《子どもと教科書全国ネット21ニュース》から
◆ 「教科書改革実行プラン」の意味を歴史的に考える
吉田典裕氏の別稿にもあるように、文科省は11月15日、「教科書改革実行プラン」なるものを記者会見で発表し、文科省が企図する教科書検定制度および採択制度の改定の方向を示した。これらの制度改革は国会で審議される法律にもとづく必要はなく、文科省の一存で「検定基準」の改定などとして具体化されることになる。
その内容全体については、吉田典裕氏の別稿に譲り、私はそのなかでとくに重要と思われる検定基準改定のなかの一項に関して、戦後の教科書制度の歴史をふりかえりつつ、それがどんな意味を持つのかを考えてみたい。
◆ 個々の記述の適否とは無関係に不合格
「教科書改革実行プラン」の記者発表資料のなかの「教科書検定基準等の改正」の項目に次の一項がある。
「教育基本法の目標等に照らして重大な欠陥がある場合を検定不合格要件として明記」
この点について下村文科大臣は「目標に照らして重大な欠陥があれば、個々の記述の適否を吟味するまでもなく不合格とする」と説明したという(「朝日新聞」11月19日付社説「教科書検定『重大な欠陥』の欠陥」)。
ここでいう教育基本法の目標とは、改定教育基本法第2条に示された「教育の目標」のことである。
そこには、公共の精神、伝統と文化の尊重、我が国と郷土を愛することなどが掲げられている。
するとたとえば、基本的人権の大切さを強調して国家・公共への奉仕を重視しなければ、公共の精神を養うという教育基本法の目標に照らして重大な欠陥があると判定され、「個々の記述の適否を吟味するまでもなく」不合格になることがおこる。
あるいは、戦争の惨禍やアジア諸国民への加害の事実を包み隠さず明記し、過去の歴史、国家とその支配者の責任への反省を促すような記述が多ければ、我が国を愛する態度を養うという教育基本法の目標に照らして重大な欠陥があると判定され、「個々の記述の適否を吟味するまでもなく」不合格になることがおこりうる。
前記「朝日新聞」社説も指摘するように、「全体に自虐的だ」と切り捨てられてしまうならば、「抗弁も検証もしようがない」のである。
そうなれば、安倍政権が廃止をねらっている検定基準のなかの近隣諸国条項(近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がなされていること)も、諸外国からの重大な反発をまねく明文廃止をまたずに実質的に無効化するだろう。
過去の国家の過ちを知ることがむしろ本当の意味で国を良くしようという意識につながるとも考えられるが、いまの政権は逆に過去の過ちを隠すことが愛国心につながると考えているようである。
◆ 実質改憲=独裁国家への道をひらく
いまの検定のあり方には、常に指摘されているように「政府見解を書かせる」検定、学習指導要領の恣意的適用など大きな基本的問題が存在している。
しかし、教科書裁判を軸にした長年にわたる検定批判の運動と、それを反映した教科書裁判での部分的ではあるが一定の勝利判決、それに国内外からの批判も加わって生まれた1982年の宮沢談話とそれにもとづき新設された検定基準の近隣諸国条項などによって、一応、個々の事実の記述の誤りや適否、学習指導要領との適合性などを中心に検定が行われることになってきた。
政権の考え方=思想に反するなどの理由で検定意見が付されることは公式にはない。したがって、侵略加害の記述については事実の誤りがない限り、基本的には検定で修正されることはなくなってきた。
その結果、たとえば「慰安婦」の記述は中学教科書では絶滅させられたが、高校日本史では日本会議編集の明成社版を除き多かれ少なかれ掲載されている。南京虐殺事件も全ての教科書で記述されている。
しかし、このような現在の教科書検定のあり方には、自民党や右翼勢力の強い不満がある。それはせっかく教育基本法を改定したのに、いまだ「自虐史観」にもとつく教科書がなくなっていないというものである。
その不満を解消し、政権の思い通りに教科書の内容を変えようとするのが「教科書改革実行プラン」であり、それにしたがって新しい検定基準がつくられるとすれば、教科書検定は、記述された一つひとつの事実の誤りや不適切さを指摘して修正させる形で運用されるのではなく、教育基本法や学習指導要領などに具現された政治権力のもつ一定の思想に合致しているかどうかを主要な基準として検定が運用されることになる。
これは検定のあり方のかなり根底的な転換であり、政権がもつ思想と多少なりとも異なる思想を含む教科書は全て検定によって排除され、政権がもつ思想だけを児童生徒に教えることが強制されることになる。
独裁国家と同じである。日本国憲法が保障する言論・思想・表現の自由は教える側からも教えられる子どもたちからも奪われ、基本的人権を制限する自民党改憲案が示す社会が、憲法改悪をまたずに実現することになる。まさに実質改憲の一つともいえる。
◆ 教科書採択での排除から検定での排除へ
一方かれらは、中学で育鵬社版の採択を一定程度伸ばし、全部の教科書で侵略加害の記述を縮減させることに成功した教訓に学び、高校でも採択権が教育委員会にあると主張し、教育委員会の権力を利用して2012年度以来、東京・横浜を皮切りに、「教育委員会の見解と異なる」記述がある高校教科書の採択段階での排除を進め、2013年度には神奈川県・大阪府・大阪市にひろがった。
さらに埼玉県をはじめとして、教育委員会が採択を承認した教科書に対して、議会などの政治勢力が採択の変更を求めるという教育への乱暴な政治介入も広がっている。
これらの動きは、検定制度改定が実現する前に、政治権力がもつ思想と異なる教科書を、採択の段階で全面的に排除しようという企てであるが、「教科書改革実行プラン」に基づく検定制度改定が実現すれば、採択段階をまたずに検定段階で、政権の思想と異なる教科書を全面的に排除できる仕掛けになる。
そして、これらの教科書改革を集大成する教科書法制定も構想されている。
◆ 家永教科書裁判提訴の時代に戻るのか
1953年に池田・ロバートソン会談で日本政府が国民に愛国心と自衛の精神を育てることをアメリカに約束したことを契機に、教育への国家統制が急速に強まり、55年の第一次教科書攻撃、56年の教科書調査官設置による検定強化につながる。
家永教科書裁判が提訴されたのは1965年のことだが、それに先立つ1950年代なかばから、事実の問題ではなく、歴史の見方とらえ方というような思想の問題を正面から公然と基準にすえた検定が行われるようになっていた。
たとえば家永三郎氏著作の日本史教科書は、57年度検定で次のような理由で不合格となった。「過去の史実により反省を求めようとする熱意のあまり、学習活動を通じて祖先の努力を認識し、日本人としての自覚を高め、民族に対する豊かな愛情を育てるという日本史の教育目標から遠ざかっている感が深い。」
つまり、日本人としての自覚を高めたり、民族への愛情を育てることが大事だとする政権がもつ思想・価値観に合致しているかどうかを基準にした検定が行われていたのである。それと同じような検定が再び公然と行われ、教育と教科書への思想統制が強化されようとしている。それを阻止する運動を強めなくてはならない。(いしやまひさお)
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 93号』(2013.12)
◆ 「教科書改革実行プラン」の意味を歴史的に考える
石山久男(子どもと教科書全国ネット21常任運営委員)
吉田典裕氏の別稿にもあるように、文科省は11月15日、「教科書改革実行プラン」なるものを記者会見で発表し、文科省が企図する教科書検定制度および採択制度の改定の方向を示した。これらの制度改革は国会で審議される法律にもとづく必要はなく、文科省の一存で「検定基準」の改定などとして具体化されることになる。
その内容全体については、吉田典裕氏の別稿に譲り、私はそのなかでとくに重要と思われる検定基準改定のなかの一項に関して、戦後の教科書制度の歴史をふりかえりつつ、それがどんな意味を持つのかを考えてみたい。
◆ 個々の記述の適否とは無関係に不合格
「教科書改革実行プラン」の記者発表資料のなかの「教科書検定基準等の改正」の項目に次の一項がある。
「教育基本法の目標等に照らして重大な欠陥がある場合を検定不合格要件として明記」
この点について下村文科大臣は「目標に照らして重大な欠陥があれば、個々の記述の適否を吟味するまでもなく不合格とする」と説明したという(「朝日新聞」11月19日付社説「教科書検定『重大な欠陥』の欠陥」)。
ここでいう教育基本法の目標とは、改定教育基本法第2条に示された「教育の目標」のことである。
そこには、公共の精神、伝統と文化の尊重、我が国と郷土を愛することなどが掲げられている。
するとたとえば、基本的人権の大切さを強調して国家・公共への奉仕を重視しなければ、公共の精神を養うという教育基本法の目標に照らして重大な欠陥があると判定され、「個々の記述の適否を吟味するまでもなく」不合格になることがおこる。
あるいは、戦争の惨禍やアジア諸国民への加害の事実を包み隠さず明記し、過去の歴史、国家とその支配者の責任への反省を促すような記述が多ければ、我が国を愛する態度を養うという教育基本法の目標に照らして重大な欠陥があると判定され、「個々の記述の適否を吟味するまでもなく」不合格になることがおこりうる。
前記「朝日新聞」社説も指摘するように、「全体に自虐的だ」と切り捨てられてしまうならば、「抗弁も検証もしようがない」のである。
そうなれば、安倍政権が廃止をねらっている検定基準のなかの近隣諸国条項(近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がなされていること)も、諸外国からの重大な反発をまねく明文廃止をまたずに実質的に無効化するだろう。
過去の国家の過ちを知ることがむしろ本当の意味で国を良くしようという意識につながるとも考えられるが、いまの政権は逆に過去の過ちを隠すことが愛国心につながると考えているようである。
◆ 実質改憲=独裁国家への道をひらく
いまの検定のあり方には、常に指摘されているように「政府見解を書かせる」検定、学習指導要領の恣意的適用など大きな基本的問題が存在している。
しかし、教科書裁判を軸にした長年にわたる検定批判の運動と、それを反映した教科書裁判での部分的ではあるが一定の勝利判決、それに国内外からの批判も加わって生まれた1982年の宮沢談話とそれにもとづき新設された検定基準の近隣諸国条項などによって、一応、個々の事実の記述の誤りや適否、学習指導要領との適合性などを中心に検定が行われることになってきた。
政権の考え方=思想に反するなどの理由で検定意見が付されることは公式にはない。したがって、侵略加害の記述については事実の誤りがない限り、基本的には検定で修正されることはなくなってきた。
その結果、たとえば「慰安婦」の記述は中学教科書では絶滅させられたが、高校日本史では日本会議編集の明成社版を除き多かれ少なかれ掲載されている。南京虐殺事件も全ての教科書で記述されている。
しかし、このような現在の教科書検定のあり方には、自民党や右翼勢力の強い不満がある。それはせっかく教育基本法を改定したのに、いまだ「自虐史観」にもとつく教科書がなくなっていないというものである。
その不満を解消し、政権の思い通りに教科書の内容を変えようとするのが「教科書改革実行プラン」であり、それにしたがって新しい検定基準がつくられるとすれば、教科書検定は、記述された一つひとつの事実の誤りや不適切さを指摘して修正させる形で運用されるのではなく、教育基本法や学習指導要領などに具現された政治権力のもつ一定の思想に合致しているかどうかを主要な基準として検定が運用されることになる。
これは検定のあり方のかなり根底的な転換であり、政権がもつ思想と多少なりとも異なる思想を含む教科書は全て検定によって排除され、政権がもつ思想だけを児童生徒に教えることが強制されることになる。
独裁国家と同じである。日本国憲法が保障する言論・思想・表現の自由は教える側からも教えられる子どもたちからも奪われ、基本的人権を制限する自民党改憲案が示す社会が、憲法改悪をまたずに実現することになる。まさに実質改憲の一つともいえる。
◆ 教科書採択での排除から検定での排除へ
一方かれらは、中学で育鵬社版の採択を一定程度伸ばし、全部の教科書で侵略加害の記述を縮減させることに成功した教訓に学び、高校でも採択権が教育委員会にあると主張し、教育委員会の権力を利用して2012年度以来、東京・横浜を皮切りに、「教育委員会の見解と異なる」記述がある高校教科書の採択段階での排除を進め、2013年度には神奈川県・大阪府・大阪市にひろがった。
さらに埼玉県をはじめとして、教育委員会が採択を承認した教科書に対して、議会などの政治勢力が採択の変更を求めるという教育への乱暴な政治介入も広がっている。
これらの動きは、検定制度改定が実現する前に、政治権力がもつ思想と異なる教科書を、採択の段階で全面的に排除しようという企てであるが、「教科書改革実行プラン」に基づく検定制度改定が実現すれば、採択段階をまたずに検定段階で、政権の思想と異なる教科書を全面的に排除できる仕掛けになる。
そして、これらの教科書改革を集大成する教科書法制定も構想されている。
◆ 家永教科書裁判提訴の時代に戻るのか
1953年に池田・ロバートソン会談で日本政府が国民に愛国心と自衛の精神を育てることをアメリカに約束したことを契機に、教育への国家統制が急速に強まり、55年の第一次教科書攻撃、56年の教科書調査官設置による検定強化につながる。
家永教科書裁判が提訴されたのは1965年のことだが、それに先立つ1950年代なかばから、事実の問題ではなく、歴史の見方とらえ方というような思想の問題を正面から公然と基準にすえた検定が行われるようになっていた。
たとえば家永三郎氏著作の日本史教科書は、57年度検定で次のような理由で不合格となった。「過去の史実により反省を求めようとする熱意のあまり、学習活動を通じて祖先の努力を認識し、日本人としての自覚を高め、民族に対する豊かな愛情を育てるという日本史の教育目標から遠ざかっている感が深い。」
つまり、日本人としての自覚を高めたり、民族への愛情を育てることが大事だとする政権がもつ思想・価値観に合致しているかどうかを基準にした検定が行われていたのである。それと同じような検定が再び公然と行われ、教育と教科書への思想統制が強化されようとしている。それを阻止する運動を強めなくてはならない。(いしやまひさお)
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 93号』(2013.12)
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