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湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

スクリアビン:交響曲第4番「法悦の詩」

2018年01月11日 | Weblog
マデルナ指揮ハーグ・レジデンティ管弦楽団(SLS)1967/10/11live

これは上手く行った。最初ねっとり粘着質の表現にスヴェトラを濃くしたような演奏になると思いきや、主部に入ると速いスピードでドライヴしていく。マデルナなので音のキレは悪いがそれがブヨブヨした曲の雰囲気にマッチしており、感情的に引き込まれていく。色彩感はマデルナに期待されるほどではないがオケを考えるとこの透明感は仕方ない。前半でここまでやってしまうのはどうなの、と思いきや盛り上がりは持続し、クライマックスでは覇気ある壮大な(ここはスヴェトラ的)表現へ。オケならびに第一トランペットも僅かなミスのみでマデルナの機知に付けている。思わぬ拾いもの。むろん何よりスゴイ演奏とは言わない、思わぬ。録音もよい。
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☆ボロディン:交響曲第2番(1869-73/79)

2018年01月10日 | Weblog
○ローゼンストック指揮NHK交響楽団(NHK)1977/2/16live・LP

やけに重々しい1楽章や一音一音をしっかり踏みしめる終楽章を聞くとああ、ドイツ系の演奏だなあ、と思う。意外に野卑たN響の音はかなりロシアロシアしているのに、指揮者が即物的というかあまり感情的にならないので、不完全燃焼気味になる。しかしこれはドイツの演奏なのだ、と割り切って聞くとこれはこれで非常に構築的でしっかりしたベートーヴェンの系譜に連なる作品に聞こえてくるから面白い。3楽章などソロ楽器のうまさに拍手。個人的には中間二楽章、とくに2楽章の愉悦感が気に入った。ライヴだしかなり雑味があるのは仕方ないが、意外といい演奏です。○にしておきます。まあ、もっと厳しくザッツが揃うとカッコいいんですけれど。日本の音楽史に名を遺す教育者ローゼンシュトックの晩年の演奏です。名前はよく出るのに録音は殆ど出てこないのはなぜだろう。。

※2004年以前の記事です
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バルトーク:ピアノ協奏曲第3番

2018年01月07日 | Weblog
ヘルファー(P)マデルナ指揮モンテ・カルロ国立管弦楽団(SLS)1969/11モナコ(スタジオ)

極めて良いステレオ録音で拍手もノイズもないため何らかのレーベルの正規録音であると思われるがソースは知らない。私は初見。ヘルファーは2楽章では重なる音の強弱のコントロールが細かいパセージにおいてうまくいかず不協和的に聞こえてしまうところがあり、また録音が良すぎるせいなのだがマデルナの派手ではあるが大雑把でしまりのない統率が1楽章では音楽をバラバラに聞こえさせてしまう。ただ、ドイツ的な構築性といおうか、テンポの揺れはなく、マデルナらしくもない四角張った組み立て方がやや弛緩した印象を与えているだけかもしれない。響きのカラフルさや透明感、鋭さはフランス的でマデルナの個性よりオケの個性が出ており、同時にバルトークの源流たるドビュッシーの存在に想い馳せさせる。2楽章はバルトークの郷愁を灰汁抜きして私には聴きやすかった。3楽章は元々絶筆で未完成の楽章ではあるから、なおさら慣れない様子のマデルナ(協奏曲伴奏が不得意なのか?)には難しいような感もある。構成が今ひとつピンとこないようなところはあるが、ただ、ソリストともども全曲中もっとも没頭できる演奏になっている。全般異質な感じのバル3だった。指も強くて回るし技術的に余裕があるはずなのになんで音が濁るんだろう。。
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バーバー:弦楽のためのアダージョ

2018年01月07日 | Weblog
ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(SLS)1958/12/27live

集中力の高い秀演。ブレることなく確かなテンポで遅くも速くもなり過ぎず大仰な見栄を切ることもない。トスカニーニの依頼により弦楽四重奏曲の中間楽章から編曲されたもので当初よりレクイエム的な捉え方をされ、実際アメリカの関わった数々の悲劇において演奏され、流された。戦後進駐軍が日本のラジオに初めて流したのはこれであったと聞く。のちに声楽編曲すらなしているためバーバー自身が原曲の純音楽性が損なわれるとして好まなかったという伝説は私は信じていない。やはりこの編曲は原曲と違う、しっかりとボリュームのある、起承転結のはっきりした単体で完結する祈りの歌となっている。プラトーンをはじめ数々の映画にも使用された。最初にかえってトスカニーニが熱心に演奏したこととミュンシュのこの直線的なスタイルは無関係でもないと思う。50年代のミュンシュのスタイルが剛進するような直線的な傾向を示していたのはそうなのだが、それでも情熱のあまり歌ったり力み声を入れることがない、それでいて演奏は非常に気合が漲っている、それはトスカニーニをあるていどは意識していたのではないか、と推測する。録音状態は悪くノイジーだがパワーはある。
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あけましておめでとうございます

2018年01月01日 | Weblog
旧年中はお世話になりました。
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☆プーランク:六重奏曲(ピアノ、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン)1930ー32、改訂39ー40

2017年12月27日 | Weblog
<プーランクの曲は多様だ。それは技法が探索され尽くしたあとの芸術の有り様を示している。20世紀の作曲家。ストラヴィンスキー、ラヴェル、プロコフィエフ、エリック・サティ、様々な同時代人の息吹を吸収して自己の作風に取り込んでいった作曲家。その姿は初期のミヨーに似ているけれども、肩肘張らずに音を愉しみ酒を傾ける人々のかたわらで、アップライト・ピアノの上にグラスを置いたまま、笑いながらかなでる類の気軽な音楽は、フランス六人組で最も人気のある作曲家たらしめている。おカタイ芸術至上家は「モーツアルトの再来」とたたえたが、少し違うように思う。即興的で一種ジャズ風ともいえる小曲の数々を注意深く見るならば、”無類のレコード好き”の、数々の音楽経験が結晶している様を至る所に見ることができよう。又、わかりやすい・・・深刻な「カルメル派修道女の会話」でさえ、わかりやすい・・・場面の数々をつなぐのは、オネゲル風の渋い音響であることにも気が付くだろう。プーランク自身の音楽評論などを読むと、この人は決して快楽主義的作家なぞではなく、新ウィーン楽派以降の音や、中期より後のストラヴィンスキーに敬服するような趣味の作曲家だったことに今更ながら気付かされる・・・そう「前衛」だったのだ、かつては・・・。プロフェッショナルな作曲家としてのアイデンティティを、自身の音楽的探求(研究)から完全に切り離していたようだ。自分の中の「音楽的系統樹」の、決して幹の方ではなく一枝の先端に、「プーランク」という作曲家の名をぶら下げ、飄々としていたのだ。まさしく六人組、フランスの作曲家。さてこの管楽とピアノの為の組曲は、プーランク室内楽の最良の所を見せている。愉しさの面でも何気ない渋味の面でも、ノスタルジック、だが乾いているこの作家独特の感性をひときわ強く感じさせてくれる。ききどころは終楽章、喜遊的な律動と感傷的な旋律の応酬だ。 >


◎ジャン・フランセ(P)デュフレーヌ(Fl)ほかORTF(フランス国立放送管弦楽団)管楽メンバー(EMI等(国内盤で「デュフレーヌの芸術」の1枚としてCD化している))CD

ジャン・フランセのピアノは驚異的で、他メンバーの技術も冴え渡っており、今後もこれを超えるものは現れないのではないか?フランセは「イベールの息子」とも呼ばれるが、その作風はプーランクとミヨーの良質な部分を重ね合わせたようなところがあり、異常なまでの適性をここでは感じる。兎に角巧いピアノだ。又この古いモノラルの音からは、古い映画の背景音楽のような芳香が立ち昇っており、感動的ですらある。だがベタベタせず下品にならない。曲の良さを曲自体の価値以上に引き出している類の演奏だ。

※2004年以前の記事です
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☆グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲

2017年12月26日 | Weblog
カンデラ(Vn)デゾルミエール指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団(columbia)SP

どんより暗いロマン性が横溢し、半音階的で息の長い主題をうねらせ続ける前半部から、カデンツを挟んで突如あけっぴろげに明るい民族音楽と化す後半部という構成の、グラズノフで最も著名な作品。民族主義的トリルの異常な多用っぷりは、カデンツでの重音トリルで特に奇怪な晦渋さを示す。トランペットが高らかに宣言し対話を始める後半部への切り替えは突拍子もないが、形式云々はともかくとにかく楽章間の雰囲気の対比を強く印象づけるというグラズノフ特有の思想にこれも依っている。後半部のさまざまな民族音楽的な奏法の陳列はまさにグラズノフといった感じで壮観。さて、このような「変化」を鮮やかに聴かせるために、最初はデロデロに重く、ファンファーレ後は華麗に技巧をひけらかすのが常套手段で、譜面をそのまんまやるだけでもそうなってしまうくらいなのだが、これがまたデゾルミエールである、冒頭からサラサラと爽やかに、まったく引っかかりなくサッサと流していく。明るい色調の即物的な表現は、ミゲル・カンデラのカラカラと笑うような無邪気に浅い音楽と融合し、「全く違う」グラズノフを聴かせていく。オールドスタイルの左手指使いは懐かしげな音も生んでいるが、それにはコッテリ甘ったるい重さが無く、あくまで軽やかな運指のうちにある。軽やか過ぎてメロメロになったり、音を外す箇所が頻繁に現れるのはいただけないものの、それも含めて特徴的だ。(カデンツ直前盤面返しのため音を短く切る乱暴な作りはさすがにいただけないが)部分部分にこだわることの全くないまま後半部に進んでいく。フランスオケの管楽器の音がまたプンプン漂う民族臭を灰汁抜きし、アバウトさも芸のうちと言わんばかりのカンデラのスピード感を失わないメトロノームテンポ的な解釈ともども気持ち良く聴ける。全般、デゾルミエールらしさの現れた、著名な「四季」録音の解釈に近似した颯爽としたアッサリ演奏として聴け、そこにカンデラならではの音色が加わったようなところに、一部マニアに受ける要素を感じ取った。個人的にはロシア音楽が嫌いな人ほど向く演奏だと思う。一方ペレアスなどの無解釈っぷりが嫌いな人には向かない。

※2016-09-01 18:00:00の記事です
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☆チャイコフスキー:弦楽四重奏曲第1番(1871)

2017年12月26日 | Weblog
<余りにも有名な2楽章アンダンテ・カンタービレはトルストイも涙した超有名曲。サロン音楽風な扱いもされるが、ウクライナのカメンカで耳にした民謡に基づくもの。3本のピツイカート伴奏の上にファーストバイオリンが奏でる鄙びた旋律がそれ。子守り歌のように優しいです。ほかの楽章も美しい。1楽章の、単音を変拍子で区切っただけの旋律や、中間部の無限音階のようなスケールの反復は非常に個性的だ。4楽章は最近テレ朝の浜ちゃんの番組(芸能人格付けチェックだったけ?)でよくBGMになっている。楽天的なチャイコフスキーが全面に出、管弦楽曲的で聞き映えがする。(2001記)>

○D.オイストラフ四重奏団(doremi)CD

いつ聞いても何度聞いても楽しめるチャイコの室内楽の最高峰だ。オイストラフは結構個性を強く出すのではなくアンサンブルとして必要とされる音を出していると言った感じでそれほど力感も解釈の個性も感じない。ウマイことはウマイのであり、雑音まじりの音の悪さを除けばこの曲を最初に聞くのに向いているとさえ言いたいが、たとえば2楽章のリアルで幻想の薄いアンサンブル、4楽章の落ち着いたテンポ、たしかに緊密ですばらしいアンサンブル能力を持っていると思うが、個性を求めたらお門違いだ。また熱さも求められない。緊密さはあるので飽きはこないから、まあ、チャイ1ファンは聴いて損はないだろう。チェロはクヌシェヴィツキー。○。

※2004年以前の記事です
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☆ラヴェル:ボレロ(「偶発的ステレオ」)

2017年12月25日 | Weblog
クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(victor他)1930/4/14

知らなかった音源であるクーセヴィツキーのボレロを聴いた。(pristine PASC422)

途中までモノラルである。急にステレオになるのだが、どうも擬似ステレオっぽい感は否めない。あまりにリマスターが良すぎるせいもある。ラスト近くになって僅かに左右(試し録りを含む二台のマイクからの音盤録音を左右に振り分けている)が異なる部分があり、しかしそれも断言できるほど明瞭ではない。両のマイクが接近しているため元々そういうものだそうだが、それよりもリマスターの良さにより晩年のモノラル悪録音ばかりしかないクーセヴィツキーによる昭和5年4月14日の演奏をクリアに楽しめるのが嬉しい。楽器ごとの難しさ、出来不出来が如実に現れており、曲慣れしていないのが時代性か。クーセヴィツキーらしい畳み掛けるような推進力は弦が入ってかなりラストに近づいた頃にやっと現れる。ソロ楽器都合で旋律が乱れる他は不断のリズムとスピードで指揮者と作曲意図が一致している。名演と言えないが記録としてはこの時期のSPに共通するスピードを持った演奏として価値はあろうね。 クーセヴィツキーは展覧会の絵をラヴェルに管弦楽編曲依頼したことで有名。有名なチャイコフスキーの悲愴は本物の偶発的ステレオのようだ(一部モノラル、3楽章途中からモノラルなのは惜しい、情報力が違う)。これは絶名演。ほか春の祭典抜粋、動物の謝肉祭水族館ほか(ストコフスキ、エルガー指揮)。春の祭典はちゃんとしている。

※2016-04-26 14:32:17の記事です
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☆ルーセル:バレエ音楽「サンドマン」op.13(1908)

2017年12月21日 | Weblog

<(1869~1937)ラヴェルと同時代のフランスの作曲家として高い位置に置かれている。海軍で軍役についたのちスコラ・カントゥルムでダンディに師事した。ドビュッシーからの強い影響を受け印象派ふうの曲を書いたがのちストラヴィンスキーのバーバリズムに触発されて独自のより明快な作風を確立。確固とした形式感の中で明瞭なリズムとエキゾチックな旋律、清新な和声のおりなす透明で硬質な音楽はスコラ・カントゥルムで教鞭をとる傍ら若い作曲家たちに支持された。指揮者マルティノンもルーセルの作曲上の教えを受けている。年長の作曲家サティにも教え優秀な生徒として評価した。最終的には「バッハに帰れ」と新古典主義に腰を落ち着け、内面的で構造的な室内楽曲などを書いた。>

◎レイボヴィッツ指揮パリ・フィル(everest)1952

ジャン・オブリの劇に付けた音楽(4曲)で、サンドマンとは「眠りの精」のこと。交響曲第1番と2番の間に位置し、作曲活動を遅くはじめたルーセルにとって、同曲は初期作品といってもよい。海軍時代にはインドシナまで行っていたものの、まだまだ印象主義の影響が強い時期である。

物すごーく優しい曲。ほの暗い前半・夢見る後半、2つの気だるい旋律を軸にして、若干の変容や短い副旋律を織り交ぜながら、妖しくも美しい音の綾を様々な楽器を通して聞かせていく。とくに14分(4曲め)前後からの主旋律は、初期ルーセルでも瑞逸で、感涙ものの名旋律だ。ハープのとつとつとしたアルペジオ、フルートのゆったりとたゆたう雲の下で、むせび泣くように密やかに始まるヴァイオリンの旋律提示には、震えが来る。瑞々しいけれども毛羽立たない演奏ぶりがまた素晴らしく、フルートの、震えるような懐かしい音色も泣かせる。ヴァイオリンの音色がややアマチュアリスティックで洗練されないところがある。でも、曲自体の精妙さと棒の繊細さがそれらをすっかり覆い隠してしまっている。これは素晴らしい。・・・レイボヴィッツらしくない。

美しい・・・それだけ。個性などない。寧ろルーセルっぽいところ・・・オリエンタリックな半音階的音線や、展開部でのリズミカルな部分は、不要とさえ思える。くもの饗宴とのカップリングで、かなり似ているところもあるが、冒頭よりリヒャルト的前世代のロマンティックな雰囲気を漂わせ、また曲が進むにつれ「牧神」やラヴェルの「序奏とアレグロ」を思わせる香りも強く感じさせる。新鮮な機知の点では1も2も無く「くもの饗宴」に軍配が挙がるだろう。・・・でも私はこの曲の方がずっと好きだ。「砂男」の砂を瞼に浴びて、気持ちの良いシエスタに浸ろう。

ちなみに同録音にはルーセル夫人が立ち会った。”人生のたそがれにおいてこのレコーディングセッションに立ち会えたことは、わたくしにとってこの上ない喜びです。(中略)「サンドマン」は、今や殆ど忘れられた作品ですが、若かりし頃の私たち・・・アルベール・ルーセルと私自身の姿を、うつしたもののように思えてなりません” で始まる感慨深い手紙を、賛辞を添えて送っている。

※2004年以前の記事です
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☆サラサーテ:ツィゴイネルワイゼン

2017年12月20日 | Weblog
作曲家(Vn)不詳(P)(HMV/EMI他)1903・CD

鈴木清順翁鎮魂、というわけではないが取り上げる。あまりに有名なSP原盤だが(録音は蝋管だろう)演奏自体は手堅くオールドスタイルの踏み外したところは皆無。中年のサラサーテがもはや技巧をひけらかす年ではなかったのもあるだろうが録音時間制約や当時の録音に対する意識が「いつもと違う」演奏を記録させた可能性はある。細かい音はもちろん聴こえず、ピアノを識別することすら難しい局面まであるが、想像力で補って聴けば左手指は回りまくり、きっちり時間通り四角くおさめた職人的上手さに納得する。冒頭こそあっさりしすぎているように聴こえるが一貫してそのスタイルなのである。この復刻(1991)は裏表を返す時に何か言葉が入るのをそのまま入れてあるが、内田百閒の不安を醸す暗喩的想像を掻き立てる程の代物ではない。三音程度の声である。音楽家の声という意味ではチャイコフスキーの方が喋っている。

※2017-02-23 22:30:57の記事です
Comments (2)
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☆クレストン:舞踏序曲

2017年12月15日 | Weblog
<(1906ー1985)イタリア系。同じイタリア出身のオルガン音楽の権威ヨンにオルガンと理論を学びニューヨークの教会オルガニストとなる。39年にグッゲンハイム基金を獲得、作曲家として積極的に活動。アメリカ音楽の典型的な作風ではあるが、親しみやすさの点で自国の聴衆に大きくアピールし当時は非常に人気があった。5曲の交響曲が有名。>

◎カンテルリ指揮NYP(ASdisc)1956/3/18LIVE・CD

クレストンは生前から、そして今も人気の有るアメリカの作曲家だ。聞く人が聞けばその作風はショスタコーヴィチを予言したとさえ言い切れるらしい(年齢はいっしょ)。私には清々しいがせわしない「アメリカ音形」の上に美しい中欧的な旋律(もしくは映画音楽的な旋律)を載せたもののように聞こえる。和声的には重厚であるもののそう感じさせない楽器法のたくみさと言おうか、シャープで構造に無駄が無く、薄すぎず厚すぎず絶妙だ。もとはイタリア系だそうで、楽天的な曲想はそこからくるのだろう。この曲ではオルガニストだったとは思えない管弦楽法の巧みさを感じる。優等生的管弦楽法と揶揄することもできなくはなかろうが、曲想の美しさはアメリカの心を表現するに十分であり、コープランドですら生臭く感じるほど洗練されている。この曲は題名のとおりリズムの饗宴。最後のまさにコープランド描く西部の田舎踊りのような軽打楽器にのってちょっとジャズ風にリズミカルに演じられるクライマックスではとにかく理屈抜きに肩を揺らさせられる。盛大な拍手。カンテルリの水も切れるような鋭い指揮にも括目。曲がいいし、演奏もいいのだから、◎にしておくべきだろう。録音?こんなもんでしょ。

※2004年以前の記事です
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☆マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09)

2017年12月11日 | Weblog
<連作歌曲集と言うには余りに意味深い大曲。交響曲とするのが一般的だが、室内楽的に絡み合う薄い響きは8番までとは全く異質のもの。ベトゲの“超訳”により蘇った李白らの詩文が、マーラー流滅びゆく世界に巻き取られていくさまは圧巻。確実に完成された曲としては最後の作品で、最高傑作とする向きも。自身は終に振る事ができず、続く9番共々弟子にして友人ワルターに託された。全曲の半分を占める終曲「告別」に傾聴!“永遠に”、、、>


ワルター指揮
<言わずと知れた初演者による演奏。ロマンティックなマーラー。>

○ニューヨーク・フィル、エレーナ・ニコライ(Msp)スヴァンホルム(T)(NOTES他)1953ニューヨークlive・CD

これは何度かCDが出ていたと思うが、私の手元の盤はかなり質が悪く、レコード盤からモノラルで録音し直されたものと思われる。だがそのせいか狭い音場にハチキレンばかりの音楽がぐわっと飛び出してくるような迫力があり、寧ろ聴き易い(個人的には余りに聴き易いので◎にしたいくらいだ)。演奏は信じられないほど瑕疵の無いもので、歌手二人にしてもどこにもマイナス点が見付からない。しいて言えば中間楽章で間違えたらしき拍手がパラパラ入りかけているところくらいか。ワルターの解釈はまるでこの曲がワルターのために書かれたかのように板についており、この盤に限らないが、たぶん一回聞くと他が聞けなくなるくらい迫真性が有る。中間楽章の速いパッセージで歌手がテンポに追い付いていけず音程を崩したりするなどワルター盤であっても瑕疵のある録音はあるが、この演奏ではそういう危うさが全く無いから大した物である。「告別」にはもっと陰影があってもいい気がするがその幸福感はワルターの本質からくるものであり、諦念も至福に変えるワルターならではのものか。最後のエーヴィッヒまで、固唾を飲んで聴いてしまう演奏です。いい演奏。

◎ニューヨーク・フィル、フォレスター、ルイス(M&A)1960/4/16live・CD

ワルターの音楽は「呼吸」している。

吸っては吐き、吸っては吐く。時に深く、時に息せき切って、音楽は進む。これは恐らく初演者最良の「大地」のライヴ記録だ。オペラティックと評さるルイスの「酔えるもの」は心の深層に轟く諦めと宣告の歌だ。つづく歌もまた荒野をうつろう放浪者の気分に満ちている。

個人的にフォレスターの「告別」がとても気に入っている。抑制の効いたくぐもった声が、なぐさめの言葉となり語りかけてくる。幼き頃に聴いた遠い母の子守歌。時折管弦楽によって表現される抑えられない複雑な感情の渦。ハープとオーボエの響きは、遠い牧場の声となる。これはサウンドスケープだ。アイヴズの思い描いた世界に先行し、より高度に純化された俗謡の世界。想い出はやがて旋回し更に遠く溯っていく。暗い苦悩と幻想はいつしか記憶の奥底に沈殿した純粋な生への憧れを謡う。天上の聖母の声が、途切れ途切れのヴァイオリンと木管の僅かにたゆたう霧の中で、やがて春を迎え芽生える草ぐさを夢見て横たわる身体を包み込む。

大地に横たわる、わたしは死ぬのである。

惑いは低く不吉なフレーズによって復活する。痛む足を引き摺り、底の無い炭坑へ向かう骸骨の列に加わる悪夢に身が竦む。しかし・・・穴の底から最後に現れるのは美しく輝く「永遠」だ。永遠の生という「死」を、むかえ入れる準備は出来た。母なる大地の高らかに謡う永遠の歌は、ハープの調べにのって、風のように私を運び、あの高く澄んだ空の彼方へ連れ去ってゆく。遠く、見えなくなるまで。

秀作。マーラー畢生の作品、「告別」。

これが私の決定盤だ。


ニューヨーク・フィル、ミラー、ヘフリカ゛ー 1960/4/18,25・CD

○ウィーン・フィル、トルボルク(A)クルマン(T)(PEARL他)1936/5/24・CD

トルボルク(イ)の歌唱に尽きるだろう。特に終楽章「告別」の歌唱は絶唱と言ってよく、生臭さもドライさも無く、ただここには歌がある。私の盤が劣化してしまい最後が雑音まみれなのでなんとも後味が悪かったが、それでもそこに至る過程でのいい意味で安定し曲調に沿った真摯な歌唱ぶりが耳を傾けさせるに十分であった。録音が悪いためオケの美質はあまり際立ってこないが、後年のワルターとは違う覇気に満ちたところが聞かれる。颯爽としたというかとにかくドライで、この人が初演を託されたのか・・・と少し不思議な心持ちになるが、案外そういうスタイルがマーラーの想定していたものなのかもしれない。となるとこの曲はやっぱり連作歌曲集と考えるのが正しいのか?・・・などとごにょごにょ考えながらもいつのまにか聴きとおしてしまう演奏ではあります。正直ワルターの大地の中では余りお勧め度は高くないが、今出ている盤だともう少しましな音で聞けるかもしれないという希望込みで○をつけておく。

○ウィーン・フィル、フェリアー(Msp)パツァーク(T)(DECCA)1952/5・CD

○ウィーン・フィル、フェリアー(Msp)パツァーク(T)(TAHRA/harmonia mundi)1952/5/17live・CD

驚愕の盤である。私はこの存在すら知らなかった。全く同じメンツによるスタジオ録音(decca)はかねてより名盤で知られたものだが、これはほぼ同時期の実況録音である。録音状態は余り良いとはいえない(とくに前半楽章)。また、歌唱が大きすぎて管弦楽がやや小さく聞こえるのもマイナス要因だ。しかしここにはスタジオ録音のおすまし顔ではない、生の演奏家たちの呼吸が感じられる。パツァークの詠唱はやや開放的にすぎるように感じたが、フェリアーのとくに終楽章「告別」の詠唱は絶唱といってもいいくらいに素晴らしい。最後長調に転調したところのニュアンス表現の繊細さには脱帽。一方オケもライブならではのとちりやばらけ等もなく、スタジオ盤以上に緊張感をもって演奏している。表現がじつに板についていて、これほど情熱的であるにも関わらず、全く無理が無い。とにかく、「大地」好きなら聞いてみて損はあるまい。ちなみに高価なうえ不良品続発で悪名高いANDANTEの演奏はライヴではなくスタジオ録音の音源に拍手や雑音を挿入した偽演であるそうだ。(下記)

ウィーン・フィル、フェリアー(Msp)パツァーク(T)(ANDaNTE)1952/5/17live(?)・CD

これをここに切り出して書いたのは、某レコード店店員への抗議の意味がある。アンダンテで出たこの「大地の歌」は、最初デッカの有名なスタジオ録音に拍手を重ねただけの偽演という説が出て、物議をかもした。しかしそのレコード店員によると、アンダンテの版元に問い合わせた所、あくまで17日のライヴで初出だと言い張っていたらしい。しかし17日ライヴといえば既にターラから出ている(前記)。それと同じなのではないか、と店員に問うたところ、パツァークがミスっているところがあり、ターラ盤とはあきらかに違うという(ターラの日付誤りということなのか?)。寧ろデッカ録音に似ているので前述のような説が出たのだ、と。その店員を信じ、二度と買うもんかと思っていた高価なアンダンテの当盤を買ってしまったわけである。しかし、うちに帰って比較聴取してみたところ、はっきりいって、まったく同じなのである。音質がよくなっていればまだしも、ほとんど差がない。店員のいう事を信じて、ということでここでは別項にあげておくが、私の耳が正しければ、これはまったくの同じ演奏である。それにしてもレコード店員はレコード評論家のようにあてにならないものだ。同盤には復活と4番が併録されているが、どちらも(CBS、DG)既出のものである。初出と言い切れるのは、4番の録音と同時に録音された数曲の歌曲で、歌唱は4番と同じギューデンだ。これだけがせめてもの救いだった。でも、あー、腹が立つ・・・
後記:某雑誌で、この盤はデッカ盤に拍手等を挿入したものだと断言してあった。どちらでもあんまり変わらないからどっちでもいいのだが、このレーベル、信用ガタ落ち。ちなみにこの盤、一枚他のセットのCDが間違って入っていた。サイアク。

○ウィーン・フィル、フェリアー(Msp)パツァーク(T)(andromedia)1952/5/18(?)live・CD

この音源はandanteが偽者を出したあとtahraが正規に復刻したものを何度も焼きなおしていろんなマイナーレーベルが出していた、その一番最近の復刻で音がいいというフレコミだったが石丸の店員は「いやー・・・かわんないす」といっていた。それ以前にレーベル表記上の収録月日が一日ずれているため、資料として入手。ワルターは元々リアルな肌触りの生々しいマーラーをやるけど(作曲家じきじきの委託初演者とはいえ同時代者から見ても「ユダヤ的にすぎる」と言われていた)、透徹した「大地の歌」という楽曲ではとくに違和感を感じることも多い。このEU盤は最近の廉価リマスター盤の他聞に漏れず、輪郭のきつい骨ばったのリマスタリングで、もっとやわらかい音がほしいと思った。でもたぶん普通の人は聞きやすいと思うだろう。大地の歌に浸るには、やっぱ新しい録音にかぎるんですが。イマかなり厭世的な気分なので、ドイツ語による漢詩表現が薄幸の電話交換手キャサリン・フェリアーの万感籠もった声と、ウィーン流儀の弦楽器のアクの強いフレージングとあいまって奇怪な中宇の気分を盛り立てられる。穏やかな気分で消え入る死の世界なのに、この生命力は・・・とかおもってしまうけど、ワルターもけしてこのあと長くないんだよなあ。

~Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ

○ウィーン・フィル、フェリアー(Msp)パツァーク(T)(VPR)1949/8/21ザルツブルグ音楽祭live・CD

モーツァルトの40番と一緒に演奏された抜粋、即ち歌曲として演奏されたもの。だから録音も声だけが生々しくオケはやや音が遠くて悪い。若々しく張りのあるパツァークの声が素晴らしいし、インタビューも収録されているフェリアも闊達な歌と喋りでのちの不幸な死を微塵も感じさせない。まるで電話交換手のように闊達に喋る。歌を味わうものとして特筆できる、両者雄弁さを発揮した録音で、交響曲としては肝心の両端楽章が抜けているのだから土台評価できない。歌好きなら。依然溌剌としたワルターのライヴ芸風が楽しめる側面もあるが、とにかく時代がらまあまあの音質できける自主制作盤として、マニアなら。確かに交響曲じゃないものとしてワルターの大地の歌が聴けるというのは面白くはある。やはりベツモノなのだ、と各曲に明確な性格付けがなされ統一性を持たせようとしていないところに感じることが出来る。 中間楽章でのパツァークの安定した、でも崩した歌唱にも傾聴。個人的にdecca録音にむしろ似てるきもするけど。

~Ⅴ抜粋、Ⅵ抜粋

○ウィーン・フィル、フェリアー(Ms)ピアース(T)(PEARL)1947/9/11放送live・CD

SPエアチェックの板起こしらしく、両楽章冒頭から四分前後で切れている。ワルターの、後年のバーンスタインを思わせる独特の伸縮するロマンチシズムがオケの身体的共感により音楽に昇華している様子がとくに顕著で、全曲聴きたかったが仕方ない。ピアースの晴朗な歌唱が印象的だが、このCD自体はフェリアの小品集。○。


※2004年以前の記事です(一部2006,2007,2011)
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☆ヤナーチェク:狂詩曲「タラス・ブーリバ」

2017年12月08日 | Weblog
◎ターリッヒ指揮チェコ・フィル(SUPRAPHON)

モラヴィアの作曲家ヤナーチェク。ロシア国民楽派に傾倒し、その手法をモラヴィア音楽に適用して独自の歌劇形態を確立した。その作品は歌劇のみならずバレエ音楽、純管弦楽や室内楽など幅広く、印象派以後の新しい音楽に対しても積極的に関心を示した。その音楽には前世紀的なロマン性と同時に鋭い現代性が感じられ、1854年生まれの作曲家とは思えない清新な作風を持っている。このタラス・ブーリバは代表作といってもいいだろう。ゴーゴリのテキストによる英雄叙事詩的な内容の作品だが、純粋に音楽だけを聴いても十分楽しめる。鐘やハープの効果的な響きがちょっとマーラーやスクリアビンを思わせる。私は表題音楽というものが苦手で、表題のついている作品でも音楽だけを聴くようにしている。この作品はテキストに沿って聴いても面白いかもしれないが、それがないほうが想像力をスポイルされずに楽しめるような気もする。

2曲目冒頭他の精妙な音世界は多分に夢幻的。前曲から続くテーマが意外な形で注意深く挿入されており、面白い。国民楽派的な表現も目立ち、一部ワーグナー的な感もしなくはないが、それらをあくまで手法の一部として吸収して、独自の緻密な作風にとりまとめているといったふうだ。きらめくように連なる音楽絵巻はグリエールのイリヤ・ムーロメッツを思い起こすが、それより数倍凝縮され洗練された音楽といえよう。ターリッヒの腕はここでは冴え渡っている。国民楽派的な表現は言わずもがな、静かな場面では印象派的な(もしくはシベリウス的な)精妙な音楽を紡ぎだしており、ターリッヒが意外にも繊細な感性の持ち主であったことに驚く(ターリッヒというとチェコのトスカニーニかムラヴィンか、というところがあるから)。録音状態もターリッヒにしてはかなり良い方だと思われる。明るく澄み渡った音はチェコ・フィルの独壇場。この盤は古典的名演として記憶に留めるべきものだ。

※2004年以前の記事です
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ラヴェル:マ・メール・ロア組曲

2017年12月08日 | Weblog
ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA)CD

ステレオ録音が古いのが透明感をそこなって惜しいが、得意曲であり、ニュアンスの宝庫をここぞとばかりの雰囲気たっぷりに、しかし飽きさせるような耽溺はせず聴かせきる。ラヴェルが無邪気な夢幻をもっとも美しく、素直にあらわした曲で、ミュンシュの印象からするとピアノ原曲に近いような、旋律を強くひびきをよりリアルに抉ってきそうなところ、この曲ではじつに耳に優しい細やかな演奏、かつわかりやすいものに仕立てている。ボストンオケで良かったというような機能性の高さによって微細な部分までの配慮を行き届かせることができている。素晴らしい。
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