墨汁日記

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徒然草 第百三十七段<口語訳>

2005-11-23 20:50:38 | 徒然草
 花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものなのか。雨にむかって月を恋い、簾を垂れて籠り春の行方知らないのも、なお、哀れに情深い。咲く頃の梢、散りしおれた庭などにも、見所多かろう。歌の詞書にも、「花見に参りましたのに、早く散り過ぎていれば」とも、「さわる事あって参りませんで」などと書かれるのは、「花を見て」と言うのに劣る事か。花が散り、月が傾くのを慕う習いは当然だけど、特に哀れ知らぬ人は、「この枝、あの枝散りに散った。今は見所なし」など言うようだぞ。
 万の事も、始め・終りこそ趣ある。男女の情も、いちずに逢うことだけを言うものか。逢わず止めにした憂いを思い、はかない約束を嘆き、長い夜を独り明し、遠い雲井を思いやり、荒野の宿に昔を偲ぶこそ、恋とは言えまいか。望月の隈ないのが千里の外れまで(照り渡しているのを)眺めているよりも、夜明け近くなって持ち出た月のほうが、とても心深く青みあるようで、深い山の杉の梢に見える、木の間の影、しぐれる村雲隠れる具合、またとなく哀れだ。椎柴・白樫などの、濡れたような葉の上にきらめくのが、身に沁みて、心ある友とでもと、都恋しく思える。
 すべて、月・花を、そう目のみにて見るものなのか。春は家を立ち去らないでも、月の夜は寝室に居ながらも思えるからこそ、とても楽しく趣もある。よい人は、一途に好く様子もみえず、面白がる様子もおざなりだ。片田舎の人こそ、しつこく、全てを面白がる。花のもとには、ねぢより、立ち寄り、わき見もせず見守って、酒飲み、連歌して、はては、大きな枝、心なく折り取る。泉には手足さし浸して、雪にはおり立って跡つけなど、全ての物、かげながら見ることない。
 そうしたの人の祭見る様子、とても珍妙だ。「見る事とても遅い。それまでは桟敷不用だ」と言って、奥の部屋にて、酒飲み、物食い、囲碁・双六などで遊び、桟敷には人を置き、「渡りです」と言う時に、おのおの肝潰れるように争い走り上って、落ちるべき所まで簾にはり出して、押し合いつつ、一事も見もらすまいと見守って、「とあり、かかり」と物毎に言って、渡り過ぎれば、「また渡るまで」と言って下りる。ただ、物をのみ見ようとするようだ。都の人の立派な人は、睡って、少しも見ない。若い末席の者は、宮仕いに立ち働き、主人の後に控え、行儀わるくのしかからない、無理に見ようとしない。
 何となく葵かけ渡してなまめかしく、明けはしない時分、忍んで寄せる車たちの興味から、誰か、彼かなど思いを寄せれば、牛飼・下部などが見知れる者いる。おかしさも、きらきらしく、さまざまに行き交う、見るもつれづれしない。暮れるほどには、立て並んだ車たち、所なく並み居た人も、いづこへか行った、程なく稀になって、車たちの騒がしさも済めば、簾・畳も取り払い、目の前さびしげになりゆく時こそ、世の例えも思い知らされて、哀れだ。(この)大路見るのこそ、祭見たのである。
 その桟敷の前をそこら行き交う人の、見知る(者)が数多あるので、知る、世の人数もそれほどは多からぬと。この人皆失せた後、我が身死ぬべきに定まったとしても、さほど待たぬだろう。大きな器に水を入れて、細い穴を明けたら、滴ること少しといっても、怠る間なく漏ってゆけば、やがて尽きるはず。都の中に多い人、死なない日はあるはずない。一日に一人・二人のみでない。烏部野・船岡、そのような野山に、送る数多い日はあれど、送らぬ日はない。なれば、棺を売る者、作って置く暇ない。若きにもよらず、強きにもよらず、思いがけぬは死期だ。今日までのがれ来たのは、有り難き不思議だ。しばしも世をのどかには思えないはず。継子立というものを双六の石にて作って、立て並べた時は、取られる事いずれの石とも知らぬが、数え当てて一つを取れば、その外はのがれたと見れど、またまた数えれば、かれこれあいだ抜いて行くうちに、いずれものがれられないのに似てる。兵が、いくさに出れば、死に近いことを知って、家をも忘れ、身をも忘れる。世を背く草の庵には、閑かに水石をもてあそんで、これをよそに聞くと思うは、とても儚い。閑かなる山の奥、無常の敵きそって来ないのか。その、死に臨む事、いくさの陣に進むに同じ。


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