道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

人間の人間による人間のための宗教

2009-11-29 10:15:25 | 精神文化
ある飲み会の最中に、
「宗教の教義は、教団維持のための方便がだいぶ混ざっているのではないか」という話になった。
インテリがいると一味違う。

例えば、ユダヤ教とキリスト教では、
神が全てを創り、
神は全知全能で、
神は善を勧めて悪(不信心)を罰する、
となっているが、これは矛盾ではないか。

全知全能で全てを創るなら、あらかじめ善であるように創ればいい。
現実に悪が存在するのは、神の予定のうちに入っているのだから、
罰せられる程のものなのか。

要するに、こんな教理になっているのは、
「何をやっても神の予定内だから、何をやってもいい」では教団が維持できないからだ。
だから、「信じないと救われない」と言って信者を集め、
「善を勧め、悪を罰する」と言って教団の規律は成り立たせた。
その上で、信仰の対象を、
全知全能で創造主で、あらゆるものを超越したものとすることで、
他の宗教への優位を主張して、改宗を促した。

こうして、教団の維持・拡大のために、相互に矛盾する教理が組み込まれた。
そして、この矛盾を解消するために、神学は複雑に発展した。

たとえば、神から創られたものである人間が悪を犯すのは、
それが「自由意志」を持つものとして創られたからだ、という説がある。
神によって善に規定された、決まりきったものでなく、
悪にも転びかねない自由意志を持つものとして創られた。
故に、神と向き合うものとして、「神の似姿」という形になった、という。
つまり、自由意志を持つ生き物は人間だけということになる。

しかし、連中は言うだろう。
自由意志を有するものは、「人間、――及びうちの犬」だ、と。

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あるゼミで、元代の仏教論の訳注を発表した。
担当箇所の中に、
「人乘者,謂能持五戒,則其福報可以爲人。天乘者,謂能修十善,則其福報可以生天」
という文章があったので、これを、
「人乗は、五戒を守ると、その福報として人道に生まれ変わることができることをいう。天乗は、十善を修めると、その福報として天道に生まれ変わることができることをいう」
と訳した。

○人乗・天乗……いずれも、仏に至るまでの乗り物・段階である五乗のうちの一つ。残りの三乗は、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗とするのが一般的。文献によって異同はあり、例えば『十住毘婆沙論』では仏乗・辟支仏乗・声聞乗。
○人道・天道……輪廻転生の世界である六道のうちの一つ。他は修羅・畜生・餓鬼・地獄。
○五戒……不殺・不盜・不邪淫・不妄語・不飲酒。
○十善……文献によって異同あり。例えば『長阿含経』では不殺・不盜・不婬・不妄語・不両舌・不悪口・不綺語・不慳貪・不嫉妬・不邪見。『戒徳香経』では不殺・不盗・不淫・不妄言・不両舌・不悪口・不綺語・不嫉妬・不恚・不癡。


つまり、
現世で五戒を守れば、死後に三途(地獄道・餓鬼道・畜生道)に堕ちず、再び人道に生まれることができ、
現世で十善を修めれば、来世に天道に生まれ変わることができる、
ということである。

しかし、ここで、
「人道に生まれ変わることができる」という訳文について突っ込まれた。
「人に生まれ変わるというのは、畜生とか虫けらが五戒を修めて人間になるということでしょうか?」
「いえ、人間が死後に再度人間に生まれてくることです」
「ああ、そうですか」

普通はここで応答は終わるのだが、あることに気がついたので、発言してみる。
「こうやって五戒を眺めてみると、畜生とか虫けらというのは、殺生さえ控えれば、五戒を守れている。もし五戒を守れば人間に生まれ変われるのであれば、かなりの畜生が人間になれますね」

ただ、
「まぁ、狗子に仏性はないことになっていますから」
と、禅の公案でさらりと流されてしまったが。

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キリスト教のある学説が、「神の似姿」たる人間にのみ自由意志を認めるのと同様に、
この仏教論も、人間のみを対象にして戒律を論じている。

五戒のみならず十善を眺めてみても、虫けらは「不殺」以外の項目に触れることはまずない。
そうすると、連中は殺生さえしなければ、来世には人道をもすっとばして天道に生まれ変われるのだろうか。
人間として苦労して戒律を守るよりも、戒律を破って一度畜生道に堕ちておいた方が、次に天道に生まれ変われる可能性が上がるのだろうか。
まず、そうではあるまい。

つまり、人間しか見ていない言説なのだ。
人間以外のものについて考えた時に、辻褄が合わなくなってくる。

しかし、仏教の場合は必殺の言い訳術がある。
これは人間に向かって説く場合の「方便」なのだ、
畜生に向かって説く場合は別の「方便」がある、と。

そして、これは言い訳であると同時に、実践的真理でもある。
人間の言語で語る人間の宗教は、人間を対象とすべきであって、
人間以外のものを対象にしても意味がないのである。
既存の宗教が宗教として存続して来た所以はここにある。