多忙な日々が続いている。
そんな中、先日、知人の方から、近況報告がてら「部屋の壁紙を気分転換に張り替えてみました」というメールが送られてきた。
最近はDIYで素人でも壁紙など簡単に張り替えられるものらしい。
私は、張替えに勤しむ、その方のいかにも細く華奢な指先を思い浮かべた。
壁紙といえば、最近ではパソコンやスマートフォン用の派手なものが目につく。
なかには最愛の恋人や我が子、あるいはペットなども待ち受け画面に貼り付けられているが、これは壁紙というより主役に近い。
本来の壁紙は、主役を引き立たせる脇役、華美ではないにせよ、居心地良くさせるもの、それでいて飽きの来ないものといったところではないだろうか。
こんなことを考えているうちに「人生の壁紙」という言葉に思い当たった。
人生をさり気なく支え引き立てるもの、ハレではなくケ、祝祭ではなく日常、「図と地」で言えば「地」のほうである。
ちなみに「図と地」をインターネットで調べたら、次のような説明がされていた。
図は形はあるが、地には形がない。
図と地の境界は、図の輪郭になる。地は輪郭を持たない。
図は手前に出てきて、地は背後にあって広がりをもつ。
図は実在感があるが、地は漠然としていて実態がつかみにくい。
──形や輪郭がなく、漠然として実態のないものといえば、これこそ私の領分といわねばなるまい。
身過ぎ世過ぎのために目立ったことをしないでもなかったが、定かならぬ思いのまま、定かならぬ者として生きること、これこそ自分の人生の主旋律であったにちがいないからだ。
そういえば、優れた文学作品の中には、定かならぬ者への定かならぬ思いが描かれていることがある。
退潮(ひきしお)の痕(あと)の日に輝(ひか)っているところに一人の人がいるのが目についた。たしかに男である、また小供でもない。何かしきりに拾っては籠か桶かに入れているらしい。二三歩あるいてはしゃがみ、そして何か拾っている。自分はこのさびしい島かげの小さな磯を漁っているこの人をじっとながめていた。船が進むにつれて人影が黒い点のようになってしまった、そのうち磯も山も島全体が霞のかなたに消えてしまった。その後今日が日までほとんど十年の間、僕は何度この島かげの顔も知らないこの人をおもい起こしたろう。これが僕の「忘れ得ぬ人々」の一人である。(国木田独歩「忘れえぬ人々」)
光景と人のどちらが「図」でどちらが「地」なのか、いずれにせよ、その、定かならぬ者への定かならぬ思いが絶妙の情感を醸し出している。
こんなことを思い出しながら、とある日、横浜港の埠頭界隈を歩いていた。そろそろ夕暮れを迎える頃だった。
逆光のヨコハマをデジカメで撮ってみたが、残照の空と、ランドマークタワーや観覧車、そのどちらが「図」でどちらが「地」なのか、定かならぬ思いに襲われてきた。
あるいは、そのどちらも自分の人生の壁紙にふさわしい光景なのかもしれない。
黄昏をとうに過ぎた自分の人生の壁紙もそろそろ貼り替えねばならない……そんな気分になって帰路につくことにした。
(逆光のヨコハマ)
そんな中、先日、知人の方から、近況報告がてら「部屋の壁紙を気分転換に張り替えてみました」というメールが送られてきた。
最近はDIYで素人でも壁紙など簡単に張り替えられるものらしい。
私は、張替えに勤しむ、その方のいかにも細く華奢な指先を思い浮かべた。
壁紙といえば、最近ではパソコンやスマートフォン用の派手なものが目につく。
なかには最愛の恋人や我が子、あるいはペットなども待ち受け画面に貼り付けられているが、これは壁紙というより主役に近い。
本来の壁紙は、主役を引き立たせる脇役、華美ではないにせよ、居心地良くさせるもの、それでいて飽きの来ないものといったところではないだろうか。
こんなことを考えているうちに「人生の壁紙」という言葉に思い当たった。
人生をさり気なく支え引き立てるもの、ハレではなくケ、祝祭ではなく日常、「図と地」で言えば「地」のほうである。
ちなみに「図と地」をインターネットで調べたら、次のような説明がされていた。
図は形はあるが、地には形がない。
図と地の境界は、図の輪郭になる。地は輪郭を持たない。
図は手前に出てきて、地は背後にあって広がりをもつ。
図は実在感があるが、地は漠然としていて実態がつかみにくい。
──形や輪郭がなく、漠然として実態のないものといえば、これこそ私の領分といわねばなるまい。
身過ぎ世過ぎのために目立ったことをしないでもなかったが、定かならぬ思いのまま、定かならぬ者として生きること、これこそ自分の人生の主旋律であったにちがいないからだ。
そういえば、優れた文学作品の中には、定かならぬ者への定かならぬ思いが描かれていることがある。
退潮(ひきしお)の痕(あと)の日に輝(ひか)っているところに一人の人がいるのが目についた。たしかに男である、また小供でもない。何かしきりに拾っては籠か桶かに入れているらしい。二三歩あるいてはしゃがみ、そして何か拾っている。自分はこのさびしい島かげの小さな磯を漁っているこの人をじっとながめていた。船が進むにつれて人影が黒い点のようになってしまった、そのうち磯も山も島全体が霞のかなたに消えてしまった。その後今日が日までほとんど十年の間、僕は何度この島かげの顔も知らないこの人をおもい起こしたろう。これが僕の「忘れ得ぬ人々」の一人である。(国木田独歩「忘れえぬ人々」)
光景と人のどちらが「図」でどちらが「地」なのか、いずれにせよ、その、定かならぬ者への定かならぬ思いが絶妙の情感を醸し出している。
こんなことを思い出しながら、とある日、横浜港の埠頭界隈を歩いていた。そろそろ夕暮れを迎える頃だった。
逆光のヨコハマをデジカメで撮ってみたが、残照の空と、ランドマークタワーや観覧車、そのどちらが「図」でどちらが「地」なのか、定かならぬ思いに襲われてきた。
あるいは、そのどちらも自分の人生の壁紙にふさわしい光景なのかもしれない。
黄昏をとうに過ぎた自分の人生の壁紙もそろそろ貼り替えねばならない……そんな気分になって帰路につくことにした。
(逆光のヨコハマ)
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