横浜DeNAは11日、フリーエージェント(FA)で巨人に移籍した村田の人的補償で、藤井秀悟投手(34)を獲得したと発表した。3球団で通算70勝を挙げた左腕は、巨人戦でカード別最多の13勝。高田GMは「Gキラー」として大きな期待を寄せた。
左腕の先発候補は真下、山本らがいるが手薄。実績のある藤井が補強ポイントに合致した。
DeNA中畑監督、巨人から藤井いただき! ― サンケイスポーツ
中畑監督「Gキラー」期待!村田の人的補償で藤井獲得 ― スポーツ
ニッポン
毎年1月7日に大田区の六郷神社で行われている「こども流鏑馬」の行事を初めて見に行ってきた。
23区内とはいえ品川から先には滅多に行ったことがないのだが、京浜急行の雑色駅から第一京浜沿いに10分ほど、大田区東六郷三丁目に目指す六郷神社はあった。
六郷の総鎮守と称するだけあって、境内も広く立派なお社である。
[六郷神社由緒]
社伝によれば天喜5年(1057)源頼義、義家の父子が、この地の大杉の梢高く源氏の 白旗をかかげて軍勢をつのり、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大いに奮い、 前九年の役に勝利をおさめたので、凱旋後、その分霊を勧請したのが、当社の創建と伝えられます。
文治5年(1189)源頼朝もまた奥州征定の時、祖先の吉例にならい、白旗を立てて戦いでの勝利を祈願したので、建久2年(1191)梶原景時に命じて社殿を造営しました。 現在、社宝となっている雌獅子頭(めじしがしら)と境内に残る浄水石は、このとき頼朝が奉献し、神門前の太鼓橋は、景時が寄進したものといわれております。
天正19年(1591)徳川家康は、神領として十八石を寄進する朱印状を発給し、慶長5年(1600)には六郷大橋の竣功を祈って願文を奉り、また当社の神輿をもって渡初式を行ったと史書にみえます。当社が八幡宮の巴紋と併せて葵紋を用いているゆえんは、ここにあります。
六郷の総鎮守 六郷神社
http://www.rokugo.or.jp/index2.html
[六郷神社 こども流鏑馬]
六郷神社のこども流鏑馬は、毎年正月7日に行われ東京都の無形文化財の指定を受けている古式ゆかしい行事です。
流鏑馬とは、もとは源平時代から創められ、鎌倉時代になって神前の行事として盛んになったものであります。
この質実剛健の精神を男の子に取り入れ、射士となり鬼の目を射らせてその年の邪気を祓い、健康、開運、出世を祈る行事です。
また新たに、平成十年より小笠原流の馬装具にて装飾した木馬に跨り弓を射る方式も取り入れています。(六郷神社配布文書)
子供やぶさめ/近藤英一郎「東京の祭り」
http://members2.jcom.home.ne.jp/ichikondo/01%20kodomoyabusame.html
境内左手には葵紋の幕で仕切られた流鏑馬の射場があり、木馬と竹矢来の的が設置されていたが、始まるまで1時間ちょっと、その場で待っていた。
お天気はよかったのだが、風があって、あまり日の当らない西側では少し寒かった。
流鏑馬の的は直径1m80cmほどの輪の中に「八方白眼(はっぽうにらみ)」という4対の目玉を墨で描いてある。
上から順に内、上、外、下をにらみ、上2対はつりあげ眉、下2対はさがり眉である。
(説明文は、六郷神社配布文書によるものである)
射士は3歳~12歳までの男子で、狩衣姿で腰に刀、襟に御幣を挿している。
神社役員の介添えで、二人一組で的に向かうが、順番はくじ引きである。
最初に1番と2番の射士が「山越し」といって、ふたりの矢を交差させ、的の上を越すように高く射る。 (弓引きは、すべて神社役員の介添えで行われる)
次いで、3番と4番が同じように矢を交差させ1の目玉を射る。
以下2人1組で「ヤー!」と掛け声もろとも目玉を射る。
9番・10番までの射士で八つの目玉全部を射抜く。
矢を射るといっても、弓に矢をつがえたままで、神社役員の介添えで的を突くのである。
的を突きさした矢は、矢抜き役員が抜きとって射士に渡す。
1番~10番の5組が行う「歩射(ぶしゃ)」が東京都指定無形民俗文化財に指定されているのだが、平成十年より木馬に跨り弓を射る方式も取り入れられている。
こちらは、竹筒の上に載せられた杉板の的を、木馬の上から実際に射るという様式になっている。
東京都指定の無形民俗文化財ということなので、どんなものかという期待もあって出掛けたのだが、当然のことながら本来の流鏑馬を模したものに過ぎなかった。
木馬方式では得意満面のお子さんと、わが子の晴れ姿を写真に収めようとする親御さんが多数見られたが、同じことの繰り返しなので途中で帰る観客も多々あった。
かくいう私も、そのうちの一人であったことはいうまでもない。
石浜神社から次の吉原神社までは、地図を見ても相当距離がありそうなので、指定コースをたどらずに明治通りを北上した。
涙橋の交差点を左折して東浅草に向かう途中に食事処があったので、そこで少し遅い昼食にした。
昼食を済ませてから、やっとの思いで吉原神社に到着し、お参りを済ませた。
ここまでで都合七社、七福神はすべて回ったことになるのだが、ここのコースではあと二社残っているのである。
吉原神社では弁財天をお祀りしています。
http://www.asakusa7.jp/yosi.html
吉原神社の次は、暮れの酉の市で有名な鷲(おおとり)神社なのだが、すぐ近くの割にはちょっと道が分かりづらかった。
表門の外には、特大の熊手が飾られていた。
鷲神社では寿老人をお祀りしています。
http://www.asakusa7.jp/ootori.html
残るは矢先神社だけとなったわけだが、ここだけがかなり離れた場所にある。
合羽橋道具街通りの松ヶ谷二丁目にあり、六区からなら近いのだが、鷲神社から延々と歩く羽目になってしまった。
途中の道筋で、ふだんはスイスイ歩くカミさんの歩みがおかしいと思ったら、なんと足が痛いのだという。
そういえば自分もすこし腿の辺がおかしくなってきていたので、少し歩調を緩めて歩いた。
ようやくの思いで矢先神社に到着し、最後のお参りを済ませた。
松飾りも取れて、新年もはや10日目となってしまったが、私といえば、6日の金曜日、毎年お正月の恒例にしている七福神巡りに行ってきた。
ことしは、浅草名所七福神に詣でるということで、浅草寺からスタートすることにして、都営三田線、大江戸線、浅草線を乗り継いで行ってみた。
「浅草名所七福神は九社寺あります。「九は数のきわみ、一は変じて七、七変じて九と為す。九は鳩でありあつまる意味をもち、また、天地の至数、易では陽を表す」という古事に由来したことによります。」
浅草名所七福神会
http://www.asakusa7.jp/
まずは、都営浅草線の浅草駅から雷門、仲見世通りを経て浅草寺へと進んだが、やはりお正月なので参拝客は多い。
人混みをかき分けながら本堂にお参りし、続いて大黒天をお祀りしている影向堂(ようごうどう)に行って色紙を買い求めた。
浅草寺では大黒天をお祀りしています。
http://www.asakusa7.jp/sen.html
続いて、すぐお隣にある浅草神社へ。
浅草神社といえば、三社祭で有名な神社である。
お正月なので猿回しも出ており、しばし足を止めて見入ってしまった。
浅草神社では恵比須神をお祀りしています。
http://www.asakusa7.jp/asa.html
浅草神社から待乳山聖天(まつちやましょうでん)に行くわけなのだが、ここからの道筋を間違えてしまい、言問橋の方に行くべきところを浅草駅の方に戻ってしまい、かなり遠回りをしてしまった。
そのおかげというか、怪我の功名で東京スカイツリーをたっぷり見ることができ、初めての写真も撮ることができた。
待乳山聖天では毘沙門天をお祀りしています。
http://www.asakusa7.jp/matuti.html
待乳山聖天から今戸神社へはほんの数分で着いた。
平日にもかかわらず、同じように色紙の袋を手にしたお仲間や、グループの人たちもけっこう目についた。
今戸神社では福禄寿をお祀りしてしています。
http://www.asakusa7.jp/imado.html
今戸神社から橋場不動尊までは隅田川沿いをかなり進まなければならない。
途中でお昼時を過ぎてしまったのだが、食事をするところが見当たらないので、そのまま橋場不動尊へ向かった。
不動院(橋場不動尊)では布袋尊をお祀りしています。
http://www.asakusa7.jp/fudou.htm
次の石浜神社は目と鼻の先なので、すぐに分かった。
白髭橋の彼方にも、東京スカイツリーの雄姿が見えていた。
石浜神社では寿老神をお祀りしています。
http://www.asakusa7.jp/isihama.html
やや寒い年明けの陽気ですが、皆様方におかれましては、恙なく新年をお迎えのこととお慶び申し上げます。
元旦はいつもの年と同じように、お屠蘇とお雑煮で新年を祝いましたが、寒さのせいもあって、コタツにもぐってるような有様です。
お昼過ぎには突然の大きな地震でびっくりさせられましたが、幸いにして震度3という揺れのわりにはたいしたことはありませんでした。
カミさん作、恒例の正月飾り。
まだ蕾だが、シンビジュームと紅白のデンマークカクタス。
相変わらずの日記になるとは思いますが、ことしもご交誼のほど、よろしくお願い致します。