もはや定かではないが、かなり昔の記憶で、
親が弁当屋で、のり弁を買ってきて、それが非常に美味しかったことがあった。
それ以来、幼い頃の私にとって、弁当屋ののり弁というのは憧れのものであった。
「憧れ」というのは大げさかもしれないが、
幼い子供には、極力家で作った料理を食べさせるというのが母の方針で、
たまに外食することはあっても、弁当屋で弁当を買って帰るということは滅多になかった。
そのため、ごくたまに食べる弁当屋ののり弁当は、幼い私にとってはご馳走であったのだ。
しかし、それ以来、何度か食べたことがあったのだが、
初めて食べた時ほど美味しく感じたことはなかった。
最初に食べたものだって普通のチェーン店のものなのだから、
味にそれほど違いがあったとは思えない。
おそらく、記憶の中で味が美化されてしまったのであろう。
美化された味とのギャップにがっかりし続けたためか、
最近は、自分で買うことができるようになっているのに、
全く食べていない。
それでも、幼い頃から見慣れた弁当屋の前を通りかかると
何となく、のり弁に憧れた頃を思い出す。
先日も、昔からよく見ていた弁当屋の前を通ったのだが、その時、
ポスターの、ある言葉が目についた。
「まごころあったか」
真心が有ったか? いったい何のことであろうか。
よくよく読んで見ると、少し離れたところに、
「おいしい弁当」
と書いてあった。
なんだ、「真心温か、おいしい弁当」か。
しかし、「まごころあったか」で文章を切られたら、
何だか、真心の有無を問われているようである。
親が弁当屋で、のり弁を買ってきて、それが非常に美味しかったことがあった。
それ以来、幼い頃の私にとって、弁当屋ののり弁というのは憧れのものであった。
「憧れ」というのは大げさかもしれないが、
幼い子供には、極力家で作った料理を食べさせるというのが母の方針で、
たまに外食することはあっても、弁当屋で弁当を買って帰るということは滅多になかった。
そのため、ごくたまに食べる弁当屋ののり弁当は、幼い私にとってはご馳走であったのだ。
しかし、それ以来、何度か食べたことがあったのだが、
初めて食べた時ほど美味しく感じたことはなかった。
最初に食べたものだって普通のチェーン店のものなのだから、
味にそれほど違いがあったとは思えない。
おそらく、記憶の中で味が美化されてしまったのであろう。
美化された味とのギャップにがっかりし続けたためか、
最近は、自分で買うことができるようになっているのに、
全く食べていない。
それでも、幼い頃から見慣れた弁当屋の前を通りかかると
何となく、のり弁に憧れた頃を思い出す。
先日も、昔からよく見ていた弁当屋の前を通ったのだが、その時、
ポスターの、ある言葉が目についた。
「まごころあったか」
真心が有ったか? いったい何のことであろうか。
よくよく読んで見ると、少し離れたところに、
「おいしい弁当」
と書いてあった。
なんだ、「真心温か、おいしい弁当」か。
しかし、「まごころあったか」で文章を切られたら、
何だか、真心の有無を問われているようである。