作家の司馬遼太郎さんは戦争中に戦車兵だったそうだが、俺は真冬に会社の車を洗車した事がある。真冬の洗車は辛いよね。
さて、俺はパン屋なんだが、今日お店で年配の女性客から話しかけられた。
「ねぇ、このバタールにはバターはどのくらい入っているの?」
「え、バターでございますか?」
「だって、バターが入ってるからバタールなんでしょ」
そ、そうきましたか。
あのですね、ずんぐりむっくりしたフランスパンをバタールと呼んでいるだけで、フランスパンには小麦粉に塩と水しか基本入ってないのです。これはパリジャンにパリジャンが入っていないのと同じ理屈ですよ。
と、教えようかなと思ったが、お客様の勘違いを正すのも気が引けるのでこう答えた。
「申し訳ありません。あいにく当店のバタールにはバターを使用していないのです」
すると、バタールにバターが入ってないなんてまるでサギ商法じゃないというような、あきれた目でお客様は俺を睨むと、「じゃぁ、こっちをもらってくから」と食パンを買われた。
まぁ、お客様は神様ですから。
俺の言葉には常に『含蓄』がアンチエイリアスとかかっている。
それでは、含蓄とは何か?
言葉の添加物である。
ではなぜ、食品にいわゆる添加物など入っているのだろう?
消費者に対して科学的に安全や美味しさをアッピールとアピールしたいからで、とくに別に意味なんかないんだよ。俺らのような入れる立場の人間としてはさ。
含蓄とは、知識や良識でもって読者をいいようにねじ伏せたいという欲望がすきますきまに挟まれた言葉の食品添加物である。
人に優しく自分に厳しくなんて無理だよ。
人に優しい人間は、自分にも甘い。
自分に厳しい人間は、他人にも辛い。
俺は過去、毎日のように時々さぼりながらもタイピングしつつためしていた。飾らない本当の自分なんてモノをはたしてタイピング表現できるのだろうか?
答えは無理。
表現とは飾りである。常に表現は装飾だ。すべてはデザインである!
それでは、含蓄とは何か?
言葉の添加物である。
ではなぜ、食品にいわゆる添加物など入っているのだろう?
消費者に対して科学的に安全や美味しさをアッピールとアピールしたいからで、とくに別に意味なんかないんだよ。俺らのような入れる立場の人間としてはさ。
含蓄とは、知識や良識でもって読者をいいようにねじ伏せたいという欲望がすきますきまに挟まれた言葉の食品添加物である。
人に優しく自分に厳しくなんて無理だよ。
人に優しい人間は、自分にも甘い。
自分に厳しい人間は、他人にも辛い。
俺は過去、毎日のように時々さぼりながらもタイピングしつつためしていた。飾らない本当の自分なんてモノをはたしてタイピング表現できるのだろうか?
答えは無理。
表現とは飾りである。常に表現は装飾だ。すべてはデザインである!