外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

言葉は正確に: 「フラッシュ・モブ = flash mob」と「どっきりカメラ」の違い

2014年05月18日 | 言葉は正確に:

言葉は正確に: 「フラッシュ・モブ = flash mob」と「どっきりカメラ」の違い

 

フラッシュモブ コペン駅前広場など、公の空間に、どこからともなく楽器を持った人が現れ、周りの反応は意に介せず、突然演奏を始める。そうすると、それに呼応する別の演奏家が次第に集まり、最初は小さな音で始まった音楽が、どんどん大きくなり、大交響曲になる。その頃には、聴く人も周囲を囲むようになるが、フォルエッシモで曲が突然終わると、拍手する通行人には一顧だにせず、自然解散する。


これがフラッシュ・モブという「現象」です。現象というのは、これは今までのどのような行為のカテゴリーにも入りそうもないからです。野外演奏会ではありません。大道芸というには大きすぎます。第一、観衆の喝采も、いわんや、報酬も期待しません。演奏し終えると、駅前広場は、そんなことはなかったように通常業務をフラッシュモブ 背中営む人でにぎわいます。

ところで、ひところ、テレビ番組で、「どっきりカメラ」というのがありました。たしか、街中で、突然有名人がハプニングを行うというようなものだったと思います。しかし、フラッシュ・モブはそれとはどうも違うな、と思うことが、フラッシュ・モブが何かを知るきっかけになりそうです。フラッシュは、「フラッシュを焚く」のフラッシュ、一瞬の閃光のこと。mobとは、群集。非人称的に群れ動く都会の人ごみのこと。


フラッシュモブ バス人ごみのなかでは、人々は警戒心を持ってぴりぴりながら、そして時間を気にしながら自分の世界に篭っています。電車を待つ駅などその典型的な場所です。そこに、ぱっとしない格好をした人が突然太鼓をたたき始めたら、たいていの人は、その「変人」に警戒心を募らせます。そんな人々の眉を顰めた顔をものともせずに、音楽は正確に、音楽的に高まっていきます。音楽家の数は、20人、30人に増えていきます。ティンパニーや、ハープも持ち込まれます。そのうち、人々の心のなかに、自分しか見ていなかった視線とは違ったものが生まれます。人々の顔は明るくなります。笑顔を浮かべます。真っ先に、子供たちが踊りだします。そこに現出した、非日常的時間。これは、純粋な祝祭的時間です。祝祭、という言葉がこの場合にぴったりです。

フラッシュモブ新宿②いや、普通のお祭りよりもっと祝祭的と言えるかもしれません。普通のお祭りには準備やら、商業的動機、政治的動機やら、警備などあまり「祝祭的でない」要素が付きまといます。日本の場合はやくざが絡む場合があります。もちろん、フラッシュ・モブを行う人は周到な準備を行います。しかし、彼らが生み出した時間は、そうした、世俗的なもろもろを忘れさせる時・空間なのです。

どうでしょう。「どっきりカメラ」のことは忘れて書いてしまいましたが、どっきりカメラには、小林秀雄風に言えば、「末梢神経への刺激」しかないのに対し、フラッシュ・モブには、群集の一人、一人のなかに、群集ではないものを目覚めさせます。そのことをさして、逆説的に、モブ=群集という名前を誰かがつけたのでしょう。末梢神経の刺激だけでは群集は群集のままです。フラッシュは突然光り、そして何の痕跡も残さず消えていくものをさして、そう呼びます。何の意味づけもなく、自然消滅するからこそ、その祝祭性が際立つのです。

さて、有名なフラッシュ・モブを3つリンクしておきましょう。一つ目は、コペンハーゲンの駅。二つ目は、新宿東口、三つへは、大阪音楽団によるもの。

①http://www.youtube.com/watch?v=mrEk06XXaAw

②http://www.youtube.com/watch?v=eSKsMcKb7Go

③http://www.youtube.com/watch?v=hLcjqOPf1d0


フラッシュモブ 紛争じつは、私は少し危惧を抱いています。フラッシュ・モブが、その祝祭性を失って、単なる刺激的行為になってしまいはしないかと。つまり、そうなると、①商業化される。ま、客集めですな。②エスカレートしてくだらないものになる、ということです。わざとらしくなるということです。

二つ目は辛うじてその幣を免れていると思います。が、有楽町駅前のフォル・ジュルネーの出し物として行われたフラッシュ・モブの動画には、否定的はコメントがありました。客集めのイベントという性格が鼻についたいのでしょう。

三つ目は、じつは、少々作為的なものが感じられます。しかし、行政によって解ラッシュモブ 大阪音楽団散の憂き目に会いそうな(大変な赤字だそうです...)大阪音楽団がやっているというところに、その祝祭性が鋭く感じられるので取り上げました。

聞くところによると、プロのフラッシュ・モブがあるそうです。それはそもそもフラッシュ・モブの本質に反することなのではないでしょうか。

今回、「言葉を正確に」、というテーマの下に、言葉から社会学的な言語に逸脱いたしました。

 

 


シリーズ 日本人の英語:建築家、坂茂の英語 再び

2014年05月17日 | シリーズ:日本人の英語

シリーズ 日本人の英語:建築家、坂茂の英語 再び

坂茂2かつて、「シリーズ:日本人の英語:板茂」でも触れましたが(「板」は間違い。「坂」が正しい)、今日の産経新聞(5月16日。16日最終閲覧)に、建築のノーベル賞と呼ばれるプリツカー賞を受賞した、坂茂さんのインタビュー記事がありましたので、引用してみましょう。

以下のインタビューにおいては、「英語」だけではなく、もっと広い伝達能力の問題を扱っています。、記者の、「その行動力、交渉力はどう養われたのか」という問いに対する答えです。

アメリカの教育によるところが大きいでしょうね。高校時代にたまたま読んだ建築誌の特集記事がきっかけで、ニューヨークにあるクーパーユニオン建築 学部を目指しました。欧米ではプレゼンテーション力が重視されますから、大学でもみんなの前で発表、議論する機会が多い。語学力の差を補うべく、いろんな 手を使いながら、人を説得しなければならない。日本人は普通、そういう機会は少ないし、苦手ですよね。授業でも発言しない学生が多い。

 そ して、世界でも稀(まれ)なことに、日本の学生は授業をサボる。学生時代は楽しく過ごし、社会に出れば鍛えてもらえるとでも思っている。考えてみてほし い。野球でもサッカーでも、プロを目指す人は日々、厳しいトレーニングをする。建築も同じ。繰り返し課題に取り組みトレーニングしなければ、プロにはなれ ない。授業をサボるのは、練習をサボるのと同じです。

前回、「坂さんは建築家です。大工さんや市当局の人とすばやく、寸法や、法律に関する事柄について、正確に意思のやりとりをしなければ、建物が立ちません。ですから、オリンピックの招致演説よりもずっと高い言語能力が要求されます。」と述べましたが、「現実の問題にぶつかり、解決するためにどうしたらよいか考え、そのために言葉を鍛え、思考を深めるという過程を経てきた方だということが分かります。

言葉は、それ自体、学習の「目的」にはなりません。伝えなければならない、理解し紙管TED坂茂 紙管なければならないという場における努力が、初めて言葉の学習を手ごたえのある、楽しいものしてくれるのです。NHK、「旧」プレ基礎英語の監修者、小泉さんが、Let's enjoy English.、つまり「英語<を>楽しもう」という言い方に疑問を持つ。何かを英語で理解し、伝えることが面白のではないか、と書いていたことを思い出しました。 

参考:アメリカの美術関係のサイトによるインタビューです。「長いエッセイの倉庫」には、トランスクリプトと、簡単な語学的解説があります。

Spotlight on Design - Shigeru Ban interview
音声MP3版は、3分に編集 2.76MB

長いエッセイの倉庫

紙の教会 夜景写真:

①フランス、ポンピドーセンター美術館分館の天井をバックに。ベトナムか中国の帽子の編み方がヒントだそうです。

② 紙管を持って。TEDより。

③ 阪神大震災の際に作られ、今、台湾に移築されている「紙の教会」のは夜景。

以下のページもご覧ください。

ホンダジェット、技術畑の社長さんの英語力

 

 


Did you ever go to Kyoto?は「正しい」か、という問い 英語教師の通弊

2014年05月10日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

  Did you ever go to Kyoto?は「正しい」か、という問い 英語教師の通弊

英語教室

 

今回は、英語を初めとして、日本語も含め、、母国語を教える教員へ向けて書かれています。ですから、英語学習者には関係がない、と言ってもいいのですが...。

若干、皮肉が込められていることもあらかじめお断りしておきましょう。

過去の経験を訊く時、Have you ever been to Kyoto?と学校で習います。ところが、米国人が、いや、Did you ever go to Kyoto?でいいんだ、と言ったり、また、学校の「正誤問題が間違っている」ことを指摘しながら、「ここが変だぞ、日本人」と言うと、なんだか、日本人は、恐れ入りやの鬼子母神という心理状態になります。ひいては、「だから学校英語はだめなんだ」ということにもなりましょう。(このコラムのタイトルはトリッキーです。Did you ever to to Kyoto?に関する、言語学的課題がテーマではありません。Sorry...)

この思考過程はとてもよく知られているので、それを使って、それで「みすぎよすぎ」をする人たちがでてきます。いわく、「学校英語」はダメで、「正しい」のは○○だ」、「非実用的な英語」対「役に立つ英語」という対立心理です。

英米ときに、新手の話題もあります。Did you ever go to Kyoto?が米国、Have you ever been to Kyoto?が英国。つまり、「英国英語 対 米国英語」というコンセプトもなかなか魅力的です。

しかし、よく考えてください。そういう本、記事は誰が読むのでしょう。英語を学ぶ、日本人をはじめとする非英語諸国の人です。そういう読者は、「教えてくれてありがとうございます」と、素直にお金を払います。

一方、書き手の方の意識に注目してみましょう。この種の、英米比較記事を読む人は、英米人ではなく、英語学習者であることは分かっているはずです。しかも、そんな英米比較など、書いている本人にとって、とhave you everりわけ研究も、学識も必要がありません。(例外もあります。それは末尾の註で。)

ここまで考えると、あまり好ましくない、英語教師の心理が浮かび上がってきます。習う側が素直に受け入れることに乗じて、自分ににとっては当たり前のことについて、上から教えを垂れるという姿勢です。

それは言い過ぎだ、と言う人もおられるでしょう。しかし、再び、よく考えていただきたいのです。英国と米国で用法が違えば、英語を習う、非英語圏の国の人たちは、二重に学習しなければならなくなるのです!。

じっさいは、二重だけでは済みません!。米国でも、「私は3年東京に住んでいます」は、"I've been living in Tokyo for 3 years."であって、 "I'm living in Tokyo for 3 years"ではないのですから、英米の違いだけでなく、米国英語内での、現在完了形と過去形の、さらに複雑な違いを学習しなければならなくなります。口語と文語の違いもあります。習う方はこれだけ負担が増えるのです。

世界の英語言語は家元制度ではありません。米国流と英国流があるというような悠長な話ではありません(昔は、なんとなく、そう思われていませんでしたか?)。英語学習者は、米国に行くこともあるし英国に行くこともあるのです。学習者が遭遇するこのような困難には考慮が払われていません。

教える立場の人は、習う人が伸びてもらいたいと思うはずです。だったら、当然、英米の用法の分離のもたらす困難を、習う立場に立って顧慮するはずです。でも、私が最近、英字新聞で読んだ、英語教師によるこの種の記事には、「私の使う英語ではこうだ、ああだ」という自己主張こそあれ、そこには学習者の顔が見られませんでした。

そうなってしまう背景には、ひょっとしたら...、「英語を話すのは当然であり、話せないのはお前が悪い、あるいは、劣っているからだ」という心理が潜んでいるのではないか、と言ったら、被害妄想でしょうか。

母国語を教える人は気をつけなれればなりません。自分の使っている言語が絶対日本語教師だと思っていはいけないと。日本語を教える人にも言えることです。米国人、英国人の英語教師諸君にまず、言いたいのは、自分が当たり前と思っている母語以外の英語との違いを、ある程度勉強してから教壇に立ってほしい、ということです。最低限、「これは我が国でこう言うが、他国ではこうだ」と言うのが教師の親切というものです。義務でもあります。

さらに言えば、相手の国の言語を学ぶのも基本です。なぜなら英語を学ぶということは母国語と英語との違いを学ぶことですから。まさか、母国語は「決して減らない、楽に手に入れた資本」だという気持ちで教師になっているのではないでしょうね。「決して減らない、生まれつき持っている資本」で商売をしている、もう一つの、あの商売と同じになってしまいやしませんか。

註:220125 更新

この記事を書いてだいぶになりますが、以前、ここにBritish Councilによる演劇形式の洗練された英米語比較をリンクしておきました。残念ながら掲載終了となってしまったので、最近発見した、比較的ちゃんとした動画を一つ紹介します。British Councilにも文章形式の記事はあるのですが、こうしたものは動画で学習したいものです。これ以外にも英米語比較動画のサイトはたくさんあります。

How Are British English and American English Different?

https://www.youtube.com/watch?v=NdJQdt3xkFQ

How to understand the differences between British and American English - See more at: http://learnenglish.britishcouncil.org/en/how/how-understand-differences-between-british-and-american-english#sthash.fmnb3ZqC.dpuf
How to understand the differences between British and American English - See more at: http://learnenglish.britishcouncil.org/en/how/how-understand-differences-between-british-and-american-english#sthash.fmnb3ZqC.dpuf
How to understand the differences between British and American English - See more at: http://learnenglish.britishcouncil.org/en/how/how-understand-differences-between-british-and-american-english#sthash.fmnb3ZqC.dpuf

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今回、最近ある英字新聞に載った、英語学習欄の記事を素材にして書きました。自国語を他国で教える、ということは、一見、誰にでもできる易しい仕事です。しかし、楽そうであるからこそ、そこに、その人の人間性が現われてしまうのです。「ちょろいもんだい」と思っているか、「いや、そんなに簡単なことなのか」と自問自答しているかどうか、です。

 

 


「情報発信」は掛け声だけでは...?:憲法の英訳

2014年05月06日 | 言葉について:英語から国語へ

安倍 サイト  「情報発信」は掛け声だけでは...?:憲法の英訳

日本はもっと情報発信をしなければならない、ということは昨年来、とてもよく耳にします。しかし、教育、とくに語学教育などによくあるように、世の中には、掛け声だけで、実際それを実行する意思があるのかどうか、疑わしくなることがよくあります。

なぜ、日本では掛け声だけになるか、というと、みんながそうだ、そうだと言ってくれるからです。そうでなくとも、反対する人は少ないだろうと思って、そのように言えば自分が認められるだろうという無意識の心理が幅を利かすからでしょう。

ですから、「情報発信の必要」ということに関しても、あまりによく耳にすることがあれば、眉につばをつけてかかる必要があります。

ところで、日本国憲法が英訳されていないとしたら、どうでしょう。なにしろ、国の根幹の方針が書かれているものが発信されていなければ、いくら「発信」と言っても政府の言うことはだれも信用しなくなる、と言うこともできます。日本国憲法

ご安心ください。もちろん、日本国憲法の英訳はしっかり存在します。しかし、しかしです。日本国憲法の解釈は、第九条を中心におおいに揺れているではないですか。そういう解釈の問題も、ちゃんと海外に伝わっているのですね?、と問われると、じつはそうでもないのです。

5月6日(火)の産経新聞、「正論」欄に、佐瀬昌盛さんが、ドイツの基本法との比較でそれに触れています。ドイツの基本法は、以下の佐瀬さんの文章に書いてあるとおり、改変は非常に多い。以下、青字は佐瀬さんの記事。最終閲覧5月6日

統一以前に35回、以後に24回、合計59回も「変更」された。「変更」にも3種ある。「削除」「改変」「挿入」だ。念のために言うが、59は変更箇所で はない。回数である。1回で数条の変更はザラだし、変更して後に同じ条項がまた変更という例もある。憲法学者でもリスト片手にしなければ正確を期せまい。

メルケル改変の理由は、下の註に挙げたように述べられていますが、この興味深い話題は飛ばして、ドイツでは改変がいちいちすべて英訳されているという事実に注目したいと思います。そのため、「外国でもそれをチェックできる。国際的に透明性が高い。それは国家の信用につながるだろう。

一方日本の場合はどうか。九条があり、一方自衛隊があるのだから、海外の日本に関心のある人は、両者の関係はどうなっているのかと、まず思うでしょう。しかし、「集団的自衛権に関する昭和56年政府解釈の英訳」はあるものの...、

ところが、肝心の自衛権の存否に関する政府解釈の公式英訳が出されていないので、根本の問題は依然としてブラックボックスである。」と佐瀬さんは続けます。

日本の安保・防衛に関し政府解釈を英文で体系的にたどることはできない。外国の対日関心層は困る。 彼らはこう考えるだろう。日本の憲法と現実の安保防衛政策とはどうみても矛盾するが、現実は放棄できない。ということはつまり、憲法は二の次でどうでもよいというのではないか、と。

日本人がどう思おうと、海外ではそのように考えるでしょう。さらには、「プリシンプルがない」という文化決定論で日本を枠にはめて見るかもしれません。

情報の発信とは、相手が理解して、さらには、相手を説得して、「なんぼ」です。た斉藤博 秩父丸だ、声を上げればよいというものではありません。やはり、「掛け声」にすぎないのではないか、と強く推測させる事態ではないでしょうか。戦前の駐米大使、斉藤博の「パネイ号事件」(動画)における対応などに学ぶべきことはまだ多いようです。

 


註:産経新聞:『正論』2014/05/06 佐瀬昌盛

なぜドイツはかくも「変更」に熱心なのか。最大の理由はといえば、一度も改変されなかったワイマール共和制憲法がナチス政権により踏みにじられた苦い歴史 体験である。その結果、今日のドイツは政治・社会の現実と憲法規定との乖離(かいり)がおそらく世界で最小の国になった。見事である。