絶版プラモデルやじ馬考古学・ボックスアート美術館(なつかしき50~60年代アメリカプラモの世界)

古き良き時代の絶版プラモを発掘する、インターネット考古学。現在、・ボックスアート美術館にてエレール特別展を開催中!

John Steel先生 ボックスアート集Part2

2009年01月30日 | プラモデル



ジーク・ハイル!

偉大なるアーティストの作品集である。
心して鑑賞せよ。
                 以上




















違うバージョンで…





















下の2作品は、ボックアートではありません。
ベトナム戦争従軍当時のもの。



本邦初公開、野生動物アート。 

































次回のチラリズム
                                                     

いつものことながら、またまた大脱線。
次回は飛び入りで、レベルのミサイル・ボックスアートをすべてご紹介。
『プラモデルやじ馬考古学』をご覧の皆様だけのスペシャルプレゼント
世界で唯一!
これを見ずして、レベルのミサイルキットを語ることなかれ!?









他メーカー・ボックスアートのオマケ付





『戦うアーティスト John Steel先生』

2009年01月18日 | プラモデル



諸君!
かなり遅いが、あけおめじゃ!

学生増のため、校舎を新設したゾ。
湘南校舎じゃ。
天下の湘南地区で、江ノ島も見えるゾ。

よろしく、たのむ。!!

プラモデルやじ馬考古学
                                                                                                                         


このM48架橋戦車に初めて出会ったのは、私が小学生低学年だったときのこと。
近所の神社で祭りがあったので、遊びにいったところ、露店でたまたま見つけたのが
このキットだったのです。
当時、レベルの存在などまったく知りませんでしたが、この迫力あるボックスアートに
衝撃を受け、この「橋を架けようとしている奇妙な戦車」にモーレツな興味をもったのです。どんなキットなのだろうか。とにかく、中身を見てみたい。
もう、それしか頭にありませんでいた。
店の人は、どうもあちらの関係者みたいで、とても恐そうなオッサンなのですが、
どんなキットなのか中身を見てみたいという好奇心が強かったので、恐る恐る手にとってフタを開けてみました。

‥‥こ、これはなんじゃ!
車体や架橋部分の大きなパーツに混じって、非常に繊細で細かいパーツが
ギッチリ詰まった状態というのは、いままで見たことがなく
ボックスアートと中身とで、ものすごいダブルパンチを食らったのです。
恐いオッサンそっちのけで、ただただ眺めているだけでした。
あの当時、いくらで売っていたのか忘れましたが、自分の小遣いでは
とても買えるものではありません。
……「もっとカネがあればなー」
ため息をつきながら、箱を元に戻し露店を後にしたのを昨日のように覚えています。

それからは、このキットのことが脳裏に焼きついて、消え去ることはなかったのです。

当時、駄菓子屋等で外国のプラモを売るケースはありましたが、露店に置いてある
のを見たのは、あとにも先にもこのときだけです。
いったい、どんなルートで流れてきたのでしょうか‥‥


ところで、私の脳裏に強烈なインパクトを与えたM48架橋戦車のボックアート。
描いたアーティストは、どんな人物かとても興味がありました。
今回は、その人物の特集です。

戦うアーティスト John Steel先生特集

                                                       

このM48架橋戦車のボックスアートを描いたのは、John Steel先生。
Leynnwood先生と並ぶ、レベルの大御所アーティストです。
力強く、堂々とした作風にシビレたファンも多いことでしょう。


Thomas Graham氏が書いた『REMEMBERING REVELL MODEL KITS』
Schiffer Publishing 2002刊の中に、Steel先生の写真が掲載されていました。
おそらく、先生の顔が確認できる資料としては、いまのところこれが唯一のもので
しょう。



John Steel先生の写真部分を拡大すると……




ホントにアーティストなんでしょうか。
頭はスキンヘッドだし、眼光は鋭く、チョッと恐そうな雰囲気。
一般的に私たちがイメージするアーティストとは、およそかけ離れています。

そうなんです。
Steel先生、じつはガダルカナル島攻防戦に参加した元海兵隊員だったんですから。
しかも、ベトナム戦争当時は実際に現地で従軍写真家・画家もしていたんです。

それだけではありません。
先生は、さまざまな顔をもっていました。
スキンダイバー、水中カメラマン、ハンター、漁師、柔道黒帯有段者、
ベトナム戦争コンバットアーティスト、野生動物アーティストetc

日本では、レベル社等のボックスアートの作者で知られていますが、
アメリカでは、ベトナム戦争コンバットアーティストや野生動物アーティストとして
有名です。
Steel先生が、野生動物を描いていたというのは、チョっと意外ですね。

先生は、1921年6月14日、ニューヨーク市で生まれました。
その後、フランスとスペインで生活し、十代の頃アメリカに帰国するときには、
フランス語、スペイン語ともペラペラだったそうです。

家族に歌手や俳優がいたため、先生もその影響を受けて短期間ながら
ブロードウェーの舞台で活動していたこともありました。
また、時おりラジオで歌の仕事もしていたそうですよ。
才能のある人は、子どものときから違うのですね。
そういえば、Leynnwood先生も子どもの頃、ショービジネスの世界で活動しており、
似たような子ども時代だったんすねー。

その後、先生はフロリダの私立学校に進学しましたが、そこで名誉ある(?)
特別任務を与えられました。
それは毎週金曜日に、学校の全教職員生徒の夕食用の食材である魚のバスを
捕らえることでした。
捕獲に失敗すれば、晩のおかずはありません。責任重大です。
そんなプレッシャーにもめげず、先生は立派に任務を達成したのです。

先生はニューヨークのアートスチューデントリーグと、ロサンゼルスの
アートセンタースクールでアートの教育を受けました。
John Steel先生の輝かしい第一歩が、スタートしたのです。

初期の活動は、ディズニーランド(当然、アメリカ本土のもの)の園内デザインに
参加したり、映画「バウンティ号の叛乱」、「べンハー」、「スパルタカス」の
ストーリーボードを描いたり、ノースロップ社の広告用イラストをデザインしたりと、
じつに多彩です。
そういえば、Leynnwood先生もノースロップの仕事をしていました。
当時、後発の航空機メーカーであったノースロップ社では、広告宣伝のため
新進気鋭のアーティストを求めていたのでしょうね。

先生の経歴を見ると、まさに「戦うアーティスト」です。
これは、けっしてオーバーな表現ではありません。
太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争に従軍し、常に最前線で戦い続けたのです。

沿岸警備隊の信号手を経て、海兵隊へ入隊。
ガダルカナル島攻防戦に参加、その後太平洋各地を転戦。
朝鮮戦争従軍。
ベトナム戦争が始まると、海兵隊の従軍写真家・画家として参加。
何千という写真やスケッチを制作し、多くの書籍に発表、コンバットアーティスト
としての名声を高めました。

このコンバットアーティストとしての輝かしい軍歴のため、
サンフランシスコの海兵隊戦闘特派員協会(‥と訳すのかな)ジョーローゼンソール
支部の終身メンバーとして迎えられるという栄光に浴したのです。

また、60年代から70年代にかけてレベルやモノグラムのボックスアートを何百と
描き、スキンダイバーマガジンのメインカバーイラストレーターとして活躍しました。

こうやって先生のボックスアートを見ていくと、それはすべて戦場での実体験から
出たものだ、ということがわかります。
写真や資料を見て、頭の中で想像して描いたものではありません。
それは、弾が飛び交う戦場にいた者でしか描けない、恐ろしいくらいの臨場感が
すべてを物語っているのです。

持病の悪化により、1998年8月9日逝去。


特徴あるサイン


Steel先生 アートギャラリー











オーロラのもあるでヨー!

















ガダルカナルの記憶

ガ島攻防戦の実体験を描いたような作品。
ボックスアートの主役であるべき戦車が撃破され、
砲塔には戦死者の姿も!
プラモデルの売り上げなど度外視した絵を依頼したオーロラもすごいが、
これがガ島の現実だったんでしょう。


次回のチラリズム
                                                       

引き続き、Steel先生のアートギャラリーをやるぞ。
先生のボックスアート特集をやっているのは‥‥

本講座のみ! 注目!








そして…

オラも忘れないでくれよ‥‥