◎ 童謡と民主主義と金子みすゞ
~高い理想と芸術の詩 (東京新聞)
先日来、何度となく流れた森友学園のニュースで、幼稚園の子どもが日本を“皇国”として賛美する「愛国行進曲」を唄い、天皇主権の「教育勅語」を唱える姿に衝撃を受けた。園児には、子ども心の童謡を、のびのびと唄ってほしい。
童謡は、元々、大正デモクラシーを背景に文芸詩として誕生した。大正時代は労働者、女性、子どもの権利が謳われ、文化と教育においても自由な思想が広まった。
一九一八(大正七)年、鈴木三重吉が子どもの文芸誌「赤い鳥」を創刊。北原白秋が「赤い鳥小鳥」、西條八十が「かなりあ」などを発表して童謡は人気を集め、曲がついて大人も唄う流行歌となる。
童謡は、わらべ歌や唱歌とは異なる。
わらべ歌は「あんたがたどこさ」など古くから伝わる子どもの民謡で、作詞者も作曲者も不詳だ。
対して唱歌は、明治以降の政府が学校教育のために作った。
「春が来た」「われは海の子」など今も愛唱される名曲もある一方、「日本海海戦」「出征兵士」など、戦後は消えた歌もある。日清・日露・世界大戦と戦争を続けた日本の軍国主義と国家主義を教える歌でもあった。
この唱歌への批判から、童謡は生まれた。
国策から離れ、子どもの感性を自由に表現する文学として、白秋、八十、野口雨情など、主に早稲田大出身の詩人らが書き、童謡の雑誌は「金の船」「童話」と増えていく。誌面には懸賞欄があり、読者の童謡も載っていた。
リベラルな童謡に共感し、愛読したのが、山口県生まれの本屋の娘、女学生の金子みすゞだ。
二三(大正十二)年に二十歳になると童謡を書いて雑誌の懸賞に応募し、二十六歳で死ぬまでの七年間に九十作が載った。落選もあるため、約百通は応募したのであり、実に旺盛な創作と投稿だ。
デビュー作の一つは、人に食べられる魚の小さな命を悼む「お魚」。
代表作には「みんなちがって、みんないい」で終わる「私と小鳥と鈴と」、「こだまでしょうか」などがある。
しかしレコードとラジオの発達によって童謡は「音楽」となり、次第に文芸としての性格を薄め、童謡雑誌は廃刊となる。
二五年には治安維持法が制定され、昭和に入るとその改悪により死刑が適用され、言論封殺と戦争の時代へいと向かう。
小さな命の愛しさ、子どもの寂しさや憧れを詠う童謡の精神は軟弱とされ、童謡運動は終焉。
発表媒体を失ったみすゞは三〇(昭和五)年、私生活の悩みや病気、創作の困難などから自殺した。
やがて日中戦争が始まると、子どもは、お国に命を捧げる勇ましい軍国童謡を唄わされた。
勝利に向かって一丸となる挙国一致体制では、「みんなちがって、みんないい」という個性の尊重も否定され、国と異なる意見を持つ者は「非国民」と糾弾された。
そして敗戦。平和な時代となり童謡は復活したが、もはや文学ではなく幼児の歌という位置づけだった。
しかし五七(昭和三十二)年の『日本童謡集』(岩波文庫)にみすゞの詩が収録され、七〇年には、みすゞ初の詩集『繭と墓』(季節の窓詩舎)が出る。編者は、大正時代に童謡を雑誌に投稿したみすゞの仲間であり、戦時中も、彼女の詩を忘れていなかったのだ。
三木露風作詞「赤蜻蛉(とんぽ)」など今も唄われる童謡の大半は、大正デモクラシーの童謡運動で書かれた。民主主義が一時の輝きを見せた時代の大人が、子どもの芸術と教育に寄せた高い理想と熱意に一心打たれる。
そして今、政府が教育勅語を学校教材として使用することを容認し、中学体育には銃剣道が追加され、平成の治安維持法とも呼ばれる「共謀罪」の審議が進む。戦前回帰の動きが加速している。子どもが平和な童謡を唄えなくなる日を、私たちは二度と招いてはならない。
※まつもと・ゆうこ
作家、翻訳家。新刊『みすゞと雅輔(がすけ)』(新潮社)は、新発見の資料をもとにした金子みすゞの伝記小説。
『東京新聞』(2017年5月21日 夕刊)
~高い理想と芸術の詩 (東京新聞)
松本侑子
先日来、何度となく流れた森友学園のニュースで、幼稚園の子どもが日本を“皇国”として賛美する「愛国行進曲」を唄い、天皇主権の「教育勅語」を唱える姿に衝撃を受けた。園児には、子ども心の童謡を、のびのびと唄ってほしい。
童謡は、元々、大正デモクラシーを背景に文芸詩として誕生した。大正時代は労働者、女性、子どもの権利が謳われ、文化と教育においても自由な思想が広まった。
一九一八(大正七)年、鈴木三重吉が子どもの文芸誌「赤い鳥」を創刊。北原白秋が「赤い鳥小鳥」、西條八十が「かなりあ」などを発表して童謡は人気を集め、曲がついて大人も唄う流行歌となる。
童謡は、わらべ歌や唱歌とは異なる。
わらべ歌は「あんたがたどこさ」など古くから伝わる子どもの民謡で、作詞者も作曲者も不詳だ。
対して唱歌は、明治以降の政府が学校教育のために作った。
「春が来た」「われは海の子」など今も愛唱される名曲もある一方、「日本海海戦」「出征兵士」など、戦後は消えた歌もある。日清・日露・世界大戦と戦争を続けた日本の軍国主義と国家主義を教える歌でもあった。
この唱歌への批判から、童謡は生まれた。
国策から離れ、子どもの感性を自由に表現する文学として、白秋、八十、野口雨情など、主に早稲田大出身の詩人らが書き、童謡の雑誌は「金の船」「童話」と増えていく。誌面には懸賞欄があり、読者の童謡も載っていた。
リベラルな童謡に共感し、愛読したのが、山口県生まれの本屋の娘、女学生の金子みすゞだ。
二三(大正十二)年に二十歳になると童謡を書いて雑誌の懸賞に応募し、二十六歳で死ぬまでの七年間に九十作が載った。落選もあるため、約百通は応募したのであり、実に旺盛な創作と投稿だ。
デビュー作の一つは、人に食べられる魚の小さな命を悼む「お魚」。
代表作には「みんなちがって、みんないい」で終わる「私と小鳥と鈴と」、「こだまでしょうか」などがある。
しかしレコードとラジオの発達によって童謡は「音楽」となり、次第に文芸としての性格を薄め、童謡雑誌は廃刊となる。
二五年には治安維持法が制定され、昭和に入るとその改悪により死刑が適用され、言論封殺と戦争の時代へいと向かう。
小さな命の愛しさ、子どもの寂しさや憧れを詠う童謡の精神は軟弱とされ、童謡運動は終焉。
発表媒体を失ったみすゞは三〇(昭和五)年、私生活の悩みや病気、創作の困難などから自殺した。
やがて日中戦争が始まると、子どもは、お国に命を捧げる勇ましい軍国童謡を唄わされた。
勝利に向かって一丸となる挙国一致体制では、「みんなちがって、みんないい」という個性の尊重も否定され、国と異なる意見を持つ者は「非国民」と糾弾された。
そして敗戦。平和な時代となり童謡は復活したが、もはや文学ではなく幼児の歌という位置づけだった。
しかし五七(昭和三十二)年の『日本童謡集』(岩波文庫)にみすゞの詩が収録され、七〇年には、みすゞ初の詩集『繭と墓』(季節の窓詩舎)が出る。編者は、大正時代に童謡を雑誌に投稿したみすゞの仲間であり、戦時中も、彼女の詩を忘れていなかったのだ。
三木露風作詞「赤蜻蛉(とんぽ)」など今も唄われる童謡の大半は、大正デモクラシーの童謡運動で書かれた。民主主義が一時の輝きを見せた時代の大人が、子どもの芸術と教育に寄せた高い理想と熱意に一心打たれる。
そして今、政府が教育勅語を学校教材として使用することを容認し、中学体育には銃剣道が追加され、平成の治安維持法とも呼ばれる「共謀罪」の審議が進む。戦前回帰の動きが加速している。子どもが平和な童謡を唄えなくなる日を、私たちは二度と招いてはならない。
※まつもと・ゆうこ
作家、翻訳家。新刊『みすゞと雅輔(がすけ)』(新潮社)は、新発見の資料をもとにした金子みすゞの伝記小説。
『東京新聞』(2017年5月21日 夕刊)
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