日々雑記

政治、経済、社会、福祉、芸術など世の中の動きを追い、感想を述べたい

少年の日に戦争があった-――私の戦争体験

2015-08-09 15:03:48 | 政治



少年の日に戦争があった

 

昭和十六年十二月八日、

戦争は六歳の時に始まった。

次々と入る勝利のニュース。香港、マニラ、シンガポール。

一年坊主は世界地図に日の丸を立て万歳を叫んだ。

 

はじめになくなったのは、チョコレートとゴム毬。

運動靴も学生服も無くなった。

ランドセルも筆箱も紙製品になる。

 

この頃学校で教わったこと。

修身と国語は天皇陛下に生命をささげること。

教練の時間は分列行進と手旗信号。

音楽の時間は軍歌、敵機の爆音の聞き分け。ダグラス、ロッキード、グラマン。

小学生を殴り倒す先生もいた。僕らはおびえた。

 

父は国民服、母はモンペ姿。父のスーツも母のおしゃれな服も消えた。

 

防空演習、バケツリレー、

そして灯火管制でまっくらな夜

 

昭和二〇年八月九日ソ連参戦、

どうやってソ連戦車に特攻攻撃をかけるか、同級生と議論する。

「地雷を持って戦車の下にもぐり込もう。」

父は、母に子供の殺し方を教える。「首を締めたら苦しまない」。

母には青酸カリ。

 

八月一五日敗戦。

新京駅では、関東軍の兵隊が、やけになって天井に向けて鉄砲を撃つ。

抑圧から解放された中国人の暴発。

あちこちで日本人が殺される。

 

ソ連軍進駐。

凌辱、強盗、殺人、なんでもあり。

肩から手首まで奪い取った腕時計を巻いたソ連兵。

針が動かなくなると時計を捨てる。

文明を知らない兵隊たち。

 

ソ連軍の雑務のための「使役」、壮年の男は駆り出された。

 

中国の内戦。市街戦の銃弾は何百となく家の中に飛び込む。

外に出ると弾丸が立木に当たる。

ヒューップシュッ。

戦いの後の公園には兵士たちの骸があちこちに転がっている。

死骸を見ても何も感じない僕ら子供たち。

 

「中日合作」のスローガンのもと、

技術を持った日本人は留用された。

先生たちも残った。

留用日本人子弟の教育のため使命感を持った先生たち。

久しぶりの勉強は楽しかった。

中国語もあった。はじめての英語の時間もあった。

五年生の最後には、発布間もない日本国憲法。

憲法が何かも知らない小学生は、価値観の転換を素直に受け入れた。

 

敗戦二年、ようやく引揚げ。

軍用トラックの荷台に乗って出発。

戦闘でレールがひっくり返された鉄道。

橋が落ちた川。工兵が作った仮橋を渡る。

高粱畑、蕎麦畑。美しい満州の農村。

突然トラックが道を外れる。運転手に賄賂を渡すともとの道に戻る。

 

有蓋貨車。自分が牛か馬になったような気分。

氷雨にぬれた無蓋貨車の夜、九月末の満洲は寒い。

こごえた老人や赤ちゃんが死んだ。

船待ちの瀋陽の収容所。たばこ会社の倉庫だった。むしろの上の一カ月。

 

戦時標準船・英彦丸、貨物船の船底で日をおくる。

 

二か月の長い旅は佐世保の収容所の一カ月で終った。

遠い昔の収容所は今ではハウステンボス。思い出す手掛かりもない

 

両親の故郷、私の生まれた町、長崎は焼け野原だった。

瓦礫の山と化した東洋一の大伽藍・浦上天主堂、

大勢の中学生、女学生が死んだ工場は崩れ落ちたまま。

大勢の子どもが爆死した小学校。

大学病院の煙突は折れ曲がり、神社の鳥居は一本足。

兄と祖母が原爆死した家も瓦礫の山。

 

闇米を買う金もなく、売るべき衣類もない引揚げ者は飢えた。

間違ったことが出来ない判事が飢え死にした。

子供はいつも空腹だった。

配給に米麦はほとんどなく、サツマイモはまだよかった。

穀物の代わりにダニのわいたキューバ糖がバケツに何杯も配給された。

カロリーの計算がいくら合っても。どうやって食べるのだ。

仕方なく、砂糖水やカルメ焼きにして食べる。

 

戦争と引揚げで疲れ果てた父は四十代の若さで死んだ。

 

これらすべてが私の経験した戦争です。

 

二度と戦争は嫌だ。

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