《子どもと教科書全国ネット21ニュースから》
★ 弁護士が道徳教科書を読んで感じること
~大阪教育集会(2023年6月4日開催)より
教科書シンポジウム世話人 原野早知子(はらのさちこ)
集会では、社会科(平井美津子氏)、道徳(弁護士グループ)、教科書会社から(永石幸司氏)の各報告を行った。弁護士による表題の報告を紹介する。
道徳教科書を読む取組は、「規則の尊重」や「自由と責任」の分野を中心に、弁護士有志5名で行った。当日の発表は楠晋一弁護士と原野が担当した。
実際に教科書を読むと、どの教科書が良い悪いというより、「道徳」を教科として成績を付けることや、検定・学習指導要領そのものへの疑問が生じてくる。制度自体への問題提起を続けねばならないと思う。
1 道徳に「正解と不正解」があることに違和感
弁護士は「適法か違法か」、つまり、「処罰されるかどうか」や「損害賠償しなければならないか」というレベルでものを見ている。
一方、道徳は、こうしたペナルティーを受けない状態で、「よりよく」生きるためにどうするかというレベルの問題である。
道徳のレベルで「何が正しいか」は、様々な選択肢があり、一義的に決まるものではない。
しかし、道徳が教科である以上、「正解・不正解」があり、成績評価が行われる。ここに強い違和感がある。
教科書には「正しいことは声に出して言う」ことを推奨する教材が目立つ。
裏山へ遊びに行こうとする友達に「僕は行かない」と大声で言う(低学年・ぽんたとかんた)等である。しかし、この場合、友達の家族に伝えるといった選択肢も存在しており、「直接声に出して指摘する」ことだけが正解ではないだろう。
目の前でいじめが起きている場面では、問題はよりシビアになる。声を出していじめっ子に立ち向かうことができれば立派だが、当然報復される怖れがある。
「声を出すことが唯一の正解」と教えることは、子どもを追い詰めかねない。(少数ながら、いじめられている子に「寄り添う」選択肢を呈示する教材もある。(光村6年))
2 法と道徳の区別が出来ている教科書が少ない(というか、ほとんど無い)ことが気になる
「規則の尊重」の教材には様々な「ルール」が登場するが、「法」と「道徳」両者のレベルが混在している。
この区別は法を学ぶ際の基礎であり、本来その違いをこそ教えるべきものである。(東書6年「法律って何だろう」は、珍しく、平易な言葉で両者の違いを説明している。)
また、弁護士としては、「規則」について勉強するなら、「なぜ、そのきまりがあるのか」を子どもに考えてほしいと思う。
ところが、単純に「きまりだから守る」という教材が目立ち、「きまりを守ると気分がいいから」というものすらある。これでは、「きまり自体に問題があるのでは?」という問題意識や、「きまりは手順を踏んで改めることが出来る」という認識を持っことができない。
「自分たちでルールを作る」視点を示す教材もあるが(Gakken6年・届け!ぼくらの願い)、残念ながら非常に少ない。
3 道徳教科書の内容項目(いわゆる徳目)が旧憲法・教育勅語体制下のままであることに驚く
道徳の学習指導要領で学習の基本に挙げられる内容項目には、日本国憲法の三大原則が存在しない。特に、民主主義や平和主義が「徳目」に含まれない結果、これらに関連する教材がごく少なく、それも、「規則の尊重」や「命の大切さ」に絡めて、教科書会社の工夫の範ちゅうで扱うに止まっている。
むしろ廃止された教育勅語と共通部分が多い。例えば、「規則の尊重」は教育勅語の「常二國憲ヲ重シ國法二遵ヒ」を受けている。「きまりだから従う」という内容をも引き継ぎ、「きまり」の根拠に踏み込まない教材群につながっているように見える。
人権を侵す「きまり」を国民が自ら見直していくという、日本国憲法の原則(基本的人権保障や民主主義)に沿った「ルール」のあり方にはそぐわない。
今回、全社の教科書が、時代を反映して、インターネットの使い方を取り上げた。学習内容が時代に応じ変化するならば、基本の部分を現在の日本国憲法に見合ったものとすべきではないだろうか。
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 150号』(2023.6)
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