[高野公彦選]
○ 月曜日ひとの少ないキャンパスを運ばれてゆくパネル「祭」「!」「!」 (鴻巣市) 一戸詩帆
この作品につきましては、当初、私は、作中の「ひとの少ないキャンパス」というフレーズに引かれたまま、「日曜日ひとの少ないキャンパスを運ばれてゆくパネル『祭』『!』『!』」という、本来の作品とは異なった形で記載させていただき、それについての、私自身の感想なども記載させていただきました。
作者の一戸詩帆様及び関係者の皆様には、大変ご迷惑をお掛け致しました。
つきましては、ここに深くお詫び申し上げると共に、この一件に関わる、一戸詩帆様からのコメント及び、それに対する私のお詫びのコメントをそのままの形で転載させていただき、併せて、誤記した形の作品についての私の恥ずかしい鑑賞文、そして、正しい形の作品についての、私の新たな鑑賞文を、ここに改めて掲載させていただきます。
読者の方々の中には、私が、こうした恥ずかしい形で、この件を処理することについて、ご理解に苦しまれるお方も居られましょうか?
しかしながら、このような、ブログ上の記載ミス及びそれに伴う関係者の方々にお掛けするご迷惑は、これからも、私に限らず、いろいろな方々の間に起こり得ることかと存じます。
だからと言って、私たちブロガーが、「文を書いたから恥をかくのだ。恥をかく事に繋がるブログ書きは止めるに如かず」とばかりに、書く事を止め、萎縮してしまったら、パルプ資源を枯渇させることを危惧されている紙媒体での発言にとって代わるべき、ブログなどのインターネット通信による発言の発展に、大きく水を射すことにもなりましょうし、私自身にとっても、関係者の皆様にとっても、敢えて大胆に申し上げるならば、これからの時代にとっても、決して得策では無い、と私は思います。
そこで、今回、私は敢えて恥を忍んで、かかる記事をこの欄に掲載させていただき、皆様にお目に掛ける事に致しました。
つきましては、何卒、私の意のあるところをご理解下さい。
本作を、「日曜日ひとの少ないキャンパスを運ばれてゆくパネル『祭』『!』『!』」という、正しく無い形で読ませていただいた結果、私が記した、当作品に対する大変恥ずかしい鑑賞文。
「日曜日」で「ひとの少ないキャンパス」内を、学生たちが<学園祭>の準備の為にやって来ていて、「祭」と書いた「パネル」を運んでいるのでありましょうが、末尾の二つの「!」「!」には、どんな意味があるのでしょうか?
また、選者の高野公彦氏は、この作品の何処に良さを認めて、入選作の首席に据えたのでありましょうか?
〔返〕 比較的人込み多い土曜日はパネル運びをしなかったのか? 鳥羽省三
上記の、大変恥ずかしい鑑賞文に関してお寄せになられた、一戸詩帆様からのコメント。
Unknown (一戸詩帆) 2010-12-01 03:39:55
はじめまして。コメント失礼いたします。
この記事の一首目を作った者ですが、この歌の初句は「日曜日」ではなく「月曜日」です。
小さなことではありますが、「日曜日」だと意図したところがほぼ通らなくなってしまうと思うので、おそれながら指摘させていただきます。
上に引用させていただいた、一戸詩帆様からのコメントに対する、私・鳥羽省三からのお詫びのコメント。
臆病なビーズ刺繍 (鳥羽省三) 2010-12-01 05:03:17
一戸詩帆 様
わざわざコメントをお寄せいただまきして大変ありがとうございました。
お申し越しの内容、「日曜日」と「月曜日」の違いは、決して小さいものではありません。
私は、ついうっかり、「ひとの少ないキャンパス」というフレーズに引かれたままに「日曜日」として記載し、そのまま、率直な感想を述べさせていただきました。
大変失礼致しました。
そこで、先の記事はそのままにしておいて、その直前に、一戸詩帆さまの正しい作品を掲載させていただき、それに付いての私自身の感想やお詫びなどを掲載させていただきます。
本来ならば、先の記事を抹消した上で、また新たに正しい作品についての感想などを述べさせていただくべきなのかも知れませんが、やがて、紙媒体にとって代わるべき、インターネット通信に、まま起こるに違いない、こうした事故及び、関係者の皆様に与えるご迷惑など、いろいろさまざま考慮させていただいた上、敢えて恥を忍んで、そうした措置を取らせていただきました。
一戸詩帆様の作品については、朝日歌壇やNHK短歌大会などにご出詠なさった作品など、さまざまに鑑賞させていただき、大変勉強させていただいて居ります。
その一戸詩帆様に、私の拙いブログをお目に掛けていることを知り、しかも今回は、私の不注意及び怠慢から大変ご迷惑をお掛けしたことをも知り、大変恥ずかしい思いに捉われて居ります。
大変失礼致しました。
また、真にありがとうございました。
曲げてご容赦下さい。 鳥羽省三
作者ご自身からの大変ありがたいお申し出に基づいて、訂正させていただいた正しい作品及び、それについての私の鑑賞文。
○ 月曜日ひとの少ないキャンパスを運ばれてゆくパネル「祭」「!」「!」 (鴻巣市) 一戸詩帆
作中の曜日が、<日曜日>や<土曜日>では無く、「月曜日」である事には、くれぐれも注意しなければならない。
作品鑑賞には不可欠な、当該作品の正しい引用を怠って、それに係る鑑賞文を記し、作者及び関係者の皆様に多大なるご迷惑をお掛けした上、万天下に恥を曝した、何処かのB級評論家気取りの老いぼれの轍を踏むようなことは、決して在ってはならないことだと、厳に思われるのである。
ウィークデーたる「月曜日」なのに、何で「キャンパス」には「ひと」が「少ない」のでありましょうか?
老獪と申し上げたら、真に失礼申し上げることになりましょうが、ご年齢は未だ妙齢とは拝察申し上げますが、短歌を詠ませたら、平成の和泉式部と申し上げても宜しいような老獪な作者は、本作の詠い出しを、先ず「日曜日」とせずに、「月曜日ひとの少ないキャンパスを」とすることに拠って、私たち読者を困惑させ、私たち読者を強引かつやんわりと作品世界に導き入れるのである。
本作を入選作首席に置いた選者・高野公彦氏は、果たして其処まで見通して、この作品を首席作品となさったのでありましょうか?
もしも、其処までお見通しになられた上でのご措置であったとするならば、選者・高野公彦氏に対する私の認識の一部を訂正しなければならないと思って、本作についての高野公彦氏の選評を拝見させていただいたら、「学園祭の翌日の光景。祭りのあとの寂しさを、軽妙なタッチで描く」とあった。
真に簡にして要を得た選評と申すべきであり、一言もありません。
学園祭が終わった後の「ひとの少ない」「月曜日」の「キャンパスを運ばれてゆくパネル」の中の一枚の「パネル」は、「キャンパス」の門前に、大きくでかでかと掲げた
<○○大学学園祭>と掲げた巨体「パネル」の中の一枚「祭」の字であったのでありましょうか?
そして、作中のその後の二つの「!」「!」は、その超巨大「パネル」に圧倒された、本作の作者・一戸詩帆さんの驚嘆のお気持ちを表わしたものでありましょうか?
だとすれば、選者・高野公彦氏が、この作品を入選作首席としてご推奨なさったことに対しても、納得が行くのである。
〔返〕 水曜日妻の寝ている明け方に作者のコメント読んで吃驚 鳥羽省三
十二月一日の明け方に記す。
○ 小谷村橅の林に鎌池と鉈池とあり黄葉映して (熊谷市) 内野 修
「鎌池」と言い、「鉈池」と言う。
そのネーミングからして、何か曰く在りげなのであるが、例えば、以下のような伝承が在るのかしら。
むかし昔、信濃の国北安曇の郡の小谷村の外れに、鎌のような形をした小さな池と、鉈のような形をした大きな池が在りましたとさ。
ある夏の初めに、鎌のような形の小さな池の畔に、草刈りにやって来た一人の農夫が、草刈る手を休めて、幾ら働いても貧乏のどん底から這い上がれないでいる己の運命を嘆いていたところ、突然一陣の風が吹いて来て、その農夫が手にしていた鎌が池の底に飛ばされて行ったとさ。
と、すると、其処に池の神様が現れ、「あなたの失った鎌はこれですか?」と言って、金の鎌を差し出しましたとさ。
ところが、その農夫は村一番の正直者であったので、「いいえ、その金の鎌は私が失くした鎌ではありません。私の鎌はそんな立派な金ビカの鎌では無くて、ただの鉄の鈍い色をした鎌です」と言って、その金の鎌を受け取らなかったとさ。
と、すると、池の神様は、「あなたには、村一番の正直者との噂がありますが、私は、あなたが噂通りの正直者であるかどうかを試したのです。その結果、あなたは噂通りの正直者であることが判りました。だから、この金の鎌は、この私からのご褒美である。どうぞ、お受け取り下さい」と言って、その正直者の農夫に、その金の鎌を強引に受け取らせて忽然と姿を消してしまいましたとさ。
その翌日、その話を耳にした、これも亦、その村の農夫が、昨日の池とは別の、鉈のような形をした大きな池の畔にやって来て、柴を伐るふりをして、手にしていた鉈をわざと池に放り込んでしまったとさ。
と、すると、昨日と同じように、池の神様が現れて、「お前には、村一番の嘘吐きという噂があったが、その噂通り、お前はやはり大の嘘吐きであった。この鉈は、そうしたお前に与える、私からの天罰である」と言って、その村一番の嘘吐き農夫に、彼が池の底に沈めてしまった鉈よりもずっとずっと使い勝手が悪く、重い重い石の鉈を強引に押し付けて、忽然と姿を消してしまいましたとさ。
とっぴんぱらりのぷー。
いっちがぽーんとさけた。
これら二つの池は、紅葉・黄葉の名勝地として、今に至るまで多くの観光客に、その名を知られているのである。
作中の「黄葉映して」という最終句が、二つの池の様子を極彩色に映し出していて美しい。
〔返〕 池水に心の底まで見透かされ嘘吐き男は反省しきり 鳥羽省三
○ 生ごみをベランダに干し嵩低く収集に出すわが小さきエコ (我孫子市) 河島綾子
「生ごみをベランダに干し嵩低く」するとは、「生ごみ」を小さくすることに依って、「生ごみ」「収集」作業に従事される方々のご苦労を小さくする事であり、これこそ正しく「小さきエコ」ならぬ<大きなエコ>でありましょう。
〔返〕 粗大ごみみたいな我が生ごみを毎朝出しに行くのが役目 鳥羽省三
○ 産院の新生児らは母さんの名前の籠にそれぞれ眠る (広島県府中市) 内海恒子
そう、三十数年前の記憶が、今まさにまざまざと甦って来ました。
我が家の長男の場合も、次男の場合も、「産院の新生児」室に於いては、未だ名前とて記されていなく、「鳥羽翔子・男児」とだけ、保育「籠」に書かれていて、彼ら自身はやがて必然的にやって来る、自分の運命も知らぬげにすやすやと眠って居りました。
その中の一人である次男が、今日の午後、<鴨鍋セット>を手土産にして我が家を訪れ、その「母さん」たる鳥羽翔子を喜ばせました。
〔返〕 「父さんの家に来た」とは言わないで「母さんの家に来た」と言うのか息子 鳥羽省三
次男が我が家に訪れている時に、大阪に単身赴任中のその兄(私たちの長男)から携帯が入ったりすることがある。
そうした場合、次男は、「今、僕は母さんの家に居るんだ」などと言って、お尻の穴の狭い私を腐らせるのである。
○ 我慢我慢老後の為に子の為にそして四十五で妻は逝きけり (羽村市) 安元文紀
「四十五」でお亡くなりになられるとは、余りにも<若死に>であり、その死は悼みても余りある。
「我慢我慢老後の為に子の為に」と生き、「そして」その挙句、「四十五で妻は逝きけり」とは、この世には、神様も仏様も無いのだろうか?
〔返〕 痩せ我慢辛抱だけの一期にてそれでも父は米寿を祝ふ 鳥羽省三
思い返せば、私の父は米寿の翌年の春に亡くなりました。
その昔、私の育った田舎町には、米寿を迎えた人に「米」という文字を書かせて、それを隣近所や親戚の家に配って歩く風習が在りました。
そのお札をいただいた家では、それを米櫃の上などに貼って置いて、不老長寿の呪いにしたのでした。
○ わが独房(セル)がいかに閑かな部屋なのか初めて気が付くくさめしたのち (アメリカ) 郷 隼人
「独房」に「セル」という振り仮名を施した短歌をお詠みになられるのは、恐らくは、本作の作者・郷隼人さんだけでありましょう。
お身体大切になさって、益々素晴らしい歌を、海の向うの獄窓の内側からお寄せ下さい。
〔返〕 くしゃみして夜の静けさを知る汝か淋しくあろう寒くもあろう 鳥羽省三
○ こんなにも可愛い顔で笑うんだ病室のぞけば父が手を振る (赤穂市) 内波志保
「病室」を「のぞけば」、病いの床にあるご尊「父」殿が「手を振る」のである。
そのご尊「父」様の有様を見て、「こんなにも可愛い顔で笑うんだ」と言う本作の作者は、優し過ぎる程に優しい娘さんなのでありましょう。
「七十過ぎれば幼児と同じ」とも言うのである。
〔返〕 こんなにも優しい娘も居たもんだ手を振る父に手を振る娘 鳥羽省三
○ 破れても破れてもなほ己が巣を結べる蜘蛛よ空が水色 (中津市) もりたはつみ
取って付けたような感じの「空が水色」であるが、本作の作者としては、「破れても破れてもなほ己が巣を結べる蜘蛛」に感動し、その「蜘蛛」に「空が水色だよ」と言って、元気付けようとしているのでありましょうか。
それとは別に、「破れ」かけた「蜘蛛」の「巣」越しに覗く秋の「空」の「水色」は確かに美しい。
〔返〕 書かれても書かれてもなお読まぬ人も在るのか朝日歌壇に 鳥羽省三
○ 夕潮の満ちいる湾に高低を分けて鷗と鳶の舞う秋 (高松市) 菰渕 昭
「鳶」は高く舞い、「鷗」は低く舞うのであるが、その目的は同じ。
要するに、「鷗」も「鳶」も、舞うように見せながら、餌を漁っているのである。
〔返〕 高く舞ふ鳶に餌を攫はれて鷗は食はねど高楊枝かな 鳥羽省三
○ 秋深し茗荷畑に葉を摘みて母を偲びて作る茗荷餅 (アメリカ) 久下朋子
アメリカにも「茗荷畑」が在り、その「茗荷畑に葉を摘みて」、「母を偲びて」「茗荷餅」を「作る」人も居るのである。
〔返〕 茗荷食べ物忘れするご婦人がアメリカ社会で如何に暮すや 鳥羽省三
○ 月曜日ひとの少ないキャンパスを運ばれてゆくパネル「祭」「!」「!」 (鴻巣市) 一戸詩帆
この作品につきましては、当初、私は、作中の「ひとの少ないキャンパス」というフレーズに引かれたまま、「日曜日ひとの少ないキャンパスを運ばれてゆくパネル『祭』『!』『!』」という、本来の作品とは異なった形で記載させていただき、それについての、私自身の感想なども記載させていただきました。
作者の一戸詩帆様及び関係者の皆様には、大変ご迷惑をお掛け致しました。
つきましては、ここに深くお詫び申し上げると共に、この一件に関わる、一戸詩帆様からのコメント及び、それに対する私のお詫びのコメントをそのままの形で転載させていただき、併せて、誤記した形の作品についての私の恥ずかしい鑑賞文、そして、正しい形の作品についての、私の新たな鑑賞文を、ここに改めて掲載させていただきます。
読者の方々の中には、私が、こうした恥ずかしい形で、この件を処理することについて、ご理解に苦しまれるお方も居られましょうか?
しかしながら、このような、ブログ上の記載ミス及びそれに伴う関係者の方々にお掛けするご迷惑は、これからも、私に限らず、いろいろな方々の間に起こり得ることかと存じます。
だからと言って、私たちブロガーが、「文を書いたから恥をかくのだ。恥をかく事に繋がるブログ書きは止めるに如かず」とばかりに、書く事を止め、萎縮してしまったら、パルプ資源を枯渇させることを危惧されている紙媒体での発言にとって代わるべき、ブログなどのインターネット通信による発言の発展に、大きく水を射すことにもなりましょうし、私自身にとっても、関係者の皆様にとっても、敢えて大胆に申し上げるならば、これからの時代にとっても、決して得策では無い、と私は思います。
そこで、今回、私は敢えて恥を忍んで、かかる記事をこの欄に掲載させていただき、皆様にお目に掛ける事に致しました。
つきましては、何卒、私の意のあるところをご理解下さい。
本作を、「日曜日ひとの少ないキャンパスを運ばれてゆくパネル『祭』『!』『!』」という、正しく無い形で読ませていただいた結果、私が記した、当作品に対する大変恥ずかしい鑑賞文。
「日曜日」で「ひとの少ないキャンパス」内を、学生たちが<学園祭>の準備の為にやって来ていて、「祭」と書いた「パネル」を運んでいるのでありましょうが、末尾の二つの「!」「!」には、どんな意味があるのでしょうか?
また、選者の高野公彦氏は、この作品の何処に良さを認めて、入選作の首席に据えたのでありましょうか?
〔返〕 比較的人込み多い土曜日はパネル運びをしなかったのか? 鳥羽省三
上記の、大変恥ずかしい鑑賞文に関してお寄せになられた、一戸詩帆様からのコメント。
Unknown (一戸詩帆) 2010-12-01 03:39:55
はじめまして。コメント失礼いたします。
この記事の一首目を作った者ですが、この歌の初句は「日曜日」ではなく「月曜日」です。
小さなことではありますが、「日曜日」だと意図したところがほぼ通らなくなってしまうと思うので、おそれながら指摘させていただきます。
上に引用させていただいた、一戸詩帆様からのコメントに対する、私・鳥羽省三からのお詫びのコメント。
臆病なビーズ刺繍 (鳥羽省三) 2010-12-01 05:03:17
一戸詩帆 様
わざわざコメントをお寄せいただまきして大変ありがとうございました。
お申し越しの内容、「日曜日」と「月曜日」の違いは、決して小さいものではありません。
私は、ついうっかり、「ひとの少ないキャンパス」というフレーズに引かれたままに「日曜日」として記載し、そのまま、率直な感想を述べさせていただきました。
大変失礼致しました。
そこで、先の記事はそのままにしておいて、その直前に、一戸詩帆さまの正しい作品を掲載させていただき、それに付いての私自身の感想やお詫びなどを掲載させていただきます。
本来ならば、先の記事を抹消した上で、また新たに正しい作品についての感想などを述べさせていただくべきなのかも知れませんが、やがて、紙媒体にとって代わるべき、インターネット通信に、まま起こるに違いない、こうした事故及び、関係者の皆様に与えるご迷惑など、いろいろさまざま考慮させていただいた上、敢えて恥を忍んで、そうした措置を取らせていただきました。
一戸詩帆様の作品については、朝日歌壇やNHK短歌大会などにご出詠なさった作品など、さまざまに鑑賞させていただき、大変勉強させていただいて居ります。
その一戸詩帆様に、私の拙いブログをお目に掛けていることを知り、しかも今回は、私の不注意及び怠慢から大変ご迷惑をお掛けしたことをも知り、大変恥ずかしい思いに捉われて居ります。
大変失礼致しました。
また、真にありがとうございました。
曲げてご容赦下さい。 鳥羽省三
作者ご自身からの大変ありがたいお申し出に基づいて、訂正させていただいた正しい作品及び、それについての私の鑑賞文。
○ 月曜日ひとの少ないキャンパスを運ばれてゆくパネル「祭」「!」「!」 (鴻巣市) 一戸詩帆
作中の曜日が、<日曜日>や<土曜日>では無く、「月曜日」である事には、くれぐれも注意しなければならない。
作品鑑賞には不可欠な、当該作品の正しい引用を怠って、それに係る鑑賞文を記し、作者及び関係者の皆様に多大なるご迷惑をお掛けした上、万天下に恥を曝した、何処かのB級評論家気取りの老いぼれの轍を踏むようなことは、決して在ってはならないことだと、厳に思われるのである。
ウィークデーたる「月曜日」なのに、何で「キャンパス」には「ひと」が「少ない」のでありましょうか?
老獪と申し上げたら、真に失礼申し上げることになりましょうが、ご年齢は未だ妙齢とは拝察申し上げますが、短歌を詠ませたら、平成の和泉式部と申し上げても宜しいような老獪な作者は、本作の詠い出しを、先ず「日曜日」とせずに、「月曜日ひとの少ないキャンパスを」とすることに拠って、私たち読者を困惑させ、私たち読者を強引かつやんわりと作品世界に導き入れるのである。
本作を入選作首席に置いた選者・高野公彦氏は、果たして其処まで見通して、この作品を首席作品となさったのでありましょうか?
もしも、其処までお見通しになられた上でのご措置であったとするならば、選者・高野公彦氏に対する私の認識の一部を訂正しなければならないと思って、本作についての高野公彦氏の選評を拝見させていただいたら、「学園祭の翌日の光景。祭りのあとの寂しさを、軽妙なタッチで描く」とあった。
真に簡にして要を得た選評と申すべきであり、一言もありません。
学園祭が終わった後の「ひとの少ない」「月曜日」の「キャンパスを運ばれてゆくパネル」の中の一枚の「パネル」は、「キャンパス」の門前に、大きくでかでかと掲げた
<○○大学学園祭>と掲げた巨体「パネル」の中の一枚「祭」の字であったのでありましょうか?
そして、作中のその後の二つの「!」「!」は、その超巨大「パネル」に圧倒された、本作の作者・一戸詩帆さんの驚嘆のお気持ちを表わしたものでありましょうか?
だとすれば、選者・高野公彦氏が、この作品を入選作首席としてご推奨なさったことに対しても、納得が行くのである。
〔返〕 水曜日妻の寝ている明け方に作者のコメント読んで吃驚 鳥羽省三
十二月一日の明け方に記す。
○ 小谷村橅の林に鎌池と鉈池とあり黄葉映して (熊谷市) 内野 修
「鎌池」と言い、「鉈池」と言う。
そのネーミングからして、何か曰く在りげなのであるが、例えば、以下のような伝承が在るのかしら。
むかし昔、信濃の国北安曇の郡の小谷村の外れに、鎌のような形をした小さな池と、鉈のような形をした大きな池が在りましたとさ。
ある夏の初めに、鎌のような形の小さな池の畔に、草刈りにやって来た一人の農夫が、草刈る手を休めて、幾ら働いても貧乏のどん底から這い上がれないでいる己の運命を嘆いていたところ、突然一陣の風が吹いて来て、その農夫が手にしていた鎌が池の底に飛ばされて行ったとさ。
と、すると、其処に池の神様が現れ、「あなたの失った鎌はこれですか?」と言って、金の鎌を差し出しましたとさ。
ところが、その農夫は村一番の正直者であったので、「いいえ、その金の鎌は私が失くした鎌ではありません。私の鎌はそんな立派な金ビカの鎌では無くて、ただの鉄の鈍い色をした鎌です」と言って、その金の鎌を受け取らなかったとさ。
と、すると、池の神様は、「あなたには、村一番の正直者との噂がありますが、私は、あなたが噂通りの正直者であるかどうかを試したのです。その結果、あなたは噂通りの正直者であることが判りました。だから、この金の鎌は、この私からのご褒美である。どうぞ、お受け取り下さい」と言って、その正直者の農夫に、その金の鎌を強引に受け取らせて忽然と姿を消してしまいましたとさ。
その翌日、その話を耳にした、これも亦、その村の農夫が、昨日の池とは別の、鉈のような形をした大きな池の畔にやって来て、柴を伐るふりをして、手にしていた鉈をわざと池に放り込んでしまったとさ。
と、すると、昨日と同じように、池の神様が現れて、「お前には、村一番の嘘吐きという噂があったが、その噂通り、お前はやはり大の嘘吐きであった。この鉈は、そうしたお前に与える、私からの天罰である」と言って、その村一番の嘘吐き農夫に、彼が池の底に沈めてしまった鉈よりもずっとずっと使い勝手が悪く、重い重い石の鉈を強引に押し付けて、忽然と姿を消してしまいましたとさ。
とっぴんぱらりのぷー。
いっちがぽーんとさけた。
これら二つの池は、紅葉・黄葉の名勝地として、今に至るまで多くの観光客に、その名を知られているのである。
作中の「黄葉映して」という最終句が、二つの池の様子を極彩色に映し出していて美しい。
〔返〕 池水に心の底まで見透かされ嘘吐き男は反省しきり 鳥羽省三
○ 生ごみをベランダに干し嵩低く収集に出すわが小さきエコ (我孫子市) 河島綾子
「生ごみをベランダに干し嵩低く」するとは、「生ごみ」を小さくすることに依って、「生ごみ」「収集」作業に従事される方々のご苦労を小さくする事であり、これこそ正しく「小さきエコ」ならぬ<大きなエコ>でありましょう。
〔返〕 粗大ごみみたいな我が生ごみを毎朝出しに行くのが役目 鳥羽省三
○ 産院の新生児らは母さんの名前の籠にそれぞれ眠る (広島県府中市) 内海恒子
そう、三十数年前の記憶が、今まさにまざまざと甦って来ました。
我が家の長男の場合も、次男の場合も、「産院の新生児」室に於いては、未だ名前とて記されていなく、「鳥羽翔子・男児」とだけ、保育「籠」に書かれていて、彼ら自身はやがて必然的にやって来る、自分の運命も知らぬげにすやすやと眠って居りました。
その中の一人である次男が、今日の午後、<鴨鍋セット>を手土産にして我が家を訪れ、その「母さん」たる鳥羽翔子を喜ばせました。
〔返〕 「父さんの家に来た」とは言わないで「母さんの家に来た」と言うのか息子 鳥羽省三
次男が我が家に訪れている時に、大阪に単身赴任中のその兄(私たちの長男)から携帯が入ったりすることがある。
そうした場合、次男は、「今、僕は母さんの家に居るんだ」などと言って、お尻の穴の狭い私を腐らせるのである。
○ 我慢我慢老後の為に子の為にそして四十五で妻は逝きけり (羽村市) 安元文紀
「四十五」でお亡くなりになられるとは、余りにも<若死に>であり、その死は悼みても余りある。
「我慢我慢老後の為に子の為に」と生き、「そして」その挙句、「四十五で妻は逝きけり」とは、この世には、神様も仏様も無いのだろうか?
〔返〕 痩せ我慢辛抱だけの一期にてそれでも父は米寿を祝ふ 鳥羽省三
思い返せば、私の父は米寿の翌年の春に亡くなりました。
その昔、私の育った田舎町には、米寿を迎えた人に「米」という文字を書かせて、それを隣近所や親戚の家に配って歩く風習が在りました。
そのお札をいただいた家では、それを米櫃の上などに貼って置いて、不老長寿の呪いにしたのでした。
○ わが独房(セル)がいかに閑かな部屋なのか初めて気が付くくさめしたのち (アメリカ) 郷 隼人
「独房」に「セル」という振り仮名を施した短歌をお詠みになられるのは、恐らくは、本作の作者・郷隼人さんだけでありましょう。
お身体大切になさって、益々素晴らしい歌を、海の向うの獄窓の内側からお寄せ下さい。
〔返〕 くしゃみして夜の静けさを知る汝か淋しくあろう寒くもあろう 鳥羽省三
○ こんなにも可愛い顔で笑うんだ病室のぞけば父が手を振る (赤穂市) 内波志保
「病室」を「のぞけば」、病いの床にあるご尊「父」殿が「手を振る」のである。
そのご尊「父」様の有様を見て、「こんなにも可愛い顔で笑うんだ」と言う本作の作者は、優し過ぎる程に優しい娘さんなのでありましょう。
「七十過ぎれば幼児と同じ」とも言うのである。
〔返〕 こんなにも優しい娘も居たもんだ手を振る父に手を振る娘 鳥羽省三
○ 破れても破れてもなほ己が巣を結べる蜘蛛よ空が水色 (中津市) もりたはつみ
取って付けたような感じの「空が水色」であるが、本作の作者としては、「破れても破れてもなほ己が巣を結べる蜘蛛」に感動し、その「蜘蛛」に「空が水色だよ」と言って、元気付けようとしているのでありましょうか。
それとは別に、「破れ」かけた「蜘蛛」の「巣」越しに覗く秋の「空」の「水色」は確かに美しい。
〔返〕 書かれても書かれてもなお読まぬ人も在るのか朝日歌壇に 鳥羽省三
○ 夕潮の満ちいる湾に高低を分けて鷗と鳶の舞う秋 (高松市) 菰渕 昭
「鳶」は高く舞い、「鷗」は低く舞うのであるが、その目的は同じ。
要するに、「鷗」も「鳶」も、舞うように見せながら、餌を漁っているのである。
〔返〕 高く舞ふ鳶に餌を攫はれて鷗は食はねど高楊枝かな 鳥羽省三
○ 秋深し茗荷畑に葉を摘みて母を偲びて作る茗荷餅 (アメリカ) 久下朋子
アメリカにも「茗荷畑」が在り、その「茗荷畑に葉を摘みて」、「母を偲びて」「茗荷餅」を「作る」人も居るのである。
〔返〕 茗荷食べ物忘れするご婦人がアメリカ社会で如何に暮すや 鳥羽省三