イタリア総選挙の結果が世界経済に及ぼす影響が連日話題になっているが、いまのところ、どうやら日本のアベノミクスまで不安定(プレカリアス)になるところまではいかないようだ。
そういえば、イタリアの思想家F・ベラルディ(ビフォ)はITバブル(ドットコムバブル)の崩壊当時を分析して、『プレカリアートの詩』で次のように述べていた。
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ドットコム崩壊と金融大衆資本主義の危機は、社会的欲望の経済的投資が虚脱した結果だったとみなすこともできる。
虚脱という言葉を使うのは喩えではなくて、西洋精神において進行中のことを臨床的に説明するためだ。
社会心理有機体の、現実の病理学的崩壊のことをいい表すために使うのである。
経済的崩壊のはじめの兆候のあとに続いた時期、新世紀のはじめの数ヶ月にみられたのは、精神病理学的な現象であって、グローバル精神の虚脱症状だった。
わたしは、現在の経済不況(デプレッション)は心理的抑欝(デプレッション)の副作用だとみている。
長期間にわたる強烈な欲望の投資と労働における精神的かつ本能的なエネルギーの投資が、虚脱へと至る心理的環境をつくり、それはいまや経済的不況と軍事的攻撃性そして自殺傾向のうちに明白に現われているのである。
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これまでの労働がデジタルな認知労働に変わり、記号資本主義が隆盛になるとともに、認知労働者の精神病理が冒され、その結果が「経済的不況と軍事的攻撃性そして自殺傾向」にまで影を落としているというのだ。
かつてフーコーが「生政治」という言葉で、我々の生命と政治の密接な関係を指摘したが、ベラルディによる政治経済と精神病理との関係の考察もなかなかユニークな展望を持っている。
国際政治の流れや産業界の動向だけではなく、金融経済を支える者の心理によっても、経済全体が影響を受けるのは当然と言えば当然で、日本がこれまでデフレ経済から脱却できないできたことも、人々の「心理的抑欝(デプレッション)」とは無縁ではあるまい。
不安定(プレカリアス)な認知労働者は、多幸感を得るためにハッピードラッグなどの薬物依存に陥ることもあるという。
とすれば、プロレタリアートの末裔であるプレカリアートへのメッセージも精神病理学的な考察を含むことになる。
再び、F・ベラルディ(ビフォ)の言葉を引用しておこう。
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政治とセラピーが、来るべき時代には一にして同じ活動となる。
人々は失望、抑鬱、パニックの感触をもつようになるが、それはポスト成長の[成長なき]経済と折り合いをつけることが出来ないからであり、近代的アイデンティティが拡散して失われたと感じるだろうからだ。
わたしたちの文化的任務は、こうした人々に付き添い狂気をケアしつつ、ハッピーに適応する手近な方法を示すこととなる。
この任務は人間的レジスタンスのための数多の社会的ゾーンを生み出すことであるが、それはセラピー的感化ゾーンとして作用するものとなる。
オートノミー化の過程は止揚と見なしうるものではなく、セラピー的なものとなる。
つまり、全体化するものでも、過去を破壊し止揚することを意図するものでもなく、精神分析のセラピーにも似た、終わりなき過程のプロセスとなる。
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かくして医療は、政治的臨床現場へとまた一歩近づいていくのである。
そういえば、イタリアの思想家F・ベラルディ(ビフォ)はITバブル(ドットコムバブル)の崩壊当時を分析して、『プレカリアートの詩』で次のように述べていた。
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ドットコム崩壊と金融大衆資本主義の危機は、社会的欲望の経済的投資が虚脱した結果だったとみなすこともできる。
虚脱という言葉を使うのは喩えではなくて、西洋精神において進行中のことを臨床的に説明するためだ。
社会心理有機体の、現実の病理学的崩壊のことをいい表すために使うのである。
経済的崩壊のはじめの兆候のあとに続いた時期、新世紀のはじめの数ヶ月にみられたのは、精神病理学的な現象であって、グローバル精神の虚脱症状だった。
わたしは、現在の経済不況(デプレッション)は心理的抑欝(デプレッション)の副作用だとみている。
長期間にわたる強烈な欲望の投資と労働における精神的かつ本能的なエネルギーの投資が、虚脱へと至る心理的環境をつくり、それはいまや経済的不況と軍事的攻撃性そして自殺傾向のうちに明白に現われているのである。
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これまでの労働がデジタルな認知労働に変わり、記号資本主義が隆盛になるとともに、認知労働者の精神病理が冒され、その結果が「経済的不況と軍事的攻撃性そして自殺傾向」にまで影を落としているというのだ。
かつてフーコーが「生政治」という言葉で、我々の生命と政治の密接な関係を指摘したが、ベラルディによる政治経済と精神病理との関係の考察もなかなかユニークな展望を持っている。
国際政治の流れや産業界の動向だけではなく、金融経済を支える者の心理によっても、経済全体が影響を受けるのは当然と言えば当然で、日本がこれまでデフレ経済から脱却できないできたことも、人々の「心理的抑欝(デプレッション)」とは無縁ではあるまい。
不安定(プレカリアス)な認知労働者は、多幸感を得るためにハッピードラッグなどの薬物依存に陥ることもあるという。
とすれば、プロレタリアートの末裔であるプレカリアートへのメッセージも精神病理学的な考察を含むことになる。
再び、F・ベラルディ(ビフォ)の言葉を引用しておこう。
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政治とセラピーが、来るべき時代には一にして同じ活動となる。
人々は失望、抑鬱、パニックの感触をもつようになるが、それはポスト成長の[成長なき]経済と折り合いをつけることが出来ないからであり、近代的アイデンティティが拡散して失われたと感じるだろうからだ。
わたしたちの文化的任務は、こうした人々に付き添い狂気をケアしつつ、ハッピーに適応する手近な方法を示すこととなる。
この任務は人間的レジスタンスのための数多の社会的ゾーンを生み出すことであるが、それはセラピー的感化ゾーンとして作用するものとなる。
オートノミー化の過程は止揚と見なしうるものではなく、セラピー的なものとなる。
つまり、全体化するものでも、過去を破壊し止揚することを意図するものでもなく、精神分析のセラピーにも似た、終わりなき過程のプロセスとなる。
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かくして医療は、政治的臨床現場へとまた一歩近づいていくのである。
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