[高野公彦選]
○ タンポポの花のてんぷら葉のサラダひとひの画材をいただく夕餉 (大分市) 岩永知子
摘んで来て、花籠に盛り、描いて、食べて、詠むといったところでありましょうか。
普段は都会暮らしをしている主婦にとっては、その日一日の体験は久し振りの自然体験であり、心身共に充実感が感じられたのでありましょう。
ところで、通常、「タンポポの花」や「葉」を食用に供するのは、春の初めの新芽や初花の頃だけのことかと評者には思われるのですが、その点についてはいかがでありましょうか?
その時期を過ぎて、夏の熱い太陽の光を照射され、野塵を存分に被った挙句、そろそろ冬篭りの仕度でも始めようとしている時期に摘んで来た「タンポポの花のてんぷら」や「葉のサラダ」は、余り香りも良くなく、やたらに強張っているばかりであるから、固さも固しというところでありましょう。
だが、本作の作者・岩永知子さんにとっては、それでも充分に美味しかったのでありましょうか?
季節外れの<季節詠>は詠む方も詠む方、採る方も採る方である。
本作が、歌集の中の一首であったのならともかく、四季の中の折々の感動やニュースに敏感に反応するべき新聞歌壇中の、しかも「高野公彦選」の首席を占める作品なのである。
と、ここまで記して私が小用に立った時、これを覗き見したわが連れ合いが、「もう少し誉めたらいかがですか。それに第一に、この作品は、タンポポの旬の時期に詠んだ作品であって、たまたま晩秋になってから投稿したのかも知れませんよ」などと無用な口出しをする。
春に詠んだ作品だとしたならば、春に投稿すればいいのである。
気の早いサンタさんなら、鈴の音を鳴らしてトナカイの橇に乗って訪れようとしている時期ではありませんか。
季節詠めかしながら、生半可な知識と観念とだけで丸めた作品を、余人ならばいざ知らず、他ならぬ岩永知子さんが無闇に投稿したりしてはいけません。
『万葉集』<巻第八>に、<志貴皇子の懽の御歌一首>として、「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」という感動的な季節詠が収録されている。 あの歌が、制作時期から千三百年以上も経った今になっても多くの人々に感動を与え続けている理由は何処に在るのか?
本作の作者も、本作を朝日歌壇の首席に据えた選者も、その理由について、よくよく考えてみなければならない。
〔返〕 花も葉も黒ずみ強張り香り悪しそれでも旨しと言ひて召すのか? 鳥羽省三
○ 青芒葉先丸めて門に挿し魔物(やなむん)入るなと泡盛を打つ (沖縄県) 和田静子
沖縄方言を巧みに生かした民俗詠、風俗詠と言えましょうか。
前述の岩永知子さん作と比較した場合、本作は、季節を詠もうとする意志よりも、習俗を詠もうとする意志の方が遥かに勝っているのである。
しかも、仮に季節詠として扱っても、必ずしも季節外れとは言えない。
〔返〕 柚子十顆浮かぶ湯舟に身を沈め疲れ取りたし冬至の夜は 鳥羽省三
○ 栗秋刀魚馬鈴薯鮭檸檬買い物かごに季語が寄り添う (春日部市) 宮代康志
列挙された食品「栗・秋刀魚・馬鈴薯・鮭・檸檬」の五品目の全ては秋の「季語」である。
「季語」としての性格を同じくするそれらが、たまたま「買い物かご」の中に「寄り添う」ようにして入っていたとすれば、本作は短歌の神のみならず、秋という季節を司る神<白帝>を味方にしてお詠みになった一首とも言えましょうか?
〔返〕 韮慈姑胡瓜枝豆牛蒡葱八百屋の店先季語がばらばら 鳥羽省三
鰆鱏鱩鮪鯒鰯鯖鯛鰖鮍魪 々
○ 天平の琵琶のおもての椰子の木やラクダは螺鈿の花群のなか (箕面市) 大野美恵子
正倉院展は毎年秋、奈良国立博物館を会場として行われますが、今年の目玉展示品と言うべきはものは「螺鈿紫檀五弦琵琶」である。
「螺鈿紫檀五弦琵琶」は弦楽器と言うよりも、絢爛豪華な螺鈿細工の施された美術品というべきであり、未だに制作当時の輝きを失っていないその表面には、「螺鈿」細工で「椰子の木」と「ラクダ」に跨ったペルシャ人の姿が装飾されている。
本作の作者・大野美恵子さんは、奈良市からそれ程遠くは無い箕面市にお住いの方でありますから、逸早く会場に足を運ばれて、「天平」文化の粋を思いっきりご堪能になられたのでありましょう。
〔返〕 ぼろぼろの布や幡など並ぶなか綺羅雅やか天平の琵琶 鳥羽省三
○ 霜降の無人駅舎にモネの「積みわら」友と観にゆく (福岡県) 小倉由子
フランス印象派の画家・モネの代表作の一つである「積みわら」は、連作として描かれたために、色彩の微妙に異なった作品が数十点在るとされているが、本作の作者・小倉由子さんの身近で、その「積みわら」シリーズの一点を鑑賞出来るのは、岡山県倉敷市の大原美術館である。
作者・小倉由子さんは「霜降の無人駅舎」に「友」と待ち合わせをなさり、その後、新幹線に乗り継いで、遙々と倉敷市までお出掛けになったのでありましょう。
「霜降の無人駅舎」と「モネの『積みわら』」の世界とは、どちらも茫漠としたような感じであり、バランスが取れているようないないような感じなのである。
〔返〕 祝日のごった返しの人並みに揉まれてゴッホの『自画像』は見ず 鳥羽省三
○ 本屋なれ売れれば補ふ本ありてエンデの『モモ』は三十五年 (長野県) 沓掛喜久男
詠い出しの「本屋なれ」が一考を要する表現である。
断定の助動詞「なり」の已然形「なり」は、通常は接続助詞「ば」を伴って「なれば」の形で「(本屋)であるから」といった意味となり、それに続く部分の前提条件を示したりするのであるが、そうした場合でも、本来は「なれ」の下に接続させるべき「ば」を省略することがある。
また、そうした用法とは別に、「本屋なり」と終止形で言うべきところを、一種の<強調表現>として「本屋なれ」と已然形で言う場合が希に在る。
本作の作者・沓掛喜久男さんは、それらのいずれの意味で、この作品の詠い出しを「本屋なれ」となさったのでありましょうか?
沓掛喜久男さんのようなベテラン歌人の場合は例外であるが、結社などに入っていて、その体制にべったりの初心者が、先輩の作品や先行作品を模倣して「体現+なれ」の形、その後に接続させるべき「ば」を省略した形を使用するのは間違いのもとになるので止めた方が宜しい。
「エンデの『モモ』」は、永遠のロングベストセラー。
発売されてから、もう「三十五年」にもなるのだろうか?
「売れれば補ふ」という表現に、地方の小規模の「本屋」さんの経営者の方のご苦労の程が偲ばれる。
〔返〕 教師なれ問はれぬ先に教ふるも役目の一つと任じてのこと 鳥羽省三
○ のこる命生きて歌詠めよ樫の実がしぐれをなして吾が上に降る (筑西市) 斎藤絢子
「しぐれをなして吾が上に降る」「樫の実」に、自然の神の啓示をお感じになったのでありましょうか?
〔返〕 来む世にも他人の歌を難ぜよと公孫樹落ち葉が我が身に諭す 鳥羽省三
○ 峡棚田空稲架あると見たりしが夕べに百の大根吊りて (宮城県) 須郷 柏
乾燥し上がった稲株を取り去った後の稲架に、「大根」や大豆などを掛けている風景も、田舎ではよく見掛ける風景であった。
〔返〕 一億も持つと見たりし寡婦なれど当てが外れて着た切り雀 鳥羽省三
○ 海がんでひろった貝がらにじの色スイミーからのプレゼントかも (笠間市) 高野花緒
小学生の高野花緒さんとて、まさか「海がんでひろった」「にじいろ」の「貝がら」が、「スイミーからのプレゼント」とは、少しも思っていないのである。
だが、そこをそう正直に言わずに、「スイミーからのプレゼントかも」と言えば、小学生らしくあどけない表現の作品になるということを、誰に教えられたのでも無くて知っているのでありましょう。
その一方、<海岸>とすればいいのに「海がん」とし、<貝殻>とすればいいのに「貝がら」とし、<虹>とすればいいのに「にじ」とするなど、とことん入選狙いの食えない作品、などと申すのは、この日本の歌壇で評者ぐらいのものでありましょう。
〔返〕 たまプラで話し掛け来しあの少女少し気のあるふりしたかった 鳥羽省三
[永田和宏選]
○ ほんのりと昼を灯せる本屋なり立ち読みひとりくすりと笑ふ (長野県) 沓掛喜久男
「くすりと笑ふ」のは、「立ち読み」のお客様でありましょうが、余りの客足の鈍さに、店主の沓掛喜久男さんが「くすりと」お笑いになったようにも思われるところが、この作品の面白さである。
〔返〕 ほんのりと昼を灯せる電気料勿体ないなら店閉じなさい 鳥羽省三
○ じいちゃんも金魚も寂しいやろなあと二ひく一を子が思う秋 (和泉市) 星田美紀
「じいちゃん」が死んで、「じいちゃん」から愛されていた「金魚」一匹だけが生き残っているのか?
「じいちゃん」は死なないで、たった一匹、ペットとして「じいちゃん」から愛されていた「金魚」だけが死んだのか?
それとも、「じいちゃん」も「金魚」も死んでしまった結果、後に残された「子」が、「じいちゃん」と自分との関係をふり返り、或いは、金魚と自分との関係をふり返り、どちらにしても、この場合は『二引く一』である、と納得し、観念しているのでありましょうか?
〔返し〕 「二引く一」答えは常に「一」となるじいちゃん死んで金魚も死んだ 鳥羽省三
○ スイミングはじめてとった金メダルこっそりないた帰りの車 (笠間市) 高野真気
「『こっそり』撫でた」と言わないで、「こっそりないた」と言うところが、<大人社会の影響>大なるところでありましょうか?
〔返〕 ルッツ決め今夜は取るか金メダル浅田真央ちゃんピンチ瀬戸際 鳥羽省三
○ 「出会ったとき」「襲って来たとき」熊役の女性レポーター懐こい笑顔 (山形市) 渋間悦子
「熊役」もやれて、顔の「懐こい」「女性レポーター」と言えば、迫文代さんに決まっているようなものですが、やや日焼け気味で、やや太り過ぎなところが災いしてなのか、彼女の顔はこの頃テレビ画面に映りません。
〔返〕 「襲うとき」が「襲われたとき」より適役で迫文代さん熊にぴったり 鳥羽省三
○ うどん打つ音とうどんを茹でる湯気通りに満ちるわが街の冬 (高松市) 新田仁史
高松市と言えば香川県の県庁所在地。
香川県と言えば讃岐饂飩の本場である。
したがって、「うどん打つ音とうどんを茹でる湯気通りに満ちるわが街の冬」という言い方は、少しも誇張した言い方ではありません。
「うどんを打つ音」と「うどんを茹でる湯気」。
これこそ正しく歳末の高松の「街」の風景を象徴するものである。
〔返〕 素醤油をかけた饂飩がなぜ食える高松市民は意外に粗食 鳥羽省三
○ 会社では浮いた存在であるを告げこれ以上晒すものなし妻に (和泉市) 長尾幹也
沈んでいるよりも浮いている方がかなり増しである。
「これ以上晒すものなし妻に」と言えるのは、沈んでしまって再び浮かび上がれないと決まったときでありましょう。
〔返〕 一例を上げれば深夜のベッドにて「あなた駄目ね」と言われた時か 鳥羽省三
○ 黄金の埋蔵場所を知ってゐる秋の夕べの屋上の猫 (大分市) 長尾素明
こちらは陽の射している長尾さんでありましょうか?
「秋の夕べの屋上」に寝そべっている「猫」の背中に西日が当たって、黄金色に輝いているのを見て、「黄金の埋蔵場所を知ってゐる」と表現したのは大変素晴らしい発想である。
〔返〕 レアアースの埋蔵場所を知りたくて土俵の砂に這ったか白鵬 鳥羽省三
○ 中学で村田銃兵の日三八歩兵銃握りし右腕の掌の平の皺 (相模原市) 中村健次
内容はどうでも、韻律の悪さはカバーは言い訳出来ようもありません。
〔返〕 今日もまた模造鉄砲担いでの歩行訓練ばかりで暮れた 鳥羽省三
○ 辺土岬これが琉球の藍ですと黄泉覗くがに断崖に立つ (沖縄県) 和田静子
それ程に、沖縄の海は紺青なのでありましょうか。
〔返〕 辺土岬バンザイクリフにあらざるも今も真っ青沖縄の海 鳥羽省三
○ 朝日歌壇掲載ページ破り持ちバスに飛び乗る月曜の朝 (横浜市) 新井邦子
ことほど然様に、「朝日歌壇」に入選したという事実は大変な事実なのである。
ここに、選者の皆様の覚悟して選歌に当たらねばならない所以がありましょうか。
〔返〕 此処に亦一人相撲の評者居て誰も読まない評を書いてる 鳥羽省三
○ タンポポの花のてんぷら葉のサラダひとひの画材をいただく夕餉 (大分市) 岩永知子
摘んで来て、花籠に盛り、描いて、食べて、詠むといったところでありましょうか。
普段は都会暮らしをしている主婦にとっては、その日一日の体験は久し振りの自然体験であり、心身共に充実感が感じられたのでありましょう。
ところで、通常、「タンポポの花」や「葉」を食用に供するのは、春の初めの新芽や初花の頃だけのことかと評者には思われるのですが、その点についてはいかがでありましょうか?
その時期を過ぎて、夏の熱い太陽の光を照射され、野塵を存分に被った挙句、そろそろ冬篭りの仕度でも始めようとしている時期に摘んで来た「タンポポの花のてんぷら」や「葉のサラダ」は、余り香りも良くなく、やたらに強張っているばかりであるから、固さも固しというところでありましょう。
だが、本作の作者・岩永知子さんにとっては、それでも充分に美味しかったのでありましょうか?
季節外れの<季節詠>は詠む方も詠む方、採る方も採る方である。
本作が、歌集の中の一首であったのならともかく、四季の中の折々の感動やニュースに敏感に反応するべき新聞歌壇中の、しかも「高野公彦選」の首席を占める作品なのである。
と、ここまで記して私が小用に立った時、これを覗き見したわが連れ合いが、「もう少し誉めたらいかがですか。それに第一に、この作品は、タンポポの旬の時期に詠んだ作品であって、たまたま晩秋になってから投稿したのかも知れませんよ」などと無用な口出しをする。
春に詠んだ作品だとしたならば、春に投稿すればいいのである。
気の早いサンタさんなら、鈴の音を鳴らしてトナカイの橇に乗って訪れようとしている時期ではありませんか。
季節詠めかしながら、生半可な知識と観念とだけで丸めた作品を、余人ならばいざ知らず、他ならぬ岩永知子さんが無闇に投稿したりしてはいけません。
『万葉集』<巻第八>に、<志貴皇子の懽の御歌一首>として、「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」という感動的な季節詠が収録されている。 あの歌が、制作時期から千三百年以上も経った今になっても多くの人々に感動を与え続けている理由は何処に在るのか?
本作の作者も、本作を朝日歌壇の首席に据えた選者も、その理由について、よくよく考えてみなければならない。
〔返〕 花も葉も黒ずみ強張り香り悪しそれでも旨しと言ひて召すのか? 鳥羽省三
○ 青芒葉先丸めて門に挿し魔物(やなむん)入るなと泡盛を打つ (沖縄県) 和田静子
沖縄方言を巧みに生かした民俗詠、風俗詠と言えましょうか。
前述の岩永知子さん作と比較した場合、本作は、季節を詠もうとする意志よりも、習俗を詠もうとする意志の方が遥かに勝っているのである。
しかも、仮に季節詠として扱っても、必ずしも季節外れとは言えない。
〔返〕 柚子十顆浮かぶ湯舟に身を沈め疲れ取りたし冬至の夜は 鳥羽省三
○ 栗秋刀魚馬鈴薯鮭檸檬買い物かごに季語が寄り添う (春日部市) 宮代康志
列挙された食品「栗・秋刀魚・馬鈴薯・鮭・檸檬」の五品目の全ては秋の「季語」である。
「季語」としての性格を同じくするそれらが、たまたま「買い物かご」の中に「寄り添う」ようにして入っていたとすれば、本作は短歌の神のみならず、秋という季節を司る神<白帝>を味方にしてお詠みになった一首とも言えましょうか?
〔返〕 韮慈姑胡瓜枝豆牛蒡葱八百屋の店先季語がばらばら 鳥羽省三
鰆鱏鱩鮪鯒鰯鯖鯛鰖鮍魪 々
○ 天平の琵琶のおもての椰子の木やラクダは螺鈿の花群のなか (箕面市) 大野美恵子
正倉院展は毎年秋、奈良国立博物館を会場として行われますが、今年の目玉展示品と言うべきはものは「螺鈿紫檀五弦琵琶」である。
「螺鈿紫檀五弦琵琶」は弦楽器と言うよりも、絢爛豪華な螺鈿細工の施された美術品というべきであり、未だに制作当時の輝きを失っていないその表面には、「螺鈿」細工で「椰子の木」と「ラクダ」に跨ったペルシャ人の姿が装飾されている。
本作の作者・大野美恵子さんは、奈良市からそれ程遠くは無い箕面市にお住いの方でありますから、逸早く会場に足を運ばれて、「天平」文化の粋を思いっきりご堪能になられたのでありましょう。
〔返〕 ぼろぼろの布や幡など並ぶなか綺羅雅やか天平の琵琶 鳥羽省三
○ 霜降の無人駅舎にモネの「積みわら」友と観にゆく (福岡県) 小倉由子
フランス印象派の画家・モネの代表作の一つである「積みわら」は、連作として描かれたために、色彩の微妙に異なった作品が数十点在るとされているが、本作の作者・小倉由子さんの身近で、その「積みわら」シリーズの一点を鑑賞出来るのは、岡山県倉敷市の大原美術館である。
作者・小倉由子さんは「霜降の無人駅舎」に「友」と待ち合わせをなさり、その後、新幹線に乗り継いで、遙々と倉敷市までお出掛けになったのでありましょう。
「霜降の無人駅舎」と「モネの『積みわら』」の世界とは、どちらも茫漠としたような感じであり、バランスが取れているようないないような感じなのである。
〔返〕 祝日のごった返しの人並みに揉まれてゴッホの『自画像』は見ず 鳥羽省三
○ 本屋なれ売れれば補ふ本ありてエンデの『モモ』は三十五年 (長野県) 沓掛喜久男
詠い出しの「本屋なれ」が一考を要する表現である。
断定の助動詞「なり」の已然形「なり」は、通常は接続助詞「ば」を伴って「なれば」の形で「(本屋)であるから」といった意味となり、それに続く部分の前提条件を示したりするのであるが、そうした場合でも、本来は「なれ」の下に接続させるべき「ば」を省略することがある。
また、そうした用法とは別に、「本屋なり」と終止形で言うべきところを、一種の<強調表現>として「本屋なれ」と已然形で言う場合が希に在る。
本作の作者・沓掛喜久男さんは、それらのいずれの意味で、この作品の詠い出しを「本屋なれ」となさったのでありましょうか?
沓掛喜久男さんのようなベテラン歌人の場合は例外であるが、結社などに入っていて、その体制にべったりの初心者が、先輩の作品や先行作品を模倣して「体現+なれ」の形、その後に接続させるべき「ば」を省略した形を使用するのは間違いのもとになるので止めた方が宜しい。
「エンデの『モモ』」は、永遠のロングベストセラー。
発売されてから、もう「三十五年」にもなるのだろうか?
「売れれば補ふ」という表現に、地方の小規模の「本屋」さんの経営者の方のご苦労の程が偲ばれる。
〔返〕 教師なれ問はれぬ先に教ふるも役目の一つと任じてのこと 鳥羽省三
○ のこる命生きて歌詠めよ樫の実がしぐれをなして吾が上に降る (筑西市) 斎藤絢子
「しぐれをなして吾が上に降る」「樫の実」に、自然の神の啓示をお感じになったのでありましょうか?
〔返〕 来む世にも他人の歌を難ぜよと公孫樹落ち葉が我が身に諭す 鳥羽省三
○ 峡棚田空稲架あると見たりしが夕べに百の大根吊りて (宮城県) 須郷 柏
乾燥し上がった稲株を取り去った後の稲架に、「大根」や大豆などを掛けている風景も、田舎ではよく見掛ける風景であった。
〔返〕 一億も持つと見たりし寡婦なれど当てが外れて着た切り雀 鳥羽省三
○ 海がんでひろった貝がらにじの色スイミーからのプレゼントかも (笠間市) 高野花緒
小学生の高野花緒さんとて、まさか「海がんでひろった」「にじいろ」の「貝がら」が、「スイミーからのプレゼント」とは、少しも思っていないのである。
だが、そこをそう正直に言わずに、「スイミーからのプレゼントかも」と言えば、小学生らしくあどけない表現の作品になるということを、誰に教えられたのでも無くて知っているのでありましょう。
その一方、<海岸>とすればいいのに「海がん」とし、<貝殻>とすればいいのに「貝がら」とし、<虹>とすればいいのに「にじ」とするなど、とことん入選狙いの食えない作品、などと申すのは、この日本の歌壇で評者ぐらいのものでありましょう。
〔返〕 たまプラで話し掛け来しあの少女少し気のあるふりしたかった 鳥羽省三
[永田和宏選]
○ ほんのりと昼を灯せる本屋なり立ち読みひとりくすりと笑ふ (長野県) 沓掛喜久男
「くすりと笑ふ」のは、「立ち読み」のお客様でありましょうが、余りの客足の鈍さに、店主の沓掛喜久男さんが「くすりと」お笑いになったようにも思われるところが、この作品の面白さである。
〔返〕 ほんのりと昼を灯せる電気料勿体ないなら店閉じなさい 鳥羽省三
○ じいちゃんも金魚も寂しいやろなあと二ひく一を子が思う秋 (和泉市) 星田美紀
「じいちゃん」が死んで、「じいちゃん」から愛されていた「金魚」一匹だけが生き残っているのか?
「じいちゃん」は死なないで、たった一匹、ペットとして「じいちゃん」から愛されていた「金魚」だけが死んだのか?
それとも、「じいちゃん」も「金魚」も死んでしまった結果、後に残された「子」が、「じいちゃん」と自分との関係をふり返り、或いは、金魚と自分との関係をふり返り、どちらにしても、この場合は『二引く一』である、と納得し、観念しているのでありましょうか?
〔返し〕 「二引く一」答えは常に「一」となるじいちゃん死んで金魚も死んだ 鳥羽省三
○ スイミングはじめてとった金メダルこっそりないた帰りの車 (笠間市) 高野真気
「『こっそり』撫でた」と言わないで、「こっそりないた」と言うところが、<大人社会の影響>大なるところでありましょうか?
〔返〕 ルッツ決め今夜は取るか金メダル浅田真央ちゃんピンチ瀬戸際 鳥羽省三
○ 「出会ったとき」「襲って来たとき」熊役の女性レポーター懐こい笑顔 (山形市) 渋間悦子
「熊役」もやれて、顔の「懐こい」「女性レポーター」と言えば、迫文代さんに決まっているようなものですが、やや日焼け気味で、やや太り過ぎなところが災いしてなのか、彼女の顔はこの頃テレビ画面に映りません。
〔返〕 「襲うとき」が「襲われたとき」より適役で迫文代さん熊にぴったり 鳥羽省三
○ うどん打つ音とうどんを茹でる湯気通りに満ちるわが街の冬 (高松市) 新田仁史
高松市と言えば香川県の県庁所在地。
香川県と言えば讃岐饂飩の本場である。
したがって、「うどん打つ音とうどんを茹でる湯気通りに満ちるわが街の冬」という言い方は、少しも誇張した言い方ではありません。
「うどんを打つ音」と「うどんを茹でる湯気」。
これこそ正しく歳末の高松の「街」の風景を象徴するものである。
〔返〕 素醤油をかけた饂飩がなぜ食える高松市民は意外に粗食 鳥羽省三
○ 会社では浮いた存在であるを告げこれ以上晒すものなし妻に (和泉市) 長尾幹也
沈んでいるよりも浮いている方がかなり増しである。
「これ以上晒すものなし妻に」と言えるのは、沈んでしまって再び浮かび上がれないと決まったときでありましょう。
〔返〕 一例を上げれば深夜のベッドにて「あなた駄目ね」と言われた時か 鳥羽省三
○ 黄金の埋蔵場所を知ってゐる秋の夕べの屋上の猫 (大分市) 長尾素明
こちらは陽の射している長尾さんでありましょうか?
「秋の夕べの屋上」に寝そべっている「猫」の背中に西日が当たって、黄金色に輝いているのを見て、「黄金の埋蔵場所を知ってゐる」と表現したのは大変素晴らしい発想である。
〔返〕 レアアースの埋蔵場所を知りたくて土俵の砂に這ったか白鵬 鳥羽省三
○ 中学で村田銃兵の日三八歩兵銃握りし右腕の掌の平の皺 (相模原市) 中村健次
内容はどうでも、韻律の悪さはカバーは言い訳出来ようもありません。
〔返〕 今日もまた模造鉄砲担いでの歩行訓練ばかりで暮れた 鳥羽省三
○ 辺土岬これが琉球の藍ですと黄泉覗くがに断崖に立つ (沖縄県) 和田静子
それ程に、沖縄の海は紺青なのでありましょうか。
〔返〕 辺土岬バンザイクリフにあらざるも今も真っ青沖縄の海 鳥羽省三
○ 朝日歌壇掲載ページ破り持ちバスに飛び乗る月曜の朝 (横浜市) 新井邦子
ことほど然様に、「朝日歌壇」に入選したという事実は大変な事実なのである。
ここに、選者の皆様の覚悟して選歌に当たらねばならない所以がありましょうか。
〔返〕 此処に亦一人相撲の評者居て誰も読まない評を書いてる 鳥羽省三