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外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

「Why?」の疑問に対する二種類の答え方

2018年10月01日 | 言葉は正確に:

「Why?」の疑問に対する二種類の答え方

蟻NHK AM第一放送の『夏休み子供科学相談室』で、「ありはどうして壁を登るの?。」の「どうして」をアナウンサーが、「なぜ」という意味ですか、「どのようにして」の意味ですか、と、即座に、鋭く問い直している場面について触れました。今回は、「なぜ」にも二つの意味があるという点について。いや、より正確には、「なぜ」という問いかけに対する答えには二種類あるということについて触れます。

「すっきり」するために問うのか

番組のなかで、司会のタレントの人が、先生の答え、説明と言い換えてもいいでしょう、のあと、「~~ちゃん、すっきりした?」と問いかけていましたが、これはいただけない。「なぜ」と問うのは「すっきり」するためでしょうか。これは科学の番組です。問に対する答えは次の問題を解決するためのステップなのです。問を立てることこそ重要なことなので、それに対して答えは出るかもしれないし出ないかもしれません。出たとしてもそこから次の問いを立てられることに意味があります。この番組では、子供たちの問いかけ茗荷こそが貴重です。「茗荷を縦に切ったときと横に切ったときで味が違うのは何故」、「なぜ数字に終わりがないの」、「時計はなぜ右回りになったのですか」、「どうして重さがあるの」、「なぜいい空気と悪い空気があるの」、「毒を持っている動物は毒で死なないの」。先生たちは、これらにうまく答えられる場合もあれば、うまく行かない場合もあります。答え方に関しては、言葉の使い方という観点からすでに少し述べました。今回はこれらのことを疑問思ったということがこの番組の一番の聴きどころだということにこそ注目すべきだと思い記事を書きました。

もやもやを解決するためのWHY

たしかに人はもやもやを解決するために「なぜ」と訊く場合があります。しかし、説明を聞いて「すっきり」した場合、それで解決したのか。うまくだまされたのではないのか、と疑ってみることができます。心の不安はなくなるでしょうが、じっさいの問題は解決するのかと問う余地があります。しかなぜし、すっきりしたくて訊いた人にはそうした動機が乏しいです。「神のお告げだ」という説明を聴いて恐れ入った人は最初から神のお告げを聴きたかったのでしょう。問題を解決するために訊いたのではないです。そう、「すっきり」するために訊くのは、ずっとたどっていくと宗教へ行きつきます。なかにはたちの悪い宗教まがいのものもあるので注意しなければなりません。答えの出ないのを承知で叫びが質問の形をとる場合もあります。キリストの最期の言葉、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」、神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや、はその究極的な表現です。

もう一つのWHY

科学における「なぜ」はそれの対極にあるというべきです。その答えは次の質問につながるのです。茗荷以外の野菜で試したらどうでしょう。味が変わるものと変わらないものに分かれる場合もあるかもしれません。そうしたら、なぜその違いが生まれたかと問うことができます。このように「現実」の問題を一歩ずつ解決していくがもう一つの「なぜ」に対する説明です。

好奇心ちょっと残念なのは、年齢が上に上がるにつれ、質問が本質的でなくなる傾向があるのです。なぜか小学校3年生が一番質問してくるようです。6年ともなると塾の勉強で忙しくなるのかもしれません。今日の新聞によると、ノーベル賞をとった本庶さんは、研究の原動力は何かと訊かれたとき、「何かを知りたいという好奇心だと即答したそうです。その上で大切なことは6つのC、「好奇心」、「勇気」、「挑戦」、「確信」、「集中」、「継続」だそうです。6つのCとは何かの答えは下にあります。最初に挙げたのが「好奇心」。これを大人になっても持ち続けることができたら、職業的な科学者でなくても人は幸せものです。


「好奇心」curiosity、「勇気」courage、「挑戦」challenge、「確信」conviction、「集中」concentration、「継続」continuity


 


杓子定規と汚職の間 つづき:大人とは何?シリーズ⓶

2018年09月27日 | 言葉は正確に:

杓子定規と汚職の間 つづき:大人とは何?シリーズ⓶

社会社会は人々の了解事項のもとで複雑化し、大勢の人を養います。その基本はなんといっても言語。それに加えて慣習と法規があります。慣習と法規が一定の対立を持って社会を支えている…、このことは子供のころは分からないものです。いや、大人でも...。

大勢の人を動かすのですから明文の法規というものがあって、それを越えないように人々は振る舞います。しかし、大規模なものになると、いかに深刻な規則であろうと、人々の脳裏から消えることがしばしばあります。それ以上に問題なのは、大規模なものは「たてまえ」であって、現実は違うんだという「大人」の基準によって人々がふるまう傾向があることです。いわゆる「本音」です。本音の付き合いをするとき、声をひそめ、薄笑いを浮かべながらをするのがいつものことです。もしあなたが舞台で演技をする人ならきっと頷いていただけることでしょう。この意識が麻薬の作用を働き、大規模で、深刻な規則を無視させるようになると...、さあ、たいへん。仮にちゃんとこのメカニズムが分かっている人がいてあなたを貶めようとしたとしたら、あなたは一生を棒にふるようなことにもなりかねません。どうですか。こんな抽象的な語りくちでも、某官庁の汚職事件を思い浮かべる人は、あるなまなましいものをお感じにならないでしょうか。

杓子定規その反対に、杓子定規とういものがあります。規則というものは何か目的があってそれを達成するための道具です。道具なので不完全な点がたくさんあります。絶対守らなければならない条項もあれば、なかには「玉虫色」と言って意味のないものもあります。その違いを認識しないで石頭で規則通りに行動する、というのも考えもの...。いや、それ以上に危険なものがあります。世の中には、軍隊のように命令系統が厳格な大組織というものもあれば、数人で共同する仲間、小企業もあります。その両方があって社会が成り立つものです。数人で共同する仲間の間ではお互いの意図を察して、慣習に基づいて行動します。「前はこう決めましたが、今回はこれで参りましょう」ということの連続です。それを成り立たせるのが<信頼感>です。人間の、ある意味、根源的な感情です。しかし、現代のような大きな社会においては信頼感がなりたつ限界というものがあります。この点は法規に厳格に、この点はあうんの呼吸で、と臨機応変に対応しなければなりません。

チェスタートンここで、大人というものの一つの条件が見えてまいりました。「大人だからルールを守れ」だけでは大人の条件としては不十分。かと言って、先ほどの「本音のつきあい」が大人の条件のはずはありません。信頼感と規則の意味の理解という両輪に基づいて、その場に適切な判断を下せることが大人である一つの条件だと思います。この判断を下せる人は少し話すと分かります。落ち着いた人柄が自ずと現れます。その判断ができない人は、やはり、少しお付き合いすると分かるものです。杓子定規どころかある種狂気をはらんでいる場合もあるので注意したいです。G. K.チェスタートンは「理性以外のすべてを失った人は狂人である」と述べましたが、後者の人には極端な場合、これが当てはまる場合もありそうです。会社で新人を採用する方、どう思われますか?。頷いていただけるでしょうか。しかし、あまりに短期のお付き合いだと分からないこともありますしねえ...。





杓子定規と汚職の間:大人とは何?シリーズ

2018年09月27日 | 言葉は正確に:

杓子定規と汚職の間:大人とは何?シリーズ⓵

「言葉は正確に」のカテゴリーにしばらく「大人とは何?」のシリーズを仮置します。

大人子供花火今年の夏も、『夏休み子供科学相談室』をだいぶ聴き込みました。聞き逃しサービス、ラジルラジルは、この番組に限って9月いっぱいまで聴けるように変更されたのですが、その理由は大人の聴取者が増えたかららしいです。

よく「子供のための哲学」というような書名を見かけますが、あえて哲学と言わなくても、子供たちがこの番組によせる疑問は自然に哲学的である場合が多いです。8月後半には、「数字にはなぜ終わりがないの?」という質問が回答者を慌てさせていました。子供が宇宙や恐竜に対して興味を持つのはなぜか考えたことがありますか。それは、自分が当たり前と感じている「生活世界」が、想像でしか認識できないものによって支配されているのではないかという不安感の現われではないでしょうか。以前教えていた6年生の子が、自分が死ぬ夢を見た、と言っていたことも思い出します。「実存」への自問自答を行なう過程で見た夢、と言えるでしょう。大人になるにつれ、日々の関心事の裏にこれらの不安は消えて行きますが、そのかわり、だんだん刺激と興奮のみを追い求めるようになります。要するに、大人になる、ということは単に鈍感になることではないか、という問いかけをここですることができるでしょう。一方に、日々食わねばならぬという恐怖と緊張があり、もう一方に、緊張緩和の刺激剤服用があり、その二つの繰り返しが大人の生活なのかもしれません。

このような問いかけのもと、それでも、「大人になる」ってどういうこと?と考えたいと思います。子供たちに訊かれたときの準備として。

本題の、「杓子定規と汚職」は次回に譲ります。

 


言葉の格闘、夏休み子供科学相談室は9月まで聴けます!1/2

2018年08月30日 | 言葉は正確に:

言葉の格闘、夏休み子供科学相談室は9月まで聴けます!1/2

夏休み子供科学 8月20日

前半:

NHK、AMラジオ第一の『夏休み科学相談室』の人気が上がっているそうです。今年の夏の放送は明日、8月31日(金)で終了しますが、インタネットのラジルラジルで9月末まで聴くことができます。7月の末の時点では聴けるのは一週間ということだったのですが、ある時から9月までになっているので何かの間違いかなと思っていましたが、昨日の放送によると、人気があるので延長を決めたということでした。

聞き逃しサービス、ラジルラジルはこのページから。7月30日(月)が最古になっていますが、各ページを開くとその前の週の番組も下の方に出ています。たとえば、7月30日(月)を開くと、下に7月23日(月)の番組が見つかります。

この番組は、子供向け科学番組というだけでなく、言葉の使い方の勉強になると数回前のブログで触れました。「知らない人」に「知っている人」がいかに理解させるか、というとても困難な(英語ではchallenging)な課題を、音声のみで行おうということですから、これは言葉の格闘と言ってもいいかと思います。子供より大人にぜひ聴いてもらいたいと思います。

今年は例年以上に時間がある限り聴きましたが、たくさん聴けば欠点も目立ってくるものです。今回ちょっとあらさがしをします。

一週間目は毎年、藤井彩子アナウンサーです。論理性、隠れた文脈を掴む力、焦点を当てる部分に過たず光を当てる力など優れています。毎年一週目に担当になるということは、NHKの人も藤井さんの力を理解しているのですね。たとえば、以前指摘しましたが。「どうして~?」と訊かれた場合、間髪を入れず、「それは、どのようにして、という意味ですか、なぜ、という意味ですか」と聴き返します。他のアナウンサーは必ずしもそうはしません。

夏休み子供科学 イラストその藤井さんにも、今年は少し気になることがありました。一つ目は「そうか、そうか」という相槌です。いかにも子ども扱いしているという感じがします。もう一つは、「瞳孔」と言う言葉の意味を説明するのに先生が苦労しているとき、「それは、ひとみのことですか」と助け船を出さなかったことです。以前はそうしていたように思います。「慣性」についても「慣れ」ということで助けることができたと思います(少しあとでちらと言っています)。慣性については先生が、電車の発車時にジャンプする例でうまく説明できましたが。ま、長く聴いているとこのようなあらが見つかりますが、藤井さんの司会は見事です。

「そうか、そうか」という相槌に戻りましょう。これがなぜ問題なのか。これは、相手に媚びることに通じるからです。あらゆる大人が発する子供言葉と同様、こういえば気に入ってもらえるだろうという心理が根底にあります。子供相手だけでなく、大人同士でも、相手に気に入ってもらえるため、同じ仲間だよね、ということを理解させるために言葉を使うことはありませんか。相手を傷つけないためといえば聞こえがいいですが、相手と不和になり自分が傷つけられたくないという不安、もっとストレートに言えばエゴイズムが動機です。言葉は伝え、理解するためにありますが、このような言葉の使い方は、自己中心ですから、伝達、理解の拒否と言ってもよいです。(この推論、ご理解いただけるかどうか...)この番組は、科学がテーマです。明快に伝えるために、このような「心理的」言語は不要、もっと言えば、聴き手を混乱させます。

巻貝フィボナッチさすがに科学者である解答者の先生方は、こういう陥し穴にはまることは比較的に少ないです。説明がへたな場合も多いですが、必死になって説明するときこのような心理が働く余地がないからでしょう。たいていの場合、先生は子供に対しても、敬語(です、ます調)で話す点も好感が持てます。これは子ども扱い、つまり余計な「気配り」をせず、大人と対等に扱っているからです。

こういう陥し穴に陥り易いのは、むしろアナウンサー、とくにタレントの方です。対象の理解ということではなく、その場の人間関係を維持したいという不安からか無意味なことを言う傾向があります。あるタレントさんは電話が通じると「よろしくお願いしま~す」と発声し、子供にもそう言うことを求めます。「よろしくお願いします」とは何を意味しているのでしょう。この表現は放送業界の人たちの隠語ではないでしょうか。この表現は上下関係を前提していて、上の立場の人から下の人へは「問題を起こすなよ」という意味、下の人から上の人に対しては「私は貴方の指導に従います」という意味でしょう。このような仲間への同化を求める表現(部外者の排除という意味も含む)は、科学を追及する番組には相応しいと思えません。「やばい」というような隠語も避けなければならないのも、下品ということではなく、同じ理由によります。

To be continued

 






東医大点数操作問題の根底に言葉の問題が

2018年08月29日 | 言葉は正確に:

東医大点数操作問題の根底に言葉の問題が

東京医大文科省公務員の汚職問題から、瓢箪から出た駒のように、入試問題の点数操作が明らかになりました。「訳知り顔」というのでしょうか、「どこでもやっている」、「女医の増加は大学病院の運営に障害だ」という意見をコメンテーターが述べて、なんとなく世間は納得している、ということはないでしょうか。「世のなかとはこうしたものだ」という「大人」の納得が余韻を引きます。あとは文科省の担当者や大学当局者が訴訟などの問題の「処理」に頭を痛めるばかりで、世間は忘れていくのでしょう。

しかし、では、女医の増加を抑えこめばいいのでしょうか。どうやって?。試験の公平さとどう折り合いをつけるのか。なによりも、なぜこの問題が起きたのか、という点にさかのぼらないと解決への道筋が描けないでしょう。

かと言って大学医学部の精通していなければ分からないという特殊な、そして偶然的な要素の強い問題でもありません。日本の医療全体に関わるという一般的な問題であるので、はっきりした問題点があるはずです。しかもそれは、知識がなくとも常識(common sense)で考えることができることです。

東医大女子差別女医が多くなると大学の運営に差し支えるらしいということが分かったとき、一つの解決法は、入試要項に本大学は、こうこうこういう理由で女子の定員を男子の半数とする、とか、当大学卒の開業医の子弟は優遇措置をする、と謳うことです。それは、なぜできないか。もしそれを書くと試験の公平さ、ひいては、人権に反するという非難が生じるからです。いや、より正確には、そのことを恐れるからです。恐れた挙句に表面的には男女差別なし、裏では差別ありという事態を生み出しました。ばれなければだいじょうぶです。日本中の私立医大はおおかれすくなかれやっていることだから、ということでしょう。例の、渡れる赤信号ですね。しかし、ばれた日にゃ...。ご覧のとおりです。これは十分予測のつく事態です。

では、どうすればいいか。公に話し合うしかありません。たんに話し合うというよりディベートを通して妥協点を見つける以外の方法はありません。人権が関わる議論は、言いたい放題にしておくと、人権を盾にとって感情を満足させようとするリベラルと、左翼の偽善に苦い思いをするかたくなな「保守派」に分かれてしまい、たがいにいがみ続けることは歴史的にも、日常的にも私たちはしばしば見てきました。ところが、日本人の特性とは言いたくないですが、大学の経営者たちは、まず討論を恐れ、嫌うでしょう。当面の危機を回避でき、財政面で問題がなければ、討論を通して妥協点を見つけるより、隠ぺいを選ぶでしょう。たしかにディベートに必要なエネルギーは、隠ぺいの10倍、いや、100倍かもしれません。伝統的な「日本的」教育を受けた高齢者に耐えられるものではないことは私も承知しています。しかし、公の議論をしないでは、日本の医療の将来全体に関係するこの問題を解決することはできません。

GHQ議論を避け、相手を説得する能力が欠如しているという点では、1945年の敗戦後、アメリカ式の教育制度を唯々諾々として受け入れ、旧制高校などの廃止を許した、日本の代表的知識人たちのことを考えないわけにはいきません。当時、中途半端に移植した「教養課程」などの制度のせいで、今も日本は苦しんでいます。通俗的には、学制を敗戦後も維持したドイツのケースと違う結果になったのは「人種的偏見のためだ」と言われていて、なんとなくそう思っている人が多いですが、そうでしょうか。ある学者はGHQから大学に帰ってきたとき、学生に「先生、なぜもっと強く言わなかったのですか」と問われて、「君、GHQを相手にそれは無理だよ」と言ったとか。アメリカの政治史を垣間見ると、理屈に合わないことをごり押しすることはなく、理路整然と説得力にある主張には耳を傾けるという場面に多く出会います。1945年のことについては知識がなく、確たることは言えませんが、理論的に何も言えなかった日本の知識人の方に咎があるように感じられます。知識人にとっての戦争とは実弾の戦争に負けたその日から始まるのだと思いますが、そうした知識人は日本にはいなかったのでしょうか。

話が、戦後史に飛んでしまいましたが、議論を嫌い、なんとかなるという姿勢がさらなる事態の悪化を招くということを、リーダーになる人たちに肝に銘じるまで教育する必要があるでしょう。

* 河合栄次郎が戦後まで生きていたら、GHQとの交渉がだいぶ違っていたのではないかな、などと思います。