リフォーム徒然なるままに Reform turezure naru-mamani

我が家のリフォーム日記です。忘れないように記録していきます。参考になれば幸いです。

人にやさしい斜面の樹木が訴えている・・・

2007-06-17 09:32:07 | Weblog
先週の木曜日のこと、ママチャリで坂道を上っていた。
坂の片側の樹木たちは、前日の雨で木の葉が濡れている。

汗をかきかき上っていた私は、おもわずひんやりとした快い冷気に包まれるのを感じた。
樹木たちの根本を見ると、そこには枯れ葉が雨水を吸ってこれもゆっくりとアスファルトの路面を冷やしていた。

斜面に生い茂っている樹木たちは、その根をしっかりと大地にはり、土が崩れ去るのを防いでその上の畑を守っている。

しばらく、進むと今度は林の中でウグイスがさえずっている。

私たちの祖先は、こうした自然を営々と守り育ててきた。
ウグイスは、こうした林や樹木たちがあるからこそ生きていくことができる。
子育てに忙しいつばめたちも、こうした林や樹木に生息する昆虫たちをえさに子孫を残すことができる。
そして、そこに安全なすみかを得ている。

だが、そうした小さな斜面や急斜面も削られ、なだらかにされ住宅地などとして生まれ変わっていっている。
あるいは、樹木を切り倒し、コンクリートの強固な壁面に替えられ、こうした小動物たちのすみかがどんどん失われている。

結果的に、こうした小鳥たちが食べてくれる害虫を増やし、ますます私たちに危険が及ぶことになる。
農地は、小鳥たちの害虫駆除がなくなれば、野菜などの栽培はますます農薬に依存する。
そして、農薬に汚染された野菜が私たちの口にはいることになる。

樹木が取り払われた斜面は、樹木の保水力と土壌を保持する力を失い、集中豪雨により一挙に崖崩れを起こすリスクを増している。
また、天然のクーラーとして気温を一定に保つ機能も失い、ますます石油や原子力といったCO2を多く排出したり、人工的なそしてリスクの高かったりするエネルギーに頼らざるをえなくなっている。

温暖化で、熱帯化した環境は、本来は存在しないはずの熱帯原産の蚊の発生を促し、危険な病気の発生のリスクがますます増加する。
しかし、そこにはこうした蚊を駆除する生物がもう住んでいない。

それだけではない。
CO2を吸収してくれる貴重な植物を自らの手で減少させ、ますますその負担を自分自身に降りかからせている。
つまり、樹木を減らした分、CO2排出削減のため我々は家庭での車の使用抑制、クーラー使用抑制、シャワーの使用抑制・・・をますます進めなければならなくなる。
そればかりか、樹木を減らしたため自然の涼さえ得ることができず、温暖化して猛暑が来ても停電で、クーラーさえ運転できなくて暑さで死を招く可能性だってある。

これは、どう考えても自縄自縛だ。

どこかの国は、サミットで地球温暖化の先導役をすると誓ったはずだ。
まず、足下から緑を守り増やすことをはじめなければ、とうてい世界のリーダーにはなりえないだろう。
それも、今すぐはじめなければとうてい孫たちの将来は明るくはない。



昨日の「世界・不思議発見!」を見ていたら、英国のチャールズ皇太子は畑の生け垣を守る運動の中心となって活動されているとのこと。
生け垣の根元を残して生け垣をつくり、鳥たちを守り、できるだけ農薬を使わないで畑を害虫から守るようにして環境保全しているとのことだったと思う。
こうした具体的な取り組みこそ、先進国が途上国を説得できるほんとうの姿であろう。



数年前ヨーロッパを旅行したときのことを思い出す。
ドイツやフランスでは、都市から一歩外へ出ると限りなく緑が広がっている。
そこには、豊かな生産緑地が広がっている。
だが、それは人間が自らが生きていくための生産のための緑地である。
そうした、緑地を守ることは当然のことであろう。

一方、我が祖国は都市と緑地との境はなく、まったく無秩序である。
どこからが都市で、どこからが生産緑地なのか区別もつかない虫食い状態である。

だが、貴重な手つかずの自然も残されている。
白神山地を代表とする原生林である。
これらが、世界に誇るべき貴重なCO2削減のための「資源」であることは間違いない。
さらに、それらは祖国の回りの海に豊かな栄養を供給し、そこへ多くの魚が集まり、貴重な「栄養源」となっている。
(NHKの先日放送された富山湾の豊かな水産資源は、立山が生み出しているという番組は如実にそのことを物語っている)
これも、貴重な「資源」である。

そして、私たちの身の回りの樹木は、私たちにとってそれこそ、毎日の暮らしに欠かせない「資源」である。
疲れ切った「脳」を休めることのできる物質を発生させ、リラックスすることができるのは緑である。
(TBSの昨日放送された「世界一受けたい授業!!」)
それこそ、わたしたち一人ひとりにとって、生きる「資源」以外の何ものでもない。