深谷市市会議員小林真ブログ―カロンタンのいない部屋から since 2006

2006年開設の雑記ブログを2022年1月に市議当選でタイトル更新しました。カロンタンは40歳の時に飼い始めたねこです

『1971年のブラックマッペ』

2011-05-11 08:42:39 | 食べ物・飲み物(~2013年10月)

 



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―故・飯塚英夫氏に―
 
 1971年。
 米ビルボードの年間チャート一位はスリードッグナイトの Joy To The World 『喜びの世界へ』 で、日本レコード大賞は尾崎紀世彦『また逢う日まで』。日本のとなり台湾に代わって中華人民共和国が国連の一員となり、埼玉のとなり群馬では大久保清の連続女性殺人事件が起こった。米ワールドシリーズは4勝3敗でピッツバーグ・パイレーツがボルティモア・オリオールズを下し、日本のオールスターゲーム第一戦では阪神の江夏豊投手が伝説的な九連続奪三振を達成している。学生運動の盛んな時代に青春を送り、自ら命を絶った女子大生高野悦子の日記『二十歳の原点』が刊行され熱狂的に迎えられた一方、無国籍テレビマンガ『ルパン三世』が放送を開始し、後の評価とは裏腹にまったく視聴率が上がらなかった。
 先にあげたのは、いずれも前者が当時小学校二年だった私の関心のらち外にあって後から知ったことで、後者はよくわからないにしても記憶に残っていること。夏は太陽に熱された田んぼの放熱が地表近くによどみ、冬は赤城おろしがしめり気を奪う、ディープ関東平野の農村に生息していた小学校低学年の記憶はまだらだ。
 そして、日本人の多くがおとなり中国に棲む「パンダ」という生き物の存在すら知らなかったこの年、もし数え上げることが可能だとしたらそれこそ天文学的な数になるはずの「出来事」の一つに、私が初めて食べた「もやし」のことがある。それが「1971年のブラックマッペ」だ。

 まだ台所は土間でかまどと電気釜が併用されていたわが家にのこたつの上に記憶の限りでは初めて現れたもやしは、同級生飯塚雅俊君の家に遊びに行き、彼のお母さんにもらったものだった。東京駅のレンガもつくったという煉瓦工場の近くにあり、これも後からきいた話では煉瓦工場の働き手相手に営まれたという女郎が住んでいたという飯塚君の家。それは現在人口五千人ほどの学区の中でもうちとは東西正反対の位置にあたり、五キロ離れた街にはまだ自分の自転車で行ったことのなかった小学校二年の行き先としてはけっこうな冒険だったような気がする。

 じっさい当時の飯塚君の家、もやし製造業飯塚商店の周辺は冒険の宝島だった。
 派遣切り問題より太平洋戦争の方が近かった1971年。今は地域体育祭会場となっている浄水センターグラウンドのあった場所には造兵廠跡地で防空壕の廃墟が小学二年には巨大な穴を広げ、三年後に「日本の『小さな恋のメロディ』」といわれた映画『恋は緑の風の中』の舞台となったレンガ工場はすでに去った大正浪漫の色彩を残した廃墟として育成しつつあった。
 そして、その頃まだ機械は導入されていない飯塚商店のもやし工場。今当時あった場所を見るとそれほど広くはないのだが、八歳だったわれらには学校の講堂くらいの広さに感じられた。光を避けるために真っ暗な工場内は、これも後で知る「ムロ」という名の栽培容器の中で芽を伸ばそうとする豆たちが放つ、まるで成長期の更衣室のように香ばしい薫りが充満していた。
 考えてみるとそれは、私にとって生まれて初めて入った「工場」だったかも知れない。

 飯塚君や数人の友人たちと何をしていたかはわからない何かをして遊んでいた時、誰だったかがはずみでもやしの原料である豆が入った大きくて青いポリ容器を倒してしまったことがある。
「シャッ」
 という短い音とともに薄暗い灯りに広がる黒い豆の軽やかさ。

「ああ…」
 まだ、われらの間に「やばい」という形容詞、いや、感動詞はなかったはずだ。
「大変だ」
 とかいいながら、広がった豆を青い容器に戻す。ざらざらしたコンクリートの上の豆を、これ、誰か食べるんだよな、と思いながら容器に入れたが、作業を終えた小学二年の目にはほかの容器よりちょっと少ないように思えた。

「お父さんにはいわないでおこう」
 責任者の飯塚君がそうからには、われらが反対する理由はない。何か取り返しのつかないことをしてしまった気がしたのは八歳だったからだろうが、ともかくその日は沈んだ気分で二キロの道を自転車で帰った。次の日の学校でお父さんにばれたかどうかきくと、飯塚君がまじめな顔をして、
「何とかばれなかったみたいだ」
 といったのをおぼえている。
 飯塚商店について多くを知った今なら、当時の青いポリ容器が今の銀色の金属製の容器だろうことは想像がつく。そして「ムロはもやしの畑」という飯塚君がいう通り、当時も今も飯塚商店のムロは私が何度か連れて行った小中学生でもいつでも入れてくれる。

 話を戻そう。初めて食べたもやしのことだ。
 確信はないが、たぶんポリ容器の日ではない。確か冬のことである。煉瓦工場あたりで遊んできた私たちに、飯塚君のお母さんが商品であるもやしを配ったのだ。
 農村で地元の中学教員だった私の父はPTAの関係で飯塚家によく来ていたので、飯塚君のお母さんは母も知っていた。
「これ、お母さんにね」
 とビニールに入った、不思議なかたちの野菜を渡された。
 小学二年生にとって世のほとんどが奇妙だから、もやしくらいの奇妙さはどうってことない。それより赤城おろしが吹きすさぶ寒さの方が一大事で、真っ暗な田んぼ道を二十分くらいかけて何も考えずに帰ったろう。
 そしてその不思議な野菜は飯塚君のお母さんにいわれた通りに母に渡されたはずで、記憶の次はテレビにはワニのワーリーかなんかが映ってただろう夕食時のこたつの上のもやし炒めである。
 肉はおろか、ほかの野菜も入っていない。じゃがいもを煮るなら、ただじゃがいもだけ醤油と砂糖で煮る、というのが私の家や、後にきいてみても当時の農村の多くのレシピだった。

 まず目を引いたのは、炒めた油の輝きだった。醤油色ににごって波紋を広げる油の上に、細いものが熱く湯気を上げている。
 当時の私は、なんというかまだ食べ物に開眼していなかったように思う。野球に興味を持ち始めた頃で、タイトルも忘れたある野球マンガで目にした「三度の飯より野球が好き」というセリフに、三度の飯ってそんなに大事なのか、と衝撃を受けたことはそのマンガの絵とともによくおぼえている。考えられる理由は単純。たいしたもの食ってなかったからだ。
 そんな小学二年だから、初めて食べたもやしがおいしかったなどと書いたらうそになる。ただ、油と砂糖と野菜特有の甘さと、「しゃきしゃき」なんていわない、「じゃりじゃり」とした歯触りを感じただけだった。何しろ食物開眼前なのだから、「おいしい」という言葉すら自分のものにはしてなかったろう。

 その、どうでもいい最初のもやしが1971年。もちろん「ブラックマッペ」なんて知らない。
 当然だけど、その後も私にとってもやしが特別な食べ物だったことはない。学生になって一人暮らしをした頃に一袋約三〇円という値段を知り、ずいぶん安いんだなと思ったくらいだ。
 小学校高学年くらいには学校では先生からも「もやしや」と呼ばれることもあった飯塚君も、学区内では家が遠いこともあって仲が悪いことはなかったがそれほど遊んではいない。別の高校に行って以降も、たまに麻雀をしたり、『ブレードランナー』をみに行ったり、スキーに行ったりという同級生の一人だった。
 ここから二十年くらい時間をはしょるが、その後も私にとってもやしは関心の外だった。

 そして二一世紀が来て、「ブラックマッペ」という言葉を知る。
 二〇〇二年頃だろうか。近くにできたスーパー、ベルクに行ってみると、しばらくぶりにみる飯塚商店製もやしがある。商品名は「昔ながらのおいしいもやし」。なんだ。自らおいしいなどと主張する商品は敬遠する方針だが、ここは同級生の手になる商品ということで買ってみる。「昔ながら」なのかどうかわからなかったが、当時の私の目にも細くて黒っぽく映った。
たぶん豚肉かほかの野菜といっしょに炒めて食べたのだろう。炒めてもやっぱり細いし、味は太さと反比例するように強かった。
 その頃、たまに買っていたほかのもやしと違うとは思ったが、「昔ながら」かといわれると自信はない。繰り返すが、それほどもやし自体に関心がなかったのだ。

 ちょうどその頃、中学の同窓会があったので、飯塚君に「昔ながら」のことをきいてみた。
 その時に初めて、われわれの小学生時代一九七〇年代には主流だったブラックマッペという小豆に代わって、一九八〇年代からは緑豆が多く使われていると知る。そして、「太もやし」をつくる技術が開発されて普及したというもやしの歴史も、確かこの時に知った。
 そういわれても、へえ、と思っただけである。けれどその時、しばらくぶりに1971年に蛍光灯の光に輝いていたブラックマッペを思い出し、ああ、あの時食べたのは、そういえば今のもやしみたいに白くて太くなかったな、と思い直した。

 そうなると、「1971年のブラックマッペ」を再現してみたくなる。当時食べていたもの、当時の家の土間だった台所や使われていた調味料からすれば、一九八五年に死んだ母がどうやってもやしを炒めたかの推測はたやすい。
 今はほとんど使わないが現存する天ぷらなべの油を、やがて取っ手が取れた中華なべにしいて熱してもやしを炒める。味つけはたぶん醤油と砂糖と味の素。いいかどうかは別にして、当時うちで出てきた料理はだいたいその程度の味つけだった。推測を裏づける事実を付け加えよう。母は知る限り同世代の中でも、もっとも料理に関心のない主婦だった。
 それは付近の家の多くも同じだったらしい。たとえば今は郷土料理としてもてはやされている煮ぼうとなども、当時家でどういう味つけで食べていたかきくと、一九七〇年代までは肉類は入れず場合によるとだしもとらず、野菜と生麺だけだったとよくきく。
 そんな味の食べ物でも私も含めて、とくに不服はなかったのだ。

 では三〇年ぶりの再現だ、と「昔ながらのおいしいもやし」を炒める。さすがに油はごま油にさせてもらった。
 細いもやしはかんたんに炒まる。安い醤油でも香ばしいにおいがして、糖分はすぐ炭化して黒くなる。味の素はまじないのようなものだから、ほんの少しだ。
 じゅわっと水が出たブラックマッペもやしを皿にとる。あの時は確か、あまり好きでなくてカレーの時などは避けてた、でっかい葉っぱの絵の皿だったような気がするがこれはもう見当たらない。まあ、食器まで同じでなくていい。

 よみがえった「1971年のブラックマッペ」は、当時のそれと同じだったろうか。
 うそはつきたくないから、同じとはいわない。1971年版がどんな味かはっきりいえないからだ。そうはいっても二一世紀のブラックマッペは、過不足ない。余計にしゃきしゃきしていないし、過剰に飾りつけた華やかな味もしない。ブラックマッペとゴマ油と塩気と甘さと、ちょっと不自然なアクセントがあるだけ。もちろんそんなにうまいとはいわないが、それはそれでいい。食べ物はそのくらいで十分だ。

 それから少し、1971年の私のまわりの世界を思い出し、その時の母はもやしを料理したことがあったのだろうか、という疑問がわいた。
 母は当時、車の免許を持っていないし、オートバイにも乗っていない。自転車で行く買い物の範囲は限られているし、近所の店でたぶんもやしは見たことなかった。父は一九六九年頃にバイクから車に替えていた。それでたまにコロッケを買ってきたりしたが、わざわざもやしを買って来るとは思えない。
 推定ではっきりしないが、市内に最初のスーパーができたのがおそらく1971年。それも家からは五キロくらい離れている。八百屋すら街に行かなければない。私が十歳、一九七三年頃には母も免許を取って車に乗ってスーパーで買い物するようになっていたから、自分の人生の中でも最初の十年くらいまでで長くないが、家で採れた野菜とか近所の雑貨屋や軽トラで売りに来る魚屋で買うものだけでほぼ生活が成り立っていた時代が、当時の北関東の農村には確かにあった。
 今と比べてどっちが豊かかをいうのは、何となく“フェア”でない気がする。ノスタルジーはしばしば判断をあいまいにするし、今ある空気のような「便利」についての評価は低く見積もられがちだ。

 その後、同窓会の二次会で黒澤明映画の話をしたあたりから話をすることが多くなった飯塚君と私は、二〇〇九年に飯塚商店もやしキャラクターを描いたことなさんによる絵本製作以降、ブラックマッペもやしを中心とした飯塚商店もやしの売り込みに取り組んできた。飯塚君は私の知らない「流通」や「食品」について話し、私は主にずっと考え続けてきた「物語」そのものの功罪を飯塚君に説く。そうやって考え、いっしょにつくり上げてきた販売促進活動は、あの防空壕をのぞいた四十年前と同じようなわくわくして奇妙なスリルに満ちている。
 私の塾のOB宮島健太郎によるマンガ「豆魂社長奮闘記」、二〇〇九年ふかや映画祭会場内でのもやし絵本原画展、渋谷でのもやしカフェ、飯塚君の保育園PTA仲間だった妻沼の五家寶職人西倉康弘君といっしょのイベント、農林センターを通じての埼玉県産在来大豆もやしとの出会い、そして二〇一〇年産業祭から半年間の産学官連携プロジェクト「ゆめ☆たまご」…。こうした活動の根本を、飯塚君は「かつて自分のもやしが否定されたこと」へのルサンチマンだと語っている。

 複数の近辺大手スーパーに卸して経済的には絶頂だったバブル期。もやし界には、太さと白さ、つまり見かけに磨きをかけた「緑豆太もやし」が登場した。見かけがよく、「歩留まり」、つまり同じ豆から多くの量が出荷できる「緑豆太もやし」は生産側にも流通にとってもメリットは大きい。膨らまされている分だけ味はないが、それは一九八〇年代以降発達した調味料群がそれを補っている。今は「醤油、砂糖、味の素」の時代ではない。二九円のもやしを味つけるために一五〇円で売られる「もやし炒めソース」が売られる世の中だ。
 決死のインパール作戦から帰還し、ねぎをはじめとした深谷の野菜を東北地方に運ぶ「山出し」商人だった飯塚君のお父さんは、仕事先の福島県会津でもやしづくりを学び深谷でもやし製造業を始めた。そして「太もやし」へのシフトをすすめられた時、
「そんなもやしがつくれるか」
 と取り合わなかったのは飯塚君のお父さんだ。そのお父さんは昨年亡くなっている。

 リーマンショックによる不況で安価なもやしにスポットが当たった頃、新聞記事にあった「もやしには味がない」という記述を呼んだ飯塚君は憤っていた。それから「味のない太もやし」から「味のあるブラックマッペもやし」を少しずつでも「オセロのように」変えていくことは、私たちの合言葉になった。

 といいつつ、私が「太もやし」を「味がない」と形容するのは飯塚君に洗脳された結果だということも強調しておきたい。
「一億総グルメ」といわれる現代が実は、こと「味」に関しては「便利」に毒されたものであること、人間の味覚は味覚以外の要素に大きく左右されることであることもここ数年で飯塚君と話し合ってきた。そしてそれは、飯塚君がよくいう「生産者は食べ物のことを伝える義務がある」という考えからすれば、むしろ当たり前な現実ともいえる。
 たとえば私がよく例としてあげるかつての酸っぱい「夏みかん」が今つくられても売られてもいないことについて、四十代以上の人でもいわれてはじめて「ああ、そうですね」と気づく。いつの間にか日本の野菜の種自給率は十%程度となり、ほとんどが一世代きりのF1品種になっていても、そう知って食べている人はあまりいない。
 飯塚商店のブラックマッペはミャンマー産、緑豆は中国産でともに在来種。そして地元の豆でつくりたいという思いは、埼玉県産在来大豆もやしという願ってもないかたちで実現されている。

 そう、私たちの「食」は気づかないうちに、「しゃきしゃき」とした歯ざわりだけで味気なく、野菜が持っているはずの根さえ早くに外され、それでもスーパーの蛍光灯の下でで白く誇らしげに光る「太もやし」のようにぶよぶよになってしまっている。それがいいといわれればしかたがないが、世の中には味のあるもやしが存在すること、そして味や食べての満足感は見かけとは別の座標軸にあるということを少しでも多くの人に知ってほしい。

 できるだけ「ありのまま」の、エチレンは少なく、根っこが長い、殻もついたままのもやし、最近飯塚君が名づけた「深谷もやし」の味を知ってもらおうと、私たちは二〇〇九年原画展の時からもやしの原料豆配りを行っている。
 飯塚君の長女のイラストをもとに、一九八一年刊の私たちにとってのもやしのバイブル、スウェーデンのペール・セルマン、ギッタ・セルマン著『もやしの本』をベースにした栽培マニュアルに始まり、二〇一〇年から二一世紀飯塚商店版『もやしの本』とセットにした栽培キットの商品化をめざし、私が知っている編集者、飯塚君が埼玉県産在来大豆を通じて知った県農業関係者や大学にはたらきかけてきたのだが、このほど「ゆめ☆たまご」の協力を得てついに「深谷のもやし屋飯塚商店 『ありのまま』のもやし栽培キット ブラックマッペ版」として発売されることになり、五月一一日、深谷アリオ地元名店市「ゆめ☆たまごインアリオ」にて先行発売された。
 私たちの始めた、草の根活動ならぬ「もやしの根運動」は少しずつ伸び始めている。東日本大震災被災地、飯塚商店もやしのルーツである東北でもやしを育ててもおうと豆の提供を呼びかけたことが新聞などで取り上げられたのをみたというお客さん、今まで配ってきた豆を育てて食べましたというお客さんも多かった。

 場所も移転し、青いポリ容器から金属のコンテナがいくつも並ぶようになった「ムロ」に四十年ぶりに入った。広さは小学校の教室くらいあり天井はもっと高い。そして香りは「シャッ」と音を立てて豆をこぼした時と同じだ。世の中は大きく変わって、当たり前だった「ありのままのブラックマッペ」はまったく別の「物語」をまとっている。人がどんなに変わっても、たとえば太古から変わらない雨音をきくとほっとする、たとえ放射性物質が含まれるようになっていても
 だから2011年のブラックマッペが変わっていないこと。近くに生きるものとして、私は誇りに思う。

(二〇一一年五月一二日)


<註>

※本文は二〇〇九年もやし絵本原画展の時に途中まで書いて放って置き、その後も何かの時に書いて再び放られ、「北関東の農村には確かにあった」のあたりから五月一一日に書き終え、一二日に再加筆修正しました。

※なお、ベルクで売られていたPB商品「昔ながらのおいしいもやし」について私は「そういう余計なことを自分でいっちゃいけないんじゃないか」といったことが、現在では飯塚商店のキャラクターを活かそうということで変更されています。

 


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