小林真 ブログ―カロンタンのいない部屋から since 2006

2006年開設の雑記ブログを2022年1月に市議当選でタイトル更新しました。カロンタンは40歳の時に飼い始めたねこです

ヨハン・セバスティアンと肉入りスープと……

2006-01-16 01:37:57 | 身のまわり
今日、日曜は原稿一かたまり完了。年内最初の完全フリー・フロム・ワークな夕方に煮ぼうとをつくっていると従弟が来て帰り、酔っ払ってJ-WAVEをきいていると『Voice』、アルベルト・シュバイツァー博士の誕生日。はるか30年以上前に読んだ、彼の伝記を思い出しました。

小学校2年の時だったか、父親が買って来てくれた何冊かの偉人伝の一冊。赤のハードカバーに金文字のクラシックな装丁が記憶に残っています。
そのエピソードで覚えているのが、彼の博愛主義につながったという肉入りスープの話。リッチなアルベルト少年が貧しいガキ大将とけんかをし、アルベルトが勝つとガキ大将は「ぼくだってお前みたいに肉入りのスープさえ飲んでれば負けないんだ」と負け惜しみを吐いて去りますが、それをきいたシュバイツァーは家に帰っても肉入りのスープを食べなかったといいます。
小学校2年の私は、シュバイツァー少年のフェアネスの精神とともに、彼の食べていた肉入りスープとはどんなものかが気にかかり、それは今もって謎のままです。そういえば実は私はこれまで、何かの「尊敬する人」の欄に「シュバイツァー博士」と書いたことが何度かありました。

『Voice』によれば、そんなシュバイツァーの残した言葉の一つが、
“人生の艱難辛苦(かんなんしんく)から逃れる道は二つある。音楽と猫だ”

「密林の聖者」と呼ばれたアルベルト・シュバイツァーが、バッハ研究家、オルガン奏者でもあったことは私もその後知りましたが、ねこ好きだったとは知りませんでした。酔っ払った頭の中、少しだけ彼の博愛主義がわかったような気がした晩です。

そしてこういった言葉に出会うと、長く生きるとはいいものだな、少なくとも歳を重ねることは少しもこわいことでなくいくらでも素晴らしい瞬間が待ちうけているのだな、それは若い時には決して味わうことのできない喜びなのだな、という思いを新たにします。もし20年前にシュバイツァーとバッハとねこの話をきいても、きっとこんなに響いていなかったでしょう。そして、かけがえのない言葉を心に置いておくことの大切さ。

などと思いつつ、J-WAVEのHPをみるとほかに、

“30歳までは学問と芸術をしっかり身につけよう。それからは、人に奉仕できるような意義のある仕事に自分の一生を捧げよう...”

“運命は予測できない。でも一つだけわかっている事がある。本当に幸せになれる人とは、自ら進んで世の中の役に立つ全てを求め、それを見いだした人である”

との言葉。40を越えた自分のこれまでに思い至り深くうなだれることも、歳月を重ねることの味わいなのかも知れません。

現在パソコンが奏でているのは昼間の仕事からCDドライブに入っていたキンクスの『ウォータールー・サンセット』。ヨハン・セバスティアン・バッハに特に思い入れはなく、肉入りスープがどんなものかはわからないけれど、「友達がいなくてもウォータールー・サンセットがあれば最高」と歌うレイ・デイヴィスやロンドンに行った時に最初に行ったウォータールー橋の夕焼け、そして何度となく食べてきた煮ぼうと、それと今ひざの上で丸くなっているカミーラほかねこどもは、確かに信じることができて大好きで、もう30年経っても決して忘れることはないでしょう。
『ウォータールー・サンセット』と煮ぼうととカミーラと……

(写真のために検索したウィキペディアでは誕生日は1月14日。どっちでもいいですが、どっちでしょう)
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2 コメント

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Unknown (石川)
2006-01-31 03:11:48
シュバイツァーのブログを結構前に読み『深くうなだれ』てこれはコメントを書きたいと思いつつそのままになってしまいました。今日MとYが帰ったので、少しの寂しさを感じつつ改めてこのブログを読み直しました。

 長くいきていないのでわかりませんが、先生が感じる深い感慨はきっとそう自分も感じるのだろうな、と思います。巷のアンチエイジングなんてものすごく下らない考え方だと思いますが、反面こういう一面的な価値観の説得力、力強さも感じ、ふとした機会に信じている自分を発見して驚く始末です。でもやっぱり生きているにはそんな単純なことではない、もっと意味の分からないものだと先生の感想を読むと改めて納得します。その混沌を、分からなさを見つめているからこそ、常に混沌に対して開かれているからこそ、逆にその『深いうなだれ』を信頼でき、また納得できるのだと思います。

偶然なのですが、この回のブログを読んでいるとふと『ウオータールーサンセット』を思い出し不思議に思っていると、果たして最後に先生がコメントしていたので嬉しくなりました。この曲は名曲ですね。自分にとっては詩の初体験かもしれません。every day I look the world from my windowの一節を思い出します。悲しみは誰もが持っている、でも悲しいだけでは唄にはならない、この悲しみに形を与える、それが詩だと思います(悲しさに限らないのですが)。きっとレイデイヴィスも作曲した後に自分の悲しみを知ったのではないかと思います。先生に表現の大切さを言われる最近前にも増して、『いい歌』ではなく『名曲』だなと思います。
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"See My Friends" (カロンタンのエサやり人)
2006-02-08 16:36:56
こんにちは、石川君。非常に嬉しいコメントでした。ありがとう。

なるほど、「開く」ということ、「表現」ということ、「わからなさ」ということ。どれもこれまで何度なく繰り広げられてきた塾内対話のキーワードでした。

このブログでいつも長々と語っていることのもっとも大きなものは「わからなさ」であり、それをどうやって「表現」し、いかに「開かれた」ものにできるかということが、このささやかな営みのテーマなのかも知れません。

石川君との貴重な塾内対話の一端をより「開かれた」ものにし、またその「表現」をより深めるために、よかったらこれからどんどんコメントして下さい。話し言葉と書き言葉は違うぞ。

『ウォータールー・サンセット』。石川君の好きな中島みゆき『化粧』に劣らぬ名曲です。レイ・デイヴィスの歌詞では、ほかに "See My Friends" というのもたじぎました。

それでは、またよろしく
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