湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

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シベリウス:交響曲第2番

2017年11月22日 | Weblog
クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(RCA/artis他)1950/11/29・CD

クーセヴィツキー最後の録音の一つとして相対的に破格の音の良さから疑似ステレオ盤もつくられわたしはそれを持っていた。もっとも質の悪い薄盤であまり聞かなくなったのでartis40枚組を入手して聞いた次第。クーセヴィツキーのノイズの中から響いてくる剛速球のイメージが、霧が晴れたようになってあらためて面白い。2番は旧録(1935)もあるがオケの出来からいっても演奏の落ち着きからいってもこちらのほうがシベリウスらしくて良い(クーセヴィツキーもオーマンディもシベリウスと懇意で信頼されていたアメリカの指揮者だ)。音色はさほど魅力はないが厳しく技術的な瑕疵なきようまとめあげられ、音は短く切り上げ気味で発音が強く、このあたりがノイジーなライヴ録音で聞こえてくるスタイルのもとなのだとわかる。音の気を抜かせない、ブラスの長い音符でも決して歪ませずまっすぐ太く保たせる、弦楽器は多少萎縮してテンポを揃えなおしてでも細かい音符まで合わせさせる、これは昔はあまりなかったかもしれないが、なくはなかった。3楽章以降はちょっとまともになりすぎている感もあるがライヴではないからこんなものだろう。比較的ゆっくりでゆるい感もあたえる弦の刻みから4楽章の予兆を木管アンサンブルがかなではじめる前のものすごい空白はプレイヤーが壊れたかと思うが単なるパウゼである。その後はさすがに最晩年なりの落ち着きは出ているが流れ良さは保たれている。作為なく譜面通り、シベリウスのわざをそのままにお届けする4楽章はものすごいアッチェルとかデフォルメを期待してはいけない。むしろ落ち着いて身をゆだねる、さすがにオケのコントロールは見事で自然に立体的に組みあがり調和が保たれている。沈潜する雰囲気は2楽章より4楽章の展開部のほうが強い。もうすっかり灰汁の抜けた大人しい演奏になっているので過度な期待は無用だ。しかしここから最後のクライマックスにかけては意地をみせる。ここを聴かせるためだけに長々とやってきたのかという再現部はいきなり大仰で感動的である。高音の音量がもっとほしく思うが書法のせいだろう。短調のうねりにのったペットのヴィブラートが美しい。転調はあっさりだがテンポは落としてじっくりやる。かつてのこの指揮者にはあまりなかったやり方ではある。ブラスと太鼓により壮大な結末が提示される。ラストはきっぱり切る。
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