道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

「苺入りチョコレート利用食品」

2008-01-16 17:28:16 | 街中
セブンイレブンで、「1月5日・15日はイチゴの日」という、苺の生態を無視したキャンペーン、もしくはクリスマス商戦に間に合わなかった苺のための敗者復活戦を行っていた。
例によって例の如く、チロルチョコからパイの実まで、様々な商品のイチゴ味が並んでいる。

その中に、「いちごのシュークリーム」というものがあるのだが、
原材料を見ると、
「牛乳、シュー皮、生クリーム、卵、苺入りチョコレート利用食品、砂糖、苺ピューレ、コーンスターチ……」
と様々なものが並んでいる。

しかし、「苺入りチョコレート利用食品」とは何だろう?
5番目に多い材料で、商品の形状を考えると、シュークリームの表面を覆うチョコレートコーティングなのだが、「苺入りチョコレートコーティング」と書かないあたりがおかしい。
そもそも、食品の原材料の中にわざわざ「~食品」と書かれたものがあるのがおかしい。食品の原材料は食品に決まっておろう。
「チョコレートコーティング」とは表示できないけれど「食品」には違いないので皆様安心してお召し上がり下さい、ということであろうか。



商品を作る際に使用した添加物については表示が義務付けられているが、その商品の原材料を作る際に使用した添加物については表示する必要はない。
もちろん、表示されない添加物についても、数々の実験動物達のおかげで安全が確かめられているのであるから、複合汚染についてまで考えなければ、まぁ、心配しなくても生きていける。
しかし、原材料の中に、「チョコレート利用食品」なんていう曖昧な名前が並んでいると、その出自についての多少の薄気味悪さを感じざるを得ない。

二酸化炭素排出月間

2007-11-30 14:41:49 | 街中
昨日、渋谷の道玄坂で撮った写真である。
ご覧のように、すでにクリスマス向けの電飾が灯っている。

東京のクリスマス商戦は極めて早い。
多くのデパートでは、11月前半に既に飾りつけが始まっている。
そして、街中でも、11月末には電飾が灯る。
今年の待降節の開始は12月2日なのだから、
11月29日に電飾の点灯を行う渋谷は、
キリスト教諸国よりも、クリスマスの灯りを点ける時期は早いわけである。

友人曰く、
「日本ではサンクスギビングをやらないから、
 ハロウィンが終わると、すぐにクリスマスになっちゃう」と。
なるほど、然り。

「建て替え最中」

2007-07-07 23:02:37 | 街中
「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」
――本郷通りと春日通りの交差点が
江戸八百八町の端らしい。

その「かねやす」の本郷通りを挟んで向かい側、
すなわちぎりぎり江戸から外れたところに
三原堂という老舗の菓子屋がある。

今日、その三原堂の前を通りかかったのだが、
工事中で、「建て替え最中。仮店舗にて営業中」
という看板がかかっている。

一緒に歩いてた人が
「建て替え“もなか”に読める。和菓子屋だから」
と呟いたので、思わず笑ってしまったが、
その仮店舗に行くと、本当に
「建て替え最中」
を売っていた――求肥と小豆餡入り。

……ユーモアに脱帽。

http://www.hongo-miharado.co.jp/

松涛の爆発事故

2007-06-29 23:19:44 | 街中
松涛の爆発事故から10日が過ぎようとしている。
白昼の街中で、突然爆発があったのだから、何とも恐ろしい話である。

あの日、私は駒場にいた。
以前書いたように、駒場は松涛からかなり近い。
私はちょうど電車に乗っていたために爆発の音は聞かなかったが、
2時半過ぎに駒場に着いて友人に会うと、彼が、
「さっき、すごい雷があったね」
と言った。
――今思えば、それはガス爆発の音だったのであろう。
駒場まで、「すごい雷」というレベルで聞こえたということは、
松涛や渋谷では、きっとすさまじい轟音だったのだろう。

そうとも知らず、授業を受けていたのだが、
授業中ずっと、ヘリが上を行き交っていて、うるさい。
一機が去ったと思ったらまた一機、それが去ったらまた一機、
絶えずプロペラ音がしていて、先生の声が聞こえない。

授業が終わった後に会った友人に、松涛でガス爆発があったことを聞き、
そこでようやく事故のことを知り、轟音やヘリの理由が分かった。

夜、オルガンを弾いた後に、後輩と渋谷にご飯を食べに行くことにした。
歩いて行く途中に、ちょうどそのスパがあったので、少しヤジウマをしてみた。
その時、後ろから、
「おお、お前じゃん」
という声。
振り向いてみると、3年前に授業が一緒だった知り合い。

久しぶりに会うので、後輩を少し待たせて、立ち話。
どうやらマスコミに就職して記者をしているらしい。
そして、仕事の具合や、この爆発事件について、
事故直後からずっと張りこんでいて、いい加減疲れた、
等などの話を聞いた。

食事を終えて、後輩と別れ、私は駒場へ歩いて戻ったのだが、
その途中でまた事故現場を見てみると、まだ記者たちがいる。
きっと、例の知人もまだいるのであろう。
昼から夜遅くまで、とにかく大変である。


ところで、記者をやっている例の人との話の中で、
「テレビカメラの人は傲慢」
という言葉を聞いた。
要するに、現場を撮る時に、人にぶつかったり、押しのけたり、
かなり強引なことをしているということであろう。
まぁ、良い映像を得るためには、そのくらいのことをしないとならないのであろう。

こういった行為、それにヘリの音もそうだが、
これらは実際に周りにいる人間にとっては非常に迷惑なのだが、
しかし、ひとえに、テレビや写真を見る人たちの需要に応えるためなのである。


ニュースで映像や写真を見る時に、我々は何の気もなしにそれを見ているが、
それを提供するために、マスコミは、
多大な努力を払い、そして周りの人間には迷惑を与えているのである。
それを覚えておこう、と思った日であった。

井の頭線とあじさい

2007-06-23 00:17:32 | 街中
本格的な梅雨に入ったのか入らないのか、
そんな微妙な六月もまもなく過ぎようとしている。
そして、雨もろくに降らない中で、
あじさいの見頃もそろそろ終わりに入ってきている。

あじさいといえば井の頭線。
明大前から下北沢にかけて、沿線にびっしりと植えられていて、
なかなか見ごたえがある。
三年くらい前から見ているが、毎年なかなか楽しませてもらっている。

あじさいは咲いているうちがまさに花で、枯れてしまうとまるでゾンビ、
それがびっしり続いていたりすると、まるでスラム街である。
散り去るのを惜しむ興はあまり湧かない。
故に、見頃にしっかりと見ておいて、
枯れ始めたら、あまり見ないであげるのが良い。

ところで、見頃なら夜でも見ておく、というわけではあるまいが、
東松原駅ではライトアップをしているらしい。
http://www.keio.co.jp/news/nr070611v02/index.html
夜に電灯で浮かび上がるあじさい、果たして粋なのか疑問ではあるが、
近いうちに見にいきたいものである。

躑躅

2007-04-27 22:24:51 | 街中
日本人は桜が好きである。
およそ人の住むところ、日本中至る所に桜が植えられて、
春の訪れとともに鮮やかに花開く。
しかし、私の見たところ、桜と同じくらい或いはそれ以上に多く植えられて、
桜が散り終わるのを待っていたかのように鮮やかに咲き誇る花がある。
――つつじである。

つつじは細い枝が密生しており、手入れすれば形がきれいに整うので、
背の低い壁を作るのに適している。
歩道と車道を分かつのに、
鉄のガードレールを用いれば簡単に乗り越えられてしまうが、
つつじを植えて壁にすればなかなか乗り越え難く、
そして無機質な鉄よりも、温かみがある。

都会ではこのように実用的な用途でつつじがよく用いられている。
桜と異なり、花を咲かせることが第一の目的ではない。
しかし、この時期、つつじはなかなか美しく咲いてくれる。
明るい朱色、艶やかな紫、透き通るような白、
色とりどりの数多の花が、垣根で、街路樹の根元で、
所狭しと鮮やかに咲き乱れている。
桜と違って見上げる必要はない、名所に行く必要もない、
ただ道を歩きさえすれば、美しい花々を見ることができるのである。

桜ほど注目されず、バラのように貴重に扱われもしないが、
すねることもなく、こびることもなく、
春が来ればマイペースで咲き誇る、
そんな鮮やかさがつつじにはある。

八重桜

2007-04-18 23:21:26 | 街中
先日、角信がなくなるということを聞いたので、桜新町にラーメンを食べに行った。
駅から出て、ミスドの脇の道をずっと真っ直ぐ行き、大きな道路に出ると、
そこに角信はあった。

大通り沿いなのだから、決して目立たない場所ではない。
しかし、周りに駐車スペースがないというのは、
違反取締り強化後の今日では致命的な欠陥である。
店に入ってみても、昼時なのにも関わらず、2,3人しか客はいなかった。
これでは経営はもたない。

もう来ないであろう、そう思って、
同じ系列の山手では置いていない「黒らーめん」と餃子を一人で食べたら、
すっかりお腹いっぱいになってしまった。
時間もあるし、腹ごなしも兼ねて、
駅前の「サザエさん通り」を少し散策した。

このサザエさん通り、もとは「中通り」といったらしいが、
長谷川町子美術館が建てられたことにちなんで、このように改称されたらしい。
残念ながら、駅前ではサザエさんのキャラクターはあまり見つからなかった。
しかし、小さい通りの両脇に並ぶ建物は、なかなかセンスの良い感じであった。

そして、何より良かったのは、この通り、桜並木になっているのだが、
定番のソメイヨシノではなく、八重桜なのである。
何本か並んでいるのは見たことがあったが、
このように並木になっている八重桜を見たのは初めてである。
ソメイヨシノの並木ほど迫力はないが、
一本一本がそれぞれ個性的で、なかなか味わい深い。
そして、開花の遅い八重桜を並木としているので、
他の桜の名所がすっかり終わってしまった中で、
4月中旬に桜祭りを開催できるというのがなかなか洒落ている。

真打は遅れて来るものである。
それまでの登場者が衰えたところに満を持して現れる、
なかなか美味しい役回りである。
皮日休は牡丹について
「落尽残紅始吐芳(残紅落ち尽くして始めて芳を吐く)」
と詠んだが、
これはまさに桜に於ける八重桜に当てはまる。

ソメイヨシノだけが桜ではない。
それが散った後にもなお、また味わい深い桜が咲くのである。

ラーメン屋の昔語り

2007-04-10 14:27:07 | 街中
サークルの勧誘のビラを貼りに、
以前バイトをしていたラーメン屋「山手らーめん」に行った。
このラーメン屋、学校のすぐ裏にあり、
昼休みになると学生や教員でよく賑わったものだが、
最近は構内の食堂やレストランが充実されたために、少し振るわない模様。

昼休みが終わった後を見計らっていったので、客も少なく、
久しぶりということで、昔よくお世話になった店員さんと世間話をしていた。
主に、昔バイトをしていた人たちについて、
○○はどこに行った、△△がこの間ラーメン食べに来た、
□□は最近全く見ないけれども何をしているのだろう、
といった話であった。
その話の中で、姉妹店として同じ麺やノウハウで経営されていた、
桜新町にあるラーメン屋「角信」がなくなるということを聞いた。
どうやら、客が少なくなりすぎて、採算を取るのが大変になってきたようである。

以前は会うのが当たり前だった人たちと会えなくなること、
昔は、これからもずっとあるだろう、と思っていたものがなくなること、
こうしたことに思いを馳せると、不思議な感覚がする。

哲学の基本的テーマの一つに、「時間は流れる」という認識への疑問、があり、
これについて、「実は時間は流れていない」とも言われる。
しかし、思い出を振り返り、今とのギャップを考える時、
不覚にも「時間が流れてしまったのだなぁ」と感じてしまう。
何となく甘く、酸っぱい感覚を伴うものを言う時に、
「流れる」という表現は、何とも優雅で相応しい言葉に感じられるのである。

バラの乾杯

2007-04-03 00:08:08 | 街中
江戸東京博物館の脇の通りに、バラが植えられている花壇がある。
こじんまりとしたスペースに、十数本の苗が植えられ、
それぞれに品種を書いた立て札がつけられている。
「ウイミィ」「クイーンエリザベス」「正雪」などなど、
様々な名前がつけられている。

私はこういったことには疎いので、ただ見ているだけなのだが、
しかし、「ビクトルユーゴ」「王朝」といった名前ならともかく、
「初恋」や「乾杯」などというものまであって、驚いた。

植物の品種に「乾杯」という名前をつけるとは、凄いセンスである。
あるいは、バラだからこそ似合う名前なのかもしれない。

今度は花が咲いていそうな時期に行ってみようと思う。

まごころあったか?

2007-02-25 19:52:54 | 街中
もはや定かではないが、かなり昔の記憶で、
親が弁当屋で、のり弁を買ってきて、それが非常に美味しかったことがあった。
それ以来、幼い頃の私にとって、弁当屋ののり弁というのは憧れのものであった。
「憧れ」というのは大げさかもしれないが、
幼い子供には、極力家で作った料理を食べさせるというのが母の方針で、
たまに外食することはあっても、弁当屋で弁当を買って帰るということは滅多になかった。
そのため、ごくたまに食べる弁当屋ののり弁当は、幼い私にとってはご馳走であったのだ。

しかし、それ以来、何度か食べたことがあったのだが、
初めて食べた時ほど美味しく感じたことはなかった。
最初に食べたものだって普通のチェーン店のものなのだから、
味にそれほど違いがあったとは思えない。
おそらく、記憶の中で味が美化されてしまったのであろう。

美化された味とのギャップにがっかりし続けたためか、
最近は、自分で買うことができるようになっているのに、
全く食べていない。
それでも、幼い頃から見慣れた弁当屋の前を通りかかると
何となく、のり弁に憧れた頃を思い出す。



先日も、昔からよく見ていた弁当屋の前を通ったのだが、その時、
ポスターの、ある言葉が目についた。

「まごころあったか」

真心が有ったか? いったい何のことであろうか。
よくよく読んで見ると、少し離れたところに、

「おいしい弁当」

と書いてあった。
なんだ、「真心温か、おいしい弁当」か。

しかし、「まごころあったか」で文章を切られたら、
何だか、真心の有無を問われているようである。