濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

隠喩としての脳科学(メタ可塑性)

2012-12-01 16:01:05 | Weblog
政治の世界が騒がしくなったが、どうも最近の日本は右傾化してきていることは確からしく思われる。
それにしても、世界はグローバル化され、リーマンショックは一瞬のうちに世界を駆け巡り、SARSや新インフルエンザなどのパンデミックも起こっているというのに、いまさら尖閣だ、竹島だというこだわりがどうも時代錯誤のように思われてくる。
いや、グローバル化されたからこそ、その反動として懐古的なナショナリズムも活発になるということなのかもしれない。
こうしたことを考えるうえで、美馬達哉『脳のエシックス』はいくつかのヒントを与えている。

まず、筆者が注目したのは幻肢痛(ファントム・ペイン)である。
たとえば腕を失った患者の、脳に描かれた身体地図に可塑的変化が生じて、あごを触られただけなのに、失ったはずの腕が痛むという感覚を体験することになる。
腕の部位の感覚入力0が補完されるわけだ。
これは、単一の国家では今日のグローバル市場をもはや制御できず、その存在意義など失われているはずなのに、尖閣や竹島という名前を聞くだけで、かえってナショナリスティックな感情がわき上がってくるのと似ているかもしれない。
もう一つ、筆者はジストニーという病気も取り上げている。
これは、ピアニストやタイピストなどが手や指を頻繁に使う結果、筋肉が必要以上に緊張し、けいれんや勝手な動きが起きてくる症状だ。
この症状の原因は、脳が、それまで蓄積してきた手指の運動プログラムをコントロールできなくなることにあるらしい。
過剰な感覚入力を消し去ろうとする脳の働きが混乱を引き起こすのだろう。
このようにファントム・ペインもジストニーも、そこには脳の可塑性が関与しているのだ。
筆者は、こうした脳科学の成果を今日の世界の社会経済現象に当てはめているのだ。筆者の文章を引用してみる。

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脳科学の理論と現代社会の分析とを短絡させてしまうことの危険を承知の上で、可塑性とメタ可塑性の論理によって、グローバリゼーションの政治をさらに読み解いてみよう。
雇用の流動化が人々に限りなく柔軟であることを強制しているとき、そして経済や文化が国境を越えてボーダーレスになりつつある中で、同時に〈形を与える能力〉としてのナショナリズムや自民族中心主義が硬直化し、さまざまな場所でマイノリティヘの排外主義や差別を強化しつつあることは、ファントム・ペインと似通ってはいないだろうか。
一方で、すべての確固たる秩序を消滅させながら過剰なまでの流動性や柔軟性を求め続けた金融資本が、投機的なバブル経済に突き進んで炸裂し、コントロールを失って破綻したことは、ジストニーと似通ってはいないだろうか。
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さて、この二つの対照的な現象の根本原因が、いずれも脳の悪しき可塑性にあるとすれば、その結果をさらに可塑的に変化させること、つまり「可塑性の可塑的なコントロールとしてのメタ可塑性」が求められてくる。
ここには脳の自然過程から離脱した、きわめて情念的で反自然的、かつポリティカルな姿勢が感じられる。

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二重化された可塑性としてのメタ可塑性は、あるときは、形を受け取ることで環境の激変に対する柔軟な可塑的適応性を示し、また別のときには、受け取るべき形を忘れ去り続けることによってどんな硬直性よりも頑固に非可塑的な抵抗を持続させることになる。
世界のさまざまな場所で、新しい環境で生活することを求める移民の社会運動と、強制された開発を拒否して伝統を守ろうとする先住民の社会運動が果たしている重要な役割を見るとき、この可塑性の特徴を、現代社会における変革の政治が満たすべき条件として夢想する誘惑に駆られる。
すなわち、「民衆-脳」による可塑性の政治を。
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スーダンやソマリアの難民たちよ、アマゾンの先住民よ、脳科学の歩む良き道を示したまえ!

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