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墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

徒然草 弟二百三十五段

2006-03-02 22:13:32 | 徒然草

 主ある家には、すずろなる人、心のままに入り来る事なし。主なき所には、道行人濫りに立ち入り、狐・梟やうの物も、人気に塞かれねば、所得顔に入り棲み、木霊など云ふ、けしからぬ形も現はるるなり。
 また、鏡には、色・像なき故に、万の影来りて映る。鏡に色・像あらましかば、映らざらまし。
 虚空よく物を容る。我等が心に念々のほしきままに来り浮ぶも、心といふもののなきにやあらん。心に主あらましかば、胸の中に、若干の事は入り来らざまし。

<口語訳>
 主いる家には、無関係な人、心のままに入って来る事ない。主ない所には、道行く人みだりに立ち入り、狐・梟ようの物も、人気に塞がれねば、ところ得た顔に入り棲み、木霊(こだま)など言う、けしからぬ形も現われるのである。
 また、鏡には、色・像ない故に、すべての影来て映る。鏡に色・像ありませば、映るまい。
 虚空(からっぽな空間)よく物を容れる。我等が心に念々がほしいままに来て浮ぶも、心というものの無いからだろうか。心に主ありませば、胸の内に、若干の事は入って来れまい。

<意訳>
 主人がいる家には、無関係な人が気ままに入って来る事はない。
 主人いない家には、道行く人もむやみに立ち入る。
 狐やフクロウみたいな動物も、人気がないと、すみかを得た顔して入り棲む。
 しまいにゃ木霊なんていう怪しいもんまで現われる。

 鏡には、色も模様もないからこそ、すべての影が映る。
 鏡に色や模様があれば、なにも映るまい。

 虚空はよく物を容れる。
 心に浮かぶ思念の数々は気ままに浮かんでは消える。これは心というものが虚空だからであろうか。
 心に主人あるなら、胸の内に、若干の事も入って来れないはずだ。

☆愛の感想☆
 ちす、どーも。
 マダムです。

 私にも作風というか、文体みたいなもんがあるんです。
 できれば、そういうものは壊したくない。私らしい文体で「私の文章」を書いていきたいと私はノゾノゾと望んでいます。ノゾノゾとノゾです。
 
 これは自負ですが、私の文章の面白さは「はぐらかし」にあると思うんですよ。わざと本題と無関係な方向に話を持って行ってワケわかんないまんまで終了させる。突っ込みようもない、どっちつかずな文章。これが私の文体で芸風なんです。

 言うなれば、お茶を濁したような文章が私のスタイルです。
 チャッポ、チャッポとお茶を濁した上に結論は遠回しで後回し。最終的には皿回しのあたりまで持って行くのが私の理想です。

 お茶を濁す為だったら、どんな苦労も厭いません。むしろ買ってでもお茶を濁す所存なのです。
 沸き立ての熱湯でいれたお茶にだって平気で指を突っ込んで、グリングリンとお茶を濁す覚悟があります。

 その上で、

「あー、手前の爪のあかが煎じられててうめぇや!」

 ぐらいの事を言ってのける魂胆なのです。

(ここまで書いた文章を自分で読み直す) 
 
 あーっ。
 なんだかやっぱし気真面目でかたくなな私がいる。お茶を濁すという事に必死になりすぎて、自分のスタイルを変える事を怖れている。

 そんなで、「ただのprotozoa」から怒られてしまいました。

「真面目にやれ」

 と。

 真面目に「徒然草」の感想を書いていない私にお怒りのようです。
 でも、私は真面目に私のスタイルを貫きたい。

 そんなで、そろそろお布団が呼んでいるので退却~ぅ!(byラレコ)

 ちゅーわけにもいかなないんで、今夜だけは真面目のマジメでゴマメに煮豆で解説いたします。

 兼好さんは、人の心はもともと虚空。ようするに空っぽなんじゃなかろうと言っています。

 喜怒哀楽。
 そういった感情は自ら心に生まれる物ではないのです。ウジ虫が自然と湧くのではないように、感情は常に対象があってはじめて生まれます。
 他人や環境があるからこそ、それに対する快・不快として感情が生まれます。イエスかノー。好きか嫌い。なんにしろ人間の感情の基本は2ビットです。
 ただ一人きりでいるなら、自分の体調の異変以外ではなんの感情も湧き上がりません。

 感情は、世の中の状況を、自分の心に投射したさいに自分の心に生まれる、好き嫌いの反応にすぎません。
 人の心は、単なる受信機である。そう兼好さんは言いたいのです。

 人の心は受信機で、発信元が世間です。

 そう考えると、価値基準こそが自分であるともいえます。
 なんにしろ、自分が信じているほどには、自分なんか確かな物じゃないということです。

原作 兼好法師
意訳 マダムprotozoa

Kagami

 


徒然草 弟二百三十四段

2006-03-01 20:43:31 | 徒然草

 人の、物を問ひたるに、知らずしもあらじ、ありのままに言はんはをこがましとにや、心惑はすやうに返事したる、よからぬ事なり。知りたる事も、なほさだかにと思ひてや問ふらん。また、まことに知らぬ人も、などかなからん。うららかに言ひ聞かせたらんは、おとなしく聞えなまし。
 人は未だ聞き及ばぬ事を、我が知りたるままに、「さても、その人の事のあさましさ」などばかり言ひ遣りたれば、「如何なる事のあるにか」と、押し返し問ひに遣るこそ、心づきなけれ。世に古りぬる事をも、おのづから聞き洩すあたりもあれば、おぼつかなからぬやうに告げ遣りたらん、悪しかるべきことかは。
 かようの事は、物馴れぬ人のある事なり。

<口語訳>
 人が、物を問うに、知らなくもあるまい、ありのままに言うのはおこがましいかな、心まよわすように返事する、よからぬ事である。知った事でも、なお定かにと思って問わないか。また、まことに知らない人などもあろう。うららかに言い聞かせるは、おとなしく聞こえるよ。
 人はいまだ聞き及ばない事を、我が知ったままに、「さても、その人の事のあさましさ」などばかり言いやれば、「いかなる事のあるにか」と、押し返し問いにあうこそ、心づかなかろう。世に古びた事をも、おのずから聞きもらすあたりもあれば、おぼつかなからぬように告げてやろう、悪いことか。
 この事は、物馴れない人がやる事である。

<意訳>
 人に質問されて、こんな事を知らないはずもないな、ありのままに言うのつまんないなと、あやふやに返答する事がある。これは良くない事だ。

 他人は、自分が知っている事でも、なお定かにしたいと思って質問しないだろうか? また、マジになんにも知らないって人もいよう。
 知っている事を簡単に言い聞かせるなら、素直に耳に届く。

 人がまだ聞き及ばないことを知っていると、つい、

「さて、あの事件のあさましさと言ったら」

 などと語ってしまう。

「その事件のどこがあさましいのですか?」

 と、人から聞き返されると、マジで驚く。

 人は、様々で、誰もが知っているような古い情報でも聞きもらす事だってあるのだ。誰にでもわかるように語り聞かせる事は悪いことであろうか?
 
 世間を知らない人こそ、ワケわかんない難しい事を言う。

☆愛の感想☆
 チッス!
 またマダムです。

 そんなこんなあんなで、灯油販売巡回車はアコギです。

 マダムは灯油は買いませんの。今年の冬もオコタと厚着と皮下脂肪でみごとに乗り切りました。

 ま。しょせん東京の冬ですから。気力でたえられます。

 それで、仕事の帰り道。
 傘さしながらボンヤリ歩いていたら、灯油の巡回販売車とすれちがいました。

「こちら、灯油の巡回販売車です。御用の方は容器を出してお待ちください。18リッターで、1380円です」

 ついこないだまで。
 冬本番の寒さの頃は1500円くらいの値段で売ってた灯油が、あったかくなって灯油が売れなくなりだしたとたんに「1380円」。ガソリンは値上がりしたのに灯油は値下がりかよ。

 アコギだ。

 きっと、灯油の値段は「アコギ星」から来た「アコギ星人」が設定しているのだろう。

原作 兼好法師
意訳 マダムprotozoa


徒然草 弟二百三十三段

2006-02-28 21:18:31 | 徒然草

 万の咎あらじと思はば、何事にもまことありて、人を分かず、うやうやしく、言葉少からんには如かじ。男女・老少、皆、さる人こそよけれども、殊に、若く、かたち良き人の、言うるはしきは、忘れ難く、思ひつかなるるものなり。
 万の咎は、馴れたるさまに上手めき、所得たる気色して、人をないがしろにするにあり。

<口語訳>
 よろずのとがめあるまいと思えば、何事にも真あって、人を分けず、うやうやしく、言葉少ないには如かず。老若男女、皆、そんな人こそよいけれども、殊に、若く、かたち良い人の、言(、)麗しきは、忘れ難く、思いつかないものである。
 よろずのとがめは、馴れた様子に上手めいて、ところ得た気色して、人をないがしろにするのにある。

<意訳>
 世間から非難を受けないようにと思うなら、何事も実直に、人を区別せずに礼儀正しく。さらに言葉少なくだ。老若男女カンケーなくソレこそ理想だけど、若くて美しい人の言葉の麗しさは、忘れ難くて、思いつきもしないものである。
 世間からの非難は、慣れた調子で名人ぶって、ところを得た様子をして、人をないがしろにするから受ける。

☆愛の感想☆
 ちわ~。
 マダム でぃーす。

 まだマダム、あらマダム、いやだわマダムのマダムです。
 そんなで。
 皆様いかがお過ごしですか? 私はイカガワシイです。

 さて、火の取り扱いには皆様は注意していますか?
 特にガスは危険で危なくて健康保険もききません。

 どれだけガスが危険か、過去でも語ったろうか? 語ります。

 まだ私が若かりし頃だから10年ぐらい前か。
 台所でお湯を沸かしました。
 ケトルのやかんだから湧きゃピーいうだろと思って、火にかけたやかんをコンロに放置して居間でタバコすいながらテレビ観てました。

 すると、台所からビーッビーッと警報みたいなアラーム音。
 なんだろとくわえタバコで台所に行くと、思いきりガス臭い。やばっ、コレはガス漏れ警報だ。慌ててくわていたタバコを流しに投げ捨てて、ガス漏れの原因を探します。あー、無点火だったのだ。コンロにかけたやかんに火をつけたつもりが点火していなかった。ガスが漏れ漏れに漏れて、なおかつ萌えております。
 いかん。萌えを燃えにすると手がつけられん。

 ガスの元栓を閉じて、窓を開け換気扇を回します。
(皆様、ガス漏れしても換気扇は回さないように。スイッチが入る時の放電で引火するおそれがあります。ガス漏れの時は自然換気をして下さい)

 あー。

 換気終了。

 これで一安心と、一服。

 ボン!

 いきなし目の前が炎に包まれました。
 まだ残っていたガスにライターの火が引火したらしい。

 後で鏡で確認したら、前髪がすっかりこげておりました。

 そのくらいですんで幸せです。

原作 兼好法師

意訳 マダムprotozoa


徒然草 弟二百三十二段

2006-02-27 20:34:18 | 徒然草

 すべて、人は、無智・無能なるべきものなり。或人の子の、見ざまなど悪しからぬが、父の前にて、人と物言ふとて、史書の文を引きたりし、賢しくは聞えしかども、尊者の前にてはさらずともと覚えしなり。また、或人の許にて、琵琶法師の物語を聞かんとて琵琶を召し寄せたるに、柱の一つ落ちたりしかば、「作りて附けよ」と言ふに、ある男の中に、悪しからずと見ゆるが、「古き柄杓の柄ありや」など言ふを見れば、爪を生ふしたり。琵琶など弾くにこそ。盲法師の琵琶、その沙汰にも及ばぬことなり。道に心得たる由にやと、かたはらいたかりき。「柄杓の柄は、檜物木とかやいひて、よからぬ物に」とぞ或人仰せられし。
 若き人は、少しの事も、よく見え、わろく見ゆるなり。

<口語訳>
 すべて、人は、無智・無能なものである。或人の子の、見ざまなど悪くないが、父の前で、人と物言うといって、史書の文を引いたりして、賢くは聞えたけれども、尊者の前ではそんなのともと覚えたのである。また、或人のもとで、琵琶法師の物語を聞こうとして琵琶を召し寄せたに、柱の一つ落ちたりしたら、「作ってつけよ」と言うに、ある男の中に、悪しからずと見えるのが、「古い柄杓の柄あるか」など言うのを見れば、爪を生やしてる。琵琶など弾くからにこそ。盲法師の琵琶、その沙汰にも及ばないことである。道に心得たふりかよと、かたはらいたかった。「柄杓の柄は、檜物木とかいって、よからぬ物に」と或人仰られたぞ。
 若い人は、少しの事も、よく見え、わるく見えるのである。

<意訳>
 すべての人間は、無智で無能だ。

 ある人の子供が(まぁ可愛い子だよ)、父親の前で、父の客人といっちょまえに討論していた。
 『史書』の文を引用したりして賢くは聞えたけれど、尊者の前でソレはどうなのとは思った。

 また、ある人の家で、琵琶法師の弾き語りでも聞こうと、まず琵琶を召し寄せた。
 その琵琶、弦の支柱が一つ落ちていて弾けないので、「作ってつけよ」と主人が言った。
 客人の中に、いけてる風情の若い男がいて、「古いヒシャクの柄はあるか?」などと言うから見てみると爪をのばしている。いかにも琵琶など弾くようなかんじだ。
 めくら法師の弾く琵琶にそんなはからいは必要ない。

 支柱の変わりになるなら別になんだっていいのだ。道に心得たふりかよと片腹いたかった。
「ヒシャクの柄は、檜物で良くない」とある人も言ってたぞ www。

 そんなで、若い人のやる事は、なんにつけ良くも見え悪くも見えちゃうのだ。

★愛のアドバイス★

 ちわっ!
 マダムです。

 そんなで、若い人には想像もつかないでしょうが、老人には「若者」が目障りでうざくてしょうがないんです。知ってた?
 
 でも、さすがに兼好は並な老人じゃない証拠に、その事をサラリと告白した上に、わこーどに注意をうながしています。
 注意報です。若者よ、「老人運わるし」です!

原作 兼好法師 

監修 マダム protozoa


徒然草 第二百三十一段

2006-02-26 21:46:48 | 徒然草

 園の別当入道は、さうなき庖丁者なり。或人の許にて、いみじき鯉を出だしたりければ、皆人、別当入道の包丁を見ばやと思へども、たやすくうち出でんもいかがとためらひけるを、別当入道、さる人にて、「この程、百日の鯉を切り侍るを、今日欠き侍るべきにあらず。枉げて申し請けん」とて切られける。いみじくつきづきしく、興ありて人ども思へりけると、或人、北山太政入道殿に語り申されたりければ、「かやうの事、己れはよにうるさく覚ゆるなり。『切りぬべき人なくは、給べ。切らん』と言ひたらんは、なほよかりなん。何条、百日の鯉を切らんぞ」とのたまひたりし、をかしく覚えしと人の語り給ひける、いとをかし。
 大方、振舞ひて興あるよりも、興なくてやすらかなるが、勝りたる事なり。客人の饗応なども、ついでをかしきやうにとりなしたるも、まことによけれども、ただ、その事となくてとり出でたる、いとよし。人に物を取らせたるも、ついでなくて、「これを奉らん」と云ひたる、まことの志なり。惜しむ由して乞はれんと思ひ、勝負の負けわざにことづけなどしたる、むつかし。

<口語訳>
 園の別当入道は、双なき庖丁者である。ある人のもとで、すごい鯉を出したらば、みな人、別当入道の包丁を見たいと思えども、たやすくうち出るもいかがとためらうのを、別当入道、さる人で、「このごろ、百日の鯉を切りますを、今日欠きますべきにない。まげて申し請ける」と言って切られた。すごくふさわしく、興あると人たち思ったと、ある人、北山太政入道殿に語り申されたらば、「その事、己は世にうるさく覚えるのだ。『切るべき人なくは、下さい。切ろう』と言ったらば、なお良かったな。なんで、百日の鯉を切ろうだ」と仰られて、おかしく覚えたと人が語りました、とてもおかしい。
 大方、振舞って興あるよりも、興なくて安らかなのが、勝ってる事である。客人の饗応なども、ついでおかしいようにとりなしたるのも、まことに良いけれども、ただ、その事となくてとり出す、とてもよし。人に物を取らせるのも、ついでなくて、「これを奉る」と言う、まことの志だ。惜しむふりして乞われたと思い、勝負の負けにことつけたりなどする、むずかしい。

<意訳>
 園の別当入道は、比類ない庖丁人である。
 
 ある人の屋敷で、見事な鯉がでた。
 みな、別当入道の包丁さばきを見たいと思ったが、名人にたやすく技の披露を求めるのもいかがとためらうなか、当の別当入道はさりげなく包丁を握った。

「最近、百日にわたって鯉を切り続けております。今日も欠かすべきではないでしょう。是非にその鯉を申し請けましょう」

 すごく自然でさりげない振る舞いだとその場にいた人たちは感動した。

 ある人が、この話を北山の太政入道殿に語りましたら、

「その話、ひどくクドく思えるな。素直に『切るべき人なければ、私が切りましょう』でいいんじゃないのか? なんで、どこから、百日の鯉を切ろうだよ!」

 と、北山の太政入道殿が仰られていたので面白かったと人が語りました。
 確かに面白い。

 だいたい人間関係では、妙に振る舞って可笑しくするよりも、つまんなくても普通な方が勝っている。客をもてなす時なんかも、大げさな接待もまことに結構だけれども。ただ、なんて事もなく客人の前に料理を並べるなんてのも良い。

 人に物をあげるのでも、なんかのついでじゃなくて「これをあげる」と普通にあげりゃいいのだ。
 そうは言っても、人に物をあげるのは難しい。
 惜しむふりをしたり、欲しそうだからあげるとか、勝負の負けにことつけてあげるなど。

<感想>
 『園の別当入道』は、比類ない庖丁人である。
 もちろん「庖丁人」と言っても、『庖丁人 味平』みたいな庶民派感覚の「庖丁人」なんかじゃない、天皇や神にまで料理を供御できる無敵のライセンスを持った「庖丁人」である。
 こういう人たちは魚をおろす時も手を使わない。箸と包丁でさばくのだ。

リンク: おもしろ魚 豆知識.

リンク: 料理の神様(高家神社:包丁式).

 『園の別当入道』は、藤原基氏のこと。検非違使庁の別当(長官)などを勤めた後に、出家。「園流」の包丁さばきの祖である。
 と言われているが、そうじゃなくて、その子孫の基藤だろうという説もあるか、とにかく、「別当」の官職についた事のある魚もさばける坊主が、『園の別当入道』なのである。てゆーか、おもいきり生臭坊主じゃん。

原作 兼好法師