グーグル、ブログ、XML、Wikiなどによって、
「ウェブ2.0」というものが広まりつつあるとか。
この「ウェブ2.0」というのは、簡単に言えば、
ブログやSNSなど簡単に情報発信できる仕組みが整うことで、
一般の多くの人がネット上での情報発信に参加するようになることで、
従来の企業や専門家が中心に情報発信していた状態、すなわち「ウェブ1.0」よりも、
情報発信者の裾野が広がった進化形態ということである。
現在、こうした流れによって、Wikipediaの成功に見られるように、多くの人たちの知を集結させて、
効率的に、広範囲に、そして正確に情報を得ることができるようになっている。
何かについて知ろうとした時、
Wikipediaやグーグルでヒットしたブログから情報を得ることもよくある。
従来の専門家のみによる情報発信では得られなかった便利さである。
しかし、「衆愚政治になるのではないか」という、かなりオールドスタイルな批判もある。
テレビや雑誌・新聞といった従来型のメディアによる情報発信では、
良くも悪しくも編集室の「良識」による規制が働いていたが
(もっとも、これもかなりの弊害がある。編集室の恣意が働きすぎるのである
→http://www.irev.org/shakai/ugauga.htmにその一端が述べられている)、
いわゆる「ウェブ2.0」ではそれが働かない。
そこで、知識と良識を欠いた煽動的な論によって、
熟慮のないまま衆愚政治に陥るのではないかということである。
アエラで、クオリアで有名な茂木氏と『ウェブ進化論』の梅田氏が対談しており、
「ウェブ2.0」へ移行しつつある社会について、非常に的確でかつ面白い論がなされていた。
しかし、「衆愚政治の恐れ」「楽観的過ぎる」という批判については、
「パンドラの箱は開いてしまった」と言うばかりで、何の答えもなかった。
何の答えもないばかりか、
「自分の名前をグーグルで検索して、悪口ばっかり出てくるのであれば、
自分でブログを書いて情報発信して、それが検索の上位に出てくるようにすればよい」
といった主旨のことを述べていたが、これこそ衆愚政治につながる発想である。
これは「グーグル」を「広場(アゴラ)」とし、「検索の上位」を「声の大きさ」とすれば、
アゴラで詭弁家たちが大きな声で民衆を煽動した古代ギリシアの衆愚政治と何の違いがあろうか。
読んでいて、少しがっかりした。
現在の社会が「ウェブ2.0」であり、その方向をさらに進んだ状態に進化し続けているというのはその通りである。
しかし、それを踏まえた上で、その流れにどのような問題があるか、
それに応じて社会全体はどのようにあるべきか、個人はどのようなことを心掛けなければいけないのか、
こういったことを考えずに、ただ「進化」で片付けてしまうのはあまりに危険であると思う。
「ウェブ2.0」というものが広まりつつあるとか。
この「ウェブ2.0」というのは、簡単に言えば、
ブログやSNSなど簡単に情報発信できる仕組みが整うことで、
一般の多くの人がネット上での情報発信に参加するようになることで、
従来の企業や専門家が中心に情報発信していた状態、すなわち「ウェブ1.0」よりも、
情報発信者の裾野が広がった進化形態ということである。
現在、こうした流れによって、Wikipediaの成功に見られるように、多くの人たちの知を集結させて、
効率的に、広範囲に、そして正確に情報を得ることができるようになっている。
何かについて知ろうとした時、
Wikipediaやグーグルでヒットしたブログから情報を得ることもよくある。
従来の専門家のみによる情報発信では得られなかった便利さである。
しかし、「衆愚政治になるのではないか」という、かなりオールドスタイルな批判もある。
テレビや雑誌・新聞といった従来型のメディアによる情報発信では、
良くも悪しくも編集室の「良識」による規制が働いていたが
(もっとも、これもかなりの弊害がある。編集室の恣意が働きすぎるのである
→http://www.irev.org/shakai/ugauga.htmにその一端が述べられている)、
いわゆる「ウェブ2.0」ではそれが働かない。
そこで、知識と良識を欠いた煽動的な論によって、
熟慮のないまま衆愚政治に陥るのではないかということである。
アエラで、クオリアで有名な茂木氏と『ウェブ進化論』の梅田氏が対談しており、
「ウェブ2.0」へ移行しつつある社会について、非常に的確でかつ面白い論がなされていた。
しかし、「衆愚政治の恐れ」「楽観的過ぎる」という批判については、
「パンドラの箱は開いてしまった」と言うばかりで、何の答えもなかった。
何の答えもないばかりか、
「自分の名前をグーグルで検索して、悪口ばっかり出てくるのであれば、
自分でブログを書いて情報発信して、それが検索の上位に出てくるようにすればよい」
といった主旨のことを述べていたが、これこそ衆愚政治につながる発想である。
これは「グーグル」を「広場(アゴラ)」とし、「検索の上位」を「声の大きさ」とすれば、
アゴラで詭弁家たちが大きな声で民衆を煽動した古代ギリシアの衆愚政治と何の違いがあろうか。
読んでいて、少しがっかりした。
現在の社会が「ウェブ2.0」であり、その方向をさらに進んだ状態に進化し続けているというのはその通りである。
しかし、それを踏まえた上で、その流れにどのような問題があるか、
それに応じて社会全体はどのようにあるべきか、個人はどのようなことを心掛けなければいけないのか、
こういったことを考えずに、ただ「進化」で片付けてしまうのはあまりに危険であると思う。