排斥という言葉を洞察で調べて見ると、その項はなくって、代わりに追放,追い出すという項目がでてくる。
そこには
「非行者を共同体もしくは組織における成員としての立場および交わりから裁定によって放逐する,すなわち排斥すること。宗教社会にあっては,これはその社会の本質的な原則ならびに権利であり,国家や地方自治体が行使する,死刑や追放,除籍といった権限に類似しています。」(洞察より引用)
とかいてあります。
死刑といった権限に類似。
そう、その通りですよね、社会的、または感情的、そして信仰上の死刑。
ところがエホバの証人は「排斥は愛ある処置」という。
実際聖句には排斥者を再び受け入れるという聖句はなく、出版物ではだいたい変わって「放蕩息子の例」がでてきます。
または「過度に悲しみに飲み込まれないよう」受け入れる、という聖句などを出してきます。が
結局はお得意の聖句の切り張りモザイク。
聖書にある排斥は、そう、ストレートに腐敗したものを取り除くというもの。
モーセの律法下での死刑と同じ。
以下、洞察よりの引用です:
律法下では,切り断つという罰を執行するには,少なくとも二人の証人の口によって証拠が確立されねばなりませんでした。(申 19:15)それら証人たちには,有罪とされた人に最初に石を投げることが要求されました。(申 17:7)このことは,神の律法とイスラエルの会衆の浄さに対する彼らの熱心さを実証するものとなり,偽りの,いい加減な,あるいは軽率な証言を抑止するものともなったことでしょう。(引用終わり)
それならそうと
なぜ、変に「愛ある」処置などとすり変えたりするんでしょう。
(ところで、上の引用は”証人”も死刑に加わる、だから軽い気持ちで証言しないようにっていいたいんでしょうが、相手が死刑になるんです。当たり前だと思うけど。)
協会は弱虫なんですね…。
信者に殉教をたきつける一方で、自分たちは周りから悪く言われることが怖い。
伝道者には「家の人や研究者から排斥についてのトピックをだされたら、はじめの段階では話さないように」と指示されます。
愛ある組織の愛ある処置なら
愛の印として最初から話てもいいと思います。
あと…余談ですが、排斥者が悔い改めた時の試験期間みたいなのは、聖書的根拠ゼロですよね、1年まてとか3ヶ月でいいとか、
そこには
「非行者を共同体もしくは組織における成員としての立場および交わりから裁定によって放逐する,すなわち排斥すること。宗教社会にあっては,これはその社会の本質的な原則ならびに権利であり,国家や地方自治体が行使する,死刑や追放,除籍といった権限に類似しています。」(洞察より引用)
とかいてあります。
死刑といった権限に類似。
そう、その通りですよね、社会的、または感情的、そして信仰上の死刑。
ところがエホバの証人は「排斥は愛ある処置」という。
実際聖句には排斥者を再び受け入れるという聖句はなく、出版物ではだいたい変わって「放蕩息子の例」がでてきます。
または「過度に悲しみに飲み込まれないよう」受け入れる、という聖句などを出してきます。が
結局はお得意の聖句の切り張りモザイク。
聖書にある排斥は、そう、ストレートに腐敗したものを取り除くというもの。
モーセの律法下での死刑と同じ。
以下、洞察よりの引用です:
律法下では,切り断つという罰を執行するには,少なくとも二人の証人の口によって証拠が確立されねばなりませんでした。(申 19:15)それら証人たちには,有罪とされた人に最初に石を投げることが要求されました。(申 17:7)このことは,神の律法とイスラエルの会衆の浄さに対する彼らの熱心さを実証するものとなり,偽りの,いい加減な,あるいは軽率な証言を抑止するものともなったことでしょう。(引用終わり)
それならそうと
なぜ、変に「愛ある」処置などとすり変えたりするんでしょう。
(ところで、上の引用は”証人”も死刑に加わる、だから軽い気持ちで証言しないようにっていいたいんでしょうが、相手が死刑になるんです。当たり前だと思うけど。)
協会は弱虫なんですね…。
信者に殉教をたきつける一方で、自分たちは周りから悪く言われることが怖い。
伝道者には「家の人や研究者から排斥についてのトピックをだされたら、はじめの段階では話さないように」と指示されます。
愛ある組織の愛ある処置なら
愛の印として最初から話てもいいと思います。
あと…余談ですが、排斥者が悔い改めた時の試験期間みたいなのは、聖書的根拠ゼロですよね、1年まてとか3ヶ月でいいとか、
排斥についてですけども、これもまたJW独自のルールなんですよね。周囲に悪影響を与えるから排除しなければならないというのならば、心から反省の態度を示している人を排斥する理由はどこにもないはずなのに、実際の所は長老団の裁量権に任せられてるんですよね、おかしな話です。
排斥された人と話をしてはならないというのも聖書的に見ておかしいんですよね。よく引用される聖句で「挨拶をしてはなりません」という所は「大酒飲みや暴力的な人(だったかな?)」などに対してのもので、排斥された人についてではないはずです。そもそも聖書には「排斥」という語句すらないのですから。
聖書に排斥という言葉ありませんよね、英語ではdisfellowshipって表現使っています、これってJW独特のいい方じゃないでしょうか。
普通はboycottと言うはず、でもボイコットじゃ、人聞き(笑)が悪いから、、って感じですね。
この処置、どちらかというとイエス時代のユダヤ人たちがはむかった者たちを会堂から追放した、あの制度に似てると思います。
どうしてそんな制度を取り入れたんだろう…と思います。
排斥の取り決めはレイモンドフランズ兄弟が組織を追い出された当たりから現在のようなスタイルになったとどこかのサイトで見た覚えがあります。
この取り決めが聖書的には本当はどんなものなのか、個人的に聖書を読んでじっくり考察したいと思います。
「良心の危機」は実は読んだことがないんですが、(サイトなので部分読みのみ)注文したりするとあやしまれると思って…。いつかぜひ読んでみたい本です。
フランズ兄弟は排斥者とレストランで食事をしたかどで排斥になったんでしたよね、でもその”排斥者”とはフランツ兄弟の雇い主だったから、生活に再最低限必要な”コンタクトだったといえるはず、、
しかも、排斥者と話しただけで排斥って、それって聖書的理由もなにもないと思います。
Violettaさん、排斥とのとこ、、苦しい状況だと思います。私も将来排斥、という事態も考えて心の準備をしているところです、、。
唯一無二の親友が排斥になったことで初めて、この取り決めの無常さを痛感することになりました。
でも、私もネットで活動している身分ですから、時々万が一の時のことも考えてしまうことがあります。
<排斥者と話しただけで排斥って、それって聖書的理由もなにもないと思います>
協会は背教者に対する聖句を持ってきて、それを排斥者にも当てはめているようですよね。この点ではいろいろ納得できないので、もし興味深い洞察があれば、PWさんのブログでまた教えてくださいね。
私も排斥の取り決めについては全然納得できません…。でも数ヶ月前まで協会のいいぶんを嫌々ながらでも100%信じていたし、自分が排斥になることが世界で一番怖かった…。
排斥処置の持つパワーは強力ですよね、だからこそ、これ以上協会にパワーを乱用させたくない!とおもいます。かといってブログで書くことくらいしかできないけれど。
Violettaさんも、何か新しい情報があったらぜひコメントしてください!!
ある意味、排斥は愛ある措置ですよ!
神より怖い親との縁を切ってくれたので(´∀`)笑
排斥がなければあたしの人生は地獄そのもの。
排斥のおかげで苦しみを20年で終えることができました(゜▽゜)
神より怖い親、あ、私もそう思ってます。怖い。母から電話かかってくるとわけもなくどきどきするし、電話があった日は別に電話の内容が平和でも、一日なぜか憂鬱だったり、罪悪感があったり。
なので、疎遠疎遠に、自然になってしまいますね、、。
kyonさんのおっしゃる意味わかります、、。