臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

一首を切り裂く(045:群・其のⅠ)

2010年11月29日 | 題詠blog短歌
(tafots)
○  雲梯を群青色に塗りこめて七月末の校庭静か

 「七月末」と言えば、日本全国、夏休み真っ最中でありましょう。
 その夏休みに入り、学童一人居ないグラウンドの片隅の「雲梯」が、腕に覚えのある先生方の手によって、まるで太平洋の真っ只中を思わせる「群青色に塗りこめ」られたのである。
 「雲梯」とは、文字通り「雲」に攀じ登る為の「梯」でありますから、「群青色に塗りこめ」るのが最良と思われるのである。
 私もかつては、夏休み中の一週間を費やして、小市民と言うよりも大村民とでも申し上げるべきご面貌の教頭先生と一緒に、生徒の落書きによって汚されていた、某高校の校舎内の壁を、全面クリーム色に「塗りこめ」たことがありました。
 最近は、学校教育に要する予算が逼迫しているという事情もあってか、校内の些細な工事は、外注しないで、勤務する教職員の手によって行われることが多いが、それは極めて好ましい現象である、と評者は思うのである。
 その事の是非はともかくとして、広い校庭にも、その片隅の「群青色に塗りこめ」られた「雲梯」にも、今日は人っ子一人居ないから、あたり全体が静けさに満ちているのである。
  〔返〕 二筋の飛行機雲の交差する学校プールは波も立たない   鳥羽省三
 

(古屋賢一)
○  群れるのを嫌がる犬を群れるのを嫌がる犬の群れに捨て犬

 教師時代の私にとっての悩みの一つは、遠足や社会見学や修学旅行などの際の生徒の<班編成>、即ち<グループ分け>であった。
 大半の生徒たちの声に従えば、「好きな者同士」のは班編成となって、班編成の作業そのものは比較的にスムーズに行われるのであり、現に、私以外のほとんどの学級担任教師は、生徒から言われるままにその方法を採っていたのである。
 だが、一学級が四十数人規模ともなると、其処に必ず、誰をも好きでなく、誰からも好かれない生徒が数人は現れ、例えば、一班五、六名ずつの班を作ったとしても、五つか六つの班は即座に成り立つのであるが、それから余った生徒たちの班は、<好きでもないのに、強引に組ませられて出来た班>という結果になってしまうのであった。
 本作に接して、私が真っ先に思ったことは、そのことである。
 そうした事は、学校の集団行動の場合の<グループ分け>に限らず、この現実社会のあらゆる方面に見られる現象かも知れない。
 人間は、たった一人だけでは社会単位として成り立たないのである。
 したがって、人間が人間として、社会単位として生きていく為には、必ず、何処かのグループに、何かの班に属さなければならない事になる。
 何処かの<グループ>に属するとは、何かの<班>に属するとは、自分を自分の手に拠って、何処かに、何かに<投企>することである。

 この彼を好きでもないのに、この彼と添わなければならない彼女。
 この父を好きでもないのに、この父を父としなければならない息子。
 この姑を好きでもないのに、この姑を母と呼ばなければならない嫁。
 あの学校に誇りを持っていないのに、あの学校を母校として履歴書に書かなければならない、あの学校の卒業生。
 儲け主義のこの会社の為には、たったの一日だって働きたくないのに、他に就職口が無いから、この会社で働いているしかない社員。
 財政破綻寸前になった、あの市町村の住民では決してありたくはなかったのに、懐事情に因って、この市町村に住むしかなかった住民。
 その政党から立候補したくないのに、経済的な関係や選挙区の事情などの力学的な関係から、その政党から立候補せざるを得なくなった候補者。
 スキャンダル塗れのこの元幹事長に仕えるのは、歩行者天国で賑わう、銀座一丁目から銀座七丁目までパンティーもブラジャーも外して走り廻るより恥ずかしいことなのに、その元幹事長を党代表に担ぎ上げなければならない陣笠女性代議士。
 わずか四年間で、五人もの馬鹿者が次から次へと総理大臣になった我が日本国に対しては、いささかの忠誠心も持っていないし、爪の垢ほどの誇りも感じていないのに、国籍を捨てる訳にはいかない、わが日本国民などなど。
 私たちの全ては、何かの理由で以って、「群れるのをを嫌がっているのに、群れるのを嫌がっている犬の集団に捨て犬された犬みたいな存在であるとも言えましょう。
 だが、此処からがこの文章の一番大事な点なのである。
 フランスの哲学者<ジャン=ポール・サルトル>は、自身の講演「実存主義はヒューマニズムであるか」(1945年)に於いて、「実存は本質に先立つ」と述べ、何かの事情で以って、そのサルトルと生活を共にしていた女性作家<シモーヌ・ド・ボーヴォワール>は、夫サルトルの考え方を敷衍して、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」とも述べているのである。
 そこで考えるに、私たち社会の一員は、先ず第一に、私たち自身が、現に<投企>されている、この現実に立脚しなければならないのである。
 いや、私たちは、現に自分が所属しているその現実に、誰かの手に依って無理矢理<投企>されているのではない。
 私たち自身が、他ならぬ私たちの手に拠って、私たち自身をこの現実に<投企>したのである。
 即ち、<投企>とは、他者によっての<投企>では無く、<自己投企>なのである。
 私たちは、私たち自身が<自己投企>したこの現実を受け入れ、その現実の中で、何かの役割りを果たし、何かに働き掛けて行かなければならないのである。
  〔返〕 群れたのを受け入れ吠えて群れたのを嫌がる犬に働き掛けよ   鳥羽省三 
      誰一人読まぬ現実受け入れてブログ更新励み行くべし        々


(コバライチ*キコ)
○  群鷄の眼は我を睨みつつ微動だにせず若冲の軸

 本作は、あらゆる人間に普遍的に備わっている性質としての、<自己中心主義的傾向>から未だ離脱出来ないで居る、本作の作者・<コバライチ*キコ>さんの抱いている<強迫観念>に因って詠まれた傑作である。
  〔返〕 鶏冠(けいかん)に見入る雌鶏居たりして一様ならず若冲の軸   鳥羽省三


(伊倉ほたる)
○  群れている羊の翳す携帯は祈り捧げる墓標のように

 試みに、動詞「翳す」の意味を、手許に在る国語辞書『大辞林』で調べてみたら、「① 手に持って頭上に高く掲げる。<団旗を翳して進む>」、「② 物の上方におおいかけるように手をさしだす。<火鉢に手を翳す>」、「③ 光や上方より来るものをさえぎるために手などを額のあたりに持っていっておおう。<扇子を翳す>」とあった。
 仮に、本作の用例が、上記説明中の「①」に該当するとすれば、「群れている羊」たちは、一体どんな理由で「携帯」を<頭上に高く掲げる>のでありましょうか?
 その秘密を解く鍵は、本作中の「祈り捧げる墓標のように」という叙述に在ると思われるが、「群れる羊」たちは、その「墓標」のような「携帯」に向かって、どんな種類の「祈り」を「捧げる」のでありましょうか?
 思うに、「群れている羊」たちにも等しい<少年少女>たちが、現代社会の「墓標」の如き「携帯」に向かって、必死になって叫んでいる言葉、即ち「私はあなたを愛しているからね」、「だから私を捨てないでね。きっときっと捨てないでね」、「渋谷駅前のハチ公像の前で待っているから、夕方の六時までには必ず来てね。きっとだよ。もしもあなたが午後六時を過ぎてもハチ公像前に現れなくても、私はずっとずっと待っているからね。夜露に濡れて待っているからね」などといった言葉は、彼ら<迷える子羊>たちにとっては、唯一絶対の「祈り捧げる」言葉なのかも知れません。
 また仮に、本作の用例が、上記説明中の「③」に該当するとすれば、「群れている羊」たちにとっての<光や上方から来るもの>とは、一体どんなものでありましょうか?
 思うに、<迷える子羊>にも等しい<少年少女>たちにとっての、<光や上方から来るもの>とは、現代社会の「墓標」にも相当する「携帯」を通じて齎される<彼>や<彼女>の呟く<愛の言葉>乃至は<呪いの言葉>なのかも知れません。
 それらのいずれの場合にしても、本作の作者・伊倉ほたるさんの言う、「群れている羊」たちとは、一様に塞ぎ、一様に閉鎖的かつ排他的な若者たちの事を指すのであり、また、彼らがそれぞれに排他的かつ閉鎖的な心を抱えたままに群れ集っている、渋谷駅前のハチ公像前は、其処から徒歩十五分ほどの距離に在る<青山墓地>以上に<墓地的>な場所であるに違いない。
  〔返〕 青春は二度と還れぬ墓場にて「もっと光」と祈るばかりぞ   鳥羽省三


(今泉洋子)
○  福寿草群がり咲けば杳(とほ)き日の家族十一人集ひ来さうな

 <杳遠>という、今となっては<お臍の穴に黴の生えたような言葉>が在る。
 その<杳遠>の<杳>も<遠>も、今を基準として、此処を基準として、<遥か遠く隔たっている>という意味であり、<杳遠>という言葉は、同じ意味を持つ二つの言葉を重ね用い、その意味を強調しているに過ぎません。
 だとすれば、文部科学省の指示に従って、「遠き」とすれば宜しいのである。
 だが、それを敢えて賢しら振って「杳き」とし、しかも、鑑賞者にご自身の意図するところを確実に伝え得る自信が無いものだから、「とほき」などと無用な振り仮名を施しているのである。
 そうしたところに、佐賀県の与謝野晶子たる、歌人・今泉洋子さんの病根が認められるのである。
 <三つ児の魂百までも>という喩も在りましょうが、今泉洋子さんは、生まれつき<杳>の字は文学的であり、<遠>の字は文学的では無い、と、ご知覚なさって居られるのでありましょうか?
 それはそれとして、春を待たずして花開く「福寿草」は、その群がって咲く様子からして、いかにも、古き良き時代の「家族十一人」の比喩として用いたくなるような花ではある。
 されど、知る人ぞ知る。
 彼の「福寿草」の塊根には<猛毒>が含まれている、と言う。
 今泉洋子さんの「杳き日の家族十一人」たちも、表面の笑い顔とは別に、その根っこの部分に、それぞれ、彼の「福寿草」の如き<猛毒>をお抱えになって「集ひ」来るのでありましょうか?
 だからこそ、家族親族たちが一同に会する場、即ち、婚礼や葬儀の場などには、賢明なる評者たる私は、なるべくならば近づかないように注意しているのである。
  〔返〕 福寿草群がり咲ける八つ墓の村を見下ろす岡の日溜り   鳥羽省三