスの穴ゆ青き空見ゆ
   耳たぶに鮮血のごときピアスつけ愛しき双子千代と八千代と
   チェロを抱くそのため息の低きにも女男ありて鳴るソナタそのほか
   死者はうたふあかときの窓むらさきのそのむらさきの葡萄のしづく
   悪友が美人局(デコイゲーム)の経緯を語りつつ割く落ち鮎の腹
   貴妃の喉縊らば洩れむ緋の吐息無花果の実をもぎていましも
   神よりの前借りならむ夏麻引く命をかたに馬券(うま)買へわが夫
   蕭々と降れる紅葉よわれのうちの小暗き湖をゆくうつほ舟
   どの花に恋を擬へむ曼珠沙華さながら子等に首を折られて   


○  白百合に薄き茶のしみ広がりぬ女ざかりは強く香りぬ  (川崎)尾崎朗子

 「白百合」に限らず、ユリの花には、6枚の花弁があるように見えるが、よく見ると、その裡の外側の3枚は〈萼片(外花被)〉であり、内側の3枚だけが〈本物の花弁(内花被)〉である。
 また、ユリの花には、外花被、内花被を問わず、それぞれの基に1本ずつ、計6本の雄蕊がついていて、それは蕾の時期や開花して間もない時期は、花粉が雌蕊の先の柱頭に着き易いように内側に傾いているのであるが、花盛りを少し過ぎた頃になると、それとは逆に外側に傾き、周囲の花弁の内側を茶色に染めて汚してしまうのである。
 本作の上の句の「白百合に薄き茶のしみ広がりぬ」という叙述は、最盛期を過ぎた白百合の花弁と雄蕊の花粉との関わりを、よく観察して活写しているのである。
 という事になりますと、下の句の「女ざかりは強く香りぬ」という二句は、本作の作者の思いとは別に、観察を怠ったための誤解に基づく描写と言えましょう。
 何故ならば、「白百合」の6枚の花弁の内側に「薄き茶のしみ」が「広が」るのは、その「白百合」の花が最盛期を過ぎている事を示しているからである。
 こうした事は、一に「白百合」に限らず、この世の中の動植物のどんな種族に於いても共通した事である。
 例えば、私たち人間が、特に人間の中の雌が、所構わず威張り散らしたり、「今日はユニクロ、明日はデパ地下」と日柄も構わずに出歩いたりするのは、その者が人生の盛り、生物としての盛りを過ぎている事の、何よりの証しでありましょうから!
 [反歌]  眉毛描き厚化粧して出掛けたりうちの嬶さま還暦近し  鳥羽省三 



○  若者は洗ふ車を持たざれば噴水の辺に虹を分けあふ  (横浜)鹿取未放

 いにしえより雨上がりの空に立つ「虹」に託して夢や希望を語り合ったり、苦労を分かち合ったりするのが、その性別を問わず、私たち若者の特権的な生き様なのであり、真の大人になるための通過儀礼なのであり、我が国の風俗なのであった。
 然るに、今の都会の〈イクメン〉とかと呼ばれる若者たちは、「虹」に託して語るべき夢も希望を持たず、否、かつての若者たちの夢で希望であり、現実でもあった、カッコいい日産の自動車さえも持つことがなく、たまの休みに女房子供連れで出掛けて来た、川崎市多摩区の生田緑地の子供広場の小さな「噴水の辺」に立つ小さくて哀れな「虹」を見て、「あっ、虹が立った!虹だ!虹だぞ!あそこに虹が立ったぞ!あれが本物の虹だよ!消えないうちに早く見ろよ、未来ちゃん!」などと、乳母車に乗っている赤ん坊に向かって人目も憚からず叫び、大人のくせしてペロペロキャンデーをぺろぺろ舐めているばっかりの女房に嫌われている始末なのである。
 「若者は洗ふ車を持たざれば」という上の句の表現から読み取れるのは、「失業者や非正規雇用者が若者人口の五十%にも達しようとしている、現在の我が国の政治・経済事情に対する、本作の作者の激しい怒りの情や悲しみの情」であるが、であればこそ、昨今の若者たちは「『噴水の辺に』立つ『虹を』見て、悲しみや苦労を『分けあふ』しか為すすべを知らない」のでありましょう。
 文句無しの傑作である。

結社誌「かりん」9月号より(其のⅢ) 我が国歌壇に、「銃刀を所持せず、言葉で以て主宰を刺殺せんとする、傷心のテロリスト」現れ出づ!

2016年10月09日 | 結社誌から
[作品ⅠA]

○  雨音の聞こえぬ窓のブランイドの角度を上げて雨を見ていた  (東京)江國 梓

 三句目中の「ブランイド」は「ブラインド」の誤植でありましょう。
 こうしたミスは、作者の不注意や怠慢に因って生じることもあるが、その責務の大半は校正者に帰するべきであり、世に言う「後世恐るべし」ならぬ「校正恐るべし」とはこうしたミスを指して言うのでありましょう。
 それはそれとして、「ブランイドの角度を上げて(正しくはブラインドの角度を上げて)」とは、如何なる意味でありましょうか?
 「ブラインド(blind)」は、「オフイスなどの窓の内側に取り付けて、外にいる人の視線から屋内を隠し、太陽光や風を遮るための遮蔽具」である。
 その構造はスラットと呼ばれる金属やプラスチックの細長い帯状の板を糸で繋いで造られていて、「開閉する為のコード(紐)を引いたり緩めたりすることに依ってスラットの角度を調節できる」のであるが、本作の作者が謂う「ブランイド(正しくは、ブラインド)の角度を上げて」とは、この事を指して謂うのでありましょうが、江國梓作中の表現としては不本意な表現である。
 本作が他ならぬ、才媛・江國梓作の一首である以上は、こうした誤植の存在は勿論のこと、こうした曖昧な言い方をすることも、到底、許されません。
 本作の作者の江國梓さんは、結社誌「かりん」の今日と明日を担うリーダーの一人であり、その編集にも関わって居られましょうから、こうした初歩的なミスが認められる作品を詠んだり、掲載したりしてはいけません。 
 喝!喝!喝!大喝!大大喝!
 [反歌]  汝が心のブラインド、そのスラットを開放せよ!汝が胸中を覗かしめよ!  鳥羽省三


○  玄関にこいつ来てたと子は連れ来 右中足の欠けたるくはがた  (東京)刀根卓代

 「玄関にこいつ来てたと子は連れ来」までは極めて順調。
 それだけに、五句目を「欠けたるくはがた」と一字余りにしたのが惜しまれる。
 このような、末尾の字余り句を「ゆったりとした気分が感じられて宜しい」などと評する評者が居たとしたら、その評言は、彼の鑑賞力の未熟さを暴露しただけのことである。
 喝!喝!


○  不幸なる生い立ちを聴くさ緑の楡の新樹のざわめきの下  (千葉)愛川弘文

 作者の愛川弘文さんは、千葉県内の県立高校の国語科教諭であるが、この頃は学校カウンセラーをも努めて居られるのでありましょうか?
 生徒の「不幸なる生い立ちを聴く」場所が、校長室や生徒指導室などの厳しい室内では無くて、「さ緑の楡の新樹」の「下」であるのは、出来るだけ生徒が話し易いような雰囲気作りの為でありましょうが、折からの風で、せっかくの「さ緑の楡の新樹」が「ざわめ」いているのは、計算外の出来事であり、この「樹」が「ざわめ」いている様は、生徒のみならず教師の愛川弘文さんにも、少なからず強迫感や逼迫感を与える結果となり、カウンセリングの障害になるのかも知れません。
 それとは別の考え方をすると、件の「さ緑の楡の新樹のざわめき」は、カウンセリング対象の生徒の幼さを表すと共に、件の生徒の語る「不幸なる生い立ち」の性質を、それとなく示唆しているのかも知れません。
 

○  からつぽのアルミ缶われ黄昏の動物園のざうをみてゐる  (秦野)細井誠治

 作者の細井誠治が「黄昏」刻の「動物園」で「ざうをみゐる」と、その傍らに、入園客が放りっぱなしにしていった「からつぽのアルミ缶」が転がっていた、というだけのことでありますが、作者の視線の先にある
 上の句の「からつぽのアルミ缶」と、下の句の「われ黄昏の動物園のざうをみてゐる」とは、一見、関わりがなさそうであるが、「からつぽのアルミ缶」が、「黄昏」刻の「動物園」の寂寥感を醸し出し、作者・細井誠治の一日の暮らしの虚しさをも象徴しているのである。
 余計な小細工をしないで、「ざう」は「象」と漢字書きにした方が宜しい。


○  酒呑みに非ざりし父、たまさかの酒は失意の夜にありしか  (秦野)細井誠治

 そうです。
 そんなこともありますから、「父」の「たまさかの酒」には、ご家族一同、温かい心を以て対処しなければなりません。
 折も折、つい先刻、私の連れ合いの許に、義妹から「今夜は、夫も二人の息子も飲み会があると言って出掛けたので心配だ。二人の息子に就いてはそんなに心配する必要は無いのだが、夫の方は、ちょうど昨年の今頃、渋谷での飲み会の帰りに、渋谷駅の階段から転げ落ちて救急車で運ばれた、という前科があるから心配だ」という趣旨のメールが入ったとのこと。


○  なめられてゐるぞ鳥類ビニールの虎が畑にゆれて威嚇す  (新潟)大石友子

 「なめられてゐるぞ鳥類!」と、作者は「鳥類」を使嗾せんとしているのである。
 その「鳥類」をなめているのは、「畑」のど真ん中に立ってする「ビニールの虎」なのであるが、よくよく考えてみると、虎は虎でも「畑」の中に立っている虎は、「ビニールの虎」ですから、舐めるも喰い付くもしません。
 従って、鳥類諸君よ、この際、とっくりと腰を据えて、大石友子の造った畑の作物をたっぷりと食べて、雪が降って、とてもとても寒い新潟の冬に備えて下さい!


○  無口な子髪抜けるほどの苦しみに気づけなかった父を許せよ  (広島)岩本幸久
○  一晩中無限連鎖の夢ばかりみていたんだとぼそりと言へり   (広島)岩本幸久
○  紛れこみし机上の蟻とながながと会話している子はこころ病む  (広島)岩本幸久

 七首連作(掲載)の中から、一、二首目と四首目を抜粋して鑑賞させていただきます。
 一首目などの内容から、作者の娘である「無口な子」は、年若くして円形脱毛症に罹っているものと推定されます。
 この娘の父親である作者は、「髪抜けるほどの苦しみに気づけなかった」この私、即ち「父を許せよ」と、「無口な子」に向かって謝り、かつ語り掛け、どうにかして口を開かせようとしているのであるが、そうした父親の思いが通じたのか、その子はやっと口を開いて、「私は『一晩中無限連鎖の夢ばかりみていたんだ』と『ぼそりと言』つた」ので、やっと事の真相の一部が解り掛けたのであるが、その後、その娘は室内に「紛れこみし机上の蟻とながながと会話している」のであった。其処で、その娘の父親である作者は、「この『子はこころ病』んでいるのだ」とやっと納得するに至ったという次第なのである。


○  髪洗ひ湯灌を済ますごとくにも胸に手をくみそのままねむる  (静岡)泉 可奈

 「髪洗ひ湯灌を済ますごとくにも胸に手をくみそのままねむる」とは、私たち後期高齢者の夕食後の、遣る瀬無い生き様をそのままに活写したものである。
 「湯灌を済ますごとくにも胸に手をくみ」という、二、三、四句目の叙述に漂う、高齢者特有の諦念的な心情を、同居している若いご家族の方々は、十分に汲み取るべきでありましょう。


○  会いたいとかこの子も思う日は来るか襖を閉めてドリカムを聴く  (三島)井上久美子

 「あなたに会いたくてまぎれ込む雑踏」、「あなたに会いたくてひき返す雑踏」と、ドリカムの吉田美和さんは、身もよじれるようにして歌うのであるが、私の娘である「この子」にも、そんな思いをする「日」は来るのだろう、と思いながら、私は、自室の「襖を閉めてドリカムを聴く」のである。


○  献花終え頭は垂れず目を閉じる精一杯なりヒロシマのオバマ  (千葉)田中友子

 「精一杯なりヒロシマのオバマ」が宜しい!
 然り!
 「広島や長崎に原爆を投下したために第二次世界大戦の終結を見ることに成功した」などという妄言を未だに口にして憚る事の無いアメリカ社会の中にあって、彼・オバマ氏は「精一杯」の事にしたのでありましょう。


○  ブラインド固くは閉じずひと日終え空なる姉と向き合いて寝ぬ  (東京)櫻井千鶴

 「空なる姉」=「今は亡き姉」である。


○  義母がよく「立つ瀬がない」と言いにけるその瀬を思う川のぞくとき  (笠間)多田智恵子

 一見すると、「単なる思い付きで以て詠まれた作品、言葉遊びのような作品」とも思われるのであるが、
 「義母」と作者の関係、即ち「姑と嫁との関係」を考えてみる時、「それなりの現実感と説得力を持った作品」のようにも思われる。


○  近頃はカラス、スズメも群れぬらし個に目覚めたるかリーダー不足か  (川崎)松本圭一

 この一首が、『グリム童話』の如き「寓話」だとすれば、この一首で以て、作者の松本圭一さんが寓せんする対象は何か?
 その「何か」の「何」は、百鬼夜行する「我が国政界」の現状か? 
 それとも、確たる指標なき「我が国歌壇」の現状か?
 仮に、後者であるとすれば、我らが松本圭一さんは「老いたるテロリスト」、「銃刀を所持せず、言葉で以て主宰を刺殺せんとする、傷心のテロリスト」でありましょう。   

結社誌「かりん」9月号より(其のⅡ)

2016年10月08日 | 結社誌から
[作品 Ⅱ]

○  定年を待たずに辞める後輩が脱走ですよと晴れ晴れ笑う  (川崎)桝本英樹

 「定年を待たずに辞める後輩」とある以上は、その「後輩」は、あと数年で「定年」を迎えるぐらいの年齢であったに違いない。
 であるならば、件の「後輩」は、退職勧奨金がプラスされた退職金を元手にして〈ラーメン屋台〉でも開くつもりで退職したのかも知れませんね!
 それにしても、その彼が「晴れ晴れ笑う」とは、私・鳥羽省三としては、少し解せませんね?
[蔭の声] 件の後輩は、さる有望ベンチャー企業にヘッドハンティングされたのである。


○  口開けて少女の眠る昼電車奥に未処理の虫歯がひとつ  (野田)松澤龍一

 千葉県野田市にお住まいの松澤龍一さんよ!
 貴方は見てはならないものを見てしまったんですよ!
 貴方は、思わず知らずのうちに、この世の禁忌に触れてしまったんですよ!
 貴方が思わず知らずのうちに犯した罪が、将来、貴方の身の回りにどんな災いを齎すか?
 貴方ご自身や、貴方のご家族、そして、親戚や姻戚に如何なる祟りを齎すか、貴方ご自身知っていて、そんなつまらないミスを犯したんですか!
 中学生や高校生くらいの少女にとって、自分の寝顔を赤の他人から覗かれるのは、どれくらい恥ずかしいことなのか、貴方はご存じなんですか?
 ただの寝顔ならまだしも、「昼電車」で「口開けて」眠っている「少女」の「口未処理の虫歯がひとつ」在るなんて事を、赤の他人の中年男性から知られたとしたら、それは即ち、その「少女」が、汗臭い中年男性の貴方に処女膜を破られたと同じくらいの屈辱なんですよ!
 件の「少女」が苛まれている屈辱感の大きさを思えば、私・鳥羽省三は、嵐寛寿郎扮する〈怪傑黒頭巾〉にでもなって、貴方方、松澤家の者に復讐して遣りたいような気だってしますよ!
 覚えてらっしゃい!


○  生年の証明書無くとも買へました映画館のシルバーチケット  (小平)深澤祝子

 小平市の深澤祝子よ!
 その顔をして、何を惚けてらっしゃるんですか!
 貴女のその顔の皺を見れば、貴女がアラフォー世代なのか、曾孫の三人も居るお婆ちゃんなのか、一目瞭然ではありませんか!
 とぼけるのもいい加減にしなさいよ!


○  一間の畝に大根葉蒔き終へて晴耕雨読と言ふも侘しき  (北海道)佐藤 衛

 然り!
 全くその通りでありまして、私としては、一言もありません!
 でも、たった一言言わせていただきますと、二、三句目に「畝に大根葉蒔き終へて」とありますが、そのうちの「大根葉」の「葉」は無用ではありませんか!
 何故ならば、貴方は、たった「一間の畝」に「大根葉」を蒔いたんじゃなくて、「大根」そのものの種、即ち、秋大根の種を蒔いたんですから!


○  わたくしが私でなくなりたい時にウツボ見に行くドンキホーテの  (東京)光野律子
○  店先の水槽の筒にじっとしてウツボは笑みを浮かべておりぬ    (東京)光野律子

 「わたくしが私でなくなりたい時」に「ドンキホーテ」の「ウツボ見に行く」のは何故か?
 それは、件の「ウツボ」が、「ドンキホーテ」の「店先の水槽の筒にじっとして」居るばかりではなくて、「笑みを浮かべて」いるからである。」
 即ち、本作の作者は、「凹んでいる時の自分と『ドンキホーテ』の『店先の水槽の筒にじっとして』居る『ウツボ』との間に通い合う何かを見出しながら、それでも尚且つ『笑みを浮かべて』いる『ウツボ』に、生きて行く勇気を貰う事が出来ると思って居る」のである。 


○  鳥を見に幾度も通ひしヘリポート今オバマ氏が確かに降り立つ  (広島)楯田順子
○  妹を見舞ひにあるいは図書館へ馴染みの道をオバマ氏がゆく   (広島)楯田順子  

 引退の日を前にして、米国の大統領閣下「オバマ氏」の人気が、急上昇したとか。
 その人気者の「オバマ氏」が、本作の作者・楯田順子さんゆかりの「ヘリポート」に「降り立ち」、「妹を見舞ひにあるいは図書館へ」行く時の「馴染みの道」を歩いて「ゆく」とあらば、被爆地・広島の一市民としての楯田順子さんは、どんなにか興奮し感激したことでありましょう!
 米国大統領「オバマ氏」を迎えた広島市民・楯田順子さんの熱狂ぶりが、あますところなく伺われる二首である。 


○  黄泉の世界は知らぬけど夏来れば供える水に氷片落とす  (秋田)飛田正子

 私・鳥羽省三は、神も仏もその存在を全く信じてはおりません。
 だが、それでも尚且つ、信仰心の欠片ぐらいのものは持ち備えているのであり、その証しとして、我が家には、私と私の連れ合いの両方の両親などを祀る棚がありまして、その棚の遺影写真の前には、毎朝、毎朝、主として私の連れ合いが、夏は真水、それ以外の季節にはお茶をお供えしてるんです。
 で、それに就いて、この夏にふと気が付いたことなんですが、私の連れ合いは、夏季間にお供えする真水を入れた緑色をした清水焼のお茶碗に、真水と共に冷蔵庫から出した氷の欠片を一個入れてるんです!
 私としては、これには吃驚仰天してしまい、「死んでしまった者には、暑さ寒さなど関係ないじゃないか!」などと、つい、うっかりと心無い言葉を口にしてしまいました。
 この作品に接して、私は、「この世の中には、私の連れ合いと同じような気持ちを持っている優しい女性が居るんだなあ」と思うと共に、「あの時は悪いことをしたなあ」と改めて思いました。 
 就きましては、本作の作者・飛田正子さんありがとう。
 私の連れ合いよありがとう。
 秋田美人のお二人よ、真に、真にありがとうございます。


○  棚の上の『釣り吉三平』ポンと落ち渓流釣りに行こうと誘う  (秋田)飛田正子

 「秋田」と言えば、漫画通なら直ぐさま『釣り吉三平』と来る!
 なにしろ、『釣り吉三平』の作者・矢口高雄は、私たち、秋田県出身者のヒーローですからね!
 その『釣り吉三平』の漫画本が、本作の作者・飛田正子さんのお宅の本棚に何冊か置かれていたのであるが、何かの拍子に、その中の一冊が「ポン」と音を立てて板の間に落下した。
 その様子を掴まえて、「棚の上の『釣り吉三平』ポンと落ち渓流釣りに行こうと誘う」などと、洒落のめすとは、流石は学力検査日本一の秋田県民!


○  デパ地下はおばさんの街と思いしが近頃おじさんごろごろしてる  (秋田)飛田正子

 ところで、秋田市内に〈デパート〉と呼べる程の華やかな商業施設がありましたっけ?
 私の記憶しているところに拠ると、本金と西武が喧嘩別れをしてからは、秋田市内には〈デパート〉と呼ぶような商業施設が失くなった、と思われますが!
 そう、そう、たった今、思い出したんですが、そう言えば、かつての秋田市には、「木内百貨店」なる、小規模ながらも老舗を誇るデパートがあり、私も少年時代の遠足で出掛けたように記憶しています。
 その「木内百貨店」は一時閉店していたようにも思われるんですが、また新たな場所で開店したんですか?


○  「用のなき日の雨は好き」梅雨時に聞かされつづけし母の口ぐせ  (川崎)由良真喜子

 然り!
 「用のなき日の雨は」は、私・鳥羽省三も大好きです。
 こんなことを思いながら、私は、結社誌「かりん」の九月号の「作品Ⅱ」欄から選抜した秀作の鑑賞文を記しているのですが、今、現在、私の耳には我が家の屋根打つ雨音が聴こえます。
 この雨音は、周囲の静けさを乱す程のものではなく、ましてや、この雨音に因って、私の鑑賞文を書く意欲や速度が乱されるような事は、決して、決してありません。(なんちゃって、カッコ付けちゃったりしてさ!あほみたい)


○  樹を映せば風も映りし水張田を苗の太りて占めゆく緑  (神奈川)鈴木八重子

 「樹を映せば風も映りし水張田」という歌い出しの叙景がなかなか見事である。
 「水張田」に映った「樹」の揺れで以て、作者は「風」の存在に気づいたのでありましょうが、それと同時に、「風」が吹くと「水張田」の水面に皺が寄るので、「風」の存在を知ることが出来るのである。
 「苗の太りて占めゆく緑」という後半部の叙景から解るのは、本作の作者が、この地にほとんど毎日のように通い訪れている、ということである。
 或いは、件の「水張田」は、作者の午後の散歩道の途中に在るのかも知れません。 
 本作の作者は、田園地帯に訪れた初夏を、視覚と聴覚のみならず、触覚を含めた身体全体の感覚で感得しているのでありましょう。


○  清正の井戸の湧水とめどなくひかりとなりて菖蒲田に入る  (川崎)近藤けい子

 「清正の井戸」とは、明治神宮御苑内にあり、昨今は都内有数のパワースポットとして知られていて、多くの若者たちが訪れている。
 同じ御苑内の、「清正の井戸」から少し離れた所に「菖蒲田」が在るので、「清正の井戸」から溢れた「湧水」が「菖蒲田に入る」事も有り得ましょう。
 「とめどなくひかりとなりて」とした比喩が素晴らしい。
 

○  「入院にて新聞牛乳止めます」と独居の門にか細き貼り紙  (山形)石川りつ子

 甥が郷里の街で新聞販売店を経営してますが、「近頃は配達部数が次第に少なくなっている」とのことです。
 なにしろ、近頃の若者たちは、新聞なんか頼まれたって読みませんからね!

結社誌「かりん」9月号掲載作品の鑑賞 馬場あき子先生危うし!

2016年10月07日 | 結社誌から
 「馬場欄」と言えば、本邦歌壇の最高峰〈白きたおやかな峰〉であり、〈奥の間〉でもある!その浄き〈奥の間〉に、今しも、あの暴漢・鳥羽省三が泥足を踏み入れ、落花狼藉の振る舞いをしようとしているのだ!馬場あき子先生危うし!立ち上がれ、「かりん」会員諸氏!


[作品・馬場欄]

○  氷切る音さいさいと聞こゆるはむかしなるかなよしずへだてて  (川崎)馬場あき子

 「氷」をあのバイオリンみたいなノコギリで切れば、「むかし」だけでなく今でも「さいさい」と爽やかな音を立てて切れるのだ! 
 従って、「氷切る音さいさいと聞こゆる」のは、決して、決して、馬場あき子先生の記憶の中にだけある「むかし」の風景ではなく、ましてや、「老いたる馬場あき子先生の幻想空間の出来事」ではありません。
 馬場あき子先生は、昨今益々ご健勝、ご健詠であらせられます。

 
○  茂吉は歌になるなあ人間の原点のやうな可笑しさありて  同上
 
 ご子息・茂太のお見合いの席で、間も無く我が家の嫁女になる若い女性のお膳から大好物の鰻を失敬したり、極楽と称して、馬穴を抱えて寝間に入るなどの、斉藤茂吉ならではの、あのユニークな振る舞いに着目すると、「茂吉は歌になるなあ!」「人間の原点のやうな可笑しさありて!」という仕儀とは、相成るのでありましょう。
 さすが、馬場あき子先生!  
 先人・斎藤茂吉をも笑い者にして、老いて益々ご健勝である。


○  この今も国境越えゐむ難民の飢渇にとほく仲秋の月  (横浜)高尾文子

 今となっては、「難民」たちが「飢渇」から解放されようとして「国境」を「越え」るのも、昔物語の如き様相を呈して来ました。
 折りも折り、「仲秋」の満月。
 彼ら「難民」は、今夜の月に如何なる思いを寄せて眺めることでありましょうか?


○  あはあはとやさしきものを島崎こま子の描く栗と毬  (つくばみらい)米川千嘉子

 作中の「島崎こま子」とは、「文豪・島崎藤村の次兄・広助の次女にして、叔父・藤村が妻女を失っていた時期に、叔父・藤村と不倫な関係を結んだ女性として知られ、藤村作の小説『新生』に登場する女性・駒子のモデルになった女性」である。
 「ややもすれば、淫乱極まりない女性と見られがちな『島崎こま子』の性格が、彼女の『描く栗と毬』と同様に、意外にも『あはあはとやさしきもの』である」とするのが、本作の趣旨でありましょうか?


○  ヘルパーは犬の葬儀に行きけるか紫陽花のころは犬も死もする  (群馬)渡辺松男

 作者・渡辺松男は、難病を抱えて病床に臥す身である。
 彼の境涯を察するに、「ヘルパーは犬の葬儀に行きけるか紫陽花のころは犬も死もする」という、この一首は、必ずしも戯作とは言えません。
 「紫陽花のころ」とは、即ち「梅雨時」。
 なれば、「紫陽花のころは犬も死もする」とは、詠むも道理の名言である。


○  千株のあぢさゐに名はうもれをり今若のちの阿野全成  (小金井)梅内美華子

 静岡県沼津市のホームページの記するところに拠ると、「『阿野全成』は、幼名を今若丸と言い、清和源氏の嫡流・源義朝の七男であり、頼朝の異母弟である。母は有名な常盤御前で、弟に乙若丸・牛若丸が居り、後にそれぞれ義圓・義経と名乗っている。平治の乱で父義朝は死に、牛若丸を除き、今若丸と乙若丸は出家させられた。全成は山寺の醍醐寺に預けられたが、次第に逞しく成長し、その荒法師ぶりから醍醐の悪禅師とも呼ばれた。/治承4年(1180)、源頼朝が韮山で挙兵すると、全成は密かに寺を抜け出し、修行を装いながら頼朝のもとに参ずると、頼朝はその志に涙して感動したと言う。/全成は頼朝を手助けした功績により、駿河国阿野庄(現在の東原、今沢から富士市境一帯)を与えられ、阿野を姓として阿野全成を名乗り、この地を根拠地とした。東井出に居館を構え、居館の一隅に持仏堂を建てて祖先の霊を弔った。これが現在の大泉寺である。/鎌倉に幕府を開き、武家政治を始めた頼朝は、正治元年(1199)に没したが,その後有力な御家人が次々と世を去ったため、源氏に代わって北条氏の勢力が次第に強くなって行った。全成は源氏の血を受け継ぐ者として、この状況を黙って見ていることが出来ず、建仁3年(1203)5月に阿野庄に於いて北条氏討滅の兵を挙げたが、幕府軍に謀叛の罪で捕らえられ、常陸国(現在の茨城県)に流され、同年6月23日下野国(現在の栃木県)で処刑された。全成の首は阿野庄の全成の館へ届けられたと伝えられている。/その後、源家の将軍として頼家、実朝が相次いで北条氏の謀略のために殺され、源家の正統が絶えるに及んで、全成の長男・時元も承久元年(1219)2月11日にこの地で反北条の兵を挙げた。執権・北条義時はただちに兵を差し向け、交戦10日の後、阿野一族は敗北して、時元も自殺した。全成・時元の墓は井出・大泉寺にあり、市の史跡に指定されている。/大泉寺には、下野の国で処刑された全成の首が一夜のうちに阿野の地まで飛んで来て、松の木の枝に掛かったという伝説が伝わっているが、現在では首が掛かったという松はない。現在境内の保育園庭には、首掛松の切り株の複製と碑が造られている。また、乳の出の悪い母親にイチョウの実を焼いて食べさせたところ、乳が出るようになったという。公孫樹観音の伝説も残っている」とか。
 本作中の「千株のあぢさゐ」の在る土地は、前掲の記事にある、「井出・大泉寺」であると思われ、その大泉寺は、愛知県犬山市栗栖に現存し、補陀落山を山号とする臨済宗妙心寺派の古刹であり、紫陽花の名所でもある。
 本作の作者・梅内美華子さんは、梅ならぬ「紫陽花」の咲く頃に、補陀落山・大泉寺をご参詣なさったのでありましょう。


○  アベノミクスなどと自分の名をつけて奢れる人の久しくもあり  (東京)草田照子

 「アベノミクスなどと自分の名をつけて奢れる人」とは、何方さんでありましょうか?
 「アベノミクスは久しからず」という世俗的例えが在るのを、本ブログの読者諸氏はご存じでありましょうか?


○  初夏さむし海芋好むと聞きたりし塚本邦雄没後十一年  (京都)中津昌子

 作中の「海芋」は「かいう」と読み、あの夏の尾瀬湿原を彩る「ミズバショウ」の別称である。
 「西方に海芋咲きたり咎ありてわれは死なざる六月の墓群」とは、塚本邦雄の第十歌集 『されど遊星』所収の一首である。
 掲出の中津作に「初夏さむし」とありますが、塚本邦雄がご逝去されたのは、2004年6月9日である。
 是に依って推測するに、本作の作者・中津昌子さんは、塚本邦雄没後十一年に当たる、今年の6月9日、京都市上京区寺之内通大宮東入妙蓮寺前町875の本門法華宗・妙蓮寺境内に在る、塚本邦雄(玲瓏院神変日授居士)の墓地を参拝されたのでありましょう。
 塚本邦雄は、生前に「朱の硯洗はむとしてまなことづわが墓建てらるる日も雪かという」という一首を詠み、心中密かに冬期間の死を予期していたようであるが、本願叶わず、入梅の雨降り頻る6月9日に入寂なさったのは、何ともお気の毒なことである。


○  「経済より命」などとうプラカード掲げるおとこの着てるユニクロ  (東京)大井 学

 「ユニクロ」と言えば、庶民価格の衣料品の代名詞的な存在であり、「『経済より命』などとうプラカード掲げるおとこの着てる」衣服としては最適なものと思われる。


○  いづくより湧く身力や安全柵ベッドよりはづし母は遊ぶも  (横浜)関口ひろみ

 「母は遊ぶも」と仰られても、当方としては、何らの対応策も持っていませんから、娘さんの貴女が、何とか始末をして下さい。


○  アクセスの数に驚くわがブログひとひのわれの知らざる複雑  (福岡)桜川冴子

 「アクセスの数に驚くわがブログ」とありますが、当日のブログ「桜川冴子の0時間目の短歌」のアクセス数は、予期していた数よりも少なかったのでありましょうか、それとも、多かったのでありましょうか?
 それに依って、「ひとひのわれの知らざる複雑」という下の句の解釈が大きく違って来ますが?

○  孤高でも孤立でもなく椋の老樹筋だつ幹に黒蟻這はす  (東京)石井照子

 「孤高でも孤立でもなく」なんて詠まれますと、私・鳥羽省三としては、我が事に就いて詠まれたように思ってしまいます。
 ところで、「椋の老樹筋だつ幹」という叙述は、「椋」という樹木の特徴をよく捉えている叙述と思われ、「黒蟻這はす」という五句目の七音と相俟って、この一首を佳作ならしめているものと判断される。


○  しゃくりあげる声をのせたる夏風が息子の幼き日を連れて来る  (秦野)古谷 円

 つらつらと思い出してみると、斯く申す、我が家に於いても、「幼き日」の「息子」が、よく「しゃくりあげ」て泣いていたものである。
 その「息子」からの一昨日の電話に拠ると、「彼・息子は、未だ四十代前半にして、さる大手企業の支店長職登用試験に合格した」とのこと。
 此のニュースに接して、彼の母親にして我が愛妻・S子が事の他に喜悦したのであるが、彼女の夫の私としては、「息子の合格よりも何よりも、その一事が最も嬉しかった」と、この際、私の拙いブログの読者の方々に告白させていただきます。
 ところで、本作の作者・古谷円さんのお住まいの神奈川県秦野市は、私の教員生活がスタートした土地でありました。
 それが故に、私は、結社誌「かりん」を手にするや、一番最初に「馬場欄」を捲り、当月の古谷円作品を拝見させていただいている次第であります。
 それにしても、「夏風が息子の幼き日を連れて来る」とは、よく言ったものである。
 なにしろ、「子供は風の子」という例えが在るくらいですからね!