リフォーム徒然なるままに Reform turezure naru-mamani

我が家のリフォーム日記です。忘れないように記録していきます。参考になれば幸いです。

弥生式土器に隠されている新エネルギーの生産と利用のヒント

2011-08-08 06:43:31 | Weblog

 

日本には縄文式土器弥生式土器があった。

 

あるとき、この2つの土器を見ていてその違いがどうして起こったのだろうかと思いを巡らしてみたことがある。

 

縄文式土器は分厚く、装飾が多く、広口。

(ウィキペディアの写真(1枚目)では、装飾は比較的少ないが、もっと立体的な装飾の多いものがある(2枚目))

それに対して弥生式土器は、薄く、装飾はほとんどなく、口が狭い。

 

おそらく、この違いはよく言われているように、農耕つまり米作りが始まったことによると考えていいと思う。

 

つまり、食料が大きく変化したためと考えられる。

 

米作りが始まる前は、木の実や肉・魚などを沸騰した湯に入れて煮炊きすることがたやすいように、広口。つまり縄文式土器。

米作りが始まると、米を熱効率よく食べられるように、薄口でしかも熱を逃がさない狭い口。

 

しかしながら、この2つの土器は米作りが始まった頃は、並行して使われていたと考えられる。

それぞれの食料に合わせて。

 

だが、弥生式土器は、それまでの土器に比較していろんな意味での革新を生んだと考えられる。

 

最も大きいのは、エネルギー効率が革新的によくなったということだ。

 

おそらくそれまでの、縄文式土器では、煮炊きするのに薪など膨大な燃料を必要としていたと思われる。

広口でエネルギーは逃げるし、分厚かったので余計燃料は必要となる。

しかし、それ(エネルギー効率)よりも、調理のしやすさのほうが重視された。

 

広口ならば、肉や魚、いも、木の実など何でも入れることができた。

現代の鍋のように。

違いは、厚みだけが鍋の方が薄いことだ。

 

しかし、米を大量に効率よく調理できるためには、いかにも縄文式土器では、効率が悪かったのだろう。

 

広口の上、肉厚では、熱はどんどん逃げていく。

その上、米は調理に時間がかかる。

 

そこで、弥生式土器が生まれたと考えられる。

 

口が狭いので、大きな食材を放り込むのには都合が悪いが、米を入れるのはそんなに困らない。

その難点以上に、口が狭くて薄いのでエネルギーを使わなくて済む。

 

そのため、圧倒的に少量の薪やわらなどの燃料で済んだと思われる。

 

その上、生鮮食料に依存することが少なくなったから、居住地域がそれまでに比べて、圧倒的に広くなったと思われる。

 

つまり、沿岸部から、魚や貝など新鮮な食料が容易に採取できない内陸への進出も可能になったと考えられる。

米は、圧倒的に高カロリーで、しかも保存が利いたから。

 

こうして我々は、時間の壁を乗り越えることができるようにもなった。

(それまでは、食料は現地調達しかないので、移動の範囲が限られる)

 

しかし、もともとは米を調理しやすくするために生まれた、薄くて狭い口の弥生式土器は、もっと大きな革新的な変化を起こしたと考えられる。

 

それは、それまでの縄文式土器に比較して圧倒的に少量の燃料で済むという熱効率の良さだ。

 

その結果、同じ質量のエネルギー(薪やわら)で、より多くの人口が養えるようになったことだ。

食べ物の米のもつエネルギー(カロリー)と同じように。

 

このことは、単にエネルギー(熱と食料的なカロリー)の使用効率が革新的に良くなったということ以上の大きな変化を社会に起こしたと考えられる。

 

それは、米作りを始めることにより、それまでの少人数の家族的な住まい方から、大人数の組織的な住まい方に社会のあり方が大きく変化したと考えられる。

 

そして、一度それを始めるとそれまでのあり方には、容易に戻れなくなってしまったと思われる。

 

いつ食べられるか分からない社会より、安定して食べられる社会の方が好まれたことは疑う余地もないから。

 

考えが先行してしまったが、何を言いたいかというと、エネルギーの効率的な使用ができるかどうか、具体的な手段(弥生式土器など)をもっているかどうかということが決定的に大きいということだ。

 

弥生式土器は、食料(おもに米)の効率的な調理を目指したのだが、結果としてそれは、社会の大変化を起こしたと言うことだ。

 

エネルギーを効率よく使うことつまり熱効率の革新的な変化(縄文式土器から弥生式土器への変化)は、革新的な社会変化をこの国に起こしたと考えられる。

家族、社会、文化などあらゆる側面で。

 

今、私たちは第二のエネルギー革命の入り口に立っていると考えられる。

 

第二のエネルギー革命がどんなものかははっきりしないが、それは、おそらくエネルギー生産の集中から分散への大変革と考えられる。

 

具体的には、電力の集中生産は、効率が悪い上に危険だ。

 

何より、発電や送電によって失われるエネルギーが大きすぎる。

しかも、高電圧で送電するために危険だ。

 

第二に、社会に与える影響が大きすぎる。

言い換えると、依存度が大きいことによって影響を受けすぎる。

つまり、安定性に欠けるばかりか、自由度がない。

 

まるで縄文式土器の時代のようだと言える。

効率の良いエネルギー(食料と燃料)を利用できなかった縄文時代と同じだ。

水力発電など一部を除き、時間の壁も乗り越えられない(電気をためられない)。

 

食料(電気)に縛られ、結果的に住まうところに縛られ、どこへも行けず。

 

そればかりか、弥生式土器のように、効率よくエネルギーを使用できないために、相変わらず、縄文式土器のように広口でエネルギーは逃げるし、分厚いので大量のエネルギーが必要となる生産方式(産業)や調理方式(産業や家庭)をとり続けている。

電力の生産が、大量の石油エネルギーや危険で莫大かつ制御できない原子力エネルギーを使っているのは言うに及ばない。

 

今、私たちに必要なのは、第二の弥生式土器である。

 

それが、何かはよく分からないが、もしそれが生まれたなら、弥生式土器以上に大きな社会変化へとつながっていくと考えられる。

 

ヒントは、弥生式土器に隠されていると思う。

 

きっと、それは効率よくエネルギーを生産したり利用したりしながら、移動が可能なものかも知れない。

 

弥生式土器が、効率よくエネルギーが利用でき、かつ容易に持ち運べたように。

 


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