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徒然草 第百八段

2005-10-31 20:44:41 | 徒然草
 寸陰惜しむ人なし。これ、よく知れるか、愚かなるか。愚かにして怠る人のために言はば、一銭軽しと言へども、これを重ねれば、貧しき人を富める人となす。されば、商人の、一銭を惜しむ心、切なり。刹那覚えずといへども、これを運びて止まざれば、命を終ふる期、忽ちに至る。
 されば、道人は、遠く日月を惜しむべからず。ただ今の一念、空しく過ぐる事を惜しむべし。もし、人来りて、我が命、明日は必ず失はるべしと告げ知らせたらんに、今日の暮るる間、何事をか頼み、何事をか営まん。我等が生ける今日の日、何ぞ、その時節に異ならん。一日のうちに、飲食・便利・睡眠・言語・行歩、止む事を得ずして、多くの時を失ふ。その余りの暇幾ばくならぬうちに、無益の事をなし、無益の事を言ひ、無益の事を思惟して時を移すのみならず、日を消し、月を亘りて、一生を送る、尤も愚かなり。
 謝霊運は、法華の筆受なりしかども、心、常に風雲の思を観ぜしかば、恵遠、百蓮の交りを許さざりき。暫くもこれなき時は、死人に同じ。光陰何のためにか惜しむとならば、内に思慮なく、外に世事なくして、止まん人は止み、修せん人は修せよとなり。 

<口語訳>
 寸陰(→一瞬を)惜しむ人ない。これ、良く知れるか、愚かなるか。愚かにして怠る人のために言えば、一銭かるいと言えども、これを重ねれば、貧しき人を富める人と成す。されば、商人の、一銭を惜しむ心、切である。刹那覚えずと言えども、これ(→一瞬)を運んでやめねば、命を終える期、たちまちに至る。
 されば、道人は、遠い日月を惜しむな。ただ今の一念、空しく過ぎる事を惜しむべき。もし、人来たりて、我が命、明日は必ず失われるはずと告げ知らせるに、今日の暮れる間、何事かを頼み、何事かを営める。我等が生きる今日の日、何だ、その時節(→死ぬと宣告された日)に異ならない。一日のうちに、飲食・排便・睡眠・言語・歩行、止む事を得ないで、多くの時を失う。そのあまりのひま幾ばくならないうちに、無益の事を成し、無益の事を言い、無益の事を思慮して時を移すのみならない、日を消し、月を亘って、一生を送る、もっとも愚かだ。
 謝霊運は、法華の筆受役だったけれども、心、常に風雲(→立身出世)の思いを観れば、恵遠、百蓮(と)の交りを許さなかった。しばらくもこれ(→一瞬を惜しむ心)ない時は、死人に同じ。光陰(→瞬く間に過ぎる時間)何のために惜しむのかとなれば、内に思慮(→雑念)なく、外に世事(→迷い)なくして、(それで)やめる人はやめ、(さらに)修める人は修めよとなる。

<意訳>
 一秒を惜しむ者などいない。これ賢いか、愚かか。
 愚かにして、一秒を無駄にする人のために言うなら、一円玉は軽い。しかしこれを重ねれば、貧しき人をも富む人にする。商人の一円を惜しむ心は大切だ。
 一秒が過ぎ去る事をやめないのなら、最期の死の瞬間はたちまちにくだろう。
 道を求める者は、先にあるであろう月日をあてにして現在の努力を惜しむな。只今の一念で、空しく過ぎる時を惜しめ。
 もし、死神が来て。
「あんた、明日死ぬから」
 と、宣告されたなら、日が暮れるまでに何を望み、何を営むか。
 我等が生きる「今日の日」とはなんだ。死ぬと宣告された、その日にすぎない。
 一日のうちに。
 飲食。
 排便。
 睡眠。
 会話。
 移動。
 そんな、やむを得ない事情で無駄にする時間は多い。せっかく無駄をまのがれて余った時間に、無駄な事をして、無駄な事を言い、無駄な事を考えるのは愚かだ。一日はたちまちなくなり、月は変わって、一生を終える。
 中国の法師、謝霊運は法華経の中国語訳をまかされた偉大な法師であったが、常に「風雲」の志を抱いていたので、師匠の恵遠は、百蓮との交りを許さなかった。
 一瞬を惜しむ心のない者は、墓場に片足突っ込んでいる事にも気づかない馬鹿野郎だ。
 光陰矢の如し。
 しかし、なんだって光陰を惜しむのだろうか。
 心に雑念を無くし、外界へのが迷いないなら、それでやめても良くはなかろうか。
 さらに極める人は極めよとなる。

原作 兼好法師 


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