臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

一首を切り裂く(024:謝・其のⅢ・柏原選手の熱き血潮は・改訂版)

2011年12月31日 | 題詠blog短歌
(村田馨)
○  新しき生命に感謝する人で水天宮は今日もにぎわう

 子授けや安産祈願の神様として知られ、首都・東京の庶民諸氏に親しみ愛されているのが作中の「水天宮」である。
 作者・村田馨さんが、“東京名所百首歌”中の一首としてお詠みになった本作に登場する「水天宮」は、東京都中央区日本橋蠣殻町に鎮座する“東京水天宮”かと思われる。 
 今から十五年くらい前に、私は、連れ合いと一緒に浜町の明治座で行われた歌舞伎を観た後に、蠣殻町の「水天宮」様に立ち寄ったことがありましたが、明日は平成二十四年・辰年の元日、あの「水天宮」様は、初詣客でごった返しの賑いを見せることでありましょう。
 あの日、私の連れ合いは、社前で密かに掌を合わせるような仕草をしておりましたが、既に息子を二人も授かっている上に、日頃から無神論者を装っている私は、彼女の密かな仕草を見ていないようなふりをして、がっちりと見てしまいました。
 彼女のささやかな宿願は、未だに果たされたようには思われません。
 息子たちは二人とも三十歳を過ぎておりますが、彼らを立派に育て上げなければならない、という私たちの責任は、未だ果たし終えたとは言えません。
 何はともあれ、今日は平成二十三年の大晦日である。
 我が連れ合いは、先刻から、パナソニックのホームベーカリーを使ってお餅を搗いている。
 お餅を搗くのは、私の連れ合いでは無く、あくまでも“パナソニックのホームベーカリー”なのである。
 〔返〕 パナソニックのホームベーカリーが餅を搗く餅を搗くのは人間ではない   鳥羽省三
     パナソニックのホームベーカリーが餅を搗くいとも容易く正月餅搗く  


(牧童)
○  いつだって感謝してるさ今はただアジアンタムが気になるだけさ

 「『感謝』の気持ちは、お金か品物か、何か具体的な物で示さなければ、相手に伝わるはずがない」というのが、我が連れ合い・翔子の口癖である。
 本作の作者の牧童さんも、「アジアンタム」の枯れ具合なんか気にしていないで、ダイヤモンドの指輪か何か、具体的な品物で「感謝」の気持ちを奥様に伝えなければ、正月早々、離婚騒ぎになりますよ。
 〔返〕 水遣りが過ぎても枯れるアジアンタム羊歯と女は取扱い注意   鳥羽省三
 

(南葦太)
○  うなされて謝罪しながら射精した どこか遠くでカルキのにおい

 下の句に「どこか遠くでカルキのにおい」とあるが、「カルキのにおい}」と「うなされて謝罪しながら射精した」こととは、何か関係が在るのでございましょうか?
 〔返〕  道端の観世音菩薩を写生した風の囁きを耳にしながら   鳥羽省三
 思いっ切り下がかった作品に対しては、思いっ切り神がかった返歌をするのが、鳥羽省三の流儀である。  


(伊倉ほたる)
○  謝りのメールは封印されたままスクロールばかり繰り返す指

 もしかしたら相手側の男性から仲直りの「メール」が届いているかも知れない、と思って、パソコンの操作画面を何度も何度も「スクロール」してみたのでありましょうが、届いているはずもありません。
 〔返〕  謝って済むものならば世話要らずスクロールする必要はない   鳥羽省三


(紗都子)
○  謝罪する言葉が胸にしずむときわだかまりの角すこしとろける

 テレビの画面に、政治家や官僚や大手企業の経営者などの「謝罪」会見と称する光景が映っているのは、昨今では格別に珍しいことではありません。
 しかも、彼らの口から飛び出る「謝罪」の「言葉」は、実の無い通り一遍のものである為、それを聴いている私たちの「胸」に「しずむ」ようなことは、ほとんどありません。
 本作の作者・紗都子さんが、この一首を通じて仰りたいことは、「どうせ『謝罪』の『言葉』を述べるならば、聴いている者の『胸にしずむ』ような『言葉』を述べなさい。彼らの口からそのような実のある『言葉』を聴くことが出来たとしたら、それを聴いている私たちの『胸』の中に在る『わだかまりの角』も『すこし』ぐらいは『とろける』かも知れませんから」といったことでありましょう。
 ところで、私はかつて、「抹香鯨が南氷洋の水中に『しずむとき』には、抹香の香りが海水に溶けるので海水一面が抹香臭くなる」という話を、捕鯨船の砲手をやっていた人から聞いたことがありますが、それと同じように、「謝罪する言葉が胸にしずむとき」には、「わだかまりの角」が「すこしとろける」のでありましょうか?
 で、その場合は、「わだかまりの角」が「すこしとろける」場所が、本作の作者の胸中に限定されますから、そうした場合の紗都子さんは、「わだかまり」臭い女性になるのでありましょうか?
 〔返〕  わだかまりの匂ひ消せずに詠む歌は抹香臭くて読むに耐へずも   鳥羽省三


(久哲)
○  ゴムの木の鉢植えだけが責任者謝罪会見中に寝てたよ

 どんな事件でも、「責任者謝罪会見」といった類の記者会見は、事件発生地のホテルを会場として行われるようである。
 これから「責任者謝罪会見」が行われようとしているロビーに、「ゴムの木の鉢植えだけ」が置かれているようなホテルは碌なホテルではありませんな?
 「ゴムの木の鉢植え」を「責任者」に仕立て上げて「寝て」いる本当の「責任者」は、賠償責任を果たすつもりが無いのでありましょう?
 ところで、本作の題材となった一件は、久哲さんが広げた大風呂敷、即ち「適当緑化計画」の破綻に伴って行われた「責任者謝罪会見」でありましょうか?
 だとしたら、適当にしろ不適当にしろ、“緑化計画”の破綻の「責任者」を「ゴムの木」に押し付けるとは、本当の「責任者」の久哲さんもなかなか味なことをやるものである。
 〔返〕  責任はゴムの木だけでは負えません緑化計画根っこから枯れた   鳥羽省三


(空音)
○  供給と代謝と背筋を整えて正しく生きよと整体師言う

 自分は必ずしも正しい治療をしていないくせに、「正しい姿勢で歩きなさい!」「正しいサプリを服用しなさい!」「正しい生活をしなさい!」などと言うのが、彼らの正しくない遣り口でである。
 〔返〕  料金と治療効果が見合うよう正しい仕事をして下さいよ   鳥羽省三


(ミウラウミ)
○  この花の名前はわからないけれど謝っているみたいにみえるね

 「謝っているみたいにみえる」「花」というものは確かに在るものである。
 その代表選手は、いつも下向きに咲いている鈴蘭である。
 向日葵も昼間だけは下向きに咲いていますが、夜になると踏ん反り返って威張って咲いています。
 彼らは、除染効果が無かったという責任感を少しも感じていないみたいです。
 〔返〕  この花の代金は二万円なり今年は二つも花輪を上げた   鳥羽省三


(桑原憂太郎)
○  これからの相手の出方を見定めて校長室で謝罪をいれる

 題材となっているのは、当世流行りの“モンペ”への対処方法でありましょう。
 とは言え、「これからの相手の出方を見定めて校長室で謝罪をいれる」といった、安易な対処法をいつまでも続けていたら、教育者としての良識や主体性が疑われることになりましょう。
 〔返〕  相手側がどんな出方をしたとしても謝る場面では謝りましょう   鳥羽省三


(今泉洋子)
○  駅伝の中継カメラが映しをり拝観謝絶の古都の寺院を

 「駅伝」と言っても、本作の題材となっている「駅伝」は、明後日に行われる箱根駅伝ではなく、“全国高等学校駅伝競走大会”である。
 会場が京都市内の目抜き通りでありますから、沿道には「拝観謝絶」ということで、本作の作者・今泉洋子さんにとっては垂涎の的とも申すべき「寺院」が幾つもありましょう。
 その中の一つが、我が家の液晶画面に映ったからと言って、佐賀県ご在住の作者は、我が家が檀家総代になっている「寺院」が日本中に公開されたかのように喜悦乱舞なさっているのであるが、その有様は、まさしく平成二十四年の“笑い納め”とも言うべき大慶事でありましょう。 
 明後日に行われる“箱根駅伝”の沿道にも、池上本門寺や藤沢の遊行寺や小田原の早雲寺などの名刹が映りますよ。
 〔返〕  駅伝の中継カメラも映せない柏原選手の熱き血潮は   鳥羽省三
      日テレの中継カメラが大写し柏原選手の歪んだ顔を

一首を切り裂く(024:謝・其のⅠ・穏かに目覚めたというそれだけに)

2011年12月30日 | 題詠blog短歌
(五十嵐きよみ)
○  穏かに目覚めたというそれだけに感謝を捧げたい朝がある

 五十嵐きよみさんのご職業は“歌人”乃至は“著述業”でありましょうか? 
 何事に於いても世知辛い昨今の世の中であってみれば、著作だけで生計をお立てになっているとは限りませんが、かと言って、あの繊細を絵に描いたようなご性格の五十嵐まよみさんが、ご自身の金銭欲や色欲などを満たす為に格別な修羅場にお立ちになるとは思われませんから、源氏物語の薄幸なヒロイン・夕顔よろしく、就眠時に何かの悪霊に魘されるようなことは考えられず、したがって、毎朝のお目覚めは極めて「穏か」なものであろうと、他所眼には窺がわれるのである。
 ところが、その五十嵐きよみさんにしてこの歌あり。
 昨今の世の中に於いては、老若男女、年齢やご職業や美醜の分け隔て無く、誰一人として、安眠することが許されないのかも知れません。。
 〔返〕  年年に汝が懊悩は深くしていよよ儚き安寝なるらむ   鳥羽省三
 

(木下侑介)
○   謝ってすむことなんかありはしない 君のパンティくれるなら別

 毎年、毎年、それほど容易とは言えないテーマにチャレンジされているご様子、真にご苦労様に存じます。
 毎回、毎回、はらはらし通しの御作を読ませて頂いて居りますが、この度は、わりかしすっきりした作品に仕上がったご様子ですので、他人様の為す事ながら安心致しました。
 この上は、何卒、「君のパンティ」の百首連作を必ず為し遂げられますように、伏してお願い申し上げます。
 〔返〕  謝ったからとて決して許さない君のパンティ盗んだコソ泥   鳥羽省三
 「君」と言っても、この返歌の場合は何方か女性を指して言うのでは無く、大丈夫の男性たる木下侑介さんを指して言うのである。
 それにしても、変なコソ泥が居たもんですね。


(tafots)
○  袋からこぼれかけてるポンカンを支えるように謝れたなら

 「袋からこぼれかけてるポンカンを支える」ことが簡単なことであるかどうかは、「こぼれかけてるポンカン」の数にもよりましょうが、“tafotさん”のあのご美顔から「こぼれかけてる」微笑を抑えるよりは、幾分か容易いことでありましょうか?
 その是非はともかくとして、私自身が当ブログに於いて皆様方のご気分を乱したりして犯した過ちを、「袋からこぼれかけてるポンカンを支えるように謝れたなら」ば、真に幸せこの上ない事と存じます。
 〔返〕  投網から逃げんとしてる若鮎を一網打尽にしてしまいたい   鳥羽省三
      美顔からこぼれるような微笑を来る年もまた見せて下さい


(浅草大将)
○  あま人がいねの港につきの夜は与謝の海辺に舟影もなし...

 作中の「いねの港」とは、あの舟屋で有名な伊根町のことであり、同じく「与謝の海辺」とは、京都府与謝郡に属している二つの町に面している「海辺」を指しているものと思われ、件の伊根町も亦、与謝野町と共に「与謝の海辺」の一廓を成しているのである。
 本作は、浅草大将さんの御作ならではの、掛詞を駆使した作品であり、丹後の「与謝」と言えば、俳諧の中興の祖として知られている与謝蕪村の出生地であるから、何事に於いても学識深い浅草大将さんは、この作品の創作に当たって、俳諧味を付与することを十分にご意識なさったのでありましょう。
 試みに「あま人のいねの港につきの夜」としたら、朝日俳壇の入選作と比べても遜色ない俳句となる。
 蛇足ながら、「いねの港」の「いね」は、地名としての「伊根」と“寝る”という意味の「寝ね」との掛詞であり、「いねの港につきの夜は」の「つき」は、「月」と「着き」との掛詞であることにも注意しなければなりません。
 
 〔返〕  あまびとがいねの港につきの夜は与謝の五平もいねをつくなむ   鳥羽省三
 『月夜の五平』は、与謝蕪村の俳文の傑作として、“知る人ぞ知る”といった存在である。


(西中眞二郎)
○  深々と頭を下げて謝るも演技のごとく見える日もあり

 本作の作者・西中眞二郎さんも亦、通産行政側の責任者の一人として、「深々と頭を下げて謝る」ような場面を演じたのでありましょうか?
 〔返〕  過ぎ去ってみれば懐かし深々と頭を下げて謝る演技   鳥羽省三


(砂乃)
○  日替わりのニュースの中ではうつむきて大臣がまた謝罪をしてる

 例え、演技にしても、官僚や大臣や東電の役員などは、再三に亘って「謝罪をしてる」のであるが、某製紙会社のぼんぼん元社長様や某県の知事殿が頭を下げた場面を目にしたことは、私は、一度として目にしたことはございません。
 〔返〕  日替わりのニュースなれども変わらぬはお偉いお方の謝罪の図柄   鳥羽省三


(髭彦)
○  幹部らの薄き頭の映りゐる謝罪風景日々にうとまし

 さすがの髭彦さんも、毎日、毎日、同じような図柄を見せつけられたら、「日々にうとまし」くなり、音をあげてしまったのでありましょうか?
 〔返〕  テカテカの禿ばかり診る町医者が緑なす黒髪の女医   鳥羽省三


(夏樹かのこ)
○  フラッシュに目を伏せ謝罪する人も一人の父親なのかもしれない

 そうかも知れませんよ。
 『僕のパパは東電社員だ』という、開き直ったようなタイトルの書籍がベストセラーの位置を窺がっているような昨今の世の中ですから。
 〔返〕  フラッシュに目を伏せ謝罪する者は髪の薄さに悩まぬらしい   鳥羽省三  


(飯田彩乃)
○  謝れば許すあなたに許されてしまうわたしを許せないでいる

 そんなに頑なに考えてはいけません。
 この世の中の人間関係、その中でも特に、男女関係は大抵そうしたものですよ。
 そもそもは、「謝れば許すあなた」に、飯田彩乃さんご自身がご自身の極めて大切なものを許してしまったことから生じてしまった関係でありますから。
 〔返〕  謝れば許してしまう仲だからこれからも亦我が儘言いな   鳥羽省三


(アンタレス)
○  両親がわたしに呉れし愛情に感謝の言葉結婚式だけ

 作中の「わたし」を作者ご自身とすれば、本作は極めて“ミーハー”的な内容の短歌として解釈される可能性がありましょう。
 そうした誤解に対する対応策の一つとしては、作中の「わたし」を世間一般の薄っぺらな考え方の若い男女として、本作が、「当世風の結婚式そのものや、その際の両親への花束贈呈の場面で述べる花婿・花嫁の感謝の言葉などに対する風刺乃至は批判」を主題とする作品であることが明確に判るような作品にする必要がありましょう。
 また、より具体的な対応策としては、作中の「両親がわたしに呉れし愛情に」を「パパママがわたしにくれた愛情に」と改めれば、風刺や批判の度合は更に深まりましょうし、事の序でに後半の“七七句”も改めて、下記の返歌のようになさったらいかがですか。
 短歌を詠む場合は、その作品の主題や作者ご自身の創作意図が読者の多くに明確に伝わるように、推敲の上に更に推敲を重ねるべきでありましょう。
 推敲不足の短歌は「産みっ放しの赤ん坊」のようなものです。
 〔返〕  パパママが私にくれた愛情に感謝をこめて花束贈呈   鳥羽省三


(行方祐美)
○  行方や中野などより謝花さんそんな名字に呼ばれたかつたよ

 『少林寺木人拳』は、1976年に香港で製作され、1981年に我が国でも公開された映画である。
 作中の「謝花さん」に該当する著名人と言えば、映画『少林寺木人拳』が我が国で公開された際に、その主題歌『ミラクル・ガイ』を歌って、一躍スターダムにのし上がった沖縄出身の歌手・謝花義哲の名は、未だに私たちの記憶に新しいところである。
 この際ですから、「謝花」を姓とする、沖縄出身のもう一人の人物について、覚え書き程度のことを記して置きましょう。
 謝花昇は、慶応元年9月に、現在の沖縄県八重瀬町に生まれ、明治15年に、沖縄県で最初の留学生・五名の一人に選ばれて上京して学習院で学んだ後、沖縄県最初の学士として、東京帝国大学農科大学を卒業した。
 九年にも及ぶ東京生活での苦学生活を終えた後の彼は、沖縄県庁の技師に任命されて県政の改革運動を行っていたのであるが、明治25年、薩摩藩出身の男爵・奈良原繁が沖縄県知事に任命されるや否や、抑圧的な県政を行い始めた。
 そこで、彼・謝花昇は、県庁内で猛烈な反対運動を展開したのであるが、それにも限界を感じ、七年間に及んだ県庁生活から足を洗い、役人生活をしていた当時からの協力者たちと共に「沖縄クラブ」を組織し、『沖縄時論』という雑誌を発行して、奈良原知事の悪政に徹底的な抵抗を示した。
 奈良原知事が、沖縄県の人々を人とも思わないような悪政を展開したのは、当時の沖縄には選挙権が無かったからであり、それに抵抗した謝花昇の運動の根幹は、参政権獲得運動であった。
 こうした激しい政治運動の無理が祟ったのか、彼は明治41年に、41歳の若さで死去したのであるが、彼の死後8年経った後、条件付きながらも、沖縄に参政権が確立された。
 本作の作者・行方祐美さんが、一体どんな理由で以って、「行方や中野などより謝花さんそんな名字に呼ばれたかつたよ」と仰るのか、それについては全く関心ありませんが、本作を鑑賞するに当たって、「謝花」という、沖縄特有の姓に接したので、私は、地方切手の図柄にもなっている偉人・謝花昇について触れさせていただいたのである。
 〔返〕  「ミラクル・ガイ」謝花義哲は忘れても謝花昇は忘れてならぬ   鳥羽省三

一首を切り裂く(023:蜂・其のⅣ・夏の匂いの駐輪場で)

2011年12月29日 | 題詠blog短歌
(飯田和馬)
○  陽光はあくまで静か。天窓をつらぬくすべを蜂は知らない

 “神様の啓示”か何か、極めて重大な事柄が、あの空間に於いて行われそうな雰囲気の夏の真昼である。
 「蜂」どもは、無情なことにそんなことも知らないで、何一つ知らないで、あの熱い空間の、あの「天窓」の辺りを、無心に飛び回っているだけであった。
 〔返〕  天窓を叩き破って飛んで行け神の啓示に無縁な者ら   鳥羽省三


(T-T)
○  ふたりして蜂蜜レモンをくわえてる 夏の匂いの駐輪場で

 此処にも亦、神の啓示とも、世間の不況とも、人々の哀しみとも無縁な輩が居て、「ふたりして蜂蜜レモン」なんか銜えちゃってる! 
 「夏の匂い」のする「駐輪場」は、青春の骸たちの泣き場所であることも知らないで!
 〔返〕  二人して反ったバナナを咥えてたあの公園でブランコ漕いで


(藤田美香)
○  補えばいくつも答えはあったのに蜂の巣ばかりに気をとられていた

 詠い出しの「補えば」が災いしているのか、私はこの魅力的な作品について触れた歌評や鑑賞文にお目にかかったことはありません。
 「補えばいくつも答えはあったのに」と言うだけでは、確かに、「何を『補えば』いいのか?」、また、「どんな場面で、何方にどんな『答え』を要求されてのことなのか?」など、事態の輪郭が何一つとして明らかでないことは事実である。
 しかし、そうした曖昧さは、この作品のささやかな欠陥の一つに過ぎないと言うよりも、大きな魅力とも言え、仮に欠陥であるとしても、それに続く「蜂の巣ばかりに気をとられていた」という下の句の存在が、その欠陥を補って、尚且つ“お釣りが来るくらい”なのである。
 人間として、この世に息をしていれば、何か重要な事態に対応して、的確な「答え」を出せなかったり、適当な処置をすることが出来なかったりして後悔する場合も在り得ましょう。
 また、その失敗の原因が、「蜂の巣ばかりに気をとられていた」といったような、極めてつまらないことであったとしても、何ら不思議なことではありません。
 短歌には解り易さが要求される場合が多いが、解り易い短歌であれば、全て宜しいという訳ではありません。
 舌足らずの表現で事態の輪郭は掴めないが、そのようにしか詠むことが出来なかった作者の心の奥底まで解るような短歌にも亦、それなりの魅力が在るのである。
 〔返〕  言い訳はいくつも出来るあの場合あんたが蜂を畏怖しただけさ   鳥羽省三


(藤野唯)
○  ふたりして蜂に刺されたような夏 秘密がふえて始まる2学期

 あの「夏」の日の「ふたり」に、何が在ったのか?
 「ふたり」して、あの「夏」の海辺で何をしたのか?
 あの小さな蟹たちの鋏が、「ふたり」の身体の何処に触れたから、「ふたりして」あんなにも痛がったり、痒がったりしたのか?
 今となってみれば、全てが夢幻のような「夏」の海での記憶でありました。
 しかし、「ふたり」の間には、また「秘密」が一つ「ふえて」、重苦しい「2学期」が「始まる」のでありました。
 〔返〕  さざ波が君のあそこに寄せただけ蟹は居たけど鋏まなかった   鳥羽省三


(睡蓮。)
○  なんとなく気だるい朝日 蜂蜜のついた指先ゆっくりなめる

 「朝日」が「なんとなく気だるい」日曜日に出逢ったら、「蜂蜜のついた指先ゆっくりなめる」しか方法がありませんね。
 本作の作者の<睡蓮。さん>は、確かに疲れているのでありましょう。
 三週間ぶっ通しのサービス残業にも。
 久しぶりに逢うことが出来た彼との昨夜の激しいデイトにも。
 彼からは、またケータイが入るかも知れませんが、今日はお出掛けしないで、昼夜兼用のコンビニ弁当でも食べている方が賢明でありましょう。
 〔返〕  ローソンの弁当は好し反り深いフランクフルトが丸ごと入ってた   鳥羽省三  


(久野はすみ)
○  肯定と否定のあわいをただよえばわたしのなかに巣くう蜂鳥

 結社歴の長い歌人ともなると、歌会などの席上で、突然、歌集の講評を求められたりする場合もありましょう。
 そうした場合、ご自身が事前に熟読していて、しかも積極的に推奨することが出来る歌集であるならば、ご自身の気持ちを素直に述べればいいのである。
 だが、結社誌に投稿を始めてから二年しか経たない独り身のアラフォーが、ボーナスを叩いて歌集を出したりするような今日に於いては、万事が万事、そのように都合よく事が運ぶとは限りません。
 本作は、歌人・久野はすみさんの、そうした場面に立たされた折りの心理状態を述べているのでありましょうか?
 だとすれば、短歌を愛すると共に、何よりも結社仲間の人間関係をも大切になさっている、久野はすみさんが発せられる評言は、必然的に「肯定と否定のあわい」を漂っているような性質のものに為らざるを得ないことになりましょう。
 しかしながら、知性豊かな女性としての慎みを忘れない彼女のことでありますから、その評言を口に出してしまった後の彼女は、ご自身の清く正しい胸中に「蜂鳥」みたいな微細な生き物が「巣」食っているような感覚に陥ってしまうのでありましょう。
 〔返〕  下手な歌は下手な歌だとはっきりと言いましょうよね久野はすみさん   鳥羽省三
      駄目な歌を駄目な歌だと明確に言わずにもってる結社誌もある  


(豆野ふく)
○  蜜蜂の群れが家路に就いたころ おやすみなさいを言うヒツジグサ

 作中の「ヒツジグサ」とは“スイレン科・スイレン属の多年草”であり、湿原中の水位が安定していて、栄養の乏しい水質の池や沼などに生育する。
 水底の泥中に太い茎があり、先端から葉が束生するのであるが、浮葉と沈水葉を持っており、冬期間は浮葉が枯れて沈水葉のみとなる。
 花は六月頃から咲き始め、秋まで咲き続いていて花期が大変長い。
 「ヒツジグサ」の花は、一旦蕾を開いたら数日間開閉を繰り返し、“未の刻(午後1~3時)”に開くのでこの名が付いたとされている。
 ところで、作中の「蜜蜂」と「ヒツジグサ」の間には、格別な捕食関係が見られる訳でもなく、「蜜蜂」が「ヒツジグサ」の花の蜜を格別に好んで群がって飛んで来ると言う訳でもありません。
 思うに、本作の作者の豆野ふくさんは、栄養の乏しい池や沼に咲いている「ヒツジグサ」の清浄で可憐な花を、ご清潔なお人柄からして格別に好み愛されて居られるので、お題「蜂」に接するや否や、ご自身が愛してやまない「ヒツジグサ」の花と、お題の「蜂」とを組み合わせて一首を成そうとお思いになられたのでありましょう。
 また、本作を鑑賞するに当たっては、「ヒツジグサ」の花の咲く時刻が、“未の刻(午後1~3時)”であることも無視してはなりません。
 横暴な女王蜂の命令を受けて、野山や湖沼の岸に分け入り、一所懸命に蜜を集めた「蜜蜂の群れ」が、一日の苦しい作業を終えて、ほっと胸を撫で下ろしながら「家路に就いたころ」に、作者の大好きなあの清らかな「ヒツジグサ」の花が咲くことに着目し、本作の作者・豆野ふくさんは、「おやすみなさいを言うヒツジグサ」という美しい下の句を思い付いたのでありましょう。

 〔返〕  蜂蜜を付けてトースト食べる頃あのヒツジグサは美しく咲く   鳥羽省三
 我が家は、私をメタボ人間にしたくないという連れ合いのご方針とかで、私がベットから離れる午後の一時過ぎに、トーストと果物と紅茶だけの朝昼兼用の貧しい食事をすることが再三である。
 我が連れ合いの心積もりの中には、丁度その時刻に「ヒツジグサ」が咲くから、といった高尚で清らかなものが皆無だとは思われますが。


(はせがわゆづ)
○  仄明るい方へ歩いていきましょう蜂蜜色の月が出ている

 「蜂蜜色の月が出ている」からといって、「仄明るい方へ歩いていきましょう」と仰るのは、何と露出好きなカップルでありましょうか?
 私・鳥羽省三がその方面の事柄に余念が無かった十代の頃には、私とお相手の女性とは、“薄暗い方から更に更に暗い方”へと歩いて行くばかりでしたが?
 とは申せ、本作の作者・はせがわゆづさんの仰りたいことは、私としても、気分的には、実によく解ります。
 〔返〕  薄暗く誰にも見られぬ方へ行くご亭主持ちの女の手を曳き   鳥羽省三


(鳥羽省三)
○  ご先祖は蜂須賀小六の従者にて替への鬘を担いでました

 「笑ってやって下さい」と言わんばかりの物欲しそうな駄作である。
 〔返〕  ご先祖は佐竹南家のゆかりにて天保銭なら一箱も有る   鳥羽省三

一首を切り裂く(023:蜂・其のⅢ・へいきさ、と言ってあなたは)

2011年12月28日 | 題詠blog短歌
(梳田碧)
○  へいきさ、と言ってあなたは蜂蜜の瓶に沈んだ匙を摘まんだ

 あの小さな「蜂蜜の瓶に沈んだ匙を摘まんだ」とは、作中の「あなた」は、今どき珍しい特技の持ち主である。
 彼はさしずめ、当世モテモテのイクメン候補の男性でありましょう。
 日々三千名に及ぶ本ブログの読者諸氏の中には、本作について、「『へいきさ、と言ってあなたは蜂蜜の瓶に沈んだ匙を摘まんだ』からと言って、それがどうしたと言うんだ。この馬鹿馬鹿しい作品をあの鳥羽省三が良しとして選び、褒めちぎるとは、鳥羽省三にもいよいよお迎えの時期が来たらしい」などと思って居られる方がいるものと思われ、昨夜来、匿名の方から「こんなくだらない作品について云々するのは止しなさい。こんなつまらない作品を褒めてしまったら、“一首を切り裂く”の権威に関わる大問題になってしまいますよ」との、ご親切なるコメントが五回に亘って寄せられたのであるが、私は、匿名のコメントは一切相手にしませんし、この作品の、何気無い魅力をご理解できないような人間にこそ、今日か明日にでも、早速“お迎え”が来るに違いないと、澄まし顔で居られるのである。
 年末年始の“お迎え”は、お寺さんやお医者さん、そして“送りびと”や焼香客の皆様方に、いろいろとご迷惑をお掛けする面も多いと存じますので、本作について、匿名のコメントをお寄せになったお方は、よくよくご注意なさって下さい。
 〔返〕  「へいきさ!」と言ってあなたは沈みゆくタイタニックにしがみ付いたり   鳥羽省三


(ぱぴこ)
○  蜂蜜をハチミツと書き洋菓子をスイーツと呼び夢をみている

 馬鹿馬鹿しいと言えば、本作も亦、直前の梳田碧さんの御作以上に馬鹿馬鹿しい内容の短歌ではありませんか?
 しかしながら、その馬鹿馬鹿しさは、この作品の作風や作者の資質にあると言うよりも、むしろ、この作品の題材となった私たち日本人の幸福感に在る、と言うべきなのである。
 つまり、「私たち日本人の多くは、『蜂蜜をハチミツと書き洋菓子をスイーツと呼び』、夢見心地になっているような下らない人種である」と言うのが、本作の作者の指摘するところである。
 〔返〕  ランジェリーを猿股と呼ぶ小父さんに昨日わたしの春は買われた   鳥羽省三


(佐田やよい)
○  しずかなるターミナルケア病棟の廊下に蜂の羽音が響く

 作中の「ターミナルケア」とは、「末期がんなど、治療の当てが無く、余命いくばくもない患者の方々の、最後の安息に満ちた時間を介護すること」を指して言うのであり、その施設は、通常、“ホスピス”という優しい名称で呼ばれることが多い。
 本作の内容は、その優しい“ホスピス”の「ターミナルケア病棟の廊下に」「蜂の羽音が響く」様子を描写しているのであるが、詠い出しに置かれた形容動詞「しずかなる」が、「ターミナルケア病棟の廊下」の優しさや静けさに満ちた雰囲気を形容すると共に、「蜂の羽音が響く」様子の閑寂さをも強調していて、極めて適切な形容語句となっているのである。
 「しずかなる/ターミナルケア/病棟の/廊下に蜂の/羽音が響く」という、荘重で厳粛なリズムをもよくよく感得するべき秀作である。
 〔返〕  ターミナルケア病棟の窓辺まで迷ひ込みたる日本蜜蜂   鳥羽省三


(紗都子)
○  二回目が致命傷になる針ならば一度は蜂に刺されてもいい

 「絶対に死なないという保証が在るならば、私は一度ぐらいはあの世に行ってみたい」などと言う、甚だ身勝手なことを言ってご家族の方を爆笑させたり困惑させたりした病人を、私は知っておりますが、本作の作者の紗都子さんも亦、ややスケールを小さくした、その類の庶民でありましょうか?
 ところで、私たちの小学生時代には、お医者様が、一度使った注射針を二度、三度と煮沸消毒して使っていましたが、「二回目が致命傷になる針」とは、そんな「針」を指して言うのでありましょう。
 〔返〕  虻蜂に刺されなくても膨れ顔 庶民と呼ばれてご機嫌斜め   鳥羽省三


(史緒)
○  秘めごとは蜂蜜漬けの瓶のなか呪文をかけて閉じ込めておく...

 あの神秘的な色をした、「蜂蜜漬けの瓶のなか」には、何方かの「秘めごと」が「呪文」を掛けられて「閉じ込め」られているような気がしますね。
 〔返〕  秘め事は愛されしこと蜂蜜の瓶の中身の甘き香もせむ   鳥羽省三


(希)
○  産む蜂も産まない蜂も生きかたは違えど同じかなしみだろう

 そうかしら?
 我が連れ合いの翔子などは、「生む時の苦しみを一回も経験したことの無いあなたには、私の喜びも『かなしみ』も解らないだろう」などと、この頃、しまりに言っておりますが?
 〔返〕  病む者も病まない者も一様に苦しい顔して病室に居り   鳥羽省三


(くろかわさらさ)
○  蜂蜜が空にこぼれてぼくたちは膝をかかえてねむるしたくを

 夜遅く、外出先や車中などで、突然、睡魔に襲われた時の感覚は、本作に見られるように「蜂蜜が空にこぼれて」行くような感覚であることが、何と無く納得されるような作品である。
 「ぼくたちは膝をかかえてねむるしたくを」とは、ジベタリアンとしてのご経験に基づいての表現でありましょうか?
 ところで、今少しお年を召された暁には、次の返歌のような事態もご経験になりましょうか?
 〔返〕  蜂蜜がほとに溢れてならぬ夜は彼を抱きて微睡もせず   鳥羽省三


(田中彼方)
○  あたためてまた溶けてゆく蜂蜜のように、すべてを赦せるのなら。

 残り少ない「蜂蜜」を全部使い切ってしまおうとして、壜ごと逆さまにすると、最初は甘い滴となって滴っているのだが、間も無くその滴りが途切れてしまう。
 しかし、しばらくすると「あらためてまた」滴り始めるのである。
 本作の作者・田中彼方さんは、愛して止まない妻に裏切られたのであるが、彼女に対する彼の未練はさりとて止むはずも無い。
 そこで彼は、彼を棄てて他の男性の下に走った彼女の過ちについて、「あたためてまた溶けてゆく蜂蜜のように、すべてを赦せるのなら」などと、切なくも激しく悩み慟哭するのである。
 〔返〕  許しても彼の下には帰らないそれを覚悟で犯した罪だ   鳥羽省三


(今泉洋子)
○  蜂蜜の歌が最後の投稿歌冬の朝に顕ち来る君はも

 薄幸にして天性の歌人・笹井笹井宏之さんが突然死という悲劇に襲われたのは、一昨年の正月二十四日のことでありました。
 そこで、本作の作者・今泉洋子さんは、笹井宏之さんの命を奪ったあの朝にも似た、ある「冬の朝」に、笹井宏之さんの所属誌『未来』への「最後の投稿歌」が「蜜蜂の歌」であったことを思い出し、それと共に、彼の姿が目前に顕現して来るような思いに囚われ、嘆き哀しみ、儚い命の彼を懐かしんでいるのでありましょう。
 〔返〕  蜜蜂の淡き命を思はせて笹井宏之氏朝冷えに死す   鳥羽省三

一首を切り裂く(023:蜂・其のⅡ・首脳浮かべむ蜂起の二字を・改訂版)

2011年12月27日 | 題詠blog短歌
(飯田彩乃)
○  蜜蜂のころに集めたはちみつをいのちのように大事にしている

 本作に於いて作者の飯田彩乃氏が述べようとしている事柄は、以下に略述する二点である、と私は断定する。
 その① 「私たち人間には、進化の過程で『蜜蜂』であった『ころ』が在った」ということ。
 その② 「かつて『蜜蜂』であったという前歴を持つ人間の中でも、とりわけ、飯田彩乃さんという人間は、『蜜蜂のころに集めたはちみつをいのちのように大事にしている』ということ。

 以上、二点に整理される本作の内容について、もう少し丁寧に考えてみると、作中の「蜜蜂のころ」というのは、私が断定的に述べているが如き、「私たち人間の進化の過程に於ける『蜜蜂』であった『ころ』」、といった大袈裟なものでは無く、作者ご自身の青春の時期を、誇張的かつ浪漫的に述べたのかも知れません。
 また、作中の「蜜蜂のころに集めたはちみつ」というのも、“青春の思い出”といった事柄の誇張的かつ浪漫的表現に過ぎないのかも知れません。
 と、いろいろと持って回ったようなことを述べてしまいましたが、ことほど左様に、本作の内容は、私たち読者を夢幻境に誘うような内容である、ということである。
 ところで、蜂蜜の値段もさまざまであり、京橋の明治屋の商品棚に並んでいる国産品は一壜数千円であるが、お隣りの経済大国産品の場合は、五百グラム以上入っている壜がせいぜい七百円程度で入手できるのである。
 とは言え、国産の蜂蜜であろうが某経済大国産の蜂蜜であろうが、蜂蜜であることには何ら変わりが無く、硝子壜がいっぱいになるまで蜂蜜を集める為には、数千羽の働き蜂たちが、女王蜂の悩ましい視線を窺がいながら、命を粉にして働かなければならなかったことでありましょう。
 そんなことを考えると、作中の「いのちのように大事にしている」という“七七句”も決して誇張的表現とは言えなくなってしまうのである。

 〔返〕  ウーゾクで稼いだ頃の預貯金をいのちのようにすり減らしてる   鳥羽省三
      店から店へ移り行くたび肺臓の影が濃くなり音のない音がする
[注] 花から花へ蜂うつるたび草原に影ゆれて音のない音がする (小島なお『サリンジャー死んでしまった』より)


(遠野アリス)
○  蜂蜜のビンのふちにこびりつく結晶みたいに健気な愛だ

 生まれつきケチな性分の私たちは、イオンで買って来た「蜂蜜」を一滴残らず食べてしまおうとして、「ビン」ごと陽に当てたり微温湯で温めたりするのであるが、「ビンのふちにこびり」付いてしまった「結晶みたい」な塊はなかなか溶けようとせず、結局は壜ごと粗大ごみ収集車のご厄介になってしまうのである。
 そんなことを、私の連れ合いの翔子がご近所の奥様然となさった女性に話したところ、彼女の口からたちまち、「あーら、そんなことは私んちでは一度も無くってよ。もしかしたら、鳥羽さんちの蜂蜜は某経済大国産の格安品だからではないかしらん。私んちのは、主人が会社帰りに京橋の明治屋さんで買い求めて来た国産の高級品だから、最後の一滴まで、決して固まってしまうことなんかありませんよ。鳥羽さんちは年金だけでお暮らしになっているみたいだから仕方が無いのかも知れませんが、私たち人間は身体だけが元手だから、食べ物を買うお金をけちってはいけませんことよ。本当にお身体を大切になさいませ。」などという、求めもしなかったような答が、旅順要塞に立て籠もったロシア軍の機関銃から発射される弾丸のような勢いで飛んで来たということである。
 そんな話をしている時の翔子の話しっぷりもなかなかのものであったが、「何も、私の前でお店の名前を“さんづけ”にして、“明治屋さん”とまで呼ぶことは無いでしょうに。あの奥様、私の大嫌いな人種みたい」と言っていたことが、妙に印象的であった。
 翔子の言葉の中に、「人種」というこの頃聞き慣れない言葉が出て来たから言うのであるが、私が小学生の頃に
観た映画の中に、『ウルブ』というタイトルの、西欧の植民地時代のアフリカの、いわゆる“人食い人種”と呼ばれていた人々の生態を写した映画がありましたが、そう言えば、翔子の大嫌いな、あの奥様然とした女性は、何だか、昔観た映画の“ウルブ族”みたいなお口をなさって居られる。
 彼女が、あの大きなお口を開け、あの大きな肉体を伊太利屋の豹柄のワンピで包んで我が家の前の石段を登って行く時の様子は、まるでお腹を空かした豹が獲物を探しに行く時みたいだ。
 彼女は、あの大きなお口をお顔いっぱいにお開けになって、働き蜂たちが命を粉にして集めてきた蜂蜜を一滴残らず飲み込んでしまうのでありましょうか?
 だとしたら、その恐ろしいことよ!

 〔返〕 春真昼、豹柄で装へる奥様が蜂蜜壜を飲み込むのを見た。われは罪びと。  鳥羽省三
[注] 無人公園、砂場より蟹の生まるるを見てしまいたるわれは罪びと (『サリンジャー死んでしまった』より)


(髭彦)
○  民起つの連鎖恐るる隣国の首脳浮かべむ蜂起の二字を

 私たち歌詠みは、髭彦さん作のこの一首と共に、2011年という年を、“アラブの春”の年として永遠に記憶し、永遠に語り継いで行かなければならないのである。
 作中には「隣国の首脳浮かべむ蜂起の二字を」とあるが、私たち有権者との約束とも言うべき“マニフェスト”を反故にして、バブル時代の亡霊とも言うべき“大型公共事業”の再開を目論んで増税をせんとし、私たち国民の未来に、莫大な赤字国債の借金を積み上げようとしている「首脳」たちの脳裏には、もはや「蜂起の二字を」思い浮かべる余裕すら無いのでありましょうか?

 〔返〕  各々の思ひ抱へて蜂起せむ放射線熱く降りゐる国に   鳥羽省三
[注] 各々の臓器抱えてすれちがう曇天重く垂れいる街を (『サリンジャー死んでしまった』より)


(ネコノカナエ)
○  生きることはちいさな蜂起を積み重ね未来を奪い返していくこと

 全く同感であります。
 本作は、直前の髭彦さんの御作と共に、私にとって、永遠に肝に銘じて居なければならない作品かと存じ上げます。

〔返〕  泥鰌らの淡き眠りを揺り起こし怨嗟の声の遠く聞こゆる   鳥羽省三
[注] 沢蟹のごときねむりを眠るとき遠くにバスの停車する音 (『サリンジャー死んでしまった』より)


(音波)
○  正しさを求めはしないただ蜂が巣を編むように生を営む

 そうなんです。
 私たち庶民は、国政や国政を担う政治家たちに対して、必ずしも絶対的な「正しさを求め」たりしているのではありませんでした。
 私たち庶民は、ただ単に「蜂が巣を編むように」して、私たち自身の「生を営む」ことだけを求め、国政やそれを担う人々に対して、多くは求めたりしては居りませんでした。
 それが大きな間違いであったことを、あなた方、低能で野心丸出しの政治家たちが、ここにはっきりと示して下さいました。

 〔返〕  騰がる税それを怖れて入れたのに我が小銭入れから搾り取られる   鳥羽省三
[注] 昇る気球あれに乗ろうと仰ぎ見るわたしの家族に夏迫りたる (『サリンジャー死んでしまった』より) 


(伊倉ほたる)
○  蜂蜜は正しい位置に戻されて何もなかったような沈黙

 何処のご家庭でも、マーガリンは容器の蓋をきちんと閉めて両開きの大型冷凍冷蔵庫の右扉の上から二番目のポケットの真ん中に置くこと、昨夜半束だけ食べたほうれん草は、紙で包んで両開きの大型冷凍冷蔵庫の二つ目の野菜ケースの一番上に置くこと、伊豆に一泊旅行に行って来た友人からいただいた金目鯛の一夜干しは、両開きの大型冷凍冷蔵庫の一番下の魚肉類冷凍室に置くこと、「蜂蜜」はガラス壜の表面をテッシュペーパーで丁寧に拭いたうえで、瓶詰入り食品用の小型冷蔵庫の最上段の網棚の右端に置くこと、などと、凡そ買い置きの食物や台所道具などの諸物品の「正しい位置」というものが決まっているはずである。
 そんな面倒臭いことを、どういう必要があって、誰が決めたかと言うと、それは一家の台所を預かっている、そのご家庭の主婦が、その品物の使用頻度やご自身の身長や体重や健康状態などと十分に相談してから決めたことである。
 したがって、ある品物がご一家の何方かの横着に因って、一旦、「正しい位置」とは異なる「位置」に置かれたりすると、その被害は、忽ちそのご家庭の主婦に及ぶばかりでは無く、食事が不可能になる、といった形で、一家の構成員全員に及ぶような、大変な事態となる可能性が大なのである。
 本作は、「伊倉家のお食事の必需品である壜詰めの『蜂蜜』が、ある日曜日の朝食の後、ご主人の手抜きに因って、『正しい位置』とは異なる『位置』、即ち食器棚の隅に置かれたのであるが、日頃から彼のことをあまり信用していない奥様のほたるさんが、逸早くご主人のそのささやかな過ちを発見したので、その蜂蜜壜は彼女の手に拠って、これ見よがしに『正しい位置に戻され』ることになったのではあるが、その結果として、その朝の伊倉家のリビングルームは『何もなかったような沈黙』に包まれた、つまりは、家庭らしからぬ異様で険悪な雰囲気に包まれたしまった」ということを、短歌スタイルで述べているのである。
 本作の眼目は、二句目の「正しい位置に」である。
 この句の重要度は、大半の鑑賞者には見逃されがちであるが、これを見逃しては、この作品は、ただの“なんちゃって歌人”が気紛れに詠んだ凡作として処理されてしまいましょう。
 最近、歌作に於いて、低迷を極めていた伊倉ほたるさんも、この佳作をお詠みになったのを一つの契機として、奇跡的な立ち直りも見せるかも知れません。
 以上、伊倉ほたるさんの御作について、常に無く褒めちぎった鳥羽省三ではありますが、事の序でに、本作について、私が抱いている不満点を述べておきましょう。
 それは、「何もなかったような沈黙」という後半の“七七句”である。
 この“七七句”については、更に熟慮される必要がありましょう。

 〔返〕  「歯ブラシは正しい位置に置いてね」とほたるのママさんお尻ぴかぴか   鳥羽省三
      「ワイシャツは洗濯前に脱いでね」とほたるのママさんお尻ぴかぴか
 「ほたるのママさん」の「お尻ぴかぴか」は、一種の危険信号である。
 この信号が発せられるや否や、卓上の“たちきち”のお皿が真っ二つに割れるやら、お子様の頬に向かってビンタが飛ぶやら、ご主人のワイシャツが引き千切られるやらで、それまで極めて和やかな雰囲気に包まれていた伊倉家の朝は、たちまた修羅場と化してしまうのである。
 〔返〕  「怒る時は正しい順序で怒ってね」ほたるのママにご家族の抗議   鳥羽省三

一首を切り裂く(023:蜂・其のⅠ・だう生きたとぞ問ひかけてをり)

2011年12月26日 | 題詠blog短歌
(西巻真)
○  蜂の死骸をかたづけながらだう生きた、だう生きたとぞ問ひかけてをり

 例え“歴史的仮名遣ひ”で表記するとしても、「どうしたんだ。元気出せよ。」という場合の「どうした」を「だうした」とは表記しません。
 したがって、作中の「だう生きた」の「だう」は「どう」と表記するのが正しい。
 未来賞受賞歌人として歌壇に名の知れた、西巻真さんともあろう著名な歌詠みが、“歴史的仮名遣ひ”の初歩的なミスを犯しているのは、真に滑稽な風景である。
 また、「蜂の死骸をかたづけながら」、死骸となってしまった「蜂」に「問ひかけて」いるというのも、余りにも田舎芝居がかったことであり、大丈夫なる男性が、「蜂の死骸」にしがみついて、「おい、蜂さんよ。生前のあんたはんは、どんな生き方をしてたんだ?あんたはんは、どんな生き方をしてて、どんな風にして死んだんだ?どうか、私に教えて頂戴よ!お願いだから!」などと言っていたとしたら、それはまさしく気違い沙汰であり、悲劇を通り越した喜劇以外のなにものでもないことでありましょう。
 それとも、志賀直哉の傑作として知られている、短編小説『城の崎にて』をご念頭に置かれてお詠みになった異色作でありましょうか?
 〔返〕  串刺しにされたイモリの亡骸に「どうしたんだ?」と語り掛けてる   鳥羽省三
      佃煮にされてしまった蜂の子に涙ながらにお詫びしている


(西中眞二郎)
○  足長き蜂が這いいる硝子戸を少し開きて手で追いていぬ

 末尾に、文語の完了の助動詞「ぬ」を用いているからには、二句目を「這ひゐる」とし、五句目を「手で追ひてゐぬ」として欲しいところであるが、昨今の歌壇に於いては、口語短歌の中に文語をも採り入れて行こうとする傾向もあるので、致し方の無いところでありましょうか?
 ところで、本作は、「大丈夫過ぎる程にも大丈夫なるインテリ男性が、退屈任せに足長蜂を室外に追い遣ろうとしている場面」を題材にした作品であり、その発想に於いては、前述の西巻真氏の何ら変わりがありません。
 本作の作者の西中眞二郎氏は、今は亡き短歌評論家・中井英夫氏の不朽の名作『黒衣の短歌史』を、どのようなお気持ちでお読みになったのでありましょうか?
 〔返〕  硝子戸を少し押し遣りゴキブリの潰れた骸を室外に出す   鳥羽省三


(アンタレス)
○   湯浴びしてメインのお膳漆蓋開けてのけぞる蜂の子のあり

 アンタレスさんは何処の地にご旅行なさったのでありましょうか?
 作中の五句目に「蜂の子のあり」とあるところから察するに、アンタレスさんは、ゲテモノ食いで有名な長野県内の何処かの温泉旅館にご宿泊なさったのでありましょうか?
 私の教員時代の同僚に長野県の臼田町出身の国語教師が居て、彼と一緒に居酒屋などに出掛けると、彼はいつも口癖のようにして、「鳥羽さん、あんたは蜂の子を知ってるか?ざざ虫を知ってるか?職員旅行として信州の温泉に一泊しよう、などと馬鹿げたことを言い出す馬鹿教員が俺たちの学校にも約三人ぐらいは居るが、彼らがそんな暢気なことを言い出せるのは、ゲテモノ食いの信州の食習慣を知らないからだ!俺が十八歳の春に、故郷の臼田を出奔して、今、この薄汚い相模原市でしがない教員をやっていなければならないのも、学校で散々こき使われて帰宅すれば帰宅したで、女房のやっている酒屋の手伝いとして居酒屋回りをしなければならないのも、みんなみんな、あの蜂の子やざざ虫の佃煮を一生涯食い続けていたくない、と思ったからだ!ねえ、鳥羽さん!今日のあんたは、さも旨そうな顔つきで、モツ焼きなどにむしゃぶりついてはいるが、さすがの物知りのあんたも、あの蜂の子やざざ虫の佃煮を最高のご馳走と思って、一生涯、よだれを垂らし続けなければならない、信州信濃の愚かな男どもの悲哀をご存じないだろう」と語り掛けて来るのでありました。
 その彼も、不遇のうちに先年亡くなってしまいました。
 賜物の温泉旅行の夜に、「湯浴びしてメインのお膳」の「漆蓋」を「開け」た途端に「蜂の子」が目についたとしたら、アンタレスさんが「のけぞ」ってしまうのも、至極当然のことでありましょう。
 それでは、お身体大切に。
 お正月ではありますが、ゲテモノ食いはなさいませんように!
 〔返〕  蜂の子を採るのが好きな五味さんが痛風病んでお亡くなりだと   鳥羽省三


(はこべ)
○  団欒に蜂が一匹飛び込みぬすべて中断子らは泣き出し

 “家庭の「団欒」は諸悪の根源”とも言われますから、その最中に「蜂」の一匹や二匹は「飛び込」んで来るのは当然と言えば当然のことでありましょう。
 「すべて中断子らは泣き出し」という“七七句”からは、ご家庭のお躾の程度や文化程度が伺われて、思わず笑い転げてしまいました。
 〔返〕  蜂の巣を突いたような大騒ぎ子らは泣き出しパーティ中止   鳥羽省三

 
(オリーブ)
○  蜂蜜の色に暮れゆく教室で満たされぬまま散らす五線譜

 作中の「教室」とは、西方浄土に面した音楽教室である。
 百メートルくらい離れているテニスコートからさっきまで聞こえていた部員たちの話し声も、もはや聞こえなくなってしまいました。
 遙か遠くの街並みの上空も、いつの間にか「蜂蜜の色」に染まってしまい、校舎内には生徒の帰宅を促す『夕焼け小焼け』の単調な調べが響いていますが、今から帰宅しても、ママがパート先から戻っていないので、私はこのまま、この音楽教室に居残りを決め込んで、書き損ねの「五線紙」でも撒き散らしていましょうか?
 「あっ、誰かの足音がする。」「あの足音は、男女二人の足音だ。」「だとすると、その中の一人は音楽の山根久子先生で、もう一人は、山根先生との噂が高い、国語の藤原亮介先生かも知れない。」「邪魔者の私は、急いでこの教室から出なければならない。」「と言っても、今更、何処にも行き場がないから、このまま隠れて居ようかな。」
 〔返〕  蜂蜜の色に染まりし夕空に我が魂は憧れて行く   鳥羽省三

一首を切り裂く(022:でたらめ・其のⅢ・でたらめんこで遊ぶ子ら)

2011年12月25日 | 題詠blog短歌
(村田馨)
○  境内をでたらめんこで遊ぶ子ら品川神社参拝ののち (品川神社、品川区)

 「でたらめんこ」のでたらめさが魅力の一首である。
 作者の村田馨にお尋ねしますが、遊び仲間の中の一人は“おかちめんこ”でありましょうか?
 また、その“おかちめんこ”とは、貴方の現在の奥様、つまり天野慶さんとは異なる女性と思われますが、その点についてはいかがでありましょうか?
 〔返〕  路地裏でおかちめんこと遊びしはでたらめんこでありにけるかも   鳥羽省三


(みゅーたん)
○  真面目にもでたらめにも生きられなくてため息ばかりが降り積もる夜

 みゅーたん 様
 お懊悩のほど、もっとも至極なことと存じ上げます。
 当方とて全く同様のことであり、今朝も今朝とて、「昨夜は自分自身にとって、真に『真面目にもでたらめにも生きられなくてため息ばかりが降り積もる夜』であった」などとの反省を強いられ、今、こうして、あなた様の御作にしみじみと感じ入っている次第でございます。
 只今は、十二月二十五日・日曜日の早朝五時半に少し前の時刻でございますが、もう数時間も経つと、東京・渋谷界隈などに於いては、格別なクリスチャンでもない我が国の愚かな若者どもが、「今日はクリスマスだ!私たち若者は、青春のエネルギーを思いっ切り発散させて遊び捲くろう!」などと訳の判らないことを口にして、大騒ぎをするに違いありません。
 これから益々寒くなりますから、お身体には充分にご注意なさって下さい。
                                 鳥羽省三 拝

 〔返〕  出鱈目と真面目の境に息を吐き今日も朝から歌評など書く  鳥羽省三

 
(なぎ)
○  でたらめに等高線を描く君 不意に高みに昇る教室

 なぎ 様
 「でたらめに等高線」を描いたとしても、作中の「君」が国土地理院や昭文社にお勤めの方でなければ、どなたにも迷惑はかけません。
 したがって、何卒、存分に描かせて下さい。
 ところで、作中の下の句「不意に高みに昇る教室」とはなんですか?
 「でたらめに等高線を描く」ことと「教室」が「不意に高みに昇る」こととは、どんな関わりがあるのですか?
 “豚も煽てりゃ高みに昇る”といった類の現象ですか?       鳥羽省三 拝

 〔返〕  でたらめな等高線を描いても膏薬違反は免れません   鳥羽省三
      でたらめな等高線を描いても三陸津波はまた押し寄せる


(秋月あまね)
○  頭に触るる吊り広告のでたらめも社会を守る装置なのかな

 作中の「頭に触るる吊り広告」とは、「店仕舞い!投売り!スーツ2着で1,980円!」といった類の「でたらめ」な「吊り広告」でありましょうか?
 だとしたら、本作は、「『頭に触るる吊り広告のでたらめ』ささえも、欲の皮の突っ張ったお客をすっからかんにして、現内閣の内需拡大政策に貢献し、結果的には『社会を守る装置』になる」という三段論法から成り立っているのである。
 〔返〕  真央ちゃんのトリプルアクセルの封印も社会を守る装置の一つ   鳥羽省三
      あれほどの鈴木明子の頭さえ社会を守る装置の一つ   


(みち。)
○  でたらめに傷ついたからでたらめにソフトクリーム塗ってなおした

 「でたらめに傷ついた」とは、昨今の学校や職場での、訳の解らない“苛め”の被害者となった人々の傷つき方の特徴をよく捉えた表現である。
 そんな被害者の心を癒す方法の一つとして、本作の作者は、被害者の患部に「でたらめにソフトクリーム塗って」治す方法を提唱しているのでありましょうが、「でたらめ」そのもととも見える作者のこうした提唱は、「ソフトクリーム」という冷たくて温かい食べ物の特徴を考慮すると、必ずしも「でたらめ」な提唱とは言えません。
 〔返〕  でたらめに見せ掛けながらでたらめでない作品を詠んでみました   鳥羽省三


(小林ちい)
○  でたらめに弦を弾けば俺だけのこの時だけの歌が生まれる

 つまりは「でたらめ」な「歌が生まれる」というだけのことである。
 本作の決定的な“駄目さ加減”は、“短歌的抒情”と言うよりは“渡り鳥映画的な抒情感”に、どっかりと座り込んでいるところに在る。
 〔返〕  でたらめにギター爪弾く渡り鳥小林明のメタボな腹よ   鳥羽省三


(飯田和馬)
○  でたらめに並んでいると見せかけて神の摂理に適うおばちゃん

 小田急線の新百合ヶ丘駅のプラットホームに「でたらめに並んでいると見せかけて」、いざ、準急電車が到着しそうになると、並ばないで次の急行を待っている人に、「お客さん、新百合ヶ丘駅は整列乗車なんですよ!私たちはこの寒い中をさっきから我慢して並んでんですから、あなたもきちんと並んで乗車して下さい!あなたみたいな横暴な人がいるから、私たちみたいな真面目なお客が馬鹿を見るんですよ!なんでしたら、駅員さん呼びましょうか!」などと、一方的に喋り捲る「おばちゃん」が居たりする。
 そんな「おばちゃん」の何処が「神の摂理」に適っていると仰るんでありましょうか、本作の作者の飯田和馬さんは?
 〔返〕  でたらめに南無阿弥陀仏と唱えても唱えないよりはましだとも言う   鳥羽省三

一首を切り裂く(022:でたらめ・其のⅡ・欲しいものねだれない子はでたらめに)

2011年12月24日 | 題詠blog短歌
(村木美月)
○  欲しいものねだれない子はでたらめに指先傷つけ野あざみを摘む

    嘘をつく子は日暮れの
    別れの時の居場所がわからない
    遊びつかれた言葉と
    空気のぬけたゴムマリかかえて
    ミルクを飲んでも同じでしょうか?
    甘いミルクを飲んでも白いだけです。

    傷のない子は夜道で
    足をふみだすリズムがわからない
    暗いあぜ道 おどり場
    怪我を恐れてお家へ戻れない
    灯りをつけても同じでしょうか?
    強い灯りをつけても白いだけです。

    夏の日ざしに麦わら
    夢のない子が遊びに出かけた
    水も陽気な川面に
    ゲームのゴールに向かう笹舟
    風向きしだいで変わるでしょうか?
    どんな風向きだろうと同じ事です。
                                 (作詞・作曲:井上陽水『white』)
 お題「でたらめ」中の最高傑作と申すべきでありましょう!
 敬服の余りに、評すべき言葉を失ってしまいましたので、ここに、井上陽水の最高傑作である『white』の歌詞を転載させていただき、祝福の言葉に代えさせていただきます。
 〔返〕  野薊を摘んだからとて帰れない指が傷つき泣けるばかりだ   鳥羽省三


(理宇)
○  終末に向かって君とでたらめのうたを歌って歩いて行こう

 私たち日本国民は、今日もなお「終末に向かって」歩き続けて行かなければならないのである。
 いや、「終末に向かって」歩き続けて行かなければならないのは、私たち日本国民全員ではなく、私だけかも知れない、という思いを抱きながら、今日、十二月二十四日の早朝、午前五時二十三分に、私はパソコンのキーを叩いているのである。
 しかしながら、私は、本作の作者・理宇さんとは異なり、決して「でたらめのうたを歌って歩いて行こう」とは思っていない。
 いや、理宇さんのお立場からすれば、私がこれから記そうとしている、返歌などは「でたらめのうた」そのものかも知れない。
 それはともかくとして、「終末に向かって」「君とでたらめのうたを歌って歩いて行こう」と仰る、作者・理宇さんのお覚悟は、壮としなければなりません。
 そうしたお覚悟があればこそ、野田某は総理大臣になったのでありましょう。
 〔返〕  週末の今日こそ歯医者に出掛けよう入れ歯の調整してもらいたい   鳥羽省三


(青野ことり)
○  いつかまた会えるだろうか紅い葉に あの日歩いたでたらめの地図

 お題「でたらめ」をよく生かしながら、首尾一貫した作品に仕立て上げている佳作である。
 発想そのものは、ごく平凡ではあるが、お題「でたらめ」を生かして、このレベルの作品を詠むことは決して簡単なことではありません。
 そこで、嫉妬心に駆られたあまりに、その内容について、少しだけ茶々を入れさせていただきました。 
 この場合、「でたらめ」なのは「地図」ではなく、国土地理院監修の正確な「地図」を碌々目にしないで「歩いた」、「あの日」の青野ことりさんたちでありましょう。
 わずか三十一音の短歌でさえも、「でたらめ」な気持ちになっていたらうまく作れないように、「でたらめ」な気持ちでほっつき歩いていたら、あの「紅い葉」に再び「会える」望みは、決して叶いません。
 そもそも、幸福の青い鳥が、再度「紅い葉」に出会うことが出来たとしても、それで一体どうなるのでありましょうか?
 「紅い葉」は、枯葉ではありませんか?
 〔返〕  いつかまた戻るだろうかこの部屋に君と暮らしたでたらめな日々   鳥羽省三


(ぽたぽん)
○  でたらめな歌でもいいから歌ってよいつもみたいに歌い続けて

 「でたらめ」の権化といったお名前の庶民と言うべき“ぽたぽん”に相応しく、真に慎ましやかな願望と申せましょうか?
 それでも、「いつもみたいに歌い続けて」貰わなければ、一時間として身が持たないから、「でたらめな歌でもいいから歌ってよ」と、激しく乞い願うのでありましょう。
 評者としては、同情心に駆られて、とても切ない気持ちになってしまいました。
 〔返〕  過ぎし世もでたらめな歌だけ唄ってたお月様だけが僕らを見てた   鳥羽省三


(湯山昌樹)
○  でたらめやデマ多き地へ行きたるか 電器店からラジオみな消ゆ

 我が国の「電器唐」から「消えた」「ラジオ」が、あのお隣りの経済大国やその地続きの北のお国に運ばれて行ったのでありましょうか?
 それとも、我が国の東北部の地方が「でたらめやデマ多き地」なのでありましょうか?
 〔返〕  でたらめな情報だけが流れてた時計はそれでも止まらなかった   鳥羽省三


(史緒)
○  でたらめに君が並べた嘘にある寂しさだけは真実だった

 並べ立てた噓八百の中の唯一の「真実」が「寂しさだけ」であったとしたならば、作中の「君」の人生は、なんと寂しい人生でありましょうか!
 彼を生かす道は、民自党総裁の役職を押し付けるしかありません。


(花夢)
○  でたらめに溶けたのだろう原子炉のなかの理想みたいなものも

 東電の福島第一原発の、あの「原子炉のなか」にも「理想みたいなもの」が息づいていて、それが「でたらめに溶けた」結果が、今回の騒動の真相というわけでありましょうか?
 東電は設備投資に失敗し、莫大な赤字を出したことを理由にして、政府から補助金や融資金などを受け、それでも足りずに、ご家庭の電気料金を二十%も値上げする、と言う。 
 街の八百屋さんや魚屋さんが赤字だからと言って、政府から補助金を頂戴したり、商品の値上げをしたりすることがありますか?
 私たち日本国民は、今こそ目を覚まして、猛烈な反対運動を展開しなければなりません。
 花夢さんも、いつまでも甘い夢など見ていないで、デモ行進に参加しましょう。
 体重を減らす効果も期待され、“一挙両得”とは、このことを指して言うのかも知れませんよ。
 〔返〕  ふつふつと怒りみたいなものが燃え思わず書いてしまったのである   鳥羽省三


(桑原憂太郎)
○  でたらめな親の名前が鉛筆で書かれたままの入学願書

 私は不勉強にして、「でたらめな親の名前が鉛筆で書かれたままの入学願書」は見たことがありませんが、「でたらめな親の名前が鉛筆で書かれたまま」の「在籍生徒環境調査書」を見たことがあります。
 私が現役の教師であった頃には、入学した生徒に「在籍生徒環境調査書」という書類を提出させ、その書類には、えげつないことに、生徒の父母の学歴欄や勤務先欄まで在ったのですよ。
 私たちが、その書類を必要にして最低限度の記載内容のものに改めようと運動した結果、その翌年から、父母の学歴欄や勤務先欄を削除した形の「在籍生徒環境調査書」を提出させることになりましたが、驚いたことに、私の受持ち生徒の父母の一人が、その新しい形式の「在籍生徒環境調査書」に父母の学歴蘭と勤務先欄とを書き足して提出したことがありました。
 〔返〕  でたらめな親の名前を公表し生徒たちから恨まれたりし   鳥羽省三


(松木秀)
○  でたらめなしりとり続く夏休み「みかん」「ンジャメナ」「ナン」「ンゴロンゴロ」

 作中の「でたらめな」部分、即ち「『みかん』『ンジャメナ』『ナン』『ンゴロンゴロ』」という下の句についても、故意に“字余り”風に装いながらも内在律を利かせて定型的なリズムの感じられる作品に仕立て上げている。  計算し尽くされた、こうした点などは、いかにも松木秀さんらしい遣り方である。
 〔返〕  でたらめな問答続く国会の「辞めろ」「辞めない」「大臣辞めろ」   鳥羽省三


(新藤ゆゆ)
○  さびしくて泣いた記憶も肩越しのまっ赤な月も全部でたらめ

 「彼の遺骨が北ベトナムのジャングルから米軍機で運ばれて来た頃、私は、彼とのあの熱い一夜が、今となっては永久に帰って来ないことがしみじみと感じられ、あまりにも『さびしくて』、横須賀の彼のアパートで、その遺骨を手放そうともせずに、おいおいと『泣い』て暮らしたことがありました。それは半年以上も続いていたようにも思われますが、その間、『泣い』ている私の『肩越しに』いつもいつも『真っ赤な月』が出ていたように『記憶』しております。でも、あれは狂乱のあまりに見た、私自身の夢みたいなものであったのでしょうか」などと、読者を泣かせるような文章を書いておきながら、それが「全部でたらめ」だったという次第なのである。
 いつものこと乍ら、新藤ゆゆさんには、すっかり騙されてしまいました。
 〔返〕  彼の弾くストラディバリの囁きもイタリア仕込みの性愛も噓   鳥羽省三


(今泉洋子)
○  でたらめな言い訳ばかりするわれをじんわり濡らす秋の雨降る

 「秋の雨」に「じんわり」と「濡れ」た身体を「じんわり」と包み温めてくれる彼の元へと急ぐのでありましょうか?
 ところで、本作の作者は、ご宗旨をいつの間にか口語短歌にお替えになったように思われる。
 〔返〕  でたらめな言ひ訳ばかりをせし汝をじんわり包む秋雨もあり   鳥羽省三

一首を切り裂く(022:でたらめ・其のⅠ・まつたうとでたらめの差)

2011年12月23日 | 題詠blog短歌
(髭彦)
○  まつたうとでたらめの差の思ふほど大ならざるを知るぞかなしき

 この人にしてこの悩み有り、という感じの作品である。 
 髭彦さんともあろう訳知りが、今更、こと改めてこんなことを仰ろうとは?などと格好付けてはみたものの、「まつたうとでたらめの差の思ふほど大ならざるを知る」ことは、私にとってもやはり大変哀しいことです。

 〔返〕  前原は真っ当なのかでたらめか「決定したら従う」と言う    鳥羽省三
      声上げぬ山の樹さえも想うだろう八つ場ダムなど必要ないと
 二首とも、八つ場ダム問題についての民主党内のごたごたについて詠んだものであるが、前原氏には、ここ一番、もう少し頑張ってもらいたいところである。
 ところで、「声上げぬ山の樹さえも」は、当代人気の小島なお氏の歌集『サリンジャーは死んでしまった』より、その結構や言葉をお借りして詠んだものである。
 以下、本日、私が草する、それぞれの作品に対する返歌の大半は、昨夜、眠れないままに読ませていただいた、小島なお氏の御著からお言葉をお借りしたものである。
 私ごとき老耄の魂魄をこんなにまで揺り動かして下さった小島なお氏には、この機会に、篤く篤く御礼申し上げます。
                [注] 声もたぬ樹ならばもっときみのこと想うだろうか葉を繁らせて(小島なお) 

(船坂圭之介)
○  肌冷ゆる身を弾ませつわれや在るでたらめの生間なく終らむ

 本作の作者・船坂圭之介さんは、総合誌にも作品が掲載される著名な歌人ではありますが、評者としては、この一首の語法については疑問を抱かざるを得ません。
 即ち、作者の意図としての本作の意は、「私は病身であり、この寒さの中で私の『肌』は冷えて行くに任せるしかないのであるが、それでも尚且つ、私は病『身を弾ませ』ながら、『でたらめ』に生きてきた私の一生も間も無く終末を告げることになろう、と、自分自身で達観しているのである」といったところでありましょうか?
 私の推測が見当違いなもので無いとすると、作者の船坂圭之介さんは、完了の助動詞「つ」を、二つの動作の並行を表す接続助詞「つつ」と混同なさってお使いになって居る、ということになりましょう。
 私のこうした指摘が本作の評言として適切なものであるかどうかは、作者の船坂圭之介さんに、そのご本心をお訊ねしてからでなければ判りませんが、一応は名の知れた歌人たちの中でも、助動詞「つ」と接続助詞「つつ」とを、混同なさっている方が多いので、この際、敢えて一言に及んだ次第である。
 〔返〕  重ね着をしても震える今朝の冷えサリンジャーはとっくに死んだ   鳥羽省三
                  [注] 春風のなかの鳩らか呟けりサリンジャーは死んでしまった(小島なお) 

(夏実麦太朗)
○  でたらめにつくる私の歌たちに総じて私のにおいあるらし

 そうです。
 その通りですよ。
 「でたらめにつくる私の歌たち」と仰るのは、夏実麦太朗さん一流の皮肉な表現と解釈させていただきますが、どのような機会に、どのようなお気持ちでお詠みになったとしても、夏実麦太朗さんの「歌たち」には、「総じて」夏実麦太朗さんの「におい」が「あるらし」いとのご指摘は、決して「でたらめ」で“的外れ”なご指摘ではありません。
 また、御作ばかりでは無く、他の方々の作品をお選びになる場合も、夏実麦太朗さんは、ご自身の「におい」に染まったような作品ばかりをお選びになって居るようである。
 〔返〕  ありふれた出会いであるが素晴らしい夏実麦太朗氏の御作を読む   鳥羽省三
                [注] ありふれた出会いはきっとすばらしい遺伝子学の教科書閉じる(小島なお)


(浅草大将)
○  雪やめば月こそはやも出でたらめ梅の花影窓に差しつつ

 お題「でたらめ」を、「(月が)出ているだろう」という意味で「出でたらめ」として、お使いになった作品ではあるが、係助詞の「こそ」に対応して、結びの助動詞「む」を終止形のままで使わないで、已然形の「め」となさるなど、推敲と工夫の跡が見られる作品である。
 〔返〕  雪と月 梅の花まで詠み込んででたらめ乍らもなかなかの出来   鳥羽省三
      雪と月どちらが先に消えるだろう梅の花も亦競いて散るか
                  [注] いもうととどちらが先に死ぬだろう小さな哲学満ちる三月(小島なお)


(紫苑)
○  でたらめに置きしと思ふ色柄の相響きあふカンディンスキー

 カンディンスキーの図形や「色柄」は、一見した時、本作の作者の紫苑さんならずとも、誰しも、「でたらめに」置いたのではないか、と「思ふ」のであるが、それでも尚且つ、彼の作品の前に立つ鑑賞者は、その作品から、一定の調和を感じるばかりではなく、「相響きあふ」音楽さえ感じるのである。
 〔返〕  目や耳や爪の形のものも見ゆカンディンスキーの前衛絵画   鳥羽省三
                    [注] 目や耳や爪先からも咲いてはこぼれるばかり花の流動(小島なお) 

(西中眞二郎)
○  「でたらめ」はいかがわしいが「ランダム」と呼べばいささかもっともらしき

 私ならともかく、西中眞次郎さんさえも、未だに英語コンプレックスから解放されていないのてぜありましょうか?
 とは申せ、本作は「いささかもっともらしき」ことをお詠みになって居られるのである。
 〔返〕  神の為すランダムなのか我が庭にパンジーの花でたらめに咲く   鳥羽省三
                [注] 宇宙時間思えば一瞬にも満たずわたしの記憶にパンジーは咲く(小島なお) 

(こはぎ)
○  騙されたふりしてあげる でたらめな言い訳並べる君の唇

 「君」のその魅力的な「唇」から零れ落ちるものであるから、「でたらめな言い訳」を「並べ」立てているのだと感じて居ながらも、「騙されたふりしてあげる」という訳でありましょう。
 とは申せ、こうしたことが、本当に騙されていることなのである。
 〔返〕  いつの日か貴方の赤ちゃん生みたいの誕生祝にみんな集めて   鳥羽省三
                    [注] いつの日か建築物を造りたい春には人が集まるような(小島なお) 

(みずき)
○  でたらめな政治に壊れゆく街へ冬の木の実の熟しゆくなり

 被災地の「街」が「壊れ」たのは、決して「でたらめな政治」のせいではありませんよ。
 それも少しは関係するかも知れませんが、その大半は、自然災害と、それが想定されるのにも関わらず、そのまま放置していた、政権交代前の政治に在る、と言うべきでありましょう。
 と、そんなくだらないことを書いている間にも、我が家の前の石段沿いに植えられている「冬の木の実」、即ち“梅擬き”の実が、折からの風に吹かれてはらはらと散っているのである。

 〔返〕  梅擬き見上げてしばし筆を擱く我は嘘吐く梅擬きなど無い   鳥羽省三
 我が家の石段沿いに植えられた木は“梅擬き”ではなく“花水木”である。
 それと知っていて、「梅擬き見上げてしばし筆を擱く」などと詠んだのは、少しは呆けのせいもありましょうが、“花水木”よりは“梅擬き”の方が「冬の木の実」と呼ぶに相応しいと思ったからである。
 詰まるところ、私は返歌のみずきさんの御作についての鑑賞文の中で嘘を吐いたのである。
                   [注] 飛行船見上げてしばし立ち止まるわれら嘘つく春の小魚(小島なお) 

(アンタレス)
○  娘等二人昔語りしでたらめの童話ききおり今も忘れず

 アンタレスさんの御作は、相も変わらず推敲不足である。
 詠い出しの句は「こらふたり」と読むのでありましょうが、作品をそのまま解釈すると、「昔語り」をしていたのは「二人」の「娘」さんたちである、ということになる。
 この「二人」の「娘」さんたちは、ご自身で「昔語り」をしながら、その「昔語り」の内容である「でたらめの童話」を、ご自身で聴いていたのでありましょうか?
 だとしたら、アンタレスさんの「二人」の「娘」さんは、自作自演の「昔語り」を自分自身で聴いている、という離れ業をしていることになりましょう?
 仮に、それが出来たとしたら、アンタレスさんのご息女様に相応しく、真に器用で、真に頭脳明晰なご息女様である。
 〔返〕  娘ら二人昔語りに興じゐきでたらめな我が法螺話に笑ひ転げて   鳥羽省三
      正月を迎える準備はできている餅も搗いたし煤払いもした
                   [注] 太陽を迎える準備はできている菜の花畑に仁王立ちする(小島なお) 

(おちゃこ)
○  でたらめな唄ばかり歌ってた君の隣がただ嬉しくて

 「でたらめな唄ばかり歌ってた」のは、作中の「君」でありましょうか?
 それとも、“おちゃこ”さんご自身でありましょうか?
 〔返〕  我が唄うでたらめばかりの春歌さえ君との夜を彩る一部   鳥羽省三
                 [注] 救急車のサイレン遠ざかることもあたたかきこの春夜の一部(小島なお)


(ほたる)
○  でたらめに君を選んだわけじゃない僕らの出会いは必然なんだ

 「遊び慣れない男性なら、誰しもそう思う」ということである。
 〔返〕  スーパーの外で奥さんを待つ君よ彼女の秘密を君は知ってる?   鳥羽省三
                  [注] スーパーの外で主人を待つ犬よお前はなにを隠しているか(小島なお)


(伊倉ほたる)
○  でたらめな色を重ねる指先を誰かのために正しく使う

 「フーゾクにお勤めの御嬢さんが、ご出勤前のひと時、ネイルケァ専門のお店にお立ち寄りになられ、店員の差し出す姿見を前にして、悲愴なご決意をなさって居られるような内容」の作品である。
 だとすれば、貴女の「指先」ならぬ“爪先”が、「でたらめな色」を塗り「重ねる」ために存在するものであるとしても、その“爪先”ならぬ「指先」を「誰かのために正しく」使おうと、固くご決意なさったとしても、それは所詮無駄なご決意というものでありましょう。
 そもそも、「指先」を「正しく使う」とはどんな使い方を指して言うのですか?
 一体、どんな使い方をすれば、正しい使い方をしたことになるんですか?
 〔返〕  受験する我が子の肩を揉むときはこの指先を正しく使う   鳥羽省三
                 [注] 留学する友を乗せたる飛行機の加速するときわれは消えゆく(小島なお)


○  赤・緑・白いお髭のサンタさんやって来るのは“クリスマス・ウィヴ”   鳥羽省三

  即興昨、つまり、でたらめな作品である。
 “投げ売り”とでも言うべき価格で人手に渡してきた我が家には、どんなメタボなサンタさんでも潜り抜けられるような、赤くて大きくて立派な煉瓦造りの煙突がありました。
 数年前の年末に、長男夫婦が二人の孫娘を連れて遊びに来たので、私は、サンタクロースからのプレゼントだと言って、二人の孫娘の枕元にプレゼントの品を置いておきました。
 その翌朝、二人の孫娘は、その煙突に視線を向けて、「あの煙突からサンタさんが入って来たんだね。煙突が大きくて良かったね」と言い合って居りました。
 〔返〕  この爺が白いお髭のサンタさん箱橇に乗ってやって来たんだ   鳥羽省三

今週の朝日歌壇から(12月11日掲載・其のⅣ・目を開けるたび「まだ」と言われる)

2011年12月22日 | 今週の朝日歌壇から
[佐佐木幸綱選]

○  前髪が切れていく音聞きながら目を開けるたび「まだ」と言われる  (富山市) 松田わこ

 “ママ床屋”でありましょうか?
 〔返〕  「もう少し我慢してね!」とママは言う「可愛くしてね!」とわこも言うけど   鳥羽省三


○  入り交じり八手の花の蜜を吸ふ西洋蜜蜂日本蜜蜂  (熊谷市) 内野 修

 「八手の花」は、地味で目立たないながらも他の花が咲いていない冬期間も咲いているので、「西洋蜜蜂」も「日本蜜蜂」も「入り交じ」って遣って来るのでありましょう。
 〔返〕  小春日を八手の花に群れて居ぬ羽音幽かに日本蜜蜂   鳥羽省三
      羽音も高く群がり蜜を吸ふ八手の花の西洋蜜蜂   


○  補助当らず基準満たせぬ畔工事暮れて月影小さき田包む  (高槻市) 氏原 久

  水田の「畔工事」は一定以上の規模であれば、国や県からの“補助金”が支給されるのであるが、本作の題材となっている「畔工事」は、その「基準」を「満たせぬ」ほどの小規模なものである為に自前の費用で行わざるを得ないのでありましょうか?
 我が国の農業、特に稲作は、水田の拡幅工事から始まって収穫物の販売まで、行政側から支給される補助金や奨励金などをあてにして行われているのが現状であると言う。
 であるとするならば、本作の作者・氏原久さんは、その補助金を得ることが出来なくて、自前の費用で「畔工事」を遣るしかなかった無かった小規模稲作農家の悲哀を、「暮れて月影小さき田包む」という下の句で以って言い表そうとしているのでありましょうか?
 〔返〕  月光に包まれて押す猫車 猫の額の程の田の畔   鳥羽省三   


○  優勝のその瞬間ゆ居らぬ者のごとく敗者は映らざりけり  (横浜市) 池松勝紀

 この場面で、「ゆ」という万葉時代の格助詞を使うのは、詠われている内容から判断しても極めて不適当なことである。
 「ゆ」という古色を帯びた格助詞を、単なる音数合わせの為に使うのは止めましょう。殊更に「ゆ」を用いて、その後の五音句を「居らぬ者の」などと字余りにするのは、あまりにも馬鹿げたことでありましょう。
 この格助詞でなければならない場面にのみ使うことにしましょう。
 選者の佐佐木幸綱先生が、こんな推敲不足の作品を入選作となさるのには、どんな理由があるのでありましょうか?
 〔返〕 優勝を逃せし刹那 画面より追放されたる哀れな敗者   鳥羽省三
     敗北のその一瞬ゆ居ぬ者の如くナインは液晶より消ゆ
 

○  丹念にネイルのケアをするらしいセッター竹下指先がいのち  (四街道市) 佐相倫子

 同内容の記事を、かなり前の朝日新聞のスポーツ欄で読んだような気もします。
 〔返〕  欠かさずにネイルのケアをするらしい竹下佳江のニックネームはテン
      あの顔でネイルのケアもするらしい不滅のセッター竹下佳江
 「あの顔」と言っても、作者の意図する「あの顔」は、「あの精悍な顔」もしくは「あの負けん気な顔」ということですよ。
 尤も、こうした曖昧な表現をしている以上は、作者の意図の中に、誤読に誘引し、それを許容しようとする気持ちが在ることも否定出来ません。

今週の朝日歌壇から(12月11日掲載・其のⅢ・両の手に桃の実そつとつつむごと・改訂版)

2011年12月21日 | 今週の朝日歌壇から
[馬場あき子選]

○  両の手に桃の実そつとつつむごと合掌をせりブータンの王  (鳥取県) 中村麗子

 物の見方は人さまざまであり、評者は、「ブータンの王」夫妻のあの「合掌」の形を、蓮華の蕾を両手で包んでいるようにも思いました。
 [返]  諸手もて蓮華の蕾を包みつつ合掌をせるブータン王妃    鳥羽省三
     王につき従ひ歩むブータンの王妃の目線に入るものはや
     控へ目に振る舞ひ歩むブータンの王妃の眼に浮かぶ驚き
     ホコテンの賑ふ様を目にしても幸福感の揺るがざるにや
     

○  晩秋の雨中に湯気を燻らせて角落されし鹿の草食む  (舞鶴市) 吉富憲治

 「湯気を燻らせて」とあるのは、「角」を「落され」ても尚且つ「湯気を燻らせて」「草」を「食む」「鹿」の身体から上がる「湯気」に、異様な香りを感じたからなのでありましょうか?
 〔返〕  夏草を無心に食める雄鹿のくすしき角に見惚れる雌鹿   鳥羽省三


○  「考える人」に会うため杜へ行くもう何十年も考えてる人  (蓮田市) 青木伸司

 評言に「下句が面白い」とあるが、私には、意味不明瞭な駄作と思われる。
 作中の「杜」とは、国立西洋美術館の在る“上野の森”でありましょうか?
 また、選者の馬場あき子先生が「面白い」と仰る、下の句中の「もう何十年も考えてる人」とは、ロダンの「考える人像」を指して言うのでありましょうか?
 それとも、作者ご自身が何かについて、(例えば、国立西洋美術館に行こうと)「もう何十年も考えてる人」なのでありましょうか?
 〔返〕  蓮田から上野までほぼ一時間考えてる暇も無く到着   鳥羽省三


○  暗(くらがり)の峠越えれば鬼取とう里にて人のかんばせ明かし  (八尾市) 水野一也

 末尾の形容詞「明かし」及びその直前の名詞「かんばせ」は共に文語であり、また、三句目「鬼取とう」の「とう」は、本来は、「といふ」という連語を「とふ」とした、文語短歌表現上の省略語である。
 したがって、本作は文語短歌を志向してお詠みになられたものと判断される。
 ならば、本作は仮名遣いを統一なさって、「くらがりの峠越ゆれば鬼取とふ里にて人のかんばせ明かし」とされるべきでありましょうか?
 〔返〕 木の下闇越えて来たれば鬼取の里の乙女のかんばせ明かし   鳥羽省三


○  返さるる履歴書ばかりの日を重ね子は一歳の父となりゆく  (鹿児島市) 篠原廣己

 妻子を抱えながらも就職先を得ることが出来ないでいるご子息をお持ちになった父親しての作者の哀しみの情が切々と伝わっ来るような佳作ではある。 
 しかし乍ら、見方を変えて遠慮無く申せば、「作中の『一歳の父』は人生設計が極めて甘く、その父親である作者も亦、それを放置していた」ということにもなりましょうか?
 一時代前の男性は、妻子を抱えた生活の見通しが立ってから初めて結婚ということを考えたものであり、その見通しが立たない間は、生まれついての女嫌いのような顔をして、他人の幸福を目にしながらも、自らはじっと耐えていたものである。
 したがって、本作の題材となっているような出来事が発生する原因を、経済不況や政治の貧困にばかり求めることは、片手落ちとも申せましょうか?
 とは申せ、「一歳」の乳児の祖父としての作者の気持ちには、あまりにも傷ましいものが感じられる。
 ご子息が失職中であると否とに関わらず、親という立場にあることは、なかなかに厳しいものである。
 私の長男は、現在、大阪に単身赴任中であり、彼の妻と二人の娘が川崎市の宮前区内に住んでいる。
 そこで、私と妻とは、本日、サンタクロースにでもなったようなつもりで、孫娘たちにお土産を盛り沢山抱え、留守を守る彼女らの家を訪問しました。
 少ない年金だけで暮らしを立てている私たちにとって、年に一度とは言え、サンタクロースの役を演じることは、決して楽なことではありません。
 それでも尚、私が就寝した後で大阪の長男からお礼の電話が入ったということで、我が連れ合いは、私に今年もサンタクロースの役を演じさせることが出来たことを、とても喜んでおりました。
 〔返〕  一歳の父となりたる過ちに親は気付くも口には出さず     鳥羽省三
      ユニクロの赤い毛糸のセーターはサンタクロースの役に相応し
      お子様用お化粧セットが六千円一年生も化粧するのか?

今週の朝日歌壇から(12月11日掲載・其のⅡ・あの時落としたセンターフライ・改訂版)

2011年12月20日 | 今週の朝日歌壇から
○  いつまでも夢にでて来て苦しめるあの時落としたセンターフライ  (佐世保市) 杉谷政義

 本作に接して私が急に思い出したのは、中学時代の同級生の永山君と教員時代の教え子の奥崎君である。
 彼ら二人の共通点は、自分たちの野球生活の総括とも言うべき場面で、外野「フライ」を「落とし」てしまい、自校を負け試合に導いてしまったという前歴を持っている、という事である。
 彼らにとって恨み重なるその二つの試合の単なるサポーター(野球の試合で応援席に居る者を“サポーター”と言ってはならないのかしら?)に過ぎなかった私は、卒業後数十年経ってから行われた二つの同級会の席上に於いて、何気無しに彼らに向かってその話をしてみたのである。
 すると、彼らは、互いに守備位置(永山君はセンターで奥崎君はレフトであった)も年齢も話された場所も違うのに口を揃えたようにして、「あの外野フライか!。あのエラーが忘れられなくて、私は『夢』の中で未だに外野フライを追っかけているのだ!、走っても走っても追いつかなくてね!」と、実に深刻そうな目をして話し始めたのであった。
 永山君は、板橋区内で手堅く製氷業を営んでいたのであったが、あの同級会の後、間もなく亡くなってしまったのである。
 奥崎君は、大学卒業後、大手の旅行会社の営業マンをしていたのであるが、その後独立して、目下顧客獲得のために奮闘中とのこと。
 永山君が亡くなったことについても、奥崎君が“寄らば大樹の陰”から離れなければならなかったことについても、あの時、あの場所での、私のあの話が災いしているのでありましょうか?
 「亡くなってしまった者は仕方がないが、せめて奥崎君の会社の経営が順調であってくれればいい」と、切に願っている、この頃の私である。
 〔返〕  幻のセンターフライを追っかけて未だ取れずにいる球爺たち   鳥羽省三


○  火のごとく鳳凰木の花顕てり異国となりし我が小学校  (熊本市) 高添美津雄

 本作の作者・高添美津雄さんが在籍された「小学校」は、中国南部のそれか台湾のそれと思われる。
 数十年ぶりに訪れてみたら「火のごとく鳳凰木の花」が「顕てり」という状態であったならば、「異国となりし我が小学校」と思うのも、当然のことでありましょう?
 〔返〕  粗大ごみ焼却施設となり果てて礎石のみなる我が小学校   鳥羽省三 


○  モニターにライバル校の舞台見つ口数減りゆく第三楽屋  (可児市) 前川泰信

 “全県高校演劇コンクール”もしくは“全国高校ダンスコンクール”といった大規模な大会の楽屋風景でありましょうか?
 テレビ「モニター」に、今しも本番の「ライバル校の舞台」風景が映っていて、それが予想に違わぬ出来栄えなので、画面を気にしながら出番を待っている「第三楽屋」の面々の「口数」が急激に減って行くのである。
 本作の作者の前川泰信さんは、“引率責任教師”といった立場で「第三楽屋」で出番を待っている生徒たちと同席しているのでありましょうか?
 下の句の「口数減りゆく第三楽屋」という叙述が、それと無く作者の置かれた立場を示唆しているような気がするし、また、「口数」という一語の存在が、出番を待っている面々が女生徒であることを思わせる。
 〔返〕  モニターがライバル校のへま映す第三楽屋にあがる歓声   鳥羽省三


○  夢さめて胴のギブスに気付きたり叩けばコツコツ乾く音して  (加賀市) 敷田千枝子

 「叩けばコツコツ乾く音して」が現実感を高め、この一首を優れた作品にしているのである。
 〔返〕  雨の夜は湿つたやうな音もせむ夢覚めて叩く胴のギブスは   鳥羽省三
      雪の夜はコンコンコンと響くらむ胴のギブスはいつも冷たく


○  ぶらんこの鎖の匂ひになつた手を樫の隙間の夕日が照らす  (和歌山市) 植田陽子

 「樫の隙間」から漏れて来る「夕日」に染まって、作中人物の「手」は、「ぶらんこの鎖の匂ひ」ごと真っ赤になっているのでありましょう。
 〔返〕  帰ろうか鎖の匂いのままの手で夕焼け小焼けでぶらんこ已めた   鳥羽省三


○  ムササビは空飛ぶべしと思い立ち猫は思わず昼寝などする  (東京都) 野上 卓

 “テレビアニメ”や“少女コミック”などから題材を得られたような作品であるようにも思われますが、本作の作者の過去の作風から推察すると、そうで無いようにも思われます。
 そこで評者は、その判断に苦しみながらも、本作を、世俗的な教訓と風刺をテーマとした、一種の寓話として解釈させていただきました。
 作中の「ムササビ」とは、例えば、この度、日本ハムからポスティングシステムでメジャーリーグに移籍をしようとしているダルビッシュ有投手のような、或いは、サッカーの世界一の強豪チーム“バロセロナ”の花形プレーヤー・メッシ選手のような超優れたスポーツ選手を指して言うのであり、「猫」とは、自分自身の能力にもはや見切りを付けてしまっている、我が国の三流スポーツ選手を指して言うのである。
 こうした前提の下に、作中の「昼寝などする」「猫」の胸の内を述べてみましょう。
 「ダルビッシュ先輩は、あの通りの鉄腕であるから、ニューヨーク・ヤンキースに移籍して年収三十億円を得るのも当然のことであり、勝手なことでもあるが、私・斎藤佑樹は、どうせこの程度の半端な選手でしかないのだから、せいぜい日本ハムの先発陣の四人目ぐらいの位置を確保し、僅か五千万円程度の年俸を有り難く頂戴し、シーズンオフには女子アナの穴でも追っかけていることに専念することにしましょう。」
 上掲の対話中の“ダルビッシュ先輩”とは、申すまでも無く、作中の「ムササビ」であり、“私・斎藤佑樹”とは「猫」である。
 〔返〕  歌詠みの野上卓氏は空飛べど我は我なり日向ぼこせむ   鳥羽省三
      忙しく空翔く彼と翔けぬわれ分け隔てなく冬の陽を浴ぶ


○  雨なのに屋根に蒲団があると言う母の目線にまだらのトタン  (下野市) 石田信二

 二年前に亡くなった私の連れ合いの母親は、「自分の寝室の窓の外に観覧席みたいな座席が在り、その座席には大勢の人々がいつも仲良く座っていて、私の行動に拍手したり、私に向かって手を振って、『お出で、お出『』と呼んでいるのだ」と、よく言ったものでありました。
 座席に座っている人々の名前を聞くと、かつて彼女と関わりが在った人で今は鬼籍に入ってしまった人の名を、彼女は次々と上げるのでありました。
 作中の「母」は、「雨なのに屋根に蒲団があると言う」程度のことであり、私の連れ合いの母親と比べたら、まだまだ呆けているとは申せません。
 ところで、これは亡くなった義母、即ち、連れ合いの母親の名誉の為に申し添えますが、私たち夫婦がいよいよ首都圏にUターンしようとして、彼女が入所している高齢者介護施設にそれと無くお別れに行った時、私が彼女に向かって「この男が誰だか知っていますか?こんな男のことは、もう忘れてしまったのではありませんか?」と問い掛けたところ、彼女は直ぐさま、「いいえ、忘れるはずがありませんよ。私の娘・翔子の大事な大事なご主人様で、名前、鳥羽省三さんです。今でも、かっこいい歌を詠んでいますか?」と、入れ歯を外した口ではっきりと答えたことでありました。
 それを聞いた私は、こんなにも健気なお年寄りを雪国の田舎に残して、自分たちだけが温かい都会に去ることが、とても恥ずかしい行為のように思われてなりませんでした。
 私と翔子とが、その母親にそれと無く別れを告げて、介護施設の玄関先に出た時、真っ赤な夕焼け空から風花がはらはらと舞い散っていたことが、義母を失くしてしまった今になっても、私には忘れられません。
 〔返〕  晴れ渡る夕焼け空から舞ひ落つるあの風花よ切なき義母よ   鳥羽省三

今週の朝日歌壇から(12月11日掲載・其のⅠ・おろがみて食ぶ)

2011年12月19日 | 今週の朝日歌壇から
[返]

○  亡き祖父を真似て新米食い初めすおかずは皆無おろがみて食ぶ  (茨城県) 田口順道

 五句目を「拝んで食べる」とせずに「おかずは皆無おろがみて食ぶ」としたのは、“作者の古語への執着心の表れ”でありましょうか?
 それとも、単なる“音数合わせ”でありましょうか?
 「食ぷ」はともかくとしても、動詞「おろがみ」は動詞「拝む」の古語であり、しかも、日本書紀などの上代の書物に出て来る古語であるから、昨今に於いては、結婚式や上棟式の際などに祝詞を上げる神主さんの口からしか出て来ません。
 それにも関わらず、古色蒼然たる動詞、即ち「おろがむ」にご執着なさっておられる歌詠みが少なくないと思われ、この古典語を用いた作品は結社誌などにも掲載されるが、その大半は読むに堪えないような凡作である。
 どんな理由があるにしろ、自分たちの生活圏から完全に消えてしまった言葉を敢えて使おうとするところに、短歌が袋小路に嵌ってしまった原因があるのかも知れません。
 緑青が吹いているような古典語を敢えて用いようとしながら、現代仮名遣いを用いている点も、本作の欠点として指摘しなければなりません。
 文語短歌を志向している以上は、「食い初め」は「食ひ初め」と、「おろがみて」は「をろかみて」としなければなりません。
 また、「皆無」という漢語と「おろがみて」という和語とのアンバランスも指摘して置きましょう。
 〔返〕  「食い初め」と「お食い初め」とは異なって「お食い初め」は赤ちゃんがやる   鳥羽省三


○  夜九時に電話かけて来る君のためチョコのような声用意する  (神戸市) 野中智永子

 「チョコ」と言えば、甘いだけではなく、苦さもその魅力の一つである。
 本作の作者・野中智永子さんは、「夜九時に電話」を「かけて来る君のため」に、「チョコのような」甘くて苦くて魅力的な「声」を「用意する」のでありましょうか?
 〔返〕  夜九時に必ずかけて来るはずの君の電話が未だ鳴らない   鳥羽省三


○  玄関を蹴って出てゆく君の好きなハヤシライスを今夜作ろう  (東京都) 土門久美子

 「玄関を蹴って出てゆく君」とは、評者としても、聞き捨てにならない表現である。
 作中の「君」と作者の土門久美子さんとは、起き抜けに痴話喧嘩でもやらかしたのでありましょうか?
 それとも、彼が単に元気なだけでありましょうか?
 そのいずれにしろ、「玄関を蹴って出てゆく」ような「君」のために「君の好きなハヤシライスを今夜作ろう」とするのは、妻として、一家の台所を預かる主婦として真に感心な心掛けである。
 「今夜」も亦、彼と作者とは、きっと熱々になるのに違いありません。
 でも、程々になさって下さいね、ご近所迷惑になりますから。
 〔返〕  煮込むほどハヤシライスは美味くなる今夜食べずに明日食べよう   鳥羽省三


○  逞しきマリンバ奏者の二の腕に雷光のごとく筋が走りぬ  (鴻巣市) 佐久間正城

 「マリンバ奏者の二の腕に雷光のごとく筋が走りぬ」とあるが、ピアニストにしろ、バイオリニストにしろ、声楽家にしろ、音楽家たちの仕事振りは、芸術家という名前に似合わず、あれでなかなかの肉体労働なのである。
 その中でも「マリンバ奏者」は特に筋骨隆々たる存在であることをを私が知ったのは、“さだまさしコンサート”に於いてであった。
 歌手“さだまさし”の家来のような存在の「マリンバ奏者」の宅間久善は、一見すると、ただの優男が年を取り過ぎてしまったような顔つきの中年男であるが、ご主人の“さだまさし”が持ち歌の『胡桃の日』を熱唱する時の彼の伴奏ぶりは、“驚異のマリンバ奏者”と言われる程にも熱狂的であり、彼がステージの奥で「マリンバ」を叩いている間、私たち観客は、思わず総立ちになってしまい、主役の“さだまさし”の存在を無視して、拍手喝采を浴びせてしまうそうにさえなってしまうのである。
 〔返〕  マリンバが憎くてあんなに叩くのか『胡桃の日』を打つ時の宅間は   鳥羽省三      

一首を切り裂く(021:洗・其のⅣ・思春期の罵詈雑言が飛ぶ家を)

2011年12月18日 | 題詠blog短歌
(豆野ふく)
○  思春期の罵詈雑言が飛ぶ家を洗うみたいに降り注ぐ雨

 女性にとって、母親にとって、子育てというものは実に難儀なものらしい。
 乳幼児期は、身体を動かして世話をし、ただ単に可愛がっていれば良いので、それ程難儀とも思われませんが、小学校から中学校へ、そして高校、大学へと進む「思春期」ともなれば、それほど広くもない家庭内に、日々「罵詈雑言」が飛び交っているような状態になるのでありましょう。
 本作の作者・豆野ふくさんは、お子様方をご立派に育て上げて独立させた後の或大雨の日に、かつての我が家には一日中「罵詈雑言」が飛び交ってことを思い出し、「この『雨』は、日々『罵詈雑言』が飛び交っていたかつての我が家の汚れを洗い流し、子育てに追われていた私の労苦を癒してくれるように優しく私を包み、我が家に『降り注』いでいるようだ」と、お思いになって居られるのである。
 「思春期」の子供を抱えた母親の苦労を、「思春期の罵詈雑言が飛ぶ家」と具体化して述べた点が宜しい。
 〔返〕  老残の喜怒哀楽を吹き飛ばしまたも揺れてる震度六強   鳥羽省三


(夏嶋真子)
○  サニタリーショーツを洗う間だけ花は散らない月は欠けない

 生来の不勉強が祟ってなのか、私はつい昨日まで「サニタリーショーツ」なるものの実態をご存じ上げていらっしゃらなかったのである。
 それ故、この度、試みに、ものの本を捲ってみたところ、「『サニタリーショーツ』とは、女性が着用するパンティーのうち、生理期間をより快適に過ごすのに必要な機能を付加した下着、即ち“生理用パンティ”の別称である」とのこと。
 さすれば、本作は、女性の生理と月の満ち欠けとの因果関係に纏わる迷信にご着目なさってお詠みになられて作品であり、作中の四句目の「花は散らない」という叙述は、前記の迷信にご着目なさってお詠みになられた、本作中の他の部分を彩るために添えられた“付け足し”でありましょうか?
 〔返〕  サニタリーショーツを洗ひし日々も淡くして今宵さびしく湯たんぽ抱けり   鳥羽省三


(清次郎)
○  風呂釜を洗いて風呂用スポンジを濯ぎて風呂に湯を張りはじむ

 私たちの日々は、究極的には、こうした単純で平凡な作業の繰り返しに過ぎませんが、その一つとして、決して疎かにしてはなりません。
 ところで、五句目が「湯を張りはじむ」であったならば、二句目の「洗いて」は「洗ひて」でなければなりません。
 文語短歌を志向している以上は、仮名遣いを疎かにしてはなりません。
 〔返〕  ドアーを閉じドアーチェーンを鎖し火の元を確認してから照明を消す   鳥羽省三


(飯田和馬)
○  プーチンはよく手を洗い水色のナイトキャップを被って眠る

 「プーチン」の「よく手を洗い」という動作は、出来るだけ長く権力者の座に座っていたいからであり、「ナイトキャップを被って眠る」は、禿げ隠しの為でありましょうが、「ナイトキャプ」が「水色」なのは、さすがの最高権力者と言えども、「ピンクのナイトキャップ」を「被って眠る」ほどには、図々しくは無かったからでありましょうか?
 彼が「被って眠る」「ナイトキャップ」の色が、“赤”や“ピンク”で無かったことが、二十一世紀のロシア国民の唯一の救いでありましょうか?
 〔返〕  プーチンはよく首洗え錆色の堅い鎧を纏って眠れ   鳥羽省三


(小林ちい)
○  コンタクトを洗浄液に浸すとき俺はぼやけるほんとうの俺が

 性別や年齢を問わずに、何方でも「コンタクトを洗浄液に浸すとき」には裸眼でありましょう。
 普段「コンタクト」を用いている者が裸眼になれば、目に入るものは何でも「ぼやけ」て見えるのであり、「ぼやけ」て見えるのは、「ほんとうの俺」に限りません。
 〔返〕  総義歯を外して眠る俺の顔 口元が凹んでしょぼくれてる   鳥羽省三


(神楽坂朱夏)
○  水晶の碧きひかりに洗礼の預言を受けしセント・メアリィ

 一昨日、我が家を訪れた女性保険外交員の話すことに拠ると「昨今の若いカップルの間で、超羨望の的になっているのは、東京都港区元麻布三丁目に在る“麻布セント・メアリー教会”で結婚式を挙げることであり、私の見たところ初老とも思われる、この女性保険外交員は、我が娘に、その超羨望の的たる教会で結婚式を挙げさせる為に、目下、営業所内でトップの保険契沢山獲得するべく奮闘中である」とのことである。
 私の知るところに拠ると、我が家の長男が、高校時代に短期語学留学をしたオーストラリアのシドニーにも、ローマ・カトリックのゴシック・リバイバル建築様式の教会、即ち「セント・メアリー大聖堂」なる建築物が在るが、思うに、作中の「セント・メアリィ」とは、この「セント・メアリー大聖堂」を指して言うのではなく、前記の「麻布セント・メアリー教会」を指して言うものでありましょう。
 私は十代の終りごろに、その風貌にも姓名にも似合わず、宮本武蔵の“五輪の書”と共に“新約聖書”や“旧約聖書”を愛読書にしていた者であるが、その後、心境の変化もあって、キリスト教の教会とは縁無く、したがって、カトリック教会で行われる「洗礼」の様式についての知識は、何一つ持っておりません。
 作中に「水晶の碧きひかりに洗礼の預言を受けし」とあるが、これは、“麻布セント・メアリー教会”に於いて、本作の作者・神楽坂朱夏さんが、「洗礼」をお受けになられた際の記憶に基づいてお詠みになられたのでありましょうか?
 それから、これは余談ではありますが、聖書の愛読者であることを止めた後の私が熱愛した女性歌手の一人として、“神楽坂はん子”という神楽坂芸者出身の歌手が居て、彼女が歌ってヒットさせた、昭和を代表する流行歌『芸者ワルツ』が、我が家の手回し蓄音機から響いている時の私は、“身も世も無く”悶え苦しんだことでありました。
 当てずっぽうで言わせていただきますが、本作の作者・神楽坂朱夏さんは、かつての私が熱愛した歌手・神楽坂はん子の隠し子、あるいは、その縁者ではないでしょうか?
 思い出が次から次へと蘇って来るのに任せて、少々、長口舌に過ぎましたかしら?
 それでは失礼致します。御機嫌よう。
 〔返〕  そのかみの芸者狂いのなれの果て今は他人の短歌を貶す   鳥羽省三


(しづく)
○  間違えて携帯電話洗っちゃう事ってそんなにたくさんあるの?

 百段余りの坂の上の寓居に隠棲している、この私の耳に入って来るだけでも、かなり「たくさんある」ようです。
 私の二人の息子と、長男の連れ合いも、「なけなしの金を叩いて買った『携帯電話』を洗濯機に入れて洗っちゃった」という「事」です。
 私自身は、テッシュペーパーを入れたままのズボンやパジャマを洗濯機に放り込む「事」が多く、昨日もやらかして、連れ合いからこてんこてんに叱責されちゃいました。
 〔返〕  ケータイを未だ買えない僕のため小田急線よヤマダまで行け   鳥羽省三


(鮎美)
○  共用の洗濯機には単身者たちの糸くず寄り集まりて

 昨日の朝日新聞の記事に拠りますと、「洗濯機の中にスポンジ束子を入れて廻すと、『糸くず』などのゴミがスポンジ束子に絡み付いて、洗濯機を綺麗にして置くことが出来る」とのことである。
 「但し、スポンジ束子をそのままの状態で入れて洗濯機を廻すと、スポンジ束子が直ぐに浮いてしまって、いくら廻しても『糸くず』が絡み付かないから、スポンジ束子は洗濯機用の網袋に入れて廻さなければならない」とのことでもある。
 鮎美さんも、一度、お試しになったらいかがですか。
 〔返〕  じいちゃんのパンツの護謨がわたくしのランジェリーの紐に絡み付くのよ!   鳥羽省三


(野坂らいち)
○  もう二度と戻ることない今日の日を洗い流してお風呂場を出る

 野坂らいちさんの場合に限らず、何方の場合でも、入浴という営みは「もう二度と戻ることない今日の日を洗い流」す、といった、極めて尊い役割りを果たしているのである。
 〔返〕  もう二度と戻ることなきあの人の曲り毛が浮く今朝の浴槽   鳥羽省三 


(久野はすみ)
○  使わざる香水壜をはべらせて洗面台は憂鬱な王

 使わない「香水壜」がいくつも並べられた「洗面台」に「憂鬱」さを感じることは、明日の暮らしを心配する必要が無く、現在の暮らし向きにある程度の満足感を覚えている主婦ならば、本作の作者に限らず、誰しもすることでありましょう。
 言うなれば、作者の面前に在って、「憂鬱」そうな雰囲気を湛えている「洗面台」は作者ご自身なのであり、彼女の化身たる「洗面台」の前に、退屈そうな顔をして並べられている「使わざる香水壜」は、彼女の前に侍っている無能な従者なのである。
 末尾の七音が「憂鬱な王」となっているのは、二、三句目の「香水壜をはべらせて」という表現に因って導き出されたものでありましょう。
 〔返〕  無能なる政府首脳をこきおろし稲田議員は野党の女王   鳥羽省三


(鳥羽省三)
○  「洗ひ張りいたし舛」との看板の軒に旧りたり飛騨の高山

 実のところを申し上げますと、件の「看板」を目にしたのは、私の郷里・湯沢市でのことである。
 したがって、創作当初の本作は「『洗ひ張りいたし舛』との看板の軒に旧りたり故郷湯沢」となっていたのであるが、今回、“題詠2011”に投稿させていただくに当たって、五句目の七音を「飛騨の高山」と改めさせていただいた次第である。
 全国各地に在る、いわゆる“小京都”なる城下町の中にあって、飛び抜けて名が知れているのは「飛騨の高山」である。
 そうであるが故に、昨今の歌壇に於いては、「末尾の七音として『飛騨の高山』という一句を置いたならば、どんな駄作でも、一応は読めるような作品になる」との、馬鹿馬鹿しい風説が取沙汰されている。
 その馬鹿馬鹿しい風説に疑問を感じながらも、今回、私がかかる挙に出たのは、或いは、読者の方々に対して、真に以って失礼なやり方であったかも知れません。
 〔返〕  「お着替へをお持ちします」と三つ指をつきて今宵はしほらしき妻   鳥羽省三

一首を切り裂く(021:洗・其のⅢ・小豆洗いの消えた川岸)

2011年12月17日 | 題詠blog短歌
(村上 喬)
○  筆洗のにごりし水面に目をやれば猛暑の空に雲の伸びゆく

 本作中の「水面」を「みなも」と訓むのだとすればかなり無理な話である。
 だが、其処の辺りが短歌の面白さでありましょうか?
 「猛暑」に耐えてのスケッチとは、余人にはなかなか真似の出来ないことでもあり、それ以上に羨ましいことでもありましょう。
 「猛暑の空」の「雲」は、小さな「筆洗」の中の「水面」を越えて「伸びゆく」ことでありましょう。
 〔返〕  筆洗の澄みたる水に目をやれば紅葉泳げり枝から落ちて   鳥羽省三
      筆洗の濁れる水に目をやれば毛虫泳げり風に吹かれて


(伏木田遊戯)
○  親切を装う工事に侵されて小豆洗いの消えた川岸の消えた川岸

 利権塗れの護岸工事を「親切を装う工事」と言う。
 本作の作者・伏木田遊戯さんは、実に優しく適切な物言いをなさる方である。
 その「親切を装う工事に侵されて」、私たちの周囲には「小豆洗いの消えた川岸」ばかりが目立つようになりました。
 政治屋と結託している利権業者どもの「親切を装う」護岸工事に「侵されて」、「川岸」から「小豆洗い」が「消え」てしまえば、河川は単なる水路に過ぎなくなってしまうのである。
 〔返〕  親切を装う僧侶に犯されて乙女が一人もいない講堂   鳥羽省三


(月原真幸)
○  台所用洗剤でぴかぴかに磨いたシンクみたいに笑う

 「台所用洗剤でぴかぴかに磨いたシンクみたいに笑う」とありますが、その「シンク」とは、某社製のステンレスの「シンク」を指して言うのでありましょう。
 なぜならば、“住生活グループ・LIXIL”傘下各社製の「シンク」も、「台所用洗剤」で磨くと「ぴかぴか」にはなりますが、同じように「ぴかぴか」になったとしても、その「ぴかぴか」は、某社製のそれとは異なり、「笑う」ような感じの「ぴかぴか」ではなく、もっともっと上品で優雅な感じの「ぴかぴか」だからである。
 〔返〕  トステムのお風呂みたいに温かく心の底から慰められる     鳥羽省三
      イナックスのトイレみたいに爽やかな彼に抱かれて眠りたいのに


(新藤ゆゆ)
○  CMで洗濯物をうつくしく泳がす人にあこがれる夏

 本作の製作時は夏であったから、「CM」に「洗濯物をうつくしく泳がす人」が登場していたのかも知れませんが、今は、もうクリスマス直前ですから、「CM」に登場するのは、白いお髭のサンタの小父さんや、大口を開けてサプリメントの宣伝をするメタボなおばちゃんばかりです。
 〔返〕  憧れる季節としての夏の日も疾うに過ぎにき(今は、もう冬)   鳥羽省三


(逢)
○  ウソをつき汚れてしまったとしても洗えばきれいになれるでしょうか

 「洗えばきれいになれるでしょうか」とありますが、“洗い方”にもよりましょう。
 某系列テレビのCMによりますと、福岡県に本社を置く、某通販から発売されている、一個7980円の特製固形石鹸で洗えば、どんな汚れも取れるということですから、どうぞ、お試しください。
 現在、送料とも二個で15000円の特価販売期間中とのことです。
 〔返〕  噓を吐き政権交代したけれど二年余りで首相三人   鳥羽省三


(今泉洋子)
○  感情を洗練させて夏の夜耳そばだてて星のこゑ聴く

 「『星のこゑ』といった、実在しないものの『こゑ』を『聴く』ことが出来るかどうかは、聴力の問題ではなくて、『感情を洗練させ』得るかどうかの問題である」との、今泉洋子さんのご新説である。
 ご尊顔を拝し奉ったことはありませんが、歌の友は持つべきものであり、今泉洋子さんからは、歌の道以外にも、いろいろ様々なことをご教授賜り、今また、かかるご高尚なるご新説をご教授賜りました。
 真に有り難く、篤く篤く御礼申し上げます。
 閑話休題。
 ところで、「感情を洗練させ」とは、ご高齢の女性の場合、よりヒステリックになることを指して言うのではありませんか?
 若輩の私などには解りませんが、ヒステリックもその極点に達しますと、実在しないものも見え、余人には聴こえない音さえも聴こえるのだ、ということである。
 俗に言う“空耳”というヤツである。
 したがって、作中の「星のこゑ」を「聴く」とか言うヤツも、恐らくはその類のまやかしでありましょう。
 極度のヒステリー状態に陥っているせいなのかも知れませんが、本作の出来栄えも亦、“いまいち”状態にありましょうか?
 「感情を洗練させて」などという、極めて説明的な“五七句”を詠い出しに置いたのは、恐らくは「感情を洗練させて」とは裏腹に、極度のヒステリー状態に陥った挙句に、お題「洗」のご処置にご当惑なさったからに違いありません。
 お題に振り回されてはいけません。
 お題は、歌詠みの味方ではあれ、決して敵ではありません。
 〔返〕  洗ひ髪を風に靡かせて聴く星のこゑ七夕様の今宵晴れたり   鳥羽省三


(遥遥)
○  ○○を洗うことなどできますか洗うことなどできるのですか

 作中の「○○」が思わせ振りではあるが、この場面に於いては、極めてリアルに、「義母の尻を洗うことなどできますか洗うことなどできるのですか」として置きましょうか。
 極めて最近、私の周辺に於いて話題となった一件から取材してのことである。
 「私の周辺」と言っても、私の連れ合いやその妹が、大便塗れの義母のお尻の世話をすることを忌避している、ということではありませんよ。
 私の連れ合いには、「義母」と言うべき女性は居りませんし、連れ合いの妹の場合は、姑さんのお世話を厭わずにやらせていただいている、ということです。
 〔返〕  万札を洗うことなど出来ますか?洗えば必ず増えるのですか?   鳥羽省三


(央上理史)
○  此の身には然したる意味も無いけれど逝くには惜しく右目を洗う

 二句目中の「意味」を「未練」とした方が宜しいかも知れません。
 また、五句目の「右目を洗う」も、かなり唐突な感じがします。
 “付かず離れず”という呼吸を忘れてはいけません。
 それとも、“後三年の役”の鎌倉権五郎景正の故事にご取材なさったのでありましょうか?
 だとしても、取材源が解らなければ読んで貰えませんし、詠んだ意味もありません。
 〔返〕  故郷にはさしたる未練も覚えぬが今のところは本籍地とする   鳥羽省三