「情報発信」は掛け声だけでは...?:憲法の英訳
日本はもっと情報発信をしなければならない、ということは昨年来、とてもよく耳にします。しかし、教育、とくに語学教育などによくあるように、世の中には、掛け声だけで、実際それを実行する意思があるのかどうか、疑わしくなることがよくあります。
なぜ、日本では掛け声だけになるか、というと、みんながそうだ、そうだと言ってくれるからです。そうでなくとも、反対する人は少ないだろうと思って、そのように言えば自分が認められるだろうという無意識の心理が幅を利かすからでしょう。
ですから、「情報発信の必要」ということに関しても、あまりによく耳にすることがあれば、眉につばをつけてかかる必要があります。
ところで、日本国憲法が英訳されていないとしたら、どうでしょう。なにしろ、国の根幹の方針が書かれているものが発信されていなければ、いくら「発信」と言っても政府の言うことはだれも信用しなくなる、と言うこともできます。
ご安心ください。もちろん、日本国憲法の英訳はしっかり存在します。しかし、しかしです。日本国憲法の解釈は、第九条を中心におおいに揺れているではないですか。そういう解釈の問題も、ちゃんと海外に伝わっているのですね?、と問われると、じつはそうでもないのです。
5月6日(火)の産経新聞、「正論」欄に、佐瀬昌盛さんが、ドイツの基本法との比較でそれに触れています。ドイツの基本法は、以下の佐瀬さんの文章に書いてあるとおり、改変は非常に多い。以下、青字は佐瀬さんの記事。最終閲覧5月6日
統一以前に35回、以後に24回、合計59回も「変更」された。「変更」にも3種ある。「削除」「改変」「挿入」だ。念のために言うが、59は変更箇所で はない。回数である。1回で数条の変更はザラだし、変更して後に同じ条項がまた変更という例もある。憲法学者でもリスト片手にしなければ正確を期せまい。
改変の理由は、下の註に挙げたように述べられていますが、この興味深い話題は飛ばして、ドイツでは改変がいちいちすべて英訳されているという事実に注目したいと思います。そのため、「外国でもそれをチェックできる。国際的に透明性が高い。それは国家の信用につながるだろう。」
一方日本の場合はどうか。九条があり、一方自衛隊があるのだから、海外の日本に関心のある人は、両者の関係はどうなっているのかと、まず思うでしょう。しかし、「集団的自衛権に関する昭和56年政府解釈の英訳」はあるものの...、
「ところが、肝心の自衛権の存否に関する政府解釈の公式英訳が出されていないので、根本の問題は依然としてブラックボックスである。」と佐瀬さんは続けます。
日本の安保・防衛に関し政府解釈を英文で体系的にたどることはできない。外国の対日関心層は困る。 彼らはこう考えるだろう。日本の憲法と現実の安保防衛政策とはどうみても矛盾するが、現実は放棄できない。ということはつまり、憲法は二の次でどうでもよいというのではないか、と。
日本人がどう思おうと、海外ではそのように考えるでしょう。さらには、「プリシンプルがない」という文化決定論で日本を枠にはめて見るかもしれません。
情報の発信とは、相手が理解して、さらには、相手を説得して、「なんぼ」です。ただ、声を上げればよいというものではありません。やはり、「掛け声」にすぎないのではないか、と強く推測させる事態ではないでしょうか。戦前の駐米大使、斉藤博の「パネイ号事件」(動画)における対応などに学ぶべきことはまだ多いようです。
註:産経新聞:『正論』2014/05/06 佐瀬昌盛
なぜドイツはかくも「変更」に熱心なのか。最大の理由はといえば、一度も改変されなかったワイマール共和制憲法がナチス政権により踏みにじられた苦い歴史 体験である。その結果、今日のドイツは政治・社会の現実と憲法規定との乖離(かいり)がおそらく世界で最小の国になった。見事である。