濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

「いのち」学事始め

2013-08-09 00:50:14 | Weblog
医学部受験の小論文に関わる者として、「生命倫理」という言葉に出会わぬ日はないぐらいだが、それを青春真っ盛りの高校生にわからせようとしてもなかなか困難なことだ。
いや、世の大人達にとっても、あまりピンと来ないかもしれない。
「生命」と「倫理」のうち、「倫理」がよくわからないという人が多いようだが、「生命」だって相当難しい概念なのだ。
たとえば、生命現象について

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生命現象や私たちが感じ取る世界のすべてを物理学や化学の言葉で説明し、記述することは不可能です。
なぜなら自然の流れである「いのち」は、非物質的なリアリティという側面に関連するものだからです。
つまり、驚異的治癒には身体性だけではなく精神性とか霊性とか呼ばれるものも関与していると考えざるを得ないのです。

生命現象は宇宙のもっとも精巧な反応系であるとみなすことができると思います。
それはエイジング(老・死)とリモデリング(生殖・再生)をくりかえすことで全体としてのバランスを保つシステムなのです。
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という解説がされている(松野哲也『病気をおこす脳 病気をなおす脳』)。
この二つの引用を総合すれば、
「生命」とか「いのち」とは、物質に還元されない精神的、霊的なものが関与して、エイジング(老・死)とリモデリング(生殖・再生)をくりかえすシステムだ
ということになる。
だが、これではかえって話が抽象的で、難しくなるばかりだろうから、具体例で考えてみよう。
まず、『古事記』で死期を迎えたヤマトタケルの望郷の歌に

◆命の 全けむ人は 疊薦(たたみこも) 平郡(へぐり)の山の 熊樫が葉を 髻華(うず)に挿せ その子

というものがある。
「命の無事な者は、幾重(いくえ)にも連なる平群山(=奈良県生駒郡平群村)の大きな樫の木の葉をかんざし(=当時は魔除けとして使われた)として挿すがよい。者どもよ」といった訳だという。
ここでの「いのち」は「エイジング(老・死)」、つまり、つつがなく人生を全うすることだと考えられている。

次に『万葉集』から、中臣女郎が大伴家持に贈ったとされる恋歌を取り上げてみよう。

◆ただに逢ひて 見てばのみこそ 玉きはる 命に向ふ 吾(あが)恋やまめ

訳は、「お便りだけでなく、じかにお逢いして共寝をすればこそ、この魂のきわまる命を限りの恋心も安らぐでしょうに。」というもので、女性の歌としてはかなり激しいものだ。
ここでの「玉きはる命」とは、「リモデリング(生殖・再生)」に向かう方向にあるものと解釈できるのではないだろうか。
いずれにせよ、成長し、老いていくことと、繁栄して子孫を残していくこと、その二つが生命の根底にあり、そこには霊的な力が働いているということになる。
二つの歌では生命についてのおおらかで健全な感覚が歌われていて、倫理などの介入する余地はないといってよい。

一方、たとえば、パーキンソン病の患者の治療のために、中絶胎児の神経細胞を培養してよいか、使用される胎児組織の妊娠週齢を何週にすべきか、そもそも両親に胎児の細胞を処分する権利があるのか、という問題を考えるのが「生命倫理」だが、すでにこの時点で、生命は宇宙のシステムから切り離され、なかばモノ化され、霊的な力などもたない単なる物質として扱われようとしているのではないか。
中絶胎児のみならず、パーキンソン病の患者の身体も物質的な存在に還元されている。
もちろん、人間の歴史自体、生命のモノ化・商品化の歩みともいえる。
長く我々は汗水たらして身を削って働く行為を「商品」として売買してきたのである。
ただし今日、生命のモノ化・商品化のスピードがあまりに急速すぎるため、人々の心に迷いが生まれ、それが「生命倫理」として浮上しているにすぎないようにも思われる。