臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

「吉川宏志第七歌集『鳥の見しもの』」鑑賞

2017年12月21日 | 〈近現代短歌集の鑑賞〉萬夜萬冊
○  かぜがおもい、風が重いと言いながら青い傘さす子ども歩めり

○  ひらがなを初めて習う子に見せる「つくし」三つの釣り針のよう

○  ときどきは白き狐の貌をするむすめが千円くださいと言う

○  空条承太郎を共通の友として息子と暮らす冬深きころ

○  さむざむと風は比叡を吹き越すも酢の華やかに匂える夕べ

○  磔刑の縦長の絵を覆いたるガラスに顔はしろく映りぬ

○  陽と月の交合のあと目くらみてどくだみの咲く路をあゆめり

○  ヘッドライトに照らし出されて赤黒く立ち上がりたり曼珠沙華の花

○  読み終えし本は水面のしずけさのもうすこしだけ机に置かむ

○  石段の深きところは濡らさずに雨は過ぎたり夕山の雨

○  春雨は広場のなかに吹き入りて吹奏楽の金銀ぬらす

○  よく見てほしいと言う人がそばにいて泥の覆える家跡を見る

○  破られてまたつながれて展示さるる手紙に淡き恋は残りぬ

○  雨ののち冬星ひとつ見えており何の星座の断片かあれは
   
○  うちがわを向きて燃えいる火とおもう ろうそくの火は闇に立ちおり
  
○  錆ついた窓から見える風景だ どうしたらいいどうしたら雨
 
○  若者は抵抗しないということば我もいくたびも言われし言葉

○  やわらかな仏のころも波打ちてそこには風が彫られていたり
 
○  砂肝にかすかな砂を溜めながら鳥渡りゆくゆうぐれの空

○  学校は直角の場所 ゆうぐれにテストひとたば持ちてあゆみく

○  ぶどう食べ終えて小さな枝残る鳥が咥えてきたような枝

○  ビニールに包まれ白き櫛があり使わずに去る朝のホテルを

○  支社の人叱りていたり電話から小きざみの息感じながらに

○  白菊の咲く路地をゆく傘ふたつ高低変えてすれちがいたり

○  手に置けば手を濡らしたり貝殻のなかに巻かれていた海の水

○  立ち読みをしているあいだ自転車にほそく積もりぬ二月の雪は

○  ゆらゆらと雪の入りゆく足もとの闇をまたぎて電車に乗りぬ

○  雨のあと光の沈む路をゆくムラサキシノブの枝は斜めに

○  向かいのビル壊されてゆく窓だったところに冬の雲がはいりぬ

○  基地の柵に押しつけらるる人影をネット画像に見たり 見るのみ

○  ほほえみが顔となりつつ原発の案内をする若き女人は

○  反対を続けている人のテントにて生ぬるき西瓜を食べて種吐く

○  原発をなおも信じる人の目には我は砂男のごとく映らむ

○  透明の傘にて顔を薄めつつ列に加わる秋雨のデモ

○  叫べども言葉刺さらず夕闇の四条通りを歩みゆきたり
        
○  権力はまざまざと酷くなりゆくを日なたの雀でしかない我は

○  言葉にせねばついに怒りとならざらむ桜の花の鱗なす道

○  耳、鼻に綿詰められて戦死者は帰りくるべしアメリカの綿花

○  見るほかに何もできない 青海に再稼働を待つ大飯おおい原発

○  何もできず、何もできねば座りたり黒き舗道にてのひらを置き

○  明日はまた仕事があるので帰ります 電気に満ちた街に帰ります

○  窓の下緑に輝るを拾いたりうちがわだけが死ぬコガネムシ

○  夕立のまえぶれの風吹ききたりアメンボは横に流されてゆく

○  半分に切られし虫がまだうごくように日常は続いておりぬ

○  お母さん、殺していいものをこの紙に書いてよ蟻とか団子虫とか

○  死出の山越えゆく兵を西行は見き どこにでも現るる山





トンコ節

2017年12月08日 | 我が歌ども
○  貴殿より拝領したる帯留の達磨大師の面壁余念    鳥羽省三

○  上も行く行く下も行くどうせ行くならの大仏長谷の大仏

○  あまりにも静かすぎたる里の秋 栗を似てます囲炉裏火をもて

○  酒は飲め飲め飲むならば日の本一ノ蔵特別純米酒

 

ああ貴乃花貴乃花

2017年12月07日 | 我が歌ども
○  貴乃花ああタカノハナ貴乃花たかが相撲じやないかもう止せ    鳥羽省三

○  貴乃花鼻持ちならぬ貴乃花 聞いて呆れる巡業部長

○  親方の理事長選の道連れにされて哀れな貴ノ岩関

○  理事長の夢も虚しく総スカン食うか食わぬか瀬戸際の今

○  このままじや関取衆がかわいそう貴景勝関次代のホープ

○  このままじやひくにひかれぬ貴乃花だんまり決めてばかり居られぬ

○  とは言えど人気稼業の相撲取りタニマチ頼みの現状を知れ

○  時により八百長相撲も面白いガチンコ勝負を誇るのは止せ

○  過ぎたるは及ばざるとふガチンコで引退早めた例もあるぞ

○  そもそもは大名抱えの花相撲スポーツとして観るのは野暮だ

○  そもそもは大名抱えの相撲取りスポーツマンとはまるきしちやうで

○  グラサンを掛けちやダメだよ貴乃花マフラーなどはもつてのほかだ

○  だんまりで棒に振るかよ理事長を時の流れを待つのだ今は

○  父仕込み伯父さん譲りの勝負師の名をぱ惜しまんファンの吾は

○  貴乃花嗚呼貴乃花貴乃花若さ頼みのああ貴乃花

穂村弘第一歌集『シンジケート』編(其の6)

2017年12月07日 | 〈近現代短歌集の鑑賞〉萬夜萬冊
○  泣きながら試験管振れば紫の水透明に変わる六月

○  限りなく音よ狂えと朝凪の光に音叉投げる七月

○  プードルの首根っ子押さえてトリミング種痘の痕なき肩よ八月

○  にされた眼鏡が砂浜で光の束をみている九月

○  錆びてゆく廃車の山のミラーたちいっせいに空映せ十月

○  水薬の表面張力ゆれやまず空に電線鳴る十一月

○  風の夜初めて火をみる猫の目の君がかぶりを振る十二月

穂村弘第一歌集『シンジケート』編(其の4)

2017年12月06日 | 〈近現代短歌集の鑑賞〉萬夜萬冊
○  郵便配達夫(メイルマン)の髪整えるくし使いドアのレンズにふくらむ四月

 今朝の四時過ぎ、我が家の新聞受けに突っ込まれた朝日新聞朝刊の記事に拠ると、「(我が国の郵便局の中の)集配局の8割は赤字」とのことであり、政府与党はそれを救済するために、「ゆうちょ銀行」及び「かんぽ生命」に「負担金」を支払わせるという新しい制度を検討している、とのことである。
 本作中の「郵便配達夫」即ち「メイルマン」こそは、その元凶、郵便局の局員であり、かつては、勤務時間中に煙草を吸っていたり、局舎の陽当りの良い庭に置かれたベンチで昼寝をしたりしていても、月々の給料の支払いが約束され、一年三度ものボーナスの支払いが確約されているばかりではなく、どんなに鈍間で無能で横着であっても、年功を経ると共に昇給が約束されているサラリーマン、即ち、泣いても笑っても〈笑いの止まらない国家公務員様〉であったのである。
 歌人・穂村弘の第一歌集『シンジケート』が上梓されたのは、今を去ること十七年前の1990年のことであり、その前前年に彼は、本作を含む連作「シンジケート」で以て角川短歌賞の次席に選ばれていますから、未だ無名の少壮歌人・穂村弘が本作を詠んだ当時は、当然のことながら、彼ら「メイルマン」たちは、厳然として国家公務員であったはずである。
 その国家公務員の郵便配達夫、即ち「メイルマン」にして斯かる怠慢極まりない行いを、私たち、日本国民は決して決して容認しておくわけにはいきません。
 本作の内容をかいつまんで説明すれば、「来客の到来を告げる玄関のブザーが猛々しく鳴り響いたので、私、ホムホムが玄関扉の裏側の覗き窓の凸レンズに目をやったところ、その向こう側に大きく膨らんで映っていたのは、彼の無芸大食の国家公務員のメイルマンだったであり、しかも、あろうことか、件のメイルマンは、仕事先のホムホム宅の玄関先で、何の
必要があってのことなのかは判然としませんが、自らの不潔極まりない頭髪を整えるべく、百均で買い求めたところのプラスチック製の櫛を使っての櫛使いをしていたのであり、その全貌が、扉の裏側から覗いているホムホムのどんぐり眼に映ってしまった」のである。
 かかる事態こそは、醜態も醜態、私たち消費者は、彼ら「メイルマン」のこうした怠慢行為を厳しく糾弾しなければなりません。
 しかも、かかる醜態が展開されたのが、日本全国津々浦々に、ホムホムの故郷の北海道の果てにさえまでも、ものの芽が膨らみ、梅・桜・藤・躑躅の花咲く「四月」であると聴くに及んでは!!!
 ところで、私・鳥羽省三が、初めて、我が国固有の文芸たる俳句(らしき十七音)を詠んだのは、今を去ること六十数年前の、小学校五年時のことでありました。
 その当時の私が在籍していた、北東北の片田舎の小学校に於いては、何の必要があってなのかは知りませんが、毎年四月の学期初めに、短歌・俳句のコンクールを行っていたのでありましたが、そのコンクールの俳句の部の一等賞に、何を隠そう、私の詠んだ拙い作品「あられ降る朝の路ゆく郵便夫」が、級友や上級生の作品など、他の投稿作品を圧して選抜されたのでありました。
 私、鳥羽省三には、あれから半世紀以上も過ぎた今になって、そのことを人様の前に曝して誇ろうとする気持ちは、さらさらにありませんが、この度、上掲の作品を鑑賞するに当たって、作中の語、「郵便配達夫(メイルマン) 」に関わって、我が身の犯した過去の恥ずかしい出来事を振り返ってみた次第ではありました。

穂村弘第一歌集『シンジケート』編(其の3)

2017年12月06日 | 〈近現代短歌集の鑑賞〉萬夜萬冊
○  フーガさえぎってうしろより抱けば黒鍵に指紋光る三月     穂村弘

 何は扠て置いて、本作の作者・ホムホムこと穂村弘が、意外にも、伝統を守り、先輩歌人たちに対する礼儀を失しない男、つまりは、ただの律儀な人間であることを、まず真っ先に愛読者の方々に申し上げなければなりません。
 即ち、本作は、一首全体を〈ひらがな書き〉にすれば、「ふーがさえ/ぎつてうしろよ/りだけばこ/つけんにしもん/ひかるさんがつ」と言うことになり、紛れもなく、古典和歌以来の短歌の約束事である、(五七五七七のリズムはともかくとして)三十一音の定形の範囲に収まって作品なのである。
 それなのにも関わらず、私たち読者がこの定形短歌を音読した場合に感得するリズムは、「フーガさえぎって→うしろより抱けば→黒鍵に指紋光る→三月」、乃至は「フーガさえぎって→うしろより抱けば→黒鍵に指紋→光る三月」という四句仕立ての衝撃的なリズムなのである。
 こうした、〈句割れ・句跨り〉を縦横無尽に用いた手法は、彼の塚本邦雄以来の前衛短歌的手法であり、我が国伝統の古典和歌的手法やアララギ仕込みの近代短歌的手法とは真っ向から対立するものでありましょう。
 ところで、作中主体や私たち読者の目前の「黒鍵」に歴々として記された「指紋」こそは、あろうことか、本来ならば中世社会のキリスト教会で演奏されるべき音楽、敬虔なる宗教音楽たる「フーガ」を遮って、美しき女性(もしかしたら‘むくつけきおのこ’なのかも知れませんが?)を「うしろより抱」き締めるという、野蛮にして果敢なる行為、落花狼藉の蛮行に対して、天地を司る神様から与えられた劫罰のシンボル。即ち、アングロサクソン等の毛むくじゃらにして厚顔無恥な種族ならまだしも、生まれながらにして礼節を弁えるべき日本男児なら、決して決して犯してはならない行為を犯してしまったことに対する、天帝からの炎だつ折檻の徴なのでありましょう。
 であるが故にこそ、件の「指紋」は、煌々として「光る」存在なのであり、かかるが故にこそ、本作の作者・ホムホムにとっては、弥生「三月」という季節は、永遠に輝かしく「光る」季節であらなければならないのでありましょう。
 本作は、歌人・穂村弘氏作の〈傑作百選〉にも選抜せられるべき秀作として、文芸を愛する日本国民、なかんずく、短歌ファンの脳裏に末永く記憶せられることでありましょう。


「穂村弘第一歌集『シンジケート』編(其の2)

2017年12月04日 | 〈近現代短歌集の鑑賞〉萬夜萬冊
○  九官鳥しゃべらぬ朝にダイレクトメール凍って届く二月     穂村弘

 いくらお喋りで律義者の「九官鳥」とは言え、口を引き裂かれようが、米沢牛の霜降り肉を一万トンも目の前に積まれようが、一年に一度や二度くらいは、「絶対にしゃべらないぞ!」「あの生意気なホムホム相手には、口が裂けてもしゃべってなんかやるもんか!」などと覚悟を決める場合がありますから、件の「九官鳥」の怠慢行為自体は決して責められません。 
 問題は、その朝に限って、「ダイレクトメール」が「凍って届」いたことである。
 作者のホムホムも、当然ご承知のことと思われますが、季節が「二月」ですから、ままあることではありますが、貴殿宛の「ダイレクトメール」が「凍って届」」いた責任は、一に媒介業者の郵便局もしくはクロネコヤマトにありましょう。
 だが、つい先日、耳にした話によりますと、昨今に於いては、ダイレクトメール代行業者なる、新手の中間媒介業者が業界に現れ出て、件の業者どもは、〈くろねこDМ便〉や〈Uメール〉などと結託して儲け仕事を企んでいる、とのことでありますから、事の責任の一端は、そこいら辺に存在するかも知れません。
 とは言え、悲憤慷慨の余り、見ず知らずの業者に手当たり次第にクレームをつけても逆襲されるかも知れませんから、事前に、よくよく調査して、事に当たらなければなりませんよ!
 再読してみるに、本作の趣旨は、ただ単に「二月という季節は、あのお喋りの九官鳥が口を閉じて黙る程にも、砂子屋書房からのダイレクトメールが固く凍って届く程にも厳寒の季節なのだ」と言いたいだけのことなのかもしれません。
 伝書鳩ならまだしも、南蛮渡来の九官鳥とダイレクトメールのミスマッチ的な取り合わせがホムホム的で面白い。

「穂村弘第一歌集『シンジケート』編(其の1)

2017年12月04日 | 〈近現代短歌集の鑑賞〉萬夜萬冊
○  停止中のエスカレーター降りるたび声たててふたり笑う一月   穂村弘

 歌い出しに「停止中のエスカレーター降りるたび」とあるが、そもそもの話をすれば、〈使って安心〉の三菱電機や日立製作所製造のそれにだろうが、彼の〈悪名高い〉シンドラー社製造のそれにだろうが、選りも選って、彼ら(もしくは、彼と彼女)「ふたり」が、一体全体、どんな理由で以て、「停止中」の「エスカレーター」なんぞに乗ってしまったのか、という点に就いて、評者の私としては、先ずを以ての問題としなければなりません。
 件の二人は、その時その場で、拠ん所ない事情があって慌てていたのかも知れません。
 だが、類い希なる理性を以て知られる評者の私としては、作中の三句目の末尾に用いられている、風体怪しい名詞「たび」の存在を無視して、この傑作の論評に係るわけには行きません。
 手元に在る国語辞典『新明解国語辞典』(第五版)の解説によりますと、「たび」とは、{ときは(いつも)」という意味で使われ、その用例としては「見るたび」と記されていますが、こうした我が国語の常用語・基礎的語とも言うべき語の使用に就いては、他人ならともかくとして、他ならぬ私の場合は、敢えて『新明解国語辞典』なんぞのお世話にならなくても宜しいのである。
 即ち、上掲の三句目の末尾の名詞「たび」が、「ときは(いつも)」という意味であり、「見るたび」などという表現に使うことが許されるならば、「乗るたび」「降りるたび」、或いは、「死ぬたび」「生きるたび」「セックスするたび」などという表現にも使うことが許されましょう。
 したがって、作中の「ふたり」は、「停止中のエスカレーター」に、一度ならぬ二度も三度も百度も千度も乗っていたのであり、乗ってはみたものの擦っても叩いても動くはずはありませんから、そのたびごとに、慌てて「降り」なければならないハメに陥っていたのでありましょう。
 私の生活周辺の出来事を見回してみても、そうしたことはままあることでありますから、そのこと自体はそれほど問題視しなければならないことではありません。
 だが、私が問題にしなければならないと思うのは、「停止中のエスカレーター」から慌てて「降り」てからの、彼ら「ふたり」の不届き極まりない態度なのである。
 何と驚いたことに、彼ら「ふたり」は、揃いも揃って、自分たち「ふたり」の不注意が原因で乗ってしまった「故障中のエスカレーター」から「降り」た後に、「声たてて笑う」などという、前代未聞の不届き千万の行為をしでかしてしまったんですよ。
 しかも、揃いも揃って「ふたり」してですよ!、しかも、年の初めの「一月」からですよ!
 かかる事態こそは、絶対に見過ごすことが出来ない行為。
 即ち、アベノミクス顔負けの破廉恥行為、重大な責任転嫁ではありませんか!
 私、鳥羽省三は、今後一切、彼ら「ふたり」を、なかんずく、その首謀者たるホムホムを人間として認めるわけには行きませんから、その点に就いては、本ブログの愛読者の方々も、宜しくご承知おき下さいませ!