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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

5・10東京地裁「君が代」第3次訴訟証人尋問

2013年05月16日 | 日の丸・君が代関連ニュース
  《5・10東京「君が代」裁判第3次訴訟傍聴報告》
 ◎ 2人の教員が真っ正面から不起立・不伴奏の正当性を主張


 5月10日午後1時半から約3時間、原告と支援者で満席になった東京地裁103号大法廷で、2人の原告証人尋問が行われました。
 1,裁判官3人総入れ替わり
 第3次訴訟は、久々に103号法廷に戻ってきました。
 書面審査が終わり、立証段階に入ったところで、裁判長が白石哲氏から團藤丈二氏に交替しました。左右の陪席裁判官も併せて3人全員が入れ替わりました。
 新裁判官諸氏は、ここまでの準備書面や原告50人(1人未提出)の陳述書をきちんと読んでくれているのだろうかと、不安が胸をよぎります。
 2,Aさんの証言
 1人目のAさんは、全日制普通科の社会科の男性教員で、不起立1回で戒告処分を受けています。よく通る声でハキハキと概略次のような証言を行いました。
 (1)なぜ起立斉唱の職務命令に従えなかったか

  ①自らの「思想・信条」に反するから。
   「国際儀礼」はウソ。戦前の天皇崇拝儀式と同じ。
  ②生徒に強制する側には回れないから。
   自分の頭で考え行動できる人間になるよう見守ることが教育。
  ③その「職務命令」自体が違法だと思うから。
   憲法を無視する知事・教育委員に振り回され自分で考えることを放棄した校長。
 (2)「10・23通達」前後の違い
  ①卒業式の違い
   対面できるフロア形式がなくなった、内心の自由の説明がなくなった、
   厳粛で画一的になった、生徒も教員も卒対委員会などで意向を反映できなくなった、
  ②教育現場の変化
   話し合いがなくなった、校長は教育委員会から執拗に「指導」を受ける、
   学校は生徒第一であるべきだが、都教委のための学校になっている
 (3)「戒告」の損失の大きさ
   2006年以降「給与条例」が改定され、「戒告」の給与上の不利益(昇級延伸6ヶ月相当・勤勉手当20%カット)は、それ以前の「減給」の不利益(昇級延伸3ヶ月相当・勤勉手当15%カット)よりも大きくなった。
   すなわち1・16最高裁判決で「減給」が、給与上の不利益の大きさから取り消されたのなら、この訴訟では「戒告」も取り消されるべきである。
 (4)最後に裁判所に言いたいのは、秩序よりも人権を優先して欲しい。
 福島原発事故直後政府がSPEEDIのデータを公開しなかったため放射線被害が拡大した。目に見えない「思想・良心」の痛みを過小評価することのないように望みたい。
 (5)反対尋問の最後に、都側代理人は、上記のSPEEDIに触れ、「東日本大震災の被害の拡大と何の関係があるのですか」ととぼけた質問をしたのに対し、都側の責任者として余りにも不勉強、「秩序」を優先した結果情報を隠匿して被害が拡大したことは政府も公式に認めている、と憤然と反論しました。
 3,Bさんの証言
 2人目のBさんは、音楽科の女性教員で、不伴奏3回で減給6月まで累積加重処分されています。終始冷静に一言一言にこころを込めるように、概略次のような証言を行いました。
 (1)なぜ「君が代」の伴奏をしなかったのか
  ①生徒に「君が代」を強制することに加担したくない。
   君が代の歌詞の意味と歴史性を考えると、学校という生徒が逆らいがたい場で、強制的に歌わせることに加担してはいけないと思った。
  ②個人的な気持ちとして「君が代」は弾きたくない。
   祖父が満州で処刑されたこと、叔父が長崎で被爆死したことなど、家族の悲惨な戦争体験がある。心を込めて歌える曲ではない。
 (2)ピアノ伴奏でなくとも、何の問題もない。
   「国旗国歌法」成立(1999年)後も、「10・23通達」(2003年)まではCDやテープ演奏で、何の問題もなかった。音楽教員以外の人が弾けても、都教委は校長に対し音楽科教員に職務命令を出すよう頑なに指導した。
   『高等学校指導要領』「音楽」には、「君が代」は出てこない。
 (3)心に届いた時にはじめて「音楽」になる
   「ピアノ伴奏は外部的行為だ」という理屈を考え出した裁判官は、音楽というものをまったく解さない。「音楽」とはただ音が流れれば音楽になるのではなく、「音」が人の心にまで届いたときに初めて「音楽」になります。
 (4)最後に裁判所に言いたいのは、この問題は紛れもなく「思想・良心の問題」ということです。
   およそ「良心」というものは外部的行為に現れなかったなら、内心でどんなによいことを考えていたとしても、それをその人の「良心」とはふつう言いません。
   おなかの中で考えていることと実際にやる行動とが違っていたら、それは「二心ある人」と言われるのであって、自分のうちにあるよい考えを、どう外部的行動と一致させてゆくのかと本気になったときに初めて、「良心」と呼ぶに値するものが人間の中に生まれ、「思想」と呼ぶに値するものがその人に育つのだと思います。
   そういう意味で、実践されない、外に現れない「良心」というものは、ありえません。「思想・良心の自由を護る」ということは、思想良心に基づく「外に現れた行動」を護ることです。
 (5)反対尋問の都側代理人
   証言の信頼性をことさらに貶めるような決めつけを、威圧的に連発してきましたが、Bさんは冷静に切り返していました。
 ・・・お二人とも、真っ正面から、外連味なく、不起立・不伴奏の正当性を主張しました。子どもの学習権は、憲法・教育基本法・子どもの権利条約などから判断されるべきことであって、学習指導要領や地教行法など下位法にとらわれているのは間違いです。
 率直に自らの信念を語りきって、言い訳じみた弁明をせず、反対尋問にも付け入る隙を与えなかったので、後味が良い法廷となりました。
 (原告H)

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