goo blog サービス終了のお知らせ 

湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

ラヴェル:ボレロ

2017年12月08日 | Weblog
ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA)CD

ステレオ。ミュンシュはテンポを崩したような演奏もしているがこれはバランスの取れたまっとうなボレロ、しかし勢いと力感はもはやバレエではない域に達した名演。ラヴェル音楽祭の指揮者を若き日に勤めただけある、オケも不断の緊張感でのぞんでいるし音も技術も素晴らしい。録音が古くて印象的にはノイジーな雲に覆われた感もあるのが残念。
Comments (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆ショスタコーヴィチ:交響曲第10番

2017年12月06日 | Weblog


○伝作曲家指揮ナショナル・フィル管弦楽団(COLOSSEUM)1950'S・LP

問題の演奏だ。この曲をショスタコーヴィチ自身が振って、ナショナル・フィルを引き連れてヨーロッパを巡る計画があったのは事実のようで、政治的問題によりフランスでボイコットにあってうやむやに
なった模様。それにしてもコロッセウム・レーベルは奇盤を持っているなあ、と思った。以前ゴロワ
ノフが「ボリショイを振った」スクリアビンのシンフォニーなる怪しい代物が出ていたのを思い出す。
ナショナル・フィルについての詳細は記載が無いが、恐らくソヴィエトのナショナル・フィルということだろう(ナショナル交響楽団というのはイギリスとワシントンに実在した。ストコフスキやチェクナヴォリアンの盤にナショナル・フィル名義のオケとの録音があるが、詳細の記述が無く不明)。ソヴィエト国立交響楽団にしては音がスマートだが、そのあたりの一級楽団であると思われる。さて、演奏のほうだが、とても引き締まって緻密な指揮ぶりが伺える。これが指揮棒を殆ど持たなかった作曲家の指揮か?と思わず疑ってしまう。実際は下振りが完成直前までもってきて、最後の指示を作曲家が与えたようなものだったのだろう。でなければとても素人指揮とは思えないから、もっと振った盤があってもいいはずだ。いわゆる「企画盤」なのだろう。10番はワインベルグと連弾版の演奏も残されており、この曲について何か思うところがあったのかもしれない(まあ、単なる政治的理由だったのかもしれないが)。荘重な薄暗い音楽の始まりは、盤面の悪さからくる雑音の海の中からもよく響いてくる。プレスト楽章の迫力は凄い。終楽章も見事に場面場面を演じ分けて、聴くものを飽きさせない。全体のバランスがすこぶる良く、ここだけがいい、とかいう指摘は難しいが、自作自演にしてはとても完成度が高いと言うことができる。指揮ぶりに個性は余り感じない。そのあたりが職業指揮者との違いと見るべきか。多分に情緒的ではある。○ひとつとしておく。モノラル。

(後補)ショスタコーヴィチが生涯でタクトを握ったのはただ一度、公開演奏会で祝典序曲を振ったときだけ、という説もある。そのとき、もう二度とタクトを握らないと言っていたようだが、真相は不明。

(後後補)今更だが、この録音はコロッセウムがムラヴィンスキーのメロディヤ録音(1954)を偽って出したものであるとのこと。オケはレニフィルと思われる。作曲家監修という言葉を指揮に変えて発売したものの模様。ライヴではなさそうなので恐らく別項で紹介している正規盤だろう。

~ピアノ連弾版

○ワインベルグ、作曲家(P)(melodiya/REVELATION他)1954/2/15・CD

メロディア盤LPを愛聴していたが、マイナーレーベルでCD復刻された機に広く知られるようになった。ワインベルグと作曲家の連弾による記録である。このように大規模な曲の自作自演というのは他にないので(疑惑のコロッセウム盤は除く・・あのLP、海外のオクサイトでも見かけた)貴重なものだ。ショスタコのピアノはよたっており、はっきり言ってへなちょこである。また4楽章後半など盛り上がりは凄い(かなりカタルシスのえられる)のだが、いかんせん4本の腕では足りなさすぎる。悲愴の3楽章の弦のスケールを模倣したと思われるパセージなど二人揃ってつんのめっており、それとわからないほどにごちゃっとしている。でも3楽章など意味深い思索的な音楽になっている。じつは10番の肝かもしれないこの諧謔的な楽章は、まるで鍵盤の上を悪魔が踊っているようにきこえる。4楽章への流れもいい。1、2楽章は若干大人しめで線の細さが聞こえてしまうのだが(編曲の限界かも)、後半2楽章は両者の腕も確かになってきているので評価できる。○。

※2004年以前の記事です
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆【最新反映】過去記事まとめブログ(2017/12/4まで)

2017年12月05日 | Weblog
20世紀ウラ・クラシック<まとめ>α版
gooブログから最新記事反映しました。よろしくお願いします。
(過去記事再掲ぶんは除きます)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブラームス:交響曲第2番

2017年12月02日 | Weblog
ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(ARTISTS)1978/4/29レニングラード・CD

拍手がないので放送用セッションか。ムラヴィンスキー晩年にしては西欧的な均整感にもとづく緊張の漲る演奏で、ロシアオケ特有の音色表現はほとんど気にならず、立派なブラームスになっている。まったくこれがスヴェトラのブラームスとは異なる、本流のブラームスとして聴ける演奏であり、ロシアかどうかは問題ではない。羽目を外さずしかし凄まじい四楽章は特筆もの。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第9番(1958)

2017年11月28日 | Weblog
ボールト指揮

LPO(EVEREST)追悼コメント付き、旧録・CD

~没後間も無い録音。ボールトがやや即物的傾向を示していた時期のため、後出の新録に比べてざらざらとし聞き劣りがする。


◎LPO(EMI)1970・CD

~ヴォーン・ウィリアムズとは長いつきあいだったボールトの、極めつけの名演。同曲のスタンダードたるべき演奏。 弦楽器の共感に満ちた音が痛切に響きわたり、晦渋とされ物議を醸した同曲にはっきりとした意味を与えている。 夫人によれば作曲家は既に次の交響曲を準備しており、死は図らずも訪れた災難であったというが、この演奏の最後を聞くにつけ、さまざまな苦悩が光彩の中に昇華し消え行く概念は、それが死でしかありえないという結論を暗示しているように思えてならない。終盤スコアは浄化されるかのように白くなっていき、暗雲のように蠢く不定形な陰りは、サックスによる一筆を残して消え失せる。ささくれ立ったフレーズの数々は、やがてそれ自体無意味という悟りを得たかのように、解決の場を与えられないまま、響きの中に消滅してゆく。終末の壮麗な和音の向こうに、来るべき世界がある。懐かしいもの、決して忘れ得ないものの中に、行くべきところがはっきりと見える。晩年無宗教者であったというRVWの目前には、それでも神が降り立ったのだ。そしてあの「無」※という光の中に、いざなっていったのだ。…

※スコアは最後に一言"nothing"と書かれて終わっている。

2004年以前の記事です
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆メシアン:世の終わりのための四重奏曲~Ⅴ「イエスの永遠性への賛歌」

2017年11月28日 | Weblog
◎フランセ(P)ジャンドロン(Vc)(PHILIPS)CD

同曲中2楽章あるデュオによる賛歌の最初のほうで終楽章「不滅性への賛歌」(Vn)と対をなすが、そちらがオルガン曲の転用であるのに対してこちらは「水の祭典」からの転用曲でもある。独特の散発的な和音による伴奏、独特の旋法的な旋律、前者ピアノ後者チェロによってひたすら歌い上げられる。伴奏と旋律が完璧に別れてしまうところはフォーレと同じなのに何故か単調さを感じないのは伴奏旋律共にメシアンにしか書き得ない独特のものであるところから来ている。個人的にこのフランス・チェロ曲集の白眉。ドビュッシーでも感じたがこの人のハイポジは飛び抜けて巧く、低音から跳躍しても常にはっきりと完璧な音を出せる。しかもハイポジだけで弾いていても全く無理無駄がなく低音で弾いているときとほとんど変わらない歌をうたえる。音が裏返ったりかすれたりすることは全く無い(まあそれはそれで味になるのだが)。この曲も高いポジションのくだりがあるが、ヴァイオリンで言えばシゲティやメニューインのような苦しさがなく、それがかえって救われる。もう決して手の届かないものに、それでも精一杯手を伸ばす。そういった絶望的な憧れを感じさせる曲、演奏だ(そんな意味の曲かどうかはわからないが)。◎。冒頭に述べたが同曲は真ん中にチェロ、最後にヴァイオリンがピアノ伴奏付きでひたすら平易な旋律を歌う楽章が配されていて、前衛的な楽章の中にあって非常に高い効果を挙げている。収容所内で響いたことを思うと絶句する。

CD化された。

※2004年以前の記事に一部加筆したものです
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブラームス:交響曲第3番

2017年11月23日 | Weblog
ワルター指揮VPO(angel他)1936・CD

この時代の録音ゆえフル編成とは思われず音色も正しく伝えられていないと思えるのでウィーン・フィル云々は別として、ワルター全盛期を窺い知ることのできる演奏。スピーディに躍動的な音楽を展開してゆき、アメリカへ行ってのち晩年スタイルへ移行する前の生命力あふれる指揮ぶりに心奪われる。オールドスタイルに無茶苦茶をやっているわけではない、けれども決して飽きない。四楽章の愉悦にはワルターの本領であるモーツァルト的なものを思わせずにおれないものがある。軽々しく感じてしまうところもあるが、そこは音域ふくめ録音のせいの気もする。良い演奏。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シベリウス:交響曲第2番

2017年11月22日 | Weblog
クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(RCA/artis他)1950/11/29・CD

クーセヴィツキー最後の録音の一つとして相対的に破格の音の良さから疑似ステレオ盤もつくられわたしはそれを持っていた。もっとも質の悪い薄盤であまり聞かなくなったのでartis40枚組を入手して聞いた次第。クーセヴィツキーのノイズの中から響いてくる剛速球のイメージが、霧が晴れたようになってあらためて面白い。2番は旧録(1935)もあるがオケの出来からいっても演奏の落ち着きからいってもこちらのほうがシベリウスらしくて良い(クーセヴィツキーもオーマンディもシベリウスと懇意で信頼されていたアメリカの指揮者だ)。音色はさほど魅力はないが厳しく技術的な瑕疵なきようまとめあげられ、音は短く切り上げ気味で発音が強く、このあたりがノイジーなライヴ録音で聞こえてくるスタイルのもとなのだとわかる。音の気を抜かせない、ブラスの長い音符でも決して歪ませずまっすぐ太く保たせる、弦楽器は多少萎縮してテンポを揃えなおしてでも細かい音符まで合わせさせる、これは昔はあまりなかったかもしれないが、なくはなかった。3楽章以降はちょっとまともになりすぎている感もあるがライヴではないからこんなものだろう。比較的ゆっくりでゆるい感もあたえる弦の刻みから4楽章の予兆を木管アンサンブルがかなではじめる前のものすごい空白はプレイヤーが壊れたかと思うが単なるパウゼである。その後はさすがに最晩年なりの落ち着きは出ているが流れ良さは保たれている。作為なく譜面通り、シベリウスのわざをそのままにお届けする4楽章はものすごいアッチェルとかデフォルメを期待してはいけない。むしろ落ち着いて身をゆだねる、さすがにオケのコントロールは見事で自然に立体的に組みあがり調和が保たれている。沈潜する雰囲気は2楽章より4楽章の展開部のほうが強い。もうすっかり灰汁の抜けた大人しい演奏になっているので過度な期待は無用だ。しかしここから最後のクライマックスにかけては意地をみせる。ここを聴かせるためだけに長々とやってきたのかという再現部はいきなり大仰で感動的である。高音の音量がもっとほしく思うが書法のせいだろう。短調のうねりにのったペットのヴィブラートが美しい。転調はあっさりだがテンポは落としてじっくりやる。かつてのこの指揮者にはあまりなかったやり方ではある。ブラスと太鼓により壮大な結末が提示される。ラストはきっぱり切る。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドビュッシー:管弦楽のための夜想曲

2017年11月22日 | Weblog
プレートル指揮フィレンツェ五月祭管弦楽団&合唱団(MAGGIO)2004/3/6コムナーレ劇場フィレンツェlive・CD

1楽章はひそやかに、時に止揚しつつ進む音楽。近年にはめずらしいタイプのロマンティックな解釈だが徹底してピアニッシモの世界なので奇妙さは感じない。祭りも独特の創意は解釈に表れているが「まつり」というには重いというか、ゆっくりというか、テンポも変化はするけれど早い遅いだけでなく細かく速度を計算的に動かしていてひとことでは言いづらい。静まってゆき3楽章へといざなう。このころのプレートルは静寂のほうが向いていたのではないかと思わせる、ホルストのような神秘だ。世俗的なオケソリストのフレーズも合唱で神秘にまとめられる。癖のない非常に繊細なシレーヌで、おおきなディミヌエンドで消えていくまで聞き入ることができる。これはよかった。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドビュッシー:三つの交響的エスキース「海」

2017年11月22日 | Weblog
プレートル指揮フィレンツェ五月祭管弦楽団(MAGGIO)1992/10/31ヴェルディ劇場フィレンツェlive・CD

1楽章は明るくゆったりとした音楽になっているが時折奇矯なことをやって耳を引く。作為が見えてしまい居心地が悪く思えるところもある。2楽章は動きが加わるが1楽章でもかんじられたオケの弱さが気になる。ライヴだからこそ弦楽器の乱れがよくきこえてしまう。90年代前半の演奏なのでまだプレートルも壮年の輝きをはなち弱音の美麗さ、末尾のハープとかさなる楽器のリタルダンドまで美しい。3楽章の不穏なはじまりは明るい雰囲気をちゃんと曲想にあわせて変えてきている。オケに配慮が行き届いている。きちっと激しいところは鋭くやっている。ただメロディ楽器の音符の最後に瞬間テンポルバートをかけ引き延ばしてディミヌエンドさせおさめるなど後年まで続くやわらかい処理は顔を出す。緩急がよくついており、それはよくあるデジタルな変化ではなくやわらかい自然なもので物語性を一貫して演じさせ印象深い。楽想変化もすこぶるあざやかだがすべらかでわかりやすい演出がほどこされる。丁寧で、性急に終わるに向かうことはしない。力づくで叩きつけるのではなく雄大な波のうねる表現はなかなかだ。終わり方も丁寧。少し作為的だが良演だと思う。拍手はふつう。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆ヴォーン・ウィリアムズ:ヴィオラと小管弦楽、合唱のための組曲「フロス・カムピ(野の花)」(1925?)~2017/10までのまとめ

2017年11月21日 | Weblog

◎プリムローズ(Va)ボールト指揮フィルハーモニアO他(EMI)/
○リドル(Va)デル・マー指揮ボーンマス・シンフォニエッタ(CHANDOS)CD

ソロ・ヴィオラと無歌詞による小混成合唱、そして小管弦楽による組曲というヴォーン・ウィリアムズらしい編成によるこの曲。1925年8月、名手ライオネル・ターティスの独奏によって初演されました。リハーサルの段階で演奏家達がいたく感じいり、作曲家を喜ばせたと伝えられます。タリス~田園の系譜からヨブ~第4交響曲の系譜に至る迄の輝ける小路を飾る美しい野花。惨い世界戦争の傷覚めやらぬ時期の絶望と慰めの曲です。古い録音ですがプリムローズ独奏によるボールト盤で聞いています。ここではほの暗い夢幻のうちにさ迷う美しくも悲しい想いが、密やかに綴られています。新しい明快な音でないからこそ、心の深層に響く。初めてこの演奏を聞いたとき、あのどこまでも続く灰色の野と冷ややかな霧を思い起こしました。其の中から立ち現れる夢ともうつつともつかない人影。それは恋人の姿か、いにしえの廃虚の住人か、やがて幻の祭列が現れ、過ぎ去ったあと、雲間に薄く光が射し、希望の温もりをもたらす。宗教的な雰囲気の濃厚な曲ではありますが、作曲家はそれを否定しています。一聴をお勧めします。新しいものでは、作曲家ゆかりのリドル/デル・マーによる録音が、CHANDOSより出ています。

◎アブラヴァネル指揮ユタ交響楽団他(VANGUARD)CD

この指揮者には期待していなかっただけに驚いた。若々しく、壮麗で美しく、楽曲の立体構造を非常に効果的に聴かせることに成功していて、単なるヴィオラ協奏曲ではないんだ、と改めて認識させた。オケの迫力が凄い。緩急がハッキリしていてマーチにおけるリズム処理も素晴らしい。この曲にこういった覇気ある表現も可能なのだ、RVWはやはり上手い、と膝を打つ。合唱の迫り方、ヴィオラソロの音色も程よく良い。◎。

○L.フックス(va)ペルレア指揮マンハッタン音楽学校管弦楽団・合唱団(SLS:CD-R)1965/1/21

起伏のある演奏で、穏健な録音の多い同曲「本来の」一面を引き出している。多調の用法は効果的でモノラル録音こそ悪いものの一層はっきり印象付けられる。独奏者はアンサンブルに融合し際立たないところが却って曲のためにはよい。リリアン・フックスは兄とは違いヴィオラ奏者として身を立てた。SLS盤表記(violin)は誤り。同楽団はかつて教鞭を取っていた学校のもの。録音記録データに指揮者違い・録音年月日違いの同楽団のものがあり(市販されていない模様)、SLS盤には初出表記がなく、同一の可能性もある。

○フランシス・トゥルシ(Va)フル指揮コンサートホールソサエティ室内管弦楽団(CHS)LP

これ、存外拾い物だったんです。新しい録音より古いほうが、戦争もあったばかりで、真実味があるのかなあ。ヴィオラソロもプリムローズやリドルとは違った陰影がある。イギリスの靄のかかった荒野、浮かんでは消える幻影、最後に陽さす光景・・・歌劇「天路歴程」に通じる美の極致。リドル/デル・マー盤のクリアなステレオ録音より数倍悪い録音なのに、管弦楽、無歌詞合唱の胸に迫ることといったら。リアルなのだ。久々に擁護感なしに○。録音とレア度をマイナスとした。トゥルシはいくつか現役盤がある名手。

○バルマー(Va)ハンドレー指揮王立リヴァプール・フィル&合唱団(EMI)1986/9・CD

何故ヴィオラやチェロにヴァイオリン音域を弾かせるかって、音色を求めているのである。響きに倍音が多く含まれるかどうか以前にギリギリの、キュウキュウの音を求めているのだ。透明な音で余裕しゃくしゃくの表現をされると、何か違うと思ってしまう。プリムローズ以上にヴァイオリン的なこの演奏を聴いていると、引っ掛かりの無さが気になる。オケや合唱は透明感があっていいが、そこは非人間的な自然ないし超自然の音を出す役まわりであるからいい、ヴィオラにはその中で翻弄されるような人間味を求めたい。余裕で○だが、私は違和感を覚えた。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆ラヴェル:ピアノ協奏曲ト長調(1931)(2017/10までのまとめ)

2017年11月21日 | Weblog

<ラヴェル晩年の傑作。ダフニスの頃を思わせるリリカルな旋律と明快な新古典的楽想を持ち、同時期の「左手」よりも親しみやすく、万人を受け容れる喜遊性に満ちている。これですら(曲想のあけすけな明るさに対する好き嫌いを別とすれば)気に入らないのならラヴェルにそもそも縁が無いのかもしれない。どちらかといえば不作といわれる20年代、その終わりとともに「ラヴェルが戻ってきた」と感じさせる作である・・・これが「左手」と共に最後の大輪となってしまうのだが。諸所の技巧的な問題点など指摘されようが(ニコルス著渋谷訳「ラヴェル」泰流社刊参照)、一般的な聴衆にとってどうでもよいことで、特に2楽章アダージオ・アッサイの淡々とした、諦めにも似た感傷は、繊細な表現の巧い演奏家・・・フランソワなど・・・の演奏で聞くと、いてもたってもいられなくなる。本当に堪らないものがある。軽く透明で、情緒など微塵も混じえぬ演奏ほど、深く染み込むようにずっしりと、魂を揺さぶってくる。一方 終楽章の律動的で余りにあっさりきっぱりとしたすっきりプレストは(あきらかなリズム構成は「ゴジラ」に剽窃されたといわれる名リズム)、高雅なフランセというような雰囲気で、それゆえいくぶん皮肉めいてはいるけれども、ジャズなどの軽音楽的要素を巧みに織り込みながら(1楽章のブルースもそうだが)、ひたすらの運動性をもって終幕を盛り上げる。引き締まった筋肉質な音楽、しかしプロコフィエフほど肉感的ではなく寧ろ武道格闘家のような「一見優男的」音楽。壮絶な闘いも高度に洗練されると美的色感を帯びて来るように、ここにはめまぐるしい極度の技巧を乗り越えた上にたとえようも無く美しい夢幻が広がっている。全編明るく眩い光に満ちているがゆえ・・・このあと作曲家が歩んだ壮絶な死への道のりが、余りに切なく、哀れに思われてならない。「左手」を作曲家晩年の傑作とする向きも多いようだが、ラヴェルらしい「複雑だが煩雑ではない」明快な美を求めるなら、くぐもった同曲よりもこのト長調を選ぶべきだろう。>

ロン(P)

伝ラヴェル指揮パリ交響楽団(実際はフレイタス・ブランコ指揮作曲家監修)(EMI/PEARL他)/
◎ツイピーヌ指揮パリ音楽院管弦楽団(EMI)

先ずは献呈者にして大姉御ロン女史の演奏を挙げざるをえまい。今は新旧共にCDで聞ける。前者は貴重な同時代の演奏記録としてのみ価値を得る、じつに雑音に満ちた演奏(とくにバックオケの音の分離が悪すぎる)ゆえ、あくまで参考としておく。ただ脂の乗りきったロン女史の指の冴えが光っている。(ちなみに現在この演奏は、ラヴェル立ち会いのもとに当時フランスなどで活躍していたポルトガル人フレイタス・ブランコが振ったものとされている。EMIでCD復刻されるさいに正式に発表された)

最晩年の演奏とはいえ、後者にもまだまだ往年の壮絶な技巧の衰えない様が伺える。ロンはヴィニェスやメイエルを思わせる押せ押せ前のめりのスタイルを持った技巧派演奏家だったようだが(ミケランジェリの無機的スタイルともまた違う、熱い(南国風?)スタイル)、ここでは幾分穏やかなテンポ設定で細かい解釈表現を織り交ぜた堂に入った演奏となっている。耳ざとい向きはいろいろと綻びを聞き出すであろうが、まあ聞いてみて欲しい。録音は・・・ちょっと大目に見てください。

(3楽章のみ)
◎コンドラシン指揮モスクワ・フィル(モスクワ音楽院大ホール百周年記念盤)1955/4/12live

ラヴェルに対して姉御的存在だったのがロン。古いブランコ盤でのロンは雑音の多い中でも際立って巧い。逆にロンが最晩年に収録した盤はややオケに難がある。ところでここではコンドラシンの力量をまずもって明らかにする。コンドラシンの素晴らしいコントロールとモスクワ・フィルの巧さをもって非常に耳心地が良い音楽となっている。終楽章だけというのがいかにも残念。ロンはさすがにちょっと老いた感もあるが、聞ける。


ペルルミュテール(P)

ホーレンシュタイン指揮コンセール・コロンヌ (ACCORD,VOX他)1962

ホーレンシュタインの指揮が余りに硬くて野暮。コロンヌも反応が悪すぎる。とてもプロとはおもえないアンサンブル・・・作曲家の一番弟子といってもいいであろうペルルミュテールの唯一の盤としては・・・余りに・・・(泣)ペルルミュテールの紡ぎ出す微妙なニュアンス表現のみを「頭の中で」選別して聴いてください。それは素晴らしいリリカルな世界です。ホーレンシュタインの武骨とは真逆!録音は余り良くない。最初ライヴ演奏かと思った。


ニコレ・アンリオ=シュヴァイツアー(P)

ミュンシュ指揮

パリ音楽院管弦楽団(london)1949/5/31

原盤起因のノイズはともかく、演奏はたどたどしいと言わざるを。指の回らないアンリオに合わせてオケを抑えるというやり方は管楽ソロのミスを誘発。ガーシュイン再構築みたいなこの曲、ミケランジェリ位じゃないと遊べない。音程がどうもズレている。ピアノの音程がズレるわけないので、原盤起因か。ラヴェルは音同士が衝突しかねないバランスの難しい重ね方をすることがある。こういうズレ方をすると単なる不協和音にきこえてしまう。

ORTF(ina配信)1966/12/4(11/22?)live

録音は良好なステレオ。聴衆反応も激しい。ただ、特に一楽章のオケがカッチリしておらず、ラヴェル特有の「細工」が瓦解しかかる場面がしばしば聴かれる。ライヴならこんなものかもしれないが同曲を得意としたコンビにしては毎度ながらアバウトな印象が残る。アンリオは強い調子であまり起伏やニュアンスを作らない。

○シカゴ交響楽団("0""0""0"classics:CD-R)1966LIVE

このソリストは戦時中はレジスタンスとしてミュンシュと行動を共にし(歿後に至るまで)非常に親密で、幾度と無くタッグを組んでこの曲をやっていたが、その中では割合と落ち着いたほうの演奏で、スピードもやや緩い。しかしそれ以前に録音が悪すぎ。高音がぜんぜん聞こえてこないのに、低音はガンガン響いてきて、ソリストが高音をまるで誤魔化して弾いているように聴こえるのが辛い。ただ、強く明瞭なタッチは十分楽しめ、細かいニュアンスを込めることへの拘りがよく聞こえて面白い。ああ、巧いな、と思うフレージングがいくつかある。それだからスピードが緩くても楽しめるのだ。パラパラ胡麻を撒くような芸風のロンがけっこう直感的にやっている「部分」を、意識して誇張しているようにも思える。音が悪いので、よーく聴いてみてください。シカゴ響はこころなしか振るわない。なんとなくちぐはぐな感触だけ残るのは録音のせいだけだろうか。差し引き○。

○(ペルルミュテール?)(P)ミュンシュ指揮シカゴ交響楽団(DA:CDーR)1966/7LIVE

ピッチ高っ!最初たどたどしくてメロメロ、ミュンシュは大きく伸び縮み、とどうしようかと困惑してしまうが、テンポは余り上げられないものの1楽章の最後にはかなり解釈を入れてきて、激しいタッチで意外なほど熱気をもって終わる。エッジが立った分離の激しいステレオ録音ゆえ、冒頭よりソリストをも含む弱音表現が聞き取り辛い。音質がニュアンスを捉えきれず2楽章はリリシズムの聞こえ具合にやや不満も残った。ロマンティック過ぎるかもしれない。その意味ではリアリテ溢れる表現主義者ミュンシュと見解の一致がありそうだ。この録音に○をつけたのは終楽章いきなりの攻撃性で、オケがついていかなかったり技術的に墓穴を掘ったようなところも出てくるものの、内容のないところが持ち味とも言えるこの曲の運動性の要求には応えている。起伏の付けすぎのような印象もなくもないが、音が割合無個性なので臭みはない。表記上ペルルミュテールになっているがラジオアナウンス内容と解釈から明らかに誤りである。従って既出盤("0""0""0"classics:CDーR)と同一の可能性極めて大。 (※感想は前記の2年以上後のものです)

ボストン交響楽団(RCA)1957/11/25・CD

旧録だがステレオ。これが妙に、と言っては何だか魅力のある演奏で、もちろんスタジオ録音だからミスは無いのだが時折瞬間立ち止まるような堅さは、ペルルミュテール/ホーレンシュタイン盤を彷彿とさせるのだ。音はもっと硬質で色が無く無理して強く打鍵しているような荒さがあり詩情を比べるのもおかしいのだけれど、それでもこの演奏は魅力がある。マルグリート・ロンからヴラド・ペルルミュテールに至る同曲演奏の一つの流れの上にいる。私の悪い耳から言えば「ハッキリしている」からわかりやすいのだろう。柔らかさがないのが同曲には向いているのだ。それでも二楽章~誰がやっても詩情漂うのだが~はこの人にしては、結構感傷的というか、よく起伏がつき印象深い。ミュンシュはぴたりとつけ、これもロンやペルルミュテールのバック同様何かを付加することはない(ホーレンシュタインはマイナスしている感もあるが)。この演奏は推せます。ニコレ・アンリオについては別記したが自分で検索する上で引っかかりやすくするのと、同じ人であることを強調し統一感を持たせるため、わざわざ結婚前後で名前表記を変えず、シュヴァイツァーまで記載しています。本ブログ(まとめブログ)ではこのようにわざと表記をいじったり、検索用に文中で名前表記を幾つも使ったり(モントゥー、モントゥのように)してます。

ボストン交響楽団(RCA)1958/3/24・CD

仕方ないといえばそうなのだがソリストとオケがどうしても細かい部分でかみ合っていない。この曲ではほとんどの人の演奏(録音)がそうなので仕方ないといえばそれまでなのだが、ソリストが思いっきりアグレッシブに出てきている1楽章では、オケがむしろ後ろ向きの縦ノリのテンポをとりバランスが微妙に危うい感じがする。それでもロンの晩年盤によく似たかんじもあり、この楽章は(ほとんどの録音が成功していない中)かなり成功しているとはいえるだろう。2楽章は音色に深みはないが表現がなかなかに情緒的で美しい。テンポどりが絶妙である。主知的な部分と主情的な部分のバランスをどう保って、結論としてどうテンポ設定をし、どう揺らすかが鍵となるが、ここはソリストがまずもって巧いといっていい。3楽章はやや遅い感じがする。ミュンシュにこのソリストとあれば猛烈なスピードが期待されるところ、ライヴ盤でもそうなのだが今ひとつ客観的なテンポ設定にきこえてしまう。スポーティな楽章である、猛烈なスピードのまま弾き切って素っ気無く切り落としておしまい、というところが今ひとつどっちつかずな感じもする。まあ、でも無理は言わないで○だけつけておこう。

○ボストン交響楽団(WHRA)1958/3/15live・CD

晩年なじみの組み合わせだがこの録音が新発掘なのかどうかわからない。印象としては適度に派手でなかなか楽しめるが技術的なことやライヴなりの瑕疵を気にする向きには、1楽章始めのほうのオケのばらけぐあいや生硬なテンポ設定に一部ソロミス、3楽章にはオケは素晴らしく一気呵成に攻めるもののソロミスがかなり目立つ、ということを言っておかねばならない。ロンの表現に沿ったような解釈だが、ちょっと若い。2楽章を頂点として織り交ざるイマジネイティブな情景が晩年ラヴェルには珍しく、どの演奏でもそれなりに印象深く感じられるものだが、ミュンシュの音彩が実に素晴らしい。むせ返るようでもある。ピアノソロも細かい粒をたてた美麗で繊細な、抑制された印象派ふうの表現が印象的。総じてライヴなりに、であり、音はこのてのものにしてはいいがモノラル。○。

パリ管弦楽団(ANGEL/EMI他)1968/9パリ・CD

ステレオだが古ぼけたノイズが載るけして良好ではないもの(私はLPからリマスターCDまで持っているが全般を見通しても70年代も近い頃の標準的なスタジオ録音の中で上位には置けない。LPではライヴかと思ったほど。原音からのノイズ除去勝負だろう)。相対的に言って抑制的な表現で、遅いインテンポで確かめるように進めていく。そのぶん演奏精度は高く、このオケの母体となる団体の(団員が大幅に入れ替わっているのでそれは無いとは言われているがなお)伝統であろう情緒的とでも言うのか、力強い表現とあいまって、ミュンシュのものとしては最も一般的に勧められる。だが壮年期の突進し暴れまくるミュンシュらしさの欠片もないので、そこはどうかというところ。ソリストはかつてない精度で演じているがどこかデリカシーがない、音色が一本調子だ。私にはこの「白鳥の歌」の一枚が、新生楽団の首席として指揮台に立ったミュンシュがしかし板につく表現まで至らなかった「その真価を発揮できないまま」急逝してしまった、生硬な記録として聴こえてしまうのだがどうだろうか。

このソリストも巧いです。ミュンシュ・ラストレコーディングでCD化もしている。アース・パレー盤の感じだが、総じて一枚上手におもう。(※前記の13年以上前の感想です)

○ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル(NICKSON)1953/11/29LIVE

ソリストが面白い。ミスタッチもあるけど大まかには強靭なタッチでよく指が回り、聞きごたえの有る音になっている。さらにけっこう即興的に揺らしてくるからオケが慌てる。解釈に意外性があり、とても面白い。3楽章ではあまりの高速にオケがついていけずすっぽり落ちてしまったりずれてしまったり、とても人に勧められるような演奏ではないが、面白さを買って○つけときます。

冒頭から異常な迫力で突き進むソリストにオケが完全にズレるという事態。管楽器ミスだらけ。味も何もなく両端楽章のスピードはライブならではの感興を呼んでいる。
(結婚前のニコレ・アンリオでもわかりやすさを優先してここでは「シュヴァイツァー」の名字をつけています) (※前記の12年以上後の感想です)


ミケランジェリ(P)

グラチス指揮フィルハーモニア管弦楽団(EMI)1957/3/
○サンゾーノ指揮トリノ放送交響楽団(ARKADIA)1952/2/1ライヴ

ミケランジェリも晩年のラヴェルに賛美されたピアニストで、カサドシュのタイプ。異常な指の魔術師だが大抵それこそ情(印象)の薄い透明な音色の鋼鉄演奏ぶり。ここでは少しルバートを駆使して演奏を盛り立てるが音色はいかんともしがたい。ライヴの方が熱気を感じるし、より集中力の高い演奏に思うが録音悪し。ピアノにマイクが近すぎる!良く知られたステレオ初期の正式録音は、割合とロマンティックな解釈が光る。細かいニュアンス解釈の妙があるが厚ぼったいオケ・・・また補記します。

マルケヴィッチ指揮聖チチェリア音楽院管弦楽団(tahra,ina)1952/5/28シャンゼリゼ劇場live・CD

粒だったリズム良い演奏ぶりが魅力。表現のくまどりがはっきりしていて少々エキセントリックと感じる向きもあるかもしれないが。あ、オケがです。ソリストもこの演奏家にしてはいつになくダイナミズムが感じられヨイ。オケの乱れなど何処吹く風、素晴らしくドライヴ感溢れる演奏ぶりで楽しめる。ところで技術的な問題が特に速い3楽章に多く見受けられる。豪快に崩壊しているのが痛い。あ、オケがです。それら以前の問題として録音がリマスタリングのせいかややぼけてしまっており高音が聞き取りづらい箇所が有る。ソリストが俊敏で冴えまくっているだけにもったいない。総じては無印だ。

収録音量が小さすぎなのはともかく、オケがついてってない。事故多発。ミケランジェリは醒めた音だがニュアンスには富んでいてテクニックも完璧。速いパセージでオケを置いてきぼりにするのはオケが悪い指揮者が悪い。(※前記の12年以上後の感想です)

○ルンプフ指揮NHK交響楽団(KING/NHK)1965/4/3東京文化会館live・CD

N響は何度もこのてのライブ音源をシリーズないしボックス化しているが今回は二度めのLPボックスに含まれていたものを含むシリーズ、その中の一枚。全盛期のミケランジェリというだけで大いに期待されるものだが技術的に難のあるドイツ寄りのオケであった楽団との取り合わせの妙も。一楽章は遅い。まるでオケにあわせるように、確かめるようなテンポの上でこの曲に秘められたラベルの独創的な書法を明らかにえぐって見せていく。こんなテンポでは指がもたつきかねないがミケランジェリの技術は確かだ。ラベルが称賛したピアニズムはラベル好みの即物性が際立ち、この曲でもともすると感情のない機械のようなスピードオンリーの演奏をしたりもしているが、腹を開いて音構造を示しながら弾き進めるさまが意外に楽しかった。二楽章はホルンソロに大ミスで台なし。昔なら正規音盤化しなかったかも。三楽章はスピードが戻り鮮やかなミケランジェリの指の踊りを楽しむのみ。オケもまあまあ。○。

チェリビダッケ指揮

○ミュンヒェン・フィル("0""0""0"classics:CD-R)1992/5live

この組み合わせは映像もある。チェリの透明な造形はラヴェルの音楽とよくあっており、意外にも速さを維持して流麗なところをみせている。ミケランジェリも気持ち良く演奏しているようだが、腕の衰えがみられるところがある。あれほどバリバリストイックに弾いていく人が、けっこうゆっくりとしたテンポに落として弾いてしまったりしている。この組み合わせは非常によいが、過去の記録に比べるとどうなのだろう。録音のよさで○ひとつつけておく。

◎ロンドン交響楽団(VIP:CD-R)?1LIVE

ミケランジェリの詩情溢れる表現が冴え渡る2楽章が絶品。速い楽章もテクニックに微妙な解釈もからめてまったく臆することがない。チェリ/ロンドンは金管などにやや鈍い表現が聞かれるがおおむねそつなくこなしている。ロンドン響の機能性の高さ、とくに木管楽器の巧さに拍手。やはりチェリの安定した音楽作りはしっかりした聴感をあたえ、下手にロマンティックな奏者がやるとグズグズになるラヴェルの繊細なテクスチュアがしっかり組みあがって聞き易い。これを聞きながら私はロンの新盤を思い出していた。ロンも衰えた
とはいえそれを上回る指先の香気をもって聴くものを陶然とさせた。この一寸聞き解釈の特徴が聞こえ辛い演奏、何度も聴くうちに何か同時代の作曲家に対する共感ある仕草がごく細かいコンマ何秒の打鍵のズレに現われているようで、深みにはまっていくような感傷を受けた。ミケランジェリはもっとバリバリ弾く事もできたはずだが、それをしていないことこそが素晴らしい。幼い頃ラヴェルに賞賛されたというピアニスト、これは名演である。ブラヴォー拍手盛大。録音年月日不明。


◎ブランカール(P)アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(DECCA)

モノラル時代の名盤、遂にCD化。(これも名演)プロコフィエフの6番と並んで愛聴していただけに、ほんとうに嬉しい(半分悔しい)復刻だ。アンセルメの瑞々しい音感と明瞭なリズム処理に聴くものの気持ちも浮き立つ。すこぶる安定したテンポに乗る軽やかな足取りは、決して気まぐれに動かないだけに尚更、ブランカールの確かな手腕とともに(目立ったところは無いものの底はかとなく味の有るタッチのピアノ)、理想的な音風景を形作る。オケはけして巧くない(全般しっかりした音程感には欠ける(しかしギリギリセーフなところで踏みとどまってはいる)し、第一、アンセルメ後の状態を思い出してみて欲しい)。なのにこれだけ聞かせる演奏になると思うと、アンセルメの力量はやっぱり大した物だったのだと思う。アンセルメの揺れの少ない解釈はそれほど無機的なものでもなく(録音のせいか新しいステレオ盤はそう聞こえてしまうきらいがあるが)、何より音色(管弦楽の総体的音響)への隅々にいたる繊細な配慮が、周到な準備を経て、計算ずくのスコア(解釈)と絶妙なバランスを保って、それが完璧精妙にすぎるために、冷血に聞こえてしまうこともある。もっと単純に、テンポがゆっくりめで微細には揺れないこと、感情的な表現を抑え目にしていること(周到な準備や計算をホゴにしてしまうから当然そうなるわけだ)が今一つのめりこませない、好かないという向きも多いだろう。無論アンセルメも全てが全て良いとはいえないが、ダフニスをはじめラヴェルは相性ぴったり、 名演揃いだ。複雑にからみあった個々の楽器がそれぞれちゃんと適正な役割のもとに正確に組み合わされ、全く単一のアンサンブルの ”結晶”となって耳に届く。ソロピアノの走句とソロ管楽器の絡み合いなど傾聴してみるとよい。こんなにしっかりとした「アンサンブル」を行っている演奏は稀だろう。規範たる演奏ともいえる。ブランカールはやや単調だが美しく透明感の有る音をかなでているが、ソフトなタッチが2楽章では強みとなりその美質を遺憾無く発揮する。技巧的問題は皆無で指は晩年のロンよりもよく回る。

この組み合わせは「左手」も名演で、中間部の熱気溢れる雰囲気(ペットの強奏から!)はアンセルメが得意としたロシア音楽を思わせる。こういう曲では前述の「冷血ぶり」も影を潜める。両手に比べ、やや”濁った”曲想だから敢えてそうしたのだ、と思う。

○ウーセ(P)ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団(WEITBLICK)1974/3/27,28・CD

冒頭ピッコロが異常に高いピッチで入ってくるのにびっくり。耳を疑ううちになんとなくつじつまがあってくるが、録音のせいかほんとにずれていたのか?まあライプツィヒ放響だからこんなこともあるだろう。ウーセが巧い。粒立ってコロコロ転げる音楽が素晴らしい。とにかく指がよく回る。この曲のライヴで殆どテンポを乱さない演奏というのを初めて聴いた気がする。冷徹なほど変化しない、水の流れるような演奏ぶりは、ケーゲルの冷徹な音とじつにマッチしている。何度でも聞ける演奏だ。ソリストもオケもまったく危なげないから安心して聞ける。2楽章にもう少し情緒が欲しかったが1、3楽章の俊敏さはそれを補って余りある。録音が茫洋としているのが少し残念。それと3楽章のとんでもない事故が(誰がミスしているかは聴いてのお楽しみ)。○。

○ホーランダー(P)ルドルフ指揮シンシナティ交響楽団(MELUSINE)1965live・LP

ソリストがバリ弾きで(ミスタッチもあるけど)凄まじいの一言。一方オケはカスカス。ぼろぼろ。もうまったく渡り合えていない。アマチュアのようだ。このソリストを聴くだけでも価値はあるが、終楽章などどうしたものか、という疲労感漂う高速演奏なのでした。○。

カッチェン(P)ケルテス指揮ロンドン交響楽団(DECCA)

特異な演奏だ。ケルテスはロマンティックな方法論に従い交響曲の如き重厚な構造物を創り出す。面白いが違和感あり。カッチェンは巧いがケルテスの硬く重厚な音の一部と化している。ロンドンもそれほどうまくないが、ケルテスの硬質で分厚い曲作りによるところが大きいだろう。曲に慣れたすれっからしか楽しむ類の盤。

○ワイセンベルク(P)小澤指揮パリ管弦楽団(SERAPHIM)CD

正直録音があまりよくないのだが、演奏は立派である。このソリストには機関銃のようなテクを見せ付けるイメージがあったのだが、この演奏では意外と感傷的。とくに2楽章は深く心を打つ表現で、私は自分の葬式にはこれを流して欲しいな、とさえ思った。1、3楽章もテクニック+αのきめ細やかな感情が盛り込まれており、凡百の演奏家を寄せ付けないものがある。ただ録音のせいかちょっと弱々しく感じるところもなきにしもあらず(決してテクニックが足りていないわけではないが)。それよりオケが不振だ。杓子定規で心が無い。一部木管の音程は悪いし、何か非常に落ち着いていて、敏捷に動くソリストに付いていかない(付いていけないわけではない)。響きも一様に鈍重だ。この高度なバトンテクを誇る指揮者にしてはいささか振るわない。ソリストだけに○をあげておく。


ツァーク(P)

○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)1960'?

個性派指揮者の伴奏指揮というのは案外普通だったりするものだが、これも意外なくらいラヴェルだったりして、デフォルメを求めると拍子抜けする。ソリスト、オケ共にミスが聞かれたりするが、音楽そのものは悪くない。オケ、ソリスト共に音色が単調なのはちょっと痛いが、良い意味でも悪い意味でもスリリングなアンサンブルを聞かせる1楽章はそれなりに楽しめる。2楽章は真面目。最後の余韻GOOD。3楽章いきなりの快速にちょっと驚くが、なかなか健闘する。オケが持ち味を発揮できていない感もあるが、この曲では仕方ないか。総じて○。ライヴみたいな演奏精度は気にはなる。

コンドラシン指揮レニングラード交響楽団(放送(CD-R化?))1963/1/10(20?)live

もう最初から無茶苦茶。オケのソリストが落ちまくりでガタガタ、ツァークもミス連発で何の曲やってんだかわからないほどひどい一楽章。二楽章はツァークのぶっきらぼうさが曲のとつとつとした情景にあってきて、三楽章は機関銃のような演奏様式が(あいかわらずニュアンスは無いしテンポは暴走だしミスもあるが)曲とシンクロしてくる。しかしここでオケの弱さがまたも露呈。怖がって前に出ようとしない管楽ソリストとか、もうなんていうか。二軍オケですよ。ツァークのぶっきらぼうさはもう早く終わりたいと思ってるとしか思えない。無印。


○クロード・カサドシュ(P)デルヴォー指揮パリ音楽院管弦楽団(CND)LP

パキパキした演奏で内容は浅いがわかりやすく楽しめる(左手ともども)。オケもやりやすそうだ。このドライヴ感、疾走感は並ではない。細部のニュアンスはともかく力強く手慣れた巧いソリストで旋律の勘どころを全て押さえている。単純だけど単調にはならないのだ。録音もモノラル末期だけあってデルヴォの意志的で立体的な音作りをかなり精緻に捉らえている。また自然なのがこの指揮者の上手いところ。三楽章のブラスがやや不調だが音色にかんしても非常に感傷的で美しく直截なテンポの上にしっかりハマっているのがよい。また念押しするような引きずる感覚がなく自然に融和しているのも出色。変な解釈は無いのに娯楽性を構成する必要なだけの一音一音を若々しいスピード感を損なわずにクリアにしっかり聞かせていて心地よい。ラヴェルがこれでいいのか?いいんです。個人的にしっくりくる。さすがに二楽章は全く深みがなくただ弾いているだけの感は否めないが、少なくとも親父さんのスピードだけの無味乾燥な独特のスタイルとはかけ離れた(ロベール氏は両手は録音してないが)血の通った感じは強くあり、好意的に聞いてしまう。とにかく軽く聞き飛ばせる難しくない録音なので初心者向き。ソリスト指揮者オケの相性がいい、これだけは確かだ。◎に近い○!クロード氏巧いよ。

○サンカン(P)デルヴォー指揮バーデン・バーデン南西ドイツ放送管弦楽団(club france他)1964/10/3-6・CD

正統的なラヴェルの協奏曲の演奏と言えるだろう。デルヴォーらしい作為がちょっと見え隠れするところもあるけれども、そこがアクセントとなって巧くまとまっている。演奏的には十全といってよく、サンカン先生の解釈の絶妙な「寸止め」は、ロマンティックにならず無機質にもならず、つまりヴィトゲンシュタインにもならずミケランジェリにもならず巧い事バランスを保っている。音色が明るく単調だが楽器のせいかもしれない。そこを繊細なタッチとテンポ変化でカバーしている。特に単純であるがゆえに難しい2楽章の表現は、ギリギリ感傷を煽りながらもラヴェルの厳しい視線をつねに意識しているかのようにそこに溺れないで乗り切っている(デルヴォは溺れる傾向がある)。規範的だろう。ペルルミュテールやフェヴリエよりはロン婦人に近いか。なかなかだが、強い印象を残すわけではない。規範ということで○。

◎(※同一盤の数年後の感想)

こういう音色表現はラヴェル特有の表現で、テンポ操作や音量変化、アーティキュレーション付けといった部分では一切解釈的なものを排除するかわりに、タッチとニュアンスだけで音楽の起伏を作ってゆく。フランス派ならでは、逆に言うとセンスだけを問われるようなものでここまで完成された表現を会得するのは誰しも難しいかもしれない。ソリストもオケも理想的なラヴェルを表現しているが、それを説明するのが難しいという、微妙なところにあるので、◎をもって何が言いたいかを示しておく。ステレオの好録音。

◎ワイエンベルグ(P)ブール指揮シャンゼリゼ劇場管弦楽団(DUCRET THOMSON/EMI)

EMIのバジェット盤で出たが不良品だったためすぐに店頭回収になったワイエンベルグの演奏です(のち再発)。私のLPは非常に状態が悪い。けれどもこの曲における鮮やかな色彩性、感傷性、ブールが客観的な立場から厳しく音楽を律しているにもかかわらずそこから溢れ出る香気、熱気は並大抵のものではない。ミケランジェリのような即物スタイルの演奏を多く聴いてきたせいかとくにそう感じる。ワイエンベルグの音楽はテンポを決して崩さないながらもその音量音色によって非常に多彩な表情を見せ、いかにもラヴェルらしい詩情を掻き立てられるものがある。2楽章の感傷性はワイエンベルグのみならず木管を始めとするオケ側も共感を込めて、優しく、哀しく演奏している。ブールの現代音楽指揮者らしい正確さへの希求が、ここでは音楽そのものの秘めた感傷性と全く離反せずに共存し融和しあっている。弦の音色も懐かしい。この2楽章があまりにスバラシイので他の楽章の演奏ぶりを忘れてしまった。とにかくゴマを撒くようにぱらぱらと鍵盤を鳴らし無理も狂いもなくやってのけるスタイル(まあうるさい事を言えば全般にタッチが繊細なため全ての音を鳴らしきれていない場面もあるにはあるのだが、遅くても弾けてない演奏の多い・中、これだけ表現できれば十分でしょう)。テンポが若干遅いため醒めた客観性を感じるが、3楽章などオケとソロのスリリングなアンサンブルには手に汗握る。こんなに構造的にかかれた曲だったのか、と改めて認識させられるが、そんなことを考えているうちにあっというまにエンディング。これは名演だ。◎。


○バーンスタイン(P、指揮)

ロンドン・フィル(HISTORY他)1946/1/7・CD

まー、よく指が回ります。といっても指が回るだけではだめで、ニュアンスが大事。その点この演奏はやや単純なもののように思える。激しいタッチの両端楽章よりも寧ろ思い入れたっぷりに歌わせる2楽章が美しい。この楽章は人類が考えうるすべてのルバートを尽くしていると言ってもいい。この人ののちの指揮にも言えることだが、作曲家としての感覚が曲の潜在的な抒情味を引き出し尽くしている。そのあざとさを受け容れられるかどうかは聴く人の趣味によるだろう。その点では両端楽章は単純なスポーツ感覚を追求してい るから万人に受け容れられる素質があるかもしれない。とにかく指は回るので○。もっともよく聞くとゴマカシっぽいところもあるのだが。ヒストリーの復刻は残響付けすぎ。元の音がよくわからない。オケはやや鋭さが足りないがしっかり表現しきっている。

VPO(DG)LIVE・CD

酷い。管が酷い。バンスタの音色が酷い。3楽章でバンスタの指が回ら無ければ間違いなく無印の演奏である。冒頭のパッパカパカパカが既にド崩壊していて酷いが、とにかくブラスが全くラヴェル向きではなく機敏さが無い。バンスタもバンスタでこんなに無味乾燥した2楽章もないもんだ。この曲で2楽章をこんなにニュアンスもへったくれもなく演奏した記録を私は知らない。タッチも何も無い。音色を速さでカバーしたせいか終楽章最後ブラボーが飛ぶが、若い頃から比べて明らかに劣化したバンスタのピアノは特筆すべきだろう。その得意とした指揮解釈とは真逆。


フランソワ(P)

◎クリュイタンス指揮パリ音楽院管弦楽団(EMI)1959ステレオ

いわずと知れた名盤だが、1楽章など聞くと分かるとおり、バックオケは決して巧くはない。これはオケ(木管等ソロ楽器)にとってかなりの難曲だけれども、クリュイタンスは演奏の瑕疵をそのまま録音に残すような指揮者ではないと思うし、多分フランソワの調子を優先してオケの出来は二の次に考えられていたのではないか。フランソワの類希な即興的天才は、特に2楽章の味わい深い表現に結晶している。この人が一旦ノってしまったら、どんなに恣意的表現であってもそれらしく、必然性をもって迫って来るから不思議。ショパンを思わせるロマンティックな「ズラし」やルバートが、ラヴェルでここまで透明感を損なわずに表現できる演奏家というのは、史上この人を除いてはいまい。気まぐれな技巧を持つフランソワ、ここでは持てる力を全面的に発揮している。 3楽章など他の追随を許さぬ指の冴え、揺るがぬ繊細な音色感に脱毛。独特の解釈がめまぐるしい中にも随所に織り交ざり、あれ、あれと思ううちに、「ホー」と目を丸くするしかなくなる演奏だ。3楽章はオケも頑張っていて、フランソワと融合し、共に大きな世界を形作っている。

プリッチャード指揮ORTF(EMI他)1964/12/22live・DVD/BD

EMIから膨大な数の「名演奏家シリーズ」の一枚としてDVD化されていたが(フランソワ版は二枚)、EMIの権利が他へ流れた結果、わずか3,4枚のブルーレイにオマケ付きでまとめられた。そのピアニスト編の一部として現役。白黒モノラル、画質も良くないが、あんな高いところからよくまあ打鍵できるなあ、左手がカマキリ拳法状態で交差、といったフランソワ独特のスタイルを楽しむことができる。はっきり言って軋みっぱなしでフランソワは走ったり端折ったり、でも強靭に押し進めてきわめてハッキリしたラヴェルを打ち出してくる。なぜかイギリスの指揮者という映像だが指揮者の奮闘ぶりよりむしろ何か焦りすら感じずに平然とズレたりするオケが面白い。いや事故ばかり論ったらしょうがない、二楽章の即物ぶりはともかく音色は明快なフランスのそれ、フランソワが同曲を得意としていたのはわかるし、ライヴとしては十分な精度は保っていると思うし、マッチョラヴェルを好むなら観て損はない。

アース(P)パレー指揮ORTF(DG)

パレーとアースの一本調子スタイルが見事にマッチ。余りの押せ押せムードに、音の強さと反比例の内容的な軽さを感じてしまった。でも運動性という点では終楽章など面白く聞ける。

ルフェーヴル(P)

パレー指揮ORTF(SOLSTICE)

パレーはミュンシュのくぐもりを取り去って、どぎつさを薄めたような剛直系指揮者だ。ミュンシュと同じく作曲家存命のころからラヴェル演奏会を振っていたオーソリティであるが、そのスタイルは少なくとも「ニュアンス系」ではない。この演奏はORTFの木管(クラなど)の音が「ボー」というかんじでかなり違和感を覚える。感傷性を排したオルガン的発声、これもTPOで使い分けるべきであるが、フルートの音色が余りに美しい(デュフレーヌ?)だけに一層耳につく。アンゲルブレシュトなら超絶な舵取りで聞かせてしまうかもしれないが、パレーの豪速球はいたずらに耳に奇異感を残すのみだった。悪いところばかり書いているようだが、ルフェーヴルの演奏はリリカルなもので、若干テンポが穏か過ぎるきらいもあるが、2楽章など結構聞ける。アース盤とは対照的だ。

○オーベルソン指揮ベロミュンスター放送管弦楽団(coup d'archet、DRS2放送)1959/8/24・CD

ルフェーヴルが光りまくっている。とにかく打鍵が強く、しかし女性的な柔らかい表現で聴く者を魅了する。しょうじき巧い。ロンに似ているかもしれない。2楽章は少し音がはっきりしすぎているかもしれないが、そういう解釈としては楽しめる。オケにはたどたどしいところもあるがおおむねしっかりと表現している。2楽章の詠嘆までしっかり聞こえるのはうれしい。録音はやや茫洋としておりモノラルなのが弱みか。○。まあ、よくよく聴くとマイクがピアノに異様に近いだけで、ただただ強靭な、味の無い演奏に聴こえるような気もする。


○マガロフ(P)マルケヴィッチ指揮ベルリン・フィル(DA:CD-R)1974live

「この面子が揃ったにしては」僅かに瑕疵はあるものの、非常に充実感のある演奏。ラヴェルに充実感という言葉は似合わないがロン最盛期はこうだっただろうなあというマガロフの腕、パラパラそつなくも繊細明瞭で高精度なピアニズム(ラヴェル自身に好まれたピアニストはみなこんなかんじ)、録音もよくマルケも前進的なテンポと的確なリズムで(マルケのフランスものの中欧オケライヴは素晴らしい、VPOとの「海」はARKADIAの不良盤以降耳にできていないがどこか出さないものか)緊密なアンサンブルを維持している。厳しく真面目だったとも言われる演奏家で際立った特徴は指摘しかねるが、ラヴェルのコンチェルトはいいものであればあるほど個性が見出せなくなるものでもある。そういう作曲家であったのだから。そういえばピアニストと指揮者は一応同郷か。エアチェックレベルの録音と個人的好みで○にとどめておく。

○園田高弘(P)ブール指揮バーデン・バーデン南西ドイツ放送交響楽団(EVICA,日本クラウン/SWR)1965/12/13・CD

入りからびっくりしたのだ、あ、ロンの音だ、と。フランスの至宝と呼ばれたマルグリット・ロン女史(ロン・ティボー・コンクールのロンね)の、明快だがどこかロマンティックな軟らかい色のある音。タッチが似ているのか。ライナーにもあるとおり園田氏はブールより、「直伝」と言われたロン女史の解釈(じっさいにはラヴェルは最盛期の女史に容易に口出しできなかったとも言われる)とは異なる、譜面にあるとおり「だけ」の演奏をするように強いられたという。しかし器楽演奏というものは指揮者や作曲家の考えるものとは違う部分がある。統制のきかない部分は確かに残る。これは「ドナウエッシンゲンのブール」の世界に園田氏が埋没させられてしまったのではない、素晴らしい技術的センスと鋭敏な反射的能力を駆使した園田氏が、ブールが思い描く「客観即物主義的な音楽観」を損なわず、かつ(無自覚のようだが)自らのほうに見事に融合させている。寧ろその性向的にブールでよかったという結果論も言える(晩年のロン女史のような「突っ走り」は無いが、フランソワのようにスピード感が失われることも決して無い)。

両端楽章においてはこの盤の表題になっている「若き日」とはいえ、浅あさしい技巧家ぶりは無い。2楽章は最も繊細な感覚が要求されるがここで古典的構成感とロマン派的旋律性の狭間に確固としたテンポで柔らかく奏される絶妙な音楽は、より直伝に近いと言われたスタイルを持っていた(しかしこの曲は時期的に直伝ではない)ペルルミュテールに似ているかもしれない。

ブールのラヴェルはロスバウトより色が無く、音は軽やかでも揺ぎ無い構造物となる。だが遅さや重さというのは感じない。巧緻な設計のなせるわざだろう。全く別種の指揮者とはいえ同じ指向も感じさせるケーゲルのムラある芸風とは違い、スコアを固持はするものの、ギリギリ「どちらにも振り切らない」ことにより晩年ラヴェルのロマンティシズムを失わず、あっさりもしすぎない魅力的な演奏を仕立てる。ライヴではこうもいかなかったかもしれないがブールのライヴに精度の低いものは知らない。少なくとも同じ即物的傾向の強い透明なラヴェルを得意としたベルティーニの無味乾燥とは違うものではある。うーん、これは知られざる名演だが、一般的ではない。何故だろうか。○。

○アルゲリッチ(P)ベルティーニ指揮ケルン放送交響楽団(CAPRICCIO)1985/12/7live・CD

まず新しいものでは滅多に入り込める演奏に出くわさない難曲だがアルゲリッチの表現力は素晴らしい。野暮ったいロシアスタイルでも鋼鉄機械の現代スタイルでもない、やはりフランス派の表現に近い非常に繊細でしかも変化に富んだ粋っぷりである。オケも若干響きが重いが録音がいい。滅多にこの人の演奏でハマる演奏がないのだが流石こだわりのあらわれた余人を寄せ付けないピアニズムでした。ライヴなりの荒さも録音かホールが吸収。○。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブラームス:交響曲第4番

2017年11月20日 | Weblog
クーベリック指揮ORTF(forgottenrecords)1960/9/9live

残念ながらノイジーなモノラル録音だがクーベリックライヴらしいテンションのブラ四。フランスオケと思えない重い音でガシガシ来る三楽章などフルトヴェングラー的ですらある。いい意味で安心して聞ける、楽しめるブラ四であり、枯れた味わいは皆無だが、何かを追悼するかのような雰囲気はある。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミヨー:交響曲第5番

2017年11月20日 | Weblog
フランシス指揮バーゼル放送交響楽団(cpo)CD

ミヨーの交響曲でも30分超えはこれくらいではないか。この前後は長い交響曲が多いが群を抜いている。しかし内容は同じ。ただでさえ連綿と続く同じような調子、騒がしさの音楽なので、構成への配慮が感じられず、構造や部分部分の創意で楽しめないと聴いていられない。一番のような牧歌だけの交響曲ではなくより深く、複雑な交響曲らしい交響曲になっているのは四番とくらべてもあきらかで、メロディもあまりわかりやすいものではなく工夫は重ねられている。それが逆効果になって、断ち切れるフィナーレまで、四楽章のおのおのの性格の違いは明確だが、おのおのの中はごちゃごちゃした同じ調子にきこえてしまうのだ。まだフランシスとバーゼルだから明晰で耐えられるのだと思う。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ファリャ:三角帽子第一組曲、第二組曲

2017年11月19日 | Weblog
アンセルメ指揮ボストン交響楽団(SLS)1961/12/8ボストンlive

初演者晩年のライヴでライヴなりの精度の部分もあるが情熱と正確さの同居した高度な技術を駆使した指揮ぶりはこの人には珍しく?少しのブラヴォをも呼んでいる。篭り気味ではあるもののステレオのため迫力が違う。冒頭などミュンシュのような弦の力みにびっくりする。およそミュンシュでもモントゥでもない、しかしミュンシュの音、モントゥのリズム感といおうか、この指揮者は楽団に好かれなかったとも聞くがそれが音にあらわれないのはまさにプロである。短い曲集なので一気に聴いてほしいが、やっぱり第二組曲だろう。二曲目最後の恐ろしい畳み掛け(もっともブラスのソロが悉くとちっているのは惜しい)、さらに終曲のスケールの大きな大団円は、取ってつけたような言い方をすれば南欧というよりスイスの青空のように明るい。もっとも整えられたような透明感をことさらに煽ることはなく、アンセルメがロシア音楽にも定評があったことを思い起こさせる。色んなバランスを客観的にとって、それをミュンシュのオケがモントゥーふうにやったような、と言えばわかるだろうか。わからないか。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする