濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

2013夏 きれぎれなるままに

2013-08-14 20:24:24 | Weblog
先日、夏休みということもあって、命の洗濯とばかりに横浜美術館で開催されているプーシキン展に足を運んだ(とはいっても、やんごとなき女性画家に同行したまでだが)。
かなりの人混みでゆっくり鑑賞する余裕はなかったが、それでも見応えのある作品がそろっているという印象を受けた。
鑑賞を終えて、必ずしも目立ちはしなかったフロマンタン「ナイルの渡し船を待ちながら」という画について、それが朝の光景なのか、夕暮れの光景なのかという質問を画家から受けた。
本ブログに掲載した画を見ればわかるように、砂塵の薄茶色が地と空を覆っていて、旅人の一行もモノトーンな雰囲気に包まれていて、果たしてその光景が朝なのか夕暮れなのか、にわかには判別しがたい。
気になって、帰宅後、同じ展覧会の印象を記した他の人のブログ(足立区綾瀬美術館 annex http://suesue201.blog64.fc2.com/blog-entry-845.html)を検索してみると、この絵について

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ナイルに夕陽が沈んでいきます。
もうじき夜がやってきて
大地は寒さにおののくだろうか。
早く向こうに渡らねばならぬと
けれど旅人はなすすべもなく
渡し船を見つめるばかり。

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というコメントがされていた。
無理のない解釈で、たしかに暮れなずむ異郷のエキゾチシズムを感じさせる作品として、構図的にもうまく収まってくるようだ。


ところで、今日の私たちは「早く向こうに渡らねばならぬ」といった、彼方への渇仰や希求を抱くことがあるのだろうか。
希望の見出される朝なのか、憂愁に包まれゆく夕暮れなのか、定かではないうえに、旅慣れた案内者もいなければ、従順なラクダもいない。
情報化とグローバル化の流れがきつく、渡し船も容易に近づけない不可視のナイルを目の前にして、われわれは行きあぐねているようだ。

こんなことを考えているうちに、森鴎外の娘、小堀杏奴が父と祖父のことについて綴った文章の一節が思い出されてきた。

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祖父は病人を診ている間は、全精神を病人に集中する。
そして、その病人の症状が軽かろうが重かろうが、単なる鼻かぜだろうが、死に瀕した重病だろうが全く同じ態度で、これに接している。
しかもそれは単に仕事の上のことだけではない。
盆栽いじりをしている時も、煎茶をすすっている時も、日常のあらゆることに対してそのような態度である、と父は書いている。
それに反して若い父のほうは、なにをするにも始終なにかもっとしたいこと、或いは、するはずのことが別にあるように感じている。
そして父は、自分が常に遠い向うにあるなにものかを望んで、目前のことをいいかげんに済ませていくのに反して、祖父はつまらないと思われる日常のことにも、全幅の精神を傾け尽くしていることに気がついたのである。
そして熊沢蕃山が、「志を得て天下国家を事とするのも道を行ふのであるが、平生顔を洗つたり、髪を梳(くしけづ)つたりするのも道を行ふのである」と書いているのを読んでから、祖父の日常と思い合わせ、今まで軽くみていた祖父を尊敬する念が初めて生じたという。(小堀杏奴「朽葉色のショール」)

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焦るべきではない。
残る夏休みはじっくり、部屋の片付けや身辺整理に費やそうと思う。