臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

(貞包雅文さんの作品・其のⅡ)リバイバル版

2016年07月05日 | あなたの一首
      あなたの一首(貞包雅文さんの作品・其のⅡ)
                        2010年04月16日に掲載した記事の再録
 「あなたの一首(貞包雅文さんの作品・其のⅡ)」として、短歌誌「百合の木(2008・第9号)」に掲載されていた、連作「鳴らぬ一音」の十五首を観賞させていただきました。


○  遥かなる馬頭青雲その青きたてがみのごときらめけ言葉

 作中の「馬頭青雲」は、正確には「馬頭星雲」と記すべきところでありましょうが、作者の貞包雅文さんは、それにある意志を込めて、敢えて「馬頭青雲」と記したものでありましょう。
 左様、「馬頭青雲」の「青雲」とは、<青雲の志を抱いて>などと言う時の、あの「青雲」なのであり、そこから「その青きたてがみのごときらめけ言葉」と言う壮大な下の句の措辞も導き出されるのである。
 それはさて置いて、「馬頭星雲」とは、オリオン座にある暗黒星雲の名称であり、地球から約1500光年の距離に在るこの星雲は、馬の頭の形に似ていることからそのように名付けられたのであると聞くが、仏教者としての本作の作者は、ご自身の関係する<馬頭観世音>との関わりからこの星雲に着目し、この星雲の青く輝いている部分を「たてがみ」に見立て、「その青きたてがみのごときらめけ言葉」と、僧職とは別に自分が携わっている言葉の世界、即ち、短歌という文学形式の益々盛んならんことを祈願したものでありましょう。
 だとすれば、この一首は、連作「鳴らぬ一音」の冒頭に相応しい傑作である。
  〔返〕 遥かなる罵倒青雲その禍き意志そのままに燃え行け老残   鳥羽省三


○  ことだまの在す暗き水底に降りゆかんいざ真裸となりて

 連作冒頭の作品と比較してみる時、それと対照を為す内容や表現が素晴らしい。
 本作の作者は、連作の冒頭で「遥かなる」宇宙の煌きに思いを馳せ、自己の携わる短歌表現の成就を祈願したのであったが、それに続いてこの二首目に於いては、それとは逆に、裸一貫となって「ことだまの在す暗き水底に降りゆかん」と述べ、歌人としての、「ことだま」の漁師としての、ご自身の志と覚悟の程を語って居られるのである。
 この一首に接して、私は、『古事記』の<海幸彦伝説>を思い出したが、さて、「ことだま」の漁師・貞包雅文さんの水底探訪の収穫や如何に?
 [反歌]  真裸になりて魔羅だし水底の豊玉媛を訪ねて行かむ   鳥羽省三
      釣り針を失くして終はる水行の豊玉媛と交はひもせず   


○  夏爛けていよよ煩悩熾盛なりはるか虚空を巡る冥王

 2006年8月に行われた<国際天文学連合>の総会で、「冥王星」は1930年以来維持してきた惑星の座から滑り落ち、惑星でない<矮惑星>という位置に退けられてしまった。
 著名な天文学者・野尻抱影氏によって日本語で「冥王星」と名付けられたこの天体は、ローマ神話で冥府の王とされる<プルート>に由来するものであって、太陽系の最深部の暗闇に存在することから、いかにも「冥王星」と呼ぶに相応しく、怪しく謎の多い星である。
 「冥王星」の見かけ上の等級は14等級以下であるから、これの観測には、口径30cm程度の望遠鏡が必要となると言う。
 また、この天体の軌道は、太陽系の他の惑星とは異なって、真円では無く、歪んでいるが故に離心率が大きく、その軌道の一部が海王星よりも太陽の近くに入り込んでいることなどもあって、太陽からの距離を巡って海王星と比較されたり、その大きさを巡って学者の間で論争が交わされるなど、「冥王星」は、惑星の位置に在った頃からいろいろと取り沙汰された、不思議な天体であった。
 本作は、その不思議な落第星「冥王星」と、「夏」が「爛け」るにつれて「いよよ」「熾盛」となる作者ご自身の「煩悩」とを取り合わせ、冥府を総べる邪神<プルート>に魅入られたように「煩悩」の多いご自身の精神状態を慨嘆したものでありましょう。
 作者・貞包雅文さんは、連作「鳴らぬ一音」の冒頭に於いて、遠い天体への憧れと共に、<ことだま>としての短歌に賭けるご自身の昂揚した気分を歌ったのであったが、冥王星が惑星の座から滑り落ちた今となっては、そうした昂揚した気分も消え失せ、「煩悩」の塊と成り果ててしまったのでありましょう。
 [反歌]  冥界を総べゐる禍きプルートよ汝が剣もて吾を突き刺せ   鳥羽省三


○  絶望と歓喜の間で鳴く鳥よ化粧うがごとく夕陽に染まれ

 実景としては、夕陽を浴びて身体全体を真っ赤に染めて大空を翔けて行く鳥を詠んだものであろう。
 しかし、本作の「鳥」はあくまでも「鳥」であって、雀だとか鴉だとか鳩だとか鷹だとかといった特定の鳥に還元出来るものではない。
 その幻の「鳥」に向かって、坊主頭の作中主体は、「絶望と歓喜の間で鳴く鳥よ」と呼び掛け、更には「化粧うがごとく夕陽に染まれ」と、この天地を総べる王者の如く指令するのは、何よりも、作者ご自身の絶望と歓喜の余りに昂揚した気持ちの表れであり、それは同時に、昨今とみに減退しつつある性欲が齎すコンプレックスの告白なのかも知れません。
 しかしながら、如何に幻の「鳥」と言えども、あの鳥たちが「絶望」したり「歓喜」したりする訳など無いではありませんか?
 下の句「化粧うがごとく夕陽に染まれ」という表現に接して、私は、往年の春日井建の作品の世界とこの作品の世界とを重ね合わせて、しばし〈薔薇族の世界〉に遊ばせていただきました。 
  〔返〕 装ひて天地のはざま翔け行けば歓喜の如き夕陽射し来る   鳥羽省三 
 その「装ひ」たるや、何と驚いたことに、あの坊さんお馴染みの〈法衣袈裟姿〉ならぬ、膝上二十センチのスカートを穿いた女子高生紛いの女装なのであった。


○  「この星の血の色は青」口角を歪めて叫ぶアストロノーツ

  ごく普通のアメリカ人に「血の色は?」と問い掛けると、即座に「青」という答が返って来る確率はかなり高い、という話を耳にしたことがある。
 また、今年の時点でアメリカ人の宇宙飛行士の数は既に三百数十名に達し、その後にも、宇宙に旅立とうとして訓練を受けている宇宙飛行士候補生たちが目白押し状態なのだそうだ。
 だとすれば、現代のアメリカ社会に於いては、宇宙遊泳中に「地球の色は?」ならぬ「血の色は?」と問われて、「口角を歪めて」「青」と「叫ぶアストロノーツ」が居たとしても、それほど不思議なことでは無いという結論に達する。
 本作の趣旨は、「旧ソ連の宇宙飛行士ユーリイ・ガガーリンは『地球は青かった』と言ったが、それに対してアメリカの宇宙飛行士なら、口角を歪めて『この星の血の色は青』と叫ぶだろう」という内容のギャグであり、そのギャグは、単なるギャグのままで終わらず、早晩起こり得ることが充分に予想される終末戦争への危惧を含めた内容の、恐ろしいギャグなのである。
 本作の作者・貞包雅文さんは、十五首連作「鳴らぬ一音」の創作に当たって、その一首目から四首目まで、比較的に中身が濃く、メッセージ性の強い作品を並べて来たが、五首目に至って、その緊張を解いて一休息する必要を感じ、このような軽い味の作品を詠んだのでありましょうが、前述の私の解釈に従えば、この一首の内容も決して決して軽いものではありません。
 「この星の血の色は青」というセリフの軽さやくだらなさに比べると、そのセリフを口にしたアストロノーツの「口角を歪めて叫ぶ」様子が余りにも大袈裟で滑稽であるが、その滑稽さと軽さこそ、作者が狙いとしたものでありましょう。
 「軽さ」の中に込められた「重さ」を、私たち本作の読者は、この作品の鑑賞を通じて、十分に感得すべきでありましょう。 
  〔返〕 体内を流れる血潮は日捲りの土曜の如き<青>なのである   鳥羽省三 


○  早馬が着きしにあらず弛緩したメールで届くいくさのしらせ

 「早馬」は、近世までの重要な通信手段の一つであり、戦国時代などに於いては、その早馬で以って、遠くで行われている「いくさのしらせ」が届けられたことも実際に在ったに違いない。
 本作は、そうした「早馬」と、その「早馬」に替わる現代の「早馬」たる「メール」を題材にし、それに、近頃アメリカ人などがその主役となって頻繁に起している戦争の話題なども付け加えて、現代の世相を皮肉ったものである。
 「早馬」に較べれば、「メール」という通信手段は遥かに進歩していて、その通信可能な範囲は比較にならないほど広くなり、その担い手も大衆化している。
 したがって、戦争好きな現代社会のあちこちで起きている「いくさのしらせ」が、「早馬」ならぬ現代の早馬「メール」で届くことも充分に考えられるし、現に、国家機密として厳重に報道管制が布かれている某国の辺境で頻発している「いくさのしらせ」などは、その「メール」で以って、国家首脳より先に、民間人が入手している事態となっているのである。
 そのように考えると、この一首の趣旨は単なるギャグの範囲を越えたものになり、その意味も、直前の作「アストロノーツ」とは、比較にならないほど重くて深いものとして観賞しなければならないものとなる。
 作者の貞包雅文さんは、連作中の遊びのため(或いは、繋ぎのため)の作品をたった一首で止めたのである。
 連作も五十首や三十首などの大作の場合は、気分転換のための遊び(或いは、繋ぎ)の作品が二首も三首も続くことがあり、中には、連作全体が<遊びに続く遊び>、<繋ぎに続く繋ぎ>といった弛緩した状態で終わってしまう駄作だらけの連作も在る。
 だが、本作は、連作と言ってもたった十五首の連作であり、また、本作の作者は、見せ掛けとは裏腹に、本質的には、一首で以って現代社会の世相を鋭く抉るといった内容の作品を得意としている歌人であるので、この作品は、直前の作品に続いてギャグ風の作品に見せ掛けながら、その本質は、非常に重くて深い内容を含んだ作品なのである。
 この地球上のあちこちから、「メール」で以って「いくさのしらせ」が行き交いする事態になることが充分に予測される現代である。
 某国からのグーグルの撤退は、「メール」という通信手段の敗北を示すものでは無い。
 むしろその逆で、現代の早馬「メール」で以って「いくさのしらせ」が異国に届けられたならば、国家転覆の危機をも招きかねないことを警戒した、某国為政者の短慮から起こった緊急的かつ本末転倒的事態を示すものなのである。
  〔返〕 情報の重さに耐えぬツイーターは現代社会の痩馬早馬   鳥羽省三 


○  いとけなき乙女子わたりゆく橋のかなたにおぼろ菊の紋章

 あのお嬢ちゃんの御祖父に当たるお方を国家の象徴として仰がなければならない立場の一人としては、本来は「愛子様」と敬称付きでお呼びしなければならないのでありましょう。
 でも、過ぎし年の彼女の通学校での運動会に於けるリレー選手としての彼女のご奮闘振りが余りにも健気で可愛らしいものであったから、私は、彼女のことを「様」付きで呼ぶことは止めにしようと思う。
 そして、愛子ちゃん、いや、事の序でに「子」も取って、単に「愛ちゃん」と呼ぶことにしようと思う。
 私は、この一首を目にした瞬間、在ろうことか、あの健気な<愛ちゃん>が、通学校での手痛い虐めに遭遇し、一人だけ教室を逃げ出し、守衛さんの手を振り切って校門を潜り抜け、校外に出て、涙を堪えながらとぼとぼと自宅の門前の二重橋を渡って行く様を想像してしまった。
 その門には、あの御一家の象徴である「菊の紋章」が刻されているのだが、涙で曇った<愛ちゃん>の目には、それが「おぼろ」にしか見えないのである。
 この鈍感な私に、そういった非現実的な想像を許すのは、本作の持っている緊迫した現実感である。
 人によっては、本作のテーマを、たちの良くないブラークユーモアと捉える向きもありましょう。
 しかし、その<ブラックユーモア>のブラックの度合いが余りにも大きい時には、それを<ブラックユーモア>を越えた、ヒューモア劇の傑作として捉える人も居りましょう。
 私は、そうした人の一人なのかも知れないが、作者の向けた鉾の先に在るのは皇室制度なのかどうかは私にも判らない。
  〔返〕 卓球とテニスとモーグル我が姉と 君ら「愛ちゃん」いずこにも居て   鳥羽省三


○  観覧車まわれよまわれモノクロのハリー・ライムが笑ってやがる

 詠い出しの「観覧車まわれよまわれ」は、本作の作者ご自身も所属する「塔短歌会」の幹部同人である栗木京子さんの初期の代表作「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生」から剽窃したものである。
 だが、本作の内容のほぼ全体は、1950年度の<アカデミー賞>及び19490年度の<カンヌ国際映画祭大賞>を受賞した往年の名画『第三の男』に取材している。
 作中の「ハリー・ライム」とは、名優オーソン・ウェルズが出演して話題となったこの映画の登場人物であり、映画の題名となった「第三の男」とは、この人物を指すのである。
 この人物は、主役・脇役という区別からすると脇役の一人に過ぎないが、この映画の中では、ジョセフ・コットン扮する主役のホリー・マーチンス以上の存在感を示し、映画の題名にもなった主要人物である。
 下の句に「モノクロのハリー・ライムが笑ってやがる」とあるが、彼<ハリー・ライム>は、この映画の中で主人公の<ホリー・マーチンス>に向かって、「スイスの同胞愛、そして五百年の平和と民主主義はいったい何をもたらした? 鳩時計だよ」という名セリフを吐くのであるが、このセリフと「モノクロのハリー・ライムが笑ってやがる」とを考え合わせる時、その表現の深みが明らかになり、短歌作者としての貞包雅文さんのレベルに驚嘆せざるを得なくなる。
 この映画の舞台は、第二次世界大戦後、米英仏ソの四ヶ国による四分割統治下にあったオーストリアの首都ウィーン。
 そのウィーンの名物の大観覧車の中で、主人公のホリー・マーチンスは、死んだはずの親友・ハリー・ライムの姿を見かける。
 そこで、追いかけるホリーと逃げるハリー。
 やがて逃げるハリーは、大戦後のウィーンの貧しさを象徴する地下下水道の中に逃げ込んで行く。
 そこで、追いかけるホリーもまた、その地下下水道に入って行く。
 地下下水道の中に、逃げる者と追いかける者との靴音が響く。
 追いかける者と追いかけられる者は旧友である。
 その靴音にかぶさるようにして、アントン・カラスの演奏するツィターの音が物悲しく鳴り響く。
 再度言うが、下の句の「モノクロのハリー・ライムが笑ってやがる」が宜しい。
 「モノクロの」は、単に、この映画が「モノクロ」映画であったことを説明しているのではない。
 主人公のホリー・マーチンスにとっては、親友だったはずのハリー・ライムという存在そのものが「モノクロ」なのである。
  〔返〕 株の値よあがれよあがれユニクロの柳井正が笑ってやがる   鳥羽省三


○  クラスター爆弾(ボム)が炸裂する朝ぼくらは蝶のはばたきを聞く

 主題は「戦争と平和」である。
 深読みすれば、その「朝」に「ぼくら」が聞いた「蝶のはばたき」は、「クラスター爆弾が炸裂する」予兆なのかも知れないし、余韻なのかも知れない。
 この一首に接して、どこかの国の総理大臣の弟の趣味が「蝶」の蒐集で、その趣味を通じて知り合った「友だちの友だちがアルカイダである」という旧聞を思い出した。
  〔返〕 長崎にピカドンが落ちたその刹那 蝉はいつものように鳴いてた   鳥羽省三
      広島にピカを落とした飛行士がいつも着ていた擦れた革ジャン      々     


○  赤錆びし物見櫓の鉄塔にのぼれば見ゆるわれを焼く火が

 「赤錆びし物見櫓の鉄塔にのぼれ」た者とは、生きている者である。
 その生きている者の目に「われを焼く火」が見えるはずが無いから、この一首は、「赤錆びし物見櫓の鉄塔」という、前時代の象徴のような物を目にした瞬間、その余りの荒涼とした感じに驚いて、「あの赤錆びた物見櫓の鉄塔にのぼれば、この自分を焼く業火が見えるはずだ」と、直感的に感じたのであろう。
  〔返〕 赤錆びた火の見櫓に登ったら不知火海の漁り火が見ゆ   鳥羽省三

 
○  反戦歌とうに忘れてかき鳴らすギターのついに鳴らぬ一音

 「反戦歌」の流行が終末を遂げようとしていた頃の巷には、<カレッジフォーク>と称する、人参や玉葱が腐れて行く時に発する音のような、匂いのような、生ぬるく臭い歌が流行していた。
 あの生ぬるく臭い歌どもの伴奏をする時に「かき鳴らすギター」には、「ついに鳴らぬ一音」が在ったのであろうと、今にして私はつくづく思う。
 本作の作者もまた、この私と同じ思いなのでありましょう。
  〔返〕 マイク真木・ガロに森山・フォークルにカレッジフォークの聴くに耐えなさ   鳥羽省三
 

○  向日葵の種がひとつぶあれば良い握り拳の中の荒野に

 人も知る、寺山修司の「一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき」を典拠とした作品である。
 <本歌取りの歌>と呼ぶには、余りにも寺山に付き過ぎているし、かと言って、模倣歌とも言えないし、歌詠み上手の貞包雅文さんの作品としては、何ともかんとも評言に困る、実に始末の悪い作品である。
 いっその事、<無くもがな>の作品とでも述べておきましょうか?
 著名な歌に寄り掛かった、こうした作品を自分の作品として作る場合の最低の条件としては、典拠となった作品に無い独自な要素を、一点だけでも良いから自分の作中に盛り込むことである。
 本作には、寺山の作品に在って本作に無い魅力は沢山在るが、本作に在って寺山の作品に無い魅力は、ただの一点も無い。
 それでも尚かつ、作者としては、「ひとつぶあれば良い」や「握り拳の中の荒野に」辺りを寺山作に無い要素として、自信を持って創り、自信を持って発表されたのでありましょうが、一読者としての私の立場で言わせていただければ、それは作者ご自身の自己満足、自己欺瞞に過ぎないと思われるのである。
  〔返〕 無くもがな在らずもがなの歌も在りそれのみ惜しむ「鳴らぬ一音」   鳥羽省三


○  ありあけの月まなうらにとどめつつついに空席のまま父の椅子

 本作に関しては、短歌誌「百合の木」の<代表>たる塘健氏が、同誌に卓越した評言を著していらっしゃるので、無断ながらその全文を転載させていただき、私の観賞文に代えさせていただきたい。

 シッダールタ、後のシャカは十六才で結婚する。妻の名はヤソーダラ。二十九才の時に第一子が誕生し、彼はその子にラーフラ(悪魔)の名を与へ、そして妻子を捨てて家出する。妻子を捨てたシャカは生老病死からの自己解放、すなはち悟りを目指す。捨てられたラーフラ(悪魔)にとって、父は永遠の不在であり、空席であった。         (転載終り)

 作者が僧籍に在られることを考慮して、仏教の祖・釈迦の事績を作中の表現と関係付けるなど、極めて示唆に富む論評ではありますが、敢えて、一言を添えさせていただきますと、「父」の不在(空席)の背景として、「ありあけの月」を配したのは、実に見事な表現と言う他は無い。
  〔返〕 父は月 母は日にして その月の無きを照らせる有明の月   鳥羽省三 


○  踵から海になりゆく水際の君に打ち寄す無限の叫び

 「水際」に佇む「君」の「踵」を打ち寄せる波が濡らすことを、「踵から海になりゆく」と言い、打ち寄せる波の音と、「君」に寄せる作者ご自身の思慕の情を、「無言の叫び」としたのである。
 「踵から海になりゆく」という表現の、言うに言われない表現の見事さよ。
  〔返〕 眼窩から暮れ行く渚に佇みて歌はぬ君の歌を聴いてる   鳥羽省三


○  無果汁のジュースの甘さ嘘っぱちだらけのまるでぼくらのように

 「無果汁のジュースの甘さ」とは、ただ単に売らんがための「甘さ」であり、ただ単に飾らんがための「甘さ」である。
 僧侶であり、教師であり、歌人であり、人間である本作の作者・貞包雅文氏と言えども、時に無意識に、時に意識しつつ、「無果汁のジュースの甘さ」のような笑みを顔面に湛えることがあるに違いない。
 「嘘っぱちだらけのまるでぼくらのように」という下の句の措辞が目に耳に胸に痛い。
  〔返〕 戦時下の八紘一宇を思はせて亜細亜に広がる味の素かも   鳥羽省三  

今週の朝日歌壇から(1月31日掲載・其のⅠ・決定版)

2011年02月03日 | あなたの一首
[高野公彦選]

○  万引きに振り回されて老いしかな本屋の宿命と思ふほかなき  (長野県) 沓掛喜久男

 「万引き」を警戒する余りにお客様に視線を向けっ放しにしたりしていると、「あの店の剥げ頭はお客様を万引き扱いしたりして気分が悪い」などと言われて売れ行きが悪くなる。 
 かと言って、警戒を緩くすると忽ち「万引き」の被害が続出する。
 また、郊外に大型店舗の書店が進出したり、インターネット販売の普及などもあったりして、地方都市での小規模な書店経営は今やジリ貧状態にある。
 本作の作者・沓掛喜久男さんは、そうしたジレンマに苦しみながら年老いてしまったのでありましょう。
  〔返〕 万引きは繁盛店の勲章と嘯いている店主も居るとか?   鳥羽省三


○  立往生の車の人にトイレ貸しむすび差し出す琴浦町民  (鳥取県) 中村麗子

 鳥取県琴浦町は国道九号線沿いの過疎の町であり、平成の市町村合併以後も海辺の素朴な町でしかない。
 そうした過疎の町「琴浦町」が豪雪に見舞われ、国道を行く「車」が「立往生」する騒ぎとなった。
 本作は、自らも「琴浦町民」の一人である作者が、未だに素朴な人情を失わずに、通りすがりの者に「トイレ貸しむすび差し出す琴浦町民」の心の温かさを詠むのみならず、少し皮肉な目を差し向けている作者ご自身の心の有様をも詠んでいるのである。
  〔返〕 トイレ貸しむすび食われてまる損をしても気にせぬ琴浦気質   鳥羽省三


○  十年を五年に更へて日記買ふともども喜寿を迎へたるけふ  (鹿児島県) 押 勇次

 「ともども喜寿を迎へたるけふ」という下の句の記述からすると、本作の作者・押勇次さんご夫妻は、同年同月同日生まれでありましょうか?
 で、日記は何方がお書きになるのでしょうか?
  〔返〕 二冊買い夫婦別々仲良し日記 毎日欠かさず書いて下さい   鳥羽省三


○  マーキングするのだとぬれたキスをするあなた私の何を知ってて?  (鹿沼市) 星野惠子

 「あなた私の何を知ってて?」と、かなりきついことを仰る本作の作者・星野惠子さんは、作中の「あなた」の恋人でありましょうか?
 それとも奥様でありましょうか?
 それにしても「マーキングするのだとぬれたキスをする」とは酷い「あなた」ではありませんか。
 「マーキング」とは、言わば、家畜の身体に捺す“焼印”のようなものである。
 「それで怒らない女が居たら、此処に連れていらっしゃいよ、あなた!!」
  〔返〕 女房を牛馬並みに思ってる馬鹿な男と別れてしまえ      鳥羽省三
      それ程の馬鹿で無いから別れないぬれたキスでもたまにされたい   々


○  雪舞ひのなか訪れし友の手に今朝上がりたる来島の鯛  (松山市) 宇和上正

 “来島海峡”は波荒い海であり、ましてや、「雪舞いのなか」で「今朝」獲れたものでもあれば、その「鯛」の身は、特に締まっていたに違いありません。
 その身が特別に締まっていた獲れたての「鯛」を、宇和上家では、お刺身になさいましたか、それとも塩焼きになさいましたか?
  〔返〕 お刺身にしたが残りの片身をば冷凍にして明日はムニエル   鳥羽省三


○  ねんころりあめゆきふるふるつちのしたはるのゆめみるくさばなのたね  (横浜市) 秋鹿素子

 一首全体を“ひらがながき”になさったアイディアが評価されたのでありましょうか?
 それとも、童画的な趣きが評価されたのでありましょうか?
  〔返〕 腸捻転床上転々二三転御腹抱えて苦しみました   鳥羽省三


○  外観がきれいであれば安堵して老を預ける荷物の如く  (新座市) 中村偕子

 「外観がきれいであれば」とは、これから我が家の大切な「老」を預けようとしている“介護施設”の「外観」がきれいであるから、ということでありましょうか?
 それとも、その介護施設に預ける予定になっている我が家の大切な「老」の容貌や服装などの「外観がきれい」であるから、ということでありましょうか?
 この一首は、介護施設の「外観」が「きれい」であるから、自分の家の大切な「老」が自宅と変わらないような清潔で楽しい生活をさせて貰えると思って「荷物の如く」「預ける」とも解釈出来る。
 また、この施設に「預ける」「老」の「外観がきれい」であるから、あまり粗末な扱いをされないだろうと判断して「荷物のごとく」「預ける」とも解釈出来ましょう。
 いずれの場合にしろ、「老」を預ける側には、我が家の「老」をあまり不潔で粗末な扱いはされたくない、という判断があったと思われますから、五句目の「荷物の如く」という表現は“勇み足”的な表現であり、預ける側の人間にとってはかなり厳しい見方をされた表現かと思われます。
  〔返〕 介護士が親切この上無しだから西山苑に姉を預けた   鳥羽省三
 家督を継いだ兄夫婦と同居していた独り身の姉が、一昨年から北東北の田舎町の「西山苑」という名称の老人介護施設に入所中である。
 西山苑の介護士さんたちは、自らを“奇跡の介護士”と呼んでいる程の超優秀で、超優しい介護士さんであるから、私たち肉親の者は、安心して彼女を預けて居られるのである。
 

○  ふくささばき教えてもらった開いたりたたんだりしてマジックみたい  (笠間市)
 篠原 空

 「ふくささばき教えてもらった」んですか、それはようございましたね。
 「開いたりたたんだりしてマジックみたい」でしたか、それは楽しゅうございましたね。
  〔返〕 開いたり畳んだりする袱紗もてどんなマジックするのか空さん   鳥羽省三


○  新しいブーツで行ったコンサートきちんと足をそろえて聞いた  (富山市) 松田わこ

 「コンサート」に「新しいブーツで行った」んですか、それは晴れがましゅうございましたね。
 「きちんと足をそろえて聞いた」んですか、それはそれはお利口さんでございましたね。 
  〔返〕 膝崩しゆったり気分で聴かないとよくは解らぬワグナーの曲   鳥羽省三


○  家族みなの健康祈る初詣青いお空をとびが舞ってる  (横浜市) 高橋理沙子

 「家族みなの健康祈る」為の「初詣」でしたか、それはそれはご苦労様でした。
 「お空をとびが舞ってる」様子を見たんですか、それはそれは縁起がいい風景をご覧になりましたね。

  〔返〕 一に富士 二には鳶か禿げ鷹か いずれにしても目出度い景色   鳥羽省三

山本律子(東京都在住)さんの一首

2010年11月18日 | あなたの一首
○  二つ三つうつせみすがるままを咲きさはさは香るひひらぎもくせい  (東京都) 山本律子

 本作中の「うつせみ」は、<生きている人間>や、その<人間が苦しみ生きている世の中>を指す言葉としての「うつせみ」では無く、昆虫の<蝉>を指す言葉としての「うつせみ」である、と一応は言い得よう。
 しかしながら、「うつせみ」という言葉の原義に、前者の意味があることを意識しておくことは、本作の鑑賞に当たっては、決して邪魔にならないし、否、むしろ、絶対必要なことであるとも思われる。
 題材となっているのは、今を盛りと咲き、周囲に「さはさは」とした香りを漂わせている「ひひらぎもくせい」である。
 だが、本作の場合は、その「ひいらぎもくせい」が、ただ単に<柊木犀>としてのみ、単独で咲いているのでは無く、その細い枝に「二つ三つ」の「うつせみ」、即ち二、三匹の<蝉>を取り縋らせて咲いているところに、この一首の眼目が在ると思われる。
 異説も在るが、一般的に<ヒイラギモクセイ>は<ギンモクセイ>と<ヒイラギ>の雑種であるとされ、公園木や庭木として植栽されていることが多い。
 二種類の樹木の雑種としての<ヒイラギモクセイ>は、現在のところは雄株だけが知られて居り、毎年、九月頃から十月頃に咲くその白い花には雌花は無く、<雄花>だけであるから、いくら美しく香しく咲いても、決して結実しないと言われている。
 また、この<ヒイラギモクセイ>の葉は、その大きさが一方の親である<キンモクセイ>に似ているが、その周辺がギザギザとなっていて、棘が在るのは、もう一方の親である<ヒイラギ>から受け継いだ性質であるし、その繁殖法としては<取り木>以外の方法が無いなど、どっちつかずの性質を持った樹木である。
 この作品に登場する「ひひらぎもくせい」は、そんな意味で、その性格が複雑であり、繁殖・栽培の難しい樹木であることなども、この作品を鑑賞する場合に必要な知識かと思われる。
 さて、一首の意味を思うがままに説明してみたい。

 周囲に「さはさは」とした微かな香りを漂わせて「ひひらぎもくせい」が咲き誇っている。
 だが、その「ひひらぎもくせい」の花は、<花は咲けども実の生らぬ><雄花>なのである。
 <花は咲けども実の生らぬ><雄花>ではあるが、それでもなおかつ「ひひらぎもくせい」は、周囲に、独特の香りを漂わせて、今を盛りと一所懸命に咲いている。
 しかし、いくら美しく咲いても、いくら香しく咲いても、それは決して報われない行為なのである。
 その報われない行為として咲いている「ひひらぎもくせい」の枝には、何と驚いたことに、「うつせみ」即ち<蝉>が、一匹ならばともかく、二匹も三匹も一所懸命にしがみついている。
 鳴きもせず、動きもせずに、不毛の花「ひひらぎもくせい」に一所懸命にしがみついている「うつせみ」は、その様子からして、一匹、二匹、三匹と数えるよりも、一つ、二つ、三つと数えた方が良いと思われるが、その<うつせみ>の命は、その名に相応しく、たった一週間と言う。
 たった一週間の命を謳歌するために、七年もの長きに亙って地下生活をするのが「うつみみ」の「うつせみ」たる所以だとも言う。
 <花は咲けども実の生らぬ>「ひひらぎもくせい」の枝に、一所懸命にしがみついているのは、たった一週間の命の為に七年間の地下生活を宿命付けられている「うつせみ」なのである。
 その有様は、まさに<人間が苦しみ生きている世の中>という意味としての「うつせみ」そのものである。
 「うつせみ」を生きることは、「ひひらぎもくせい」にとっても、「うつせみ」即ち<蝉>にとっても、それを見つめている人間にとっても、なかなかに苦しい。 
  〔返〕 二つ三つ蝉止まらせて知らんぷり刺刺だらけのヒイラギモクセイ   鳥羽省三

田中光子(長崎県新上五島町ご在住)さんの作品

2010年11月09日 | あなたの一首
 つい先日、本年九月二十六日放送の「NHK短歌」<米川千嘉子選>の特選三席に選ばれた、長崎県新上五島町ご在住の田中光子さん作の「胸に抱く犬に舐められつつ吾はいかなる味の獣の子ども」についての感想を述べたところ、予想だにしないことであったが、作者ご本人と思われる方から、大変ありがたいコメントを頂戴した。
 私の書いた感想文は、主として、作者のお名前と私の連れ合いの妹の旧姓が全く同一であったことを中心とした私事的な内容で、私が本年度の<NHK短歌>の選者の中で最も期待し、尊敬もしている米川千嘉子氏選の特選三席に選ばれた田中光子さん作の作品そのものについては、本格的なことは何一つ記していなかったのである。
 それにも関わらず、今回、その作者と思われる方からご丁重なる謝辞を述べられたことは、全国各地の皆様からの温かいお支えによって、この拙いブログに文章らしきものを記している私にとっては、望外の幸せでありました。
 そこで今回は、上掲の作品及び、<NHK短歌>等にご投稿なさって、めでたく特選などに選ばれた、田中光子さんの他の作品についての、私なりの感想を書かせていただきたいと存じます。


○ 戦争を忘れるたびに秋は来て空のざくろは笑うであろう
                    (NHK全国短歌大会・平成十七年大賞作品)

 作者の田中光子さんが、本作をお詠みになったのは平成十七年の秋頃かと思われる。
 仮にその頃だとすると、それは昭和二十年八月十五日から六十年以上も過ぎている時期であって、世間一般の人々の脳裡からも作者ご本人の脳裡からも、あの敗戦の日の屈辱的な記憶がかなり薄れ掛けていたものと思われる。
 我が国の政府や各種団体は、そうした風潮に逆行するが如く、戒めるが如くに、毎年八月の声を聞くと、広島・長崎の原爆記念日及びそれに続く八月十五日の終戦記念日などの行事を盛大に行い、それに呼応してマスコミも戦争関係の報道を盛んに行うのである。 
 だが、それも夏の熱い時期の一盛りの出来事に過ぎなくて、その時期が過ぎ、秋風が吹く八月下旬になると、人々の心は、あの日の記憶から益々遠ざかってしまうばかりなのである。
 丁度その頃になると、民家の塀越しに花「ざくろ」が、真っ赤な唇をばっくりと開けて咲き、実「ざくろ」も亦、あの日の傷口を見せびらかすかのようにしてぱっくりと割れた実を覗かせているのであった。
 花が咲くことを「笑う」とも言うが、本作の作者・田中光子さんは、世間一般の人々の胸中からは勿論のこと、自分自身の胸中からも、あの「戦争」の記憶が去りつつあることを、何か罪の意識の如くにお感じになって居られると窺われ、折からの「ざくろ」の開花に事寄せて「空のざくろは笑うであろう」とお詠みになったものと思われる。
 花「ざくろ」の鮮明な<赤>が戦火を思わせ、実「ざくろ」のぱっくり開いた傷口が戦争の痛手を思わせるなど、本作の一語一語は有機的効果的に働き、<大賞>に相応しい傑作を成している。
  〔返〕 両関の母屋の庭の塀越しにぱっくり割れた実石榴の傷   鳥羽省三
 北東北の地方都市に生まれ育った私にとっての<ランドマーク>は、<うまい酒・両関>本舗の巨大な母屋であった。
 毎年秋頃になると、その塀越しにぱっくりと傷口を開けた<実石榴>が顔を覗かせて居て、学校帰りの子供たちがそれに石をぶっつけて落とし、口に銜えて「酸っぱい。不味い」などと言っていたことを思い出した。
 ところで、私の生家の近所のほとんどの家々の人々は、親戚関係でも縁戚関係でも無いのに、<両関本舗>の伊藤家のことを「本家、本家」と呼んでいた。
 そうした中に在って、唯一例外的に、私の父だけは、「親元でも手回りでも無いのに、両関のことを<本家、本家>と呼んでいる、この町内の奴等は馬鹿で胡麻すりである。俺はどんなに金に困っていた時でも、ただの一度も両関の仕事はしたことが無いぞ。だから、俺の子供のお前たちも、両関の世話になったりしては駄目だぞ」と言っていたが、そのことが少年時代の私の誇りでもあり、また、自分自身の将来の不安材料の一つでもあった。
 ところで、私の中学時代の同級生の一人に、その両関一族の娘さんが居たが、彼女は、小、中学校を通じてずっと学級委員であったように思われるが、口数の少ない上品な感じの少女であった。 
 その<両関>が、一昨年頃から、お酒の売れ行き不振、事業不振の為に銀行管理に陥ったと聞く。
 子供の頃の私たちの<ランドマーク>であり、市内観光の目玉でもあった、あの巨大な黒い建物は、これから先、一体どうなるのであろう。
 

○ 「お母さん雨」という手話 春雨は少女の指に光りつつ降る
                    (同上大会・平成十九年大賞作品)

 耳の不自由な「少女」が、突然降って来た<お天気雨>の「春雨」を、覚えたての「手話」で以って、自分の「お母さん」に「『お母さん雨』」と知らせようとしたのでありましょう。
 「春雨は少女の指に光りつつ降る」という下の句の表現は、その「春雨」が<お天気雨>であったことを示すと同時に、耳の不自由なその「少女」の「指」の白さや細さや動きまでも表していて素晴らしい。
  〔返〕 突然の狐の嫁入り花嫁の顔も衣装も濡れるであろう   鳥羽省三


○ 洗い桶に亀の子束子は立ちており亀におなりよ月の夜だよ
                    (2008年9月・河野裕子選特選三席)

 月夜の庭に、昼間の洗濯に用いられた「洗い桶」が置き去りにされて居り、その中に「亀の子束子」がちょこんと立っているのである。
 その光景に、ある種の切なさと眩惑感を感じた作者が、「『亀の子束子』よ。お前、今は『月の夜だよ』。そんな所にいつまでも突っ立っていないで、せっかくの『月の夜』だから、本物の『亀におなりよ』」と呼び掛けたのである。
 おどけた表現の中に、作者・田中光子さんの優しさとロマンティズムが感じられる。
  〔返〕 洗い桶に水がたっぷり張られ居りここにも一つ満月が澄む   鳥羽省三


○ うりぼうのどの子もこける石ありて南瓜の花のくすくす笑い
                    (2006年9月・山埜井喜美枝選特選一席)

 私が、田中光子さんの御作に接した最初の作が本作である。
 歌人としての全盛期をかなり過ぎていたと思われる選者・山埜井喜美枝さんの、半ば惚けたような、半ば寝ぼけたような気の無い解説と共に、この作品が<特選一席>に選ばれた、あの朝のことは、あれから数年過ぎた今になっても、私の記憶の中に鮮明に残っている。
 下の句は、黄色い縮緬状になって咲いている「南瓜の花」を「くすくす笑い」に見立てての表現でありましょう。
 私が愛読していた、庄野潤三氏の小説の中に、本作の上の句、「うりぼうのどの子もこける石ありて」と似たような状景が描かれていたように記憶しているが、母親の猪に率いられた「うりぼう」が、庭に置かれている「石」に躓いて、次々に「こける」様が面白可笑しく表現されていて、<特選一席>に相応しい傑作と思われる。
  〔返〕 古希われの躓くやうな階なれば妻に手取られそろそろ下る   鳥羽省三


○ 二千羽のすずめと同じ体重で少女は夏へブランコをこぐ
                    (2009年6月21日・東直子選)

 作中の「少女」の「体重」を<四十キログラム>と仮定すれば、「すずめ」一羽の平均「体重」は<二十グラム>となる。
 その<二十グラム>の「体重」の「すずめ」「二千羽」分と「同じ体重で少女は夏へ」と「ブランコをこぐ」のである。
 その「すずめ」「二千羽」と「同じ体重で」「夏へ」と「ブランコをこぐ」「少女」の顔の輝きと笑みとは、余所目で見ていても眩しいくらいに美しい。
  〔返〕 雀一羽の三千倍余の体重を持て余しつつ余生を生きる   鳥羽省三


○ よその子は大きくなるのが本当に早くてハリー・ポッターのキス
                    (2009年10月11日・加藤治郎選)

 J・K・ローリング作の大ベストセラー小説『ハリー・ポッター』シリーズは映画にもなって、この種の小説にも映画にも全く興味を感じていない私でも、そのタイトルぐらいは知っている。
 映画『ハリー・ポッターと賢者の石』は、孤児の少年が魔法使いとして成長していく過程を描くファンタジーである、と聞いているが、その映画の中に、<孤児・ハリー>が少女と「キス」をする場面が在るのでありましょうか。
 <隣の芝生は青い>と諺にも言う通り、「よその子は大きくなるのが本当に早くて」我が「子」だけが遅い、と感じるのは、世の親の何方にも共通する<親心>というものでありましょう。
 末尾二句に跨って「ハリー・ポッターのキス」と置いて具体化したことが、この作品に現実感を添えると同時に、ロマンチックな内容にもしたのである。
  〔返〕 よその妻は若くて綺麗で溌剌と家の翔子は六十四歳  鳥羽省三 


○ 長い時間かけて熟れゆく不登校なりし息子とトベラの果実
                    (2009年12月27日・米川千嘉子選特選二席)

 節分の夜に鰯の頭などと共に魔除けとして玄関<扉>に掲げられることから「トベラ」と命名されたこの樹木は、潮風や乾燥に強く、海岸では高木になって街路樹や道路の分離帯に植樹されることが多いそうだから、本作の作者・田中光子さんがお住いになって居られる五島列島の島々では、日常生活の中で度々目にする樹木でありましょうか?
 本作の意は、「その『トベラの果実』が『長い時間かけて熟れゆく』のと同じように、『不登校なりし』我が家の『息子』は『長い時間』を『かけて』成長するのだから、焦らずに気長に面倒を見ましょう」という訳でありましょうか?
 そうした心掛けをお持ちの田中光子さんにして「よその子は大きくなるのが本当に早くてハリー・ポッターのキス」という一首在り。
 真に世の親たちのお気持ちは、ただの一日として休まらないのである。
  〔返〕 長き時掛けて醸せし濁酒の味の恋しき都会暮らしよ   鳥羽省三

 
○ あの夏の防空頭巾を嫌いと言い仔うさぎの目に戻りゆく母
                  (『NHK短歌』2009年10月号に東直子選の佳作として掲載)

 作者のご母堂様は、町内の防災退避訓練の際などに、頭部を保護する「頭巾」を被られられようとしたので、「あの夏の防空頭巾を嫌い」と言って駄々をこねて泣き出したのでありましょうが、その「母」のことを、<仔うさぎの目になりてゆく母>では無くて、「仔うさぎの目に戻りゆく母」とした点に注意しなければならない。
 要するに作者は、「母」が<幼時帰り>をしたと言いたいのである。
 この秀作を<佳作>にして、一体全体、東直子さんは、どんな作品を<特選作>としたり<入選作>としたりなさったのでありましょうか?
 評者の私としては、その点がすこぶる興味深いところである。
  〔返〕 あの夏の防空頭巾を脱がぬまま今も基地なる沖縄の島   鳥羽省三


○ 胸に抱く犬に舐められつつ吾はいかなる味の獣の子ども

 私の連れ合いのお妹さん・旧姓<田中光子>さんは、飼い犬の<クロ>を「この子」などと呼び、一個三千円也の資生堂のクリームを塗りたくったご美顔をぺろぺろと舐めさせている。
 思うに、新旧を問わず、<田中光子>と名付けられた女性は、その世の中に果たす役割りとして、飼い犬をわが子のように可愛がり、その造作の美醜を問わず、そのお顔を「舐められつつ」生きる宿命の元に置かれている存在なのかも知れません。
 本作の作者・田中光子さんが「いかなる味の獣の子ども」であるかは存じ上げませんが、他人に舐められるよりは、飼い犬やご亭主殿に舐められた方が数千倍も増しである。
 だから、歌詠みの田中光子さんも、姑さんの顔読みの(旧姓)田中光子さんも、せいぜい、ぺろぺろと「舐められ」ていなさい。
  〔返〕 起き抜けに温きタオルを差し出して「その顔拭け」と翔子は言ひぬ   鳥羽省三

鶴田伊津作『浅瀬のひかり』

2010年07月01日 | あなたの一首
 私たちは戦後短歌史の中で様々な母子像に出逢うことが出来る。
 今、私は、そうした戦後短歌史上の母子像を詠んだ数々の作品の中から、戦後に華々しく作歌活動をした女流歌人が自分自身と自分の子供との関わりを詠んだ作品の幾つかを選んで示し、本稿の本来の目的である、鶴田伊津作『浅瀬のひかり』を観賞するうえでの指針にしたいと思うのである。
 下に転記する葛原妙子氏の世に知られた傑作などに見られる母子関係などと比較して観賞する時、鶴田伊津さんのこの七首の連作に詠われた母子関係は、先輩諸姉の作品に詠まれた母子関係などとは異なり、草食系社会などと揶揄される現代社会に見られる、新しく特異で、かつ普遍的な母子関係を映し出したものとして、観賞しなければならない作品と、評者は思うのである。
 どちらが<是>で、どちらが<非>といったような問題では無い。
 

  奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子をもてりけり  葛原妙子『橙黄』S25

  遺産なき母が唯一のものとして残しゆく「死」を子らは受取れ       中城ふみ子『花の原型』S30
  うしろより母を緊めつつあまゆる汝は執拗にしてわが髪乱るる      森岡貞香『白蛾』S28
  拒みがたきわが少年の愛のしぐさ頤に手触り来その父のごと         同上 
  女にて生まざることも罪の如し秘かにものの種乾く季            富小路禎子『未明のしらべ』S31
  夢にさへ距てられたる子となりてはやも測られぬ背丈を思ふ        雨宮雅子『鶴の夜明けぬ』S51
  囀りのゆたかなる春の野に住みてわがいふ声は子を叱る声        石川不二子『牧歌』S51
  植えざれば耕さざれば生まざれば見つくすのみの命もつなり        馬場あき子『桜花伝承』S52
  

  『浅瀬のひかり』        鶴田伊津

○ 土の香の著き牛蒡を洗うとき素足涼しき浅瀬のひかり

 本作の作者・鶴田伊津さんとほとんどイコールの関係にあると思われる、東京に出て来た地方生まれの女性が、就学や就職などで数年間の一人暮らしを経た後、そこそこに愛する男性と出会って家庭の人となり、子を生すことにもなった。
 「土の香の著き牛蒡を洗うとき」という上の句に歌われている状況は、今となっては十数年間の都会生活に磨かれて洗練され、田舎娘の面影をすっかり失くしてしまったその女性が、自宅の近所の八百屋やスーパーから買った来た泥付きの「牛蒡を洗うとき」、或いは、市民菜園といった名称の僅か数坪ばかりの家庭菜園で収穫した、泥付きの「牛蒡を洗うとき」と考えてもそれほど不都合ではないかとは思われる。
 しかし、<その「土の香の著き牛蒡」を「素足」を晒して、川の「浅瀬」に入って「洗うとき」「浅瀬のひかり」に涼しさを感じた>などといった爽快感に満ちた状況を、今の首都圏での都会生活に求めることにはかなり無理がある。
 したがって、この一首を、仮に作者・鶴田伊津さんの実体験に基づいて詠われた作品であると想定した場合、その背景は、和歌山県新宮市の作者(=作中の女性)の生家辺りとするのが妥当でありましょう。
 和歌山県新宮市と言えば、あの佐藤春夫の故郷であり、その上流に<名勝・瀞八丁>を擁する熊野川に面した清流の地である。
 作中の女性は、久し振りに都会生活から解放されてお子様連れで帰省した。
 そして、今日は生家の畑から収穫したばかりの「土の香の著き牛蒡」の一束を抱えて熊野川の「浅瀬」に、その真っ白い大根足ならぬ、牛蒡のようにほそぼそとした足を晒したのである。
 「ああ、この浅瀬の清らかな水で洗うと、土の香りがくっきりと漂っていたこの牛蒡の一束も、みるみる土の香が失せて新鮮さを更に増して行くことだ。清流で洗われて白くなったこの牛蒡と同じように、かつては体中真っ黒になってこの川の流れで遊び戯れていたこの私も、今ではすっかり都会の人となり、この細くて白い脚をこの浅瀬の清涼に晒している。おまけに可愛い子供まで連れて来て。ああ、私は東京で何をして暮らして来たという訳では無いが、何故だか恥ずかしいみたいだ。それにしても、この清らかな水で牛蒡を洗い、この浅瀬のひかりに晒されるとき、私の素足の何と涼しいことよ。何と爽やかなことよ。何故か知らないが、私は東京で恥ずかしいことをして来たみたいだ。」と、作中の女性は感じたのでありましょうか?
 ああ おまへはなにをして来たのだと・・・吹き来る風が私に云ふ
                                  (中原中也『山羊の歌』より)
 五句目の「浅瀬のひかり」は、何かの暗示のようにも思われるが、その「何か」については、今は言及する余裕が無い。
  〔返〕 紀の国の浅瀬の川の朝明けに白き素足を晒す汝はも   鳥羽省三


○ 伏せ置きし『徒然草』の背表紙にプリキュアシール貼られておりぬ

 「伏せ置きし『徒然草』」とあるが、作中の女性は、大学で中世国文学をご専攻になられたのでありましょうか?
 それとも、愛読書の一冊として、吉田兼好著『徒然草』をお読みになって居られるのでありましようか?
 「伏せ置きし『徒然草』の背表紙にプリキュアシール貼られておりぬ」とは、『徒然草』の何れかの段を読みかけていた人物が、その途中で用事か何かが発生した為に、そのページを開いたままで本自体を伏せてその場を離れていたところ、自分の知らない間に、誰がよって、その「背表紙」に「プリキュアシール」が「貼られて」あった、ということである。
 頭脳明晰とは程遠い評者には、『徒然草』を読みかけたまま「伏せて」置いた横着者や、その「背表紙」に「プリキュアシール」を貼った不届き者を特定することは出来ないが、件の横着者が読みかけていた『徒然草』の段を特定することは出来る。
 即ち、件の横着者が読みかけていた『徒然草』の段とは、「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり。深き水は、涼しげなし。浅くて流れたる、遥かに涼し。細かなる物を見るに、遣戸は、蔀の間よりも明し。天井の高きは、冬寒く、燈暗し。造作は、用なき所を作りたる、見るも面白く、万の用にも立ちてよしとぞ、人の定め合ひ侍りし。」とある、第五十五段である。
 とすると、それを読みかけていた件の横着者を特定することも、また、「プリキュアシール」を貼った犯人を特定することも可能となるのでありましょうか?
 『徒然草』と言えば、今となっては、それ相当の国文学的知識と興味を備えた者で無ければ手にしない書物であり、「プリキュアシール」と言えば、幼児ないしはせいぜい中学生程度の女性が興味を示す物である。
 本作の面白さは、その「『徒然草』の背表紙」に「プリキュアシール」が「貼られて」あった、というミスマッチに在る。
 しかも、そのミスマッチは、単なるミスマッチのままで終わるのでは無く、日常生活全般にそうしたミスマッチを介在させたままで暮らしている、作中女性とその「子」との複雑な母子関係をも示唆するものともなっているから、一首の観賞のうえでは、決して見逃しにはならないものである。
  〔返〕 伏せ置きし五十五段の風に飛び『徒然草』のつれづれなるも   鳥羽省三 


○ 右ひざのすり傷左すねのあざ子は神妙な顔でみせたり

 「『徒然草』の背表紙にプリキュアシール」を貼った犯人に天罰が下って、可哀想なことに、彼(または彼女、以下、略)は負傷した。
 彼の負傷箇所は、「右ひざのすり傷」と「左すねのあざ」との二箇所。
 それでも彼は、彼の母親であり、件の横着者である作中の女性に、「神妙な顔で」その負傷箇所を
見せたのである。
 「子は神妙な顔でみせたり」とあるからには、、日常生活のさまざまな場面で、その「子」は、自分の母親たる作中の女性に、自分の素顔や弱みなどを見せない「子」である、と考えなければならない。
 何事にも隠し事をする「子」の性格が如何にして形成されたのであるか?
 自分の母親が大事にしている書物の「背表紙」に「プリキュアシール」を貼るといったような悪戯を仕出かしたり、自分の母親に自分の素顔や弱みを曝け出さない、といった、その「子」の複雑な性格が、その「子」とその「子」の母親との間の、どのような生活から醸成されたものであるかなど、私たち鑑賞者の興味はさまざまで尽きない。
 私たち、鑑賞者の中のかなり早飲み込みの者は、「作中の親子関係の決裂は必至。作中の夫婦関係の決裂は必然。本作中の女性は、早晩、子を棄て、夫と別れて、故地・新宮に隠棲することになるだろう」などとも即断しかねないが、どこをどう推せば、そういう即断が為されるのだろうか、と、何事につけても常識的かつ穏健なる判断を示す傾向にある評者は慨嘆しているのである。 
 因みに申し添えると、本作に見られる母子関係は、前掲の葛原妙子氏の『橙黄』中の「奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子をもてりけり」などに見られる母子関係などとは、比較にならないほどの健全な母子関係である、と評者は判断し、このままで進んで行ったら、むしろ、森岡貞香氏の『白蛾』中の「うしろより母を緊めつつあまゆる汝は執拗にしてわが髪乱るる」「拒みがたきわが少年の愛のしぐさ頤に手触り来その父のごと」などのような、隠微な母子関係に発展するかも知れない、とも危惧さえしているのである。
  〔返〕 傷はきづ痣はあざなり心にも身にも添ひ居て汝を泣かすもの   鳥羽省三

           
○ 昨日より太りし月の下を行く子の自転車の後輪を追う

 少年少女が何か事ある時に、母親などの肉親に隠し事をするのは、ごく当たり前のこと。
 それに過剰反応をするのは、愚かな母親のすることである。
 前作に於いて、あまりの耐え難さに、自分の負傷を隠し立てすること無く示した、我が子の行為を「神妙な顔でみせたり」とだけ受け止めて、在り合わせの置き薬で治療を施してやった母親は、ごく普通の母親であり、その母親とその子との間の親子関係は、ごく平凡な母子関係であった。
 本作は、前作とは異なって、ごく平凡な母子の、ごく平凡な一日の出来事を活写した作品である。
 本連作の作者・鶴田伊津さんご自身をモデルにして創作された、本作中の女性とて、四六時中、頭に鉢巻を締めて詠歌に苦しんだり、今となっては薄れ行く記憶に頼りながら、食卓の上で『徒然草』を読んだりしているわけでは無く、月光が涼しく降る夜には、「月の下を行く子の自転車の後輪を追う」といったような、我が子思いの微笑ましい一面をも持ち合わせているのでありましょう。
 しかし、作中の表現に沿って一言申し添えると、「昨日より太りし月」とは、単に月齢が「昨日より」一日分増えただけでは無く、この頃の平凡で幸福な生活に浸り切っている作中女性の体重が、一kgか二㎏程度は、確実に増えたのでもありましょうから、その旨、作中女性共々本作の作者に於かれても、ご注意の程を。
  〔返〕 懐妊に非ず近ごろまた肥えし君の月追ひそぞろ行く姿   鳥羽省三


○ 今日われの海は凪ぎおり眠る子の額の汗をぬぐってやれば

 平凡な昨日に続く平凡な今日である。
 しかしながら、「眠る子の額の汗をぬぐってやれば」「今日われの海は凪ぎおり」とは、少しは危険。
 ゆめゆめ、前掲の森岡貞香氏の『白蛾』中の「うしろより母を緊めつつあまゆる汝は執拗にしてわが髪乱るる」「拒みがたきわが少年の愛のしぐさ頤に手触り来その父のごと」などのような、隠微な母子関係に陥りませんように。
  〔返〕 けふ汝の海は凪ぎをり側らで眠りたる子の彼に似たれば   鳥羽省三


○ 治る傷ならばいいのだ夜の湖に覆われぬようカーテンを引く

 「治る傷ならばいいのだ」とは、<治らない傷ならば取り乱して泣き騒ぐ>ということか?
 それはともかくとして、「夜の湖に覆われぬようカーテンを引く」とは、なかなかに含蓄に富みイメージを脹らませる表現である。
 下の句のこの表現から類推して、言葉の響きに敏感な鑑賞者は、「治る傷ならばいいのだ」の「傷」を、二首目中の「子」の「右ひざのすり傷左すねのあざ」のみならず、作中の母子関係の「傷」、夫婦関係の「傷」、或いは、作中女性自身の心の「傷」などと推測しそうになるが、それも無理からぬことである。
 しかし、そうなればそうなったで亦、作中女性夫妻の離婚必至説が頭を擡げ出すのである。
 「治る傷ならばいいのだ」と作中女性は言うが、作中女性と作中女性の家族が負った「傷」が、そんなに簡単に治りそうも無い「傷」であることを、作中女性は知っているからこそ、「夜の湖に覆われぬようカーテンを引く」と言うのである。
  〔返〕 湖に夜霧に濡れて舟出せし夫の獲物を妻は見ざるも   鳥羽省三


○ 駅までの雨を浴びたる君の肩に軽く触れれば知らぬ匂いす

 「駅までの」という措辞から推すと、作中の「君」は作中女性の待つ「駅」までの距離を、折りからの「雨を浴び」ながら歩いて来たのであろうか。
 そして、この「君」と作中女性とは、これから何処へ出掛けようとしているのであろうか?
 また、「君」とは、作中女性の「子」のことか、「夫」のことか?
 更に想像力を逞しくして言えば、「君の肩に軽く触れれば知らぬ匂いす」の「知らぬ匂い」とは、動物の、しかも人間の、その中でも取り分け女性の「匂い」なのかどうか?
 連作の終了を間近にして、鑑賞者たちの思いは、またしても千々に乱れることではある。
  〔返〕 霧雨に濡れたる君の背を嗅げば栗の花の香かすかに匂ふ   鳥羽省三


○ エゴの花散り敷く下を横切りぬアーサー・C・クラークの影は

 一見すると、この作品は、何か在りそうで何も無かった、この連作を閉じる作品として相応しい穏やかで清潔な作風ではあるが、「エゴの花散り敷く下」を横切った者の正体を、あの『2001年宇宙への旅』でお馴染みのSF作家「アーサー・C・クラークの影」とした、本作の作者の創作意図が今一つ評者に解らない。
  〔返〕 謎で明け謎で暮れたる連作の<浅瀬のひかり>未だ幽かに   鳥羽省三


   (つるたいつ) 1969年生まれ。和歌山県新宮市出身。「短歌人」所属。歌集に『百年の眠り』。
                          〔2010・06・22〕「朝日新聞・夕刊」掲載

土岐友浩作『Chloranthus serratus』

2010年05月18日 | あなたの一首
   土岐友浩作『Chloranthus serratus』を読む

 先日の「臆病なビーズ刺繍」に示したように、土岐友浩作『Chloranthus serratus』は、朝日新聞掲載時には二行書きになっている。
 しかし、そうした特異なスタイルで掲載されたのは、主として朝日新聞の紙面上の都合によるものと思われ、作者としては、この八首連作を殊更に二行書きにして発表しなければならないような理由は、少しも無かったものと思われる。
 そこで、今回はそれらを短歌としての通常のスタイルの一行書きに改めた上で、その観賞を試みることにした。
 ところで、連作八首のタイトルとなっている『Chloranthus serratus』とは、私たち日本人が「二人静」と呼んでいる「センリョウ科チャラン属」の多年草の学名である。
 作者の土岐友浩さんは、この山間の湿地に楕円形の葉を十字に対生させて生え、晩春になると、恰も互いに慕い合う母子か恋人同士の如くに、茎の先に向かい合わせに二本の穂状花序を出して咲く、あの白く清楚な花に対して格別な愛着を覚えていらっしゃるとも推測されるが、この連作が亡きご母堂様に対する<挽歌>という性格を帯びた作品であることをも考慮すると、義経伝説に登場する静御前の霊魂と菜摘女とが、往時を偲んでしずしずと舞う謡曲『二人静』に由来する、この植物の和名「二人静」が重要な意味を持っているものとも推測される。


   『Chloranthus serratus』  土岐友浩

     葉は、墓のようだ。
○ ゆるやかに降り出す雨の寄り道の神社に咲いているつぼすみれ

 連作一首目に当たる本作の前に、詞書風に記されている「葉は、墓のようだ。」という一文は、作者の土岐友浩さんがご母堂様をお亡くしになった悲しみの目で以って「二人静」という植物をご覧になった時の、彼の目に映ったその葉の特徴を述べられたものであろうと思われるが、それは、本作一首だけに添えられた詞書と言うよりも、連作八首全体に添えられた詞書であろうと思われる。
 連作のタイトルとなった「Chloranthus serratus」即ち「二人静」は、この作品中に直接登場しているわけではない。
 しかしながら、この連作には、それぞれの作品の内容に応じて陰影を濃くしたり薄くしたりはするものの、一首目から始まって八首目に至るまで、常に母を失った作者の<悲しみの視線>と<沈潜し静謐し切った心>が感じられる。
 したがって、連作のタイトルとなった「Chloranthus serratus(二人静)」は、言わば、作者のそうした視線や心情の象徴として、八首全体に影響を与えているのである。
 さて、そうしたことを念頭に置いてこの一首を解釈すれば、「何かの用事で喪の家を離れたところ、その途中で『ゆるやかに』春雨が降って来た。そこで、その雨を避けるために、とある『神社』に『寄り道』したところ、その境内には季節柄『つぼすみれ』の花が咲いていた。そこで私は、『お母さん、此処にこんな花が、<たちつぼすみれ>の花が咲いていますよ。私はこの雨の上がるのを待つ間、此処で<二人静>ならぬ一人静かにこの小さな花を見ていますが、あなたにはこの美しい花とあなたを亡くして悲しみの底に沈んで居る私の姿が見えるでしょうか。私の心の中には未だにあなたの美しく優しい姿が映っているのです』と、母に呼びかけたことであった」といったことになりましょうか?
 やや、感傷に傾いた観賞であったかな?
 解釈文中の「喪の家」という語句について注釈すると、私の言う「喪の家」とは、必ずしも、亡き母の家、即ち土岐友浩さんの生家を指すものではない。
 母を失った青年・土岐友浩さんにとっては、そこが京都市内の自分の下宿先であれ、仮住まいのアパートであれ、彼の現在の宿りは、全て「喪の家」なのである。
 それは敢えて言葉を飾って言えば、<常在霊魂><常在喪家>なのである。
 表現について一言申し添えれば、三句目中の「寄り道」が、「ゆるやかに降り出す雨の寄り道」であると同時に、その「雨」を避けるための作者の「寄り道」であるとも受け取られ、そこの辺りの曖昧さがこの一首の魅力となっている。
 それにしても、「雨の寄り道」という発想と言葉の連なりが面白く、そうした表現には、多士済々の<京大短歌会>で鍛えられた、作者の発想の冴えが感じられる。
  〔返〕 ことだまの御霊神社の一隅に静かに咲けるたちつぼすみれ   鳥羽省三


○ 僕の手を離れて水になっている母を亡くした春の記憶は

 「雨上がりの神社の境内の<にわたずみ>から着想を得た」などと解説すれば、あまりにもご都合主義であると笑われましょうか?
 作中の「春」とは、「母を亡くした」季節を指すものでは無く、「母」の「記憶」に浸っている、今、現在の季節を指すものである。
 さて、難解なのは「僕の手を離れて水になっている」という上の句である。
 「僕の手を離れて水になっている」のが、「母を亡くした」「僕」の「春の記憶」であることは明白であるが、問題は、「母を亡くした」「僕」の「春の記憶」が「僕の手を離れて水になっている」とは、どんな意味を持ち、作者のどんな感覚・心情を表わしたものであるか、ということである。
 「これを称して、<溶解感覚>或いは<喪失感覚>と呼ぶ」などと言って済ませるのは、余りにも造作無いことであり、これらの語句に土岐友浩さんが託した意味は、そうした安易な解釈で以って済ませられるような単純なもので無いだろうと思われる。
 いろいろと解釈の分かれるこの語句については、人によっては、「<母を失った記憶が僕の手を離れて水になっている>ということは、<作者が母を失った悲しみから解放されようとしている>という意味である」などと解釈する向きもありましょう。
 そこの辺りの曖昧模糊とした感じがまた、この一首の魅力を形勢しているのである。
 それとは別に、作者の胸中には、あの母子が向かい合うようにして咲いている二人静の花が強く印象づけられていることも、決して忘れてはならない。
  〔返〕 汝の手を離れもやらぬ春のみず流れて澄みて悲しみを消せ   鳥羽省三 


○ 靴ひもを洗ってほどけにくくする小さな庭の小さな日暮れ

 母を失った者は、何をやっても悲しみから解放されない。
 彼の心の中には相変わらず、あの二人静の花がひっそりと咲いているからである。
 それなのにも関わらず、彼は、その状態から解放されるべく、またその状態に浸るべく、何事かを為さないでは居られないのである。
 「小さな庭の小さな日暮れ」に、「靴ひもを洗ってほどけにくくする」のは、彼が為さないでは居られないが故に為した「何事か」の一例なのである。
 「小さな庭の小さな日暮れ」に「靴ひもを洗ってほどけにくくする」彼の心の中には、相変わらず、あの白い「二人静」の花が対生して咲いていることを忘れてはならない。
 「靴ひもを洗ってほどけにくくする」というフレーズが暗示するものの意味をも考えたいところではあるが、これを「忘れようとして努力したりもがいたりすれば、益々忘れられなくなる」などと、平凡な言葉で以って言い替えたりしたら、作者を失望させることになりましょう。
  〔返〕 水注ぎ洗へば益々きつくなる靴の紐はも悲しみ晴れず   鳥羽省三


○ 勘違いしていなければこの上を平沢唯が歩いた通り

 悲しみの状態から解放されるべく、かつ悲しみの状態に浸るべく、作者は亦、時に地にうつ伏したりなどして、「勘違いしていなければ」私の現在地点は「この上を平沢唯が歩いた通り」ではないかしら、などと思ったりもするのである。
 作中の「平沢唯」とは、作者の知人の一人であろう。
 だが、その性別が女性なのか、男性なのか、と言うことについては、この一首にのみ対している限りに於いては評者にも判らない。
 でも、何処かからギターを奏でる音がするような気がしないでも無い。
  〔返〕 甘食系ヒトの名たるか平沢唯 二人静かに語らひたきに   鳥羽省三


○ 好きな人の文字は大きく見えてくる菜の花色のフリーペーパー

 「菜の花色のフリーペーパー」に書かれているのは、「平沢唯」という人の名。
 その人の名を目にした瞬間、評者のみならず、本作の読者たちの中の鈍感ならざる多くの人々には、「平沢唯」とは作者の「好きな人」の名であること、即ち「平沢唯」の性別は女性であることが理解されるのである。
 と、ここまで書いて来たが、ここの辺りで、手品の種を明かすと、作中の「平沢唯」とは、実はTBS系列テレビ放映の人気アニメ「けいおん!」の主人公なのである。
 インターネットの「けいおん!」<公式サイト>に拠ると、彼女「平沢唯」は、「11月27日生まれ(射手座)、身長156cm、体重50kg、血液型はO型。軽音部を、例えば口笛とかの<軽い音楽>を楽しむための部活と勘違いして入部したので、 全くの初心者かとしてギターを始める。自己流や直感に頼るタイプ。かわいいものや、甘いものが大好き。」ということだそうである。
 したがって、作者と平沢唯との恋愛は、土岐友浩さん側の一方的な擬似恋愛であり、彼と彼女との間には、交接はおろかキスやペッティングといった軽度の肉体関係も無いし、仮に在ったとしても、彼の身体からは精液の臭いが漂って来るわけでも無い。
 彼・土岐友浩と彼女・平沢唯との関わりはそうした淡い関係、架空の関係なのである。
  〔返〕 菜の花の色した紙に恋人の名前など書き忘れんとする   鳥羽省三
 只今、5月15日の23時55分、夜も更けましたので、この後の観賞は明日以後に回して、私はこれから入浴し、それが済んだら、さだまさしの「ソフィアの鐘」に耳を傾けながら就寝することに致します。    


○ することがなくてスクリーン・セーヴァーの真似に興じている待ち合わせ

 刻々と形態を変えて行く「スクリーン・セーヴァー」のデザインも様々。
 本作の作者・土岐友浩さんのPCを彩っている「スクリーン・セーヴァー」は、どんなデザインの「スクリーン・セーヴァー」であろうか、などと、多少の興味は感じたが、私自身は、現在、いかなるデザインの「スクリーン・セーヴァー」も用いていないので、それ以上の興味は感じなかった。
 それにしても、男という動物はどうしょうもない動物であると言わなければならない。
 何故なら、作者・土岐友浩さんは言わば現在、服喪中なのである。
 それなのにも関わらず、恋人と「待ち合わせ」をするとは不届き千万と言わなければならない。
 しかし、その「待ち合わせ」の当事者が、他ならぬ土岐友浩さんであることを考慮すれば、その「待ち合わせ」とやらも、どうやら永久に相手が現れない「待ち合わせ」、即ち、架空の待ち合わせなのかも知れない。
 仮に、その「待ち合わせ」が真実の「待ち合わせ」であり、彼と彼女とが首尾良く出会うことが出来たとしたならば、服喪中の男性の身体から、情欲がぷんぷんと漂って来ると言わなければならないことになり、せっかくの「二人静」も徒花となってしまうに違いない、と思われるのであるが、その可能性は限りなくゼロに近い。
 それはそれとして、本作の作者が恋人との「待ち合わせ」の場所は東京ならさしづめ渋谷のハチ公前であるが、、作者の土岐友浩さんは京都にお住まいになって居られると思われるからそこは京都。
 その京都の四条河原町辺りの人通りを前にして、歌人にして医師の土岐友浩さんが「スクリーン・セーヴァーの真似に興じている」有様を想像するのも、これまた、この作品の鑑賞の一つと思われる。
  〔返〕 ぷくぷくと浮きては沈むいろくづを思ひては待つ平沢唯か   鳥羽省三


○ 半日を過ごしたころの白色の二人静(ふたりしずか)の花を見ている

 「半日を過ごしたころ」とは、作者自身が架空の恋人と「半日を過ごしたころ」のことだろうか?
 それとも、「二人静」が咲いてから「半日を過ごしたころ」のことだろうか?
 一首の表現中にその種の曖昧さを残しているのが、短歌の魅力の一つであると思われるが、この一首もまた、そうした短歌の一つであろう。
 この連作のタイトルは「二人静」の学名「Chloranthus serratus」であり、これまで一度も作品中に登場しなかった「二人静」が、初めて言葉として姿を表わしたのが本作である。
 それまで一度も作品中に登場しなかった「Chloranthus serratus」が、この一首に至って、和名ながらも初めて登場した理由は何か?
 それに答えられる余裕は今の私には無いが、ここに至って、母を失った悲しみが少し薄らぎ、作者が、周りの風景や自分自身を、かなりの余裕を持ち、客観的とも言える姿勢で眺めているような側面をこの一首から私は感じる。
 したがって、ここに初めて登場した「Chloranthus serratus」は、もはや<悲しみの色を一心に湛えた花>としての「二人静」では無く、一種の寂しさを帯びながらも、清潔さと僅かながらも明るさをも湛えた「二人静」なのである。
 ところで、この作中に於いて、作者・土岐友浩さんが、「二人静」という植物名に「(ふたりしずか)」という<ふりがな>を付した理由は何か?
 その理由を正確に述べることは私には出来ないが、架空の恋人と出会うことによって、少しく余裕を持つことが出来た作者が、現在の自分たちの立ち位置や気分を見つめ、それと状態を同じくしているような感じの花「二人静」を前にして、「この花の名前は『二人静』。これを口に出して言うと『ふたりしずか』。そしてその学名は『Chloranthus serratus』である。この花の、なんと私たちに似ていることよ。そして、この花の、なんと美しいことよ」と、「二人静」の花の前に立ち、その花と自分たちとを見比べ、慨嘆し、詠嘆しているような感じがするのである。
  〔返〕 半日を過ごせし頃の「二人静」 向かひ咲きたるその花の穂よ    鳥羽省三 


○ 飛び石の道なかほどに沈みゆく 母よあなたの死に間に合わず

 一首全体、謎と魅力に満ちた作品である。
 先ず、「飛び石の道なかほどに沈みゆく」という上の句の解釈が困難であり、困難であるが故に魅力的である。
 例えば、「無鄰菴庭園」。
 近代史を彩るその庭の「飛び石の道」が「なかほどに」なり行くにつれて「沈み行く」ような感じである、と言うのが、この<五七五>の意味なのであろうか?
 また、この<五七五>は、それに続く<七七>と、どのような繋がりを持っているのであろうか?
 この一首で以って、作者が初めて<一語空き>の手法を用いているだけに、その解釈に私は苦しむ。
 例えばこの一首を、「この無鄰菴庭園の飛び石道は、中ほどあたりに行くにつれて急に沈んで行くような感じである。お母さん、私にとってあなたの死は、まさにそのような感じでした。お母さん。お母さん。道の半ばで急に沈んで行ってしまったような感じのあなたの死に、私は間に合いませんでした。お母さん。お母さん。そんな私の不幸を、どうかお許し下さい」といった風な安易な解釈をして、この観賞文を閉じるとしたら、私はあまりにも無能な短歌評者として読者の皆さんから笑われてしまうでしょうか?
 この連作に接した瞬間、私はあの斉藤茂吉の連作「死に給ふ母」を思い起した。
 母の死という一大事に対した場合は、近代の頑迷な歌人でも、現代の草食系歌人でも全く同じような反応を起すことだ、と感じながら、私はこの連作を観賞させていただいた。
  〔返〕 沈み行く飛び石道に添ひて咲く二人静のかそけき生よ   鳥羽省三


 八首連作の全体像に触れてみた結果としての私の、総括的な感想は、「草食系男性」という当世流行の言葉であり、「衛生無害」という古典的な言葉である。
 私は、八首目の観賞にあたって、つい迂闊にも、「この連作に接した瞬間、私はあの斉藤茂吉の連作『死に給ふ母』を思い起した。母の死という一大事に対した場合は、近代の頑迷な歌人でも、現代の草食系歌人でも全く同じような反応を起すことだ、と感じながら、私はこの連作を観賞させていただいた」と記してしまった。
 だが、似たような年齢で、似たような職業に従事している者が、似たような立場で創作した「挽歌」を観賞するにしても、近代歌人・斉藤茂吉の作と二十一世紀歌人・土岐友浩さんの作とでは、その印象がまるで異なるのである。
 例えば、この作品のタイトルは『Chloranthus serratus』、即ち草花の名前であり、斉藤茂吉の作品『死に給ふ母』には、タイトルにこそ植物は登場しないが、作中には、ほとんど作品毎に植物が登場し、それも草花が登場するのであり、あの作品は、科学者・斉藤茂吉が編集した、『蔵王山麓山野草図鑑』と言ってもいいような様相を呈しているのである。
 しかし、この両者に登場する草花は、その匂いも色も株立ちも生えている環境も、まるで異なっているのである。
 斉藤茂吉の『死に給ふ母』に登場する植物が、さんさんとした初夏の陽射しに照りつけられて育ち、極彩色で強烈な匂いを放つ山野草であるとすれば、本作に登場する「二人静」は、陰湿な谷間に咲くあえかな隠花植物なのである。
 同じ青春を生きる若者として両者を比較しても、この二人には歴然とした違いが認められる。
 斉藤茂吉の目は、常に食料と女性とを求めて居て、まるで猛獣の目のように光り輝いているのに対して、土岐友浩さんの目は、まるで「二人静」の花のように常に静まっている。
 期待の新人・土岐友浩さんは、このまま水枯れや根腐れを起して絶息してしまうのだろうか。
 それだけが心配で、近頃の私は碌々眠れないで居る。
  〔返〕 例ふれば二人静の生に似て命あえかな土岐友浩よ   鳥羽省三

あなたの一首(川添英一さんの作品)

2010年05月15日 | あなたの一首
○ からかわれているのだろうか駅前のポケットティッシュついに貰えず   (迷羂索) 

 川添英一さんが、歌集「流氷記・第五六号」をご恵送下さった。
 一年半ぶりに刊行された今度の歌集のタイトルは「迷羂索」である。
 手元の辞書に拠ると、「羂索」とは「鳥獣を捕らえる道具」のことであり、「(それを胸に抱いた)不空羂索観音様は、その大悲の羂索で以って一切の衆生をお救い下さる」のだと言う。
 その「羂索」で以って、才人・川添英一さんは一体いかなる鳥獣を捕えんと企て、かつお迷いになって居られるのでありましょうか?
 或いは、その有り難い不空羂索観音様の前に膝を屈して、歌人・川添英一さんは一体何をお迷いになって居られるのでありましょうか?
 それはそれとして、川添英一さんの作品と言えば、昨年黄泉路に旅立たれたご尊父さまへの思いをお述べになった作品とか、教育者として生徒さんの前に立たれる時の思いをお述べになった作品とかを思い浮かべるが、本作は従来のそうした作風とは異なった、軽妙洒脱かつ自己分析の行き届いた作品である。
 学生風の若者が、サラ金業者やパチンコ店などから依頼されて、客引きの為の「ポケットティッシュ」を配っている光景は、電車通勤をしている者なら殆んど毎日のように目にすることである。
 そうした場合は、「チラシなら邪魔だが、ポケットティツシュならいくらあっても邪魔にならないから」といった軽い気分で彼らに近づいて行き、ひょいと手を出して貰おうという意志を示すことは、鳩山兄弟以外なら何方でもすることである。
 ところが、そういう時に限って、あろうことか、わざわざ手を伸ばしてやった自分だけが貰えないで、せっかく伸ばした手のやり場に困ったりもするのである。
 配っている側としては、予め依頼主側から申し渡された配布方法を守ろうとしただけのことであり、この中年野郎をからかってやろうとか、焦らしてやろうとかといった特別な悪意は持ってないのだが、わざわざ手を伸ばしてまで貰おうとした側にとっては、「私はこいつに<からかわれているのだろうか>」とまで思ってしまうのも無理からぬところである。
 この一首に接して、私は、あの謹厳実直を絵に描いたような紳士・川添英一氏に、私と幾ほども変わらない庶民的な一面が在ったことを発見したような思いになり、歌人・川添英一さんに対する親愛感を益々深めたことであった。 
  〔返〕 一見し頑固教師と判るからサラ金ティッシュは配らなかった   鳥羽省三


○ その上を雲ゆったりと流れつつフジテック塔流されてゆく        (迷羂索)
○ フジテックの文字無き塔が煙突に見えてほどなく消えてゆくらし
○ 次々と行き交う列車見下ろしてフジテック塔壊されてゆく
○ ジテックとなってしまいしフジテック塔を優しく満月照らす
○ フジテックジテックテックと低くなる様を見ている数日哀し      
○ 少しずつ上から解体されていくフジテック塔テックとなりぬ
○ フジテックジテックテックとなってゆき今クの半ば塔崩れゆく
○ フジテックジテックテックク崩れゆく塔の名前も今はもうなし
○ 次々にフジテック塔壊されて今朝見し高さ半ばとなりぬ
○ フジテックジテックテックと塔高く聳えしが今更地となりぬ
○ フジテック塔を映しし安威川も空行く雲が今映るのみ
○ フジテックタワー解体父母の亡くなりて後と記憶に残る

 作中の「フジテック塔」とは、主として海外市場向けのエレベーターを生産している<フジテツク㈱>がエレベーターの性能実験を行う為に、1975年、大阪府茨木市内の阪急京都線・総持寺駅近くに建てた、高さ150mの威容を誇る実験塔である。
 ところが、そのオーナーのフジテツク㈱は、その本社を滋賀県彦根市に移転し、次いで実験の為の新施設も完成したので、茨木市のランドマークとして地元住民の誇りとなっていたこのタワーは、2008年の9月22日を限りとして、無用の長物として解体されることになったのである。
 「紅・白・紅・白」と紅白のだんだら模様に塗り分けられていたこのタワーには、紅色をした天辺部分からその下の白・紅・白に至るまでの脇腹に、「フジテック」という社名を示すカタカナ文字が書かれていた。
 この工事は、タワー本体を3メートル単位で輪切りにして徐々に解体して行くという工法であったので、その下で長年暮らし、それを郷土の誇りとして来た地元住民たちは、「ああ、今日は<フ>が無くなった。明後日はは<ジ>が無くなり、もう一週間もすると<フジテック>というは名前全体が無くなってしまうに違いない」などと、何かとその工事のことを話題にして、その名残を惜しんだことであったと推測される。
 この作品群の作者・川添英一さんは、そうした地元住民の一人として、この解体工事の一部始終を目の当たりにしていて、その有様をこの作品群に、リアルに詠み表したのでありましょう。
 この解体工事が行われていた期間は、川添英一さんのご尊父様及びご尊母様がお亡くなりになられた時期と重なっていたと推測されるが、そういう哀しいご事情もお在りになったからなのか、作者・川添英一さんにとっては、その解体を惜しまれるお気持ちが特に強かったのでありましょう。
  〔返〕 大阪府摂津富田の駅近くかつて住みにし弟・省吾   鳥羽省三
      そのかみの天井川の安威川よ今も映すか空行く雲を    々


○ 女歯科技工士の胸間近にて戸惑いながら治療受けおり          (迷羂索)

 こんな他愛無い日常茶飯事を詠んだ一首さえも、大阪府高槻市と神奈川県川崎市との距離を確実に縮めるのである。
  〔返〕 女性歯科技工士の胸に息を吐き川添さんは治療受けてる   鳥羽省三


○ 夜の闇に刺客紛れて木枯らしの阿鼻叫喚を聞きつつ眠る

 「夜の闇」に紛れ、「木枯らしの阿鼻叫喚を聞きつつ眠る」「刺客」とは、本作の作者・川添英一さんご自身のことでありましょう。
 ご自身を「刺客」に擬え、「木枯らし」の音を「阿鼻叫喚」として捉えるのは、いかにも川添英一さんらしい認識である。
 さて、今は「夜の闇」に「紛れて」、「木枯らしの阿鼻叫喚を聞きつつ」眠っている、この「刺客」殿は、明日は何方のお命を頂戴するのか?
  〔返〕 夜の闇に紛るる我の失格の永久に弾けぬ檸檬爆弾   鳥羽省三  

土岐友浩作『Chloranthus serratus』を読む

2010年05月12日 | あなたの一首
 毎週火曜日(?)の朝日新聞の夕刊に「あるきだす言葉たち」という、詩歌の新作(と思われる?)を紹介する欄が設けられている。
 去る5月11日の同欄には、『Chloranthus serratus』と題する、かねてよりお名前だけは知っていた歌人・土岐友浩さんの八首連作及び作者の略歴が掲載されていた。
 そこで、取り敢えずは、その記事をそのまま転載させていただきたい。
 私が、マイブログ「臆病なビーズ刺繍」の中に、朝日新聞に掲載された記事を転載させいただくのは、私にとっては、土岐友宏という若手歌人が注目に値する存在だからである。
 しかしながら、その作品は、私が一読した程度で、類い希な傑作として称揚したり、駄作と談じたりすることの出来ない作品であると思われる。
 したがって、本日はそれをここに転載して置くに止め、それについて、私が云々するのは、後日の事とさせていただきたい。


 『Chloranthus serratus』

   葉は、墓のようだ。
ゆるやかに降り出す雨の寄り道の神社
に咲いているつぼすみれ

僕の手を離れて水になっている母を亡
くした春の記憶は

靴ひもを洗ってほどけにくくする小さ
な庭の小さな日暮れ

勘違いしていなければこの上を平沢唯
が歩いた通り

好きな人の文字は大きく見えてくる菜
の花色のフリーペーパー

することがなくてスクリーン・セーヴ
ァーの真似に興じている待ち合わせ

半日を過ごしたころの白色の二人静
(ふたりしずか)の花を見ている

飛び石の道なかほどに沈みゆく 母よ
あなたの死に合わず


 〔とき・ともひろ 1983年、愛知県生まれ。京都大学医学部卒。学生短歌会の友人6人で同人誌「町」を創刊。所属結社なし。〕

あなたの一首(貞包雅文さんの作品・其のⅡ)

2010年04月16日 | あなたの一首
 「あなたの一首(貞包雅文さんの作品・其のⅡ)」として、短歌誌「百合の木(2008・第9号)」に掲載されている、連作「鳴らぬ一音」の十五首を観賞させていただきたい。


○  遥かなる馬頭青雲その青きたてがみのごときらめけ言葉

 作中の「馬頭青雲」は、正確には「馬頭星雲」と記すべきところでありましょうが、作者の貞包雅文さんは、それにある意志を込めて、敢えて「馬頭青雲」と記したものでありましょう。
 左様、「馬頭青雲」の「青雲」とは、<青雲の志を抱いて>などと言う時の、あの「青雲」なのであり、そこから「その青きたてがみのごときらめけ言葉」と言う壮大な下の句の措辞も導き出されるのである。
 それはさて置いて、「馬頭星雲」とは、オリオン座にある暗黒星雲の名称であり、地球から約1500光年の距離に在るこの星雲は、馬の頭の形に似ていることからそのように名付けられたのであると聞くが、仏教者としての本作の作者は、ご自身の関係する<馬頭観世音>との関わりからこの星雲に着目し、この星雲の青く輝いている部分を「たてがみ」に見立て、「その青きたてがみのごときらめけ言葉」と、僧職とは別に自分が携わっている言葉の世界、即ち、短歌という文学形式の益々盛んならんことを祈願したものでありましょう。
 だとすれば、この一首は、連作「鳴らぬ一音」の冒頭に相応しい傑作である。
  〔返〕 遥かなる罵倒青雲その禍き意志そのままに燃え行け青春   鳥羽省三


○  ことだまの在す暗き水底に降りゆかんいざ真裸となりて

 連作冒頭の作品と比較してみる時、それと対照を為す内容や表現が素晴らしい。
 本作の作者は、連作の冒頭で「遥かなる」宇宙の煌きに思いを馳せ、自己の携わる短歌表現の成就を祈願したのであったが、それに続いてこの二首目に於いては、それとは逆に、裸一貫となって「ことだまの在す暗き水底に降りゆかん」と述べ、歌人としての、「ことだま」の漁師としての、ご自身の志と覚悟の程を語っているのである。
 この一首に接して、私は、『古事記』の<海幸彦伝説>を思い出したが、さて、「ことだま」の漁師・貞包雅文さんの水底探訪の収穫や如何に?
  〔返〕 釣り針を失くして終はる水底の豊玉媛と交はひもせず   鳥羽省三


○  夏爛けていよよ煩悩熾盛なりはるか虚空を巡る冥王

 2006年8月に行われた<国際天文学連合>の総会で、「冥王星」は1930年以来維持してきた惑星の座から滑り落ち、惑星でない<矮惑星>という位置に退けられてしまった。
 著名な天文学者・野尻抱影氏によって日本語で「冥王星」と名付けられたこの天体は、ローマ神話で冥府の王とされる<プルート>に由来するものであって、太陽系の最深部の暗闇に存在することから、いかにも「冥王星」と呼ぶに相応しく、怪しく謎の多い星である。
 「冥王星」の見かけ上の等級は14等級以下であるから、これの観測には、口径30cm程度の望遠鏡が必要となると言う。
 また、この天体の軌道は、太陽系の他の惑星とは異なって、真円では無く、歪んでいるが故に離心率が大きく、その軌道の一部が海王星よりも太陽の近くに入り込んでいることなどもあって、太陽からの距離を巡って海王星と比較されたり、その大きさを巡って学者の間で論争が交わされるなど、「冥王星」は、惑星の位置に在った頃からいろいろと取り沙汰された、不思議な天体であった。
 本作は、その不思議な落第星「冥王星」と、「夏」が「爛け」るにつれて「いよよ」「熾盛」となる作者ご自身の「煩悩」とを取り合わせ、冥府を総べる邪神<プルート>に魅入られたように「煩悩」の多いご自身の精神状態を慨嘆したものでありましょう。
 作者・貞包雅文さんは、連作「鳴らぬ一音」の冒頭に於いて、遠い天体への憧れと共に、<ことだま>としての短歌に賭けるご自身の昂揚した気分を歌ったのであったが、冥王星が惑星の座から滑り落ちた今となっては、そうした昂揚した気分も消え失せ、「煩悩」の塊と成り果ててしまったのでありましょう。
  〔返〕 冥界を総べゐる禍きプルートよ汝が剣もて我を突き刺せ   鳥羽省三


○  絶望と歓喜の間で鳴く鳥よ化粧うがごとく夕陽に染まれ

 実景としては、夕陽を浴びて身体全体を真っ赤に染めて大空を翔けて行く鳥を詠んだものであろう。
 しかし、本作の「鳥」はあくまでも「鳥」であって、雀だとか鴉だとか鳩だとか鷹だとか、と、特定の鳥に還元出来るものではない。
 その幻の「鳥」に向かって、「絶望と歓喜の間で鳴く鳥よ」と呼び掛け、「化粧うがごとく夕陽に染まれ」と、この天地を総べる王者の如く指令するのは、何よりも、作者ご自身の絶望と歓喜の余りに昂揚した気持ちの表れであって、如何に幻の「鳥」と言えども、あの鳥たちが「絶望」したり「歓喜」したりするわけでは無いだろう。
 下の句「化粧うがごとく夕陽に染まれ」という表現に接して、私は、往年の春日井建の作品の世界とこの作品の世界とを重ね合わせて、しばし遊んだ。 
  〔返〕 装ひて天地のはざま翔け行けば歓喜の如き夕陽射し来る   鳥羽省三


○  「この星の血の色は青」口角を歪めて叫ぶアストロノーツ

  ごく普通のアメリカ人に「血の色は?」と問い掛けると、即座に「青」という答が返って来る確率はかなり高い、という話を耳にしたことがある。
 また、今年の時点でアメリカ人の宇宙飛行士の数は既に三百数十名に達し、その後にも、宇宙に旅立とうとして訓練を受けている宇宙飛行士候補生たちが目白押し状態なのだそうだ。
 だとすれば、現代のアメリカ社会に於いては、宇宙遊泳中に「地球の色は?」ならぬ「血の色は?」と問われて、「口角を歪めて」「青」と「叫ぶアストロノーツ」が居たとしても、それほど不思議なことでは無いという結論に達する。
 本作の趣旨は、「旧ソ連の宇宙飛行士ユーリイ・ガガーリンは『地球は青かった』と言ったが、それに対してアメリカの宇宙飛行士なら、口角を歪めて『この星の血の色は青』と叫ぶだろう」という内容のギャグであり、そのギャグは、単なるギャグのままで終わらず、早晩起こり得ることが充分に予想される内容のギャグなのである。
 本作の作者・貞包雅文さんは、十五首連作「鳴らぬ一音」の創作に当たって、その一首目から四首目まで、比較的に中身が濃く、メッセージ性の強い作品を並べて来たが、五首目に至って、その緊張を解いて一休息する必要を感じ、このような軽い味の作品を詠んだのである。
 「この星の血の色は青」というセリフの軽さやくだらなさに比べると、そのセリフを口にしたアストロノーツの「口角を歪めて叫ぶ」様子が余りにも大袈裟で滑稽であるが、その滑稽さと軽さこそ、作者が狙いとしたものであろう。 
  〔返〕 体内を流れゐる血は日めくりの土曜の如き<青>なのである   鳥羽省三 


○  早馬が着きしにあらず弛緩したメールで届くいくさのしらせ

 「早馬」は、近世までの重要な通信手段の一つであり、戦国時代などに於いては、その早馬で以って、遠くで行われている「いくさのしらせ」が届けられたことも実際に在ったに違いない。
 本作は、そうした「早馬」と、その「早馬」に替わる現代の「早馬」たる「メール」を題材にし、それに、近頃アメリカ人などがその主役となって頻繁に起している戦争の話題なども付け加えて、現代の世相を皮肉ったものである。
 「早馬」に較べれば、「メール」という通信手段は遥かに進歩していて、その通信可能な範囲は比較にならないほど広くなり、その担い手も大衆化している。
 したがって、戦争好きな現代社会のあちこちで起きている「いくさのしらせ」が、「早馬」ならぬ現代の早馬「メール」で届くことも充分に考えられるし、現に、国家機密として厳重に報道管制が布かれている某国の辺境で頻発している「いくさのしらせ」などは、その「メール」で以って、国家首脳より先に、民間人が入手している事態となっているのである。
 そのように考えると、この一首の趣旨は単なるギャグの範囲を越えたものになり、その意味も、直前の作「アストロノーツ」とは、比較にならないほど重くて深いものとして観賞しなければならないものとなる。
 作者の貞包雅文さんは、連作中の遊びのため(或いは、繋ぎのため)の作品をたった一首で止めたのである。
 連作も五十首や三十首などの大作の場合は、気分転換のための遊び(或いは、繋ぎ)の作品が二首も三首も続くことがあり、中には、連作全体が<遊びに続く遊び>、<繋ぎに続く繋ぎ>といった弛緩した状態で終わってしまう駄作だらけの連作も在る。
 だが、本作は、連作と言ってもたった十五首の連作であり、また、本作の作者は、見せ掛けとは裏腹に、本質的には、一首で以って現代社会の世相を鋭く抉るといった内容の作品を得意としている歌人であるので、この作品は、直前の作品に続いてギャグ風の作品に見せ掛けながら、その本質は、非常に重くて深い内容を含んだ作品なのである。
 この地球上のあちこちから、「メール」で以って「いくさのしらせ」が行き交いする事態になることが充分に予測される現代である。
 某国からのグーグルの撤退は、「メール」という通信手段の敗北を示すものでは無い。
 むしろその逆で、現代の早馬「メール」で以って「いくさのしらせ」が異国に届けられたならば、国家転覆の危機をも招きかねないことを警戒した、某国為政者の短慮から起こった緊急的かつ本末転倒的事態を示すものなのである。
  〔返〕 情報の重さに耐えぬツイーターは現代社会の痩馬早馬   鳥羽省三 


○  いとけなき乙女子わたりゆく橋のかなたにおぼろ菊の紋章

 あのお嬢ちゃんの御祖父に当たるお方を国家の象徴として仰がなければならない立場の一人としては、本来は「愛子様」と敬称付きでお呼びしなければならないのでありましょう。
 でも、過ぎし年の彼女の通学校での運動会に於けるリレー選手としての彼女のご奮闘振りが余りにも健気で可愛らしいものであったから、私は、彼女のことを「様」付きで呼ぶことは止めにしようと思う。
 そして、愛子ちゃん、いや、事の序でに「子」も取って、単に「愛ちゃん」と呼ぶことにしようと思う。
 私は、この一首を目にした瞬間、在ろうことか、あの健気な<愛ちゃん>が、通学校での手痛い虐めに遭遇し、一人だけ教室を逃げ出し、守衛さんの手を振り切って校門を潜り抜け、校外に出て、涙を堪えながらとぼとぼと自宅の門前の二重橋を渡って行く様を想像してしまった。
 その門には、あの御一家の象徴である「菊の紋章」が刻されているのだが、涙で曇った<愛ちゃん>の目には、それが「おぼろ」にしか見えないのである。
 この鈍感な私に、そういった非現実的な想像を許すのは、本作の持っている緊迫した現実感である。
 人によっては、本作のテーマを、たちの良くないブラークユーモアと捉える向きもありましょう。
 しかし、その<ブラックユーモア>のブラックの度合いが余りにも大きい時には、それを<ブラックユーモア>を越えた、ヒューモア劇の傑作として捉える人も居りましょう。
 私は、そうした人の一人なのかも知れないが、作者の向けた鉾の先に在るのは皇室制度なのかどうかは私にも判らない。
  〔返〕 卓球とテニスとモーグル我が姉と 君ら「愛ちゃん」いずこにも居て   鳥羽省三


○  観覧車まわれよまわれモノクロのハリー・ライムが笑ってやがる

 詠い出しの「観覧車まわれよまわれ」は、本作の作者ご自身も所属する「塔短歌会」の幹部同人である栗木京子さんの初期の代表作「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生」から剽窃したものである。
 だが、本作の内容のほぼ全体は、1950年度の<アカデミー賞>及び19490年度の<カンヌ国際映画祭大賞>を受賞した往年の名画『第三の男』に取材している。
 作中の「ハリー・ライム」とは、名優オーソン・ウェルズが出演して話題となったこの映画の登場人物であり、映画の題名となった「第三の男」とは、この人物を指すのである。
 この人物は、主役・脇役という区別からすると脇役の一人に過ぎないが、この映画の中では、ジョセフ・コットン扮する主役のホリー・マーチンス以上の存在感を示し、映画の題名にもなった主要人物である。
 下の句に「モノクロのハリー・ライムが笑ってやがる」とあるが、彼<ハリー・ライム>は、この映画の中で主人公の<ホリー・マーチンス>に向かって、「スイスの同胞愛、そして五百年の平和と民主主義はいったい何をもたらした? 鳩時計だよ」という名セリフを吐くのであるが、このセリフと「モノクロのハリー・ライムが笑ってやがる」とを考え合わせる時、その表現の深みが明らかになり、短歌作者としての貞包雅文さんのレベルに驚嘆せざるを得なくなる。
 この映画の舞台は、第二次世界大戦後、米英仏ソの四ヶ国による四分割統治下にあったオーストリアの首都ウィーン。
 そのウィーンの名物の大観覧車の中で、主人公のホリー・マーチンスは、死んだはずの親友・ハリー・ライムの姿を見かける。
 そこで、追いかけるホリーと逃げるハリー。
 やがて逃げるハリーは、大戦後のウィーンの貧しさを象徴する地下下水道の中に逃げ込んで行く。
 そこで、追いかけるホリーもまた、その地下下水道に入って行く。
 地下下水道の中に、逃げる者と追いかける者との靴音が響く。
 追いかける者と追いかけられる者は旧友である。
 その靴音にかぶさるようにして、アントン・カラスの演奏するツィターの音が物悲しく鳴り響く。
 再度言うが、下の句の「モノクロのハリー・ライムが笑ってやがる」が宜しい。
 「モノクロの」は、単に、この映画が「モノクロ」映画であったことを説明しているのではない。
 主人公のホリー・マーチンスにとっては、親友だったはずのハリー・ライムという存在そのものが「モノクロ」なのである。
  〔返〕 株の値よあがれよあがれユニクロの柳井正が笑ってやがる   鳥羽省三


○  クラスター爆弾(ボム)が炸裂する朝ぼくらは蝶のはばたきを聞く

 主題は「戦争と平和」である。
 深読みすれば、その「朝」に「ぼくら」が聞いた「蝶のはばたき」は、「クラスター爆弾が炸裂する」予兆なのかも知れないし、余韻なのかも知れない。
 この一首に接して、どこかの国の総理大臣の弟の趣味が「蝶」の蒐集で、その趣味を通じて知り合った「友だちの友だちがアルカイダである」という旧聞を思い出した。
  〔返〕 長崎にピカドンが落ちたその刹那 蝉はいつものように鳴いてた   鳥羽省三
      広島にピカを落とした飛行士がいつも着ていた擦れた革ジャン      々     


○  赤錆びし物見櫓の鉄塔にのぼれば見ゆるわれを焼く火が

 「赤錆びし物見櫓の鉄塔にのぼれ」た者とは、生きている者である。
 その生きている者の目に「われを焼く火」が見えるはずが無いから、この一首は、「赤錆びし物見櫓の鉄塔」という、前時代の象徴のような物を目にした瞬間、その余りの荒涼とした感じに驚いて、「あの赤錆びた物見櫓の鉄塔にのぼれば、この自分を焼く業火が見えるはずだ」と、直感的に感じたのであろう。
  〔返〕 赤錆びた火の見櫓に登ったら不知火海の漁り火が見ゆ   鳥羽省三

 
○  反戦歌とうに忘れてかき鳴らすギターのついに鳴らぬ一音

 「反戦歌」の流行が終末を遂げようとしていた頃の巷には、<カレッジフォーク>と称する、人参や玉葱が腐れて行く時に発する音のような、匂いのような、生ぬるく臭い歌が流行していた。
 あの生ぬるく臭い歌どもの伴奏をする時に「かき鳴らすギター」には、「ついに鳴らぬ一音」が在ったのであろうと、今にして私はつくづく思う。
 本作の作者もまた、この私と同じ思いなのでありましょう。
  〔返〕 マイク真木・ガロに森山・フォークルにカレッジフォークの聴くに耐えなさ   鳥羽省三
 

○  向日葵の種がひとつぶあれば良い握り拳の中の荒野に

 人も知る、寺山修司の「一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき」を典拠とした作品である。
 <本歌取りの歌>と呼ぶには、余りにも寺山に付き過ぎているし、かと言って、模倣歌とも言えないし、歌詠み上手の貞包雅文さんの作品としては、何ともかんとも評言に困る、実に始末の悪い作品である。
 いっその事、<無くもがな>の作品とでも述べておきましょうか?
 著名な歌に寄り掛かった、こうした作品を自分の作品として作る場合の最低の条件としては、典拠となった作品に無い独自な要素を、一点だけでも良いから自分の作中に盛り込むことである。
 本作には、寺山の作品に在って本作に無い魅力は沢山在るが、本作に在って寺山の作品に無い魅力は、ただの一点も無い。
 それでも尚かつ、作者としては、「ひとつぶあれば良い」や「握り拳の中の荒野に」辺りを寺山作に無い要素として、自信を持って創り、自信を持って発表されたのでありましょうが、一読者としての私の立場で言わせていただければ、それは作者ご自身の自己満足、自己欺瞞に過ぎないと思われるのである。
  〔返〕 無くもがな在らずもがなの歌も在りそれのみ惜しむ「鳴らぬ一音」   鳥羽省三


○  ありあけの月まなうらにとどめつつついに空席のまま父の椅子

 本作に関しては、短歌誌「百合の木」の<代表>たる塘健氏が、同誌に卓越した評言を著していらっしゃるので、無断ながらその全文を転載させていただき、私の観賞文に代えさせていただきたい。

 シッダールタ、後のシャカは十六才で結婚する。妻の名はヤソーダラ。二十九才の時に第一子が誕生し、彼はその子にラーフラ(悪魔)の名を与へ、そして妻子を捨てて家出する。妻子を捨てたシャカは生老病死からの自己解放、すなはち悟りを目指す。捨てられたラーフラ(悪魔)にとって、父は永遠の不在であり、空席であった。         (転載終り)

 作者が僧籍に在られることを考慮して、仏教の祖・釈迦の事績を作中の表現と関係付けるなど、極めて示唆に富む論評ではありますが、敢えて、一言を添えさせていただきますと、「父」の不在(空席)の背景として、「ありあけの月」を配したのは、実に見事な表現と言う他は無い。
  〔返〕 父は月 母は日にして その月の無きを照らせる有明の月   鳥羽省三 


○  踵から海になりゆく水際の君に打ち寄す無限の叫び

 「水際」に佇む「君」の「踵」を打ち寄せる波が濡らすことを、「踵から海になりゆく」と言い、打ち寄せる波の音と、「君」に寄せる作者ご自身の思慕の情を、「無言の叫び」としたのである。
 「踵から海になりゆく」という表現の、言うに言われない表現の見事さよ。
  〔返〕 眼窩から暮れ行く渚に佇みて歌はぬ君の歌を聴いてる   鳥羽省三


○  無果汁のジュースの甘さ嘘っぱちだらけのまるでぼくらのように

 「無果汁のジュースの甘さ」とは、ただ単に売らんがための「甘さ」であり、ただ単に飾らんがための「甘さ」である。
 僧侶であり、教師であり、歌人であり、人間である本作の作者・貞包雅文氏と言えども、時に無意識に、時に意識しつつ、「無果汁のジュースの甘さ」のような笑みを顔面に湛えることがあるに違いない。
 「嘘っぱちだらけのまるでぼくらのように」という下の句の措辞が目に耳に胸に痛い。
  〔返〕 戦時下の八紘一宇を思はせて亜細亜に広がる味の素かも   鳥羽省三  

あなたの一首(貞包雅文さんの作品・其のⅠ)

2010年04月14日 | あなたの一首
 「あなたの一首」と言いながら二首も三首も、時と場合によっては十首も二十首も採り上げてしまうのが私の悪癖である。
 いや、一応はしおらしく「悪癖」などと言ってはいるが、その実は、悪癖どころか親切心だと思っているから、「切り裂き」の被害者たる作者としてはたまらないのであろう。 
 これから私があれこれと申し述べようとする短歌の作者・貞包雅文さんは、私とは一面識も無い方であり、一言の会話を交わしたことも無い歌人である。
 私が彼の作品に注目し、それについて触れさせていただこうという気持ちになったのは、今年の初春に佐賀市にご在住の歌人・今泉洋子さんからご恵送いただいた短歌誌「百合の木(2008・第9号)」に掲載されている、「鳴らぬ一音」というタイトルの十五首の連作を読んだことが発端である。
 私は、その連作に接して大いに感銘を受け、それについての感想をこのブログに書かせていただこうと思ったのであるが、その前に、その作者についての予備知識を仕込んでおこうと思い、インターーネットのあちこちを検索したところ、彼についての若干の知識と共に、その作品として、下記の数首を読むことが出来たので、ひとまずはそれらについての感想を述べさせていただこうと思う。


○  新しき物語その胎内に抱きてしずか産院の午後

 佐賀県白石町が主催して行っている「歌垣の里しろいし・三十一文字コンクール」に於いて、平成十五年の「歌垣賞」を受賞した作品であるが、本作の作者・貞包雅文さんは、その後、そのコンクールの選者の一員としてご活躍中とか。
 若者たちの独身志向が増大し、我が国の先行きが危ぶまれている昨今であるが、そうした中で、自らの「胎内」に新しい生命を宿して「産院」を訪れる若い女性が居るが、そうした女性の胎内に宿った新しい命と産院の雰囲気に取材して詠んだ作品である。
 表現上の優れた点を指摘すれば、母親たる女性の「邸内」に宿っている尊い生命を、その将来まで展望して「新しき物語」と言い切った隠喩の働きが、この一首のポイントと言えようか。
 その「新しき物語」が、一旦、母親の「胎内」から生まれ出た後にどのような展開を遂げるのかについては、胎児やその母親をも含めて、今のところはこの世の誰にも分からないのである。
 彼を巡っては、この世界、いや、この宇宙に大きく羽ばたいて行くといったような偉大な「物語」が展開されるかも知れないし、それとは全く逆の「物語」が展開されるかも知れないのである。
 それ故に、「新しき物語」の主人公たる胎児の母親も、それを見つめている作者も、その「物語」の順調なるを祈るしか無いのである。
 そうした期待や不安、或いは祈るような気持ちとは別に、彼らを容れたその「産院の午後」は、今のところは全く「しずか」なのである。
 その静寂の中で、新しい命の息吹きを感じ、その「物語」の実り多かれと感じている作者の姿を彷彿とさせる一首である。
  〔返〕 はぐくめる母の祈りのそのままに大きく育て汝が物語   鳥羽省三 
  

○  皺あまた迷路のごとく混じり合う脳の模型を見つつかなしき

 本作及び次の作品は、「佐賀県文学賞2003年・第41回作品集」なる冊子に掲載された作品とか。
 作者の貞包雅文さんは、佐賀県神崎市千代田町に在る浄土宗の名刹「浄覚寺」の住職であり、『後期唯識学論書に於ける″外小破″の研究 <成唯識論>と<大乗広百釈論>を中心として』というタイトルの、私たち俗人には到底理解し得ないような仏教哲学関係の論文をも著している仏教学者でもあるのだが、本作の観賞に当たっては、そうした知識も少しは必要なのかも知れない。
 作者が、題材となった「脳の模型」を目にしている場所は何処であろうか? 
 インターネツトで接した情報によると、貞包雅文さんは、かつて佐賀県内の高校の教員を務めていらっしゃったということであるから、もしかしたら、その場所は、作者ご自身の勤務先の高校の生物準備室であるかも知れない。
 「皺あまた迷路のごとく混じり」合っている「脳の模型」を目前にしながら、作者は、そうした「脳」を持った人間の一人である自分という存在に、ある種の<やりきれなさ>を感じ、<かなしさ>を感じているのである。
 自分という存在のどういう点が、彼に<やりきれなさ>を感じさせ、<かなしさ>を感じさせたのであろうか?
 「脳の模型」に「皺」が「あまた迷路のごとく混じり合」っているように、作者の生存や人生にも、多くの「皺」が在り、その「皺」は「迷路のごとく混じり合」っているのである。
 僧職も教職も一口に<聖職>と言われているが、その聖職に身を置きながら、彼は身過ぎ世過ぎのために銭勘定もしなければならない。
 生徒や保護者、死者やその遺族の立場に立って仕事をする聖職者を標榜しながら、結局のところ、彼の為していることは、自分自身や自分の家族の生活を維持するための仕事に他ならない。
 そうした理想と現実との違いが彼の心に刻まれた「皺」なのであり、彼の踏み迷ってしまった「迷路」なのである。
  〔返〕 時折りは脳の模型のそれに似て気働きする心の皺よ   鳥羽省三 


○  半島の歴史学べば黒々と濃さを増しゆく”恨”の一文字    (同上)

 作者が教職に在った頃の専門は「世界史」なのかも知れない。
 「黒々と濃さを増しゆく”恨”の一文字」という措辞が、強烈であり、印象的でもあるが、その「”恨”の一文字」が、他ならぬ作者もその構成員である<日本>及び<日本人>に対する「恨」であることを思うと、教壇に立ってそれを教える立場の者としての作者は、安閑としては居られないのである。
  〔返〕 その「恨」を辿れば遠き三韓の新羅を攻めし神功皇后   鳥羽省三


○  洋梨のくびれを器用に剥く人と通りすがりの雨を見る午後

 結社誌「塔」の二千七年の九月号に掲載された作品中の一首とか。
 「洋梨のくびれを器用に剥く人」という表現は、聖職に在る者に相応しからぬ隠微で怪しい観察眼の証明であり、その女性(にょしょう)と共に「通りすがりの雨」を見た「午後」の記憶は、その後永く作者の脳裡に残っていて、ある時は、仏教者としての彼の修業の妨げとなり、ある時は、歌人としての彼の心を潤していたに違いない。
 私は、この一首から『にわか雨』というタイトルの短編小説を創作するヒントを得たので、今ここに、その梗概を示すと次のようなものである。
 「<虹の松原>を散策して数首の短歌を詠み得た後、唐津の街に入った途端に突然のにわか雨に見舞われた。そこで、雨傘の一本も拝借しようと思って、知り合いの唐津焼の仲買業者の店の扉を開けた。するといきなり、『いらっしゃいませ。おや、鳥羽さんではございませんか。長らくのお見限りでございましたね。主人ですか。あいにく主人は、この雨の中を軽トラであちこち跳び回っておりますが、ここにこうして私という者がおりますよ。なに、私では不足なんですか。この私を恐がって、鳥羽さんはこの雨の中を逃げ出そうとなさるんですか。それは余りにもにもつれないというもの。そんな所でもじもじしてないで、なんでしたら、お上がんなさいましな。雨傘はお貸し出来ませんが、お昼寝の膝ぐらいはお貸し出来ましょうから』と立て板に水の如き歓迎の言葉に見舞われた。そうした次第で、怖々曰く付きの年増女房の家の居間に上がり込んだ私であったが、その女房は、それまで自分の敷いていた三階松の座布団をさらりと裏返しにして私に無理矢理敷かせると、どこから持ち出して来たのか分からなかったが、右手にみるからに鋭そうな包丁を持ち、左手に胴中のくびれた洋梨を持って、すらすらと鮮やかに、その洋梨のくびれた辺りを剥いているのだ。その手さばきの鮮やかなこと。それを目にした瞬間、私は、去年の<唐津おくんちの夜>に、主人の留守を狙ってこの家を訪れた私の下帯を解く時の、この女房の手さばきを思い出し、その後に展開された房事の際に目にした、この女房のくびれた腰回りをも思い出してしまって、思わずあそこを堅くしてしまったのだ。危ない危ない、今度あのようなことになってしまったら、あの鋭利な包丁で、私の大事なものはちょん切られてしまい、<とんだ色男よ>と、佐賀新聞の記事にされてしまうだろう。あの女は二代目<阿部定>なのだ。<君子危うきに近寄らず>と、一瞬逃げ出そうとして腰を浮かしたのであるが、時すでに遅く・・・・」といったことになる。
  〔返〕 洋梨のくびれを器用に剥く人の腰のくびれを解いてみたし   鳥羽省三


○  会葬の人もまばらな斎場に落ち目の歌手のごとく経読む
 
 結社誌「塔」の二千九年・一月号に掲載された作品中の一首である。
 この作品については、私にこの作品の存在をお示し下さった、鬼才・黒田英雄氏が、ご自身のブログに掲載している卓越した観賞文が在るので、先ずはそれを、黒田英雄氏のご許可を得ないままに転載させていただき、その後、拙い私見などを述べさせていただきましょう。

 一読、大爆笑した。作者の職業はおそらく僧侶であろう。確かに、読経というのも、僧侶にとっては歌かもしれない。そして彼らも、会葬の人数が多ければ、気合を入れて歌うだろうし、あまりお客がいないときは気合が入らないのだろう。なんせ、そのメインイベントの主役は、はなから聞いちゃいないのである(笑)。下句の直喩がめちゃくちゃおかしい。僧侶の歌、っていうのも珍しいよな。ぜひこの作者には、こういう歌をどんどん作っていただきたい。同じ作者の、「しろがねの髭ふるわせて爵位など持っていそうな太い猫行く」も抜群にいい。(引用終り)

 アンギラス流のくだけた表現の中に、言うべきことは全て言い尽くしているような感じの文章である。
 この一首の観賞としては、この一文で充分なのであるが、今の私の立場で、敢えて、言葉を添えさせていただくとすれば、本作の作者が、「会葬の人もまばらな斎場」にて為したご自身の読経を、「落ち目の歌手のごとく」とネガティブに捉えているのは、黒田英雄氏のお述べになって居られる理由に加えて、文学を志す者としての、歌人としてのご自身の、仏教に対する身構え方、特に「葬式仏教」と呼ばれる、我が国の仏教の在り方に対する貞包雅文師ご自身の厳しい姿勢の反映とも思われるが、その点については、何よりも作者ご自身にお聞きしなければならない。
 作者に対して失礼にならない程度に私見を申し述べれば、貞包雅文さんは、僧侶としてのご自身と、歌人としてのご自身とのバランスを、適当に計りながら日々をお過ごしになって居られる、そこそこの<生臭坊主>なのではないだろうか、と私は拝察する。
  〔返〕 洋梨のくびれの如き腰を抱き時には歌手の真似などもする   鳥羽省三 


○  しろがねの髭ふるわせて爵位など持っていそうな太い猫行く

 そこそこの<生臭坊主>貞包雅文師ならではの観察眼と表現である。
 その「太い猫」が「爵位など持っていそうな」らば、貞包雅文師もまた、権大僧正ぐらいの僧位と文学博士という称号ぐらいは持っていそうな感じである。
  〔返〕 しろがねの髭ふるはせて歌ふとき腰のくびれを揺りつつぞ笑む   鳥羽省三 「歌ふ」のは貞包雅文師、「笑む」のは、あの「洋梨のくびれを器用に剥く人」である。
 

○  野に置かれし故に誰にも拝まれぬ野仏本読むごとくに静か

「毎日歌壇」の河野裕子選に入選し、二千九年四月二十二日の毎日新聞朝刊に掲載された作品とか。
 この作品については、私に貞包雅文さんの作品を注目させる発端をお作りになって下さった今泉洋子さんが、ご自身のブログ「SIRONEKO」に、次のような一文をものされておられるので、先ずはそれを引用してみよう。
 以下の一文を、無許可のままに引用することをお許しになられるに違いない、今泉洋子さんには篤く篤く御礼申し上げます。
 
 去年から、お付き合いで佐賀新聞に短歌を投稿するようになった。
 4人の選者に二人ずつ隔週で選をしていただいている。ことし四月から園田節子氏にかわり貞包雅文氏が選者になられた。
 貞包氏もこの文芸欄に永らく投稿されていた。私も彼の作品を読むのが 愉しみだった。初期のころは、高校の先生をされていて生徒のことを詠んだ歌も多かったと記憶している。 その後も文芸欄ではきらりと光る存在で、彼の作品を読んで、それに憧れて投稿をはじめた人もいたくらいだ。
 16~7年間位だろうか今年三月まで投稿されていた。他の三人の選者の先生と同様に丁寧な選をされて、丁寧な評を書いていただいている。
 先日お会いしたときに選の舞台裏を根掘り葉掘りお尋ねしてみたが、色々気を使われていて想像を絶するものだった。いい歌を投稿しなければと思った。  
 佐賀新聞は三席まで評が頂ける。
      (中略)
 貞包氏の歌が読めなくて寂しいと思っていたら10月22日の毎日新聞の河野裕子選に入選されていた。久々に貞包氏の作品が読めてうれしかった。
   ☆  野に置かれし故に誰にも拝まれぬ野仏本読むごとくに静か   (引用終り)
 
 今泉洋子さんの一文に、付け加えるべきものは何物も無いのであるが、敢えて一言申し添えるならば、この作品は、僧俗を巧みに使い分けていらっしゃる貞包雅文さんの作品に相応しく、「野に置かれし故に誰にも拝まれぬ野仏」の湛えた<静寂>を、「本読むごとくに静か」とした直喩が効いている。
  〔返〕 野に置きし故に言葉を発し得ぬウルフの如き少年の眼よ   鳥羽省三


○  約束は果たされぬものしろがねのバターナイフが一瞬陰る  

 結社誌「塔」の二千九年・六月号に掲載された作品とか。
 「洋梨のくびれを器用に剥く人」が、この度は、「しろがねのバターナイフ」を手にとっているのであろうか?
 その「バターナイフ」が何かの拍子に「一瞬陰る」のであるが、それは、この年増女房との「約束」を未だ果たしていない、作者ご自身の被害感によって生じた幻視なのかも知れない。
  〔返〕 約束は果たすべきものくろがねの刺身包丁一瞬光る   鳥羽省三


○  感情の沸点なかなか見せぬなり真中朋久理系のゆえか   
 
 結社誌「塔」の二千十年・三月号に掲載された作品とか。
 「真中朋久」氏と言えば、<塔短歌会>同人中有数の理論家として知られている。
 本作は、その「真中朋久」氏の論評文の冷静さを称揚したものであろう。
  〔返〕 詠風の軽さを時折り見せたふり貞包さんは歌詠み巧者   鳥羽省三

あなたの一首(ひいらぎさんの作品)

2010年04月10日 | あなたの一首
○  幼子を成長させてゆくらしい絵本とボールと冬の陽だまり   ひいらぎ

 第十回「歌垣の里・白石─三十一文字コンテスト」に於いて、目出度く「一般の部・秀作」に選定された、ひいらぎさんの快心の作である。
 ひいらぎさん、おめでとうございます。
 この快挙を、私は心からお喜び申し上げます。
 そして、嫉妬も少々。
 私は、たまたま開いたひいらぎさんのブログでこの報に接し、急遽、「歌垣の里・白石─三十一文字コンテスト」のホームページで、その事を確認したばかりであるが、同コンクールは、著名な歌人の塘健氏らを選者として、佐賀県白石町の主催で行われる短歌コンクールであり、第十回の今年は、「愛」をお題として日本全国から、数多くの作品が寄せられたとのことです。
 この作品について、作者御自らがご自身のブログで、「我が子の成長を詠んだ歌です。/つい最近まで絵本を読んで聞かせていたのに、気が付けば、一人で読めるようになっています。/息子もサッカーを始めようと考えているみたいで、自分からお父さんをボール遊びに誘ったり。/知らない間にどんどん大きくなっていくなぁ…と感じます。/子供の成長を思うときに、温かな穏やかな陽だまりのイメージでした。/辛いことも沢山あったとは思うのですが、今、目の前で笑ってくれる子供達を見ていると、たいしたことなかったと思えます。/でも息子はただ今、反抗期(いや、ずっとかも!?)/まだまだ大変なことが待っていると思いますが、私自身も、冬のひだまりみたいに優しく温かな気持ちで子育てしていきたいなぁと思います。」と、そのお喜びのお気持ちを語っていらっしゃるが、その文章は、他に代え難い、本作の解説となっていると思われますので、これ以上の詮索は無用と思います。
 この作品は、作者・ひいらぎさんのご本名で発表されたものでありますから、本来ならば、作者欄に、そのご本名を記すべきでありますが、この場はあくまでも、「題詠2010」の投稿作の批評を中心とした場であり、私とひいらぎさんとのお付き合いも、「題詠2010」への参加者同士という関係に過ぎませんので、この際は、本作の作者名を、敢えて「ひいらぎ」さんとして掲載させていただきます。
 その旨、お許し下さい。
 ひいらぎさんには、重ね重ねおめでとうございます。
 お祝いと申し上げるよりは、お笑いに私も一首、唱和させていただきます。
  〔返〕 パチンコとお酒と煙草それに妻 駄目な亭主を更に駄目にす   鳥羽省三

あなたの一首(今泉洋子さんの作品)

2010年03月13日 | あなたの一首
○  雛だして空になりたる桐箱にそつと仕舞へり春の銀漢   今泉洋子

 「一首を切り裂く」の執筆が、どうやら参加者の皆さんの投稿スピードを追い越しているようだと感じたから、その番外編として「一首を切り裂く(自作自注・其のⅠ)」を書いてみた。 
 それでも時間が余ったから、それに続いて参加者の方々のブログにお邪魔してみた。
 すると、最近、お年のせいか「題詠blog2010」への投稿速度がめっきり衰えたような感じの今泉洋子さんのブログ中で上記のような作品をお見かけした。
 そこでこの際は、遠慮も会釈も忘れて、是を「みなさんの一首」として取り上げさせていただいたのである。
 この作品は<凄い>作品である。
 手元の『大辞林』の解説に拠ると、<凄い>という形容詞には、「①驚きで息が止まりそうになるほどに恐ろしく思う。気味が悪い。ものすごい。」「②常識では考えられないほどの能力、力をもっている。群を抜いている。並はずれている。」「③恐ろしいほどすぐれている。ぞっとするほどすばらしい。」「④程度がはなはだしいる」「⑤ひどくものさびしい。ぞっとするほど荒涼としている。」などといった意味が在るようだが、この作品から感じ取れる「凄さ」は、「①②③④」の意味の「凄さ」であることは勿論だが、「⑤」の「ひどくものさびしい。ぞっとするほど荒涼としている。」という意味での「凄さ」でもあるようだ。 
 この作品は、作者ご秘蔵のお雛様の写真の解説文の末尾に付されたものであるので、その解説をそのまま引用させていただきたい。 

 立春になると、すぐお雛様を出すようにしている。
 五段飾りなので、段を組み立てるのと、小道具を設置するのが少し時間がかかる。
 桃の節句には、お雛さまと桃を飾り桃の呪力で穢れを祓う伝統ある行事なので毎年立春から、4月3日(こちらでは一月遅れでお節句をする)まで飾っている。
 そのころに 桃が満開になる。
 有職雛より木目込みが好きで、真多呂の「永寿雛」と言うのを知人に作ってもらったので、大切にしている。
 保存にも気を使い、白い手袋をして出し入れをしている。
 樟脳も天然の樟脳を作っている所が、日本で1箇所だけ、(世界でも1箇所だけだろう)瀬高にあるので、そこで買っている。
 化学製品の樟脳と違うところは、身体にやさしいのと、香りが自然でいつまでもの残らないところが気にいっている。
    ☆ 立春の響きに揺られ雛(ひひな)出すわが衣手に樟香りつつ
    ☆ 雛だして空になりたる桐箱にそつと仕舞へり春の銀漢

 以上の通りであるが、解説文の末尾に置かれた二首の歌の中では、一首目よりも二首目が断然優れている。 
 一首目の歌も駄作として退けなければならないような歌では無く、これはこれで佳作なのであるが、二首目の歌が「驚きで息が止まりそうになるほどに恐ろしく思う」「群を抜いている」「恐ろしいほどすぐれている」「程度がはなはだしい」と言える程の傑作であるだけに、それよりはかなり見劣りがし、「ひどくものさびしい。ぞっとするほど荒涼としている」などといった意味の「凄さ」などは全く感じられない。
 そこまで申し上げて、それ以上のことを申し上げないのも失礼かと思われるので、ことの序でに、一首目の作品から感じる私の不満点を全て申し上げると、その作中の四、五句「わが衣手に樟香りつつ」に、私はある種の嫌らしさを感じるのである。
 作者の今泉洋子さんは、和服を普段着となさっていらっしゃるお方だと拝察され、お雛様用の桐箱に入っていた「樟脳」も「天然の樟脳」であるから、「わが衣手に樟香りつつ」という四、五句の措辞には何一つ嘘偽りも無いのでありましょうが、そうと存じ上げてはいても、やはり其処に感じる嫌らしさを退けるまでには至らないのである。
 もう一点申し上げると、一、二句の「立春の響きに揺られ」も何か作り事めいた感じがし、三句目の「雛(ひひな)出す」についても、それにわざわざ括弧まで付けて「(ひひな)」と振り仮名を付したことも余計なことだと感じられるのである。
 それにしても、<ぞっとするほど素晴らしい>のは二首目の作品である。
 「雛だして空になりたる桐箱にそつと仕舞へり春の銀漢」。
 「真多呂の『永寿雛』」出して「空になりたる桐箱」に「春の銀漢」をそっと仕舞う時、本作の作者は、必ずや<低温火傷>を負ったに違いない。
 その「春の銀漢」の体温は、零下数千度にも及ぶ超低温に違いないから、それに直接手を触れ「桐箱にそつと仕舞」った作者の掌には、永久に消えない低温火傷痕が捺されたに違いない。
 その低温火傷痕は、恰も宗門の徒の額に捺された十字架のようなものであったに違いない。
 この一首から、私が「ひどくものさびしい・ぞっとするほど荒涼としている」という意味での「凄さ」まで感じるのは、私がそうした点に着目したからである。
 この傑作に対応し得るような返歌を付けるような余裕を、今の私は持ち合わせていない。

あなたの一首(浦部昭二さんの作品)

2010年01月29日 | あなたの一首
○  夜となりて家にふき入る田の風は咲きかかる稲の花の香のする     浦部昭二

 浦部昭二さんが、この一首で以って毎日歌壇賞を受賞されてから、いったい幾年経ったのだろうか。
 選者は、佐藤佐太郎氏だと言う。
 この度、第二歌集「清陰」を上梓なさるに当って、浦部昭二さんは、その著の扉に流麗なる変体仮名でこの作品をお書きになられた
 その筆文字の見事さもさること乍ら、私などが逆立ちしても敵わないと思われてならないのは、「歩道」など、写実系の伝統ある結社で、長年に亘ってご研鑽を積まれた、先輩歌人たちの<悠裕迫らぬ>といった詠風の作品なのである。 
 本作なども、そうした作品のひとつでありましょう。
 もう一度、読誦してみよう。
 「よとなりて/いへにふきいる/たのかぜは/さきかかるいねの/はなのかのする」と、四句目が一字の字余りであるが、その字余りさえも、この悠々たる一首に、魅力を添える役割りを果たしているとも思われるのである。
 上の句に「夜となりて家にふき入る田の風は」とあるが、「田の風」、つまり家の周囲の田圃の稲株の間から湧き起こる風は、昼間も吹いてはいるのだが、特に夜に入ってからは、一層涼しさを増して家の中にまで吹き入り、本作の作者をして、「ああ、我が家の周りの田圃に湧いた風が、この家の中にまで吹き入って来て、今夜はなんと涼しいことよ」と実感せしめるのである。
 その夜風に運ばれて、作者の家の中には、夜風の匂いとは異なる何かの香りが吹き入って来る。
 それは、「咲きかかる稲の花の香」である。
 その「咲きかかる稲の花の香」とは、一体どんな「香」でありましょうか?
 それは、生き生きとして<生>の香りであり、青々とした<命>の香りであるが、もっと端的に言うならば、それは、年若い男性の体内から排出される、あの<精液>の生々しい香りなのである。
 夜風と共に家の中に吹き入って来る、その生々しい香りを嗅ぎながら、本作の作者は、今日一日の労苦を思い、今年の稲作を思い、そして、もう既に盛りを過ぎた、ご自身の命をも思うのである。
 「咲きかかる稲の花」の全てが、結実して<お米>となる訳ではない。
 平年でもその何割かは結実しないままで終るが、年によっては、そのほとんどが未成熟のままの<お米>、いわゆる<粃(しいな)>になってしまうこともあるのである。
 本作制作時の作者の職業は、農業共済組合の職員であった。
 そのことを考慮すると、本作は豊作祈願の祈念の歌とも解されましょう。
 視覚、聴覚、嗅覚に加えて、味覚さえも駆使してお創りになられた、浦部昭二先生の御作に、この私は、十分に堪能させて頂きました。
     〔返〕 夜に入りて吹き入る稲の花の香に良き秋なれよと祈る浦部氏     鳥羽省三

あなたの一首(伊倉ほたるさんの作品)

2010年01月28日 | あなたの一首
○  百葉箱の白いペンキのささくれが六年生の夏連れ戻す     伊倉ほたる

 本作の作者・伊倉ほたるさんは、「題詠2009」に参加されていた三百名余りの歌人の中で、私の<イチオシ歌人>の一人であった。
 その<ほたるさん>が、この度、NHK全国短歌大会の今野寿美選で<秀作>に選ばれ、
河野裕子選の<佳作>にも選ばれたと言う。
 伊倉ほたるさん、真におめでとうございます。
 <ほたる>という、テレビドラマのヒロインめいたお名前が、ハンドルネームでは無くて本名だということや、姓が<伊倉>だと言うことも今回初めて知りました。
 私はこれまで、伊倉ほたるさんに関する情報を「題詠2009」に投稿されている作品以外に何ひとつ持たない状態で、その作品から受けた感想などを、時には戯作風にポイントを故意に外して、時には本音を少しちらつかせて、その時々の感情や気持ちの赴くままに書き散らして参りました。
 そうした私の気儘な試みは、伊倉ほたるさんにとっては、ご迷惑以外の何物でも無かったでありましょう。
 しかし、私のそうした試みの根源に在るのは、一見<歌人ちゃん>や<かんたん短歌>のお仲間みたいに見える<ほたる>という存在が、他の参加者たちとは、ひと味もふた味も違うという気持ちであり、伊倉ほたるさんのセンスの素晴らしさをこの上なく愛する気持ちなのです。
 これが私の短歌観であり選歌眼であるとしたら、今回のNHK全国短歌大会の受賞で以って、私のそうした短歌観なり選歌眼が、評者・鳥羽省三の独り善がりのものでは無かった、ということが証明されたことにもなりましょう。
 重ね重ね「おめどとう」と申し上げたい気持ちです。
 さて、本論に入りましょう。
 本作の眼目は、三句目の「ささくれが」の「ささくれ」でありましょう。
 その「百葉箱の白いペンキの」「ささくれ」が、今は、彼のハイカラ紳士・ウクレレ氏をして、「誰だこの素敵で上品な女性は?」と思わしめた伊倉ほたるさんを「六年生の夏」に連れ戻し、「六年生の夏」を伊倉ほたるさんの心の中に「連れ戻す」のである。
 最終句中の複合他動詞「連れ戻す」については、「その主語や目的語が曖昧だ」などと、選者の間で多少の議論が交わされたかとも思われ、或いはその曖昧さ故に、本作が<特選>では無く、<秀作>に終わったかとも思われるのですが、そのような論争は、短歌知らず、文法知らずの馬鹿者どもに言わせておけばいいことでありましょう。
 それよりも、何よりも、この一首について、もっともっと深く詮索し、もっともっと強く拘泥しなければならないのは、やはり「ささくれ」の一語でありましょう。
 私は、高校の教壇歴三十五年の教員の成れの果てであり、その間に六つの高校を歴任しましたが、どこの高校に赴任しても、玄関前の芝生や中庭などに、あくまでも白く、あくまでもお上品に、瀟洒に鎮座しているのが「百葉箱」でありました。
 「百葉箱」は高校に限らず、小学校や中学校にも必ず備え付けられており、この校倉造り風な白い箱こそ、まさしく学校教育のシンボルのような存在であったかのようにも感じられます。
 明治政府は、私たちの想像している以上に学校教育を重視しておりました。
 なかんずく、従来の日本人に欠けていた科学的な思考の涵養を重視しておりました。
 私見ですが、現在、小、中、高を問わず、凡そ学校と名の付く施設には必ず備えられている「百葉箱」とは、そうした明治以来の我が国の、科学教育を重視した教育方針の亡霊のような存在ではないでしょうか。
 其処にこそ、その内部を蜂や蜘蛛や雀の棲家とする以外には、それ程の必要性が無いにも関わらず、民主党の<事業仕分け>の対象にもされずに、あの「百葉箱」が、純白のドレスで装った貴婦人のようにして、学校施設のいちばん目立つ所に鎮座しておられる理由が存在するのではないでしょうか。
 話題が再三わき道にそれてしまうのであるが、そろそろ肝心要の「ささくれ」の話を致しましょう。
 「ささくれ」は、「百葉箱」に付き物である。
 それは、「百葉箱」がその場所に設置されてからの時間の長さから来るものでもあるが、国際的に規格の定められた<百葉箱>の材質から来るものでもある。
 全国各地、いや、地球上の各地に於いて一定の条件の下に気象観測を行うに当っては、その道具である百葉箱と言えども、一定の材質の木材で造られ、一定の品質の白いペンキで塗装された物でなければなりません。
 私たちがごくたまに学校を訪れ、白い百葉箱に触れた時に感じる「ささくれ」感は、その学校の歴史の長短に応じて多少の違いはあるが、本質的には、百葉箱の材料となっている木材やペンキに備わっている触感なのである。
 懐かしい母校の小学校を会場とした同窓会かクラス会にでも出席されたのでしょうか?
 せっかくの再会の場であり、せっかくの歓談の場であるにも関わらず、<感性の人・伊倉ほたるさん>は、その会合の賑わいの中には入り込めなかった。
 そこで、在学中に気象観測部に所属していた彼女は、その賑わいからこっそり逃れて、校庭の片隅にある、あの懐かしい、白い百葉箱にもたれて往時の記憶に耽った。
 思い返せど永遠に帰らない少女時代の記憶に耽る<ほたる>さんの指が、何気なく百葉箱の白い扉に触れた。
 その白い扉に触れた一瞬、伊倉ほたるさんのか細い指と心とは、その白い扉の材質の「ささくれ」を感受した。
 その「ささくれ」から受ける感覚は、微かで切ない痛みを伴ったものであった。
 この百葉箱の白い扉の「ささくれ」から感じる微かで切ない痛みは、つい先日、指輪を外したばかりの、伊倉ほたるさんの左手の薬指の「ささくれ」にも似て、なんと身に滲みることだろうか。
     〔返〕 ささやかな痛み抱きて校庭の百葉箱にもたれて咽ぶ     鳥羽省三

 と、以上の通り書いて、早速<公開>を及んだところ、ご案内も差し上げていないのに、作者のほたるさんから、「ありがとうございます」とのメールを頂いた。
 こちらこそ「ありがとうございます」。
 何方かの仰ったように、「読んでもらって<なんぼ>」のブログですから、お礼を申し上げなければならないのは、本当は私なんですから。
 御蔭様で、このブログの閲覧数が、昨日一挙に六百台まで上りました。
 「見沼田圃」時代はともかく、「臆病なビース刺繍」に移ってからは、いくら多い日でも、せいぜい三百台だったのですが、それが倍増するとは、<驚き桃の木ほたるの木>です。どこかの国に、<ほたるの木>というのが本当にあるんですよ。
 ところで、ほたるさんからのメールの文面に、「それから、まだ指輪は外しておりませんし、ほたるも残念ながら本名ではありません。本名は『ら』行の名前です」とありました。
 昨日の記事に、私はつい戯れに、「この百葉箱の白い扉の『ささくれ』から感じる微かで切ない痛みは、つい先日、指輪を外したばかりの、伊倉ほたるさんの左手の薬指の『ささくれ』」にも似て、なんと身に滲みることだろうか」と書いてしまったのであるが、これはこれは、冗談とは言え、大変失礼致しました。
 以後気をつけます。
 それともう一点、テレビドラマのヒロインを思わせる<伊倉ほたる>というお名前は「残念ながら本名ではありません。本名は『ら』行の名前です」とのこと。
 「ほたる」はペンネームでも、いくら何でも「伊倉」は本物でしょう。
 ごく狭い私の知識によると、「伊倉」とは、新潟県南魚沼地方によく在る苗字です。
 あの日本有数の豪雪地帯として有名、かつ「南魚沼産こしひかり」で有名、かつ「水清きほたるの里」として有名な、「日本人のふるさと」みたいな所です。
 南魚沼地方のお方で、姓は「伊倉」、名は「ら行」と言えば、私がかつて同地方に、鈴木牧之著の「北越雪譜」の現地調査に行った時、伊倉さんというお宅に宿泊させていただきましたが、そのお宅に理恵ちゃんという可愛いお孫さんがいらっしゃいました。
 本作の作者・伊倉ほたるさんは、まさかその女の子の二十年後ではありませんでしょうね、まさかね。
 それともう一点、本作に関して、大変重要なことを言い忘れておりましたが、「百葉箱の白いペンキのささくれが六年生の夏連れ戻す」という作品中の「百葉箱」とは、作者の<ほたるさん>ご自身を指すものではないでしょうか?
 「白いペンキ」で彩られていて、表面は優しく清楚で、ウクレレ氏ならずとも、「誰だこの素敵で上品な女性は?」などと思ってしまうが、少し調子づいて触れてみると、「ささくれ」立った所が感じられないでもない女性は。
 でも、表面は優しく清楚で上品な女性の心の中に、少し「ささくれ」立ったところがあるのは、その女性の魅力を倍増、三倍増させるものです。
 そして、短歌とは、そうした女性のささくれ立った部分が詠ませるものだと、私は思います。
 白いペンキが塗られているだけで、ささくれ立ったところの無い女性は、ただの白痴でしょう。
     〔返〕 ささくれも時と所と量しだい失くさぬように目立たぬように     鳥羽省三

あなたの一首(秋山周子さんの作品)

2009年11月08日 | あなたの一首
  もう用は何もない庭ローズマリー折れば香りの移るてのひら
                         秋山周子『庭の時間』より

 ご夫君が逝き、子供たちが一人立ちした後、想い出多いニュータウンの家で独居生活を余儀なくされている作者。
 亡き人と二人で造り、植樹に草取りにと、かつては一日に幾度となく下り立った庭にも、最近の彼女はほとんど下りることがない。
 だが、今朝、久しぶりに視線を庭に向けたところ、夫の生前に二人で植えたローズマリーが、あまりにも繁茂し過ぎ、いくらなんでもこのままにして置くわけにはいかないと思われ、幾日振りかに庭に下り立ってしまった。
 そして、この家の主である自分に較べれば、あまりにも元気が良過ぎ、少し心憎い気がしないでもない、件(くだん)のハーブに手を遣り、その数本を手折ったところ、自分の掌に、かの草特有の香りがべっとりとこびり付いていた。
 この香りはなんだろう。この草の香りが、私の掌に憑ったのは、この数週間、碌々庭にも下りず、夫が丹精込めて植えた庭木や草花の世話を怠った私への、復讐ででもあろうか。
 いやいや、それは考え過ぎ、怠惰な私の僻み根性から来る思い込みというものであろう。
 素直な心で嗅いでみれば、これはこれで、何と爽やかで健やかな朝の香りではないか。私も、これからは元気を出し、もう少し真面目に庭の手入れなどもしてみよう..............。

 第一歌集『渚の時間』から十年。悲しみの底から立ち上がった秋山周子さんが、この度、<ながらみ書房>から、第二歌集『庭の時間』を上梓された。
 「著者はひとり暮らしとなってニュータウンの移ろいをみつめ、亡き人や故郷の記憶をさかのぼる。しかし、その目と足はいつも現実の広い世界へとむかっている。『庭の時間』の歌々は、一人の人間の生と心の軌跡を刻んで、歳月の重みと哀しみを、豊かに味あわせる。」と、内藤明氏は、同歌集の帯文に記しておられる。
 「子が育ち夫亡き後の独居。静かで、時にもの寂しい。」と、11月8日付け朝日新聞朝刊の『朝日歌壇』の片隅に<風信>氏は記される。