◆ <情報>『朝日新聞』は「731部隊」に無関心?
皆さま 高嶋伸欣です
先に「京都新聞」が14日夜の電子版で、京都大学が「731部隊」の旧将校に学位を授与した件の「検証を求める会」が、同部隊員3607人に実名の名簿を、日本の公文書館に公開(開示)させたと報道したことを、紹介しました。
その後15日に共同通信が配信し、『産経』『東京』や『毎日』『読売』も16日に報道しましたが、『朝日』(東京本社版)は17日の夕刊までのところ、全く言及していません。
シリアでの化学兵器使用問題とも通じる細菌兵器の話題に「京都新聞」は触れていますが、追随の他紙の記事にはそれが見当たりません。
その一方で「京都新聞」は下記のようなコラムを掲載しています。
改めて吉村昭氏の『蚤(のみ)と爆弾』を読みたくなりました。
シンガポールに開設された細菌戦部隊「岡9420部隊」についても、公文書館は名簿等を持っているのではないかという気がしてきました。
まだまだ調べることはいろいろありそうです。
『朝日』に動きがないのが不思議です。
*先のメールで紹介した「岡9420部隊」ついてのLIM氏のPPの内容とかなりの部分が重複している華語新聞『聯合早報』(LIM氏によるものです)の記事とその日本語訳をご参考までに添付でお届けいたします。
お役に立てば幸いです。
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● コラム凡語:731部隊
4/17(火) 16:00配信 京都新聞
吉村昭さんの小説「蚤(のみ)と爆弾」の主人公は旧日本軍軍医「曾根二郎」である。曾根は泥水を清水にするろ過器を開発し名声を得る
▼地位を築いた曾根は新兵器の開発を始める。蚤にペスト菌を感染させ爆弾に詰め込む。生きた中国人やロシア人の捕虜を実験台にした。吉村さんは、処刑する捕虜の身体を「惜しい」と曾根に語らせている
▼同作の題材はあの731部隊、曾根は石井四郎部隊長である。吉村さんは綿密な取材と史料の渉猟で知られる。同作も事実上ノンフィクションだ
▼吉村さんは石井が細菌兵器の開発を主導した背景を、京大(京都帝大)出身だったためと書く。当時、日本の医学の主流は東大で京大は傍流とされた。事実、731部隊の中心は京大出身者が占めた
▼京大は731部隊の医師ら20人に博士号を授与したとされる。いま、京都の研究者らが大学に関係文書の開示を求めているものの、情報公開は進まない。京大は何を守ろうとしているのか
▼生体実験は戦後、不問に付されたが、関係者は身を隠して生きた。曾根ならぬ石井の葬儀には多くの部隊関係者が参列したが、「焼香を終えると、たがいに目をそらしあって」斎場を出たという。京大も自らの罪におびえ、歴史に向き合うことなく目をそらし続けているのだろうか。残念だ。
[京都新聞 2018年04月17日掲載]
『聯合早報』
● 飛んできたネズミ
高温多湿の東南アジア。その気候はネズミの温床となる。第二次大戦中、日本軍は数千匹のネズミをシンガポールに運んだ。
同地のジェネラル・ホスピタルおよびジョホール州のタンポイ精神病院でネズミとノミを養殖し、ペストに感染したノミが入った「爆弾」を作って敵陣に投下するためであった。
こうした細菌戦はどのように実施されたのだろうか。果たしてうまくいったのだろうか。
1944年10月某目、皇軍の97式重爆撃機Ⅱ型3機が5000匹のネズミを載せて東京西部にある立川飛行揚から秘かに飛び立ち、当時「昭南島」と呼ばれた日本占領下のシンガポールに降り立った。
この5000匹のネズミの運命はどうなったのだろうか。一体「誰」がネズミをシンガポールに運ぶよう命じたのか。
悪名高き殺人鬼731部隊(帝国陸軍関東軍防疫給水部本部の通称、部隊長は石井四郎軍医少将)は、1940年6月4日、軍用機を中国吉林省農安に派遣し、低空から農薬を散布するかのようにペストにかかったネズミから取り出した5グラムのペスト菌を秘かに投下し、607人が死亡した。
同年10月4日、浙江省衛県に8000グラムのペスト菌を投下し、9060人が死亡、「満足のいく結果」を得た。
1943年初め、皇軍は太平洋戦線でしばしば米軍の強力な反撃に遭った。日に日に敗色が濃くなり、慌てふためいた陸軍参謀本部は「HO号」作戦を発動して各地の731部隊に大量のネズミとノミを飼育するよう命じ、ネズミから取り出した細菌で大量の細菌弾を生産、米軍に対抗する計画を立てた。
では、731部隊とシンガポールはどのような関係にあったのだろうか。
● 南方の731部隊
寒冷地帯にあるハルビンの731部隊は、多年にわたる極めて残忍な実験を行った結果、つぎのような結論に至った。
「ノミの繁殖に最も適した気候条件は摂氏22度、湿度76%。夏季におけるノミの生存期間は20日から30日だが、秋の生存期間は15日から20日に縮まる」。こうした気候条件を有しているのは東南アジアである。
このため、日本軍は東南アジアを占領すると、731部隊はすぐにシンガポールとマレーシアで細菌兵器を大量に生産しようとしたのだ。
日本軍がブキティマを占領するとすぐに、その時点ではシンガポールが陥落する以前であったにも関わらず、731部隊はシンガポールに人員を派遣し「下見」をした。
その結果、1942年5月5日、ジェネラル・ホスピタル西側の「エドワード七世病院」(現衛生省医学院ビル)に731部隊の東南アジア本部「南方軍防疫給水部」(防諜番号「岡9420部隊」)が設立された。
部隊長は北川正隆軍医大佐、総務部長はあろうことか、石井四郎の右腕の一人である内藤良一軍医少佐が担った。内藤かつて米国のペンシルバニア大学に留学しており、凍結と乾燥血液の技術にたけており、また英語にも精通していた。
山下奉文ですら聞くことのできなかったこの秘密組織の概要は概ね以下の通りである。
この地が秘密活動をするのに最も都合が良かったのは、4メートルの高さの壁に囲まれた隔離病棟があったからであり、日本軍はそこでネズミとノミを飼育し、ペスト菌に感染したノミを生産したのだった。
● 細菌兵器の生産方法
我が国の元社会問題大臣故オスマン・ウォク(Othman Wok)は1982年に収録されたオーラル・ヒストリーの中で、貴重な手がかりを残している。
彼は少年時代の出来事を思い起こし、
「彼ら(日本軍)はアウトラム・パークにあった旧マラヤ大学の医学部の一部を占有した。私はペスト防疫研究室の助手となった。私達が毎日しなければならなかったことは、シンガポール各地に生息するネズミを捕まえることで、大型トラックに乗って数千のネズミ取り用の籠を持って出発し、捕まえたネズミに1匹1匹麻酔をかけ、ネズミの体にいるノミを探した。集めたノミには後にペストで死んだネズミの血と内臓を食べさせ、ノミにペスト菌を感染させた。3、4ヶ月毎に数百万匹のペスト菌に感染したノミを瓶に詰めて、貨物列車でタイへ運んだ」(筆者訳)。
残存している皇軍史料によると、9420部隊には合計431人(うち32人が死亡)が在籍し、
うち将校が5人(うち3人死亡〉、軍医将校が34人(うち2人死亡)、伍長以上の軍人が59人(うち9人死亡)、文官59人(うち11人死亡)、職員等151人(うち7人死亡)という構成であった。
同史料は「死亡」の定義を示していないが、ジョホール・バルの元隊員が自費出版した回想録からわかることは、消毒の不徹底が原因で多くのペスト弾製作室に出入りした人がペストに感染して死亡したということだ。ペストの殺傷力をよく理解している軍医は菌から自分を守ることの重要性を理解していたようだが、一般の職員の生死は「自己責任」に任された。
● シンガポールにネズミを運んだ理由
では、どうして日本軍は数千匹のネズミをシンガポールに運んで来なければいけなかったのか。もともとそれは秘密計画「H0号」の一部であった。
シンガポール9420部隊は、毎月1万匹のネズミから10キロのペスト菌に感染したノミを生産することができると答えたという。
皇軍はペスト弾を製造するために、日本に残っていた軍人と高校生に命じて、毎日朝早くからネズミを捕まえさせた。シンガポールからは3人が派置され、何度も東京へ行ってネズミを「運んで」来た。
もともとの目標は5万匹であったが、実際に運ばれたのは3万匹であった。
シンガポールに運ぼれて来たネズミは、軍用車でジェネラル・ホスピタルの本部、ジョホール・バルのタンポイ病院、クアラ・ピラの中学校にそれぞれ運ばれて飼育された。
幸運にも、天は悪事を見過ごさなかった!皇軍は山が倒れるが如く敗れ去った。
1945年5月、9420部隊に「極秘退去命令」が出され、6月15日にまず80余名の隊員がジョホール・バルからシンガポールへ退去。24日には物資と公文書を満載した8両の軍用車両が昭南島からタイへ向かい、8月にはラオスのターケークに到着した。
数日後、天皇の無条件降伏の知らせを聞き、日本軍は1ページも残さず全ての公文書を焼却し、この時から「南方軍防疫給水部」という文字がシンガポールの歴史から消え去ったのであった。
● 戦後に731部隊が追及されなかった理由
しかし、多くの人にとってはおそらく「第二次大戦終結後、こうした殺人鬼部隊は連合軍に追及されなかったのか。『東京裁判』はなかったのか」という疑問が湧くであろう。
ところが、彼らは全員(連合軍ではなく)米軍に赦免され、罪は問われず自由の身となったのだ。
さらに後に彼らは戦後の日本の医学界と微生物医療体制の発展の功労者として讃えられた。これは一体どうゆうことなのだろうか。
日本降伏後の1945年9月、米軍が731部隊の犯罪の証拠を調査した際、アメリカ陸軍化学戦部隊のムレー・サンダース(Murray Sanders)中佐が尋問した731部隊の幹部はなんとシンガポール9420部隊の指導部にいた内藤良一その人であった!
内藤は巧みに「膨大な」人体実験の記録と8000個の病理標本を「交換条件」に石井以下の幹部全員の赦免を要求した。
あろうことか、これらの殺人鬼は1947年にアメリカ政府の特赦令を受け、ことごとく白衣の天使となった。
例えば、内藤は731部隊で乾燥血漿の技術に通じていたことから、1950年には日本プラッドバンクを設立、同社の取締役の過半数は彼の元部下であった。
彼はまた朝鮮戦争で米軍の血漿需要が急増したことに乗じて財を成した。1977年、天皇は内藤に勲三等を与え、他の元幹部は教授や院長となった。
シンガポールでの人体実験の有無我々にとって肝心なのはシンガポールの731部隊が人体実験をしたかどうかである。
筆者の結論は、現在のところ関係資料は探しようがないということだ。ただ、以下の2つの事実は何とか確認できた。
一、シンガポール9420部隊管轄下のニューギニア・ラバウル支部にはオーストラリア人捕虜が「人体実験」されたという供述記録がある。
二、シンガポールの医薬学院とタンポイ精神病院内にそれぞれ隔離病棟と焼却炉があった。人体実験はハルビンから広州までの中国各支部で実施され、また、ニューギニアでも行なわれていた。ましてや、石井の右腕である内藤が自ら押さえていた南方本部のシンガポールにおいて、人体実験がなされていなかった可能性は果たしてどのくらいあっただろうか。
日本の占領下にあった昭南時代がシンガポール史上最も悲しい1頁であるとしたら、岡9420部隊の歴史は昭南時代における最も残忍な1頁といえるであろう。
(林少彬:シンガポールの第二次大戦歴史研究者)
皆さま 高嶋伸欣です
先に「京都新聞」が14日夜の電子版で、京都大学が「731部隊」の旧将校に学位を授与した件の「検証を求める会」が、同部隊員3607人に実名の名簿を、日本の公文書館に公開(開示)させたと報道したことを、紹介しました。
その後15日に共同通信が配信し、『産経』『東京』や『毎日』『読売』も16日に報道しましたが、『朝日』(東京本社版)は17日の夕刊までのところ、全く言及していません。
シリアでの化学兵器使用問題とも通じる細菌兵器の話題に「京都新聞」は触れていますが、追随の他紙の記事にはそれが見当たりません。
その一方で「京都新聞」は下記のようなコラムを掲載しています。
改めて吉村昭氏の『蚤(のみ)と爆弾』を読みたくなりました。
シンガポールに開設された細菌戦部隊「岡9420部隊」についても、公文書館は名簿等を持っているのではないかという気がしてきました。
まだまだ調べることはいろいろありそうです。
『朝日』に動きがないのが不思議です。
*先のメールで紹介した「岡9420部隊」ついてのLIM氏のPPの内容とかなりの部分が重複している華語新聞『聯合早報』(LIM氏によるものです)の記事とその日本語訳をご参考までに添付でお届けいたします。
お役に立てば幸いです。
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● コラム凡語:731部隊
4/17(火) 16:00配信 京都新聞
吉村昭さんの小説「蚤(のみ)と爆弾」の主人公は旧日本軍軍医「曾根二郎」である。曾根は泥水を清水にするろ過器を開発し名声を得る
▼地位を築いた曾根は新兵器の開発を始める。蚤にペスト菌を感染させ爆弾に詰め込む。生きた中国人やロシア人の捕虜を実験台にした。吉村さんは、処刑する捕虜の身体を「惜しい」と曾根に語らせている
▼同作の題材はあの731部隊、曾根は石井四郎部隊長である。吉村さんは綿密な取材と史料の渉猟で知られる。同作も事実上ノンフィクションだ
▼吉村さんは石井が細菌兵器の開発を主導した背景を、京大(京都帝大)出身だったためと書く。当時、日本の医学の主流は東大で京大は傍流とされた。事実、731部隊の中心は京大出身者が占めた
▼京大は731部隊の医師ら20人に博士号を授与したとされる。いま、京都の研究者らが大学に関係文書の開示を求めているものの、情報公開は進まない。京大は何を守ろうとしているのか
▼生体実験は戦後、不問に付されたが、関係者は身を隠して生きた。曾根ならぬ石井の葬儀には多くの部隊関係者が参列したが、「焼香を終えると、たがいに目をそらしあって」斎場を出たという。京大も自らの罪におびえ、歴史に向き合うことなく目をそらし続けているのだろうか。残念だ。
[京都新聞 2018年04月17日掲載]
『聯合早報』
● 飛んできたネズミ
高温多湿の東南アジア。その気候はネズミの温床となる。第二次大戦中、日本軍は数千匹のネズミをシンガポールに運んだ。
同地のジェネラル・ホスピタルおよびジョホール州のタンポイ精神病院でネズミとノミを養殖し、ペストに感染したノミが入った「爆弾」を作って敵陣に投下するためであった。
こうした細菌戦はどのように実施されたのだろうか。果たしてうまくいったのだろうか。
1944年10月某目、皇軍の97式重爆撃機Ⅱ型3機が5000匹のネズミを載せて東京西部にある立川飛行揚から秘かに飛び立ち、当時「昭南島」と呼ばれた日本占領下のシンガポールに降り立った。
この5000匹のネズミの運命はどうなったのだろうか。一体「誰」がネズミをシンガポールに運ぶよう命じたのか。
悪名高き殺人鬼731部隊(帝国陸軍関東軍防疫給水部本部の通称、部隊長は石井四郎軍医少将)は、1940年6月4日、軍用機を中国吉林省農安に派遣し、低空から農薬を散布するかのようにペストにかかったネズミから取り出した5グラムのペスト菌を秘かに投下し、607人が死亡した。
同年10月4日、浙江省衛県に8000グラムのペスト菌を投下し、9060人が死亡、「満足のいく結果」を得た。
1943年初め、皇軍は太平洋戦線でしばしば米軍の強力な反撃に遭った。日に日に敗色が濃くなり、慌てふためいた陸軍参謀本部は「HO号」作戦を発動して各地の731部隊に大量のネズミとノミを飼育するよう命じ、ネズミから取り出した細菌で大量の細菌弾を生産、米軍に対抗する計画を立てた。
では、731部隊とシンガポールはどのような関係にあったのだろうか。
● 南方の731部隊
寒冷地帯にあるハルビンの731部隊は、多年にわたる極めて残忍な実験を行った結果、つぎのような結論に至った。
「ノミの繁殖に最も適した気候条件は摂氏22度、湿度76%。夏季におけるノミの生存期間は20日から30日だが、秋の生存期間は15日から20日に縮まる」。こうした気候条件を有しているのは東南アジアである。
このため、日本軍は東南アジアを占領すると、731部隊はすぐにシンガポールとマレーシアで細菌兵器を大量に生産しようとしたのだ。
日本軍がブキティマを占領するとすぐに、その時点ではシンガポールが陥落する以前であったにも関わらず、731部隊はシンガポールに人員を派遣し「下見」をした。
その結果、1942年5月5日、ジェネラル・ホスピタル西側の「エドワード七世病院」(現衛生省医学院ビル)に731部隊の東南アジア本部「南方軍防疫給水部」(防諜番号「岡9420部隊」)が設立された。
部隊長は北川正隆軍医大佐、総務部長はあろうことか、石井四郎の右腕の一人である内藤良一軍医少佐が担った。内藤かつて米国のペンシルバニア大学に留学しており、凍結と乾燥血液の技術にたけており、また英語にも精通していた。
山下奉文ですら聞くことのできなかったこの秘密組織の概要は概ね以下の通りである。
一、シンガポールの9420部隊と731部隊の関係であるが、シンガポールを本部とする9420部隊は中国以外では最大規模の731部隊で、イギリス植民地政府がジョホー州に建設した最大規模の医療施設であるタンポイ精神病院を擁していた。その敷地は620エーカー、南北は6キロに及んだ。
a.最高統帥部門は東京新宿の陸軍防疫給水部にあり、
b.中国の本部は黒竜江省平房の731部隊にあろた。
c.731部隊には4っの支部が、北京、南京、広州、シンガポールにあった。
二、シンガポール支部の下にはさらに6つの支部が、マラヤ、インドネシア、フィリピン、パプア・ニュ=ギニア、タイ、ミャンマーにあった。(現時点では、支部が設立された場所とそれぞれの任務は不明)。
三、マラヤにはさらに2つ支部が、上述のタンポイ病院とクアラ・ピアの中学校校舎にあった(校舎はネズミの飼育に使用された)。
四、インドネシアにも2つの支部が、ジャカルタとバンドンに置かれた。
五、フィリピン支部はマニラに置かれ、帆刈喜四郎軍医少佐が指揮をとった。
六、パプア・ニューギニアには、ニューブリテン島東部のラバウルとブーゲンビル島南部のブインに支部が置かれ、後者は森茂樹軍医中佐が指揮した。
この地が秘密活動をするのに最も都合が良かったのは、4メートルの高さの壁に囲まれた隔離病棟があったからであり、日本軍はそこでネズミとノミを飼育し、ペスト菌に感染したノミを生産したのだった。
● 細菌兵器の生産方法
我が国の元社会問題大臣故オスマン・ウォク(Othman Wok)は1982年に収録されたオーラル・ヒストリーの中で、貴重な手がかりを残している。
彼は少年時代の出来事を思い起こし、
「彼ら(日本軍)はアウトラム・パークにあった旧マラヤ大学の医学部の一部を占有した。私はペスト防疫研究室の助手となった。私達が毎日しなければならなかったことは、シンガポール各地に生息するネズミを捕まえることで、大型トラックに乗って数千のネズミ取り用の籠を持って出発し、捕まえたネズミに1匹1匹麻酔をかけ、ネズミの体にいるノミを探した。集めたノミには後にペストで死んだネズミの血と内臓を食べさせ、ノミにペスト菌を感染させた。3、4ヶ月毎に数百万匹のペスト菌に感染したノミを瓶に詰めて、貨物列車でタイへ運んだ」(筆者訳)。
残存している皇軍史料によると、9420部隊には合計431人(うち32人が死亡)が在籍し、
うち将校が5人(うち3人死亡〉、軍医将校が34人(うち2人死亡)、伍長以上の軍人が59人(うち9人死亡)、文官59人(うち11人死亡)、職員等151人(うち7人死亡)という構成であった。
同史料は「死亡」の定義を示していないが、ジョホール・バルの元隊員が自費出版した回想録からわかることは、消毒の不徹底が原因で多くのペスト弾製作室に出入りした人がペストに感染して死亡したということだ。ペストの殺傷力をよく理解している軍医は菌から自分を守ることの重要性を理解していたようだが、一般の職員の生死は「自己責任」に任された。
● シンガポールにネズミを運んだ理由
では、どうして日本軍は数千匹のネズミをシンガポールに運んで来なければいけなかったのか。もともとそれは秘密計画「H0号」の一部であった。
シンガポール9420部隊は、毎月1万匹のネズミから10キロのペスト菌に感染したノミを生産することができると答えたという。
皇軍はペスト弾を製造するために、日本に残っていた軍人と高校生に命じて、毎日朝早くからネズミを捕まえさせた。シンガポールからは3人が派置され、何度も東京へ行ってネズミを「運んで」来た。
もともとの目標は5万匹であったが、実際に運ばれたのは3万匹であった。
シンガポールに運ぼれて来たネズミは、軍用車でジェネラル・ホスピタルの本部、ジョホール・バルのタンポイ病院、クアラ・ピラの中学校にそれぞれ運ばれて飼育された。
幸運にも、天は悪事を見過ごさなかった!皇軍は山が倒れるが如く敗れ去った。
1945年5月、9420部隊に「極秘退去命令」が出され、6月15日にまず80余名の隊員がジョホール・バルからシンガポールへ退去。24日には物資と公文書を満載した8両の軍用車両が昭南島からタイへ向かい、8月にはラオスのターケークに到着した。
数日後、天皇の無条件降伏の知らせを聞き、日本軍は1ページも残さず全ての公文書を焼却し、この時から「南方軍防疫給水部」という文字がシンガポールの歴史から消え去ったのであった。
● 戦後に731部隊が追及されなかった理由
しかし、多くの人にとってはおそらく「第二次大戦終結後、こうした殺人鬼部隊は連合軍に追及されなかったのか。『東京裁判』はなかったのか」という疑問が湧くであろう。
ところが、彼らは全員(連合軍ではなく)米軍に赦免され、罪は問われず自由の身となったのだ。
さらに後に彼らは戦後の日本の医学界と微生物医療体制の発展の功労者として讃えられた。これは一体どうゆうことなのだろうか。
日本降伏後の1945年9月、米軍が731部隊の犯罪の証拠を調査した際、アメリカ陸軍化学戦部隊のムレー・サンダース(Murray Sanders)中佐が尋問した731部隊の幹部はなんとシンガポール9420部隊の指導部にいた内藤良一その人であった!
内藤は巧みに「膨大な」人体実験の記録と8000個の病理標本を「交換条件」に石井以下の幹部全員の赦免を要求した。
あろうことか、これらの殺人鬼は1947年にアメリカ政府の特赦令を受け、ことごとく白衣の天使となった。
例えば、内藤は731部隊で乾燥血漿の技術に通じていたことから、1950年には日本プラッドバンクを設立、同社の取締役の過半数は彼の元部下であった。
彼はまた朝鮮戦争で米軍の血漿需要が急増したことに乗じて財を成した。1977年、天皇は内藤に勲三等を与え、他の元幹部は教授や院長となった。
シンガポールでの人体実験の有無我々にとって肝心なのはシンガポールの731部隊が人体実験をしたかどうかである。
筆者の結論は、現在のところ関係資料は探しようがないということだ。ただ、以下の2つの事実は何とか確認できた。
一、シンガポール9420部隊管轄下のニューギニア・ラバウル支部にはオーストラリア人捕虜が「人体実験」されたという供述記録がある。
二、シンガポールの医薬学院とタンポイ精神病院内にそれぞれ隔離病棟と焼却炉があった。人体実験はハルビンから広州までの中国各支部で実施され、また、ニューギニアでも行なわれていた。ましてや、石井の右腕である内藤が自ら押さえていた南方本部のシンガポールにおいて、人体実験がなされていなかった可能性は果たしてどのくらいあっただろうか。
日本の占領下にあった昭南時代がシンガポール史上最も悲しい1頁であるとしたら、岡9420部隊の歴史は昭南時代における最も残忍な1頁といえるであろう。
(林少彬:シンガポールの第二次大戦歴史研究者)
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