この日、定年退職を迎えるオジサンが一人おっての。
昼を過ぎたころに「会長」が来て、退職するオジサンと一緒に昔話に花を咲かせておった。
地震の揺れは始め小さかったんだども、何時もの揺れとは違っておって
船に乗っているようなユラユラした動きに、船酔いしそうな感覚に襲われてしもうた。
ただそんな変な揺れ方は、数日前からボチボチと続いておったもんで
この時も最近起こっている揺れと同じだろうし、すぐにおさまると思っておった。
ところが揺れはおさまるどころか、どんどんと大きくなって…しかも何時までも止まらない。
正直、「ついに、東海沖地震が来たかっ!?」っと思い、変な冷や汗が出た。
毒の沼地に建つ我社は、ただでさえ地盤がユルイ。しかも社屋の側には活断層が走っておる。
社屋内に居て良いものか?社外へ飛び出した方が良いものか?
机の下に頭を突っ込みながら考え出したころに、ようやく揺れがおさまった。
それからは怒涛のような忙しさに見舞われた。
ネットは便利。っと思っておったが、この時に一番役に立ったのはワンセグ付きの携帯電話だった。
テレビ放送の受信により、震源地は宮城県沖っと知ることが出来た。
私の居た横浜市は震度5弱。私も含め社員にケガ人は無し。
ただ昼を少し過ぎたころに部長が一人岩手へ出張へ出たのが気がかりであったが
幸いなことに交通機関に乗る前に地震に遭遇し、夕方近くに無事が確認出来た。
仙台にある営業所へ電話を掛けたが繋がらず、地震の大きさを即座に感じた。
それでも、その時は、まだまだ事の大きさと重大さには気づいておらなんだ。
夕方近くに首都圏の交通機関がマヒしていると知り、全社員に緊急帰宅命令が出たが
不通になっている交通機関では、駅に行っても家には帰れない。
社有社や車通勤者にお願いし、皆の帰宅の算段をしたが、それでも帰宅出来ないメンバーが数人残った。
幸い私はバイクで通勤していたので、無事に家にたどりつくことが出来たが
家に帰りテレビをつけ、少ないながらもポツポツと入る情報に息が詰まる思いがした。
夫は地震の時に東京都内で車の運転をしており、ラジオから流れた緊急地震速報で車を路肩へ止め
フッと見上げると、大きなビルが右や左、前や後ろへグラグラと揺れているのを見て驚いたそうだ。
急いで会社へ戻り、全員の安否と帰宅支援をし、彼が自宅に帰りついた時刻は午前3時を回っておった。
お互いの無事を確認しあい、翌日が土曜日で本当に良かったっと思った。
地震直後におきた、福島の原発事故は知っていたが
それが電力不足を誘発するとは、私の頭の中で直結しておらなんだ。
日曜の夜に「計画停電」の話を知り、現在に至るまで停電情報に翻弄されている。
ただ、あの地震によっておきた津波で大勢の方が亡くなり、そして避難所生活を余儀なくされている。
まだまだ、寒さに震え頑張っておられる方々が大勢いる。
幸いなことに、阪神淡路大震災の教訓があり、我が家では普段から備蓄を心がけていた。
懐中電灯に電池、ガスボンベも、トイレットペーパー、サランラップ、ロウソクに水。
ハンドルを回して携帯電話を充電する器具に、警報音付きのラジオもある。
たまたま地震前の9日に、ガソリンも入れ、米も買ってあった。
だから言えるのかもしれないが…
飽食とモノに溢れた生活が当たり前となっている人々が、
「欲しいモノが買えないかも?」っと思った瞬間に、店に殺到し…店から品物が消えている。
何度も同じような悲惨な現場がテレビから流れ、CMも精神安定を促すような同じ映像が流れている
多分に人々の不安をあおるような映像の数々を、一週間も眺めていれば気持ちもなえる。
でも、もっと悲惨で大変な人達が大勢いる。
だから、ウンザリする気持ちに負けないように、自分に今、
何が出来るのか?何をすれば良いのか?を私なりに考え、そして実行している。
計画停電があるなしにかかわらず、暖房は使わずに電気も最小限に留めている
会社でも、暖房を消し、通常の半分以下の明かりの下で仕事をしている
買い物も出来る限り控え、備蓄品や冷蔵庫の整理をしながら食べている。
どうか、一日も早く、被災地で頑張っている皆さんが温かい食べ物を食べれますよう。
そして一日も早く、安心出来る場所で眠ることが出来ますよう。心から願う。
そして、福島の原発現場で必死に頑張ってくれている方々に、心より感謝したい。
命の危険も顧みず、放水を続けてくれている方々に、両手を合せる気持ちで一杯である。
まだまだ関東でも余震が続く日々だが、自分に出来ることを頑張りたいと思っておる。
こんな状況なのでブログの更新は滞るが、心配してくれた皆様、ありがとうございます。
私はなんとかやってますんで、ご心配なく。
きっと、きっと、大丈夫。
そう信じて、頑張りましょう。
ポチっとで、作者のヤル気でるかもです(笑)
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昼を過ぎたころに「会長」が来て、退職するオジサンと一緒に昔話に花を咲かせておった。
地震の揺れは始め小さかったんだども、何時もの揺れとは違っておって
船に乗っているようなユラユラした動きに、船酔いしそうな感覚に襲われてしもうた。
ただそんな変な揺れ方は、数日前からボチボチと続いておったもんで
この時も最近起こっている揺れと同じだろうし、すぐにおさまると思っておった。
ところが揺れはおさまるどころか、どんどんと大きくなって…しかも何時までも止まらない。
正直、「ついに、東海沖地震が来たかっ!?」っと思い、変な冷や汗が出た。
毒の沼地に建つ我社は、ただでさえ地盤がユルイ。しかも社屋の側には活断層が走っておる。
社屋内に居て良いものか?社外へ飛び出した方が良いものか?
机の下に頭を突っ込みながら考え出したころに、ようやく揺れがおさまった。
それからは怒涛のような忙しさに見舞われた。
ネットは便利。っと思っておったが、この時に一番役に立ったのはワンセグ付きの携帯電話だった。
テレビ放送の受信により、震源地は宮城県沖っと知ることが出来た。
私の居た横浜市は震度5弱。私も含め社員にケガ人は無し。
ただ昼を少し過ぎたころに部長が一人岩手へ出張へ出たのが気がかりであったが
幸いなことに交通機関に乗る前に地震に遭遇し、夕方近くに無事が確認出来た。
仙台にある営業所へ電話を掛けたが繋がらず、地震の大きさを即座に感じた。
それでも、その時は、まだまだ事の大きさと重大さには気づいておらなんだ。
夕方近くに首都圏の交通機関がマヒしていると知り、全社員に緊急帰宅命令が出たが
不通になっている交通機関では、駅に行っても家には帰れない。
社有社や車通勤者にお願いし、皆の帰宅の算段をしたが、それでも帰宅出来ないメンバーが数人残った。
幸い私はバイクで通勤していたので、無事に家にたどりつくことが出来たが
家に帰りテレビをつけ、少ないながらもポツポツと入る情報に息が詰まる思いがした。
夫は地震の時に東京都内で車の運転をしており、ラジオから流れた緊急地震速報で車を路肩へ止め
フッと見上げると、大きなビルが右や左、前や後ろへグラグラと揺れているのを見て驚いたそうだ。
急いで会社へ戻り、全員の安否と帰宅支援をし、彼が自宅に帰りついた時刻は午前3時を回っておった。
お互いの無事を確認しあい、翌日が土曜日で本当に良かったっと思った。
地震直後におきた、福島の原発事故は知っていたが
それが電力不足を誘発するとは、私の頭の中で直結しておらなんだ。
日曜の夜に「計画停電」の話を知り、現在に至るまで停電情報に翻弄されている。
ただ、あの地震によっておきた津波で大勢の方が亡くなり、そして避難所生活を余儀なくされている。
まだまだ、寒さに震え頑張っておられる方々が大勢いる。
幸いなことに、阪神淡路大震災の教訓があり、我が家では普段から備蓄を心がけていた。
懐中電灯に電池、ガスボンベも、トイレットペーパー、サランラップ、ロウソクに水。
ハンドルを回して携帯電話を充電する器具に、警報音付きのラジオもある。
たまたま地震前の9日に、ガソリンも入れ、米も買ってあった。
だから言えるのかもしれないが…
飽食とモノに溢れた生活が当たり前となっている人々が、
「欲しいモノが買えないかも?」っと思った瞬間に、店に殺到し…店から品物が消えている。
何度も同じような悲惨な現場がテレビから流れ、CMも精神安定を促すような同じ映像が流れている
多分に人々の不安をあおるような映像の数々を、一週間も眺めていれば気持ちもなえる。
でも、もっと悲惨で大変な人達が大勢いる。
だから、ウンザリする気持ちに負けないように、自分に今、
何が出来るのか?何をすれば良いのか?を私なりに考え、そして実行している。
計画停電があるなしにかかわらず、暖房は使わずに電気も最小限に留めている
会社でも、暖房を消し、通常の半分以下の明かりの下で仕事をしている
買い物も出来る限り控え、備蓄品や冷蔵庫の整理をしながら食べている。
どうか、一日も早く、被災地で頑張っている皆さんが温かい食べ物を食べれますよう。
そして一日も早く、安心出来る場所で眠ることが出来ますよう。心から願う。
そして、福島の原発現場で必死に頑張ってくれている方々に、心より感謝したい。
命の危険も顧みず、放水を続けてくれている方々に、両手を合せる気持ちで一杯である。
まだまだ関東でも余震が続く日々だが、自分に出来ることを頑張りたいと思っておる。
こんな状況なのでブログの更新は滞るが、心配してくれた皆様、ありがとうございます。
私はなんとかやってますんで、ご心配なく。
きっと、きっと、大丈夫。
そう信じて、頑張りましょう。
ポチっとで、作者のヤル気でるかもです(笑)
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