日々雑記

政治、経済、社会、福祉、芸術など世の中の動きを追い、感想を述べたい

内田樹さんの朝日新聞への寄稿をかります

2013-05-12 18:27:18 | 日記

5月8日付の朝日新聞オピニオン欄に神戸女学院大学名誉教授・内田樹さんが投稿しています。とても面白い内容なので紹介します

むずかしそうに見えますがさっと読み流しても書いてあることが理解できるやさしい文章です。ぜひ最後まで読みとおしてください。

日本の国がグローバル企業に乗っ取られようとしていることがよく分かります。これらグローバル企業は生まれは日本企業ですが、いまでは日本のことなど何にも考えていません。そうしてまたグローバル企業が、世界の、(主にアメリカの)超富裕層に支配されている様子がよく分かります。また、日本の政府もマスコミも何故かグローバル企業を応援しているのです。

 

(寄稿 政治を話そう)壊れゆく日本という国  

 

 日本はこれからどうなるのか。いろいろなところで質問を受ける。「よいニュースと悪いニュースがある。どちらから聞きたい?」というのがこういう問いに答えるときのひとつの定型である。それではまず悪いニュースから。

 それは、「国民国家としての日本」が解体過程に入ったということである。

 国民国家というのは国境線を持ち、常備軍と官僚群を備え、言語や宗教や生活習慣や伝統文化を共有する国民たちがそこに帰属意識を持っている共同体のことである。平たく言えば、国民を暴力や収奪から保護し、誰も飢えることがないように気配りすることを政府がその第一の存在理由とする政体である。言い換えると、自分のところ以外の国が侵略されたり、植民地化されたり、飢餓で苦しんだりしていることに対しては特段の関心を持たない「身びいき」な(「自分さえよければ、それでいい」という)政治単位だということでもある。

 この国民国家という統治システムはウェストファリア条約(1648年)のときに原型が整い、以後400年ほど国際政治の基本単位であった。それが今ゆっくりと、しかし確実に解体局面に入っている。簡単に言うと、政府が「身びいき」であることをやめて、「国民以外のもの」の利害を国民よりも優先するようになってきたということである。

 ここで「国民以外のもの」というのは端的にはグローバル企業のことである。起業したのは日本国内で、創業者は日本人であるが、すでにそれはずいぶん昔の話で、株主も経営者も従業員も今では多国籍であり、生産拠点も国内には限定されない「無国籍企業」のことである。この企業形態でないと国際競争では勝ち残れないということが(とりあえずメディアにおいては)「常識」として語られている。

 トヨタ自動車は先般、国内生産300万台というこれまで死守してきたラインを放棄せざるを得ないと報じられた。国内の雇用を確保し、地元経済を潤し、国庫に法人税を納めるということを優先していると、コスト面で国際競争に勝てないからであろう。外国人株主からすれば、特定の国民国家の成員を雇用上優遇し、特定の地域に選択的に「トリクルダウン」し、特定の国(それもずいぶん法人税率の高い国)の国庫にせっせと税金を納める経営者のふるまいは「異常」なものに見える。株式会社の経営努力というのは、もっとも能力が高く賃金の低い労働者を雇い入れ、インフラが整備され公害規制が緩く法人税率の低い国を探し出して、そこで操業することだと投資家たちは考えている。このロジックはまことに正しい。

 その結果、わが国の大企業は軒並み「グローバル企業化」したか、しつつある。いずれすべての企業がグローバル化するだろう。繰り返し言うが、株式会社のロジックとしてその選択は合理的である。だが、企業のグローバル化を国民国家の政府が国民を犠牲にしてまで支援するというのは筋目が違うだろう。

    ■     ■

 大飯原発の再稼働を求めるとき、グローバル企業とメディアは次のようなロジックで再稼働の必要性を論じた。原発を止めて火力に頼ったせいで、電力価格が上がり、製造コストがかさみ、国際競争で勝てなくなった。日本企業に「勝って」欲しいなら原発再稼働を認めよ。そうしないなら、われわれは生産拠点を海外に移すしかない。そうなったら国内の雇用は失われ、地域経済は崩壊し、税収もなくなる。それでもよいのか、と。

 この「恫喝(どうかつ)」に屈して民主党政府は原発再稼働を認めた。だが、少し想像力を発揮すれば、この言い分がずいぶん奇妙なものであることがわかる。電力価格が上がったからという理由で日本を去ると公言するような企業は、仮に再び原発事故が起きて、彼らが操業しているエリアが放射性物質で汚染された場合にはどうふるまうだろうか? 自分たちが強く要請して再稼働させた原発が事故を起こしたのだから、除染のコストはわれわれが一部負担してもいいと言うだろうか? 雇用確保と地域振興と国土再建のためにあえて日本に踏みとどまると言うだろうか? 絶対に言わないと私は思う。こんな危険な土地で操業できるわけがない。汚染地の製品が売れるはずがない。そう言ってさっさと日本列島から出て行くはずである。

 ことあるごとに「日本から出て行く」と脅しをかけて、そのつど政府から便益を引き出す企業を「日本の企業」と呼ぶことに私はつよい抵抗を感じる。彼らにとって国民国家は「食い尽くすまで」は使いでのある資源である。汚染された環境を税金を使って浄化するのは「環境保護コストの外部化」である(東電はこの恩沢に浴した)。原発を再稼働させて電力価格を引き下げさせるのは「製造コストの外部化」である。工場へのアクセスを確保するために新幹線を引かせたり、高速道路を通させたりするのは「流通コストの外部化」である。

 大学に向かって「英語が話せて、タフな交渉ができて、一月300時間働ける体力があって、辞令一本で翌日から海外勤務できるような使い勝手のいい若年労働者を大量に送り出せ」と言って「グローバル人材育成戦略」なるものを要求するのは「人材育成コストの外部化」である。要するに、本来企業が経営努力によって引き受けるべきコストを国民国家に押し付けて、利益だけを確保しようとするのがグローバル企業の基本的な戦略なのである。

    ■     ■

 繰り返し言うが、私はそれが「悪い」と言っているのではない。私企業が利益の最大化をはかるのは彼らにとって合理的で正当なふるまいである。だが、コストの外部化を国民国家に押しつけるときに、「日本の企業」だからという理由で合理化するのはやめて欲しいと思う。

 だが、グローバル企業は、実体は無国籍化しているにもかかわらず、「日本の企業」という名乗りを手放さない。なぜか。それは「われわれが収益を最大化することが、すなわち日本の国益の増大なのだ」というロジックがコスト外部化を支える唯一の論拠だからである。

 だから、グローバル企業とその支持者たちは「どうすれば日本は勝てるのか?」という問いを執拗(しつよう)に立てる。あたかもグローバル企業の収益増や株価の高騰がそのまま日本人の価値と連動していることは論ずるまでもなく自明のことであるかのように。そして、この問いはただちに「われわれが収益を確保するために、あなたがた国民はどこまで『外部化されたコスト』を負担する気があるのか?」という実利的な問いに矮小(わいしょう)化される。ケネディの有名なスピーチの枠組みを借りて言えば「グローバル企業が君に何をしてくれるかではなく、グローバル企業のために君が何をできるかを問いたまえ」ということである。日本のメディアがこの詭弁(きべん)を無批判に垂れ流していることに私はいつも驚愕(きょうがく)する。

    ■     ■

 もう一つ指摘しておかなければならないのは、この「企業利益の増大=国益の増大」という等式はその本質的な虚偽性を糊塗(こと)するために、過剰な「国民的一体感」を必要とするということである。グローバル化と排外主義的なナショナリズムの亢進(こうしん)は矛盾しているように見えるが、実際には、これは「同じコインの裏表」である。

 国際競争力のあるグローバル企業は「日本経済の旗艦」である。だから一億心を合わせて企業活動を支援せねばならない。そういう話になっている。そのために国民は低賃金を受け容(い)れ、地域経済の崩壊を受け容れ、英語の社内公用語化を受け容れ、サービス残業を受け容れ、消費増税を受け容れ、TPPによる農林水産業の壊滅を受け容れ、原発再稼働を受け容れるべきだ、と。この本質的に反国民的な要求を国民に「のませる」ためには「そうしなければ、日本は勝てないのだ」という情緒的な煽(あお)りがどうしても必要である。これは「戦争」に類するものだという物語を国民にのみ込んでもらわなければならない。中国や韓国とのシェア争いが「戦争」なら、それぞれの国民は「私たちはどんな犠牲を払ってもいい。とにかく、この戦争に勝って欲しい」と目を血走らせるようになるだろう。

 国民をこういう上ずった状態に持ち込むためには、排外主義的なナショナリズムの亢進は不可欠である。だから、安倍自民党は中国韓国を外交的に挑発することにきわめて勤勉なのである。外交的には大きな損失だが、その代償として日本国民が「犠牲を払うことを厭(いと)わない」というマインドになってくれれば、国民国家の国富をグローバル企業の収益に付け替えることに対する心理的抵抗が消失するからである。私たちの国で今行われていることは、つづめて言えば「日本の国富を各国(特に米国)の超富裕層の個人資産へ移し替えるプロセス」なのである。

 現在の政権与党の人たちは、米国の超富裕層に支持されることが政権の延命とドメスティックな威信の保持にたいへん有効であることをよく知っている。戦後68年の知恵である。これはその通りである。おそらく安倍政権は「戦後最も親米的な政権」として、これからもアメリカの超富裕層からつよい支持を受け続けることだろう。自分たちの個人資産を増大させてくれることに政治生命をかけてくれる外国の統治者をどうして支持せずにいられようか。

 今、私たちの国では、国民国家の解体を推し進める人たちが政権の要路にあって国政の舵(かじ)を取っている。政治家たちも官僚もメディアも、それをぼんやり、なぜかうれしげに見つめている。たぶんこれが国民国家の「末期」のかたちなのだろう。

 よいニュースを伝えるのを忘れていた。この国民国家の解体は日本だけのできごとではない。程度の差はあれ、同じことは全世界で今起こりつつある。気の毒なのは日本人だけではない。そう聞かされると少しは心が晴れるかも知れない。

    *

 うちだたつる 50年生まれ。専門はフランス現代思想。憲法9条から格差、温暖化まで論じる。合気道七段の武道家。「街場の文体論」など著書多数。

 

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みのもんた お前もか

2013-05-11 17:42:11 | 日記

我が家では朝の時間「みのもんたの朝ズバッ」を見ていることが多い。

今日(昨日だったかな?)見ていたら「昨日あべ(首相)さんと飲んだんだよ」「ワインがうまかったよ」と得意げに話しだした。

先日このブログに「マスコミ各社トップが首相と会食ーーーメディアの独立は大丈夫か」(3月31日)を書いた後だけにびっくりした。安倍首相のマスコミ取り込み作戦が社長レベルからキャスターレベルにまで及んだことを示すものだろう。それが見事に功を奏したことはみのもんたの得意げな表情に表れていた。もうすこしましな男かと思っていたっけれどもこの程度だったか。

マスコミの退廃ここに極まったと言うべきであろう。


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自民党の憲法改定案 (2)基本的人権

2013-05-07 20:29:50 | 日記

先日「自民党改憲案」の中で第9条をどのように変えようとしているかを考えてみました。今日は憲法の基本的人権について考えてみました。

現行日本国憲法では第97条と第11条で

第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。 

第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

と定めています。「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」だから「侵すことのできない永久の権利」だと言っています。

世界の歴史の中で初めて人権について定めた文書は、1976年につくられたアメリカの独立宣言です。この宣言は次のように述べています

すべての人間は平等につくられている.創造主によって,生存,自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている。

人間は生まれながらにして「侵すべからざる権利」を持っているといっています。これが日本国憲法で言う基本的人権です。

つづいて1979年に起こったフランス革命では人権宣言が発表されました。この中では、「人の譲りわたすことのできない神聖な自然的権利を、厳粛な宣言において提示することを決意した」として、今日の基本的人権にあたるものを宣言しています。

今では、フランスやアメリカだけでなく多くの国々で基本的人権について定められています。

 このことについて「自民党改憲案」では何と言っているでしょうか。改憲案とともに発表された「Q&A」には次のように述べられています。

現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。

人は生まれながら基本的人権を持っているという「天賦人権説」を否定しているのです。このような考えは欧米の考えであり、日本にはなじまないと言いたいようです。人権はお上がお恵み下さるものとでも考えているのでしょうか。 


現行憲法では、基本的人権が制限されるのは「公共の福祉」に反する場合だけです。すなわち自分の人権と他人の人権が衝突する場合だけです。
「自民党改憲案」では少し違うことを提案しています。同じく「Q&A」を見てみます。

「公共の福祉」という文言を「公益及び公の秩序」と改正することにより、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにしたものです。

「公の秩序」という言葉で人権を制限できる範囲を広げようとしているのです。たとえば「自民党改憲案」の第21条(表現の自由)は次のようになっています。

第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
(後略)

第2項は「改憲案」で付け加えようとしている条文です。このような条文をわざわざ付け加えようとしていることを考えると、その目的ははっきりしているのではないでしょうか。政府に反対することが「公の秩序を害する目的」だと考えるほかないでしょう。戦前「治安維持法」という法律があって、天皇制に反対しただけで逮捕され、ひどい場合には死刑になることさえあったことを思い出します。

条文を一つずつ挙げていくと限りありませんが、一つだけ挙げておきます。「自民党改憲案」24条(家族、婚姻等に関する基本原則)です。

第二十四条 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。
2 婚姻は、両性の合意に基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。(後略) 

第1項は「改憲案」で付け加えようとしている条文です。第2項はで「相互に協力」と書いてあるので第1項は必要がないように見えますが、「Q&A」を読むとその目的が分かります。

党内議論では、「親子の扶養義務についても明文の規定を置くべきである。」との意見もありましたが、それは基本的に法律事項であることや、「家族は、互いに助け合わなければならない」という規定を置いたことから、採用しませんでした。

自民党の中でも採用されなかった「親子の扶養義務」を頭において書いた条文だということが分かります。社会保障を切り縮める為の条文だったのです。また、この第1項を「家族制度の復活」とみる意見もあります。これも正しいと思いますが、長くなるのでここではこれ以上触れません。 

以上「自民党改憲案」の基本的人権に関する条文を見てきましたが、私には、これだけでも「改悪案」と言ってよいと思えてきます。
この改憲案についてはここに指摘しただけでなく、いろいろな問題があるのでさらに検討していく必要があります。

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ニューヨークタイムズ閣僚の靖国参拝を批判(4月23日社説)

2013-05-06 09:00:00 | 日記

ニューヨークタイムズは4月23日に次のような社説を掲載しました。閣僚の靖国神社参拝に対する批判です。趣旨は一読すれば明瞭なので特に私の意見を付け加えることはしません。


《日本の危険なナショナリズム》

昨年12月政権に就いて以来、安倍晋三と自民党は、日本経済の再生、2011年の地震と津波の後始末、北朝鮮のような隣国との厄介な関係などをふくむ複雑な問題を弄んでいる。

異質な問題をごちゃ混ぜにすることは非生産的である。しかし安倍氏とナショナリストの仲間たちがやっていることはまさしくこれである。

今週火曜日保守系議員168名が日本の戦死者を祀る靖国神社に参拝した。祀られた人の中には第二次大戦の戦争犯罪人として処刑された人たちを含んでいる。

今回の参拝は近年最多の議員による集団参拝である。日本のニュースメディアによると安倍首相自身は参拝していない。参拝する代わりに供物をささげた。副総理と二人の閣僚は週末に参拝した。

安倍氏とその仲間はこの問題が、20世紀の日本の日本帝国主義と軍国主義に苦しんだ中国や韓国にとって非常に敏感な問題だということをよく知っています。またこれら諸国の反応は十分予測できたことでした。月曜日韓国は外務大臣の訪日を取りやめました。中国は公然と日本を非難しました。火曜日には東シナ海の尖閣列島の諸島近海で中国と日本の船が集まったことで緊張はさらに高まりました。

日本も中国も領土問題を平和裏に解決する必要があります。日中韓三国が北朝鮮問題を共同して解決しなければならない時期に、中国、韓国とことを起こすことは、特に日本にとって無鉄砲だと考えられます。安倍氏は歴史的な傷を深めるよりも日本の未来について思いを馳せるべきでしょう。特に長期にわたって停滞している経済を改善しアジアにおける指導的民主国家としての役割を高めるべきでしょう。

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靖国神社に行ってきました

2013-05-05 10:50:51 | 日記

連休前に、話題の靖国神社に行ってきました。
私は昭和30年前後、学生時代に靖国神社の近くに住んでいたのでよく知っているつもりの場所です。

正面の大鳥居から靖国神社に入りました。参道を進むと心なしか以前と比べて立派になっています。大鳥居は立派ですし、本殿も、拝殿も堂々としています。何十年もたっているので変化があったのか、なかったのか半信半疑でした。後で調べてみると、大鳥居は昭和49年に再建されていました。前よりうんと高くなっているとのことでした。本殿も平成元年に大修築されたとある。このような大工事ができたのは、まだスポンサーがあるのかと思いました。もちろん靖国神社に祭られた方々の所縁の方の純粋な追悼の基金もあるのでしょう。しかし其れだけなのだろうか。靖国神社を利用しようとする人たちがスポンサーになっているのではないか。―――と心配になりました。

靖国神社のなかにある戦争博物館として名高い「遊就館」に入りました。ここも平成14年に改築、新館を新築したということです。

入るとまず目立つのは、実物を復元した「ゼロ戦」、戦闘機です。その隣は泰緬鉄道で使われたD56型蒸気機関車があります。それに大砲です。泰緬鉄道は太平洋戦争中にタイとミャンマーの間に日本軍が作った鉄道ですが、大量の捕虜を酷使したことから英語圏では「死の鉄道」と呼ばれてるそうです。遊就館の順路をたどっていくと最後の方に武器・兵器の展示室があります。ここには大砲やゼロ戦と並んで、人間を載せて敵の軍艦に体当たりする「特攻機」や、「人間魚雷」も並んでいます。特攻の生々しい様子が想像されて恐ろしい空間でした。しかし、戦争を知らない人たちにはかっこいいとみせる工夫もされていました。

館内では映写室があり、そのひとつが「私たちは忘れない」という映画でした。約1時間かかり、こういう施設での映画としてはかなり長い映画です。内容は、明治以来の日本の戦争を辿るものでしたが、日本がやってきた戦争をすべて肯定するものでした。私にとっては70年前に小学校で習った時の雰囲気で、まさにタイムマシンに乗って70年さかのぼった感じでした。

映画と展示室の解説、遊就館図説に従がって、日本の行った戦争に対する遊就館の考えをたどってみましょう

日清戦争については「朝鮮国が清国に従属していたのでその独立を促した。」とナレーションが流れました。しかしその後、「日韓合併」で日本が完全に支配してしまいました。外国に対する従属がかえってひどくなったことにはなにも触れませんでした。
日清戦争は、朝鮮をめぐって日本と清国が勢力争いをした戦争だったのです。どんなきれいな言葉で飾っても、日本が朝鮮を植民地にしたという現実は否定できません

日露戦争についても、欧米植民地主義に対するアジアの抵抗のように描き出しています。しかし現実はどうだったのでしょうか。日本とロシアが戦ったのはどちらの領土でもない中国の領土・満洲(中国東北部)でした。そうしてこの満洲の支配権をめぐって日本とロシアが勢力争いの戦争をしたのです。中国にとってはどちらが勝っても侵略されただけでした。

満洲事変(昭和6年)、日中戦争(昭和12年)については、「わが国は日露の戦勝で満洲に権益を有していたが、中国のナショナリズムは現行条約にかかわらず外国権益の回収をもとめ、在留邦人の生命財産を脅かした。」と日本を被害者に仕立てています。しかし、よく考えてみますと、日本とロシアが戦争をして、満洲に関する権益を得たとしても、中国が自分の領土で日本に権益を与えたわけではないのです。取り返したくなるのは当然のことなのです。それに応じないで戦争をしかけるなど許されないことでした。
遊就館の言い方だと日本軍が中国の領土に攻め込み、占領した、明白な侵略行為にを正当化することになってしまします。

太平洋戦争については、この戦争が日本の中国侵略、アジア全域に対する侵略に大きな原因があったにかかわらず「自存自衛の戦い」と、ここでもまた被害者の自衛戦争として描いています。

遊就館の考え方は、明治以来の日本の戦争を、事実と正反対に描くものです。朝鮮、中国、アジアに対する戦争をすべて正義の戦争として描き出しています。
このような考え方からは太平洋戦争に対する反省が生まれてくるはずもありません。反省する必要がなくなってしまうのです。 


戦争犠牲者に対する考え方

日中戦争と太平洋戦争で戦死者数は概数230万人と言われていますが、この戦死者に対する謝罪もねぎらいもありません。ただあるのは「玉砕=全滅」「散華=戦死」などの死を美化する言葉だけです。国のため、天皇のため「玉と砕け」「華と散った」ということです。美しい言葉です。まるで戦死者たちが「国のため」「天皇のため」に喜んで死んだとでも言いたいような展示でした。

戦死者のうち靖国神社に祭られているのは246万余だと言われています。その中には敵の軍艦や飛行機に体当たりする、いわゆる特攻作戦で亡くなった人々の遺書もたくさんいます。その人々の遺書も多数展示されています。遺書の中から、当時強制されて書いた「国のため」、「天皇のため」という言葉を除くと、戦死者たちの本当の声が聞こえてくるように思えました。国に残した妻子、父母に対する気持ち、そうして早くこの世を去る残念な気持ちが聞こえてくるようでした。


A級戦犯=「昭和殉難者」

靖国神社にはいわゆるA級戦犯、戦争を企画し指導した人たちも祀られています。東条英機陸軍大将・首相などです。靖国神社では彼らを「昭和殉難者」という名で呼んでいます。しかしこの人たちは決して「殉難者」ではありません。戦争を企画推進し、アジアの人々を苦しめ、多くの日本人を戦死させ、あるいは戦災その他の苦しみに合わせた張本人たちです。このような人々を神と崇める思想を許すことはできません。中国や朝鮮の人が許さないのは当然でしょう。


境内には戦死者の家族や縁者らしき人たちの姿が見えました。また境内の木に付けられた部隊名などの木札を見ながら同行者に説明している人の姿も見ら得ました。この方々は本当に犠牲者を悼んでいるのだと思いました。この方々の追悼の気持ち、あるいは戦時中のご苦労にこたえるためにも、国の指導者が戦争に対する無反省な態度を改め、平和な日本を作り上げることが必要だと思いました。

また日本の侵略に苦しんだ中国や朝鮮の人々、アジアの多くの人々に対してキチンとした反省の気持ちを示し、その気持ちを行動に示すことが必要だと感じました。 



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