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徒然草 第百九十五段

2006-01-16 20:07:01 | 徒然草
 或人、久我縄手を通りけるに、小袖に大口着たる人、木造りの地蔵を田の中の水におし浸して、ねんごろに洗ひけり。心得難く見るほどに、狩衣の男二三人出で来て、「ここにおはしましけり」とて、この人を具して去にけり。久我内大臣殿にてぞおはしける。
 尋常におはしましける時は、神妙に、やんごとなき人にておはしけり。

<口語訳>
 或人、久我縄手を通ったところ、小袖に大口着た人、木造りの地蔵を田の中の水におし浸して、ねんごろに洗っていたそうだ。心得難く見るうちに、狩衣の男二三人出て来て、「ここにおはしましたか」と言って、この人を連れて去ったそうだ。久我内大臣殿にておはしましたぞ。
 尋常におはしました時は、殊勝に、やんごとない人でおはしました。

<意訳>
 ある人が久我縄手の通りを歩いていたら、小袖に大口を着た人が、木製の地蔵を田んぼの水に浸しながら、丁寧に洗っていた。
 なんだろうと見ているうちに、狩衣の男が二三人出て来て、「ここにおられましたか」と言うなり、地蔵を洗っていた人を連れて去ってしまったそうだ。
 その人こそ、久我内大臣殿で御座います。
 正気で御座いました時は、この上ない立派な方で御座いました。

<感想>
 「久我内大臣」は、源 道基という人の事。久我の名は、久我の地に山荘があったことにちなむ。正応元年(1288年)に49歳で内大臣となるが、同年に辞職。どうして正気を失ったのかは不明。
 兼好から「久我内大臣」を見ると、子供の頃に大臣だった人で、兼好が朝廷で天皇に仕えていた頃に死んでいる。

 この時の久我内大殿の着ていた着物は、ようするに礼服の下着である。
 「小袖」は、袖口のせまい下着の事で、礼服である大袖の下に着た。本来は下着だったが、室町時代以後には「小袖」は女子の普段着となる。
 「大口」は、小袖とセットの下ばきの袴。「大口」の上に本袴をはいた。
 「小袖に大口着たる人」を、現代で言うなら「ワイシャツにラクダのモモヒキ」みたいなかんじだろうか。

 ちなみに、「狩衣の男」の「狩衣」は こんなかんじ。それでは、久しぶりに<超現代語訳>でもしてみよう。

<超現代語訳>
 ある人が郊外の田舎道を歩いていたら、ワイシャツにももひき姿で足元サンダルのおじいさんが田んぼの泥の中に足まで浸りながら、木で出来たお地蔵さんを丁寧に洗っていた。
 なにしてるんだと見ているうちに、脇にベンツが止まり、スーツ姿の男が2・3人飛び出しきて、「ここにおられましたか」と言うなり、地蔵を洗っていたおじいさんを連れてどこかに行ってしまった。
 そのおじいさんは、かっての久我内閣総理大臣だったそうだ。
 正気でいた時は、とても立派な方だったと聞く。

原作 兼好法師


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